「お願い。今すぐ帰ってきて。早く」
スマホの着信は数分おきに鳴り止まなかった。無視しても無視しても鳴り続ける。仕方なく出た電話口で、義母が泣き叫んでいた。あの日、公園で寝ろと言ってきた義母が、今はまるで子供のように泣きじゃくっている。私はその声を聞きながら、あの日から始まったすべてのことを思い出していた。
私は清水さちえ。中学時代から付き合っていた夫と、義実家で義両親の4人で暮らしていた。同居のきっかけは義父が事故に遭い、車椅子生活になったことだった。何かあった時に助け合えるようにと、夫から提案されたのだ。最初は迷いもあったけれど、私は優しい義父が大好きだったし、困っている人を見過ごせない性分だった。その日のうちに同居を受け入れた。
幸い、同居を始めてから義父の回復は順調だった。1年が経つ頃には、まだ歩けないものの明るく元気に接してくれる。私はその様子に安心した。しかし、実は別の悩みがあった。義母が私をいびってくるのだ。
同居当初、義母は優しかった。家事も率先して手伝ってくれるし、夫や義父の前では「さちえさんは素敵な奥さんね」と褒めてくれた。だが、時間が経つにつれて仮面が剥がれていった。義父や夫にバレないように、私をこき使うようになったのだ。
「ねえ、さちえさん。あなた、お皿洗いしている時にお湯なんて使ってないわよね」
「使ってますけど」
「はあ?私が子供の頃はお湯なんて使ってなかったのよ。ガスも使うし、お湯なんて贅沢品。水で洗いなさい」
こんな調子だった。ちなみに義母が家事をしていた時期は当然お湯で洗っていたし、今となっては自分1人で使ったお皿すら洗わない。生活費も夫と協力して毎月15万ほど入れているが、もっと増やせとも言ってくる。私は主婦業に加えて在宅ワークもしているけれど、義母はそんな私をニートと言って認めない。
「ニートだと知っていたら同居なんかしなかったわ。くたびれ儲けの嫁で息子がかわいそう。私の娘とは大違いね」
義母自身は家事を私に押し付けて、働いてもいない。主婦業すらしていない本当のニートは義母なのではと思うが、口に出すとどれだけ声を荒げられるか想像もつかないので黙っている。ちなみに義妹は企業で働いている。そのことが義母のプライドなのだろう。
義母にこき使われ、毎日のように嫌味を言われ、私はだんだんと疲弊していった。もうこんな日常は嫌だと思うけれど、なかなか動けなかった。義母とは正反対に、義父はとても優しくしてくれる。夫も懸命に働いているし、在宅ワークも順調なので、同居をやめて出ていくことは可能だ。でも義父のことを放っておくことはできない。私は義母のいびりを我慢していた。
そんなある日、義妹が里帰り出産のため実家に帰ってくることになった。義母と義妹は仲が良く、実家に帰る理由もめでたいものだったので、義母はずっと上機嫌だった。これで少しは苦しみが増しになるかと思い、安心した。だが、それがどんなに楽観的だったか、私は身をもって知ることとなる。
義妹のかおる子さんは帰ってきて、私の顔を見た瞬間に嫌味を言ってきた。
「ニートのお姉さんじゃん。働かずに家にいるなんて図々しいわ」
「え、私はちゃんと在宅ワークをして働いている。給料だって出勤している人と並ぶくらいにもらっている」
説明しようとするが、義母とかおる子さんが遮った。
「娘にも言い訳する機会を与えないなんて、本当にダメな嫁ね」
「お兄ちゃんもどうしてこんな人と結婚したのかしら?」
ダメだ。この2人はそもそも私の話を聞こうとしてくれない。私は説明することもできないまま、ぐっとこらえた。鼻の先がツンと熱くなって、悔しさに涙が滲んだ。
するとかおる子さんが手を叩いて、まるで名案を思いついたとでも言うように、とんでもないことを言ってきた。
「そうだ。私が帰るまでお姉さんは邪魔だから、どっか行きなさいよ」
かおる子さんは私を指差し、高らかに笑った。まさか自分が里帰りするからと言って、私をホテルに押しやろうとでも言うのだろうか。しかし、その考えは甘かった。義母がかおる子さんに賛同して、私に言い放ったのだ。
「いいわね。娘が帰るまで公園で寝な。実家に帰ったことにしておくから」
義母が何を言っているのか分からなかった。義母は台所に行くと、薄汚れたダンボールを取ってきて私に突きつけた。これからは野宿者に混ざって公園で暮らせというのだ。埃が入っていたダンボールは薄汚れていて小さい。義母の目はギラギラと怪しく光っていて、とても冗談には思えなかった。
なぜ、どうして、こんなにひどいことができるのだろうか。義母とかおる子さんはニヤニヤ笑って、私が傷ついた姿を見て楽しんでいる。その笑みがあまりに歪んでいたものだから、ついに私の決意は固まった。
そうだ。この人たちは家族じゃない。私のことを何も反抗しないおもちゃとしか見ていないのだったら、それ相応の覚悟をしてもらおう。
私はにやりと笑みを浮かべ、部屋を出ると、ある場所に電話をかけた。いびられているのに笑う私が気に入らなかったのだろう。義母とかおる子さんの文句が扉の向こうから聞こえてきた。
「気持ち悪い嫁ね。2度と帰ってこなくてもいいわよ。どうせあなたは何もできないんだから」
さて、何もできないのはどちらだろうか。私は電話が終わると、荷物をまとめて家を出た。
それから数日後、冒頭の電話がかかってきたのだ。私はその頃、夫と共に自宅に帰っていたが、ちょうど義実家に用事もあったので一緒に向かうことにした。義実家に帰ると、腰が抜けた義母が私の足にすがりついてきた。あの日の勝ち誇った笑みはどこかに消え、まるで子供のように泣き叫んでいる。
「あなたからも言ってちょうだい。お父さんが家を出ていくと言っているの」
義父はその様子を呆れたように見つめている。かおる子さんはと言うと、納得のいかない表情だ。私は少し驚いたが、心当たりがないわけではなかった。義母の言葉をどこか他人事のように聞いていると、かつての出来事を思い出した。
かおる子さんが里帰り出産のため実家に帰ってくるよりも前のこと。あの日、私は義母のいびりに耐え続けていたが、とうとう夫の前で我慢できなくなり、泣いてしまったのだ。夫は義母が私をいびっていると知り、激怒し、義父にも相談してくれた。その頃、義父の足は順調に回復し、すでに歩けるようになっており、職場にも復帰が決まっていた。その背景もあり、心優しい義父は同居を解消して2人で住むことを提案してくれていたのだ。
夫と義父は義母ではなく、私を信じて味方になってくれた。それが嬉しくて温かかった。私は絶対に心を折らないことを決めた。そう、その時私は義母へ反撃することを決意したのだ。
「私から言っておかなければならないことがある。知っているのだよ。何もかも」
放心状態になっている義母に向かい、義父が静かに口を開いた。義父は私たちが家賃や生活費として毎月15万ずつ家に入れていることは知っていたけれど、義父はそれに一切手をつけず、私たち夫婦の口座を作ってそこに貯金していたという。いつか私たちが家を出ていく時に、まとまったお金を全て返して生活の足しにして欲しいと考えていたのだ。義母にそのことを話すと、「ええ、それはいいですね」と言っていたので、義父は当然貯金しているものだと思っていたそうだ。
しかし、ある日義父が貯金口座を覗くと、今までずっと入金していたはずの口座にはほとんど残高がなかった。そう、義母は生活費を増やせと私に言っていたが、そのほとんどは家族に隠れて自分のために使っていたのだ。
まさか、信じられないと戸惑った義父だが、義母以外にこの口座を知っている人間はいない。それに義母はお金がないと口では言うものの、1人で外食に行ったり、やけに高そうな化粧品を使っている。不審に思った義父は、義母の前では足が回復していることや職場復帰については何も言わずに密かに観察することにした。
ゆっくりだが歩けるようになった足で、義母と私の会話を盗み聞きし、まるで信じられない気分になったそうだ。
「ニートって知ってたら同居なんかしなかったわ。くたびれ儲けの嫁で息子がかわいそう。私の娘とは大違いね」
義母が隠れて私をいびっていることにも気づき、相当ショックだったらしい。義父は悩んだが、義母のことが許せず、その後離婚を決めたということだった。
そこまで義父が話した時、かおる子さんが真っ青な顔で慌てて話に入ってきた。
「あ、お父さんは騙されているのよ。この女はお兄ちゃんに寄り添って楽して暮らしているのよ」
かおる子さんは地団駄を踏んで声を張り上げる。あまりにひどい言い草だ。もはや猫を被る余裕もないらしい。私が何か言う前に、一緒に来ていた夫が間に入った。
「何言ってるんだ。さちえは俺よりも年収は上だぞ」
え、かおる子さんはポカンと口を開けて、何がなんだか分からないというように私を見た。そう、私は在宅だが仕事で成功しており、十分な収入を得ていたのだ。生活費の15万も、今は私がほとんど出している。かおる子さんと義母はそれでも私の年収を信じようとしない。頭の硬い2人に、夫が私の仕事について説明してくれた。
「ほら、知ってるだろう?雑誌の働いているところは」
夫が私の勤めている企業名を口にする。するとかおる子さんはガタガタと震え出した。
「嘘よ。そんなの絶対信じない」
実は私の会社はかおる子さんの取引先なのだ。それもかなり大口の案件をいくつも抱えていて、重要なお得意様と言えるだろう。仕事とプライベートを混同するつもりはないので言っていなかっただけだ。しかし、かおる子さんにとっては、今までニートだと思っていた相手が途端に重要顧客に変わったのだから、驚くのも無理はない。
義母とかおる子さんは何も言えなくなり、金魚のように口をパクパクさせている。その時、玄関のチャイムが鳴った。
「何よ、こんな時に」
義母が苛ついているのを気にせず、私は玄関を開けて挨拶する。やってきたのは引っ越し業者だった。屈強な男性社員は明るく挨拶をして、廊下に手際よくブルーシートを貼っていく。私が追い出された時、電話をかけた相手は引っ越し業者だ。今日、夫と用事があったのも業者の立ち合いのためだ。
「家具も家電も多いですが、よろしくお願いします」
私がそう言うと、人当たりのいい業者さんは帽子を取って一礼をした。最初はわけも分からずポカンとしていた義母とかおる子さんも、どんどん家具や家電が運ばれていくのを見て事態が飲み込めたのか、取り乱し始めた。
「待って、勝手に人のものを持っていくなんて、何考えてるの?泥棒、泥棒!」
義母が私に叫ぶように怒るが、私はもう我慢しないと決めている。
「ほとんどの家具と家電は、私と夫が購入したものですから。足りない分は渡していた生活費を使って買ってください。返してもらわなくて結構ですので。あ、もう残っていませんか?自業自得ですね」
そう笑うと、義母は再び義父にすがりついた。
「置いてかないで。私はこれからどうすればいいの?」
「お前にできるのは離婚届にサインするだけだ。あとは知らん」
義父はすっかり冷めているようだった。そして、かつて義母が私に渡した薄汚れたダンボールを義母に差し出した。
「そうそう。家は売却するから、近くの公園にでも行ったらどうだ?これがあれば快適に過ごせるだろう」
義母は崩れ落ちるように泣き叫んだ。
その後、私と夫は無事に引っ越しを完了し、新居でつつましくも平穏な生活を始めた。かおる子さんはすぐに自分の家に戻ったが、夫と義父が報告してくれていたようで、旦那と旦那の両親に居場所を失うこととなった。義母はと言うと、家具や家電が運び出され、生活もままならずパートを始めたようだ。しかし金遣いの荒さは変わらず、生活水準を下げられなかったので、ついにかおる子さんにお金の無心をし始めたらしい。かおる子さんは最初は丁寧に断ったものの、義母がしつこく言い寄ってくるので喧嘩になり、2人の関係は最悪だそうだ。唯一仲の良かった娘とも絶縁状態になった義母は、ついに1人ぼっちになり、今は何をしているか分からない。
数年後、私と夫の元に義父がやってきた。義父が来るのを待ちきれなかったかのように、小さな女の子が走って義父に抱きつく。そんな様子を私と夫は微笑ましく見ている。そう、あれから私たちには娘が生まれた。とっても可愛くて人懐っこい。そして何より優しい子だ。義母に似なくて本当に良かったと思う。義母に孫の顔を見せてあげようかとも思ったが、それはこの子がもっと大きくなって、いい人と悪い人の区別がつくようになってからだ。
娘は義父に顔をくっつけて笑う。義父にアイスクリームを買ってもらったのが嬉しかったようで、ニコニコ笑って両手でコーンを持っている。義父も孫に照れて、今にも溶けそうな柔らかい笑顔で幸せそうにしている。私は少し離れたところからその光景を見て、夫に笑いかける。夫も笑って頷いた。
この家族を大切にしよう。幸せの絶頂の中で、私は改めて心に誓った。



