朝の四時、まだ暗いうちから港に準備をしていると、一人の女性が双子の女の子を連れて現れた。この時間に女性が来るのは珍しい。しかも彼女は魚を恵んでほしいと言ったのだ。
どんな魚でもいいので、いらない魚をいただけませんか。
細身の体に、双子の服は古びて汚れていた。誰がどう見ても生活に困っているのが分かった。俺は何と答えていいか分からず、父を見た。父はしゃがみ込んで、双子と目線を合わせた。
「まだ小さいのに、こんな早くに起きるなんて偉いね。お魚は好きかい?」
「好きです。私も好き」
「そうか、そうか。それなら持っていきなさい」
父は俺に魚を持ってくるよう指示した。俺はわさやアジを袋に詰めたが、父は「せっかくだから」と鯛まで入れた。女性は何度も深く頭を下げて、お返しは必ずしますと言った。
「いや、気になさらないでください。魚を美味しく食べてくれればそれで十分ですから」
父は彼女が心配になったのか、いろいろと質問を始めた。すると彼女は、最近この町に引っ越してきて、これから仕事を探しに行くところだと言った。その瞬間、父はとんでもないことを口にした。
「うちもちょうど人手不足だ。ここで働くといいよ」
驚いたことに彼女は乗り気だった。双子は保育園に通っているから、普段は自分一人で働けると言う。自己紹介をすると、彼女はリエと名乗り、双子はあやとさやだった。こうしてリエは、うちで働くことになった。
初出勤の日、母がリエの家まで子供たちを送りに行き、俺たちは一艘の船で海に出た。リエは船の上でも、網やレーダーの使い方を俺に聞いてはメモに書き留めていた。
「船の上だと書きづらくないですか?」
「少しでも早く、お二人のお役に立ちたくて。教えてもらってる時間がもったいないから」
彼女は仕事に真面目で、飲み込みも速く、力仕事もこなした。魚の神経締めや、さばき方もあっという間に覚えた。港の仲間たちも、リエが来てから魚がよく取れるようになったと噂し、彼女はすぐに人気者になった。
母も最初は仕方なく子供たちの面倒を見ていたが、今ではすっかり孫を可愛がるおばあちゃんだ。
「あんたが結婚してたら、私にもこれくらいの孫がいたのにね」
「いや、諦めてないし」
そんなある日、天候が荒れて漁が中止になった。父と母は町内会の行事に出かけ、子供たちは保育園。家にはリエと二人きりになった。お昼にチャーハンを作る間、俺は気になっていたことを聞いてみた。
「どうして、この町に引っ越してきたんですか?」
「小さい頃、川の近くに住んでたんです。それで、前の夫と別れて、一からやり直すなら海の近くがいいなと思って」
「前の夫は…」
「あの子たちが一歳の頃、元夫が借金を抱えてることを知りました。一緒に返そうって言ったのに、彼は仕事に行くと嘘をついてギャンブルをしてた。だから別れることを決めたんです」
リエは意外なほどあっさり話してくれた。辛い過去を抱えながら、前を向いて必死に生きている。俺はそんな彼女に惹かれていた。
それから数日後、船上でリエが足を滑らせ、海に落ちそうになった。俺は咄嗟に彼女を抱き寄せて助けたが、腕の中にリエがいることに胸が高鳴った。気づけば、あやとさやも含めて、彼女たちは俺にとって大切な家族になっていた。ずっと一緒にいられたらと思うようになったが、告白する勇気が出ないまま、ある日突然、別れは訪れた。
うちと取引のある定食屋の主人が、リエに声をかけたのだ。女性なのに漁師を続けているのが魅力的に映ったらしい。魚の目聞きもできるし、さばくのも一人前だから、定食屋で働かないかと。母は断ったが、リエに話すと、彼女は「少し考えたい」と答えた。
「色々と考えたんですけど、私、定食屋さんでお世話になろうかなと思います」
後から分かったことだが、彼女はうちの家族に迷惑をかけていると感じていた。母が子供たちと過ごす時間が増えていくほど、申し訳なさを感じていたのだという。
「リエさんと一緒に漁に出られるのも、あと少しですね」
「はい。今まで本当にお世話になりました」
別れの日、俺はリエの荷物を定食屋まで運んだ。彼女は涙を流しながら、感謝の言葉を繰り返した。
「泣かないでください。僕だって、本当に楽しかったんだ」
引き止めたい気持ちを必死に抑えて、無理やり笑顔を作った。あやとさやが「寂しくなる」と泣き出しても、彼女が選んだ道を変える権利は俺にはないと思った。
家に帰ってから、しばらくの間、家の中はどんよりと重たい空気が流れた。母はため息ばかり、あの酒好きの父も酒を飲まなくなってしまった。俺も仕事中にリエのことを考えてしまい、不注意で怪我をすることもあった。彼女に気持ちを伝えていれば、未来は変わっていたのだろうか。
その数日後、母が興奮気味にパートから帰ってきた。
「リエさん、定食屋で二年働いたら、自分のお店を出して私たちに恩返ししたいって、店の主人に言ってたのよ」
「…え?」
「この家にいるのが嫌になったわけじゃなくて、迷惑かけてると思ったから、定食屋に行ったんだって。それで、ちゃんと恩返しできるようになったら、とかずが釣ってきた魚を仕入れて、美味しい料理を作りたいんだって」
それを聞いた瞬間、俺の頭の中は真っ白になった。この家を出たのは、俺たちのことを考えてのことだったんだ。それなら、俺も正直に自分の気持ちを伝えたいと思った。気がつけば、俺は家を飛び出して定食屋へ走っていた。
定食屋のドアを開けると、リエがいた。
「りえさん。僕に、少しだけ時間をください」
俺は店の主人に頭を下げ、リエの手を引いて外へ出た。
「もし、迷惑だとか、そんな理由で家を出て行ったのなら…家に戻ってきてほしい。父さんも母さんも、じゃなくて…俺が。俺が、りえさんたちと一緒に暮らしたいんだ。好きになりました。だから僕と付き合ってください。あやちゃんのことも、さやちゃんのことも、僕が守ります」
目を閉じたまま、一気に告白した。断られるのが怖かった。
「本当に、迷惑じゃないんですか?」
「迷惑なわけない」
「私…本当は、ずっととかずさんのお家にいたかったの。私の描いてた理想の家族が、そこにあったから」
「それなら、一緒に家に帰りましょう。俺の…俺たちの家に」
こうして俺たちは手を繋いで家に帰った。母は驚きつつも嬉しそうで、父は「りえさんでいいのかい?」と笑いながら聞いた。リエは両親の前ではっきりと言った。
「私はとかずさんがいいんです。優しくて、ご両親のことを大切にする、とかずさんが大好きです」
その言葉を聞いて、これまでの努力が報われた気がした。その日から、家の中は以前よりももっと賑やかになった。
それから二年後、俺たちは籍を入れて、無事に結婚した。リエは幼い頃、両親と祖父母と一緒に暮らしていたが、両親の離婚で大好きな祖母と離れ離れになったらしい。
「とかずさんの家族を見てたら、昔の自分を思い出して。私の理想の家族がここにあるって感じてたの。本当の家族になってくれて、ありがとう。私、本当に幸せ」
彼女は満面の笑顔でそう言ってくれた。今でもリエは漁師の仕事が好きなようで、週に二日は海に出て、定職屋にも週に二日通っている。
「今でも夢は諦めてないのよ。とかずさんとお父さんが釣った魚で、私とお母さんで食堂を経営するの。それがみんなへの恩返しだからね」
俺にとって、リエは本当に天使だったのかもしれない。運命の人との出会いは、ある日突然やってきて、互いに導かれるように一緒になる。だから、どこかの誰かが俺みたいに出会いがないと悩んでいても、絶対に諦めないでほしいと心から思う。



