夫は私の顔を見るなり、ニヤリと笑って言った。「とみ、今日は父さんの誕生日だ。うじを5人分注文しとけ。お前の分はないぞ。だって妻は他人だしな」私はその場で冷静に返した。「じゃあ、もう1つ用意してくれる?あなたの浮気相手の分よ」夫の顔が一瞬で固まった。彼は私が何も知らないと思っていたのだ。でも、私は知っている。彼が私のお金を無断で使い、他の女性に貢いでいることも、義母が私を「寄生者」と呼んでいた…

夫は私の顔を見るなり、ニヤリと笑って言った。「とみ、今日は父さんの誕生日だ。うじを5人分注文しとけ。お前の分はないぞ。だって妻は他人だしな」私はその場で冷静に返した。「じゃあ、もう1つ用意してくれる?あなたの浮気相手の分よ」夫の顔が一瞬で固まった。彼は私が何も知らないと思っていたのだ。でも、私は知っている。彼が私のお金を無断で使い、他の女性に貢いでいることも、義母が私を「寄生者」と呼んでいた...

夫が言った。「とみ、今日は父さんの誕生日だ。うじを5人分注文しておけ。大金はお前が払っておけよ」
私はすぐに言い返した。「何言ってるの?今日集まったのは6人よ。1人分足りないじゃない」
「お前の分はないぞ。だって妻は他人だしな。その代わり、うなぎに似てるからこれで十分だろ」そう言って差し出したのは、私の分のカバーだった。
「いや、それでも1人分足りないわ。すぐにもう1つ用意してくれる?あなたの浮気相手の分よ」
夫はへっ、と間抜けな声をあげた。私は何も知らないと思っていたのだろう。私はスマホを手に取り、にんまりと口元を持ち上げた。「今からみんなの前で全部暴露してあげる。楽しみにしててね」

夫は焦ったように「はっ?」と繰り返すだけだった。私は無視して立ち上がり、扉を開けて客間へ向かった。背中に「おい、何をするつもりだ!」と夫の声が飛んでくる。続いてバタバタという足音も。
「皆さんに挨拶するのよ。人として当然でしょ」とだけ告げると、夫の顔が青ざめていく。唇が震え、目がうろうろと彷徨っていた。
「ま、待て」夫が腕を掴もうとするが、私はひらりとかわして早足で客間へ進んだ。

親族たちが一斉に顔を上げ、穏やかな微笑みを浮かべている。何が始まるのか知らない様子だ。夫が「やめろって」と鋭く静止してくるが、無視して私はハッキリと言い放った。「皆さん、今日はお集まりいただきありがとうございます。秋人のことについてお話ししたいことがあるんです」
親族たちは顔を見合わせ、「え、なんだろう」と首をかしげる。私は大きく息を吐き、言葉を紡ごうとした。すると夫が大声で遮る。「違う違う。今日は調子が悪いみたいでさ、突然こんな意味のわからないことをし始めたんだよ。いいところだったのに邪魔をしないでほしい」
それでも私は諦めずに口を開こうとするが、夫はタイミングを見計らってわめき声を被せてくる。挙句の果てには私の口を塞ごうとしてきた。親族たちは苦笑いを浮かべ、「仲がいいな」などと検討違いなことを言う始末。違う。夫は浮気やモラハラを平気でするような人間なのに。私は悔しさで両手の拳を強く握り込んだ。

口を閉じた私を見て、夫はほっと胸を撫で下ろした。「ほら、落ち着くために一旦あっちへ戻ろう」とわざとらしく柔らかい声を出し、腕を引っ張ってくる。体がよろけた、その時だった。
「秋人、待ちなさい。とみさんの話を聞こうじゃないか」
義父が救いの手を差し伸べてくれたのだ。彼だけは静かに私の顔をじっと見つめ、言葉を待ってくれていた。夫は納得いかない様子で口を尖らせるが、義父に「黙りなさい」と言われれば、しぶしぶ従うしかない。夫が義父に逆らえないのは、実の親だからという理由だけではなく、自身が働く会社の社長でもあるからだ。

ようやく静かになった。私はその場にいる全員の顔を見渡し、気を取り直して伝えた。「実は秋人は浮気をしていたんです」
「そ、そんなバカな」真っ先に反応したのは義理の叔父だ。目を大きく見開き、慌てて瞬きを繰り返している。「そんなことをするようには思えないけど」続いて義母もこぼした。親族のほとんどが疑わしそうに眉をひそめる。私の言葉に同調するように頷いているのは義父だけだった。無理もない。夫は営業部長という役職についており、仕事ができることと社長の息子ということで周囲から信頼されていた。営業の実績も上げており、親族からも高い評価を得ていたのだから、まさか浮気をするとは信じられなかったのだろう。
夫自身も自分が周りからどう見られているか理解しており、一瞬で私よりも優位に立ったことに気がついたらしい。「誰も信じてないぞ」と言わんばかりにこちらに視線を向け、私にしか聞こえないほど小さく笑い声をもらした。そして「ごめんみんな、妄想のし過ぎでおかしくなっちゃったみたいなんだ」と冷静に言い切った。何も知らない人が見れば、心の底から妻を心配するいい夫だと思われるに違いない。さすがの演技力だと、呆れを通り越して感心してしまう。

「ただの妄想なんかではありません。本当に秋人は浮気しているんです。もちろんちゃんと証拠もあります」
その言葉に、夫がピクっと体を小さく震わせたのが視界の端に映り込む。私は親族たちに向けて話の続きを紡ぐ前に、彼の方に目線を向けた。下がっていた眉は潜められ、薄く開いていた唇の端は引きつっている。表情が少しだけ崩れたのが分かり、私は心の中でほくそ笑んだ。
「秋人の浮気に気がついていたのは私だけではありません。ある人物に忠告を受けたので、調査を開始することにしたんです。帰宅時間が日に日に遅くなっていたり、休日出勤だと言って出かけたり、残業が増えたと愚痴をこぼしながらも、わずかにその口元は弧を描いていた。元々私自身も夫の行動に不審感を抱いていたものの、ある人物の言葉を受けて、それが確信に変わったというわけです。調査の結果は見事に黒。これを見てください」

私はゴソゴソと封筒を取り出し、その中身を親族全員の視界にハッキリと映るよう差し出した。それは浮気の証拠写真だった。それも1枚だけではなく、色々な場面を切り取ったものが10枚近く。夫が女性と恋人つなぎをしながら夜の街を歩いていくところ。女性の腰を抱き寄せて顔を近づけているところ。私と夫が暮らす家ではなく、その女性のマンションの部屋に入ろうとしている写真。ホテルの入り口に足を踏み入れているという決定的な場面まであった。あまりの生々しさに、親族たちは顔をしかめ、見たくもないとでも言わんばかりに目を細め、口元を手で覆っている人もいる。「なんてことを」「気持ち悪い」という夫への嫌悪感をにじませた声で室内がいっぱいになった。

「ほら、ちゃんと証拠まであるわよ。これでもまだ私の暴走だなんて言い続けられるかしら」親族から夫へと素早く顔を向けた。するとそこにいたのは、反省しているでも負けを認めて悔しさを全面に押し出しているでもなく、文字通り頭を抱えてきつく目を閉じている彼だった。どんな感情なのかと首をかしげた、その時。裏返った声で彼が叫び始めた。「違うんだ。俺は断じて浮気なんかしてない。とみが俺を落とし入れようとして、写真を捏造したんだ」
彼は最後まで自分は悪くないという態度を貫くつもりらしい。なんて自分勝手なのだろうか。私は眉間を指で揉んだ。
「ほら、ここを見てくれ。明らかに違和感があるだろう」と、生まれたての子鹿のような震えた足で近づき、写真が折れ曲がるくらいに強く指を差す夫。親族たちも気を取られている。
私は、誰から調査を頼まれたのか明かすことにした。「私にあなたの調査をするよう頼んでくれたのは、他でもないお父さんなのよ」

その言葉に、室内は水を打ったように静まり返った。親族たち、そして夫は顎が落ちそうなほど口を大きく開けた。皆、全く同じ表情をしている。平静を保っているのは私と義父だけ。義父は悟りを開いたかのような虚無という言葉がぴったりの表情を貼り付けている。目には光が宿っておらず、夫に対して失望していることが見て取れた。
「と、父さんが……」10数秒間の沈黙を切り裂いたのは、弱々しい夫の声。彼は錆びついたロボットのような動きで義父の方に顔を向ける。
義父はため息をつくと、ことの経緯を話した。「一部の社員たちから告発があったんだ。お前の女癖が悪く、車内だけにとどまらず取引先の女性社員にまで手を出しているとな。複数になるほどお前に悩まされている社員は多かった。その時、社長として、そして実の親として、どんな気持ちになったか分かるか?私は内密に調査を実施することを決めた。そして、お前の取り巻きに邪魔される可能性を考慮して、会社とのしがらみがないとみにも探りを入れてくれと頼んだんだ」
義父の低く淡々とした喋り声。それを聞くだけで、彼が怒り心頭であることがひしひしと伝わってくる。夫はガタガタと歯が鳴るほど唇を大げさに震わせた。血色は失われ、まるでプールから上がってきた後のようになっている。さすがにもう言い逃れはせず、自分の過ちを認めて謝罪するだろう。そんな私の考えは甘かったと言わざるを得ない。
「父さん違うんだ。それはきっと俺を嵌めようとしている奴らの陰謀だよ。俺はそんなことしていないって」
まだ言うのか。王城際の悪さに私は呆れ、揚げ物を食べすぎた後のようにお腹や胸の辺りがずっしりと重くなるのを感じた。義父も私と同じようなことを思っているようで、その顔にはっきり「面倒臭い」と書かれている。
「いいか。自分の罪から目を背けようとするのはやめろ。お前は何人もの女性に手を出しただけではなく、とみさんにモラハラもしていただろう。そもそも人間性に問題があるんだよ」
浮気だけでも衝撃的だったのに、まさかそんなこともしていたなんて。義父の言葉を聞いた後の親族たちの気持ちが、ピリピリと肌を刺すほど伝わってくる。彼らの顔はみるみる険しくなり、鋭い視線が夫へと注がれた。もはやこの場に彼の味方は誰1人としていない。
それでも夫は「浮気もモラハラも誤解だって」と言い続ける。私は彼が私のことを横目で伺ってくるのに気づき、何も言われずともモラハラの証拠はあるのかと問いかけてきているのがわかった。
「これを見てください」私はそう言いながら、スマートフォン画面を親族や義父に見せた。表示されているのは家計簿アプリの画面。金額だけではなく、日記のようにメモを残せる仕様となっている。私はそこに、過去に夫から受けた罵倒の言葉をできるだけ詳細に記録した。「何もできない役立たず」「お前のことなんか俺以外に誰ももらってくれない」「見ているだけでイライラする」。この他にも、後から見ると顔をしかめたくなるような言葉がびっしりと並んでいた。
「ひどい。どうしてこんなことが言えるのよ」親族たちは内容を声に出すのも憚られるようで、しばし沈黙した後にゆっくりと口を開いた。同じ妻という立場から自分に置き換えて考えたのだろう。義妹の顔が一層辛そうに歪められている。彼女にそう言ってもらえただけで、過去の自分が少しでも救われるような思いだ。夫に傷つけられて冷たくなっていた心の片隅が、じわりと溶けていく。
しかし夫の方はその言葉に微塵も心を動かされなかったようだ。「それこそ出来心だ。ただのメモ書きなんていくらでも好きに書くことができるだろうが」
そう言われるであろうと予想はしていた。私の手元には他の証拠も揃っている。さらなる一手として、先ほど浮気の場面を捉えた写真を出した時とは別の封筒を持ってくると、その中身を客間のテーブルに並べた。病院でもらった診断書、青紫や黄色、茶色っぽく変色している肌の写真といった、穏やかではないラインナップ。
「これ、どういうこと?」「届けるつもり?」
「全部あなたがつけた傷でしょ?忘れたとは言わせないわ」泰然とした様子でつぶやく夫の言葉尻にかぶせ、私は静かな口調で告げた。彼は朝帰りの際、私の態度が気に食わないという理由で手を上げてきたのだ。こちらとしては特に彼を苛立たせるような行動を取ったつもりはない。ただ「大体何時頃に帰る?」という質問をメッセージで送っただけ。それに返信がなく、彼が帰宅した際に「ちゃんと連絡を返してほしい」と言ったところ、鬼のような形相となって勢いよく手を伸ばしてきたというわけである。それ以来、彼の中には手を上げるという選択肢が加わってしまったようで、何かが気に入らないたびに力を行使してくるようになった。食べたいと言ったメニューが夕飯に出てこなかった時、ストレスをぶつけるかのように罵倒してくるかと思えば、私が反論した時。要は、自分の思い通りにならなかった時に私に言うことを聞かせるための手段にしてきたわけだ。
診断書まで出されたことで、やっと言い逃れをする気力も失せたのだろう。夫はがっくりと項垂れた。次に顔を上げた時、彼はどんな言葉を発するだろうか。そんな風に考えながらじっと視線を注いでいると、深いため息が鼓膜を震わせた。
「ああ、そうだよ。とみが言っていることは全て本当だ。確かに俺は浮気もモラハラもした」
ようやく自分の非を認めたが、声色から不服であることがありありと伝わってきた。頭をガチガチと雑に掻く姿は、早くこの時間が終わらないかというオーラが漂っている。言い逃れるのも面倒だから認めたといった感じだ。
「ふざけやがって。この恥知らずが」
バリバリと剥がれた夫の化けの皮。真相を知った親族たちは私の味方となり、自分ごとのように彼に怒りをぶつけてくれた。夫はどこか遠い目をしながら客間をぐるりと見回すと、ぽつりぽつりと胸の内を明かし始めた。
「別に俺だって、好き好んでとみをいびっていたわけじゃないんだよ」
曰く、彼は順調に出世したが、社長の息子という周囲の目や責任の重さにプレッシャーを感じていたそうだ。高い水準を求められる日々。それに答えなければ、影で「時期社長」と囁かれる。そのせいで蓄積していったストレスを家に持ち込んでしまい、私にぶつけることで発散していたという。
その話を聞いても、夫を許す気持ちなどは一片も湧いてこない。冷めた目で彼をぼんやりと眺めていると、義父が言葉を発した。「それは間違っている。会社とは関係のないとみさんに当たって何になる?お前が言っていることは、自分の過ちに少しでも正当性を持たせようとする愚かな弁明にしかすぎない」
それを受けて夫は再び俯いた。義父の言葉を嚙み砕いて自分の中に落とし込んでいるのかと思いきや、飛び出してきたのは反抗心で満ちた声だった。「よく言うよ。母さんが病気で亡くなったの、父さんが仕事中毒で家庭を顧みなかったせいだったんだぞ。そんな父さんに家庭の問題で説教されたくないね」
開き直って唇を持ち上げると「もういい。俺はとみと離婚して、浮気相手と再婚するからな」と言い放ったではないか。
感情を高ぶらせているのは夫だけ。義父や親族たちの感情はどんよりと暗く沈み込み、客間が曇りの空のような空気で包まれる。

そんな中、私は次の一手を夫に向けて打つことにした。まるで時間を停止する魔法にでもかかってしまったかのように、その場の全員が固まっている。私はいそいそとスマートフォンを操作して、電話をかけた。静まり返った室内には、小さめのコール音でもよく響く。
「もしもし。入ってきてください」
スピーカーモードにしていなくとも、電話の向こう側の声もある程度聞こえるようで、夫は肩をピくりと震わせる。その後すぐに頭を振る。まさかあの人物と私が繋がっているなどありえないと結論付け、浮かんだ考えを打ち消したに違いない。まあ、そのまさかなのだが。
電話から少し経ってからインターホンが鳴ったため、私は玄関に向かい2人の来客を出迎えた。そしてその2人と共に客間まで戻る。
「お待たせしました」
そう言った私の声に反応した夫がこちらを見た瞬間、彼の顔色がさーっと悪くなっていった。口をパクパクと開閉させるその姿は、餌を求める金魚のようだ。
「な、なんで……どうして」
発せられた声は情けなく裏返り、先ほど威勢よく浮気相手と再婚するなどと宣っていた人物とはまるで別人のようだった。伸びていた背筋も徐々に自信なく曲がっていき、体が数倍ほど縮んだように思える。
「どうしてって、彼女も話し合いに参加するべきだと思って」
そう、私の隣に立つ若い女性こそ、夫の浮気相手であるリナだったのだ。そしてもう1人の来客は彼女の父親。夫と関係を持っていたのは複数人いたのだが、その中で最も執着を見せていたのが彼女だったため、ここに呼んだのである。
彼女は最初はもじもじと所在なさげに両手を体の前で組んだりしていたが、夫の声を聞くと彼のことを強く睨みつけた。すっかり余裕が隠せなくなった夫に、私は穏やかな笑みを浮かべながらこう告げた。「私は言ったわよね。もう1つ、うじを用意してって。浮気相手の分よ」

夫がリナと出会ったのは営業先の会社だったそうだ。まだ19歳の大学生である彼女はそこでアルバイトをしていたのだが、夫の方が一目惚れをしたらしい。彼はしつこくリナのことを口説いていた。「君のことが好きだ。俺と恋人になってほしい。こんな素敵な女性に出会ったのは初めてだ」そんな歯の浮くようなセリフを吐いているところを想像すると、身の毛が立つ。
リナは最初それを断っていた。年齢差があるから、そもそもあまりよく知らないから、と理由を並べ立てたが、夫はなかなかに粘り強く、なんと帰り道で待ち伏せまでしていたそうだ。
「1回デートしたら、もう言ってこないでください」
音を上げたリナはそんな条件を出し、夫を諦めさせようとしたが、彼はこれ幸いばかりにデート中に高い食事を奢ったり、ブランドのアクセサリーを送ったりと攻めの姿勢に出た。これだけしてもらったのに断ってもいいのだろうか、と罪悪感を植え付ける作戦でもあったのだろう。
「やっぱり君のことを諦められない。俺と付き合ってくれ」
一度条件を飲んだにも関わらず、夫は再度リナに迫った。彼女が難色を示したところで、夫は最後の手段に出たのである。
「俺が働いている会社と君のお父さんの会社は取引があるんだぞ。もし社長の息子である俺の機嫌を損ねたらどうなるか、分からないほど子供じゃないよな」
リナがアルバイトをしていたのは父親の会社だった。父親を支えたいという思いからそこで働いていた彼女からしたら、夫の言葉は恐ろしいものでしかなかっただろう。自分の選択のせいで会社が危うくなるという恐怖を植え付けるようなものだったのだから。「付き合うか、それともこれっきりにするか」という2択に見せかけた一択に、リナは頷くしかなかった。浮気相手ではあるが、彼女もまた被害者なのだ。
「婚約者がいるのに、未成年の娘を口説くなんてどういう意図だ?お前は理性のない獣と変わらない、人間の形をしたクズが」
もう夫との関係をやめたいと相談された竹下社長は激怒し、今回彼女についてきていた。彼は額に青筋を浮かべ、両手の拳を強く握り込み、今にも夫に飛びかかっていきそうである。その激しい怒鳴り声を聞いた夫は、あたふたと床に頭がめり込むほど勢いよく土下座した。「申し訳ございませんでした」
しかし、そんな謝罪だけでは竹下社長の怒りは収まらない。鬼のような形相を保ったまま、重々しく夫に向かって一歩踏み出した。それを見て手を出されると思ったのか、一瞬だけ顔を上げた夫は再度額を床に擦りつける。「2度とこんなことはしません。ですから、どうか許してください」
その小さな背中を見ていると、私の口から無意識のうちにため息が漏れた。「人間の形をしたクズ」とは言い得て妙である。私はもう夫のことを同じ人間だとは思えなかった。いや、思いたくなかった。
社長の息子であることにプレッシャーを感じているといった口で、自分よりも若い女性に立場を利用して手を出したり、私に対しては一切謝らなかったのに、竹下社長が登場するや否やためらいなく土下座をする。情けなさ過ぎる。
「でも、リナさんのことは本気で愛してたんです」
火に油を注ぐとはこのことだ。
「本気だったかどうかなんて関係ないだろうが。お前は何を言っているんだ?ちゃんと脳みそは動いているのか?」
竹下社長だけでなく、義父もとうとう声を荒げ、掴みかからんと腰を上げた。もったいない。優しい義父の手を汚されたくない。
「待ってください」私は声を張り上げた。私が助けてくれたと勘違いしたのか、夫はこちらにじっと視線を注いでくる。私はそれを無視して言葉を続けた。
「リナさんに本気だったというのは嘘ですよ。この人は若い美人なら誰でもいいんですから。つまり、中身ではなく外見しか気にしていないんです」
「ちょ、おい」
痛いところを突かれたとでも言わんばかりに夫は顔を歪め、よろめきながらこちらに手を伸ばしてきた。浮気をした時と同じように口を塞いでくるつもりだったのだろうが、竹下社長たちに阻まれている。かすりもしない。
彼は女癖が悪いことに加え、気に食わない男性社員には無理な仕事を押し付けるなど、人の上に立つにはふさわしくない行動ばかり取っていた。自分のミスをカバーさせたり、他人の成果を横取りしたり、反対意見を言ってくる部下がいれば、社長の息子という立場を振りかざして黙らせてくる。傲慢を具現化したような人間だ。いや、人間以下の存在と言った方が正しいだろう。つまりは、相手が逆らえないのをいいことにやりたい放題だったというわけだ。その結果、退職者まで出てしまい、我慢ならなくなった社員たちが内部告発をするに至った。
「そうでしょ。私が今言ったことに誤りはあるかしら」
夫にそう問いかけるも、彼は下唇を噛んで「ぐっ」とうめき声をもらすばかり。図星なので何も言い返せないに違いない。
そんな彼に追い打ちをかけるべく、私は言葉の続きを紡いだ。
「さっきあなたは、母さんが病気で亡くなったのは父さんが仕事中毒で家庭を顧みなかったせいだって言ったわよね。それは単なる思い込みで、事実とは全く違ってたのよ」
実は義父と義母の夫婦関係は良好だった。仕事で忙しい中でも、義父はしっかり家族の時間を作り、買い物に行ったり少し遠出をしたりとコミュニケーションを取っていたという。義父は過去、私に対して「母さんが支えてくれるから、俺は仕事を頑張れるんだ」と漏らしたことがある。それほどまでに、彼の中で義母というのは掛け替えのない存在だったのだ。
「あ、ああ、そうだよ。本当に2人は新婚の頃からずっと変わらず仲が良かったぞ」義母もそう肯定する。ただ夫がちゃんと義両親の姿を見ていなかっただけなのである。
「あなたは人間性に大きな問題があるみたいね。自分のことばかり考えてないで、少しは他人を思いやることを覚えないと、周りから人が離れていくだけよ」

そう言いながら、私は記入済みの離婚届を突きつけた。夫はそれを受け取ることなく、「そんな……」と繰り返しながらブルブルと震え、動けなくなってしまった。その後、膝から崩れ落ちた夫の体を無理やり起こして部屋を出て行かせてくれた義父のおかげで、私たちの離婚は成立した。もちろん、浮気の慰謝料もしっかり請求。義父が隣で睨みを利かせてくれたため、抵抗されることもなくすんなりと話がまとまったのである。
「お前のようなやつとは、もう一緒に仕事はできない」
最初に解雇された夫は、雇用関係だけではなく家族としても義父から縁を切られ、家を追い出されることとなった。再就職するべく様々な会社の面接を受けたようだが、彼の悪業は業界でも知れ渡ってしまったため、雇ってくれるところは早々見つからないだろう。
音信不通となった彼は、孤独な人生を歩むこととなり、どこかでひっそり暮らしているという。
一方、私は彼と離婚することになったが、義父や義理の両親と関係が切れることはなく、良好な付き合いを続けることができている。
「自分が情けないわ。あの人の本性に気づかずに結婚してしまったなんて」と、こぼすと義妹は苦笑いを漏らしながら励ましてくれた。
もし新たな出会いがあったら、相手の人間性もよく見定めようと思う。そして、いつかこの先一緒に歩んでいけるような相手を見つけたら、心の中で元夫にこう言ってやるのだ。「お前のことなんか誰ももらってくれない」というのは間違いだったと。

リナ、両親の介護は当然お前にもしてもらうからな。確定事項だ。それが嫌なら今すぐ離婚だ。さあ、選べ。俺の両親と同居するか、離婚するか」
夫がニヤニヤしながら言ってきた。義母も隣で同じように笑っている。「嫁なら嫁らしく、少しは役に立つことをしてみなさい」と。
「え、お母さん、同居するつもりだったんですか?私、もう1ヶ月前からこの人の赤の他人ですよ」
直後、夫と義母の笑顔が消えた。頭の上にはてなマークを浮かべ、沈黙している。
本当に白々しい。私は全てを知っているというのに。
これは、今日5LDKの新居に引っ越すにあたり、夫が突然言い出したことだった。ちなみに、夫が同居の話をしたのは今日が初めてだ。まあ、元々私は同居するつもりなんてないし、夫が何を企んでいるかも知っていたのだが、わけあって今日まで何も言わなかった。
「え、い、一体どういうこと?1ヶ月も前から他人って……、あなた、何がどうなってるの?」
「いや、知らない。俺は何も知らないよ。そもそも離婚した覚えなんか……」
夫と義母は信じようとしない。まあ、そういう人たちだと知っているので、私は別に信じなくてもいいと前置きした上で、事実を語り始めた。

1年前のある日、夫は高校の同窓会に出かけた。久しぶりに会う同級生たちと話が弾んだのだろう。同窓会から帰ってきた彼は顔を赤らめ、かなり酔っていた。その時の夫は、普段の彼からは想像もつかない言葉を吐いた。
「やっぱり女は若い方がいいなあ。髪も艶もいいし。どっかのババアとは大違いだよ」
呂律が回らず、足取りも怪しいままに、そんな言葉を口にした。私はその言葉にひどい衝撃を受けた。夫とは7歳の年齢差があり、私の方が年上だ。普段は気にしないようにしていたが、夫は酔うと年の差を冗談混じりに口にすることがあった。それでも、今回は何かが違った。
「いつでも離婚できるぞ」
夫は不適な笑みを浮かべ、ふざけた態度で言い放ったのだ。さらに、いつの間にか準備していたのか、記入済みの離婚届まで取り出してきた。その姿を見た時、私の心の中に何かが音を立てて崩れ落ちた。これまでは冗談だと思い込んで流してきたが、この瞬間、私は彼の言葉が冗談ではなく現実であることを突きつけられることになった。
「その時の離婚届を役所に提出してきたんです。だから私はこの人とは赤の他人というわけです」
「と、そんなのは出鱈目じゃないの?この人と離婚したくないからって、そんな嘘をつかなくてもいいでしょ」
義母が激情した口調で私を非難する。彼女にとっては信じがたいことだったのだろう。しかし、私は冷静に答えた。
「別に信じなくてもいいですよ。ただ、離婚したのは事実ですので」
義母は私の態度から、すでに離婚が現実のものであることを察したようだった。そして、彼女の顔に不安が浮かぶ。
「だとしたら、あなた、生活はどうするのよ」
義母の疑問は当然だった。専業主婦である私が離婚してどうやって生活していくのか。彼女にとってそれは考えられないことだったのだろう。だけど、それは義母が私を夫の寄生者と決めつけているからだ。その見方はもう通用しない。
「ご心配なく。私は自分の生活ができるくらいのお金はありますので」
冷静にそう言い放ちながら、私はバッグから通帳を取り出し義母に差し出した。義母の視線が通帳に注がれた瞬間、彼女の顔色が見るみるうちに変わった。
「そ、300万……」
義母の声が震える。信じられない光景を目の前にしているかのように目を大きく見開いていた。
「そ、それ以上に、この貯金額は何だ?」
夫もまた、予想外の事態に動揺していた。私がこのような資産を持っていることを、彼は全く予想してなかったのだろう。
私は通帳を見せつけるように義母に渡した後、落ち着いた口調で説明を始めた。
「まあ、実を言うと、最近独身時代の会社に復職したんですよ。当時の上司や同僚がいたのですぐに復職することができました」
私は穏やかに、しかし確信を持ってにっこりと微笑んだ。その笑顔は、かつての職場で培った自信と誇りに満ちていた。夫と出会う前の独身時代、私は夫と同じような有名企業でバリバリと働いていた。その経験と人脈が今も私の背中を押してくれている。夫は信じられないという表情で私を見つめ、義母は言葉を失っていた。彼らにとって専業主婦である私は、家庭に閉じ込められた存在でしかなかったのだろう。しかし、現実は違った。私はただ家庭を守るために仕事をやめただけで、力を失ったわけではない。
「ああ。それから、離婚した理由の1つに、この人が私のお金を無断で使っていたから、というのもあるんです」
義母の声が一層鋭くなり、彼女の顔には怒りと驚きが交錯していた。
「何を言ってるんだ?」
夫は焦りと戸惑いの色を隠せずにいた。それは夫にとって義母には知られたくない事実だが、彼は私が暴露するとは思っていなかったようだ。それほどまでに、夫は私を下に見ていた。彼が私を嘲ってきた結果が、今ここに突きつけられているのだ。
私は2人の混乱を無視し、さらに話を続けた。
「それから、あの5LDKの新居を購入したのは私です。この人ではありません。なので名義は当然私の名義ですし、ローンの支払いも私の名前でしています」
そう言いながら、私はまたバッグから1冊のファイルを取り出した。その中には、新居を購入する際に必要な書類とそれに伴うローン契約書が丁寧に整理されていた。私はそれを開き、夫と義母の前に広げる。契約書には私の名前が大きく記載されており、支払いプランや利息に関する詳細も明確に記されている。これらの書類は、私が一歩一歩自らの手で築き上げたものであり、決して嘘や偽りではなかった。
義母の顔は青ざめ、彼女の手が震えているのが見て取れた。彼女は書類の1つ1つに目を通しながら、信じられない思いをぶちまける。
「こ、こんな書類、どうせ偽物でしょ。誰かに頼んででっち上げたものに決まってるわ」
今までに見たことがないくらい必死な形相だった。目の前にある現実をどうしても受け入れられず、偽物だと断じることで自分を守ろうとしているのだ。義母はこれまで信じてきた世界が崩れ去るのを目の当たりにし、必死でその瓦礫の中から自分を救おうとしていた。
私はその場で拳を握りしめた。義母の無理解と必要な態度に怒りが胸のうちに湧き上がる。しかし、私はその怒りを飲み込み、冷静さを保つように務めた。この場で感情を爆発させても何も得られないことは分かっていたからだ。自分の心の中で燃える炎を抑えつけ、再び冷静さを取り戻す。
「お母さん、これらの書類は偽物ではありません。全て本物です。現実を受け入れてください」
静かながらも決意を込めた言葉を放ち、私は義母をじっと見据えた。
「この人は高収入なのよ。あんたのお金を使う理由がないわ」
義母は強い口調で反論してきた。彼女の声には焦りと不安が混じっており、なんとか私の主張を覆そうとしているのが見て取れる。義母がこう言ってくることは予想していた。だからこそ、さらなる事実を告げることに決めたのだ。
「お母さん、実はこの人は仕事をやめていますよ。それも私たちに内緒で、だいぶ前に」
その瞬間、義母の顔が硬直し、彼女の表情から血の気が引いた。彼女の声は震え、目は大きく見開かれた。その横で夫は動揺を隠せず、肩をピクッと揺らした。しかし、義母は夫のその態度を見ても事実を信じることができずにいた。
「そんなに私の言葉が嘘だとおっしゃるのであれば、この人の会社に確認してみてください。きっと退職していると言われるはずですけどね」
私は冷静に言葉を続けた。夫の顔はみるみる青ざめていく。彼は無言で目を伏せ、まるでその場から逃げ出したいとでも言わんばかりの様子だった。
「そ、そんな嘘でしょ」
義母は弱々しい声で呟いた。その言葉には、これまで信じてきたものが崩れ去っていく不安と絶望が滲んでいた。断固とした私の態度と言葉に、義母はついに事実を受け入れざるを得なくなったようだ。余裕に満ちていた彼女の表情は次第に青ざめ、焦りと動揺が浮かび上がっていた。これまで私が夫に依存していると思い込み、そのことを理由に嫁いびりをしていた義母。しかし、実際には夫が私に依存していたという真実が明らかになり、彼女は全てを失ったような顔をしていた。
義母は震える声で「ごめんなさい」と絞り出すように私に謝罪した。その謝罪の言葉は、彼女自身が全く知らなかった現実を直視せざるを得なかったことへの痛切な後悔を表しているようだった。
しかし、夫は悪びれる様子もなかった。
「別に母さんが謝ることじゃないだろ。この人、あんたって怖いんだよ。そうだろ。結婚したんだから、嫁の金は俺の金。俺が夫婦の金をどう使おうが自由だよな」
あら、そんなこと言うのね。強気な態度に出てきた夫に対し、私は不敵に笑った。夫が何をしようと無駄だ。すでに私は次の手を打っている状態なのだから。
「話は聞かせてもらったぞ」
突然、義父の声がどこからともなく聞こえてくる。夫と義母は身を固くして義父の姿を探した。
「残念だが、わしはまだそこにはいないぞ」
義父の言葉にはっと気づいた2人。声の先には、私のスマホが置かれている。
「英子、お前まさか?」
「ええ、そうよ。私はあなたが話しかけてきた直後からお父さんに電話して、スマホを通話状態のままそこに置いていたのよ」
夫と義母のことだから、義父が来るまでに私を説得しようとすることが分かっていた。きっと何かしら言ってくるであろうと思い、夫と義母の話を義父に聞いてもらうため、わざとスピーカーにしていたので、今までの会話は義父に筒抜けだったというわけだ。
「お前がそんな風になってしまっていたとはな」
外で待機してくれていた義父が家の中に入ってくるなり、夫を睨みつけ言い放つ。
「父さん。あ、あなた」
「どうやら育て方を間違えてしまったようだな。お前もお前だ。英子を甘やかすからこうなったんだ」
「違うんだ。父さん、話を聞いてくれ」
「残念だが、お前の話を聞くつもりは一切ない。全て英子さんから聞いているからな」
夫は視線を泳がせ、青ざめている。隣にいる義母は義父の登場に驚き、具合が悪そうに俯いていた。私は義父にだけ今回のことを話していたのだ。なぜなら、義父だけは私のことを気にかけてくれていたから。夫と義母がいない時はよく心配してくれていたし、逆に義父母がいれば夫と義母は何も言ってこなかった。だから、私は義父に感謝している。
「何が嫁の金は俺のものだ。ふざけたことを言うんじゃない。勝手に会社をやめて英子さんのお金を使うなんて。お前はどれだけ非常識なことをしているのか分かってるのか?」
「ごめん」
「謝って済むのか。お前は自分の方が偉いと思っているのか?仕事をやめて収入がないのに、お前のことを見てくれた英子さんに『嫁として役立たず』とよく言えたな。夫として役立たずなのはお前だろ」
義父は大激怒し、夫の間違った考え方を否定してくれる。夫は小さく悲鳴をあげ、縮こまった。その横で義母がオロオロしている。きっと義父がここまで大激怒するとは思ってなかったのだろう。さらには自分にも思い当たることがあるのか、口出しができずにいる。
「ご、ごめん。俺……」
夫は泣きそうになりながら、ぽつりぽつりと話し出す。
「ち、実はある日を境に、同僚たちにこき使われるようになって……言ってなかったんだけど、ノイローゼにもなりかけていたんだ。だ、この人、仕事ができる俺のことが気に食わなかったのか知らないけど、本当に急にみんなの態度が変わってさ。それで、ついそのストレスで英子に対して八つ当たり的なことをしてしまったんだ」
「そのせいで、仕事をやめてしまったんだね」
義母の言葉に夫は頷く。それを見て義母はますます悲しい顔をした。だが、義父は難しい顔をしている。
「と、本当にすまない。俺が悪かった」
夫は私の方を向くと、頭を下げ謝罪してきた。きっと義両親からすれば、夫は心誠意の謝罪をしているように見えるだろう。しかし、私は夫が嘘をついていると知っている。
「残念だけど、そんな見え透いた嘘の謝罪なんて受け取らないわ」
「え、嘘じゃ……英子さん、一体どういうことだ?」
私の言葉に夫は慌て、両親は困惑した表情をした。今の夫の謝罪は、ただのごまかしに過ぎない。
「この人が私のお金を勝手に使ったり、嫁いびりをしていた本当の理由がちゃんとあるんです」
「なんだと?おい、英子、勝手なこと言うな。お前は黙っていなさい」
「英子さん、本当の理由とは何ですか?」
「本当の理由?それは、この人が浮気をしているからです」
私は厳しい目をして夫と義両親に暴露する。夫はぎくりとし、義両親は夫を凝視していた。
「そもそもこの人が記入済みの離婚届を用意していたのも、私を捨てて浮気相手と再婚するためだ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺が浮気なんてするわけないだろ」
当然、夫は浮気を否定する。だけど、それも無駄なことだ。今日のために私は準備をしてきたのだから。
「これを見ても、そんなことが言えるのかしら?」
そう言って私は1枚の紙を取り出し、夫に見せる。すると夫の顔は一瞬にして青くなった。冷や汗を流し「そ、それは……」と声を震わせた。義両親は何がなんだか分かっていないようだったが、「見れば分かります」とだけ伝えた。
「こ、これは……」
「そうです。そこには、この人がお金を使った日付、金額、購入したもの、さらには行った場所が記載されています。見ての通り、高級ブランド店や高級レストラン、高級ホテルなど、普段のこの人なら行かないような場所なんです」
そういえば、以前この人はこんなことを言っていた。「いくら高収入でも、高いレストランとホテルは何かとお金がかかる。だから記念日とかお祝い事でしか行かない。贅沢すぎるのも良くない」と。しかも、この人が買った高級ブランド品は全て女性もの。自分が買ったわけじゃないってことよね。
「そうです。ちなみに高級ブランド品は私の手元にはありません。つまり、私のために買ったものではないというわけです。だから、私はこの人の浮気を疑ったんです」
私はそう言って、土下座をしたままの夫を見下ろした。夫は私が水面下でここまで動いていたことに驚きを隠せないようで、金魚みたいに口をパクパクさせている。義母も青ざめていた顔が白くなるほどだ。さらに、夫の浮気の件は義父にも伝えていなかったので、どう対応していいのか分からないという感じに義父も戸惑っていた。義父には言っても良かったのだが、夫が浮気をしている確証がまだなかったのだ。確証が持てない状況だったので、義父に伝えるのは保留にしたのである。
そんな私を心配しながら、義父は「いつから、この人の浮気に気づいていたんだ」と疑問を投げかけてきた。私はこれまでの経緯を最初から説明することにした。
「そうですね。ちょうど1年前くらいでしょうか。この人が高校の同窓会に行くと言って出かけました。それから急にお金の使い方が日に日に荒くなったんです」
「しかし、英子さんならこの人に問い詰めることはできただろう」
「はい。だから、この人に理由を聞きました。すると『仕事のため、会社の付き合い』と言っていたので、私は仕方ないと納得することにしたんです。決めつけは良くないですからね。それに、この人は高収入ですからお金が足りなくなることはないと思っていましたし。だから、私はしばらく様子を見ることにしたんです。すると、ある日を境にこの人は私にお金を借りるようになりました。さらに、私の口座からお金が勝手に引き出されることもありました」
「な、なぜ英子さんの口座から引き出せたの?」
「結婚したので、お互いに何かあった時のためにと暗証番号を教え合っていたんです。だから、この人は私の暗証番号を知っていますし、私もこの人の暗証番号を知っています」
義母の言葉に、私は困ったように答える。今思うと本当にバカなことをしたと思う。だからこそ、番号はすぐに変えたのだが、さすがにここまで来ると夫の行動が明らかにおかしくなっていると実感した。私は真実を知るために探偵事務所に依頼し、夫を調査することにしたのだ。結果は火を見るよりも明らかだった。報告書には半年以上も前にこの人が仕事をやめていることが書かれていた。それと同時に、彼のお金の使い道が嘘であると知ったのだ。
「お金の使い道が嘘だと?」
「違う!」
それは夫が言い訳しようとするので、私はすかさず別の紙を取り出す。それは慰謝料請求書だ。夫はその文字を見た瞬間、硬直する。
「英子、どうして……」
「だから言ったじゃない。調査したって。この慰謝料請求書は、夫の浮気相手である春奈へのものよ」
そう。この慰謝料請求書は、夫の浮気相手である春奈へのものだ。調査会社の報告書により浮気の事実を知った私は、当然行動を起こした。そう、実は私はすでに夫の浮気相手に接触している状態だったのだ。
「話はたくさん聞かせてもらったわ。春奈さんはこの人の同級生なんですってね。同窓会の時に再会を果たして、それからはよく会っていたって聞いたわ。さらに驚いたのは、あなたは春奈さんに独身だと嘘をついていたことね」
「だ、だから、この人、あなたって子はどこまで英子さんのことを……」
「いや、これは……」
夫が私が春奈と接触していると思わなかったのか、驚愕し、義両親に攻め立てられドロドロになっている。
「ちなみにさっき見せた通帳に300万の振り込みがあったのは、もう春奈さんから振り込んでもらった慰謝料よ」
「なんだと?何勝手なことしてるんだ?」
「勝手なのは、あなたの方でしょ」
「父さん!」
「お前は英子さんがいるのに、自分を独身と偽り、英子さんよりも若い女に熱をあげていたというのか。この恥知らずが」
義父は私に掴みかかりそうになった夫を逆に掴み返し、今までにない鋭い声を張り上げ怒る。本気で怒った父を見たことがないのか、夫は悲鳴をあげた後、沈黙。そんな夫に対し、義父は絶縁宣言し、夫を追い出そうとした。しかし、夫は開き直り、私を罵倒し始めた。
「ふん。稼いでいる女と結婚すれば楽に生活できると思ったんだ。俺は最初からお前を利用するつもりだったんだよ。誰が好き好んで7つも上のババアなんかと結婚するかよ」
「あなた、お前というやつは……」
「同窓会に行って、金持ちで若い女の方がいいと思ったから浮気したんだ。それに、春奈は社長令嬢だからな。お前みたいなババアは用なしなんだよ」
そんな風に言ってくる夫を見て、私は過去の自分を思い出していた。彼の言葉や態度が、私に強烈な感情を呼び起こさせる。振り返れば、私と夫が結婚した背景には、私が夫にベタぼれだったという事実があった。夫に対してベタぼれだった私は、結婚する前から夫の言うことを何でも許し、彼の望みを叶えるために全力を尽くしていた。独身時代、私はバリバリ働きながら高額の貯金を築いていた。それは将来のため。そして何より、夫との未来を考えて貯めていたものであった。ずっと私のその深い愛情を知っていたからこそ、夫は離婚届をちらつかせても私が何もできないだろうと高を括っていたのだろう。よく考えれば、結婚が決まったのも私が貯金の話をした直後だったことを思い出す。結婚が私の貯金を元にしたものだと理解していたからこそ、夫は私を買いかぶっていたのだ。もっと早く気づかなかったことに、ただ後悔の念でいっぱいになっていた。
「は、驚きすぎて声も出ないのか?安心しろ。俺は春奈と幸せになるから、お前は指でも加えて見てろよ」
私が黙っていると、夫はさらに調子に乗り、その態度を悪化させた。彼の自信満々な態度は、まるで全てが自分の思い通りだと信じて疑わないように見えた。私は冷静に、しかし内心では深い怒りを感じながら返事をした。
「勝手にしなさい。その代わり、後悔しないでね」
夫は鼻で笑いながら「そんなの俺がするわけないだろう」と軽く流し、部屋から出ていった。彼が家を出ていく姿を、私はただ見守るだけだった。
義父は悔しそうな表情を浮かべながら、私に向かって言った。「英子さん、うちのバカ息子が本当にすまない」
義父の言葉には深い申し訳なさと、息子が犯した過ちの重さを感じ取れる。彼の声には親としての悔いと、自分の育て方に対する責任感が滲み出ていた。義母も涙を浮かべながら言った。
「まさか、あの人があんな嘘をついていたなんて知らずに、たくさん傷つけるようなことを言って、本当にごめんなさい」
義母の声は震え、彼女の目には後悔の色が浮かんでいた。これまで私に対して抱いていた誤解が、義母にとっても痛々しい事実として突きつけられていたのだろう。その涙は、私への謝罪と息子の本性を知ったショックに対するものだった。
「いえ、本当のことを知ってもらえてよかったです」
私の言葉には、義両親に対する理解と、これまでの誤解が解けたことへの安堵感が込められていた。ここで初めて、私が本当に望んでいたのはただ真実を知ってもらいたいことだったのだと感じた。
義父がさらに心配そうな顔で言った。「しかし、あのまま高志を行かせてしまって良かったのか?」
その言葉に、私はにっこりと笑顔を浮かべた。私が夫の背中を追う必要など全くない。彼はもう地獄に片足を突っ込んでいるのだから。

数日後、元夫である高志からの鬼電がかかってきた。画面に表示された名前を見て、私は深い息をつく。内容はすでに予想していた通りで、慌てる必要もなかった。心の中で冷静さを保ちつつ、わざと何度か無視をした後、通話ボタンを押した。
「やっと出たな」
彼の声には苛立ちが満ちていた。私は冷静に、感情を交えずに答えた。
「何の用かしら?私たちはもう離婚しているのよ」
「お前、春奈のことで何か知らないか?」
元夫の声が一層苛立ちを含む。彼の声の背景には困惑と焦りが混じっているようだった。どうやら浮気相手の春奈が音信不通になったことに気づいたのは、かなり後になってからだったようだ。私は全てを知っているので、元夫に事実を話すことに決めた。
「あなた、まだ気づいてなかったのね」
「な、何のことだよ」
「あなたが私を利用したように、実は春奈さんもあなたを利用していたのよ」
「え……は、嘘だろ」
彼の声は驚愕に満ち、混乱が伝わってきた。私の冷静な口調とは対照的に、元夫はまるで崩れ落ちるかのような声をあげている。
「ほら、あなたは一応有名企業で働いていたでしょ。だから、そこにつけ込まれたのよ」
元夫はその言葉に呆然とし、声も出せずに沈黙している。私は冷静に続けた。
「ああ。それから、春奈さんは社長令嬢だったけど、その素行の悪さから家を追い出されてしまっているの」
「じ、じゃあ、俺と付き合ってた時には……」
「ええ、そうよ。もう社長令嬢じゃなかったわ」
「じゃあ、時期社長の話も嘘だったのかよ」
電話越しの彼の慌てようは、まるで自分の世界が崩れていく様子を表していた。まあ、無理もないだろう。私を騙していた彼自身も、浮気相手に騙されていたのだから。
家を追い出された春奈にはお金がなかった。だから、彼女は高収入の男性たちを騙し、渡り歩いていた。そのうちの1人が元夫だったわけだ。
「あ、そう。あなたは春奈さんに、自分が仕事をやめたこと言ってなかったのね」
「そうだ」
「ええ、伝えたわよ。あなたが仕事をやめたこと。春奈さんは知っておくべきだと思ったからね」
私は春奈と接触した際、元夫がすでに無職であることを伝えていた。その結果、春奈は収入のない元夫には用がないと判断し、連絡を絶ったのだ。要は、お金があるからあなたに近づいただけってことよ。残念だったわね。
電話の向こう側が一瞬で静寂に包まれた。ようやく元夫は自分の立場を理解し始めたのだろう。彼の声は途切れ、聞こえるのは微かな呼吸音だけだった。
しかし、数秒間の沈黙の後、元夫の必死な声が響いた。
「え、え、本当にすまなかった。お、俺は、俺にはお前が必要だと分かったんだ。だから、俺とやり直そう」
「やり直すなんて、今更遅いわ。もうあなたへの愛想も尽きてるし。私はこれから1人で生きていくって決めたから」
「あの家に1人じゃ広すぎるだろ。寂しくないのか?」
「大丈夫よ。1人の方が気楽だからね。あなたとやり直すなんて、私が苦労するだけだもの。絶対にお断りよ」
私ははっきりと拒絶した。なぜなら、この後に及んで元夫は私を利用しようとしているから。彼は春奈に気に入られるために、多額の借金までしていたのだ。しかし、元夫は親族に絶縁されているため、誰にも頼ることができない状態だった。復縁を望むのは、まさにそのためだと私は理解していた。彼は私が許してくれると思っていたのだろうが、そんなことはありえなかった。
「すまない。英子。本当にすまない。許してくれ。お願いだ」
「私、あの時言ったわよね。後悔しないでねって。そしたら、あなたは笑ったわ。『そんなの俺がするわけないだろう』ってね。しかも、あなたは笑っていた。そんなあなたを許すわけないでしょ」
「そ、そんな……」
今にも消えそうな声だった。でも、これ以上話すべきことは何もなかった。私は冷たく「じゃあ、さようなら」と告げ、電話を切った。
その後、元夫はさらに多額の借金にまみれ、私への慰謝料や借金の返済に追われることになった。しかも、借金の返済のために新たな借金を重ねるはめになり、元夫は自ら首を絞めるような状況に陥った。
一方、春奈もまた、騙していた男性たちに本性が露見し、結果として詐欺だと訴えられることになった。彼女もまた追い詰められ、辛い日々を送っているそうだ。2人とも未来に希望を持っていたはずが、一気にその人生が転落していった。借金地獄の中で昼夜を問わず働き続けることになったと耳にした。しかし、もう私には関係のないことだ。
私は両親に離婚の報告をし、同居することを提案した。両親は喜んでくれ、今では一緒に楽しく過ごしている。介護のことは考えなければならないが、しばらくは独身生活を楽しむつもりだ。未来のことは誰にも分からない。だからこそ、今はただ自分の人生を自分のペースで充実させることに集中している。

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