出張先のビジネスホテルで仕事を終え、ようやく一息ついたその瞬間、携帯が震えた。ディスプレイに映る名前を見ただけで、全身の血が引く思いがした。夫・夢彦さんからの電話だ。
怖々通話ボタンを押すと、案の定、怒鳴り声が飛び込んできた。
「おい、ATM。通帳の残高がゼロじゃねえか。今すぐ秒で20万振り込め」
いつものように私を人間扱いしない、身勝手なお金の無心。しかし、その日の私は不思議なほど冷静だった。長年私を縛りつけてきた鎖が、ようやく断ち切れる時が来たのだと直感していた。
「夢彦さん、ごめんなさい。もうあなたにお金を振り込むことはできないわ。だって昨日、離婚が成立したんですもの。あなたはもう私の夫ではないの」
電話の向こうで一瞬、全ての音が消えた。次の瞬間、完全に動揺しきった金切り声が響いた。
「はあ? 離婚だって? 俺はそんな離婚届にサインした覚えなんてないぞ!」
「あなたが覚えていないのも無理はないわ。あの時は正気を失うほど酔ってたんだから」
あれは数ヶ月前の嵐の夜。泥酔して帰ってきた彼は、どこからか持ち出した離婚届に自分の名前を殴り書きし、私の顔に投げつけてきた。
「お前みたいな役立たずの嫁は、俺様がその気になればいつでもポイ捨てできるんだぞ。分かったか」
彼は翌日にはそんなことすら忘れていた。でも私はその離婚届を、いつか来るべき解放の日のために机の奥深くにしまっておいた。そしてこの出張に出る前日、一人で市役所に赴き、正式に提出したのだ。
これまで耐えてきたのは、命の恩人である義両親への深い恩があったから。彼らの目に入れても痛くないほど可愛がっている息子の悪口を言うことなどできなかった。浮気も無職同然の生活も、湯水のような浪費も、全て黙って耐え続けてきた。でももう限界だった。
「あなたが盾にしているその二人から、正式に背中を押していただいたの。お二人はとっくの昔にあなたの愚かな行いに気づいていらっしゃったわ」
電話の向こうの夢彦さんは言葉を失った。今日も彼は高級クラブでシャンパンを何本も開けて豪遊していたらしい。いざ支払いの段階になって、口座がゼロになっていることに気づき、いつものように私に金の無心をしてきたというわけだ。
支払いができず、クレジットカードも全て利用停止になっていると悟った彼は、見る見るうちに焦り出し、最終的には子供のように泣きついてきた。
「頼む! お願いだから今回だけ助けてくれ! このままじゃみんなの前で大恥をかいてしまう!」
何度電話をかけ直しても、「助けてくれ」「お前しか頼れない」と繰り返す。その情けなさに、私は最後のとどめを刺すことにした。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。あなたがこれ以上恥をかかないように、強力な助っ人を今ちょうどそちらのお店に派遣しておいたから。きっとあなたの窮地を救ってくれるはずよ」
電話の向こうで一瞬の沈黙の後、彼の悲鳴にも似た絶叫が響いた。
「お、親父!? なんでこんなところに!?」
そう。私が派遣した助っ人とは、他でもない彼の両親であり、私の恩人である竹春さんと佐智子さんだった。彼らには事前に全ての事情を説明し、夢彦さんが入り浸っている高級クラブへ向かってもらっていたのだ。
翌日、出張から戻った私は、空港から直接二人と合流した。三人で野中家のリビングにて、抜け殻のようになった夢彦さんと対峙した。私は彼の不貞行為と経済的DVに対する慰謝料を正式に請求した。
そして、長年かけて密かに集めてきた証拠の数々をテーブルに広げた。浮気相手との親密なツーショット写真。高級ホテルの宿泊費の領収書。私には内緒で購入していたブランド品のクレジットカード利用明細。そして最後の切り札として、探偵に依頼して撮影してもらった、浮気相手とラブホテルへ入っていく決定的なカラー写真まであった。
それでも彼は言い逃れをしようとする。「これは何かの間違いだ。俺は絶対に浮気なんてしていない。全部お前のでっち上げだ」
あまりにも見苦しい姿に、私は最後の手段に出た。彼が最近頻繁に連絡を取り合っている「ミツキ」という女性に、スピーカーホンで電話をかけたのだ。
「やめろ! 勝手なことするな! 人のスマホをいじるな!」
彼は妨害しようとしたが、両腕はすでに臨戦態勢の竹春さんと佐智子さんががっちりと押さえていた。
「もしもし? 夢ぴょん? こんな真夜中に電話なんて珍しいじゃん。もしかして今夜のデートのお誘い? 今夜はばっちり空いてるよ。てかさ、いつ結婚してくれるの?」
その瞬間、夢彦さんの顔から血の気が引いた。私は冷静に告げた。
「ミツキさんですね。私、夢彦さんの妻の野中真紀と申します。実はあなたにお伝えしなければならないことがございまして。私たち夫婦は昨日付けで正式に離婚が成立しました。ですから、どうぞご遠慮なく、その最低で救いのない男をあなたにそっくりそのまま差し上げます。ご自由にどうぞ」
電話の向こうで、彼女が息を飲む音が聞こえた。「離婚? 夢ぴょん、あなた結婚してたの? 嘘でしょ? だって私には独身だって言ってたじゃない!」
さらに後の会話で、彼がこの女性に対して「将来を約束された超エリート医師で、いずれは父の後を継いで大病院の院長になる」などと、とんでもない嘘を重ねていたことも判明した。
ここで竹春さんが私から電話を代わり、厳しい口調で彼女に事実を告げた。
「ミツキさん、本当に申し訳ない。このバカ息子は医者でも何でもない。ただの無職の男だ。そして私は無職ではないが、大病院の院長などでは断じてない。息子があなたを騙していて、心からお詫び申し上げる」
その言葉に、彼女はヒステリックに絶叫した。
「無職ですって!? そんなの絶対に嘘よ! だって私、夢彦君の子供、今お腹の中にいるのよ! どうしてくれるのよ、この嘘つき男!」
事態はまさに泥沼だった。ミツキさんは「慰謝料と生まれてくる子の養育費、一円たりとも負けずにきっちり払ってもらう」と怒り狂った。
夢彦さんは私と、妊娠中の浮気相手の両方から完全に見放され、自業自得の惨めな状態に陥った。彼にそんな大金を払えるはずもなく、結局は父親の竹春さんが全て立て替えて支払うことになった。その代償として、彼は借金を完済するまでの長い期間、父親の病院で時給数百円という最低賃金以下の労働力として、朝から晩までこき使われることになった。
しかし、話はそれだけでは終わらなかった。その後の探偵による調査で、彼にはミツキさん以外にも、なんと二桁に迫る数の愛人がいることが発覚したのだ。中には夫や子供のいる既婚者も複数含まれており、激怒した配偶者たちからも次々と慰謝料を請求されるはめになった。
さすがの竹春さんと佐智子さんも、底なしの息子の愚かさに完全に愛想を尽かしたらしい。
「もうお前の面倒は見きれない。自分の巻いた種だ。これからは全て自分で何とかしろ」
実の息子を冷たく見放してしまった。かつて女性たちを虜にした甘いマスクも、今では疲労でやつれ、無精髭だらけの見る影もない姿になってしまったそうだ。
一方、あの地獄のような結婚生活から解放された私は、その後も竹春さんと佐智子さんとの良好な関係を続けている。まるで血のつながった本当の親子であるかのように、以前にも増して温かく結びついた。
「真紀ちゃんには本当に悲しい思いをさせてしまって、心から申し訳なかった」
二人は会うたびに涙ながらに謝ってくれる。でも私にとって、この二人こそがどんな時も味方でいてくれる、かけがえのない本当の家族だ。今ではそう確信している。
週末には三人で美味しいレストランに出かけたり、佐智子さんと二人きりでデパートへ行き、お互いの服を選び合ったり。穏やかで心満たされる時間を取り戻している。
悪夢の結婚生活で負った心の傷はまだ完全には癒えていないけれど、二人の変わらぬ愛情に支えられ、私は少しずつ確実に前を向いて歩き始めている。
もう二度と、誰かに自分の人生を一方的に踏みにじられるような生き方はしない。ホテルの窓の外には、どこまでも果てしなく広がる抜けるような青い空。私の未来もきっと、この空のように明るく希望に満ちている。そう心の底から信じている。
もう、私の笑顔を曇らせるものは何もないのだから。



