「私としてみない?」――見合いの席で、上目遣いにそう言われた瞬間、俺の頭は真っ白になった。7年ぶりに本社へ戻り、隣に住む美しい未亡人・千砂子さんに紹介されて仕方なく受けた見合い。まさか、その相手が彼女だとは思わなかった。だが、彼女にはずっと好きな人がいると聞いていた。なのに、なぜ俺にプロポーズを?…

「私としてみない?」――見合いの席で、上目遣いにそう言われた瞬間、俺の頭は真っ白になった。7年ぶりに本社へ戻り、隣に住む美しい未亡人・千砂子さんに紹介されて仕方なく受けた見合い。まさか、その相手が彼女だとは思わなかった。だが、彼女にはずっと好きな人がいると聞いていた。なのに、なぜ俺にプロポーズを?...

俺は長瀬徹、42歳。長い独身生活が続き、恋愛からは遠ざかっていた。いつの間にか結婚願望も薄れ、このまま枯れた人生を歩んでいくのかと思っていた。

そんな俺の前に、一人の美しい未亡人が現れた。彼女こそ、俺の人生を大きく変える存在になるとは、この時は知る由もなかった。

7年ぶりに本社へ戻る俺を、空港まで迎えに来てくれたのは同期の哲也だった。入社当初から切磋琢磨してきた、20年の付き合いになる親友だ。

「徹也、久しぶりだな。わざわざ休みなのにありがとう」
「ああ、いいってことよ。それより徹、どうしたんだ、この腹は」

哲也は呆れたように俺の腹をつまんだ。

「ちょっと会わないうちに貫禄つきすぎだろう」
「いや、面目ない。食べすぎ飲みすぎがたたってな」
「しっかりしろよ。お前まだ独身なんだから。のんびりしてないで、そろそろ相手を見つけないと」

42歳になっても独身でいることに焦りもない俺を見て、哲也はため息をついた。

「結婚はもう無理だろうなって、半分諦めてる」
「それより徹也はすごいな。7年経っても体型維持してて」
「これでも一応努力してんだよ。走ったり、飯に気を使ったりって」
「料理は嫁さんが作ってくれるんだろ?」
「まあ、俺の話は置いといて。よし、行くか」

哲也の車で向かった先は、俺がこれから住むアパートだった。7年前、転勤する前に住んでいたアパートにはもう戻れない。あそこには、当時付き合っていた彼女と住んでいたからだ。

転勤が決まった日、一緒に来てほしいと勇気を振り絞ってプロポーズした。だが彼女は首を横に振った。結局、そのまま別れてしまった。今頃きっと、誰かと結婚して幸せな家庭を築いているだろう。

一方、俺は浮いた話も一切なく、仕事だけしていたらあっという間に42歳になっていた。独身の寂しさは否めないが、今更出会いがあるとも思えない。何より、こんな腹の出た中年に興味を持つ者なんていないだろう。

アパートに着くと、哲也が鍵と引っ越しの挨拶用の菓子折りをくれた。

「ほら、引っ越しの挨拶の時に渡せ。買う暇なかっただろう」
「徹也、ありがとな。俺、お前と結婚したかったよ」
「ああ、バカ言ってないで早く降りろ。明日から仕事なんだぞ」

俺は哲也に押し出されるように車から降りて、すぐに隣の部屋へ引っ越しの挨拶に向かった。

「すみません。隣に引っ越してきました」

インターホンに向かって話している途中でドアが開く。この時は、まさかその先に出会いが待っているなんて思ってもいなかった。

「はーい」

中から出てきたのは、大人の色が漂う美しい女性だった。

「あ、初めまして。今日から隣に住みます、長瀬徹です」

上ずる声で挨拶すると、彼女はなぜか意味ありげに微笑んだ。

「原田千砂子です。私も最近引っ越してきたばかりなの。よろしくね」

うっとりするような上品な笑顔に、急激に心拍数が上がる。

「あ、そうなんですか。偶然ですね」
「そうね。せっかくだから、偶然ついでにお茶でもいかが? 今ちょうどコーヒーを入れようと思っていたところなの」

「え、いいんですか? じゃあお言葉に甘えてお邪魔します」

緊張しながら部屋に上がると、千砂子さんはとても気さくな女性だった。初対面だというのに全く壁を作らず、それでいて絶妙な距離感で人に気を使わせない。俺は一瞬のうちに、彼女の人柄に心を掴まれた。

お茶を飲みながら話しているうちに、彼女が45歳で俺より3歳年上だと分かった。

「45歳、全然見えないです。年下だと思ってました」
「あら、嬉しい。でも長瀬さんも年の割には若く見えるわよね」
「なんていうか、針があって鋭そうな感じってことですか? この腹とか」

俺が腹をポンと叩いて見せると、千砂子さんはたまらず吹き出した。

「そうね。確かに。でもいいんじゃない? 大らかで優しく見えるし。私は好きよ」

彼女の思いやり溢れる言葉が、俺を優しく包み込む。素敵な人だな。何年かぶりに、誰かに恋する気持ちを思い出しつつあった。

「あの、千砂子さんは一人でお住まいですか?」

勇気を振り絞って尋ねると、彼女は笑顔で答えた。

「え、恋人とかはいないわ。10年前に旦那をなくしてから、ずっと一人よ」

予想もしていなかった返答に驚いて、俺はとっさに頭を下げた。

「すみません。余計なことを」
「いいのよ。謝らないで。もう10年も前のことだから。寂しくないって言ったら嘘になるけど、一人でいるのには慣れたわ」
「そうですか」
「それに安心して。恋ならちゃんとしてるから」

またしても予想外の答えに、思わず言葉を失った。千砂子さんには、思いを寄せている人がいる。始まりかけた俺の淡い想いは、あっけなく崩れ去った。

俺はやり場のない感情を残りのコーヒーと一緒に飲み干すと、立ち上がった。

「俺そろそろ戻りますね」
「え、もう?」
「はい。引っ越しの片付けも残ってますし」
「そっか。そうよね」

千砂子さんは少し残念な表情を見せた。そんな顔をされたら心が揺らいでしまう。俺は必死に己の煩悩を振り払った。

「それじゃあ、コーヒーごちそうさまでした」
「いえいえ。またゆっくり話しましょう」

手を振る彼女の言葉に、早くも胸がちくりと痛む。こうして、俺の新しい生活は始まった。

翌日出社すると、若い社員たちが俺にチラチラと視線を向けた。7年ぶりの本社は顔ぶれがかなり変わっていて、俺のことを知っているのは課長になった哲也と上層部くらいだ。

挨拶を終えて席に着くと、隣の席の若い男性社員が話しかけてきた。

「なあ、あんたさ、サカイ課長の同期なのに、なんで地方なんかに飛ばされたんだよ。なんかまずいことでもやらかした?」
「いや、特には。ああ、俺の名前は長瀬」
「ああ、いいよ。別に覚える気ないから。それより、40歳過ぎて役職にもついてないって、人としてどうなの?」

明らかに俺より一回りくらい年下のその社員は、嫌な笑みを浮かべていた。名札には「遠藤」と書いてある。

「遠藤君、今いくつ?」
「あ、29歳だけど」
「そっか。まあ、出世のタイミングっていうのは人それぞれだと思うよ。俺はそんなに気にしてないかな」

俺があっけらかんとしていると、遠藤はわざとらしく大きなため息をついた。

「呆けたわ。そんな感じだからいつまでも出世できねえんじゃねえの。俺は嫌だね、あんたみたいな無能社員は」

よく知りもしない相手に随分ひどいことが言えたもんだと驚いていると、そこへ哲也が現れた。

「長瀬、分からないことがあったら遠藤に何でも聞けよ。遠藤、長瀬を頼むな」
「はい。課長、任せてください」

そう言って頷いた遠藤は、哲也がいなくなると振り返って俺を睨みつけた。

「絶対に俺の足引っ張んなよ」
「頑張ります」

笑顔で答える俺を見て、遠藤は舌打ちしながら呟いた。

「全くどうかしてるぜ。こんな時期に2人も中年を会社に入れとって、何の役にも立たないだろう」
「え、もう一人?」
「うるせえな。いちいち独り言に入ってくんな」

遠藤は俺の質問を無視してパソコンで作業を始めた。俺の他にもう一人、同い年くらいの社員がいるのか。思わず周りを見渡したその時、遠くでヒラヒラと俺に向かって手を振る女性を見つけた。

「ち、千砂子さん!」

驚いてつい大きな声で立ち上がってしまった。真っ赤になった千砂子さんを見て、俺は慌てて席に着いた。隣の遠藤が、黙って俺に冷たい視線を向けている。

その日の仕事が終わり、俺は早速千砂子さんに声をかけた。

「千砂子さん、朝は目立つ真似してすいませんでした」
「気にしないで。急にみんなの視線がこっちに来て、恥ずかしくなっちゃっただけだから。それにしても驚いたな。まさか同じ会社だったなんて」
「私は知ってたけど」
「そうなんですか? それなら昨日のうちに教えてくださいよ」
「だって長瀬さん、昨日は慌てて部屋に戻っちゃったでしょ」

あ、そう言われて、俺は千砂子さんに好きな人がいることを思い出した。もしかして、彼女の好きな人はこの会社にいるのだろうか。心当たりの人間を探してみたが、俺の知るところだと全員既婚者だ。

俺が頭を悩ませていると、千砂子さんが俺の顔を覗き込んだ。

「ねえ、長瀬さん。今日よかったら一緒に晩ご飯でもいかが?」
「晩ご飯ですか?」

俺は返事に困った。好きな人がいるのに、こうも簡単に独身男性を誘って平気なのか。

「あのね、ちょっと長瀬さんに話したいことがあるの。どう?」
「分かりました。こういうことでしたら」

俺はこの後、とんでもない提案をされるとも知らずに、家に帰るとすぐに千砂子さんの部屋を訪ねた。

「いらっしゃい。さっきぶりだけど、さあ座って座って」

玄関を開けて笑顔で迎えてくれた彼女は、妙に上機嫌だった。

「長瀬さんのために、昨日の夜からカレーを作っておいたのよ。今スープとサラダを用意するから、ちょっと待っててね」

それを聞いて、俺の代わりに腹がぐーっと音を立てて返事をした。

「すみません。かなり腹が減ってるみたいで」
「よかった。いっぱい作ったから、たくさん食べて」

千砂子さんはニコッと微笑むと、すぐに台所へ。俺はその姿を眺めながら、カレーが出来上がるのを楽しみに待った。

しばらくすると、鍋で温められたカレーのいい匂いが俺の鼻をくすぐる。

「お待たせ。じゃあまずはご飯を食べちゃいましょう。話はそれから」

俺は千砂子さんの手作りカレーに舌鼓を打ちつつ、この後の話の内容について考えを巡らせていた。出会って間もない俺にする話なんて、大体察しがつく。たぶん、俺に恋の協力者になってほしいとか、その辺りだろう。昔からそういう役には慣れていた。自分ではいい感じだと思っていた相手でも、実は俺の友人に思いを寄せていて、俺が利用されていたなんてことが多かった。

今回もそんな話だと思っていたら、彼女の口から飛び出したのは意外な言葉だった。

「長瀬さん、お見合いに興味ある?」
「え、お見合いですか?」

思っていたのと全く違う話をされて、俺は目が点になった。

「急な話でごめんなさい。びっくりしたわよね。実はね、ある女性がお見合い相手を探しているの。それで長瀬さんはどうかなと思って」

話によると、その女性は俺より少し年上で、いつまでも独身でいることを父親がひどく心配しているらしい。そこで誰かいい相手はいないかと思っていたところ、俺に白羽の矢が立ったということだった。

「いやあ、でもちょっと待ってください。俺たち出会ってまだ2日目ですよ。千砂子さんは俺のことをよく知らないでしょ。それなのに紹介なんて」

俺が丁重に断ろうとしたその時、千砂子さんが大きな声で俺の言葉を遮った。

「分かるわ。長瀬さんがいい人だって知ってるから。だって、サカイ課長からも長瀬さんの話は聞いてたし」
「あいつ、変なこと言ってませんでした?」
「言ってないわ。長瀬さんのことをいいやつだって褒めてたもの。だからお願い」

千砂子さんは拝むように両手を顔の前に合わせた。

「長瀬さんを見込んでの依頼なの。相手の女性のお父さんが勝手にレストランも予約しちゃったみたいで、会って少し話をするだけでもいいから」

ここまで懇願されたら断るのは忍びない。それに、千砂子さんが俺を恋愛対象として見ていないことは明白だった。可能性のない恋を完全に断ち切るなら、新たな出会いにかけるしかない。

「分かりました。そこまで言うならお受けします」

俺が小さく頷くと、千砂子さんの目が一気に輝いた。

「本当? よかった」

まるで花が咲いたかのような彼女の笑顔に、思わず心が動きそうになるのをぐっとこらえた。

「それで、見合いはいつなんですか?」
「今週の日曜日、開いてる?」
「はい、大丈夫です」
「じゃあこれ、お店の名刺ね」

千砂子さんから名刺を受け取った俺は、部屋に帰ってからもしばらくそれを見つめていた。見合い自体は乗り気ではなかったが、これも何かの縁。あまり期待しすぎることなく、週末が来るのを待つことにした。

一方、仕事は出社して2日目から大忙し。日ごとに任される仕事量が増えていき、哲也の追い込みも当たりが強くなった。

「長瀬、お前の仕事が溜まってるぞ。全部今日中だからな」
「おい、言っとくけど、こんなのまだ入り口だぞ」

哲也に煽られる俺を、遠藤以外の周りの社員たちは心配そうに見つめていた。だが周りが手を貸そうとするのを、哲也は許さなかった。

「いいか、誰も手伝うなよ。これは長瀬が片付ける仕事だ」

哲也にそう言われ、密かに喜んでいたのは遠藤だった。

「やっぱりな。俺は最初からこうなると思ってたんだよ。なあ、本社の仕事のようは地方とは違うだろう」

遠藤はニヤニヤしながら、隣の席にいる俺の顔を横目で確認した。おそらく俺が悔しがっているとでも思ったのだろう。だが俺は、遠藤の想像に反して深く頷いた。

「いや、遠藤君の言う通りだよ。忙しくてびっくりした」

全く苦痛を感じていないことが癪に触ったようで、遠藤は苛立ちながら席を立った。

「あんたみたいな奴を今更本社に戻すなんて。上層部もバカだよな。じゃあ早く仕事が終わったから、俺は先に帰るから」

そう言い放つと、遠藤は哲也のデスクへ行って笑顔で資料を渡した。

「課長、終わりました」
「おお、遠藤。相変わらず今日も早いな」

哲也に褒められた遠藤は得意げな顔で、俺の方に視線を向けた。

「どっかの誰かさんたちと違って、俺はずっと本社で頑張ってきましたから」

「誰かさん」という言い方の中には、おそらく千砂子さんも含まれているのだろう。遠藤は29歳ということもあり、周りからは次期主任の最有力と噂されている。本人も自覚しているようで、日頃から俺以外の社員たちにも高圧的な態度を取っているらしい。

それから他の社員たちも次々と帰っていき、気づけば室内には俺と千砂子さんだけになっていた。

「千砂子さん、大丈夫ですか? 俺も終わったんで手伝いますよ」
「うん。私ももう終わるから大丈夫」

俺は席を立つと自動販売機でコーヒーを買って、千砂子さんに手渡した。

「お疲れ様です。これどうぞ」
「ありがとう。疲れた。やっと終わったわ」

ふと千砂子さんのデスクに視線を落とすと、そこには膨大な量の仕事が山積みになっていた。

「千砂子さん、これ任されてる仕事が多すぎませんか?」
「そう。あ、そうかもしれないわね。でも仕方ないわ。本社に来たばっかだし、覚えないといけないことがたくさんあるから」
「そうだとしても、この量はさすがに。俺、明日サカイ課長に、他の社員たちにも割り当てないか聞きますよ」

俺が心配してそう言うと、千砂子さんはピシャリと断った。

「いいの。これは私がやるべき仕事だから。それに長瀬さんだって一緒でしょ? 知ってるのよ。たくさん仕事抱えてるの」
「俺は別に、千砂子さんの負担が少なくなるなら、どんなに遅くなったっていいんですよ」
「……何かおかしなことを言いました?」
「うん。ただ、変わってないなって」
「え? 何がですか?」
「秘密。帰りましょう」

千砂子さんはコーヒーを飲み終えると、鞄を持って立ち上がった。

会社からの帰り道、俺は千砂子さんが会社に来た理由を尋ねた。

「そういえば、千砂子さんは以前はどんな仕事をしてたんですか? 45歳で転職するって、勇気がいりますよね。すごいなと思って」
「そうね。確かに一歩踏み出すのには勇気がいったわ。でも、家庭の事情もあって、そうせざるを得なかったの」
「そうだったんですか」
「あとは、ある人との出会いもあるわ。その人がいるから、ここで頑張ろうって思ったの」

やはり千砂子さんの好きな人は、うちの会社にいる。顔も知らない彼女の思い人に、俺は勝手に嫉妬した。

アパートの前に到着し、部屋に入ろうと鍵を探していると、千砂子さんが俺に声をかけた。

「いよいよ明日ね。お見合い」
「ああ、はい。どう緊張してる?」
「そりゃしますよ。それとは別に、申し訳ない気持ちも」
「どうして?」
「だって、相手の女性は俺みたいな奴を想像してないと思いますよ。なんていうか、もっとこう、締まった感じの」
「なんだ、そんなこと気にしてたの?」
「そんなことって……」

俺が眉をひそめると、千砂子さんはまっすぐ俺を見つめた。

「いいのよ。長瀬さんは、そのままで素敵だから」

その瞬間、俺の中で抑えきれない熱い思いが再び込み上げてきた。千砂子さんの一点の曇りもない澄んだ瞳が、俺の心を掴んで離さない。きっと俺は、これから先もずっと千砂子さんを好きでいるだろう。そう確信した。だが、この思いが届くことはない。彼女には他に好きな人がいて、俺は明日見合いをする。

「ありがとうございます」

顔を真っ赤にして礼を言うと、千砂子さんは微笑んだ。

「じゃあ明日ね。おやすみなさい」
「おやすみなさい」

千砂子さんを呼び止めようとしたが、遅かった。明日会社は休みだから、俺が彼女に会うことはない。それなのに、どうして「明日ね」と言ったのだろう。もしかしたら間違えただけなのかもしれないと思ったが、俺はそれが間違いではなかったと知ることになる。

「どうしてここに千砂子さんがいるんですか?」

翌日、見合いが行われるレストランの個室の扉を開けると、そこにはドレスアップしたいつもよりさらに綺麗な千砂子さんがいた。

「まさか…お見合い相手って?」
「そう。まさか。驚いた?」
「驚いたなんてもんじゃないですよ。だって」
「まあまあ、時間はたっぷりあるから、まずはせっかくのコース料理を楽しみましょう」

俺は口をぽかんと開けながら、千砂子さんに促されて席についた。

「今まで内緒にしててごめんなさい。でも、こうするしかなかったの。もし相手が私だと分かったら、断られちゃうんじゃないかと思って」
「そんな、断りませんよ。俺は千砂子さんが相手でよかったと思って」
「え、どうしよう。そんな風に言ってもらえたら、すごく嬉しい」

何とも言えない甘い空気が部屋を包み込み、互いに恥ずかしくなって俯いた。

「でも、どうしてお見合いなんて? 家庭の事情って」
「うん。実はね、去年あたりから父が体調を崩して、それで私に早く身を固めてほしいっていうのよ。本社に来た理由も同じ」

今年68歳になる父親のために、千砂子さんは見合いをする決意を固めたのだと話してくれた。

「父はね、未亡人になった私がいつまでも一人でいることが心配みたい。中学生の時に母が亡くなってから、父は男手一つで必死に私を育ててくれたの」
「なるほど。お父さんのためにですか? でもいいんですか? 千砂子さん、他に好きな人がいるって」
「うん。いいの。それは、もう……」

千砂子さんはそこまで言って口をつぐんだ。父親を安心させたくて見合いをするのは分かる。その相手が俺だということも嬉しかった。だが同時に、素直に喜べない自分がいる。それは、千砂子さんに好きな人がいると知っていたからだ。彼女はいいと言っていたが、自分の思いを諦めるのは辛いに違いない。

俺は食事の間、複雑な気持ちを抱えていた。二人で静かにコース料理に手を伸ばす。何か話しかけなければと思ったが、頭の中は千砂子さんの好きな人のことでいっぱいで、会話を楽しむ余裕がなかった。結局俺たちは、一言も話さないまま食事を終えた。

デザートも食べ終わり、食後のコーヒーが運ばれてくる。すると、それまで黙っていた千砂子さんがようやく口を開いた。

「長瀬さん」
「はい」
「私としてみない?」

千砂子さんの上目遣いのせいで、俺の心臓が激しい音を立てる。

「つ、付き合ってみないって、何を?」
「何って? 結婚に決まってるでしょ」

千砂子さんは恥ずかしそうに呟いた。本来なら嬉しくてすぐにでも飛びつきたかった。だが俺は、千砂子さんに思いを寄せているからこそ、ある決断をした。

「すみません。お断りさせてください」
「え?」
「相手が千砂子さんで嬉しかったというのは本当です。でも、俺はあなたにはふさわしくはありません」

ゆっくりと席を立つと、俺は両手をギュッと握り締めた。

「千砂子さん、お幸せに」

一礼して先に店を出た途端、涙が頬を伝った。これが正解だったのかは分からない。だが、千砂子さんには俺と結婚したことで後悔をしてほしくなかった。好きな人には幸せになってもらいたい。それが俺の心からの願いだった。

こうして俺は、翌日以降千砂子さんを避けるようになる。見合いを断った気まずさもあったが、二人きりにならない一番の理由は、こうでもしないと千砂子さんへの気持ちを諦めきれそうにもなかったからだ。

それでも千砂子さんは何度も俺に話しかけようと試みている。その様子にいち早く気づいたのが、遠藤だった。

「なあ、原田さん、あいつのこと好きなの?」

見合いから1週間が過ぎた頃、朝出勤してきた遠藤が俺を指さしながら千砂子さんに話しかけた。千砂子さんはしばらく笑って交わしていたが、あまりにしつこく遠藤が尋ねるので、とうとう口を開いた。

「そうよ。私は長瀬さんが好きなの。これで満足かしら?」

それを聞いた遠藤は大げさに驚いた。

「本気かよ。あんなおっさんのどこがいいわけ?」

周りの社員たちの視線が俺に集中し、俺は耳まで真っ赤になった。どうして俺が好きだと嘘をつくのかと千砂子さんの方を見たが、とても嘘を言っているようには見えない。もしかして、本当に俺のことを。

「まあ、一つ言えることは、そんな言い方しかできない遠藤君より、長瀬さんの方が何倍も素敵かしらね」

それを聞いて、周りの社員たちがクスクスと笑い出す。遠藤はプライドを傷つけられた悔しさで、怒りを滲ませた。その後すぐに就業時刻となったので、二人の会話もそこで終わった。だが遠藤の怒りは全く収まる気配がない。そして事件は、その日の午後に起こった。

「課長、大変です。ニューヨーク支社から電話が」

昼休みが終わる少し前、休憩を終えて戻ると若い女性社員が真っ青な顔で電話を握りしめていた。

「あの、こちらが入力した数字が間違っていて、大変なことになってるらしいんです。それで、すごい剣幕で怒ってるんですけど……すみません、早口で聞き取れなくて」

女性社員は涙目で何度も頭を下げた。手に持つ受話器が小刻みに震えていて、ただならぬ状況であることが伺える。

「入力が間違ってる? メールを送ったのは誰だ?」

哲也は周りを見渡したが、誰も名乗り出る者がいない。すると、遠藤が静かに千砂子さんを指さした。

「原田さんが休憩前に、誰かにメールを送信しているところを見ました」

すぐにメールの送信履歴を確認すると、確かにメールは千砂子さんの名で送られていた。

「え、私ですか?」

驚く千砂子さんを見て、遠藤は突き刺すような視線を向けて言い放った。

「白ばっくれんなよ。千砂子ハラダって名前、あんた以外に誰がいるんだよ」

室内が静まり返り、電話の保留音だけがわずかに聞こえた。千砂子さんが戸惑っていると、遠藤はさらに彼女を攻め立てた。

「電話がかかってきてるんだぞ。早く謝れよ。それとも、うちの会社にいて英語も喋れないのか」
「まあまあ、遠藤。落ち着け」

千砂子さんを馬鹿にする遠藤をなだめようと、哲也が慌てて止めに入る。

「遠藤、お前確か英語には自信があるって言ってたよな。原田さんの代わりにもう一度、詳しい話を聞いてくれないか?」

哲也にそう言われた瞬間、遠藤の動きがぴたりと止まった。

「え、俺ですか?」
「ああ、お前だけが頼りなんだよ。力を貸してほしい」
「いや、俺は」
「どうした? 英語得意なんだろう? ほら」

哲也は遠藤を電話の前に連れて行った。遠藤の額には、滝のように大量の汗が滲んでいた。

「あ、ハロー。イエス……」

随分と緊張しているのか、片言で話す遠藤の声は時々裏返っていた。

「あ、オー、プリーズ……」

遠藤は今にも泣き出しそうな表情で受話器を固く握りしめている。それを見た哲也はため息をついて、俺に耳打ちした。

「悪い、徹。変わってやってくれないか?」
「分かった。おい、遠藤君」

俺は涙目の遠藤の肩をポンと叩き、電話を代わってくれないかとジェスチャーした。受話器を受け取ると、聞き覚えのある懐かしい声に思わず笑顔になる。時折り冗談を交えながら英語で対応する俺の様子を見て、周りの社員たちが驚いていたのは言うまでもない。なぜなら、電話の相手はちっとも怒っていなかったからだ。

電話をかけてきたニューヨーク支社の社員は、入力ミスの数字のあまりの大きさに驚いて慌てていただけだった。その電話を取った若い社員が、突然すごい速さの英語で話しかけられたことで、怒っていると勘違いしてしまったらしい。

受話器を静かに置いた後、俺は今までの話の内容を哲也に報告した。

「なるほど。とにかく大事に至らなくてよかったよ。本当に電話してきてくれたのがマイクで助かった。千砂子さんがそんなミスするわけないって」
「あんなに早口で喋るマイクは初めてだったな」

俺と哲也が笑いながら話していると、居心地悪そうな遠藤がぽつりと呟いた。

「……なあ、あんた、何者だよ」

困惑する遠藤と社員たちに、哲也は改めて俺たちのことを紹介し始めた。

「長瀬は7年間、ニューヨーク支社で働いていたんだ。今回本社に戻ってきたのは、来年から部長として働いてもらうためだ。それから、原田さんは……」

哲也の話を聞いた社員たちは、あまりの衝撃に言葉を失っていた。遠藤に至っては、ショックで膝から崩れ落ちる始末。

「驚くのは当然だろう。俺だって上層部から話を聞いた時は、大きな衝撃を受けたんだから」

実は千砂子さんの正体は、社長令嬢だった。それも、他でもない若葉グループの。彼女は元々ニューヨーク支社で働いていた。7年前にちょうど俺と入れ違いでニューヨーク支社を離れた後、日本で新しく立ち上げた会社の経営を任されていたらしい。ところが去年、社長が体調を崩したことを理由に経営を離れることが発表された。それがきっかけとなり、千砂子さんは後継者を部下に任せて、父の代わりに社長を務める決意を固めたという。

俺は昼休みに千砂子さんと哲也と一緒に上層部に呼ばれたことで、初めてその事実を知った。ニューヨーク支社にメールを送ったのが千砂子さんではないと早くから気づいていたのは、俺たち3人が昼休みを通してずっと一緒にいたからだ。

「それにしても、誰が何の目的であんなメールを送ったんだ?」
「なあ、遠藤」

哲也が大声で話しかけたので、遠藤は蛇に睨まれたカエルのように体を強張らせていた。

「2人が本社に来てから、随分色々と言ってたよな。仕事が遅いとか、中年とか。俺が何も知らないとでも思ったか?」
「あ、いや、俺はあの」
「ちょうどいいから教えてやろう。遠藤、なぜお前の仕事だけが早く終わるのか。それはな、お前には最低限の仕事しか与えていないからだ。要領が悪いくせに、プライドばっかり高いからな。いいか? 2人はお前とは比べ物にならない量の仕事をこなしてるんだよ」

哲也に真実を伝えられた遠藤は、完全に正気を失っているようだった。今まで誰よりも仕事ができると思っていたからこそ、事実を知った時のショックは測り知れない。

「つまり、お前が馬鹿にしていた相手は、次期社長と部長だった。それだけのことだ」

哲也は笑いながら、遠藤の肩をポンポンと叩いた。

「さあ、どうする遠藤? このまま『メールを送信したのは俺だった』と素直に謝るか? それとも……」

社員たちの視線が一斉に遠藤に集中した。遠藤は頭を抱えたまま、黙ってうなだれた。

それから2週間後、最後までプライドを捨てきれなかった遠藤は、会社を辞めた。このまま残ったところで周りの足を引っ張るだけだと、自分で気づいたのかもしれない。辞めるまでの2週間は、人が変わったかのようにおとなしかった。

こうして事件は早々に解決し、いつも通り仕事は進んだ。その日の仕事が終わって家に帰ると、俺は急いで千砂子さんの部屋を訪ねた。

「あの、千砂子さん。見合いが終わってからずっと避け続けて、すみませんでした」

俺が頭を下げると、千砂子さんが大きく頷いた。

「本当よ。避けられて、すっごく傷ついたんだから」
「す、すみません」
「冗談よ。確かに悲しかったけど、こうして仲直りできたからよし」

千砂子さんの明るい笑顔が、そっと俺を包み込んだ。

「ねえ、上がってくれる? 話したいことがあるの」

千砂子さんは俺を部屋にあげると、7年前のニューヨークでの出来事を話し始めた。

「長瀬さんは覚えてないと思うけど、日本に帰国する前日に、私は長瀬さんに一度助けられてるの」

今から7年前、俺がまだニューヨークで働き出して間もない頃。俺は次の日に帰国する予定だった千砂子さんと出会っていたらしい。

「その日、私は珍しくバーでお酒を飲みすぎて酔っ払ってた。実はね、それ、長瀬さんが原因なの」
「え、俺?」
「それまでニューヨーク支社で毎日がむしゃらに働いていた私は、社長から長瀬さんとの交代を告げられて、密かに落ち込んでいたの」

今までずっと頑張ってきたのに、急に帰国しろと言われて。後から新会社の設立のためだったって知ったけど、その時はチームから外されたと思ってた。自分の代わりに俺が入ると知った千砂子さんは、一度も会ったことのない俺を恨んでいたそうだ。

「どんなに働いても、私が女だからダメなんだって、ずっと勘違いしてた。私、長瀬さんが働き始める前に会社を去って、帰国するまで一切会社には顔を出さなかったから。だから、酔いつぶれた私を助けてくれたのが長瀬さんだって知って、びっくりしたわ。後から名刺をもらって、初めて分かったんだけどね」

そう言って千砂子さんは、名刺入れの中から一枚の名刺を取り出した。日本語と英語で書かれたその名刺を見て、俺はその日のことを必死に辿った。

7年前、俺は確かにニューヨークで一人の酔いつぶれた女性を助けた。正直、顔はよく覚えていない。なぜなら、その女性の顔は大きなマスクで半分以上隠れていたからだ。

「あの時の女性が、千砂子さんだったんですか?」
「うん。酔いつぶれた顔を見られたくなくて、わざとずっとマスクをしてたの」

実はその日、俺も歓迎会を開いてもらってかなり酔っ払っていた。具合が悪くてすぐに家に帰りたいと思っていた時に、道で酔いつぶれた千砂子さんを見つけたのだ。

「自分だって辛そうなのに、一生懸命酔った私を介抱して、家まで送ってくれて。自分のことより人のために動くところ、今も変わってなくて嬉しかった」

千砂子さんはその時のことを思い出して、懐かしそうに目を輝かせた。無事に千砂子さんを自宅まで送り届けて帰ろうとする俺に、彼女はお礼をすると言って俺をなかなか帰そうとしなかった。その時に、笑顔で名刺を渡してくれたのだ。

「『何かあったら呼んでください』って。それでね、『辛いことや苦しいこともあるかもしれないけど、そんな時は俺を思い出してほしい。一緒に頑張ってる人がいると思うと励みになるから』って言ってくれたの」

おそらく、日本から離れた地で働く千砂子さんを励ましたかったのだろう。あの言葉は、千砂子さんにかけているようで、自分自身を励ますためにも投げかけていた。

「あの時、一緒に頑張ろうって言ってくれたおかげで、今の私がいるの。私、それからずっと長瀬さんのことが忘れられなくて」

千砂子さんは帰国してからも、ずっと俺を思い続けてくれたという。憎んでいたはずの相手だというのに、気づけばいつも心の中で励ましてくれた俺の存在を、彼女は7年間も大事にしてくれていた。

「だから、父から本社を継ぐように言われた時、真っ先に長瀬さんを呼び戻そうって決めたの。こういうのって、運命っていうのかしら」

恥ずかしそうに赤い顔で微笑む千砂子さんに、思わず胸がキュッと苦しくなる。7年間もずっと俺を思い続けてくれたことを知り、俺の中でますます彼女への思いは膨らんでいった。

「次期社長だということを隠して先に会社で働き始めて、しかも隣のアパートに住むなんて。ごめんなさい。ちょっとおかしいわよね」
「そんなことないです。俺、今まで誰かにこんなにも強く思われたことなんてないから。なんていうか、嬉しくて」
「私も、旦那を失ってからもう恋なんてしないと思ってた。でも、そんな時に長瀬さんと出会って、私の心は自然と優しいあなたに惹かれていったの」

再会を果たすと、昔と変わらない俺の人柄にますます好意を抱くようになったという。

「ありがとう、千砂子さん。ずっとあの時のお礼を言いたかった。私が今こうして頑張って生きていけるのも、あなたのおかげよ。私、長瀬さんのことが……」

俺はそれを聞き終わるよりも早く、千砂子さんを包み込んだ。

「千砂子さん、好きです。それから、ありがとう。ずっと俺のことを思っていてくれて」

体全体からドクンドクンと、心臓の大きな音がうるさいくらい聞こえてくる。

「これからは俺のそばにいてください。一生、千砂子さんを大切にします」
「長瀬さん、それって……」
「はい。告白というか、プロポーズです。見合いの返事が遅くなって、すみませんでした」

俺が笑顔で見つめると、千砂子さんの瞳から涙が溢れ出した。

「嬉しい。こうなることをずっと望んでた」
「随分待たせてしまいましたね」
「本当に。でも、たくさん愛してもらうからね」
「それはこっちの台詞よ。それとも、社長命令ですか?」
「うん。彼女命令かな」

そう言って千砂子さんは、飛び切りの笑顔を俺に見せてくれた。

俺たちが結婚したのは、それから半年後。交際期間が少し短いかもと思ったが、互いの年齢を考えれば妥当と言えるだろう。社員たちはすでに千砂子さんが俺を好きだと知っていたので、俺たちの交際も結婚もすんなり受け入れられた。

独身を卒業したことを一番喜んでくれたのは、もちろん同期の哲也。結婚式では俺たちを差し置いて号泣し、あっという間に「泣き虫課長」のあだ名がつけられた。

結婚式の後で、俺はふと見合いの日に気になっていたことを千砂子さんに打ち明けた。

「そういえば、見合いの時にさ。俺が『好きな人がいるのに、見合いをしていいんですか』って聞いたよね。そしたら千砂子さんが『うん。いいの。それはもう』って言ったんだよ。あれってさ、どういう意味?」
「あはは。それはね、『あなたとお見合いできて、願いが叶ったからもういいの』っていう意味よ」

思わず顔がほころぶと、千砂子さんが俺を見つめた。

「そんなことが気になっちゃうなんて、可愛いんだから」
「可愛いって何だよ。俺だって色々と不安なんだ。俺の方が年下だし、役職だって」
「もう、そんなの関係ない。何も気にしなくていいの。私はね、どんなトールさんのことも大好きなんだから」
「でも……」
「それ以上言うようなら、ずっとキスしちゃうわよ」
「ち、ちょっと」

俺が顔を真っ赤にすると、千砂子さんの笑顔から目いっぱいの幸せが溢れ出した。

これが俺たちの馴れ初めです。

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