「下受けは黙って元受けのことに従ってくださいよ」…

「下受けは黙って元受けのことに従ってくださいよ」...

下受けは黙って従ってください。

取引先の部長が、契約書を目の前で真っ二つに引き裂いた。紙の切れ端がテーブルの上に散らばる。俺は奥歯を強く噛みしめながら、その光景をただ見つめていた。この男は分かっていない。その行為が、自分の首を絞めることになると。

俺は長嶋、44歳。自動車エンジン用の精密バルブ部品を作る小さな工場を経営している。

従業員は4人。全員、俺が以前勤めていた自動車部品メーカーでの同僚だ。10年前に独立する時、一緒にやろうと声をかけたら、全員がすぐに「分かった」と言ってくれた。その言葉の重さを、俺は今も忘れたことがない。彼らにはそれぞれ家族がいる。この工場を自分の仕事場として選んでくれた人間たちだ。

独立した理由は、自分で開発した加工技術を、自分の手で製品にしたかったからだ。俺は独立と同時にある特許を取得した。燃焼効率を高めるための独自の加工工程。金属の密度と熱処理のタイミングを複合的に組み合わせた製法だ。この工程こそが特許の中核であり、部品の耐久寿命を従来品と比べ1.5倍以上に高めることができる。

開発には3年かかった。会社の設備を使えば権利は会社のものになる。だから俺は高外に小さな作業場を借り、自前の旋盤を持ち込んで、夜中に一人で試行錯誤を重ねた。休日もほとんど実験に費やし、給料は全て機材と材料費に消えた。そうして完成した技術は、誰にも真似できないものになったという自負がある。

この加工技術で作るバルブ部品は、今や納入先の大手自動車部品メーカーの製造ラインにとって、欠かせない存在になっている。同じ形状の部品でも、うちの工程を使わなければ同じ品質には仕上がらない。

3年前、それがまざまざと証明された。別の下受け業者が、うちの部品と同じ形状の模造品を大手メーカーに入れようと画策した。見た目の差はほぼなく、価格は3割安かった。しかし耐久試験で規格外の数値が続出し、大規模なリコールに発展した。原因は加工精度の差だった。その一件で、俺の特許技術の信頼性はさらに高まった。

下請けを始めて7年。毎月決まった量を納め、決まった金額が口座に振り込まれる。そのリズムを、俺は当たり前のものとして受け取っていた。だから今月も何も疑わずに、通帳を開いた。

画面に表示された金額を見て、俺は思わず目を細めた。契約金額より、50万円少ない。

翌月も同じだった。俺は静かに唇を結んだ。また50万円足りない。

最初の月は黙って待った。7年間、一度も支払いが乱れたことのない相手だ。銀行側の処理かもしれない。騒いで角を立てるのは、証拠が揃ってからでいい。そう自分に言い聞かせて、一ヶ月をやり過ごした。だが2ヶ月続けば、偶然とは言えない。

俺は元受けメーカー担当の東山に電話を入れた。東山はここ数年、俺の工場との取引を担当している男だ。納品日や数量は把握していても、支払い額の詳細は分からないだろう。問い合わせたところで満足な答えは返ってこない。そう踏んだ俺は、調達部の宇野部長と直接話したいと言った。

東山は少し迷った様子で、「宇部長ですね。あの方は…」と言葉を濁し、「分かりました。段取りしてみます」と答えた。その口ぶりに、俺は嫌な予感がした。

2日後、面会の日程が取れた。当日の朝、俺は特許契約書を確認し、振り込み履歴のデータを印刷してファイルに挟んだ。言うべきことは一つだ。契約通りに払ってくれ。それだけでいい。

宇野とは取引開始後、一度だけ顔を合わせたことがある。その時も、睨むような目でこちらを一瞥し、「下請けにはコストで貢献してもらわないと」と言った男だ。あの時の目を思い出し、俺は念のため録音アプリを起動した。スマートフォンを録音状態のまま胸ポケットに入れる。

応接室に通され、宇野の向かいに腰を下ろす。俺から口を開いた。

「2ヶ月連続で、契約時に決まった金額と振り込み金額が一致していません。契約通りの支払いを求めます」

宇野はテーブルに肘を乗せ、口の端を緩めると、にんまりと不敵な笑みを浮かべた。

「長嶋さん、そうは言いますが、うちも今期はコスト削減が厳しくてね。削減目標達成のため、下受けへの支払いを調整させていただいているんですよ」

宇野は「下受け」と「調整」という言葉を強調するように言った。俺は前を睨む。支払い額を間違えたのではなく、意図的に減らしたことを自ら認めている。しかも、下請けを見下すような涼しい顔で。

「それは契約違反です」

俺はそう言って、鞄から書類を取り出しテーブルに並べた。振り込み履歴と契約書を示した。

「正式に定めた金額を支払ってください」

宇野はその書類に目をやり、それから俺の顔を見て言った。

「長嶋さん、正直に言いますよ。今後も支払い単価は下げさせてもらいます。うちの発注量を考えれば、もっとコストに協力してもらわないと困るんだよ」

「協力は出来かねます。契約で決めた金額は、我が社の持つ技術に対する正当な対価と考えています」

「はあ。そこまで言うなら、仕方がないですね」

宇野はゆっくりと契約書を手に取った。半分に折り、さらに折り重ねると、音を立てて引き裂いた。紙切れがテーブルに広がり落ちる。

腹の底から怒りが込み上げてくる。3年間、借りた作業場で一人深夜に旋盤を回し続けた日々。一緒にやろうと頷いてくれた4人の顔が浮かぶ。その全部が、今、紙切れとしてテーブルに散らばっている。奥歯が軋むほど噛みしめた。

宇野は破れた紙切れを見下ろしてから、口を開いた。

「下受けは黙って元受けのことに従ってくださいよ。駄目でも意味、分かるだろう。嫌なら、よそに発注するだけですよ。長嶋さん」

俺は宇野から目をそらさない。冷淡な色を帯びたその目を、睨むように見据える。次の瞬間、冷静な考えが頭をよぎった。

うちの特許部品がなければ作れないのに、よそに発注しても無駄だということが、この男には分からないのだ。

俺は静かに立ち上がり、散らばった紙切れを一枚ずつ拾い集めた。宇野が不審そうな顔を向ける。

「何してるんですか?」

「ゴミを残すのは趣味に合わないので」

それだけ答えて、俺は部屋を出た。廊下を歩きながら、ポケットの中のスマートフォンを確認する。録音アプリのランプは、まだ点灯している。

車に乗り、俺はまず顧問弁護士の小坂へ電話を入れた。

「至急相談したいことがあります。今から伺っても構いませんか?」

小坂の確認が取れると、急いで工場に戻った。事務室に入り、まず封筒を取り出す。破られた契約書をテープで繋ぎ合わせる。スマートフォンの録音データを確認する。宇野が支払い金額を調整していると自ら認め、契約金額の引き下げを通告し、目の前で契約書を引き裂いた。その全てが、鮮明に記録されている。

続いて金庫を開け、特許証と3年前のリコール関連の書類を取り出した。封筒に収めた紙片と録音データを合わせて鞄に入れた。

小坂の事務所に向かった。小坂とは特許を取得した時からの付き合いで、特許法に精通した信用できる弁護士だ。事務所に着くと、俺は宇野との一連のやり取りを説明した後、録音データを再生し、紙片の入った封筒と書類を机に広げた。

小坂はしばらく無言で聞いていた。再生が止まると、大きく息を吸ってから話し始めた。

「これは明確な下請法違反です。部長自身が不当に支払いを減額していることを認めている。破棄された契約書もある。証拠として申し分ありません」

それを聞いた瞬間、俺の中で何かが定まった。怒りではなく、確信だ。どれだけ言葉で脅されようと、この手の中に記録が残っている限り、俺には脅しを跳ね返すだけの選択肢がある。

「小坂さん、もう一つ見て欲しいものがあります」

俺は特許証とリコールの書類を前に出した。

「宇野はよそに発注すると言いました。だが、うちの特許は加工の工程そのものにかかっています。他社が同じ工程を使えば特許侵害、使わなければ3年前のリコールが再現される」

書類に目を通しながら、小坂は静かに頷いた。

「つまり、向こうには打つ手がないということですね。特許侵害の警告も同時に打てます」

「下請法違反の通知を、先方に送っていただけますか?」

「分かりました。すぐに通知文書を作成して、先方のホームにファックスします。ファックスでも法的効力はありますから。特許の警告は、向こうが動いてから動きましょう。必ず何らかの反応を示してくるはずです」

「明日から、部品の納入も停止します」

小坂は即座に頷いた。

「支払い義務の不履行がある以上、納品停止は法的に正当な対抗手段です。問題ありません」

そこまで決めて、俺は小坂の事務所を後にした。工場に戻ると、作業場にはまだ明かりがついていた。従業員の一人が工具の点検をしている。

「明日から出荷を止める。しばらくかかるかもしれないが、工場は動かし続ける」

彼は手を止め、俺を見た。一瞬の間の後、「はい」と静かに答えた。10年前の「分かった」と同じ重さがあった。

翌朝、俺はいつも通りに工場の扉を開けた。機械の電源を順番に入れ、点検表に数字を書き込む。作業場に入ってきた従業員たちが、いつも通り工具の並びを確かめている。ここにいる4人の仕事は、今日も変わらない。この工場を守り切るまで、俺は動き続けるしかない。

昨日と変わらない朝だった。違うのは、元受けへの部品出荷がこの日から正式に止まっていることだけだ。

前日の夕方、小坂が下請法違反の通知書を元受けのホーム宛てにファックスで送付している。ホームは内容を把握し、動き始めているはずだ。

午前10時を過ぎた頃、東山から着信が入った。普段は要件だけを端的に伝えてくるだけだが、今日の東山の声は明らかに違う。

「長嶋さん、今お時間よろしいですか? 法務部から昨日の面談について、取り継ぎ役の私も事情を聞かれまして。通知書が届いたことも聞かされました。この部長の対応は、私も納得できるものではありません」

俺は何も言わず、東山の話に耳を傾けた。

「今朝、弊社の法務部が大変な状況になっています。宇部長が法務部に呼ばれて、それから会議室から出てこない状態です。廊下で顔を見た社員によると、宇部長の顔は青ざめていて、汗が滝のように流れていたそうです」

東山の口ぶりは、上司の不始末を詫びるような申し訳なさが滲んでいる。

「部品の件でも、今日の出荷分が届いていないようで…」

「当然です。違反行為をする会社に、納入する部品などありませんから」

「そうですね…」

東山は少し間を置いてから続けた。

「長嶋さん、申し訳ありません。私が取り次いだばかりに、あんなことになってしまって」

「弊社の問題です。東山さんのせいではありませんよ」

「はい。ですが、このまま部品の納入がないと、製造ラインの予定に影響が出ます。私も調達部の者として動かなければならない立場でして。実を言うと、宇部長は今期の削減目標を自分で掲げていたものですから、もう引けない状況だったのかもしれません」

「どんな事情があろうと、契約書を引き裂いた事実は消えない。コスト削減目標については、御社の事情です。今、私が関知する問題ではありません」

俺はそれだけ返して、電話を切った。東山には同情する部分もある。しかし、通知書が届いた時点で、この件は個人の力関係から切り離された。法務部が経緯を確認すれば、宇野が会社の承認を得ずに不当に契約金額を引き下げ、取引先を一方的に切ったという事実が明らかになる。

部品が届かなければ、製造ラインの予定が狂う。急いで代替発注したとしても、うちの加工工程を経ない部品が品質検査を通ることはない。3年前の実績がそれを証明している。

つまり、宇野にはあの応接室で契約書を引き裂いた時から、打つ手などないということだ。本人だけが、それに気づいていなかっただけだ。

夕方になり、小坂から連絡が入る。

「元受けのホームから、正式な問い合わせが届きました。窓口はこちらで引き受けます」

工場内では機械がいつも通り稼働していて、金属を削る音だけが部屋に満ちている。宇野がどれだけ焦ろうと、ここの時間は変わらない。その夜も次の朝も、俺は変わらず工場に立った。筋道を立てて動いた以上、後は相手が動くのを待つだけだ。

電話が鳴る。俺は画面を確認した。来るべき連絡はまだ来なかった。だが、焦りはない。機械は今日も変わらず回り続け、金属を削る音だけが作業場に満ちていた。その音を聞きながら、俺は次の動きを待った。

小坂から連絡が来たのは、通知状を送ってから5日後のことだ。

「元受けの法務部と役員が、話をしたいと言ってきました。明後日、先方の本社で面談になります」

「では、私も同席させていただきます」

2日後、俺と小坂は元受けの本社へ向かった。通された応接室には、法務部の責任者と調達部門を預かる取締役が座っている。そして、宇野も同席していた。

この日の宇野は、初めて会った時も、あの応接室での時も、別人のように見えた。スーツに乱れはないが、視線が定まらず、額に汗が滲んでいる。

法務部の責任者が口を開いた。

「先日、小坂弁護士から下請法違反の通知を受け、社内で事実確認を行いました。手続き上、いくつか確認させていただきたい点がございます」

「確認の前に、こちらから提示したいものがあります」

小坂が静かに言った。

「録音データの再生をお許しください」

ホームの責任者が頷く。宇野の視線がテーブルへ落ちた。俺はスマートフォンを取り出し、テーブルの中央に置いた。

あの応接室で何が起きたか。俺が積み上げてきた10年と、それを一言で切り捨てた男が、同じ部屋にいる。あの廊下を歩きながらランプが点灯しているのを確認した時から、この場面のために動いてきた。正しい手順を踏んだ。証拠は全て揃っている。どれだけ言葉で脅されようと、この機械の中にあの日の全てが残っている。

俺はここにいる全員に聞かせるだけだ。再生ボタンを押した。

スピーカーから宇野の声が流れた瞬間、室内の空気が一変した。法務部の責任者がメモを取る手を止め、取締役は腕を組んだまま目を細めて聞いている。

「支払いを一部調整させていただいています。今後も単価は下げさせてもらいます」

俺は視界の端で、宇野の様子を観察していた。再生が始まった直後から体が固まり、顔の血の気が引いていくのが分かった。指先がかすかに震えている。そして、紙の破れる音が鳴った。ホームの責任者がペンを机に置き、取締役が机の上で指を強く組んだ。言葉はなかった。ただ、室内の温度が数度下がったような静寂だった。

「下受けは黙って元受けのことに従ってくださいよ。駄目でも意味、分かるだろう。嫌なら、よそに発注するだけですよ」

その言葉が流れた瞬間、宇野の手がスマートフォンに向かって一度だけ動いた。しかし、何もできない。自分の声がこの部屋で晒されている。

再生が終わった。誰も口を開こうとしない。取締役は机の上で指を組み、目を閉じた。宇野もしばらく顔を上げなかった。額の汗がスーツの襟元まで伝っている。

取締役が口を開いた。

「宇野が我々役員の承認なしに対応したことは明らかです。大変申し訳ありませんでした」

役員が俺に向かって、深く頭を下げた。

「減額分については全額、追ってお振り込みします。また今後の取引については、契約書に基づいた金額のお支払いを約束します」

小坂が静かに頷く。俺は宇野の方を見た。顔を上げた宇野と目が合う。絶望に打ちひしがれた者の目だった。何もかける言葉などない。ただ、これが自らの保身のために下請けを見下した者の末路なのだ。俺はその目をじっと見据えてから、応接室を後にした。

翌日、通帳を確認すると、減額分の全額がまとめて振り込まれていた。

数日後、東山から宇野の処分について報告があった。今回の一件が役員会に諮られ、部長職からの降格と減俸が言い渡されたという。

元受けメーカーとは、再度特許使用と部品調達の契約を結び直し、取引は再開された。

俺は黙々と作業に取り組む従業員たちに目を向ける。その姿はいつもと変わらない。しかし、その変わらないことが、従業員たちを守り、この工場を守ったという何よりの証拠だ。

「一緒にやろう」と声をかけた時、全員がすぐに「分かった」と言ってくれた。その重さを、俺はずっと忘れたことがない。

この工場を守れたことが、あの言葉への俺なりの答えだと、俺は思うのだった。

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