夜勤の合間、松原博典は防災センターの古びた椅子に座り、モニターの青白い光を見つめていた。左手には、コンビニのレジ袋。そこには、値引きシールが貼られたおにぎりが一つだけ入っている。65歳の警備員にとって、それはここ数週間の夕食だった。昼は水だけで過ごす。給料日に入った14万2000円の手取りのうち、12万円を母の入院費に回せば、残りは家賃とわずかな食費で消える。それでも、松原は計算するのをやめなかった。数字を頭の中で並べている間だけ、感情が静かになることを、彼は長年の習慣として知っていた。
その日も、計算は朝まで続いた。妻の愚痴を一方的にこぼして眠る同僚、塚本大治のいびきを聞きながら、松原は2024年11月のある夜をやり過ごした。母の千代が脳卒中で倒れたという電話を受けてから、すべてが変わった。口座残高はゼロ。15年前に弟・俊助の事業の保証人になった債務が、遅延損害金とともに、法的に差し押さえられていたのだ。800万円の貯金は消えた。
青森まで始発の新幹線に乗り、病院に駆けつけた。医師の説明は淡々としていた。脳幹部近くの出血。左半身の麻痺と言語機能の障害が残る。長期の療養が必要になるだろう、と。ソーシャルワーカーの試算では、月15万円から、施設によっては20万円以上かかるという。松原はメモを取りながら聞いた。予想の範囲内だった。現実を受け止めるために、彼はただ数字を確認していた。
病院の廊下で、松原は俊助に電話をかけた。6回目のコールでつながった。背景にはバーのような低い音楽が流れている。昼前なのに、弟はそんな場所にいるらしかった。
「母が倒れた。入院している。長期になる。費用がかかる。それに、俺の口座が差し押さえられた。お前が起こした件で、金が全部消えた」
電話の向こうで、一瞬の沈黙があった。それから、俊助は言った。
「俺は自己破産の手続きで、法的な責任はもうない。それに、うちも余裕ないから」
通話は切れた。松原は壁に背をつけたまま、天井の蛍光灯を一度だけ見上げた。怒りはすぐに形にならなかった。ただ、長い年月をかけて積み重なったものが、また一段と重くなったという感覚だけがあった。
翌日から、松原は夜勤に加えて日中の補助業務も請け負った。1日16時間働いても、手取りは月20万円を超えない。母の入院費と自分の生活費を差し引けば、毎月赤字だった。食費を削った。昼は水だけ。夜はコンビニで半額になったおにぎりを一つ。それでも足りない日は、休憩室に置いてある他の警備員の食べかけのおにぎりを、一言断ってから口にした。惨めだとは思わなかった。ただ腹が満たされればいい、という感覚だけがあった。
そんなある夜、塚本が珍しく真剣な顔で話しかけてきた。「お前の親父さんが残した土地、長野の方にあるやつ、まだ持ってるか」
父が亡くなって12年になる。相続した長野県の山間部にある300坪ほどの土地は、農業にも宅地にも使えないただの原っぱで、固定資産税だけが毎年かかっていた。「売れない土地」だと松原は思っていた。だが、塚本は続けた。義理の弟が不動産関係の仕事をしていて、長野の山の方で土地を探している相手がいる。場所によっては200万円なら話がつくかもしれない、と。
松原は一瞬ためらった。200万円。母の入院費の10か月分。弁護士を立てる費用も、時間も、今の自分にはない。契約書に署名した。支払いは現金書留で翌日届いた。松原はすぐに病院へ振り込んだ。これで少なくとも、数か月は何とかなる。そう思った。
3日後、松原は地下通路のゴミを拾っていた。業者の回収が漏れたらしく、書類が数枚散らばっていた。そのうちの一枚を拾った瞬間、手が止まった。エイオンの紙に、3つ折りにされた契約書の写しがあった。売主は自分の名前。買主は塚本大治。そして、その下に、転売先として別の会社名が記されていた。太陽光発電の関連会社。金額の欄には、2500万円。締結日は、松原が署名した翌日だった。塚本は、最初から土地を2500万円で売る算段だった。松原の事情を、ただの商売のネタとして利用したのだ。
松原は紙を三つ折りにしてポケットにしまい、巡回を続けた。モニターに異常は映らない。隣で塚本がいびきをかいている。松原は朝まで、その紙を触ることもなく、ただ数字を頭の中で反芻していた。
次の夜勤の合間、松原は塚本を地下の駐車場に呼び出した。薄暗い蛍光灯の下で、転売契約書の写しを差し出した。塚本の顔が、一瞬だけ「見つかった」という表情に変わった。しかし、すぐにそれは苦笑いに切り替わった。
「なんだ、見つけたのか。こういう話はどこにでもある。情報を持っている人間が得をする。それだけのことだ。お前が知らなかっただけで、俺が悪いわけじゃない。契約は正当にやった。200万は払った。合法だろ」
松原の中で、何かが張り詰めていた。塚本の体は自分より一回り小さい。この距離なら一秒もかからない。しかし、頭の中を計算が走った。暴力を振るえば解雇される。次の給料が消える。母の入院費が払えなくなる。松原はゆっくり腕を下ろした。紙を折り直し、ポケットにしまった。何も言わずに背を向けた。背後で塚本が何か言った気がしたが、聞こえなかった。エレベーターに乗り込み、防災センターで記録簿を開いた。ペンを持つ手が少し震えていた。それが収まるまで、彼は机にかじりついていた。
あれから1週間が過ぎた。松原の生活は見た目には何も変わらなかった。塚本とは業務上の言葉以外、交わさなくなった。ある夜、巡回中におもちゃ屋の作業室から明かりが漏れているのに気づいた。店主の織田桐かずやが、段ボール箱を整理していた。話を聞くと、「経営が厳しい」と絞り出すように言った。「来月の更新で、店を閉めるかどうか判断しなければならない。夜中しか時間が取れなくて」
松原は黙って聞いていた。「レンはどうするんだ」と、自分でもなぜその名前を出したのかわからないまま、尋ねた。織田桐の表情がわずかに緩み、「今夜は知り合いに預けている。あの子、松原さんのこと覚えてますよ。車の話をよくします」と言った。松原は何も言わず、「手伝おうか」と言った。1時間ほどの間、2人で黙々と段ボールを積み上げた。作業が一段落した時、織田桐が、知り合いの運送会社で現場責任者を探しているらしいと教えてくれた。「松原さんみたいな人が向いてると思う。興味があれば、話をつないでもいいけど」
松原はすぐには返事をしなかった。「今より給与は上がるのか」「正社員で、月20万以上は出るはずだと言っていた」と聞いて、その数字を頭の中で計算した。月20万あれば、母の費用と生活費をまかなえる。「話を聞かせてもらえるなら」と松原は言った。
だが、その翌朝、施設全体に緊急招集がかかった。運営会社が外資系のファンドに買収され、施設は3日後に閉鎖されるという。全員解雇。松原も、契約社員として、何の保証もなかった。織田桐に連絡を取ったが、彼も3日後に店を撤去することになり、運送会社の知り合いとは連絡が取れなくなっていた。
3日後、施設は予告通りに閉まった。11年間歩いた通路は、外から見ればただの灰色の壁になった。松原は駅のベンチに座り、求人サイトを開いた。「警備員 埼玉 年齢不問」と検索するが、実際は60歳以下、あるいは55歳以下という条件がほとんどだった。日雇いの交通誘導員の仕事に応募し始めた。日当9000円。月に20日働けても、手取りは16万円に届かない。
そんな中、アパートの更新の時期が来た。更新料5万5000円を払えば、母の入院費に回す分が消える。松原は契約を更新しないことを選んだ。退去まで1か月。新しい部屋を探したが、家賃3万円台の物件は見つからず、保証会社の審査も通らない。65歳で無職の男に、貸してくれる部屋はなかった。
退去の日、松原は荷物を段ボール3箱にまとめた。衣類、工具、書類、そして母の写真が一枚。残りはすべて処分した。トランクルームに預け、その夜からネットカフェで過ごすことにした。個室のブースは横になれば体がぴったり収まる幅だった。夜になると、隣のブースから若者の笑い声が聞こえてきた。ゲームの話をしているらしい。松原は目を閉じた。
数日後、ネットカフェのブースで横になっていると、隣の人間のパソコン画面が視界の端に入った。ソーシャルメディアのページ。北海道のスキー場で、家族3人が笑顔で並んでいる写真。その中の一人の顔に、松原は目を奪われた。俊助だった。妻らしき女性と、子供。楽しそうに、笑っている。俊助が北海道でスキーをしている。それが事実として、松原の胸に落ちてきた。15年前、自分が保証人になったことで、母の入院費が払えず、今はネットカフェで寝ている。そして、この男は笑っている。
翌日、松原はトランクルームから父の遺産整理の書類を取り出し、弟の住所を確認した。東京都内のマンション。夜、仕事を終えてから、電車でその住所に向かった。新し目のマンション。エントランスにインターフォンの一覧があった。名前を見つけ、押した。応答はない。もう一度押した。それでもない。松原は柱のそばに立ち、通りを見つめた。風が冷たかった。1時間ほど経った頃、タクシーが止まり、スーツ姿の男が降りてきた。俊助だった。松原と目が合った瞬間、弟の顔に「まずい」という感情が走った。
松原は動いた。俊助がエントランスに入る前に、腕を掴んだ。壁際に抑え込む。俊助が抵抗しようとしたが、松原の握力は圧倒的だった。
「母が倒れた。入院している。費用がかかる。お前が起こした件で、俺の金が全部消えた。俺は今仕事もない」
俊助は松原の手を払おうとした。「俺は法的に免責されてる。お前に関係することじゃない」
「300万用意してくれ。母の費用に当てる」
俊助が目を細めた。恐怖ではなく、計算をしている顔だった。「お前が隠している資産の話を、義父に伝えることもできる。脱税の話、表に出していない取引の話、自己破産の前に動かした金の話。俺が持っている書類の話をしてもいい」
実際には、松原の手元には証拠は何もなかった。しかし、俊助はそれを知らない。数秒の沈黙の後、俊助はスマートフォンを操作し、送金アプリを開いた。しばらくして、松原のスマートフォンが振動した。300万円の入金通知。確認した画面を、松原はじっと見つめた。
エレベーターに乗り込む直前、俊助は振り返って言った。声は低く、しかし明瞭だった。「あのばあさんを抱えて、そのまま死んでいけ」
扉が閉まった。松原はエントランスの前に一人で立っていた。夜風が吹いた。スマートフォンの画面には、300万円の数字がある。他には何もなかった。だが、それだけあれば、母の費用が払える。
翌朝、松原は病院に電話し、150万円を振り込んだ。残りの150万円は手をつけなかった。使い切った後のことは、その時に考える。今日できることを今日やる。それだけだった。
数日後、松原は久しぶりに青森へ向かった。病院の4人部屋で、母は横になっていた。目が開いていた。松原が椅子を引き、隣に座ると、母の目が動き、松原の顔を向いた。
「お母さん」
声は小さかった。母の唇が少し動いたが、音にはならなかった。松原は母の右手を両手で包んだ。薄くなった皮膚の下に、骨が浮いている。体温はあった。何も言わなかった。言葉を探しても見つからなかったが、ここにいるということが伝わればいいと思った。1時間ほど経って、立ち上がり、「また来る」と言った。母の目が少し動いたように見えた。
青森の冬は、低い灰色の空で覆われていた。松原はジャンパーのジッパーを首まで上げ、駅へ向かった。
翌月、松原は東京の清掃会社に登録した。深夜の商業施設の清掃仕事だ。夜の10時から朝の6時まで。週に4日から5日、確実に仕事が入る。初日の新宿の地下街は、夜中の2時になると誰もいなかった。松原はモップを動かしながら、広い通路を一人で歩いた。床が濡れて光を反射する。やった分だけ床が綺麗になる。その単純さが、今の自分には合っていた。
2月のある朝、仕事を終えて施設を出た瞬間、病院から電話が来た。担当看護師の声のトーンで、何があったかを察した。母の容態が急変し、今朝6時に亡くなった。眠ったまま、苦しんだ様子はなかった、と。松原は路上に立ち尽くし、薄明るい空を見上げた。どこかで鳥が一度だけ鳴いて、静かになった。それから、駅へ向かって歩き始めた。
通夜は、最低限のプランで行った。松原は一人だった。母の顔は穏やかだったが、体温がなかった。棺の前で言葉を探したが見つからず、代わりに手を伸ばして頬に触れた。冷たかった。それでも触れた。それで十分だった。
翌週、母の実家の整理のために青森へ戻った。古い木造の平屋は、生活の匂いがした。母が残した調味料や、賞味期限の切れた豆腐。一つ一つ確認しながら処分を進めた。押し入れの奥に、古い段ボール箱を見つけた。中の写真や書類を手に取ると、母の字で書かれた小さなノートがあった。表紙はすり切れていた。
開くと、日付と短い記録が並んでいた。病院に行った日。天気。松原から電話があった日。3年ほど前から、文章が長くなっていた。弟の俊助のことが。「あの子のやったことは分かっていた。ひろのに迷惑をかけたこと、申し訳ないと思っていた。しかし直接言えなかった。俊助も自分の子供だった。どちらかを責めることができなかった」
次のページには、松原のことが書いてあった。「ひろのは昔から1人でいることを選んでいた。それが自由だと思っていたのか、それとも他に理由があったのかは分からない。ただ、お母さんには見えていた。ひろのが1人を選んだのは、この家の重さを背負うためだったんじゃないか。お父さんのこと、俊助のこと、お金のこと。ひろのはいつも1人でそれを引き受けていた。誰にも言わず、助けを求めず、ただ黙って続けていた」
そして最後のページ。「ひろの。お前は幸せだったか。お母さんには答えが分からない。お前が笑うところを、最後にいつ見たか思い出せない。でも、お前が毎回電話をくれたこと、青森まで来てくれたこと。それだけで十分だった。十分すぎるくらいだった。……誰かと一緒にご飯を食べなさい。それだけでいいから」
松原はノートを閉じた。押し入れの前に座ったまま、動けなかった。古い家の中は静かだった。外を車が一台通り過ぎた。松原の目が熱くなった。こらえようとしたが、できなかった。押し込んでいたものが、形を変えて出てきた。自分でも聞いたことのない種類の音だった。止めることができなかった。終わるまで、彼は膝を抱えてそこにいた。
東京に戻り、松原の生活は変わらなかった。深夜の清掃をこなし、午前中にネットカフェで眠り、午後から求人を探す。3月になった。ある夕方、仕事へ向かう前に、公園のベンチで弁当を食べていた。冷たい弁当を箸でつまんでいると、足元に赤いプラスチックのボールが転がってきた。公園の入り口から、男の子が走ってくる。見覚えのある走り方だった。レンだ。半年ぶりだった。大きくなっていた。
「あっ」とレンが言った。松原も「ああ」と言った。レンは松原の顔をじっと見ていた。それから、後ろを振り返った。公園の入り口に、織田桐が立っていた。作業着を着て、疲れた顔で、松原を見つめて笑った。
「松原さん」
「ああ」
2人はしばらく無言で立っていた。織田桐は今、宅配の仕事をしているという。レンの学校も転校させた、と。松原は、夜の清掃の仕事をしていると答えた。レンが砂場から走ってきて、ポケットを探り、何かを差し出した。折り紙で折った鶴だった。小さくて、折り目が不揃いで、首の角度が歪んでいた。丁寧に折ろうとした後はあるが、まだ上手ではない。
「なんで持ってたんだ」
「ポケットに入ってた」とレンが言った。織田桐が苦笑しながら「最近折り紙にはまってて」と付け加えた。松原は、その歪んだ鶴を手のひらに載せて見つめた。翼の左右の長さが違う。首が少し傾いている。折り目の一箇所が浮いている。どこから見ても完璧ではなかった。それでも、鶴の形をしていた。
日が暮れ始めた。織田桐が「そろそろ行きます」と立ち上がった。レンが松原を見て「またね」と言った。松原は「ああ」と言った。2人が公園の入り口を曲がって見えなくなるまで、松原はその背中を見ていた。
公園には松原一人が残った。手の中に、歪んだ折り鶴がある。しまおうとポケットに手を伸ばしかけて、やめた。そのまま、公園のベンチに座って、手の中のものを見つめていた。風が吹いて、桜の花びらが数枚、足元に落ちてきた。松原は立ち上がり、その鶴を制服の胸ポケットにしまい、夜の街へ向かって歩き出した。



