病院のベッドで目を覚ました瞬間、全身の痛みで息が詰まった。隣に息子の姿はない。看護師の話では、私たち親子は車に跳ねられ、私は丸一日意識を失っていたという。幸い、6歳の息子ケ太は軽傷で、今は小児病棟で休んでいると聞いて、ようやく少しだけ安心できた。
「お母さんももう少し休んでください。ご主人には連絡を入れておきますね」
看護師が部屋を出て行き、私は大きく息を吐いた。しかし、その安堵も束の間だった。ヒールの音を響かせて病室に入ってきたのは、ママ友の浜本恵さん。私が一番会いたくなかった人物だ。彼女はベッドサイドまで来ると、腕を組んで嫌な笑みを浮かべた。
「あら、美由さん、目が覚めたの? もう目を覚まさないかと思ったわ」
「どうして恵さんがここに……」
「そんなの、見舞いに来てやったに決まってるじゃない」
「私がここにいるって、どうして分かったの?」
「当然よ。だって、私があなたたちを引いたんだから」
私は一瞬、言葉を失った。彼女は何を言っているのか。私たちを轢いておいて、しかも笑いながらそんなことを言える神経が信じられなかった。恵さんは昔からそうだった。常識がなく、平気で嘘をつき、他人を陥れることを喜ぶ。私はそんな彼女が前から嫌いだった。
「私たちを轢いておいて、よく笑っていられるわね。まさか、わざと?」
「わざとじゃないわよ。あんたたちがのろのろ歩いてるから悪いんでしょ。外を歩く時は車に気をつけないと。ちょっと注意が足りないわよ、美由さん」
むちゃくちゃな言いがかりに、私は怒りで頭に血が上るのを感じた。すると恵さんはため息をついて、さらに続けた。
「まあ、ちょっとは悪いと思ったから、こうしてわざわざ見舞いに来てやったんじゃない。本当なら私のほうが被害者なのよ。運転しててちょっと歩道に乗り上げたら、あんたたちがいるんだもの。さっさと避けてくれれば引かなくて済んだのに。どうしてくれるのよ」
「どう考えても、突っ込まれた歩行者が被害者でしょ。そもそも歩道に突っ込むなんて、どんな運転してたのよ」
「私の運転を馬鹿にするつもり? 私の運転はプロ級なんだから」
「プロなら突っ込まないでしょう」
「仕方ないじゃない。ちょっと飲んでたし」
私は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。恵さんは私の顔を見て、もう一度、分かりやすく言い直した。
「だから、酒を飲んでたから」
「……飲酒運転ってこと?」
「さっきから言ってるじゃない。あのくらい、いつものことよ。全然酔ってなかったし。中ジョッキ3杯だけよ」
自分の非常識を平然と話す恵さんに、私は怒りで手が震えた。そして、ようやく出てきた言葉はこうだった。
「恵さん、それは立派な飲酒運転よ。それで事故を起こしておいて、被害者ぶるとかふざけないで」
「私の運転がうまかったおかげで、この程度の怪我で済んでるんだから、感謝してほしいくらいよ」
「子供まで轢いておいて、よくそんな言い方できるわね」
「親子揃ってめんどくさいんだよ」
私はこれ以上話しても無駄だと悟り、静かに告げた。
「分かった。あなたと話してもどうしようもない。訴えるから」
すると恵さんは馬鹿にしたように笑い出した。
「あんた、本気で言ってるの? 私には浜本組の若頭の夫がいるってこと、知らないの?」
彼女はいつもそうだった。何か気に入らないことがあると、必ず組の名前を出して脅してくる。これまで他のママ友たちは笑ってごまかすしかなかった。でも、今回は相手が悪い。娘の命を危険にさらされて、黙っているわけにはいかなかった。
「こっちはわざわざ見舞いに来てやってんだよ。なのに訴えるだって?」
「飲酒運転しておいて、その態度? こっちは子供だって怪我してるのよ」
恵さんは何かひらめいたように、ニヤリと笑った。
「分かった。つまり金でしょ? 金が欲しいってことでしょ?」
「そんなことどうだっていいのよ、私は」
言い終わらないうちに、彼女はポケットから小銭を取り出すと、一円玉を一枚、私の布団の上に投げつけた。
「何これ?」
「見て分かんないの? 一円。金が欲しいんだろう? だから、その一円で示談成立ってことよ。あ、これ断ったらどうなるか知ってる? 若頭の夫があんたたち親子を消しにかかるよ。これは脅迫じゃなくて、忠告」
一円玉を投げつけられ、ここまで侮辱されては、もう我慢の限界だった。
「そっちこそ、さっさと頭を下げたほうが身のためだと思うけど」
私の反抗的な態度に、恵さんの顔から笑みが消えた。
「恵さんの旦那って、浜本組の若頭って言ってたわよね」
「そうよ」
「ちなみに、私の父親は浜本の組長なんだから」
「……は? 何言ってるの?」
「あんたぐらい始末するのなんて、若頭で十分でしょうけど。最悪、組長が出てくることも覚悟しときな」
「へえ、そうなの。じゃあ、こちらにも考えがあります」
私は意地悪く笑って、携帯電話を手に取った。ある番号を探し出し、恵さんに余裕の笑みを向けながら電話をかける。恵さんは怪訝な顔で、緊張しながらその様子を見守っていた。
「はい、浜本」
電話の向こうから聞こえたその声に、恵さんははっと息を呑んだ。私はゆっくりと告げた。
「お世話になっております。山田組、若頭の山田美由です。そちらの若頭の奥さんとの間でトラブルがありまして、組長に話があるんですが」
「へい、少々お待ちください」
保留音に変わると、恵さんが慌てて叫んだ。
「ちょっと、山田組の若頭ってどういうことよ!?」
「ああ、まだ理解できなかった? 私、山田組のレディース若頭を務めてるのよ」
その時、保留音が止まり、低い男性の声が聞こえてきた。
「もしもし。山田組の若頭、ご無沙汰しておりません」
私はにやりと笑うと、恵さんにも聞こえるようにスピーカーを押した。
「お忙しいのに突然すみません」
「ええ、それで、どうされましたか?」
電話の向こうの組長の丁寧な言葉を聞いた瞬間、恵さんの顔から一瞬で血の気が引いていった。
「それが、そちらの若頭の奥さん、恵さんとの間でトラブルがありましてね」
「おお、恵が何か面倒をおかけしましたか?」
「ええ、実は今、中央病院から電話してるんですけどね。恵さんの運転する車が私と私の子供を轢いて、今治療を受けてるんですよ」
電話口の組長が、一瞬息を飲むのが分かった。
「お怪我は、看護師の話によると、それはそれはひどい骨折で。私なんて、丸一日意識が戻らなかったようで」
「そ、そんな……若頭、大変ご迷惑をおかけいたしました。すぐにうちの者を向かわせて、後ほど私もそちらへ」
組長の慌てた声を聞いた恵さんは、このままではまずいと感じたのか、必死にどこかへ電話をかけ始めた。きっと夫、浜本組の若頭だろう。私は構わず組長への話を続けた。
「ああ、組長。事故に巻き込まれるかわからないですから、その辺りは文句を言うつもりはありません。一応ね、恵さんも今見舞いに来てくれてるんです。でも、恵さんのあまりの非常識さに、私は怒ってるんですよ」
「まだ、恵が何か?」
「ええ、恵さんに事故の状況を話してもらったところ、私と子供がのろのろ歩いてたから事故にあったと。私と子供が避けなかったのが悪いから、自分が被害者だと」
「そんな……」
「しかもね、酒を飲んでたそうです。飲酒運転ですよ。ビールを中ジョッキ3杯。いつもの量だからどうってことないって、本人が言うんです」
「あのバカ野郎! あれほど飲んだら乗るなと言ったのに」
組長の声が徐々に荒っぽくなっていく。
「それでね、恵さんは示談金として、私に一円を投げてよしたんですけど。果たして、これは浜本組のお考えでしょうか?」
「そ、そんなまさか! そんな真似が浜本組にあるわけがありません!」
「山田組レディース若頭の私と子供を、命の危険にまでさらしておいて、一円で示談なんて、笑わせますよね。浜本組として、その条件で示談を成立させるつもりなら、私にも考えがありますが?」
「ま、待ってください、若頭! 今回の件、完全に浜本組は把握しておりません。一切の関与もしておりません! 恵の単独行動によるものです! ご迷惑をおかけして、申し訳ございません。恵の始末は、こちらできっちりつけさせていただきます!」
組長は慌てて関与を否定した。ちょうどその頃、部屋の隅で恵さんは夫と電話をしていた。
「そう、今、父さんと美由さんが電話してるはずなのよ。あんな女の言うこと、信じないでよ! 私は陥れられてるのよ! 早く父さんを止めて!」
恵さんは一方的に電話を切った。私は組長からの謝罪を受け、すぐに幹部をこちらに派遣し、状況の確認と恵さんの拘束を約束してもらい、電話を切った。そして、勝ち誇った笑みを恵さんに向ける。
「浜本組の若頭なんて、聞いてないわよ」
「ええ、まあ、言いふらすことでもないですし」
恵さんは強がって、ニヤリと口を歪めた。
「でも、所詮は若頭でしょ? 組長が言うこと聞くわけないわ。娘の私の言葉を信じるはず」
そう言うと、恵さんは組長へ電話をかけ始めた。
「もしもし、私よ。厄介な女に絡まれて」
すると、恵さんの携帯から組長の怒鳴り声が漏れ聞こえてきた。恵さんの声は次第に勢いを失い、弱々しくなっていく。
「待って、父さん! 関係ないでしょ、私!」
「そんな大金払えるはずないじゃない! いや、やめて、父さん!」
一方的に電話を切られた恵さんは、もう反抗する力を失い、呆然と立ち尽くしていた。私は小さくため息をついて、訊ねた。
「それで、どうだったの?」
恵さんは目に涙を溜めながら、ぼそぼそと答えた。
「私と浜本組は無関係だって。お前みたいなバカを擁護する義理は、浜本組にはないって……」
「まあ、そうでしょうね」
「しかも……示談金一億円を払えだって。そんなの払えるわけないじゃない! 金貸しに借りてでも払えなんて、もう何なのよ! あんた、そんなに偉いわけ?」
私はあまりに何も知らない恵さんに呆れてしまった。
「あなた、周りにあんなに浜本組の名前を出しておいて、本当に何も知らないのね。浜本組の本家は、うちの山田組。私はそこの若頭なの。浜本組が盾突ける相手じゃないのよ」
ヤクザの世界の厳しさを身に染みて感じたのか、恵さんはその場に崩れ落ちた。
「これまで周りの人に迷惑をかけてきたんだから、それが自分に帰ってきたんでしょう。しっかり償いなさい」
下を向いたまま、静かに涙を落とす恵さん。ようやく病室に静けさが戻った。
しばらくして、浜本組の幹部が組員を二人連れて病室に入ってきた。
「山田組の若頭。この度は、大変ご迷惑をおかけしました」
幹部は私に向かって深々と頭を下げた。
「すぐにこの女を回収して帰りますので、ご安心ください」
幹部はこちらに笑顔を向けていたが、振り返ると恵さんに厳しい視線を送った。そして、低い声で話し始めた。
「おい、組長からの伝言だ。よく聞けよ」
恵さんは肩を震わせ、恐る恐る顔を上げた。
「電話でも話した通り、お前には山田組へ示談金として一億円を支払ってもらう。払えないは通用しない。金貸しを紹介してやるから、金を借りて払うんだ」
「で、でも、私、お金を返せるほどの仕事なんて……」
「心配はいらねえよ。いい仕事も紹介するように話は通してやる。普通に働いたら一億なんざ、いつになっても稼げねえ。だが、ここの仕事ならあっという間だろうよ」
「そ、そんな怪しい仕事なんて……」
「うるせえ! ごちゃごちゃ文句を言える立場じゃねえんだよ。いいか、返済が終わるまで、あんたに自由はないと思え。逃げることも許さねえ。分かったな」
幹部はそう言うと立ち上がり、組員に指示を出した。組員は恵さんを無理やり立たせると、部屋から連れ出していった。幹部は大きなため息をつき、改めて私へ深く頭を下げて去っていった。
すべてが終わって、私は病室で静かな時間を過ごしていた。すると、そこへ慌てた様子で夫が駆け込んできた。
「美由! よかった……本当によかった」
「ごめんなさい。心配かけちゃって」
「生きていてくれてよかった。こんなにも心配してくれる人がいるって、私は幸せだと思った」
「ケ太のことも、守ってくれてありがとう。美由のおかげで、ケ太はまだ軽い骨折で済んだんだよ。本当にありがとう」
夫は涙を流しながら、私を褒めてくれた。夫にこんなに愛されていることを実感して、照れくさいけれど、心から嬉しかった。
翌日、私は大部屋に移動して、ケ太とベッドを並べて過ごすことができた。数日後、ケ太は先に退院することになった。そのうちに、浜本組長が謝罪と見舞いに訪れた。
「若頭、今回は本当に申し訳ありませんでした。俺の監督不足が原因です。俺のことを処分してもらっても構いません」
「そんなことはしませんよ。組長さんは実の娘に処分を下している。その気持ちは、こちらも理解しているつもりです」
「……ありがとうございます」
組長は深く頭を下げた。組長の話によると、恵さんはその後、海外の社交場に売られたらしい。残された子供は若頭が一人で育てているという。
「急に母親がいなくなったもんで、やっぱり時々寂しくなるみたいなんです。また子供同士、変わらず仲良くしてもらえたらありがたいです」
「もちろんです」
私たちは笑顔を交わした。それから少しして、私も退院した。私はもう少し歩けるようになったら、ケ太のお友達も一緒に動物園に行ってみようと、穏やかな日々を楽しみながら過ごしている。



