「貧乏人に売る車はない」
その日、対応した営業担当は、作業着姿の俺を見てそう言い放った。何を言っても話を聞いてくれない。結局、その日は車を買うだけの金があると信じてもらえず、何もできずに帰るはめになった。
後日、別のディーラーBで俺を見かけたその営業担当は、自分が取り返しのつかないことをしたと分かり、泣き崩れることになる。
俺の名前は堂島翼。今年で30歳になった。今日は兼ねてから欲しかった高級車を買うために、業界大手チェーンの高級車ディーラーAにやってきた。そこは過去に何度か足を運んでおり、いつも店長の奥本さんに話を聞いてもらっていた。奥本さんはいつも丁寧に対応してくれるし、何度も話しているうちに少し仲良くなって、すっかりお気に入りだ。
しかし、ぐるりと店内を見渡したが、今日は奥本さんが見当たらない。今日は奥本さんが出勤する曜日のはずなんだが、なぜいないのだろう。出張にでも行っているのだろうか。
せっかくここまで来たのだから、代わりに誰かに話を聞いてもらいたい。そう思った俺は、奥で別のお客さんの対応をしている営業担当の人が終わるのを待つことにした。
営業担当は見た感じ40代前後といったところだろうか。胸元のネームプレートには「後田」と書いてある。白髪が少し混じっていながらも清潔感のある髪、ピンと伸びた背筋、丁寧な身振り手振りは、いかにもベテランといった風貌だ。
一方のお客さんの方は35歳くらいだろう。今時の感じにセットされた髪型で、いかにも高そうなスーツを着こなし、余裕たっぷりの口調で営業担当の人と話している。外資系の企業でバリバリ働いていそうだ。
そんなことをぼんやり考えながら、2人の話が終わるのを待つ。30分くらいしたところで、そのお客さんがようやく帰ったので、その「後田」という営業担当の人に声をかけた。
「すいません。車の購入を検討しているのですが」
「はい。お伺いいたします」
落ち着いた声で言いながら振り返った後田は、俺の姿を見るなり、露骨に顔をしかめた。俺は思わず少し不快な気持ちになる。
「初めまして。後田と申します。よろしくお願いいたします」
言葉遣いだけは丁寧だが、後田は俺を上から下まで品定めするように見た後、目を細め、ゴミを見るような目を向けてきた。俺はなんとなく察しがついた。俺が作業着姿だから、貧乏人が冷やかしにでも来たと思っているのだろう。
俺は普段から作業着ばかり来ていて、今までもよく作業着で店に来ていたから、俺にとっては何の違和感もなかったが、初めて見た後田が俺を貧乏人だと思うのは仕方ないのかもしれない。などと考えていると、後田がいかにもやる気のなさそうな口調で言った。
「どのお車をお望みですか?」
俺は兼ねてから目をつけていた、店で一番高い車を指さし、「あの車を買いたいと思っています」と答えた。その車は世界で数百台しか生産されていない、とても貴重な車だ。数年前、街中で偶然見かけた時に一目惚れして以来、ずっと欲しかった。買うタイミングをずっと見計らっていて、今ようやく買うことができるというわけだ。
後田は俺が指さす先をちらりと見ると、「はあ」と大きなため息をもらした。
「あのね、お客さん。あの車は、あなたみたいな貧乏人が買えるようなものじゃないんですよ。というか、この店にはあなたが買えるような車はありません。帰ってください」
そう言い、後田は「やれやれ」と肩をすくめ、首を横に振りながら近くのソファーにどかっと座り、足を組んだ。
俺は見た目だけで判断する後田の態度に腹が立ったが、冷静に反論した。
「僕はあの車を買えるお金を持っていますし、ずっと店長と購入の手続きを進めてきました。調べていただけたら分かると思うのですが」
すると後田は、俺の話には興味がないとでも言うかのように、大きなあくびをした。
「そんなこと言って、我々の邪魔をしようとしているんでしょう。店長が今日いないからって、そんな嘘をつくなんて、人としてどうなんですか? 我々はあなたのような貧乏人に使っている時間はないんです。早く帰ってください」
そう言って、後田は携帯をいじり出した。俺は、ここまで話の通じない奴がいるのかと、心底呆れてしまった。だが、わざわざ店舗まで足を運んだのにこのまま帰るのも嫌だったので、こう言った。
「じゃあ、これを見てください。上限無制限のブラックカードです。これで証明になりますよね」
俺は水戸黄門のあのシーンのように、財布からブラックカードを取り出し、後田の目の前に突きつけた。これでさすがに俺が車を買えるお金を持っていると信じるだろう。そう思ったが、後田は微塵も表情を変えず、
「そんなの偽物に決まってます。ここまでして私をからかって面白いですか?」
と言って、睨んだ目で俺を見てきた。さすがにカチンと来る。もうこの人に何を言っても無駄だ。そう思った俺は、
「そうですか。よく分かりました。もうこちらのお店での購入は、今後一切考えませんので。さようなら」
とだけ言い捨てて、店を出た。俺の背中に向かって、「はいはいどうぞ。お好きにどうぞ」という後田の声が聞こえる。どこまでも腹が立つやつだ。
今まで真摯に話を聞いてくれた店長の奥本さんのために、何を言われても辛抱しようと思っていたが、限界だ。心の中で奥本さんに謝りながら、店を後にした。
それから2週間ほど経った頃、俺は別の高級車ディーラーBで車の購入の話を進めていた。ここはAよりも規模は小さい店ではあったが、接客が素晴らしく、親切丁寧に対応してくれる。過去に2回ほど行ったのだが、作業着でいても誰一人として貧乏だと決めつけてくる店の人はいなかったし、とても丁寧に説明してくれるため、こちらも心地が良い。
この店で購入しよう。2回目の来店で、すでにそう決意していた。担当の平野さんから契約の話を聞いていると、見覚えのある顔が来店したのが見えた。ディーラーAの店長の奥本さんと、後田だった。店Bは店Aの近くに位置しているため、ライバル店の視察に来たのだろう。2人とも店内をぐるりと見渡し、接客や車の見せ方などを何やら真剣そうに話しながら見ているようだ。
「少々お待ちください」
と、あちこちの書類を取りに行った平野さんを待ちながら2人の様子を観察していると、後田と目が合ってしまった。俺は思わず目をそらす。すると後田は、俺にわざと聞こえるような大きな声で、奥本さんに話し出した。
「あの作業服の男、この前うちの店にも来てましたよ。一番安い車を一台買う金もないくせに、一番高い限定生産のやつが欲しいとか言って。しまいには、その日奥本さんがいないことをいいことに、店長と購入の話を進めているとか言い出して。偽のブラックカードとかわざわざ用意して見せてきたんですよ。その時は『貧乏人に売る車はない。冷やかさないでください』って帰ってもらったんですけどね。懲りずにこの店にも来てるみたいですね。何が面白いんだか。あの営業の人も真面目に話聞いちゃって。もっと他に相手する客がいるでしょうにねえ」
後田がそう言い終わる前に、奥本さんは見る見る顔が赤くなっていた。後田は言葉につまる。
「後田君、今言ったことは本当か?」
奥本は後田を睨みつけ、ドスの効いた低い声で聞いた。後田は奥本のオーラに圧倒され、「ええ、と…」と困惑しながら答える。すると、奥本さんは間髪入れずに後田を怒鳴りつけた。
「お前はあの方がどなたか分かっているのか! なんてことをしてくれたんだ!」
ちょうどそのタイミングで、俺は店で騒ぐ2人を気にする平野さんをよそに、こう宣言した。
「それでは、その車とこの車、合わせて1億3000万円、一括で購入します」
にっこり笑って、そう言った。平野さんは「ありがとうございます」と深々とお辞儀をした。
「お金はもう用意してありますので」
俺はそう言って、アタッシュケースを2個机の上に置き、平野さんの方に差し出して中を開ける。綺麗に並べられたたくさんのお札と一斉に目が合う。平野さんは少し圧倒されたように、
「あ、ありがとうございます。…差し支えなければお聞きしますが、なぜ現金で?」
と聞いてきた。
「以前、他の店でこのブラックカードが偽物扱いされ、『貧乏人は帰ってください』と言われたことがあったんですよ。今度は断られないように、現金で持ってきたんです」
俺はブラックカードを見せながら、冗談っぽく笑った。
すると急に、この光景を見ていた後田が、青ざめた顔で俺と平野さんの会話に割り込んできた。
「ち、ちょっと、どういうことですか? なんであなたがそんな大金を持っているんですか? そのお金も偽物なんでしょう? 営業の人、平野さんだっけ? あなた騙されてますよ!」
と俺と、そして平野さんに向かってまくし立てた。するとそこに、奥本さんも慌てて入ってきて、後田の頭を掴み、俺に向かって深々と頭を下げ、大きな声で言った。
「大変申し訳ございませんでした。うちのバカな部下が、大切なお客様である堂島様に大変なご無礼を…」
後田の頭を掴んだまま、奥本さんも頭を下げたまま続ける。
「堂島様がお金を持っていないと決めつけた上に、堂島様がおっしゃることを一切信じず、お帰りいただくように言ったと本人から聞きました。ディーラーの営業担当として、お客様によって接客態度を変える。お客様の話を聞かない。お客様を帰らせるなど、あってはならないこと。どうお詫びして良いか分かりません」
しばらく後田と一緒に頭を下げていた奥本さんは、そう言って頭を上げ、後田の頭からも手を離す。解放された後田は、あまりに急な出来事にいまいち状況を読めていないようで、目をまん丸にしている。
俺が何か言おうとした時、奥本さんが後田に説明を始めた。
「この方は本当のお金持ちだ。マンションを複数経営していらっしゃるんだ。年収は数億円に上るとお聞きしている」
「今はその経営も部下に任せているので、私は悠々自適な生活を送っています。元々部屋をいじるのが好きなので、いつも自分が所有する部屋をDIYしており、作業着で過ごすことが多いのですが…貧乏人に見えてしまいましたかね」
俺は奥本さんに続けてそう説明し、困ったように笑った。その話を聞き、後田は膝から崩れ落ちる。
「そ、そんな…そうならそうと、なぜあの時に説明してくださらなかったんですか?」
と後田はそのままの体勢で弱々しく呟いた。俺は「話を聞こうとしなかったのはお前だろう」と少し頭に血が上り、あまり良くないと思いながらも、こうまくし立てるように言ってしまった。
「あの時、店長と購入を進めているという話も、俺が見せたブラックカードも、嘘だと勝手に決めつけて、話を聞こうともしなかったのはそちらの方じゃないんですか? それをよく私のせいみたいに言えますね」
奥本さんは「後田は今すぐ降格させ処分するので、どうか今回の件は水に流し、もう一度私どもの店でのご購入をご検討いただけませんでしょうか? どうかお願いいたします」と、地べたに土下座した。
俺は慌てて止める。
「土下座だけは勘弁してください。私は奥本さんにそんなことをしてもらいたいわけではありません。ただ、後田さんから直接謝罪の言葉をいただけたら、それで結構です。奥本さんにはずっとお話を聞いてもらって、本当にお世話になりましたから、そちらの店で購入しますと言いたいところなのですが…こちらのお店でもう1つ欲しい車も見つかってしまい、それとまとめて購入することにしましたので、ご希望には添えません。すみません」
と言うと、奥本さんは少しうつむきながらも、
「承知いたしました。少しでも私どもの店でのご購入を検討してくださり、ありがとうございました。…後田君、君は何かしないといけないことがあるんじゃないのかな」
と言い、後田に謝罪を促す。
「本当にすみませんでした」
後田はそれだけ言って、頭を軽く下げた。こいつ、反省してないな。そう思ったが、ここで彼を説教しても仕方がない。後は会社の判断に任せよう。そう思った俺は、
「はい、もう許します。私は今から契約するので、お2人はもうお帰りになったらどうですか」
と言って、2人には帰ってもらい、契約を済ませて店を後にした。
そんなわけで、俺は結局店Bで車を購入したのだが、奥本さんは個人的にお世話になったし、仲も良かったため、それから1ヶ月ほど経った日にお礼も兼ねて店Aを訪れた。俺を見るなり、奥本さんは深いお辞儀をして、「その節は大変申し訳ありませんでした」と謝った。
「もういいですよ。奥本さんは何も悪くないじゃないですか」
だが、何か言い出そうとする奥本さんの言葉を遮って、
「今日は奥本さんに色々お世話になったお礼をしに来たんです。本当に、謝らないでください」
と、まっすぐ目を見て言った。奥本さんは「ありがとうございます。俺だなんて、そんな。私は仕事をしていただけです」と謙遜し、ぺこぺこしている。
「まあまあ。今日は楽しくお話ししましょう」
俺はそう言い、奥本さんをソファーに腰かけるよう促す。手土産を渡して、それを食べながら色々な話をした。
初めは少し気になっていたので、後田の話を色々聞いた。奥本さんによれば、後田はあの件の後すぐに地方に移動させられ、1から教育を受け直し、反省の日々を送っているそうだ。俺が見た感じ、他のお客さんに対する接客は気になるものはなかったから、あの性格だけなんとかなれば、優秀な人材になるだろう。せっかく高級車ディーラーの営業として雇われるくらいの能力があるのだから、頑張って欲しいものだ。
こんな話をし終わった後は、お互いの近況報告になり、奥本さんが尋ねてきた。
「堂島様は、最近どのようにお過ごしなんですか?」
「俺ですか? 最近は買ったばかりの車でドライブを楽しんだり、DIYをしたりして楽しんでますよ。ほら、今日も作業着でしょ」
と答え、着ている作業着の裾を引っ張るようにして見せて、にこっとした。
「いいですね。私もやってみたいです」
という奥本さんは、少し身を乗り出していて、お世辞ではなく本当に興味があるようだった。
「やってみます? やってみると意外と簡単なんですよ。今度一緒にやりましょう。俺もDIY仲間が欲しかったので」
そう提案してみる。
「いいんですか? 是非、色々教えていただきたいです」
目をキラキラさせてそう答える奥本さん。
「もちろん。そうと決まれば、まずは作業着からですね」
「道具とかより、作業着が先なんですか?」
俺の冗談に乗って、奥本さんが笑いながら聞いてくる。
「やっぱり、形から入るべきかなって」
俺は冗談っぽく笑う。
「確かに。形は大事ですね。そしたら、高級車ディーラーに行く時も、作業着じゃなくてもう少しちゃんとした服装で行かなきゃですね」
「そ、それとは話が違うと思います」
思わぬボケに変な話し方になる奥本さん。おかしくなって、2人同時に吹き出す。店に平和な笑い声が響いた。



