裏庭から「お腹空いた」という女の声が聞こえた夜、私は布団の中で息を殺した。隣では夫が静かに眠っている。この家に嫁いで三ヶ月、初めて聞く声だった。
昭和の終わり頃、山合いの小さな集落にある大きな家に嫁いだ私は、そこで奇妙な決まりがあることを知った。家の裏には誰も近づいてはいけない場所があり、そこには古い竹と、赤い布を掛けられた大きな壺が置かれていた。夜になったら裏庭へ行ってはいけない。壺の中から声が聞こえても絶対に返事をしてはいけない。特に満月の夜は決して近づいてはいけない。それが、この家に代々伝わる決まりだった。
なぜそんな決まりがあるのか、家の者は誰も教えてくれなかった。年寄りたちは壺の話になると決まって口を閉ざした。
夫の週一は口数の少ない人だったが、仕事から戻ると必ず私の様子を気にかけてくれた。朝は暗いうちから山へ出かけ、夕方になると泥のついた長靴を脱いで縁側でタバコを一本吸う。そんな何気ない毎日が新鮮だった。
実家は町だったので、薪を割る音も、井戸から水を汲む音も最初は珍しく感じた。特に好きだったのは夕方の縁側だった。日が沈む前の短い時間、山の向こうから冷たい風が吹いてくる。私はその風に当たりながら洗濯物を畳んでいた。
岩の向こうには問題の裏庭があった。そこへ続く細い道には古い木の扉が置かれ、昼間は開いているが夕方になると必ず閉められた。最初は特に気にしていなかった。古い家なのだから、何か昔からの決まりがあるのだろう。その程度に考えていた。
ある日の夕方、洗濯物を取り込んでいると背後から声をかけられた。
「奥様」
振り向くと、使用人の新吉が立っていた。七十歳を過ぎているように見えたが、背筋はまっすぐで、毎日重い水桶を軽々と運んでいた。
「裏の扉を閉めますので、こちらへ入ってください」
「もう閉めるんですか?」
「はい。日が沈みますから」
「そんなに早く閉める必要があるんですか?」
新吉は少しだけ黙った。そして裏庭の方を見ながら言った。
「昔からそういう決まりなんです」
「何かあるんですか?」
その瞬間、新吉の顔から笑みが消えた。
「知らない方がいいこともあります」
それだけ言うと、新吉は扉を閉めた。乾いた音が妙に大きく聞こえた。
その夜、私は夫に尋ねた。
「裏庭には何があるんですか?」
週一は箸を止めた。
「どうしてそんなことを聞くんだ?」
「今日、新吉さんに言われたんです。知らない方がいいこともあるって」
週一はしばらく黙っていた。そして低い声で言った。
「みよ。この家では裏庭のことを聞かないでくれ」
その言い方があまりにも真剣だったため、私はそれ以上聞けなかった。ただその夜はなかなか眠れず、頭の中には夕方に閉められた古い扉と、その向こうにある赤い布を掛けられた大きな壺が浮かんでいた。
その日から、私は夜になると裏庭の方から聞こえてくる小さな物音を意識するようになった。昼間は何もない。鳥の声が聞こえ、風が竹の葉を揺らし、古い扉が時々きしむだけだ。けれど夜になると様子が変わった。家の中が静かになるほど、裏庭から小さな物音が聞こえてくるのだ。
最初は猫でもいるのだろうと思った。ところがある夜のことだった。布団に入ってからしばらくすると、庭の方から物音が聞こえた。何かを引っかくような音だった。しばらくするとまた聞こえる。
私は目を開け、布団の中で耳を済ませた。音は確かに裏庭から聞こえていた。やがてその音は少しずつ大きくなっていった。まるで誰かが木の板を爪で引っかいているような音だった。
週一を起こそうとしたその時、音が突然止まった。家の中が異様なほど静かになった。
その直後だった。裏庭の方から小さな声が聞こえた。
「お腹空いた」
私は息を止めた。女の声だった。まだ若い女性のような声だった。
「お腹空いたよ」
今度ははっきり聞こえた。私は怖くなり、布団を頭まで被った。
翌朝、朝食の準備をしていると新吉が台所へ入ってきた。私は迷った末に尋ねた。
「新吉さん。昨夜、裏庭から声が聞こえませんでしたか?」
新吉の手が止まった。ほんの一瞬だったが、私は分かった。新吉は何かを知っている。
「どんな声でしたか?」
「お腹が空いたって、女の人の声です」
新吉は黙っていた。そして鍋の中を見ながら低い声で言った。
「奥様。もし夜に誰かが何かを言っているのが聞こえても、決して返事をしないでください」
「どうしてですか?」
「返事をすると、覚えられます」
覚えられる。新吉はそれ以上説明しなかった。ただ帰り際に振り返り、私を見つめた。その目には、これまで見たことのない恐怖が浮かんでいた。
その日の昼頃、村では別の騒ぎが起きた。近くの川で一人の少年が見つかったのだ。まだ十歳にもならない子供だった。村人たちは水に落ちて溺れたのだろうと言ったが、遺体を見た者たちは皆同じことを口にした。
「おかしい」
少年の体にはほとんど水気がなかった。まるで長い間乾いた場所に置かれていたように、皮膚が異様に乾いていたのだ。
私はその話を聞いた瞬間、昨夜の声を思い出した。
「お腹空いた」
その日の夕方、縁側から裏庭を見ていると、赤い布を掛けられた壺の横に何か黒いものが落ちているのが見えた。それは濡れた髪の毛のように見えた。私が目を凝らした瞬間、その黒いものがゆっくり動いた。
私は反射的に後ろへ下がった。よく見ると、それは髪の毛ではなかった。枯れた竹の葉が風に揺れていただけだったのだ。
「なんだ」
私は胸を撫で下ろした。自分でも少し神経質になっているのだと思った。昨夜の声を聞いてから、何でも怖く感じてしまう。そう考えることにした。
けれどその日の夕方、台所で夕食の支度をしていると、玄関の方から新吉の声が聞こえた。
「奥様。少しよろしいですか?」
私が玄関へ行くと、新吉は外に立っていた。いつもと違って顔がひどく険しくなっている。
「どうしたんですか?」
新吉はすぐには答えなかった。何度か裏の方を振り返ってから、声を落とした。
「昨日の夜、声を聞きましたね」
「どうしてそれを?」
「やっぱりですか」
新吉は深く息を吐いた。そして私の目をまっすぐ見た。
「奥様、あの声には絶対に返事をしてはいけません。名前を呼ばれてもです」
その言葉を聞いた瞬間、私の背中に冷たいものが走った。
「名前を呼ばれるんですか?」
新吉は黙っていた。しばらくしてようやく口を開いた。
「この家では昔からそういうことがありました。私が子供の頃にもありました」
「何があったんですか?」
「夜中になると裏庭から声がするんです」
「誰の声だったんですか?」
「亡くなった人の声です」
私は言葉を失った。新吉は続けた。
「最初は家族も気のせいだと思っていました。けれど、声を聞いた者が返事をすると、その後に必ずおかしなことが起きるんです」
「どんなことが?」
新吉はしばらく黙っていた。そして低い声で言った。
「その人がいなくなるんです」
「いなくなる?」
「家の中から消えるんです。朝になると、布団だけが残っています」
その言葉を聞いた瞬間、私は昨夜のことを思い出した。あの女の声。
「じゃあ、あの声は誰なんですか?」
新吉は答えなかった。ただ裏庭にある赤い布のかかった壺を見つめていた。
「昔、この家では一人の女が死にました」
「どんな人ですか?」
「この家の人間です」
「どうして亡くなったんですか?」
新吉は唇を固く結んだ。
「それを知っている者は、もうほとんど残っていません。でも新吉さんは知っているんですよね」
長い沈黙の後、新吉は小さく頷いた。
「知っています」
「教えてください」
「今はまだ駄目です」
「どうしてですか?」
新吉は私の後ろにある家の中を見た。誰かが聞いているのではないかと警戒しているようだった。そして最後に一言だけ言った。
「奥様。もし今夜、裏庭から声が聞こえても、絶対に扉を開けないでください。名前を呼ばれても。特に、旦那様の名前を呼ぶ声には気をつけてください」
そう言い残すと、新吉は急いでその場を離れていった。私は一人玄関に立ったまま、動けなかった。夕暮れの山には薄い霧が降り始めていた。そして閉じられた裏庭の扉の向こうから、小さな音がした。
その夜、私はなかなか眠ることができなかった。夕食の間も夫はいつもと変わらない様子だった。味噌汁を飲み、焼き魚を食べ、明日の仕事の話を少しする。けれど、私には分かっていた。夫も何かを隠している。
新吉から聞いた話を週一に伝えるべきか何度も迷った。しかし夕食を終えて二人きりになった時、私は思い切って聞いた。
「あなた。昔、この家で誰か亡くなったんですか?」
週一の手が止まった。
「新吉さんが少しだけ話してくれたんです」
週一は黙ったままタバコに火をつけた。しばらくして煙を吐きながら言った。
「昔のことだ」
「どんな人だったんですか?」
「もういいだろう」
週一の声が少し強くなった。
「その話はもう二度とするな」
それだけ言うと、週一は立ち上がった。私はそれ以上何も聞けなかった。
けれどその日の深夜、私はふと目を覚ました。時計を見ると午前二時を少し過ぎていた。隣を見ると週一が眠っている。その時だった。裏庭からまた音が聞こえた。
カリ…カリ…
あの音だった。前の夜と同じだった。私は布団の中でじっとしていた。すると音が止まり、静寂の中で今度は女の声が聞こえた。
「みよ」
心臓が大きく跳ねた。自分の名前だった。
「みよ」
もう一度。今度ははっきり聞こえた。私は反射的に返事をしそうになった。その瞬間、昼間に聞いた新吉の言葉が頭をよぎった。名前を呼ばれても、絶対に返事をしてはいけません。私は両手で口を抑えた。
すると声が変わった。
「みよ、寒いよ。こっちへ来て。扉を開けて」
私は目を閉じた。聞こえている。確かに聞こえている。けれど返事をしてはいけない。そう自分に言い聞かせた。
その時、隣で眠っていた週一が突然起き上がった。
「誰だ?」
私は驚いて夫を見た。週一は布団の上に座ったまま裏庭を見つめている。
「今、誰か呼んだだろう」
「聞こえたの?」
私が小声で答えると、週一の顔から血の気が引いた。
「なんて言った?」
「私の名前を」
週一はすぐに立ち上がった。
「行くな」
私は思わず叫んだ。週一が振り返る。
「どうして?」
「新吉さんが、扉を開けるなって」
その瞬間、裏庭から別の声が聞こえた。今度は男の声だった。
「週一」
二人とも凍りついた。その声は、まるで昔からこの家に住んでいる人間のように親しげに夫の名前を呼んだ。
「週一」
週一は立ったまま動かない。そして突然こう言った。
「母さんの声だ」
私は耳を疑った。週一の母親はもう何年も前に亡くなっていた。それなのに、裏庭から聞こえる声は確かに亡くなった母親の声だった。
「週一、寒いよ。迎えに来て」
週一の手がゆっくりと扉へ伸びた。私は必死にその腕を掴んだ。
「駄目」
その瞬間、裏から笑い声が聞こえた。女の声でも男の声でもない。何人もの人間が重なって笑っているような声だった。そして最後に、風の中から低い声がした。
「一人足りない」
その言葉を聞いた瞬間、私はこの家の禁忌がただの迷信ではないことを初めて理解した。
その声を聞いた瞬間、週一は動かなくなった。私は夫の腕を掴んだまま必死に首を横に振った。
「駄目です。外へ出ないでください」
週一は答えない。ただ閉じられた障子の向こうを見つめている。すると裏庭から再び声がした。
「週一」
今度は先ほどよりも近い声だった。まるですぐ庭先に誰かが立っているようだった。
「週一、どうして来てくれないの?」
その声を聞いた週一の顔がみるみる青ざめていった。
「母さんだ」
「違います。お母さんはもう亡くなっているんでしょう?」
週一は答えなかった。その時だった。障子の向こう側に人の影が現れた。二人とも息を飲んだ。白い影だった。長い影が障子の向こうに立っている。けれど、足元だけが見えない。影は地面に立っていなかった。まるで誰かが宙に浮いたまま、障子の向こうにいるようだった。
「みよ」
今度は女の声だった。
「そこにいるんでしょう」
私は口を抑えた。影が少しずつ近づいてくる。一歩、また一歩。けれど足音はない。そのまま障子のすぐ前まで来ると、影が止まった。そして障子に手を当てたような形になった。白い指の跡が障子に浮かんだ。
指は異様に細く、関節が人間のものとは思えないほど長く伸びていた。その手がゆっくりと障子を撫で始めた。やがて女の声が小さく笑った。
「寒いの。中へ入れて」
週一は震えていた。そして突然立ち上がった。
「母さん」
「駄目です!」
私は必死に夫の腰にしがみついた。その瞬間だった。障子の向こうの影がぴたりと動きを止めた。しばらく沈黙が続いた。そして影の頭だけが、ゆっくりと横へ傾いた。人間なら絶対に曲げられない角度だった。
その直後、家の裏からあの壺を叩くような音が聞こえた。
ドン。
二人は振り返った。
ドン。
今度はもっと強く。
ドン、ドン、ドン。
赤い布を掛けられた壺の中から、何かが外へ出ようとしているようだった。
「嫌だ」
週一が小さくつぶやいた。
「また始まった」
「何がですか?」
みよが聞いても週一は答えない。ただ震える声で言った。
「母さんが死んだ夜も、同じ音がした」
その言葉を聞いた瞬間、私は夫を見つめた。週一は、ずっと知っていたのだ。この家で何が起きているのか。
そしてその夜、私たちのいる部屋の外で誰かが歩き始めた。廊下をゆっくりと。畳をこするような音だった。それは部屋の前を通り過ぎることなく、何度も何度も同じ場所を行き来していた。
やがて音が止まり、障子の向こうから声がした。今度は亡くなったはずの週一の母親でもない。聞いたことのない、幼い女の子の声だった。
「おばちゃん」
私は凍りついた。
「私のこと、知ってるよね」
私は首を横に振った。知らない。そんな子供は知らない。けれど、次に聞こえた言葉で私の体から力が抜けた。
「私、この家の裏で死んだんだよ」
その瞬間、家中の電気が一斉に消えた。真っ暗になった部屋の中で、裏庭の壺から低い声が響いた。
「二人目」
そして、私のすぐ後ろから誰かの息遣いが聞こえた。
その夜、私たちは一睡もできなかった。電気が消えた後、しばらくして明かりは戻った。けれど障子の向こうにはもう誰の姿もなかった。廊下を歩く音も消えていた。ただ裏庭からは、あの壺を叩くような音が時々聞こえていた。コン、コン。まるで中にいる何かが、こちらの様子を伺っているようだった。
朝になると、週一は一人で新吉を呼んだ。私はその場を離れなかった。もう何も知らないままでいることが怖かったのだ。
新吉は二人の前に座ると、しばらく黙っていた。そして重い口を開いた。
「もう隠しておけませんな」
週一は俯いたまま聞いた。
「母さんの時も、あれが出たんだろう」
新吉は静かに頷いた。
「はい」
「何年前だ?」
「二十七年前です」
私は驚いた。二十七年前。新吉は私を見て、ゆっくり話し始めた。
「この家の裏には昔から小さな池がありました。今は埋められていて竹が生えている場所です。けれど昔は、子供たちが近づくことを禁じられていた池だったそうです。ある夏の日、村の子供が一人、池で亡くなりました。事故として処理されたそうです。しかし、それから数年の間に同じ場所で子供が二人、そして一人の女性が亡くなりました。村では偶然だという者もいましたが、老人たちは違いました。池の底には昔から何かがいる。そう言って、誰も近づかなくなったそうです」
「じゃあ、あの壺は何なんですか?」
私が尋ねると、新吉は裏庭を見た。
「あれは池を埋めた時に置かれたものです」
「何のために?」
「忘れないためです」
私は意味が分からなかった。新吉は続けた。
「昔池で亡くなった者たちの名前を紙に書き、それを壺の中へ収めたそうです。そしてその上から赤い布を掛けました。死んだ者の名前を夜に呼んではいけない。それがこの家に残された最初の決まりだったのです。けれど、ある年、一人の男がその禁忌を破りました。酒に酔った男が、夜中に亡くなった子供の名前を面白半分に呼んだのです。その翌朝、男は自分の布団の中で死んでいました。体には外傷がありませんでした。ただ、口の中に大量の泥が入っていたそうです」
私は背筋が寒くなった。
「泥?」
新吉は頷いた。
「池はもうありません。それなのにです。その後も同じことが何度か起きました。誰かが夜に名前を呼ぶ。すると、その名前を呼ばれた者が数日のうちに体調を崩す。そして最後には家から姿を消す。だからこの家では、決して夜に名前を呼ばない。返事もしない。裏庭へも行かない。それが代々守られてきた決まりでした」
私は昨夜のことを思い出した。
「でも昨日、あの声は私の名前を呼びました」
新吉は目を伏せた。
「それだけではありません」
「何がですか?」
「奥様。昨夜、壺の中から『二人目』という声が聞こえたんでしょう」
私は黙って頷いた。すると新吉の顔が変わった。
「あれは人数を数えているんです」
「誰を?」
「この家にいる人間を」
その瞬間、私の背中を冷たい汗が流れた。新吉は続けた。
「一人目は昔亡くなった子供です。二人目は…」
彼は言葉を止めた。そして私ではなく、週一を見た。
「まだ、二人目が誰なのか私にも分かりません」
その日の午後、私はどうしても確かめたくなり、一人で古い物置へ入った。そこには何十年も前の写真や古い書類が積まれていた。一冊の黒い帳面を開くと、そこには亡くなった人たちの名前が並んでいた。子供、女、男。そして最後のページに、赤い墨で一つの言葉が書かれていた。
「まだ一人戻っていない」
私はその文字を見た瞬間、背後から誰かに名前を呼ばれた気がした。振り返っても誰もいなかった。けれど床には、濡れた足跡が一つだけ残っていた。その足跡は物置の中へ入ってきたものではなかった。私のすぐ後ろから、まるで誰かが今まで私の背後に立っていたかのように、そこから始まっていたのだ。
その日の夕方から、村の様子がおかしくなった。昼間までは普通に聞こえていた人の話し声も、農作業をする音もほとんど聞こえなくなった。私は縁側に座り、山道の方を見た。いつもなら夕方になると近所の人が通る。畑から帰ってくる老人、薪を運ぶ男、買い物から戻ってくる女、子供たちの笑い声。それがその日は、何一つ聞こえなかった。まるで村全体が息を潜めているようだった。
週一が外から戻ってきたのは、日が完全に沈んだ後だった。玄関を開けるなり、靴も脱がずに言った。
「電話が繋がらない。公衆電話も駄目だった」
私は急に不安になった。この時代、携帯電話などない。家の電話が使えなければ、外と連絡を取る手段はほとんどなかった。
「山道は途中から通れない」
「どうして?」
週一は黙っていた。そして低い声で言った。
「土砂が崩れている」
その夜、雨は降っていなかった。それなのに山道の一部が崩れ、村の外へ出る道が塞がれていた。さらに悪いことに、電話まで切れていた。新吉はそれを聞いても驚かなかった。ただ静かに言った。
「始まったんです」
「何が?」
私が聞くと、新吉は裏庭を見た。
「数えるのが始まったんです」
その言葉を聞いた瞬間、私は物置で見つけた帳面を思い出した。まだ一人戻っていない。
「新吉さん。この家にいる人間が数えられているんですか?」
新吉は答えなかった。その代わり、玄関の扉をしっかりと閉めた。さらに障子も全部閉めた。
「今夜は、誰が何を呼んでも返事をしないでください。もし外に誰かいたら、人間なら朝まで待ってもらえばいい。問題は、人間ではないものです」
その言葉が終わった直後、玄関の扉を叩く音がした。
コン、コン。
三人とも動かなかった。コン、コン。今度は二回。新吉が私たちに目で合図した。絶対に声を出すな。
しばらくすると、扉の向こうから男の声が聞こえた。
「週一さん」
夫の顔が強張った。声は、近所に住む佐木さんにそっくりだった。
「週一さん、開けてくれ」
週一が立ち上がろうとした。しかし新吉が腕を掴んだ。
「駄目です」
「でも佐木さんだ」
「違います」
「どうして分かる?」
新吉は玄関の扉を見つめたまま答えた。
「佐木さんは去年亡くなっています」
週一の顔から血の気が引いた。その向こうからまた声がした。
「週一さん、寒いんだ。中へ入れてくれ」
私は震えが止まらなかった。その声は確かに佐木さんの声だった。昔何度も聞いたことのある声。けれど死んだ人間が、夜中に玄関の前に立っているはずがない。
やがて声は別のものへ変わった。
「みよ」
私は目を閉じた。
「みよ、ここを開けて」
声は少しずつ近づいているように聞こえた。玄関の外にいるはずなのに、耳元で囁かれているようだった。
そして突然、家の奥から大きな音がした。ガタン。私たちは一斉に振り返った。音がしたのは、あの物置だった。新吉の顔が青ざめた。
「誰かが帳面を見つけた」
「どういうことですか?」
新吉は答えなかった。物置の方へ向かおうとした時、裏庭から低い声が響いた。
「二人目」
そして少し間を置いて。
「三人目」
私は息を飲んだ。新吉がゆっくりとこちらを振り返った。
「奥様。今、この家にいるのは…」
新吉は人数を数えようとした。
「私と、週一さんと…三人です」
その瞬間、天井から誰かの声が聞こえた。
「四人」
三人とも凍りついた。私たちの頭上には誰もいない。それなのに、古い天井裏から子供のような笑い声が聞こえてきた。
「一人増えたよ」
その直後、家の全ての扉が一斉に閉まった。バタン、バタン、バタン。外へ出ることもできない。電話も繋がらない。山道も塞がれている。そして私たち以外の四人目が、この家の中にいる。
その時、初めて私は理解した。この家から逃げること自体が、もう禁忌を破ることになっていたのだ。
その夜、家の中にいる四人目が誰なのか、私は確かめることができなかった。天井裏から聞こえていた笑い声はしばらくすると消えた。けれど安心することはできなかった。家の中には私たち三人以外に、確かに何かがいる。それだけははっきりしていた。
新吉はすぐに仏間へ向かった。古い仏壇の前に座ると、引き出しの中から一本の古い鍵を取り出した。
「何の鍵ですか?」
私が尋ねると、新吉は答えた。
「裏庭の鍵です」
「でも、裏庭へ行くんですか?」
「行かなければなりません」
週一が驚いた顔をした。
「何をするつもりだ?」
「壺を確認します。今夜、あの壺が開けば、もう止められません」
私はその言葉を聞いて体が震えた。
「開くって、誰かが開けるんですか?」
新吉は首を横に振った。
「中にいるものが、自分で出てくるんです」
三人で裏庭へ向かった。家の中は異様なほど静かだった。玄関の扉を開けると、冷たい夜風が顔に当たった。月は出ていた。けれど、妙に暗く見えた。
新吉が木の扉を開ける。その向こうに、あの壺があった。赤い布は、風もないのにゆっくり揺れていた。
「近づかないでください」
新吉が言った。
「ここから見ていてください」
私たちは数歩離れた場所に立った。新吉が壺を見つめる。その瞬間、壺の中から何かを擦るような音がした。カリ、カリ、カリ。あの夜と同じ音だった。
新吉の顔が青ざめた。
「もう起きている」
次の瞬間、赤い布がふわりと宙へ浮いた。風はない。それなのに布だけがゆっくりと持ち上がっていく。そして壺の口から、黒い髪が一本、二本と伸びてきた。私は声を出しそうになった。髪はまるで生き物のように地面へ垂れ落ちていく。一本、また一本。
やがて壺の中から白い手が現れた。細く、異様に長い指。その手が壺の縁を掴んだ。
「嫌だ」
週一が後ずさった。白い手がゆっくりと壺の外へ出てくる。続いて顔が現れた。長い黒髪の隙間から見えたのは、真っ白な顔だった。目は閉じている。鼻も口もほとんど見えない。ただ顔の中央に、小さな黒い穴のようなものがあった。
新吉が震える声で言った。
「お菊さん」
その名前を聞いた瞬間、女の顔がこちらを向いた。閉じていたはずの目がゆっくり開く。その目には、白目しかなかった。
女が笑った。
「まだ生きていたのね」
新吉は一歩後ろへ下がった。
「お前はもう死んだ」
「そうね」
女は静かに答えた。
「でも、まだ足りないの」
私は思わず聞いた。
「何が足りないんですか?」
新吉が振り返った。
「奥様、喋ってはいけません」
しかし、もう遅かった。女の顔がゆっくりと私の方へ向いた。そして口が大きく開いた。人間なら決して開けられないほど、大きく。
「あなた」
女が笑った。
「昨日、私に返事をしなかったでしょう」
私は凍りついた。
「だから今夜は、迎えに来たの」
その瞬間、私の足元に濡れた足跡が現れた。一つ、二つ、三つ。誰も歩いていないのに、足跡だけが私の方へ近づいてくる。そして私のすぐ目の前で止まった。
女が小さく笑った。
「四人目は、あなた」
この言葉と同時に、私の背後から誰かが私の肩に手を置いた。冷たい手だった。そして耳元で、私自身の声がした。
「返事をして」
肩に置かれた冷たい手に、私は体を固くした。耳元では私自身の声が繰り返している。
「返事をして。返事をして」
けれど、それは私の声であって、私の声ではなかった。私は必死に口を閉じた。隣にいた週一が私の肩を掴んで引き寄せる。
「みよ、絶対に喋るな」
その瞬間、私の肩に置かれていた手が消えた。けれど、まだ目の前に立っている。白い顔、長い黒髪、白目だけの目。その口元がゆっくりと笑った。
「まだ、返事をしないの?」
女が一歩近づいた。その瞬間、新吉が大きな声を出した。
「もう十分だ」
新吉は懐から小さな布を取り出した。中には古びた札と数珠が入っていた。
「それは、昔、池を沈めた時に使ったものです」
新吉は震える手で握った。
「本当は、もう二度と使いたくありませんでした」
そう言うと、新吉は壺の前に座った。そして低い声で何かを唱え始めた。難しい呪文ではなかった。亡くなった人の名前を、一人ずつ呼んでいたのだ。
「サチ。ハルエ」
その名前を聞くたびに、庭の空気が重くなっていった。女の顔から笑みが消えた。
「名前を呼ぶな」
新吉は止まらない。
「お前たちは、もうこちら側の人間ではない」
その瞬間、女が突然口を大きく開いた。耳を塞ぎたくなるほどの声だった。
「違う」
庭の竹が一斉に揺れた。家の障子まで激しく震えている。週一が私を抱き寄せた。新吉は必死に声を張り上げた。
「ここは生きている者の家だ。お前たちの居場所ではない」
女が一歩後ろへ下がった。その顔から、少しずつ血の気が消えていく。すると壺の中から別の声が聞こえた。
「違う。ここは私たちの家」
その声は一人ではなかった。男、女、老人、子供。何十人もの声が重なって聞こえてきた。
新吉は突然、数珠を地面へ置いた。そして深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
私は驚いた。
「新吉さん?」
新吉は顔を上げない。
「長い間、お前たちを閉じ込めたままにしていた。忘れてはいけない者たちを、忘れたふりをしていた」
その言葉を聞いた女の顔が変わった。怒りではなかった。悲しそうな顔だった。新吉は続けた。
「今夜、全部を終わらせる。だから、もう誰も連れて行かないでくれ」
しばらく沈黙が続いた。やがて女が静かに口を開いた。
「だったら、私たちの名前を返して」
私はその言葉を聞いて意味が分からなかった。名前を返す。新吉は小さく頷いた。
「それが、この家に残された最後の約束です」
そして新吉は私たちに告げた。
「物置にある黒い帳面を持ってきてください」
週一が急いで家の中へ戻った。しばらくして、古い黒い帳面を持って戻ってきた。新吉は帳面を開いた。最後のページには、赤い墨でこう書かれていた。まだ一人戻っていない。
新吉はその文字を見つめた。そして震える声で言った。
「違う。これは、戻っていないんじゃない。返していないんです。誰かの名前を、壺の中から返していない」
その瞬間、女が私を見た。そして初めて、その目から一滴の涙が流れた。
「みよ」
今度の声には恐ろしさがなかった。ただ寂しさだけがあった。
「私の名前を、読んで」
新吉が帳面をめくった。一枚、また一枚。そして最後のページの裏側から、小さな紙片を取り出した。そこに書かれていた名前を見た瞬間、新吉の手が止まった。
「誰なんですか?」
週一が尋ねる。新吉は震える声で答えた。
「この家で、最初に死んだ人です」
そしてその名前を口にした瞬間、庭に立っていた女の姿がゆっくりと消え始めた。しかし消える直前、女は私に向かって静かに微笑んだ。
「ありがとう」
その声を最後に、庭には誰もいなくなった。ただ、赤い布だけが風もないのに静かに地面へ落ちた。
女の姿が消えた後も、私たちは誰一人として動くことができなかった。庭にはただ冷たい夜風が吹いていた。さっきまで確かにそこにあった白い顔も、長い黒髪ももうない。けれど新吉は安心していなかった。
「まだ終わっていません」
そう言って、壺を見つめていた。
「どうしてですか?」
私が尋ねると、新吉は答えた。
「今、名前を一つ返しました。でも、壺の中にはまだ残っています」
その言葉と同時に、壺が大きく揺れた。週一が息を飲む。ドン。今度は先ほどより強い音だった。赤い布が壺の口からゆっくり浮き上がる。
新吉は立ち上がった。
「みよさん、週一さん、家の中へ戻ってください」
「新吉さんは?」
「私はここに残ります」
「一人では危ないです」
新吉は首を横に振った。
「私がやらなければなりません」
その時、壺の中から声が聞こえた。
「新吉」
新吉の顔が強張った。
「新吉」
今度は老人の声だった。新吉はその声を聞いた瞬間、目を閉じた。
「親父」
私は驚いた。新吉の父親も、すでに亡くなっているらしい。壺の中から、懐かしそうな声が続く。
「新吉、こっちへ来い。ずっと待っていたぞ」
新吉は数珠を握りしめた。
「もう騙されません」
すると声が変わった。今度は女性の声。
「新吉さん」
そして子供の声。
「おじちゃん」
さらに週一の母親の声。
「週一」
最後に、私自身の声。
「みよ」
四つの声が同時に、私たちの名前を呼んだ。私は耳を塞いだ。けれど声は耳からではなく、頭の中へ直接入ってくるようだった。
「返事をして。ここへ来て。一緒に帰ろう」
週一が苦しそうに頭を抱えた。
「母さん…」
私は必死に夫の腕を掴んだ。
「聞かないで」
しかしその瞬間、週一の足が勝手に裏庭へ向かって動き始めた。
「週一!」
私は後ろから抱きついた。けれど週一の体は異常なほど強くなっていた。まるで誰かに引っ張られているようだった。
「みよさん、手を離さないで!」
新吉が叫ぶ。
「はい!」
私は必死に夫を掴んだ。週一の足が一歩、また一歩と進んでいく。あと少しで壺に手が届くところまで来た。その時、新吉が壺の前へ立ちはだかった。
「戻れ!」
大声で叫び、数珠を壺へ向けた。その瞬間、庭に何人もの叫び声が響いた。
「嫌だ!返して!返せ!寒い!苦しい!」
声が重なり、家全体が震えた。私は思わず目を閉じた。そしてその中に、一つだけはっきり聞こえる声があった。
「私たちは、ここで死んだ」
新吉が叫んだ。
「分かっている。だから、もう終わりにする」
新吉は黒い帳面を開き、そこに書かれている名前を一人ずつ読み上げ始めた。サチ、ハルエ、文太、千代。名前を呼ぶたびに、庭の空気が少しずつ軽くなっていった。
最後の名前を読もうとした時、新吉の手が止まった。
「この名前だけは…」
週一が聞いた。
「どうした?」
新吉は震えていた。
「この人だけは、この家の人間が殺したんです」
私は息を飲んだ。その瞬間、壺から猛烈な風が吹き出した。赤い布が宙高く舞い上がる。そして壺の中から、女が現れた。さっきの女とは違った。髪は濡れ、顔は泥で汚れている。その首には、縄のような黒い跡が残っていた。
女は私たちを見つめ、そしてゆっくり口を開いた。
「私を殺したのは、この家の人間です」
週一が震えながら聞いた。
「誰なんだ?」
女は答えなかった。ただゆっくりと、週一の方を指差した。
「あなたの父親」
その瞬間、週一の顔から完全に血の気が引いた。そして女は最後に言った。
「だから、この家の人間が一人残るたびに、私は一人ずつ連れて行くの」
その言葉と同時に、庭の地面が大きく揺れた。竹が倒れ、赤い布が地面に落ちる。そして私の足元から、冷たい手が伸びてきた。
「いや!」
私は叫んだ。週一が私を抱き寄せる。新吉が必死に最後の名前を読み上げた。この瞬間、家の奥から誰かの絶叫が響いた。
そして私たち三人の前に、もう一人の何かが姿を現した。目の前に現れたものを見た瞬間、私は声を失った。それは人の姿をしていたけれど、普通の人間ではなかった。古い着物を着た女だった。髪は肩から胸元まで濡れていて、顔には泥がこびりついていた。そしてその首には、黒く変色した跡が残っていた。
私は、あの女が何者なのかもう分かっていた。新吉が震える声でその名前を口にした。
「お菊さん」
女はゆっくり顔を上げた。
「新吉。どうして、まだここにいるんです?」
新吉の声は震えていた。女は答えなかった。ただ週一を見つめた。
「あなたのお父さんは、私を殺した」
週一の顔が固まった。
「俺の父親が?」
女は静かに頷いた。
「私は、この家で働いていました。それは今から何十年も前のことでした」
お菊はこの家で住み込みで働いていた。当時、この家には大きな池があった。その池のそばには古い蔵があり、そこには村の人たちから預かった大切なものが保管されていた。ある日、その蔵から金がなくなった。家の主人だった週一の父親は、お菊が盗んだと思い込んだ。
「私は盗んでいません」
お菊は何度も否定した。しかし、誰も信じてくれなかった。主人はお菊を池のそばへ連れて行き、そこで激しく責めた。
「返せ。盗んだものを返せ」
お菊は泣きながら言った。
「知りません。本当に何も知りません」
それでも主人は信じなかった。そしてその夜、お菊は戻ってこなかった。翌朝、池の中から遺体が見つかった。村には池に落ちて死んだと伝えられた。しかし本当は違った。お菊は殺されていたのだ。
そしてその事実を知っていたのが、新吉の父親だった。
「私は見ていました。でも、何もできませんでした。主人に逆らえば、私も殺されると思った」
お菊は何も言わなかった。ただ悲しそうに、新吉を見つめていた。新吉は涙を流していた。
「だから私はずっと黙っていた。池を埋めた時も、何も言えなかった。名前を書いた紙を壺に入れた時も、何も言えなかった」
私はその話を聞いて、胸が苦しくなった。あの壺は、亡くなった人を封じるためのものではなかったのだ。忘れられた人たちの名前を残すためのものだった。けれど長い年月の中で、人々は名前を忘れていった。名前を呼ぶことを恐れ、死者の話を避け、何もなかったことにしてしまった。その結果、お菊たちはこの世に残り続けたのだ。
「じゃあ、今まであの声が人を呼んでいたのは…」
私が震える声で尋ねると、新吉は静かに答えた。
「恨みだけではありません。忘れられたくなかったんです」
その言葉を聞いた瞬間、お菊の顔から初めて恐ろしさが消えた。
「私は誰かを殺したかったんじゃない。ただ…」
お菊の声が震えた。
「私がここにいたことを、誰かに覚えていて欲しかった」
私は涙が出そうになった。すると週一がゆっくり前へ出た。
「父の代わりに謝ります」
お菊は週一を見た。
「俺は何も知らなかった。でも、知らなかったからって許されることじゃない」
週一はその場に正座した。そして深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
長い沈黙が続いた。やがてお菊は小さく笑った。
「あなたは悪くない。でも、この家にはまだ一つだけ嘘が残っています」
新吉が顔を上げた。
「嘘?」
お菊は古い蔵の方を指差した。
「私を殺した理由です」
その瞬間、週一の顔が変わった。そして新吉も何かに気づいたようだった。お菊は静かに言った。
「私は金を盗んでいません。本当に盗んだのは…」
そこで声が途切れた。そしてお菊は家の中を見つめた。
「この家の主人ではありません。この家にいた、もう一人の人間です」
その瞬間、私たちの後ろから誰かの低い笑い声が聞こえた。
「まだ話すつもりか」
私たちは一斉に振り返った。そこには誰もいない。けれど、仏間の奥から古い位牌が一つ、ゆっくりと倒れた。位牌が倒れた音は、静かな家の中に異様なほど大きく響いた。
新吉が倒れた位牌を拾い上げる。すると、その位牌の裏側から一枚の古い紙がひらりと落ちた。新吉が拾い上げる。紙は黄ばんでいて、所々黒く変色していた。そこには古い筆跡で、一人の名前が書かれていた。
新吉はその名前を見た瞬間、顔を強張らせた。
「そんなはずはない」
週一が尋ねる。
「誰なんだ?」
新吉はしばらく答えなかった。やがて震える声で言った。
「お菊さんを殺した、本当の人間です」
私は息を飲んだ。その名前は、週一の父親ではなかった。この家で長年暮らしていた、ある女性の名前だった。その女性は週一の父親の妹。つまり、週一にとっては叔母に当たる人だった。
昔、家の金を盗んだのは、その女性だったのだ。盗みを隠すため、お菊に罪を着せた。そして家の主人だった週一の父親に嘘をついた。その結果、お菊は殺された。
「父は、騙されていたのか」
週一がつぶやいた。新吉は頷いた。
「そうです。でも、主人も途中から真実に気づいていた。それでも、もう後戻りできなかったんです。家の名誉を守るため、村に知られないようにするため、お菊の死を事故として処理するため。家族全員が、少しずつ嘘を重ねていった。そして、その嘘を守るために、死んだ人間の名前さえ忘れたふりをしたのです」
お菊は、その全てを見ていた。だから長い年月が経っても、この家から離れることができなかった。
「私が、全部終わらせます」
週一が言った。彼は仏壇の前に座り、古い位牌を一つずつ並べ始めた。そして亡くなった人たちの名前を読み上げた。一人、また一人。名前を呼ぶたびに、家の中に漂っていた冷たい空気が少しずつ薄れていった。最後にお菊の名前を呼んだ。
「お菊さん」
週一の声は震えていた。
「長い間、あなたを忘れていました。俺は何も知らなかったけれど、それでもこの家の人間です。本当に申し訳ありませんでした」
その瞬間、庭から風が吹き込んだ。障子が大きく揺れた。そしてどこからともなく、女の声が聞こえた。
「もう、いいよ」
私はその声を聞いた瞬間、涙が出た。あれほど恐ろしかった声が、最後にはとても穏やかに聞こえたのだ。新吉も目を閉じて、静かに頭を下げた。
すると、裏庭に置かれていた壺がゆっくりとひび割れた。ピシッと細い亀裂が一本。そこから二本。そして最後には、全体が崩れ落ちた。中から出てきたのは、古い紙片だけだった。三十年もの間、赤い布の下に閉じ込められていた名前たちだ。新吉はその紙を拾い上げ、一枚ずつ火にくべた。燃える紙を見ながら、新吉は言った。
「これでようやく、帰れるでしょう」
その夜を境に、家の中から声は聞こえなくなった。名前を呼ぶ声も、廊下を歩く音も、壺を叩く音も、全て消えた。
翌朝になると、山道を塞いでいた土砂も一部崩れ、外へ出られるようになっていた。電話線も復旧した。村の人たちは何もなかったように日常へ戻っていった。けれど、私はあの家を離れることにした。あの場所にもう二度と戻ることはなかった。週一もしばらくして家を売った。新吉だけは、その家を最後まで見届けると言って残った。
それから数年後、私は新吉が亡くなったと聞いた。葬儀には行った。そして最後に一つだけ、不思議な話を聞いた。新吉が亡くなる前の夜、布団の中で誰かと話していたらしい。家族が耳を済ますと、新吉は笑いながら言っていたそうだ。
「そうか。やっと帰れたんだな」
その後、新吉は静かに目を閉じた。私はその話を聞いた時、きっとお菊さんたちはようやくこの世から離れることができたのだと思った。
ただ一つだけ、今でも忘れられないことがある。葬儀から帰る途中、私は偶然古い山道の脇を通った。すると竹林の奥から、風もないのに赤い布が一枚だけ揺れていた。そしてその布の下から、ほんの小さな声が聞こえた。
「ありがとう」
私は振り返らなかった。ただそのまま、静かに歩き続けた。それが、お菊さんの最後の声だったのだと思っている。
あの出来事からもう何十年も経った。私も年を取り、あの頃のように山道を歩くことはなくなった。けれど、今でも時々あの家のことを思い出す。
昭和の頃には、どこの家にもその家だけに伝わる決まりがあった。夜遅くに口笛を吹いてはいけない。亡くなった人の名前を夜中に呼んではいけない。仏壇の前でふざけてはいけない。子供の頃は、そんな話を聞いてもただの迷信だと思っていた。大人たちが子供を怖がらせないように、昔から言い聞かせているだけだと思っていた。
でも、あの家で起きたことを経験してから、私は考え方が変わった。昔から残っている決まりには、必ず何か理由がある。その理由を知らないまま、笑って破ってはいけない。特に、死んだ人に関することだけは。
私は今でも、夜に誰かから名前を呼ばれると、すぐには返事をしない。一度息を止めて、相手が誰なのか、本当に生きている人間なのか、それを確かめてから返事をするようにしている。それはあの夜、新吉に教えられたことだ。
返事をすると、覚えられる。
あの言葉だけは、今でも忘れられない。
ただもう一つ、私はあの出来事を通して、忘れてはいけないことを学んだ。人間は、亡くなった人を忘れることで、その人が本当にいなくなったと思ってしまう。けれど、名前を忘れることと、罪を消すことは同じではない。どれだけ年月が経っても、どれだけ昔の出来事になっても、誰かが苦しんだ事実まで消えるわけではない。
お菊さんが長い間あそこに残っていたのも、誰かを恨んでいたからだけではなかったのだと思う。自分が生きていたこと。自分がそこで働いていたこと。そして自分が殺されたこと。その全てを、誰かに覚えていて欲しかったのだろう。
だから私は、今でもあの人の名前を忘れない。お菊さん。あの山奥の古い家で、誰にも知られず亡くなった女性。そして、長い間名前さえ奪われていた人。
もし、今もあの場所に古い竹林が残っているのなら、その下にはきっと昔の人たちが暮らしていた記憶も残っていると思う。だから、もし皆さんの故郷にも昔から誰も近づかない場所があったり、夜には決して名前を呼んではいけないと言われている場所があったり、誰も理由を説明してくれない古い決まりが残っていたりしたら、どうか笑って破らないでください。
理由を知らないということは、理由が存在しないということではありません。昔の人たちは、私たちが忘れてしまった何かを知っていたのかもしれない。そして、その記憶を守るために、一つの言葉だけを何十年も残していたのかもしれない。
夜に呼ばれても、返事をするな。
私は今でも、その言葉を守っている。もしいつか、夜中に誰もいないはずの場所から自分の名前を呼ばれたとしても、すぐには振り返らないでください。そして返事をする前に、その声が本当にあなたの知っている人の声なのか、一度だけよく考えてください。なぜなら、亡くなった人が本当に求めているものは、命ではなく。自分がここにいたという記憶なのかもしれないから。



