朝五時、いつものように羊を放ったあと、何気なくつけたラジオから流れてきたのは、二十五年ぶりに聞くあの子の名前と、五年間ずっと心にしまっていた女の名前だった。俺は携帯もテレビもない牧場で、羊飼いとして静かに暮らしてきた。だがそのニュースを聞いた瞬間、凍りついた。電話が鳴ったのはその日の昼だった。受話器の向こうの恩師の声は静かだった。「あの子を救えるかもしれない人間が、この国に二人だけいる。一人…

朝五時、いつものように羊を放ったあと、何気なくつけたラジオから流れてきたのは、二十五年ぶりに聞くあの子の名前と、五年間ずっと心にしまっていた女の名前だった。俺は携帯もテレビもない牧場で、羊飼いとして静かに暮らしてきた。だがそのニュースを聞いた瞬間、凍りついた。電話が鳴ったのはその日の昼だった。受話器の向こうの恩師の声は静かだった。「あの子を救えるかもしれない人間が、この国に二人だけいる。一人...

朝五時、まだ空は白み始めたばかりだった。俺は小屋の扉を開け、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。北海道の朝は本州の秋よりも冷たい。足元にアベルが寄り添ってきた。黒と白のボーダーコリーの相棒だ。一声だけ、朝の挨拶のように吠えた。俺は膝を折り、その頭を撫でた。

俺の名前は東場誠。羊と暮らす羊飼いだ。北海道の東のこの土地で、羊を六十頭ほど育てている。朝は牧草地に羊を放ち、昼は柵の修繕。夕方はまた羊を集めて小屋に戻す。それだけの毎日を、もう五年続けてきた。

俺はアベルに合図を送った。指笛を一度、短く。アベルは低い姿勢で走り出し、羊たちの群れを右へと導いていく。その動きに迷いはない。羊たちが柵の外へ流れ出し、朝日の中でゆっくりと草をはみ始めた。俺は木製の柵に腰を下ろし、水筒の茶をすすった。熱い茶が冷えた腹に落ちていく。

遠くで隣の牧場のトラクターの音が聞こえた。楽納家の藤原の朝も始まったらしい。しばらくすると、その音がこちらに近づいてきた。柵の向こうに、汚れた作業着姿の男が現れる。真っ黒に日焼けした顔に白い歯を見せて笑う男。俺の隣人であり、この五年間で唯一友人と呼べる存在になった男だ。

「父ちゃん、今日も一番乗りか。早起きは羊が勝手にさせてくれるんだよ。眠らせちゃくれない」

「違いない。うちの牛もそうだ」

藤原はそう言って柵に肘をついた。

「そういえば今週末、うちで飯食わないか。神さんが東場さんに食わせたいって何か作るらしい」

「牛飼いなら牛肉をもらうのは少し気が引けるな」

「気にするな。お前は一人でずっと自炊ばっかりだろう。たまには誰かが作った飯を食え」

俺は少し笑って頷いた。藤原はいつもそうだ。俺の過去を何も知らない。詮索もしない。ただ隣に牧場を持つ男が一人で暮らしているというだけで、五年間飯や酒に誘い続けてくれた。

トラクターの音が遠ざかっていく。俺は再び羊たちの群れに目を戻した。アベルが群れの端を静かに歩いている。風が木々を撫でていく。それだけの朝だ。それだけで十分だった。五年前までの俺は、こんな風に空を見上げることすらなかった。

翌日、俺は羊たちを小屋に戻し、アベルの器に餌を入れた。アベルが尻尾を振りながら餌に食らいつく。その音を聞きながら、俺は台所に立った。今夜は藤原の家に招かれていた。土産に自家製のチーズを持っていくつもりだった。先週うまく出来上がったやつだ。

軽トラで五分ほど走ると藤原の家に着く。玄関を開けると、味噌汁の匂いが漂ってきた。

「おお、待ってたぞ」

「東場さん、いらっしゃい。何もないけど」

「うちのチーズです。よかったら」

「まあ、東場さんも作れるのね」

食卓には煮物と焼き魚と大きな肉じゃがが並んでいた。藤原の子供が二人、俺の顔を見て笑う。上の娘は中学生、下の息子はまだ小学生だ。

「東場のおじちゃん、今度アベルと遊びたい」

「アベルは働き者だから、遊びに来るのは苦手なんだ。でも今度牧場に遊びに来るか」

「うん。行く」

賑やかな食卓だった。俺はこういう時、いつも少しだけ息が浅くなる。家族というものの温度に、まだ慣れきれていない。本当なら、俺にもこういう食卓があったはずだった。そう思いかけて、俺は箸を止めた。

「どうした? 魚の骨があったか?」

「いや、大丈夫だ。うまいよ。これ、神さんの得意料理だ」

食事の後、藤原と縁側で日本酒を酌み交わした。虫の声が遠くから聞こえてくる。

「なあ、東場」

「なんだ」

「お前、この土地に来て五年になるよな」

「ああ、そうなるな」

「一度も昔のこと話さないな」

俺は少しだけ間を置いた。

「話すほどのものじゃないんだ。ただ都会で疲れて逃げてきただけだよ」

「そうか。まあ、話したくなったら話せ。俺は聞くだけの耳は持ってる」

「ありがとう」

藤原はそれ以上何も聞かなかった。この男の優しさはいつもこうだ。

家に帰ったのは夜の十時を過ぎていた。俺はアベルの頭を撫で、居間の電気をつけた。テレビはこの家にはない。新聞も取っていない。ただラジオだけは、朝と夜に必ずつける習慣があった。

夜食を火にかけ、湯呑みに茶葉を入れる。ラジオからニュースキャスターの落ち着いた声が流れてきた。

「続いて医療のニュースです。国内でも数例しかない特殊な心臓の疾患を発症した循環器内科医、神谷優馬氏が勤務先の病院から東京の大学病院へと搬送されました。同大学病院の部長、佐藤広見氏が執刀に当たる予定ですが、手術の難易度は極めて高く……」

夜食が高い音を立てて湧いた。俺は火を止めるのを忘れていた。神谷優馬。その名前を俺は知っていた。二十五年前、まだ研修医だった俺が初めて執刀を任された子供だった。五歳の男の子。手術の後、母親に手を引かれて病室に戻っていく小さな背中を、今でも覚えている。

あの子が医者になっていた。そして今、患者になった。もう一つ、俺の心を掴んだ名前があった。佐藤広見。俺が五年前に何も言わずに置き去りにした女だ。かつての婚約者。

今も彼女は俺を待っているのだろうか。いや、そんなはずはない。待たせるようなことを、俺はしたのだから。

茶の湯気がゆっくりと立ちのぼっていく。アベルが俺の足元に静かに寄り添った。主人の異変を、この犬はすぐに察する。窓の外では北海道の夜が、深く静かに広がっていた。長年閉じてきた扉の向こうから、何かが呼んでいる気がした。

俺は湯呑みを手に取り、茶をすする。もう俺は羊飼いだ。メスを握った手は、今は羊の頭を撫でるためにある。アベルの静かな寝息だけが聞こえていた。

翌朝、時計を見るとまだ四時前だった。昨夜のラジオの声が耳の奥に張り付いて離れない。神谷優馬、佐藤広見。二つの名前が暗い天井に文字となって浮かんでくるような気がした。俺は寝床から出て、台所で水を一杯飲んだ。それでも胸の奥のざわめきは消えなかった。

外に出ると、東の空がわずかに白んでいた。アベルが小屋から顔を出し、俺を見上げた。

「悪いな。まだ早いよな」

俺はしゃがんでアベルの首元を撫でた。羊たちを牧草地に放ってから、俺は柵に腰を下ろした。朝日が羊たちの背を金色に染めていく。いつもならこの光景で心が落ち着く。今日は違った。

二十五年前のあの手術室が蘇ってくる。指導医の元で、俺は震える手でメスを握った。五歳の男の子。生まれつきの心疾患で、手術は困難だと言われていた。指導医が言った。

「東場。お前が閉じろ」

最後の縫合を俺に任せると言った。俺は無言で頷いた。糸を通す指先が汗で滑った。そしてあの子は生きた。術後、目を覚ました時、俺の顔を見て小さく笑った。その笑顔が俺を医者にした。医者であり続けさせた。二十年間ずっと。

その子が今、死にかけている。俺は膝の上で拳を握った。爪が手のひらに食い込んだ。

軽トラのエンジン音が近づいてくる。藤原だった。

「東場。朝早いな。羊もう出したのか?」

「ああ、今日は早くに目が覚めてな」

「顔色悪いぞ。風か?」

「大丈夫だ。少し眠れなかっただけだ」

藤原はしばらく俺を見ていた。

「昼、うちに来い。神さんが煮物を余らせてる」

「悪いな。行けたら行く」

トラクターが去っていく。家に戻ったのは昼過ぎだった。玄関を開けた時、居間の電話が鳴っていた。この家の電話が鳴ることはほとんどない。藤原か、資料屋か。それくらいだ。

俺は受話器を取った。

「はい、東場です」

相手はしばらく黙っていた。呼吸だけが受話器の向こうから聞こえた。やがて聞き覚えのある声が静かに言った。

「東場君、最音寺だ」

俺は受話器を握る手に力が入った。恩師の声だった。

「先生、どうしてこの番号を……」

「探すのに五年かかったよ。ひろみ君がずっと諦めなかった」

俺は何も言えなかった。

「東場君、ニュースは聞いたか?」

「はい」

「神谷君の手術は三日後だ。ひろみ君が執刀する。だがな、あの子の心臓は彼女一人の手には余る」

俺は目を閉じた。

「私は君に戻れとは言わない。君が去った理由も大方は察している。ただこれだけは伝えておきたかった。あの子を救えるかもしれない人間が、この国に二人だけいる。一人はひろみ君、もう一人は君だ」

受話器の向こうで電話は静かに切れた。俺はしばらく受話器を握ったまま立ち尽くしていた。

俺は縁側に座り、庭を眺めていた。アベルが隣で丸くなっていた。日が傾き、ポプラの影が長くなっていく。五年前のあの日のことが蘇ってくる。

あの頃の俺は大学病院の心臓外科医だった。世界中から手術依頼が届いた。一年のうち家に帰らない日が半分を超えていた。ひろみとは同じ病院で出会った。彼女も外科医だった。互いの忙しさを、互いだけが理解できた。だから婚約した。式の日取りも決まっていた。指輪も彼女の指にあった。

その頃、俺は一人の患者を見ていた。七歳の女の子だった。手術は成功するはずだった。俺の腕なら成功させられるはずだった。だが術中に予期せぬ出血が起きた。俺はあらゆる手を尽くした。それでもあの子は俺の手の中で静かに心臓を止めた。

その夜、俺は病院の屋上で一人だった。ひろみが探しに来てくれた。

「誠さん、あなたのせいじゃない」

俺は何も言えなかった。

「一緒に乗り越えましょう。私がいます」

俺は彼女の手を握れなかった。その時、はっきりと分かってしまった。俺はこの仕事を続けるたびに患者を死なせる。そしてその度に、隣にいる女を傷つける。俺は彼女にふさわしい男ではなかった。医者として、俺は自分を許せなくなっていた。夫として、俺は彼女を幸せにできる自信がなかった。

一週間後、俺は鞄一つ残して東京を出た。指輪も白いスーツも免許証も、机の上に置いてきた。ひろみへの手紙にはこう書いた。「俺を探さないでくれ。俺は君にふさわしくない」 たったそれだけだった。卑怯だった。今でもそう思う。

北海道に流れ着いたのは偶然だった。知り合いの伝手でこの牧場を譲り受けた。最初の一年は羊の世話の仕方も分からなかった。五年かけて、俺はようやく自分を許せる場所を見つけたのだった。

夜になって、俺は藤原の家を訪ねた。昼の誘いに行けなかった詫びのつもりだった。手には日本酒を一本下げていた。

「おお、来たか。飯は食ったのか」

「食べてきた。少し飲まないか」

「珍しいな。お前から誘うのは」

縁側に二人で並んだ。藤原の妻が漬物と湯呑みを出してくれた。虫の声が庭から聞こえてきた。しばらく無言で酒を酌み交わした。藤原は俺が話し出すのを待っていた。この男はいつもそうだった。

「藤原」

「ああ、なんだ」

「俺、昔医者だったんだ」

「そうか」

それだけだった。驚きも詮索もなかった。

「東京の大学病院で手術をしていた。婚約者もいた。全部捨ててここに来た」

「そうか」

「昔の患者が危ないらしい。俺が初めて執刀した子供だ。今は医者になっていた。その手術を、俺の元婚約者が執刀する」

藤原は遠くの山を見ていた。

「俺はな、お前がここに来た日のこと覚えてる。軽トラの荷台に鞄一つだけ積んでな、俺に頭下げてきた。『よろしくお願いします』って」

俺は湯呑みを見つめていた。

「あの時から俺は思ってた。この男は何か大きなもんを置いてきた男だってな。だから聞かなかった。聞いたらお前が壊れそうな気がしたからな」

「ありがとな」

「東場。俺は牛飼いだから難しいことは分からんがな。俺には分かることが一つある」

「なんだ」

「お前は今迷ってるんじゃない。もう決めてる。ただ背中を押して欲しいだけだ」

俺は藤原の顔を見た。藤原は笑っていなかった。真剣な目で俺を見ていた。

「行ってこい、東場。羊は俺が見といてやる。アベルも預かる。何日でも何ヶ月でも構わん」

「藤原……」

「行ってこい。お前の手を待ってる人間がいるんだろ。牛飼いより羊飼いより、大事な仕事だ」

胸の奥がじんわりと熱くなった。静かに涙がこぼれた。

「明日の朝、立つよ」

「そうか。じゃあ今夜はもう一本飲もう」

藤原は立ち上がり、台所に消えた。俺は月を見上げた。

翌朝、俺は空が白む前に小屋を出た。アベルは俺の足元にピタリとついてきた。主人が遠くへ行くことを、この犬はもう察していた。俺は膝を折り、その頭を両手で挟んだ。

「アベル、しばらく藤原さんのところで世話になれ。いい子にしてろよ」

アベルは俺の顔をじっと見上げた。一声だけ鳴いた。軽トラの荷台に小さな鞄を一つ積んだ。藤原が庭先に立って待っていた。その隣に藤原の妻と子供たちも並んでいた。

「東場、無理はするな。だがやるからには全部やってこい」

「東場さん、おにぎり作ったから車の中で食べてね」

「じいちゃん、いつ帰ってくる?」

「なるべく早く帰る。帰ったらアベルと一緒に牧場を走ろう」

息子は大きく頷いた。俺は藤原に向き直り、深く頭を下げた。

「藤原に、この五年、お前がいなかったら俺はここまで来られなかった」

「恩を言うな。さっさと行け」

軽トラを空港まで走らせ、そこから五年ぶりに飛行機に乗った。窓の外、雲の下に北海道の緑が広がっていく。その緑が小さくなっていくにつれ、俺の胸の中で五年間閉じてきた何かが、ゆっくりと目を覚ましていくのを感じた。

羽田に降り立った時、俺は自分が別の生き物になったような気がした。人の波、車の音、光の洪水。懐かしいはずの町が、今は他人の町のように見えた。

大学病院は五年前と何も変わっていなかった。受付で最音寺の名を告げた。部長室に案内された俺は、扉の前で息を整えた。ノックをすると、聞き覚えのある声が「入りなさい」と答えた。部屋に入ると、最音寺が窓辺に立っていた。五年で髪はすっかり白くなっていた。

「来たか、東場君」

「先生、ご無沙汰しております」

「痩せたな。だがいい顔になった」

最音寺は机の上に一枚のカルテを置いた。神谷優馬のカルテだった。俺はそれを手に取った。文字を追う目が勝手に動き出す。病名、術式の候補。忘れていたはずの言語が、頭の中で音を立てて動き始めた。

「難しい手術だ。ひろみ君は執刀を決めている。だが一人では厳しい」

「先生、私はもうメスを握る資格が……」

「資格の話をしているんじゃない。目の前の命の話をしている」

その時、部屋の扉が静かに開いた。振り返った俺の目に、白い姿の女が映った。佐藤広見だった。ひろみは扉の前で立ち尽くしていた。唇がわずかに震えていた。

「誠さん……」

「ひろみ」

「本当に、あなたなの?」

「ああ、俺だ」

ひろみは一歩こちらへ歩み寄った。それからもう一歩。

「ずっと探していました」

「すまなかった。何を言っても遅いことは分かっている」

「謝らないでください。今はそれより大事なことがあるんです」

彼女は俺の目をまっすぐに見た。

「神谷先生の手術、私と一緒に執刀してくださいますか?」

俺は目をそらせなかった。

「俺は五年間メスを握っていない。手が鈍っている」

「あなたの手は覚えています。私が覚えています。忘れるはずがない」

俺は自分の右手を見た。羊の毛を刈り、柵を修繕し、アベルの頭を撫でてきた手だった。その手を俺はゆっくりと握って開いた。最音寺が静かに言った。

「東場君、あの子を救えるかもしれない手が、この部屋に二人いる」

「分かりました。やらせてください」

手術は翌朝八時に始まった。消毒液の匂い。機械の低い作動音。俺は洗い場で手を洗った。指先まで丁寧に、丁寧に。手術着に袖を通し、手袋をはめた。ひろみが隣に立った。マスクの上の目だけが見えた。その目が俺に一度だけ頷いた。俺も頷き返した。

手術台の上に神谷優馬が眠っていた。三十歳の若い医者だった。二十五年前、俺が最後に縫合した五歳の男の子だ。俺は彼の胸に一度だけ手を置いた。

手術が始まった。無駄のない真っすぐな線。血管を避け、組織を剥がし、心臓へと向かっていく。途中、大量の出血があった。

「ひろみ、大丈夫だ。俺が抑える。お前は縫え」

二人の手が、まるで一つの手のように動いていた。この二人は五年間離れていたはずだった。それなのに、指先の一つ一つが互いを覚えていた。言葉のない会話が、手術台の上を流れていた。

七時間の手術だった。

「ひろみ、閉じろ」

ひろみの手が一瞬震えた。だがその糸は真っすぐに通った。心電図の音が、力強く規則的になっていた。患者の命が、この手術台の上で繋がった。

神谷優馬は一週間後に目を覚ました。そして、ひろみから簡単な手紙が届いた。「経過は良好です」 それだけの短い手紙だった。最後に一行だけ、こう書いてあった。

「あなたは羊飼いに戻ってください。それがあなたの選んだ場所ですから」

ひろみは俺を引き止めなかった。それが彼女の答えだった。五年間俺を探し続けた女の、最後の優しさだった。

俺は東京を発った。千歳空港に降り立った時、藤原が軽トラで迎えに来ていた。助手席にはアベルが座っていた。俺の姿を見つけたアベルは、窓に前足をかけて尻尾を振り続けた。

軽トラが牧場への道を走る。

「途中、どうだった?」

「うまくいったよ」

「そうか」

それだけだった。牧場に着くと、羊たちが柵の向こうで草をはんでいた。一頭も欠けていなかった。藤原がこの十日間、守ってくれていた。

俺はアベルを地面に下ろした。アベルは一度大きく吠え、羊たちの方へ駆けていった。その走る背中を、俺はしばらく眺めていた。風が木々を撫でていく。

Thumbnail