夕食後、私はリビングでくつろいでいた。すると息子のかずやが申し訳なさそうな顔をしながらも、当然のことのように言った。
「母さん、明日から俺の母が1週間ほど泊まりに来るんだ。客用の部屋は母に使ってもらうから、廊下で寝てくれないか」
冗談だろうと思った。この家は私が33年間病院で働いて、退職金をはたいて買った家だ。なのに、その家で私が廊下で寝ろというのか。
「ちょっと待って、廊下って本当に廊下?この家は私の名義よ」
私は震える声で反論したが、嫁ののり子が平然と言い放った。
「名義なんて形式的なものでしょう。実際に生活の主体になっているのは私たち夫婦なんだから。母さんだって分かってくれるよね」
かずやまで同意する。息子の言葉に、私は深い悲しみを感じた。33年間、朝5時に起きて病院へ通い、義父母の介護まで一人で担ってきた。その苦労で手に入れた家で、こんな扱いを受けるなんて。
結局、私は「分かったわ」と力なく頷くしかなかった。心の中で何かが音を立てて崩れていくのが分かったが、抗う気力もなかった。
翌朝、のり子がさらに信じられない言葉を口にした。
「お母さん、私の母は大切な賓客ですから、失礼のないようにお願いしますね。お母さんとは立場が違うんですから」
賓客。立場が違う。私は何も言えず、ただ箸を持つ手が震えた。
午後になると、かずやが廊下に簡易ベッドを運んできた。薄いマットレスに毛布が一枚。まるで避難所のような寝床だ。
「母さん、これで1週間我慢してよ。そんなに大げさに考えることじゃないだろう」
私は言葉を失った。自分の家で廊下に寝ることが、大げさなことではないというのか。
その夜、私は冷たい廊下に横になった。腰が痛む。寒さが骨身に染みる。でもそれ以上に心が痛む。隣の部屋からは、のり子とその母親の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「実質的には私たちのものだから」
のり子のその言葉が、鋭い刃物のように私の心を切り裂いていく。
深夜、トイレに起きた時、かずやとすれ違った。
「母さん、寒くない?」
一瞬、息子の優しさが戻ったのかと思った。しかし続く言葉は違った。
「あまり行席と貸しないでよ。お母さんの安眠の邪魔になるから」
私は何も言えなかった。ただ、心の中で何かが完全に壊れる音がした。
3日目の朝、私は体の痛みと寒さで目を覚ました。朝食の時間、ダイニングに入ろうとすると、のり子が険しい顔で立ちはだかった。
「お母さん、朝食は後にしてもらえます?今、母と大切な話をしているところなので」
私は黙ってキッチンに戻った。自分の家のダイニングにさえ、自由に入れないのだ。
廊下で待っていると、かずやと義母の会話が聞こえてきた。
「正直、母さんがいなければ、この家ももっと広く使えるのに。店住宅にリフォームすることもできるし」
「そうよね。お母さんの部屋を潰せば、素敵な客間が作れるわ」
「でも追い出すわけにもいかないでしょう」
「まあ、いずれは自然にね。高齢者施設も、最近は良いところが増えているし」
私はその場に立ちすくんだ。施設。私を施設に入れるつもりなのか。
夕方、私は自分の部屋から必要なものを取りに行くと、部屋の中が荒らされていることに気づいた。
「私の部屋で何をしたの?」
「ああ、母の荷物を置く場所が必要だったので、お母さんのものを整理させてもらったわ。使わないものは捨てておいたから」
捨てた。私に断りもなく、思い出の品々を。
かずやが帰ってきて、私を非難した。
「母さん、何を言ってるんだよ。のり子のお母さんが来ている間くらい、協力してくれてもいいじゃないか」
「かずや、私はこの家の所有者なのよ。それなのに廊下で寝て、掃除までしろというの」
「また権利書の話?母さん、もういい加減にしてよ。確かに名義は母さんかもしれないけど、実際にローンを払ったり、固定資産税を払っているのは俺たちなんだから」
「頭金は私が出したわ」
「昔の話でしょう。今は俺たち働いてるんだ。母さんは年金暮らしじゃないか」
確かに固定資産税は息子が払っている。だがそれは、私が生活費として毎月10万円を渡しているからだ。その事実を忘れてしまったのか。
のり子が追い打ちをかけた。
「お母さん、いい加減現実を見てください。この家の実質的なオーナーは私たち夫婦です」
「じゃあ、私は何なの?」
「言わなくても分かるでしょう」
その冷たい目つきに、私は心が凍る思いだった。
その夜、私は廊下の簡易ベッドで声を殺して泣いた。もう限界だった。
深夜、またかずやとのり子の会話が聞こえてくる。
「本当に、お母さんどこか施設に入ってもらえないかしら。正直もう限界よ」
「まあ、もう少し待てよ。母さんもそろそろ自分の立場を理解するだろう」
「理解したら、自分から出て行ってくれるかしら?」
「いや、それは……まあ、でも一緒のことだな」
私は簡易ベッドから起き上がった。もう聞いていられない。このまま黙って耐え続けることはできない。私はこの家の正当な所有者としての権利がある。
そう決意した私は、まず深夜2時、誰も使っていない書斎へと向かった。震える手で不動産の権利書を取り出す。そこには確かに「土地所有者 桐山正子」「建物所有者 桐山正子」とあった。間違いない。この家は完全に私の名義だ。ローンも私の預金から返済した。
次に、私はスマートフォンで法律を調べ始めた。民法第206条。所有者は、法令の制限内において、自由にその所有物の使用、収益及び処分をする権利を有する。つまり、私にはこの家を自由に処分する権利がある。そして、所有者の意思に反して居住を続けることは、親族であってもできない。
深夜3時を過ぎた頃、私は全ての準備を終えた。明日、息子夫婦に伝えるべきことを、メモにまとめた。
翌朝、私は誰よりも早く起きた。顔を洗い、身だしなみを整える。今日は、人生の転換点になる日だ。
朝食の時間、全員が食卓に揃ったのを確認して、私は立ち上がった。
「皆さん、朝食の前に重要なお話があります」
「母さん、座ってよ。朝から何なの?」
私はバッグから書類を取り出し、テーブルの上に置いた。
「これをご覧ください。この家の権利書です」
「だから何?」
「この家から出て行ってください」
静寂が食卓を包んだ。のり子の母親は驚いて口を開け、かずやは箸を落とした。
「何をバカなことを言っているの?冗談もいい加減にしてください」
「冗談ではありません。この家は私の所有物です。そして、所有者として、もうあなたたちに住んでもらいたくありません」
かずやが慌てた。
「母さん、正気なの?俺たちは家族だよ」
「家族?廊下で寝ろと言った人が、私の家族ですか?」
「それはでも、たった1週間じゃないか」
「たった1週間、自分の家で廊下に寝かされることが、たった1週間で済む話ですか?」
私は民法第206条が書かれた紙を見せた。
「法律上も、この家の処分は私にあります。つまり、私にはこの家に誰を住ませるか、誰を住ませないかを決める権利があるのです」
かずやが青ざめた。
「母さん、本気で言っているの?俺たちを追い出すつもり?」
「追い出すのではありません。お願いしているのです。廊下で寝るのがふさわしい人間には、この家に住む資格はありません」
のり子の母親が震え声で口を挟んだ。
「まさ子さん、ちょっと言いすぎじゃないかしら。のり子たちも謝るから……」
「謝れば済む問題ではありません。私を厄介者扱いし、お荷物と呼び、施設に入れようと画策していた人たちに、何を言う資格があるのですか?」
「施設なんて、誰も……」
「聞こえていました。全部、聞こえていました。「私がいなければもっと自由に暮らせる」「私の部屋を潰して客間を作る」そんな話も、全部」
誰も反論できない。夫のよしのぶが初めて口を開いた。
「まさ子、少し落ち着いて話し合おう」
「話し合う?今まで何度話し合おうとしたと思いますか?でも、誰も私の話を聞いてくれなかった。私はこの家で透明人間でした」
私は震える声を抑えて続けた。
「もう終わりです。私は自分の家で尊厳を持って生きたい。それができないなら、一人で生きる方を選びます」
かずやが土下座をした。のり子も慌てて続く。
「母さん、ごめんなさい。本当にごめんなさい。悪かった。俺が悪かった」
「お母さん、お願いします。謝ります。何でもしますから」
「何でも?では、今すぐ出て行ってください」
「そんな……お母さん、鬼ですか?」
「鬼?私を廊下で寝かせた人が、私を鬼と呼ぶのですか?」
心が痛まないと言えば嘘になる。でも、もう後戻りはできない。
「3日間、廊下で寝ている間、あなたたちは一度でも私の様子を見に来ましたか?寒くないか、痛くないか、聞いてくれましたか?」
かずやは答えられない。むしろ「席を貸すな」と言ったのは彼の方だ。
すると、のり子の母親が青い顔で立ち上がった。
「私、帰ります。こんなことに巻き込まれたくありません」
「お母さん、待って!」
「のり子、あなたたち夫婦の問題よ。それに、お母さんの言うことは正しいわ。自分の家で廊下に寝かせるなんて、私には考えられない」
意外な援護に、私も驚いた。
のり子の母親が去った後、再び重い沈黙が流れた。
「母さん、本当に出ていけというの?」
「はい。今すぐお願いします」
「でも急に言われても、行くところが……」
「それは私の知ったことではありません。私だって、急に廊下で寝ろと言われたのですから」
かずやとのり子は顔を見合わせた。完全に打ちのめされた様子だ。
「分かった。分かったよ、母さん。出ていく。でも、少し時間をください。アパートを探す時間を」
「1週間だけ待ちます。その間は、私が自分の部屋で寝ます。あなたたちが廊下を使うなら、どうぞ」
私はそう言い残して、自室へ向かった。背後でかずやとのり子の泣き声が聞こえたが、もう振り返らない。これが私の選んだ道だ。
部屋のドアを閉め、ベッドに腰を下ろした。3日ぶりの、自分のベッドだ。
1ヶ月後、私は広々としたリビングで、夫のよしのぶと朝食を取っていた。
「まさ子、今日は顔色がいいな」
「そうかしら。やっと自分のベッドで眠れるようになったからかもしれないわ」
よしのぶは複雑な表情を浮かべた。あの日、息子夫婦が出ていく時、彼は最後まで引き止めようとしていた。しかし、私が息子たちを追い出すのは正しいことじゃないと最初は思っていたが、廊下で寝ている私を見て、自分の間違いに気づいたと言った。
「すまなかった。妻を守れなかった。夫失格だ」
その言葉に、私は優しく微笑んだ。
「過ぎたことよ。これからは、二人で助け合って生きていきましょう」
先週、かずやから手紙が届いた。長い謝罪の手紙だった。
「父さん、母さんへ。あれから1ヶ月が経ちました。今、僕たちは駅前のアパートで暮らしています。母さんを廊下で寝かせるなんて、人として最低なことをしました。今思えば、どうしてあんなことができたのか自分でも信じられません。のり子も深く反省しています。妻という立場の母さんに対して、あまりにも失礼な態度を取っていました。でも、僕たちはまだ諦めていません。いつか必ず許してもらえる、息子夫婦になりたいと思っています」
手紙を読み終えたよしのぶが、深いため息をついた。
「かずやも反省しているようだな。会ってやらないか」
「まだ早いわ。お互いにもう少し時間が必要だと思うの」
よしのぶは頷いた。息子可愛さはあるが、私の気持ちを尊重してくれている。
私は今、自分で選んだ道を歩いている。自分の家で、自分のベッドで、愛する夫の隣で眠れる幸せ。これ以上の贅沢はない。もう二度と、誰にも私の居場所を奪わせはしない。それが、68歳の私が選んだ道だ。



