「もう来ないでください」「バーバはもう来ないでください」—…

「もう来ないでください」「バーバはもう来ないでください」—...

「バーバはもう来ないでください」

涙がこぼれそうになるのを必死にこらえながら、私はマンションのエントランスを後にしました。胸の奥が締めつけられるような痛みとともに、あの冷たい言葉が頭の中で繰り返されます。

私は高橋静。あの新築の家のために3000万円もの頭金を援助したのに、まさかこんな屈辱を受けるなんて。

「お母さんと同居して、孫の面倒も見てもらえれば助かります」

あの時の息子の笑顔が、今となってはすべて嘘だったとしか思えません。

夫が他界してから5年。私は退職金とわずかな貯蓄で、小さなアパートで静かに暮らしていました。看護師として40年間働き続けた日々。患者さんのために尽くし、家族のために生きてきた人生でした。

そんなある日、息子の俊助から久しぶりに電話がありました。

「母さん、実は相談があるんだ。家を買いたいんだけど、頭金があと3000万円足りなくて」

正直驚きました。でも、続く言葉に私の心は大きく揺れ動いたのです。

「ミカも母さんと一緒に暮らせたら安心だって言ってるんだ。孫の面倒も見てもらえれば、本当に助かるし」

一人暮らしの寂しさを紛らわせていた私にとって、それは夢のような提案でした。可愛い孫と毎日過ごせる。息子家族に囲まれて温かい老後を送れる。そう思うと胸が熱くなりました。

「同居が条件なら、援助してもいいわよ」

そう答えた時の息子の喜びようと言ったら。電話の向こうでミカも「お母さん、ありがとうございます」と声を弾ませていました。

私は迷わず銀行へ向かいました。夫が残してくれた財産。きっと天国の夫も、家族のために使うことを喜んでくれるはずだと信じて。通帳にサインをする手は希望で震えていました。

これで息子家族と一緒に暮らせる。孫の成長を見守れる。そんな幸せな未来だけを思い描いていた愚かな私が、そこにいました。

新居が完成したという連絡を受けて、私は心を弾ませながら引っ越しの準備を始めました。ところが、引っ越しの日程を相談しようと連絡すると、息子の声はなぜか歯切れが悪くなりました。

「母さん、実はまだ部屋の準備が整ってなくて、もう少し待ってもらえる?」

最初は仕方ないと思いました。新居への引っ越しは何かと大変でしょうから。でも、1ヶ月経っても2ヶ月経っても状況は変わりません。言い訳ばかりが続き、私の不安は日に日に大きくなっていきました。

せめて孫の顔だけでも見たいと思い、ある日思い切って新居を訪ねました。インターホンを押すと、ミカの声が聞こえてきます。

「あら、お母さん? 今日は都合が悪いんです。また連絡しますから」

門前払いでした。せっかく手土産まで用意してきたのに、玄関にすら入れてもらえません。窓から見える孫の姿に手を振ろうとしましたが、カーテンがさっと閉められてしまいました。

何か私が悪いことでもしたのでしょうか? 必死に理由を探しましたが、思い当たることはありません。

それでも諦めきれず、別の日にまた訪ねました。今度は俊助が出てきましたが、表情は明らかに迷惑そうでした。

「お母さん、突然来られても困るよ。事前に連絡してって言ったでしょ」

「連絡したわよ。でもいつも『都合が悪い』って」

「仕事で疲れてるんだ。孫だって、知らない人が来たら怖がるし」

知らない人。私は孫の祖母なのに。その言葉に愕然としました。

数週間後、私は孫の誕生日プレゼントを持って行きました。せめてお祝いだけでもと。しかし、ドアを開けたミカの顔は今までで一番冷たいものでした。

「お母さん、はっきり言います。もう来ないでください」

「え? どういうこと?」

「子供の教育に良くないんです。バーバはもう来ないでください」

教育に良くない。私の存在が? 頭が真っ白になりました。

「私は孫に会いたいだけなのよ。月に一度くらい」

「それが迷惑なんです。お母さんは私たちの生活リズムを理解してくれない。子供だって混乱するんです。いい加減、察してください」

俊助も出てきましたが、妻の味方をするばかりでした。

「母さん、ミカの言う通りだよ。僕たちには僕たちの生活がある。同居の話も現実的じゃないって分かったんだ」

「でも約束したじゃない。3000万円は同居が前提で」

「それとこれとは別の話でしょ。援助してくれたことには感謝してるよ。でも、だからって僕たちの生活に干渉する権利はないよね」

干渉。私はただ孫に会いたいだけなのに。家族として当たり前のことを望んでいるだけなのに。

涙をこらえながら帰り道を歩いていると、向かいの家から楽しそうな声が聞こえてきました。「おばあちゃん」と呼ばれる人が、孫を抱きしめている姿が見えます。なぜ私にはそれが許されないのでしょう? 3000万円という頭金を渡してまで手に入れたかった家族のぬくもりは、どこにあるのでしょうか?

「バーバは来るな」。あの言葉が、鋭い刃物のように私の心を切り刻んでいきました。

あの屈辱的な出来事から数日後、私は買い物帰りに偶然近所の公園を通りかかりました。そこで目にした光景に、私は立ち尽くしてしまったのです。

孫が楽しそうに遊んでいました。そしてその隣には、見知らぬ上品な女性が寄り添っていたのです。よく見るとミカもベンチに座って微笑んでいます。

「お母さん、今日も来てくださってありがとうございます」

ミカの声が聞こえてきました。お母さん? まさか、ミカの実母?

「当然よ。可愛い孫のためだもの。毎日でも来たいくらい」

その女性は孫を優しく抱きしめ、ミカも幸せそうに見守っています。私の胸に言いようのない痛みが走りました。ミカの実母は毎日のように孫の世話をしている。なのに私は「教育に悪影響」と追い払われる。この差は一体何なのでしょうか?

数日後、私は真実を確かめるため、息子の家の近くで様子を見ることにしました。朝早くから張り込んでいると、ミカの母親が堂々と玄関から入っていく姿を目撃したのです。しかも合鍵を使って。

私には玄関先で追い返されるのに、ミカの母親は合鍵を持っている。この現実に、怒りで手が震えました。その時、二階の窓が開いていて、中から会話が聞こえてきました。聞き耳を立てるなんて品のないことだと分かっていましたが、もう我慢の限界でした。

「お母さんがまた来たんですって。本当に困っちゃうわね」

ミカの声でした。

「あの人、本当にしつこいのよ。お母さんとは違って全然上品じゃないし、子供に悪い影響を与えそうで心配なの」

「そうね。稲臭いし、言葉遣いも品がないものね」

ミカの母親まで私を見下しているのです。看護師として40年、多くの人を助けてきた私の人生を、こんな風にバカにするなんて。

「第一、あんな安アパートに住んでいた人が、うちの子の教育に口出しする資格なんてないわよ」

安アパート。夫と二人でつましく暮らしていた場所を、そんな風に言うなんて。

さらに衝撃的な会話が続きました。

「でも3000万円も出してもらったんでしょ?」

「それはすごいわねえ」

「ラッキーだったわ。正直、同居なんて最初から考えてなかったけど」

「あら、それって詐欺みたいね」

二人は声を押し殺して笑い始めました。私の全身から血の気が引いていきます。

「もう上手くやったわよ。お母さんと一緒に暮らしたいなんて、私には絶対言えないもの」

「男の人って、お金の前では何でも言えるのよ。うちの主人もそうだったわ」

俊助まで、最初から私を騙すつもりだったのでしょうか? 信じたくありませんでしたが、次の瞬間、まさに息子の声が聞こえてきたのです。

「ミカ、今月の住宅ローン、これで大丈夫?」

「ええ、お母さんからもらった3000万円のおかげでかなり楽になったわ」

「本当、助かったよ」

「ま、もらえるものはもらっておかないとね」

「そうそう。向こうが勝手にくれるって言ったんだから、遠慮することないわよ」

もらえるものはもらっておく。その言葉が、刃のように私の心臓を貫きました。

「そういえば、お母さんまだ同居するつもりでいるのかしら?」

俊助が苦笑いをしました。

「まさか。あの狭い家に母さんの部屋なんて作る予定ないよ。最初から客間にするつもりだったし」

じゃあ、最初から騙すつもりだったの?

「騙すっていうと言葉が悪いけど、ま、向こうが勝手に期待しただけさ」

私はもう聞いていられませんでした。よろよろとその場を離れ、涙で前が見えない中、なんとか家にたどり着きました。

3000万円。亡き夫と二人で必死に貯めた老後の資金。それを息子のためならと差し出した私は、なんと愚かだったのでしょう。家族の愛情だと信じていたものは、すべて演技だった。息子の優しい言葉も、嫁の感謝の言葉も、すべてが3000万円を手に入れるための芝居だったのです。

「もらえるものはもらっておく」。この言葉が壊れたレコードのように頭の中で繰り返されます。

でも、この瞬間、私の中で何かが完全に切れました。同時に、新しい決意が生まれたのです。

もう騙されない。もう利用されない。そして必ず、この屈辱に見合うだけの行動を起こしてみせる。私にはまだ、人生を取り戻すチャンスがあるはずです。

あの日から私は眠れない夜を過ごしていました。怒りと悔しさで胸が張り裂けそうでしたが、ただ泣いているだけでは何も変わりません。もう被害者でいるのは終わりにしよう。そう自分に言い聞かせ、私は行動を開始しました。

まず最初にしたのは、援助に関するすべての書類を引っ張り出すことでした。段ボール箱の奥から大切に保管していた書類の束を取り出します。銀行の振込明細、息子とのメールのやり取り、そして何より重要な一枚の書類がありました。

同居を前提とした住宅購入援助に関する覚書です。

震える手でその紙を見つめます。確かに俊助の署名と印鑑がありました。3000万円は同居が条件であることが、はっきりと記されています。

「大丈夫だよ、母さん」

当時、俊助はそう言って笑っていました。でも私は何か胸騒ぎがして、どうしても書面に残したかったのです。今思えば、亡き夫が天国から警告してくれていたのかもしれません。

次に私が向かったのは、現在空き家になっている実家でした。昔、夫と二人で建てた思い出の家には、夫が大切に育てていた梅の木が今も花を咲かせています。

「あなた、この家をどうしたらいいかしら?」

誰もいない家で、私は夫に語りかけました。すると風が吹いて、梅の花びらがヒラヒラと舞い落ちてきます。まるで夫が答えてくれているようでした。

不動産会社に連絡を取ると、若い担当者がすぐに駆けつけてきました。家の中を丁寧に見て回った後、彼は予想外の言葉を口にしました。

「高橋様、素晴らしい物件ですね。実は今、この地域の地価が急上昇しているんです」

「え、本当ですか?」

「はい。駅前の再開発計画が発表されてから、この辺りの土地は値上がり続けなんです。正直に申し上げて、この物件なら4000万円以上で売却可能です」

4000万円。援助した金額を上回る数字に、心臓が高鳴りました。

「条件次第では4500万円も夢ではありません。それほど今は売り手市場なんです」

「そんなに?」

「それと、高橋様。失礼ですが、現在のお住まいはアパートでしたよね? 一人暮らしには十分な広さですが、実はご提案があります。駅前に新しくできたタワーマンション、グランドレジデンスをご存知ですか?」

聞いたことはありました。地元では有名な高級マンションです。

「今なら特別価格でご案内できます。3500万円程度で、上層階の素敵な物件がありますよ。実家を売却されれば、お釣りが来る計算です」

タワーマンション。今まで考えたこともありませんでした。でも、なぜか心が強く動きました。

その日の午後、私は生まれて初めて高級タワーマンションを訪れました。大理石のエントランス、制服姿のコンシェルジュ、そしてエレベーターで28階まで上がった時の感動は忘れられません。

「こちらが本日ご案内する角部屋です」

ドアを開けた瞬間、息をのみました。壁一面の大きな窓から、町が一望できます。夕日に染まる町並みは、まるで宝石箱のようでした。

「リビングは25畳。キッチンは最新のシステムキッチンです。お一人暮らしには贅沢かもしれませんが」

「いいえ、素敵です」

私は窓の外を見つめました。ここからなら、息子の家も見えるでしょうか? いえ、もうそんなことはどうでもいい。これからは、自分のための人生を生きるのです。

帰宅後、私はすべての通帳を確認しました。夫の退職金の残り800万円、自分の退職金600万円、普通預金に300万円。そして最後の切り札を手に取りました。夫が生前に加入していた生命保険の証書。まだ手をつけていない1000万円が、そこに眠っていました。受け取り人はもちろん、私です。

「あなた、私、もう我慢しません」

仏壇の前で、亡き夫の写真に語りかけました。

「息子に騙されて3000万円を取られました。でも負けません。必ず素晴らしい人生を取り戻して見せます」

写真の中の夫が、優しく微笑んでいるように見えました。

翌日、私は弁護士事務所を訪れました。初老の弁護士は覚書を見るなり、眼鏡を直して真剣な表情になりました。

「高橋様、この覚書は法的にも有効です。同居が実現しない場合、返還を求めることも可能ですが」

「いえ、お金はもう諦めています。ただ、今後一切の関わりを断ちたいのです」

「賢明なご判断です。では、円満に関係を断つ意志を明確にする書面を作成しましょう。今後、相手方からの金銭的要求を防ぐためにも」

私の決意はもう揺らぎません。

実家の売却手続きを進めながら、私は新しい人生の設計図を描き始めました。売却で得た資金でタワーマンションを購入し、残ったお金と保険金で豊かな老後を送る。趣味のフラワーアレンジメントを再開し、新しい友人を作り、自分自身を大切にする生活。もう誰かのために犠牲になることはありません。

準備は着々と整っていきました。あとは実行あるのみです。

最後の仕上げとして、私は美容院に行き、髪を綺麗に整えてもらいました。

「お客様、若くなりましたね」

美容師さんの言葉に、久しぶりに心から笑顔になれました。鏡に映る自分は確かに68歳の老女です。でも、その瞳には新たな人生への希望が輝いていました。

復讐などという言葉は使いたくありません。これは自分の尊厳を取り戻すための、正当な行動なのです。

準備を整えてから2週間後、私は行動を開始しました。まず、実家の売却契約を結びました。予想を上回る4200万円での契約に、不動産会社の担当者も驚いていました。

「高橋様、本当におめでとうございます。この結果、複数の相手が競り合ってこの価格になりました」

「まあ、そんなに」

「はい。駅前の再開発で、この地域の価値が急上昇しているんです。これだけの資金があれば、素晴らしい新生活が始められますね」

その足で、私はタワーマンションの契約に向かいました。28階の角部屋、3500万円。もう迷いはありませんでした。

「現金でお支払いします」

営業担当者の目が丸くなりました。

「現金一括払いですか? 素晴らしい。それでしたら、家具プランもご用意できますが」

「是非お願いします。新しい生活には、新しい家具がふさわしいですから」

手続きは順調に進み、1ヶ月後には入居できることになりました。実家の引き渡しが終わり、私の口座に4200万円が振り込まれた日、まるで見計らったかのように息子から電話がかかってきました。

「母さん、久しぶり。元気にしてる?」

半年ぶりに聞く息子の声。以前なら嬉しくて飛び上がったでしょうが、今は違います。

「ええ、元気よ」

冷静に答える私の声に、息子は一瞬戸惑ったようでした。

「あのさ、実は相談があるんだけど」

「何かしら」

「実は仕事で大きなミスをしてしまって、クライアントから損害賠償を求められているんだ。300万円必要なんだ。母さん、助けてくれないか? 返すから」

返す。この言葉を、私は何度聞いたことでしょう? でも、もうその私はいません。

「申し訳ないけど、お金はないわ」

「え? でも母さんの貯金、全部使ってしまったの?」

「私も生活があるから」

「嘘でしょ? 母さんは質素な生活してるじゃないか」

「そう? 私の生活のことなんて、知らないでしょう。半年も連絡一つよこさなかったのに」

電話の向こうで、息子が慌てる気配が伝わってきました。

「じゃあ、実家を担保に借りるとか」

「実家はもう売却したわ」

「なんで相談もなしに? あの家は俺にとっても思い出の場所なのに」

「思い出? じゃあ、なぜ一度も様子を見に来なかったの?」

息子は言葉を失いました。そこへ、ミカの声が聞こえてきます。

「どうしたの?」

電話口でごそごそと音がして、ミカが電話を代わりました。

「お母さん、今の話、本当ですか?」

「ええ、本当よ」

「でも、私たちのために3000万円も援助してくれたじゃないですか。今回も少しぐらい」

「あれは同居が前提の援助だったはずよ。覚書もあるわ。でも、あなたたちは約束を守らなかった」

「そ、それは事情が変わって」

「事情? 最初から同居するつもりなんてなかったんでしょう」

息を飲む音が聞こえました。

「『もらえるものはもらっておく』って言ってたわよね」

「え?」

「私の人生も、事情が変わったの。もう利用されるのはごめんだわ」

電話が切れました。

その3日後、息子夫婦が土下座をしてアパートを訪ねてきました。インターホン越しに見る二人の顔は、明らかに青ざめていました。

「母さん、開けてくれ。話がある」

仕方なくドアを開けると、二人は土足のまま上がり込もうとしました。

「ちょっと、靴は脱いで」

「母さん、そんなこと言ってる場合じゃないんだ」

俊助の顔は青ざめていました。

「本当に金がないと、俺、会社を首になるんだ」

「それは困ったわね。でも、『バーバは来るな』って言われた私に、なぜ? お金の話になるの」

ミカが口を挟みました。

「お母さん、あれは言葉のあやで」

「言葉のあや? 『子供の教育に悪影響』『上品じゃない』。これも言葉のあや?」

ミカの顔が真っ赤になりました。

「聞いていたんですか?」

「偶然よ。でも、本音が聞けてよかったわ」

俊助が必死の表情で迫ってきました。

「母さん、過去のことはもういいだろ。今は緊急事態なんだ」

「緊急事態? 私にとっての緊急事態は、3000万円を騙し取られた時よ」

「騙し取ったなんて」

「じゃあ、何? 同居の約束はどうなったの?」

二人は黙り込みました。

「実家を売ったお金があるはずだ」

俊助が食い下がります。

「もう使ったわ」

「4000万円以上あったんだろ。何に使ったんだよ」

その瞬間、私の携帯が鳴りました。画面を見ると、グランドレジデンス管理事務所の文字。

「ごめんなさい。大事な電話なの」

「はい、高橋です。ええ、来週の入居の件ですね」

二人の顔が凍りつきました。入居? 電話を切った私に、俊助が叫びました。

「今の電話、何?」

「タワーマンションを買ったの。駅前のグランドレジデンス、28階の角部屋よ」

「タワーマンション? いくらしたんだ?」

「3500万円。家具プランにしたから、3800万円かしら」

ミカが膝から崩れ落ちそうになりました。

「そんな、そんな贅沢」

「贅沢? 自分のお金で買ったものが贅沢。あなたたちこそ、私のお金で買った家に住んでいるのに」

息子が土下座をしました。

「母さん、お願いだ。助けてくれ。俺が悪かった」

「何が悪かったの?」

「全部だ。母さんを騙したことも、同居断ったことも」

「騙したって認めるのね」

「はい」

私は冷たく見下ろしました。

「ごめんなさい。でも、お金はもうないの」

「母さん!」

「それに、あなたの義母様に頼んだら? 毎日孫の面倒を見てもらっているんでしょう。きっと援助してくれるわよ」

ミカが泣き始めました。

「実家にそんな余裕は」

「あら、そう。じゃあ、自分たちでなんとかなさい。私もそうしてきたんだから」

立ち上がった息子の目には、怒りと絶望が混じっていました。

「こんなことして、後悔するぞ」

「後悔? もう十分したわ。息子を信じた自分の愚かさをね」

「一生恨んでやる」

「どうぞ。でも、恨む相手を間違えないで。あなたたちが招いた結果よ」

二人は何も言えず、肩を落として出ていきました。

ドアを閉めた後、私は大きく深呼吸をしました。心の重りがすべて取れたような、清々しい気持ちでいっぱいでした。

新居への引っ越しから1ヶ月が経ちました。タワーマンション28階の我が家から見る朝日は、まるで新しい人生の始まりを祝福してくれているようでした。

「おはようございます。高橋様」

コンシェルジュの爽やかな挨拶に、私も笑顔で答えます。このマンションに来てから、毎日が輝いて見えるようになりました。リビングの大きな窓から町を見下ろしながら優雅にコーヒーを楽しむ。これが私の新しい朝の習慣です。

「静さん、おはよう」

隣の部屋の佐藤さんがベランダから声をかけてくれました。同じく60代の一人暮らしで、すっかり仲良くなりました。

「今日のフラワー教室、一緒に行きましょうね」

「ええ、楽しみだわ」

このマンションには住人専用のフィットネスジムやラウンジがあり、様々な教室が開かれています。フラワーアレンジメント、ヨガ、料理教室。私は片っ端から参加して、充実した毎日を送っています。

先週はラウンジで開かれた住人パーティーに参加しました。会社経営者、元大学教授、様々な経歴を持つ方々との会話は刺激的で、私の世界を大きく広げてくれました。

「高橋さんは看護師をされていたんですね。素晴らしい。私の母が看護師さんにお世話になりました。尊敬しています」

今まで息子夫婦に否定されていた私の人生が、ここでは認められ、尊重されています。この違いは何なのでしょう? 環境が変われば、人の価値も変わるのでしょうか? いいえ、私の価値は最初から変わっていなかった。ただ、それを認めてくれる人たちに出会えただけなのです。

ある日、エレベーターで偶然、息子の会社の同僚だという男性に会いました。

「高橋さんのお母様ですか? いつも息子さんから話を聞いています」

「あら、そうなの」

「最近息子さん、元気がないみたいで心配です。何かあったんでしょうか?」

私は穏やかに微笑みました。

「さあ、どうでしょう? 大人ですから、自分のことは自分で解決するでしょう」

その男性は不思議そうな顔をして、降りていきました。後で聞いた話では、息子は結局300万円を工面できず、会社での立場が悪くなったそうです。ミカはパート先を増やして家計を支えているとか。自業自得とはいえ、少し胸が痛みました。でも、それも一瞬のこと。私にはもう関係のない話です。

2ヶ月後、思いがけない連絡がありました。孫の小学校から、祖父母参観の案内が届いたのです。おそらく学校側の手違いでしょう。でも、その案内を見て少しだけ孫のことを思い出しました。あの子も、もう小学3年生か。でも、私は参加しませんでした。「バーバは来るな」と言われた私が、行く場所ではありません。

代わりにその日は、佐藤さんたちとランチクルーズを楽しみました。船上から見る景色は素晴らしく、孫のことなど忘れてしまうほどでした。

3ヶ月が過ぎた頃、マンションのロビーで息子とばったり会いました。やつれた顔で、以前のような威勢はありません。

「母さん」

「あら、俊助じゃない。どうしたの? こんなところで」

「母さんに会いに来たんだ」

「そう」

気まずい沈黙が流れました。

「母さん、元気そうだね」

「ええ、おかげ様で。人生で一番幸せよ」

息子の顔が歪みました。

「ミカと、離婚することになった」

「あら、そう」

「お金のことで喧嘩ばかりで。ミカの実家も援助してくれなくて」

「当然でしょう。上品ぶっていても、余裕がなければ本性が出るものです」

「それで、母さん。もう一度だけチャンスをくれないか。今度こそちゃんと親孝行するから」

私は静かに首を横に振りました。

「ごめんなさい。私にはもう、新しい生活があるの」

「水臭いじゃないか。親子なのに」

「親子? あなたが自分で断ったんでしょう」

息子は泣きそうな顔で立ち去りました。その後ろ姿を見送りながら、私は不思議と心が痛みませんでした。もう、過去の人なのです。

夕方、部屋に戻ると夕日がリビングを紅色に染めていました。亡き夫の写真に向かって、今日の出来事を報告します。

「あなた、俊助にあったわ。でも、もう何も感じなかった。これでいいのよね」

写真の夫は、いつものように優しく微笑んでいるだけです。でも、その微笑みが「よく頑張った」と言ってくれているような気がしました。

私は今、本当に幸せです。経済的な不安もなく、素敵な仲間に囲まれ、自分のペースで生活できる。これこそが、私が本当に望んでいた老後だったのかもしれません。3000万円を失ったことは確かに痛手でした。でも、それと引き換えに得たものの方が、はるかに大きかったのです。

自由、尊厳、そして新しい人生。

理不尽な扱いを受けた時、ただ我慢し続ける必要はない。自分の人生は自分で決められる。何歳になっても、新しい幸せを掴むことができる。私は今、その証です。

私の勝利はお金ではありません。自分の人生を取り戻したこと、それが一番の勝利なのです。

夜、私は28階の部屋から夜景を眺めています。きらめく町の明かりは、まるで私の輝かしい未来を予感させるようです。

「あなた、見ていて。私、これからもっと幸せになるから」

写真の夫に向かってそう言う私の顔は、少女のように輝いていました。人を利用しようとした者は、結局自分も不幸になる。そして、勇気を持って自分の人生を選んだ者は、必ず幸せを掴むことができる。私は今、その幸せを手にしています。

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