大手精密機器メーカーとの定例報告会。会議室に入ると、見慣れない男が神座に座っていた。40代後半、上等なスーツ、整えられた髪。新任の古川部長だ。
俺は西村、45歳。情報セキュリティ会社を立ち上げて12年になる。社員は8人だが、業界でもトップクラスの精鋭ばかりだ。このメーカーとは7年前からの付き合いで、主力工場群のシステムを監視してきた。彼らはかつて外部からの不正侵入で主力工場の稼働が止まり、億単位の損失を出した。それ以来、俺たちが守りを支えてきた。
報告を始めると、古川は資料に目もくれず、退屈そうな表情を浮かべている。俺は2ヶ月前に提出した報告書の内容を繰り返した。
「今この瞬間も、外部からシステムの侵入口を探る動きが続いています。遮断はできていますが、早めに機関システムの守りを固めるべきです」
古川が初めて口を開いた。
「西村さんだったね。セキュリティ業務はこれからうちで内製化していく。外部委託はコストと情報管理の両面から見直す。もう下請けは不要。自社技術で十分だ」
その一言で会議室の空気が変わった。部下の大野が隣で息を飲む。
「つまり、今の契約を打ち切るということですか?」
「そういうことだ」
俺は移行期間を提案したが、古川は一蹴した。
「移行期間は不要だ。明日にはもう新しいツールに切り替わっている。外部からの不審な動きなど、全て自動で検知できる」
この工場の制御系には固有の癖がある。それを知らずに自動に委ねれば、見落としは必ず出る。古川はそれが分かっていない。
「古川部長、1つだけ申し上げます。一度切れたセキュリティ契約は、再契約できませんよ」
脅しではない。契約を切った後に事故が起きれば、責任の線引きと情報管理の都合から、改めて結び直すのは極めて難しくなる。それが業界の常識だ。
古川はゆっくりと俺に視線を向けた。
「切ったらそれまでだ。本社に用はない」
これ以上は話にならない。俺は立ち上がり、資料をまとめた。会議室を出た足で大野に指示を出す。
「監視権限の全てを先方へ返上しろ。言うべきことは全て言った」
会社に戻ると、大野がぽつりと漏らした。
「あの部長、こっちが何年も積み上げてきたものを分かっちゃいない」
俺は机の引き出しから1冊のファイルを取り出した。メーカーに提出した報告書の控えだ。送った日付、宛先、相手の受領確認、全てそこに残っている。
「声を荒げても意味はない。記録さえ残っていれば、それで足りる」
契約を打ち切られた翌日。俺は別の顧客先のシステムと向き合っていた。あの工場の監視権限は前日のうちに全て返上している。もう何が起きても俺の画面には届かない。それでも、気持ちの隅にはあの工場群が引っかかっていた。
昼前、携帯が鳴り、現場責任者の桑原からだった。出た瞬間、尋常ではないと分かった。
「西村さん、助けてくれ。工場が全部止まった」
「落ち着いてください。全部というのは、10箇所全部ですか?」
「朝から順番にラインが1つずつ落ちていって、気づいたらどこの工場も動いていない」
昨日こちらの守りが消えた。何者かが俺たちの監視が消える瞬間をずっと待ち続けていたとしか思えない動きだった。新しい管理ツールは、警報を1つも上げなかったらしい。本社の説明では「自動で防げる」と言われていたという。
俺は奥歯を噛んだ。今すぐ止め方を指示してやりたい。だが、俺にはもうその権限がない。昨日、自分の手で返したばかりだ。
その日の午後、今度はメーカー本社の担当者から連絡が入った。工場の停止だけでは済まなかった。製造途中だった技術の特許情報が、会社の外へ持ち出された痕跡が見つかった。海外のサーバーを経由し、最後は中国国内のどこかへ抜けていたという。俺が報告書で指摘した、最も守るべきデータの管理の穴。そこが破られていた。
新しく設置されたシステムチームは、業者が見せたデモ環境でしか動いた実績がなく、実際の工場では設定すら間に合っていなかった。その事実が関係者の前で次々に明るみに出た。
聞きながら、俺は奇妙なほど冷静だった。腹立たしさよりも、何の落ち度もない現場の人間が止まったラインの前で立ち尽くしている姿が頭に浮かぶ。
夕方、会社の電話が鳴った。低く落ち着いた声が聞こえてくる。メーカーの社長、真田だった。
「西村さん、突然で申し訳ない。今回の件で折り入ってお願いがある。近いうちに私が直接そちらへ伺いたい。責任者も同席させる。どうか時間をいただけないだろうか」
言葉は丁寧で、敵意はない。だが、その奥に追い詰められた焦りが滲んでいる。俺は静かに答えた。
「わかりました。お待ちしています」
約束の日、真田は古川を連れて俺の会社を訪れた。席につくなり、真田は両手を膝に揃え、深く頭を下げる。
「西村さん、虫のいい話だとは重々承知している。だが、もう一度だけうちの工場を見てもらえないだろうか」
その隣で古川は、身を縮めるように座っていた。俺は2人の正面に腰を下ろした。
「お話の前に確認させてください。止まった工場は全部で何箇所でしたか?」
「10箇所全てだ」
「外へ流れた技術情報は?」
「特許申請している最中のものが1件」
俺はファイルを取り出し、ページを開いて2人の前に置いた。
「ここに2つの危険を書いています。1つは外から制御システムを探る動きが続いていること。もう1つは、最も守るべき技術情報の管理に穴があることです。今回起きたことと、ここに書いた中身はほとんど重なっています」
古川が初めて口を開いた。
「この報告書は私の前任が受け取ったものでしょう。私が着任したのはつい先月で……」
「ええ、あなたは後から来られた。ですが、定例の席で私はお伝えしたはずです。外から侵入口を探る動きが今も続いていると。あの時あなたは資料に目を通そうともせず、『自社技術で十分だ』とおっしゃった」
古川の顔が強張っていく。
「後を引き継ぐということは、残された懸案ごと引き受けるということではないのですか? 何が危ないと言われているのかを確かめないまま、あなたは守りそのものを断ち切った。おまけに、私が進めた移行期間も不要だと言った。その間にぽっかり開いた穴を、そっくり被ったんです」
俺はあの時の言葉を繰り返した。
「一度切れた契約は再契約できません。あの時、確かにそう申し上げたはずです」
古川は俯いたまま動かなかった。真田は震える声で訴えた。
「そこを、なんとか頼めないだろうか。意地を張って断るのは簡単だ。だが、桑原たちのあの声を聞いた後で、俺に拒む資格があるか」
俺は真田の目をまっすぐ見返した。
「する道がないわけではありません。ただし、誤解のないように申し上げます。切れた契約をなかったことにして元へ戻すのではありません。あれはもう終わったものです。お引き受けするとすれば、全く新しい条件で、ゼロから結び直す別の契約です」
「条件とは?」
「先に果たしていただくことが2つ。今回何が起きて、なぜ防げなかったのか、その原因を御社自身の手で洗い出し、改善計画として文書に残すこと。そしてもう1つは、私が指摘した情報の管理を、私たちが入る前に御社の責任で塞いでおくことです。穴の残ったままの場所に、私たちは入れません」
真田はゆっくりと頷いた。
「その上で、契約そのものの中身も変わります。同じ過ちを二度と起こさせないために、監視の体制は以前の場合に引き上げます。増える分の費用については、本社に全額ご負担いただきたい。それでもなお願いしたいということであれば、こちらも全力でお守りします」
真田は一瞬も迷わなかった。
「西村さんがおっしゃることは当然です。どちらも本来ならこちらから差し出すべきものだ。それをあなたに言わせてしまった」
そう言って、真田は隣の古川へ目を向けた。
「古川の判断については、私が責任を取らせる。その始末も、必ず私がつける」
視線に促されるように、古川がようやく顔を上げた。
「着任したばかりで、私は焦っていたんです。前任のやり方を引き継ぐだけでは、私が来た意味がない。何か目に見える形で変えたかった。外注費の削減額がそのまま私の実績になりますから。そればかりに気を取られていました。申し訳ありません」
古川はそう言って深く頭を下げた。その姿を見ても、俺の胸は不思議と波立たない。ただ、動かないラインの前で立ち尽くす桑原たちの顔が頭をよぎっただけだった。
数週間後、メーカーから文書が届いた。事故の原因が1つずつ洗い出され、再発を防ぐ手順がこちらの求めた水準で記されていた。情報の管理も、先に修復済みだという報告が添えてある。
約束通り、俺たちは新しい契約のもと、あの工場群の監視に戻った。桑原から聞いた話では、内製化を押し進めた古川は、部長を解任されて関連会社へ移ることになったらしい。
その話の後、桑原は言った。
「止まってからの数日、現場の連中はみんな生きた心地がしなかったよ。西村さんが戻ってきて、現場がやっといつもの顔つきに戻った。本当にありがとう」
外からの侵入を防ぐことも、情報の流出を止めることも、ただの手立てに過ぎない。俺が本当に守りたかったのは、多分この桑原たちの声だ。誰もが何の不安もなく自分の仕事に没頭できる。その当たり前の時間こそ、守るべきものなのだと俺は深く噛みしめるのだった。



