明け方、胸の奥に重い鉄の塊を押し付けられるような痛みで目が覚めた。時計は午前4時を指している。俺はナースコールに手を伸ばしかけて止めた。記録することが先だ。枕元のノートを開き、時刻と痛みの位置、脈拍を書き込む。指が少し震えていた。
俺の名前は黒沢。大学病院に入院してもう三ヶ月になる。表向きは「面倒な患者」だ。若い医師の岡崎には毎朝同じように告げている。左胸に鈍い痛みがある。三十分に一度、脈の乱れも感じる。カルテに書いておいてほしい。
岡崎はカルテを開きながら、また細かいことを言っている、という空気を背中越しに漂わせた。それでいい。俺はこの病棟でうるさい患者でいなければならない。副作用の兆候はデータが命だからな。
「痛みの程度は十段階で言うとどのくらいですか?」
「三か四だ。だが場所と時間を記録してほしい」
「分かりました。まあ、投薬量から考えれば大きな問題はないと思いますよ」
問題はある。副作用のパターンには確かに変化が出始めている。だが言葉を重ねてもこの男には届かない。
岡崎が出ていくと、入れ替わりに看護師の高島主任が入ってきた。この病棟で一番信頼されている看護師だ。体温を測りながら、彼女は穏やかな口調で言った。
「随分細かく気にされるんですね」
言葉の端にわずかな戸惑いがあった。そう思われて構わない。細かい記録の一つ一つが、この治験の意味を決めるのだから。
昼過ぎ、病室のドアが二回、丁寧にノックされた。入ってきたのは相馬涼太。かつて俺が指導した教え子で、今はこの病院の循環器内科准教授。そして俺が参加している新薬治験の責任者だ。彼はドアを閉めると、いつもの穏やかな表情を少しだけ崩した。
「昨夜のデータを見ました。心電図に微細な変化が出ています」
「分かっている。俺も感じた。ST部分の揺らぎだろう」
「先生、今回の投薬量を一段階下げませんか?このまま続けると心臓への負担が…」
俺はゆっくりと首を横に振った。
「俺たちの目的を忘れるな。この薬は遺伝性の心臓病を根本から治すためのものだ。量を下げれば効果の測定ができなくなる」
「ですが、先生の体が」
「俺の体はそのために差し出したものだ」
相馬は口を閉じた。彼は俺の妻がどうやって死んだかを知っている。そして娘のユイナが同じ遺伝子を持っている可能性があることも知っている。この病院で真実を知る人間は二人しかいない。相馬と病院長の宮坂だけだ。
「岡崎が先生のことを面倒な患者だと言っていました。若い医師たちは誰も先生が黒沢だと気づいていません」
「それでいい。名前が知られれば治験の公平性が疑われる」
「十年前、日本一と言われた心臓外科医が自分の命を実験台にしていると知ったら、あいつは何と言うでしょうね」
「言わなくていい。医師が過去で評価される必要はない」
相馬は目を伏せた。恩師を治験に縛りつけている自分を、彼が責め続けていることを俺は知っている。だがこの道を選んだのは俺だ。彼を苦しめるためではない。
夕方になると病棟の空気が少し柔らかくなる。面会時間だ。廊下から聞き慣れた小さな足音が近づいてきた。
「お父さん、来たよ!」
ドアを開けて入ってきたのは娘のユイナだ。十二歳、小学六年生。黄色いランドセルを背負ったまま、学校帰りに走って来たらしい。
「ユイナ、廊下は走るなと言っただろう」
「歩くのと走るの、同じだよ」
「転んだらどうするんだ」
ユイナはベッドの脇の丸椅子に座ると、ランドセルから小さな封筒を取り出した。中には折り紙で作った鶴が入っている。毎週こうやって何かを持ってくる。先週はお花、その前は学校で描いた絵だった。
「今日はね、家庭科でりんごの皮むきをやったの。私、一番きれいにむけたんだよ」
「そうか。母さんに似たな。母さんも器用だった」
「お母さんも上手だったの?」
「ああ、俺よりずっと上手だった」
ユイナは嬉しそうに笑った。母親の話をするといつもこうやって目を輝かせる。写真の中でしか知らない母を、それでも大切に思っている。
俺はその笑顔を見るたびに胸の奥が締め付けられる。この子にはまだ言えない。母親を奪った遺伝子が自分の中にもあるかもしれないこと。そして父親が今、その病気を治すために自分の体を差し出していることを。
「お父さん、いつ帰ってこられるの?」
「もう少しだ。この薬がきちんと効くと分かるまでは、ここにいなきゃいけない」
「病気、治りそう?」
「ああ、治る。父さんの病気だけじゃなくて、たくさんの人の病気が治るようになる」
ユイナはしばらく黙って俺の手を握った。細い指。妻の指に似ている。俺はその手を握り返した。握る力の加減さえ慎重にしなければならない自分が悲しかった。
「おばあちゃんが明日お迎えに来るって。今日は一人で帰るね」
「暗くなる前に帰れよ。寄り道はするな」
「はい、分かりました」
ユイナが病室を出ていく後ろ姿を、ドアが閉まるまで見送った。
ドアが閉まると病室に再び静けさが戻ってきた。俺は枕元の引き出しから一枚の紙を取り出した。今朝、相馬から渡された最新の血液検査の結果だ。数値の一部に赤い印がついている。副作用の兆候。心臓への負担を示す指標が少しずつ上昇している。
窓の外はもう暗くなり始めていた。町の明かりが一つ、また一つと点いていく。その光の中にユイナが今歩いている。あの子の未来を守るためなら、この体はいくらでも差し出せる。
次の朝、脈拍が戻ったところでドアがノックもなく開いた。
「黒沢さん、朝の検診です。あれ?汗すごいですけど、暑かったですか?」
「明け方、胸痛が三十分続いた。強めの痛みだ。脈拍は最大で百二十まで上がった。ノートに記録してある」
岡崎はノートを受け取ると、ざっと目を通して首をひねった。
「黒沢さん、失礼ですけど、こういう症状って少し神経質になりすぎている方に多いんですよ。データも大事ですけど、あまり自分の体ばかり気にしていると、かえって症状を強く感じてしまいますよ」
「岡崎先生、聞いてほしい。今日の心電図、ST部分に注目してみてほしい。それとトロポニンの値を早めに測ってくれないか?」
「トロポニンですか?そこまでの症状ではないと思いますよ。定期検査は明日の予定通りで大丈夫です」
岡崎は苦笑いを浮かべて出ていった。若い医師が自分の判断に自信を持つのは悪いことじゃない。だがその自信が患者を見えなくすることがある。俺自身、若い頃はそうだった。
しばらくして高島主任が入ってきた。彼女は俺の顔を見た瞬間、足を止めた。
「黒沢さん、顔色が悪いですよ。血圧を測らせてください」
「ああ、頼む。それとシーツを変えてもらえるとありがたい。少し汗をかいた」
「…少し、ですか。これはかなりの汗ですよ。血圧が上がっています。岡崎先生に伝えます」
「頼む。それから相馬先生にも連絡してほしい」
「相馬先生に?」
「治験の担当だ。数値の変動は必ず知らせる約束になっている」
高島は少し不思議そうな顔をしたが、頷いて出ていった。
昼前、相馬が息を切らして病室に入ってきた。
「先生、なぜすぐ呼ばなかったんですか!今、投薬を止められます!」
「今止めるわけにはいかない」
「先生、心臓の酵素が基準値の三倍を超えています。これは限界です」
相馬は手に持っていた結果をベッドの脇のテーブルに置いた。予想していた数値だった。
「あと二週間だ。二週間続ければ十分なデータが揃う。ここで止めればこの薬の認可は五年遅れる」
「五年遅れても、先生が生きていてくれた方がいいんです」
相馬の声が震えていた。俺は彼の目を見た。教え子だった頃から変わらない真っすぐな目。その目に涙が浮かんでいる。
「相馬、聞いてくれ。俺がこの治験に参加した理由を、お前は知っているだろう」
「ユイナちゃんのためですよね」
「ユイナだけじゃない。この病気で苦しんでいる子どもは日本だけで千人以上いる。認可が五年遅れるということは、その千人の子どものうち何人かが間に合わなくなるということだ」
「ですが、先生の命は」
「俺は医者だ。医者が命をかけるべき場所を、俺は自分で選んだんだ」
相馬は椅子に腰を下ろし、両手で顔を覆った。
「先生、一つだけお願いがあります」
「何だ」
「もし本当に危険な状態になったら、その時は私の判断に従ってください。恩師としてではなく、患者として」
「分かった。約束する」
相馬は顔を上げ、拳で目元を拭った。
「今日から二十四時間モニタリングします。夜間も看護師を増やします」
「岡崎には言うな。あいつが騒げば俺の正体がバレる」
「先生、岡崎にもそろそろ本当のことを教えてもいいんじゃないですか?」
「まだだ。あいつが自分で気づく方が、あいつのためになる」
その日の夕方、ユイナはいつもの時間に来なかった。面会時間の終わりが近づく頃、ようやく足音が聞こえた。だがいつもの跳ねるような足音ではなかった。ドアが開くと、ユイナが立っていた。顔が青白い。ランドセルを持つ手が力なく下がっている。
「どうした?学校で何かあったのか?」
「お父さん、あのね…」
ユイナはベッドの脇の椅子に座ると、しばらく黙っていた。
「今日ね、体育の時間に走ったら、胸が急に痛くなったの」
「いつからだ?」
「一回だけ。すぐ治ったよ。先生には言ってないの。心配かけたくなくて」
俺の心臓が大きく跳ねた。ユイナは俺の顔を覗き込んだ。
「お父さん、大丈夫?顔真っ白だよ」
「大丈夫だ、ユイナ。明日、相馬先生に見てもらおう。父さんから話しておく」
「え、私、病気なの?」
「違う。念のためだ。父さんが入院しているから、家族も一度検査しておいた方がいいと前から言われていた」
嘘だった。ユイナは少し不安そうな顔をしたが、頷いた。
「お父さん、今日は元気ないね」
「そんなことはない。少し疲れているだけだ」
「じゃあ、これ」
ユイナはランドセルから小さな包みを取り出した。開くと、中には手作りのクッキーが入っていた。形が不揃いで、少し焦げているものもある。
「家庭科の続きで今日焼いたの。お父さん、食べられるかな?」
「ああ、食べる。ありがとう」
俺は一枚つまんで口に運んだ。甘い。少し焦げた苦みが舌の奥に残った。
「おいしい」
「大げさだよ」
「ああ、今まで食べたどんなクッキーよりうまいよ」
ユイナは少しだけ笑った。その笑顔を見ながら俺は決めた。どんなに副作用が出ても、この治験は最後まで続ける。この子が同じ病気を発症した時、間に合う薬にするために。
面会時間の終わりを告げるアナウンスが流れた。
「お父さん、早く元気になってね」
「ああ、父さんは大丈夫だよ」
ドアが閉まった後、俺は残りのクッキーを一枚また口に運んだ。引き出しから妻の写真を取り出した。写真の中の妻は静かに微笑んでいる。
あと二週間だ。あと二週間持たせてくれ。
深夜二時、俺は激しい胸の痛みで目を覚ました。今度は鉄の塊ではなかった。胸の中心を内側から握りつぶされるような痛みだ。俺はナースコールに手を伸ばした。最初に飛び込んできたのは、夜勤の高島主任だった。
「黒沢さん、聞こえますか?黒沢さん」
「相馬先生を呼んでくれ」
「もう連絡しています。先生、すぐ来ます」
高島は酸素マスクを俺の口に当てながらモニターに目を走らせた。続いて岡崎が駆け込んできた。
「何ですか、この波形。黒沢さん、いつからこの状態に?」
「岡崎先生、今朝から兆候が出ていました」
「聞いてないですよ、そんなこと」
「私、伝えました。カルテにも書きました」
岡崎の顔が強張った。俺は薄れる意識の中で、酸素マスク越しに声を絞り出した。
「岡崎先生、冷静になれ。俺の体はまだ大丈夫だ」
そこへ相馬が飛び込んできた。白衣も羽織らず、パジャマの上にカーディガンを引っかけただけの姿だった。
「先生、意識はありますか?先生」
「相馬、約束覚えているな」
「はい、覚えています。今から私の判断に従ってもらいます」
相馬は看護師と岡崎に向き直った。
「透析を中心に緊急処置に入ります。高島さん、除細動の準備を。岡崎も準備してくれ」
「相馬先生、この患者さん、そんなに重症だったんですか?ただの神経質な患者じゃないんですか?」
「岡崎、黙って動け。今は問答している時間がない」
岡崎は初めて見る相馬の顔に言葉を飲み込み、慌てて処置に走った。高島が耳元で囁いた。
「黒沢さん、頑張ってください。ユイナちゃんが待ってますよ」
ユイナ、まだ行けない。まだあの子に何も残していない。
処置が始まって二十分ほどで、俺の心拍は落ち着きを取り戻した。危機は過ぎた。処置室に運ばれた俺の傍らで、相馬と岡崎、高島が黙って立ち尽くしていた。
そこへ病院長の宮坂が現れた。彼は俺のベッドの脇に立ち、静かに息を吐いた。
「相馬君、岡崎君、高島さん、話しておかねばならないことがある」
「病院長、こんな時間に何をですか?」
「この患者のことだ。彼が何者なのか」
宮坂は俺の顔を見下ろした。俺は小さく頷いた。もう隠しておく段階ではない。
「この人は黒沢だ。十年前まで日本一と呼ばれた心臓外科医だ」
「え、どういうことですか?」
「君たちが医学部の教科書で名前を見たことがあるはずだ。世界で初めて小児の複合型心奇形の一期的修復手術に成功した外科医。それがこの黒沢だ」
岡崎の顔から血の気が引いていくのが見えた。高島も口元に手を当てて立ち尽くしていた。
「彼の奥さんは十年前、遺伝性の心臓病で亡くなった。当時、根本治療の薬はなかった。黒沢はその日から身を隠した。そして自分の残りの人生を、その薬を作ることにかけたんだ」
相馬が静かに口を開いた。
「先生の娘さんも、同じ遺伝子を持っている可能性があるんです。黒沢先生が今回の治験に被験者として参加した理由はそこです。娘のため、そして同じ病気で苦しむ子どもたちのために」
岡崎の手からカルテが滑り落ちた。彼は床に膝をつき、両手で顔を覆った。
「私はこの人のことを面倒な患者だと思っていました。何度も話を聞き流して」
「岡崎君、顔を上げなさい」
「僕は医者失格です」
「違う。今気づいたなら、まだ間に合う。医者にとって一番大切なのは、患者の言葉を聞くことだ」
岡崎は顔を上げた。涙が頬を伝っていた。彼は深く頭を下げた。
「黒沢先生、申し訳ありませんでした。私は先生の言葉を一つも本気で聞いていませんでした」
「岡崎先生、頭を上げてくれ。俺はあんたを責めるためにここにいたんじゃない」
「ですが、私は」
「若い頃の俺も同じだった。自分の知識を過信して、患者の訴えを軽く見ていた時期があった。だから、あんたが変われると分かっていた」
岡崎は声を殺して泣いていた。高島も目頭を抑えていた。夜明けの光が少しずつ空を染め始めていた。
一週間後の朝、俺は病室のベッドに座り、窓の外を見ていた。容体は安定し、投薬は中止された。だがこれまでのデータが揃ったおかげで、治験は次の段階へ進めることになった。
「先生、新薬の有効性は統計的に十分な水準で確認されました。認可申請を進めます」
「そうか。よかった」
「先生の体をこれ以上削らずに済みましたよ」
「削った分は無駄じゃなかったな」
ドアがノックされた。入ってきたのは岡崎だった。彼はこの一週間、毎朝一番に俺の病室へ来て、俺の話を聞くようになっていた。今日はその手に一冊のノートを持っている。
「黒沢先生、これは私がこの一週間、患者さんから聞いた訴えを全部書き留めたノートです。見ていただけますか?」
「見せてくれ」
俺はノートを受け取り開いた。細かい字で几帳面に書かれていた。俺は少しだけ笑った。
「岡崎先生、いい医者になるな、あんたは」
「まだまだです。先生に教わりたいことが山ほどあります」
その時、廊下からユイナの足音が聞こえた。今日は土曜日。朝から来ることになっていた。ドアが開いて、ユイナが飛び込んできた。
「お父さん、おはよう!」
「ユイナ、来たか」
ユイナは俺の隣に腰かけると、俺の手をギュッと握った。昨日、相馬からユイナの検査結果を聞いた。遺伝子は確かに持っていた。だが発症を止められる薬が、もう間もなくできる。間に合う。
「お父さん、いつ帰れるの?」
「もうすぐだ。来月には家に帰れるよ」
「本当?」
「ああ。ユイナ、父さんな。家に帰ったらまた前みたいに病院で働こうと思うんだ」
「お医者さん、また始めるの?」
「ああ。父さんは医者だからな」
ユイナは嬉しそうに笑った。その笑顔の向こうで、岡崎が目元を拭っているのが見えた。高島が窓のカーテンを開けた。朝の光が病室いっぱいに差し込んだ。俺はユイナの頭にそっと手を置いた。



