オフィスに着いた瞬間、俺のデスクに置かれた大きなダンボール箱が目に入った。何の予告もなく、ただ静かに置かれている。中身を開けた俺は言葉を失った。カラフルな女性用の下着がぎっしりと詰まっていたのだ。
「こ、これ何ですか?」
俺の慌てた声に、上司の先本裕子主任は少し不思議そうな顔をした。まるで何を驚いているのか分からないというように。
「来週のイベントで使う女性用の下着だけど」
「下着の販売なんですか?うちの部署、下着は扱ってなかったですよね」
裕子さんは冷たい口調で言い放った。
「次のイベントから新作で下着が入るのよ。言わなかったかしら」
周りのスタッフがクスクスと笑い始める。恥ずかしさで顔が一気に熱くなり、言葉が詰まった。裕子さんは不敵な笑みを浮かべた。
「もしかしてあなた、女性経験ないの?」
「経験ないわけじゃないですが、下着のことは聞いてません」
「叫ばないで。うるさいわね。下着くらいでギャーギャー言わないの」
会社で最も美人だと評判の彼女にそう言われ、俺はただ立ち尽くすしかなかった。仕方なく会議室へ箱を運び、サイズ別に下着を仕分け始める。色とりどりの下着が混ざっていて、整理するのも一苦労だった。定時まであと30分。急がないと終わらない。
その時、会議室のドアが開き、裕子さんが入ってきた。俺が「もうすぐ終わりますから」と手を休めずに作業を続けていると、カチャという小さな音が聞こえた。何の音かと思い顔を上げる。その瞬間、裕子さんが服を脱ぎ始めた。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
慌てて目を覆うが、彼女は気にする様子もなく、さっとモデル用の下着を手に取ると自分の肌に当てた。カーッと熱いものが込み上げる。落ち着け、必死に理性を保とうとするが、コントロールが効かず思わず目を開けてしまう。
目の前には新作デザインの下着を試着し、鏡の前でシルエットを確認する裕子さんの姿があった。彼女のボリュームのある胸がしっかりと包まれ、美しいシルエットが際立つ。頭に血が登りそうになるのを必死に抑え込んだ。
「しっかりしなさい。あなたはアパレル業界トップの営業マンになるんでしょ?」
俺が目をこらしているのを見て、裕子さんが大声をあげた。下着姿の女性を見て動揺しない方がおかしいだろう。思いつつも、この業界で働く以上試着だって仕事のうち、慣れなければいけないのかもしれない。しかし裕子さんは下着を脱いだり着たりしながら何度も俺の前で試着を繰り返す。無理だ。理性を保とうと必死になるが、目の前で繰り広げられる光景に耐えきれず、俺は部屋を飛び出した。
家に帰ってもその光景が頭から離れない。裕子さんの下着姿が脳裏に焼き付いて離れない。心臓はバクバク鳴りっぱなしで、爆発しそうだった。
翌日会社に行くと、裕子さんはいつも通りの表情で仕事をしている。まるで昨夜の出来事なんてなかったかのように。だが俺にはもう彼女の顔を直視できない。視界に入るたび、どうしてもあの姿がフラッシュバックする。だからこそイベント準備にひたすら没頭した。そうすれば余計なことを考えずに済む。
イベント当日がやってきた。顧客リストに載っているお客さんたちが次々と会場にやってくる。限られたスタッフでは女性だけでは対応しきれず、俺も戦力として借り出されることになる。意外にも俺は淡々と作業をこなしていた。着替えを見ても下着姿を見ても何も思わない。動揺するどころか平然と採寸を続けられる。つい昨日まで裕子さんの姿を思い出して顔を真っ赤にしていたのに、今は何も感じない。俺の心はもう女性に何も思わなくなってしまったのか?いや、違う。俺は裕子さんの下着姿でなければドキドキしないのだ。その事実に気づいた瞬間、胸に小さな衝撃が走る。
もしかして俺、裕子さんのことが好きなのか?
イベントが無事に終了した後、部長が俺の歓迎会を兼ねた飲み会を開いてくれることになった。社会人になって初めての飲み会。自然とテンションが上がる。部長に呼ばれ恐縮しながら席に座ると、すぐ隣に裕子さんが腰を下ろした。彼女が隣にいるだけで緊張感が倍増する。しばらく飲んでいると、部長が突然ステージに上がりカラオケ熱唱タイムが始まった。その歌声をBGMにしつつふと隣を見ると、裕子さんのグラスが空になっている。すぐに新しいビールを頼み、静かにグラスへ注いだ。
「主任、今回はイベントお疲れ様でした。乾杯」
そう言ってグラスを掲げると、裕子さんは一言もなくビールを一気飲みした。それだけじゃない。横で黙々と飲み続けているのに、全く顔色が変わらない。お酒めちゃくちゃ強いのか。軽く感心し、後ろを向いて他のスタッフと乾杯しようとしたその瞬間だった。
ドンッ。
背後から何かが倒れる音。振り返ると、裕子さんが床に転がっている。慌てて彼女を揺すると、いびき。寝てる。
周囲がざわつく中、俺はジャケットを脱ぎそっと彼女にかけた。別室で休ませます。そう言いながら彼女を抱き抱え、店の人に頼んで部屋を借りた。どうやら酒が飲めないのに無理をしていたらしい。眠る彼女を見つめながら、俺の中で何かが揺らぐ。仕事中、無駄な話もせず黙々と業務に取り組む姿。いつも冷たく見えるけど、本当はまっすぐで純粋な人なのかもしれない。
2時間後、突然裕子さんが目を覚まし、ガバッと布団から飛び起きた。
「大丈夫ですか?」
俺の声に気づいた彼女は勢いよく立ち上がろうとして、ぐらりとよろめいた。その体が俺にのしかかり、そのまま俺たちは布団に倒れ込んだ。バタバタと暴れるうちに彼女の上着が乱れ、下着がちらりと見えた。その瞬間、全身が一気に熱を持つ。思わず彼女を抱きしめそうになった。
「落ち着いてください。大丈夫ですから」
ゆっくり彼女を起こすと、ようやく暴れるのをやめる。しかしまだ酔いが残っているのか、俺と2人きりの状況を理解できていない様子だった。
「他のみんなは2次に行きました。家に帰るなら送りますよ」
「ごめんなさい。私、とんでもない迷惑を」
そしてまさかの土下座。慌てて彼女の肩を掴み、目を覚ますよう促す。
「しっかりしてください。大丈夫ですから」
ハッと顔を上げるが、まだ混乱しているようだ。そのおろおろした姿がまるで子供のようで、いつものクールな彼女じゃない。そのギャップに心臓が跳ね上がる。手を握り、そのままタクシーに乗り込んだ。家まで送ります。
タクシーが静かに止まり、彼女のアパートに到着した。ほとんど意識がなく俺に寄りかかるようにしている裕子さんを支えながら、タクシー代を支払った。
「ほら、着きましたよ。鍵出せますか?」
声をかけると、彼女はバッグの中を探るがなかなか見つからない。指先がもつれて何度も同じ場所を探している。小さくため息をつき、彼女の許可を得る間もなくバッグの中へ手を入れた。
「失礼します」
ガサゴソと探ると、指先に小さな金属の感触。取り出してみると、鍵には小さなくまのキーホルダーが付いていた。意外と可愛いものを持ってるんだな。思わず微笑みつつ鍵を差し込み、ドアを開ける。薄暗い室内が広がった。部屋の明かりをつけ、彼女をゆっくりと中へ。ベッドまで歩かせると、彼女は崩れ落ちるように横になる。そっと布団をかけ、部屋を出ようとしたその時、ふと目に入ったのは棚に飾られた1枚の写真だった。
写真の中には裕子さんと、俺の大学時代の先輩である山形さんが並んで映っている。胸の奥がざわついた。どうして先輩と?やっぱり付き合っていたのか?疑問が渦巻く中、背後から小さな寝息が聞こえた。振り返ると、彼女は無防備な寝顔を晒している。普段の冷たい態度が嘘のように穏やかで、少し幼く見えた。
俺は彼女のことが好きなのか。自問自答しながらそっと立ち上がり、部屋を出ようとしたその瞬間だった。ガサリ。布団の音がしたかと思うと、裕子さんがいきなり起き上がり、着替えを始める。酔っているせいか、俺の存在など気にしていない。無防備に上着を脱ぎ、シャツに手をかけていく。視線のやり場に困り、慌てて目をそらした。
「主任、ちょっと待って」
「あら、送ってくれたの?」
あいまいに言いながら、シャツのボタンを外し始める。顔が熱くなるのを感じながらも、必死に冷静を装う。しかし、視界の端に映る彼女の無防備な姿に、頭が真っ白になりそうだった。
「そんなに俺のこと、男として意識してないんですか?」
思わず心の声が口からこぼれた。その瞬間、裕子さんの手がピタリと止まった。
「俺、あなたのことが好きです」
勢いのままに告げた言葉が部屋の空気を一変させた。裕子さんの表情が一瞬で青ざめ、自分の格好にようやく気づいたようで、突然の悲鳴。俺は慌てて身をひるがえし、部屋を飛び出した。廊下で立ち尽くし、手を当てた。
やばい。勢いで告白しちまった。明日からどんな顔をして会社に行けばいい?
翌日会社に出社すると、予想通り裕子さんはすでに席についている。昨夜のことを謝ろうと決め、少しドキドキしながらも声をかけた。
「主任、昨日は……」
しかし、俺の言葉を聞いた瞬間、裕子さんは顔を真っ赤にし、何も言わずに立ち去ってしまった。まるで俺の存在が嫌かのように。その後も仕事中ずっと、裕子さんは俺と目を合わせようとしない。明らかに避けられている。もしかして完全に嫌われてしまったのか。そんな不安が心に広がり、仕事に全く集中できない。
昼休みになり、俺はなんとかしてこの状況を解決しようと決意した。先輩に相談すれば何かいいアドバイスがもらえるかもしれない。食堂に向かうと、幸い先輩はすでに席についていた。
「先輩、ちょっと相談があるんです」
「ああ、お疲れ。なんだか改まった顔してどうした?」
俺は昨日の出来事を順を追って話し始めた。裕子さんに告白してしまったこと、気持ちを抑えきれなかったこと。最初先輩は軽く笑っていた。しかし話が進むにつれ、その表情が険しくなっていく。焦った俺は先輩に謝った。
「すみません。まさか先輩と付き合っているとは思わなくて、気持ちを抑えられなくなってしまいました」
「安心しろ。俺は彼女の彼氏じゃないから」
「え?でも、部屋の中にも写真がたくさんあったし、家の中にも先輩の写真が……」
「あの写真は俺じゃない。俺の兄貴だよ」
その言葉に耳を疑った。昨日見た写真、確かに先輩が映っていたはずなのに。だが先輩は兄のことを話している。先輩に兄がいたなんて聞いたことがない。大学時代から仲が良かったのに、一度も話題に出たことはなかった。
「俺の兄は双子だから、顔が似てるのは当然だ。でも兄貴はもう亡くなったんだ」
「亡くなった?じゃあ裕子さんは先輩のお兄さんと付き合ってたんですか?」
「ああ、そうだよ。しかも結婚する約束までしてた。でも彼女の目の前で兄貴は亡くなったんだ」
その言葉に完全に衝撃を受けた。裕子さんが心を閉ざしてしまった理由を、想像せずにはいられなかった。先輩の兄が亡くなる瞬間を目撃し、その悲しみと喪失感に押しつぶされたのだろう。それ以来、彼女は人に感情を抱くことができなくなったという。
「だからあいつは今でも男とか女とかの区別がつかないんだ。感情が壊れてるからな」
「それならどうして急に俺を避けたり恥ずかしがったりするんでしょう」
先輩はしばらく考え込み、じっと俺の顔を見つめながら言葉を選ぶように口を開いた。
「もしかしたら感情が戻ってきたのかもしれない。お前を避けてるのは、お前を男として意識してるからかもしれないな」
俺の告白と抱きしめたことがきっかけで、裕子さんの心が少しずつ戻り始めた可能性があるらしい。俺が心配そうな顔をしているのを見て、先輩はふっと笑った。何か思いついたのだろうか?その顔にはどこか楽しげな表情が浮かんでいる。
「お前、もしかしたら彼女を救えるかもしれないぞ」
予想もしない展開にただただ困惑する。
「俺に任せろ」
そう一言だけ告げると、先輩はさっさと立ち去ってしまった。
その後、先輩からメールが届いた。今夜時間を作ってほしいと。夕方になって指定された店へ向かうと、すでに先輩と裕子さんが座っており、お酒を楽しんでいる様子だった。お酒が入っているせいか、裕子さんは俺が近づいても避けようとしない。むしろ甘えたような声で話しかけてきた。
「あら、来てくれたのね」
いつもの裕子さんとはまるで別人。どこかふわふわとした雰囲気に困惑せずにはいられない。そして俺のグラスにワインをドボドボと注ぎ始めた。
「昨日は本当にすみませんでした」
謝ると、裕子さんは満面の笑みを浮かべる。
「私のこと好きなの?」
突然の問いかけに、心臓が跳ねるような感覚に包まれた。彼女がほんの少し顔を近づけてくる。
「主任、酔ってるんですか?大丈夫ですか?」
先輩は黙ったまま、ただ俺たちを見守っている。裕子さんは微笑みながらもう一度言った。
「私もあなたのことが好きだよ」
完全に酔っているのは分かる。それでもその言葉を聞いた瞬間、どうすればいいのか分からなくなった。慌てて先輩に助けを求めると、彼は冷静に言った。
「このまま家まで連れて帰ってくれ」
「彼女は闇から立ち直ろうとしているんだ。しっかりサポートしてやれ」
言葉の意味はよく分からない。それでも先輩の言葉に従い、俺は裕子さんを家へ連れて帰ることにした。彼女をベッドに寝かせ、そっと抱きしめる。すやすやと寝息を立てる中、目元に浮かぶ涙に気づいた。そっと指先で拭い、さらに強く抱きしめる。
裕子さんの心は深い闇の中に閉じ込められていた。愛する人を目の前で失った痛みを抱え、現実を受け入れることができなかったのだろう。そんな彼女を、俺はずっと守り続ける。心の中で静かに誓った。
しばらくして裕子さんが目を覚ます。穏やかな表情で俺を見つめながら言った。
「あなたは私を愛してくれるの?ずっとそばにいてくれるの?」
「はい。離しませんよ。俺はずっとそばにいます」
「ずっと闇の中にいる気がしてた。でもあなたの温もりで目が覚めた気がする」
再び彼女をギュッと抱きしめる。長い苦しみからようやく解放された気がした。
数日後、裕子さんが長年通っているクリニックに向かった。2人で手をつなぎ、先生の話に耳を傾ける。
「目の前で愛する人をなくし、心が深い闇に包まれていたようです。しかしあなたの深い愛情が彼女を救ったのだと思います。医学では解明できない心の傷を、愛情が癒したんですね」
その言葉に胸がじわりと温かくなる。裕子さんが闇から抜け出せたことは間違いない。俺は彼女を愛し、これからもずっと見守ると誓った。
その後、裕子さんは会社での印象が一変し、明るく前向きな姿を見せるようになる。以前よりも他のスタッフと積極的に関わり、周囲からの信頼も厚くなり、仕事も順調に進む。ただその変化を喜ぶ一方で、心の奥に小さな不安が芽生え始める。裕子さんは美しくスタイルも抜群。以前にも増して魅力的になった。他の男性が彼女に惹かれてしまうのではないかという恐れが湧いてくる。
そんな気持ちを先輩に打ち明けると、少し呆れたように言われた。
「お前、しっかりしろよ。あれからちゃんと彼女に言葉で伝えたか?」
「え?そんなの恥ずかしくて言えませんよ」
「好きって言ったからってそこで終わりじゃないんだぞ。言葉ってのは魔法みたいなもんなんだから、言わなきゃ効果が切れるんだよ。ちゃんと言えよ」
その言葉に背中を押され、俺はその日の仕事帰り、裕子さんを食事に誘った。レストランに先に着いた俺は、ポケットから小さな箱を取り出し、キラリと光る指輪を手に取った。もう一度きちんと気持ちを伝えよう。そう決意し、深く息を吸い込む。
やがて裕子さんがレストランに現れる。彼女は眩しいほどの笑顔で美しかった。この店は、裕子さんの婚約者だったゆやさんの後輩が開いた店だった。ゆやさんは有名なシェフで、裕子さんとも深い関わりがあった人物だ。裕子さんは料理の味に気づいたのか、久しぶりにゆやさんの料理を思い出したようだった。
「ゆやさんは亡くなりましたが、ちゃんと生きた証を残しています」
裕子さんは少し沈黙した後、ぽつりとつぶやいた。
「私にゆやを思い出せって言いたいの」
「違います。無理やり忘れようとしないでください。あなたの思い出になるまで俺が支えますから」
裕子さんが心の中でゆやさんを忘れたくない気持ちを抱えていることを、俺は理解していた。だからこそ無理に忘れさせるのではなく、その気持ちを受け止める。
「ゆやさんのことは好きなままでいいんです。俺が支えますから。他の男ではこうは行きません。俺くらいです。分かってください」
裕子さんは静かに微笑み、感謝の言葉を口にした。
「ありがとう。本当にありがとう」
その言葉を聞き、さらに心を込めて伝える。
「ゆやさん以外は俺だけを見てください」
ポケットから指輪を取り出し、裕子さんの手につけた。
「結婚するのも俺だけです」
薬指にぴったりと収まる指輪。その瞬間、2人の新たな一歩が始まるのを感じた。
もしかしたら俺は一生2番目の男でしかないのかもしれない。ゆやさんはもういないけれど、その存在は裕子さんにとって特別で、思い出は永遠に美しいまま。亡くなった人への思いは、時に現実よりも強くなる。きっと彼女はこれからもゆやさんを好きなままなのだろう。それでも俺は2番目でも構わないと思えた。なぜなら裕子さんと笑い合い、触れ合い、今を共に生きられることが何よりも幸せだから。
どれだけ辛い過去があっても、人は心から誰かを愛することができる。そしてその愛は、人の心を壊すことも救うこともできる。それこそが本当の愛するということなのだと、俺は知った。
あれから数年が経つ。俺の横には今も裕子さんの笑顔がある。これからもずっと彼女を守り愛していくと決めている。たとえそれが2番目の男だとしても、これが俺たち2人の恋物語だ。



