夫の葬儀からたった三日。喪服のまま呼び出された家のリビングで、息子が言った。「母さん、明日までにこの家から出て行ってください。仏壇も処分してください」――四十二年連れ添った夫の遺骨を前に、呆然とする私を見て、嫁は勝ち誇ったように笑った。「もうお世話になったじゃないですか。お母さんには関係ないんですよ」手の震えが止まらなかった。涙すら出なかった。その夜、人生で初めて「もう、何も怖くない」と思っ…

夫の葬儀からたった三日。喪服のまま呼び出された家のリビングで、息子が言った。「母さん、明日までにこの家から出て行ってください。仏壇も処分してください」――四十二年連れ添った夫の遺骨を前に、呆然とする私を見て、嫁は勝ち誇ったように笑った。「もうお世話になったじゃないですか。お母さんには関係ないんですよ」手の震えが止まらなかった。涙すら出なかった。その夜、人生で初めて「もう、何も怖くない」と思っ...

夫の葬儀からまだ三日。喪服の涙も乾かぬうちに、息子の達也に呼び出された。
「母さん、大事な話があるんだ。」
リビングのソファに腰を下ろした達也の表情は、これまで見たことがないほど冷たいものだった。隣には嫁のエリカが、なぜか勝ち誇ったような笑みを浮かべて座っている。
「単刀直入に言います。明日までにこの家から出て行ってください。」
信じられなかった。四十二年連れ添った夫・白さんを亡くし、遺骨を自宅の祭壇に納めたばかりのその日に、そんな言葉を聞くことになるとは夢にも思わなかった。
「達也、何を言っているの? お父さんが亡くなったばかりなのよ。」
「だからこそです。母さん一人ではこの家は広すぎるでしょう。エリカの両親がここに住むことになったので、邪魔なものは置いておけないんです。」
「そうですよ。お母さん、もう十分お世話になったじゃないですか。」
エリカが冷たく口を挟んだ。その瞬間、私の人生が音を立てて崩れ落ちていくのが分かった。
達也のために、どれだけの犠牲を払ってきただろうか。毎朝五時に起きて弁当を作り、パートに出て、帰宅すれば家事に追われる日々。大学進学の時は老後の貯金を崩して六百万円もの学費を出した。結婚の時も、どうしても必要なんだと頼まれて三百万円を援助した。
「達也、私がどれだけあなたのために尽くしてきたか忘れたの?」
「昔のことを持ち出されても困ります。時代は変わったんです。」
エリカが横から追い打ちをかけた。
「お母さんの料理も、正直言って味が濃すぎて時代遅れですよ。私の母ならもっと健康的な食事を作ってくれます。それに私の親は子供たちの教育資金を援助してくれるんです。お母さんにはもうそんな余裕もないでしょう。」
達也の言葉は刃物のように私の心を切り裂いた。四十二年間、家族のために生きてきた。義母の介護も五年間一人で背負った。それなのに、夫が亡くなったとたんにこれか。
翌朝、達也とエリカは約束通り私の荷物を整理するためにやってきた。二人は容赦なく、私の思い出の品々をダンボールに詰め込み始めた。
「母さん、必要最小限のものだけにしてください。エリカの両親の荷物が多いので。」
達也は事務的にそう言いながら、白さんとの結婚記念日の写真を無造作に箱に放り込んだ。
「それは大切な写真なの。もっと丁寧に扱って。」
「写真なんてデジタル化すればいいじゃないですか。」
エリカが横から口を挟む。私は黙って一つの品を確認しながら整理を続けた。新婚旅行の土産、達也が生まれた時のへその緒、家族で行った温泉旅行の記念品。どれも捨てられない大切な思い出ばかりだ。
午後になって達也が仏壇の前に立った。
「これも処分します。」
「達也、お願い。それだけはやめて。お父さんの遺骨があるのよ。」
「遺骨なんてただの木の板じゃないですか。エリカの親は無宗教だから、こんな迷信的なものは置いておけません。」
私は必死に達也の腕にすがりついた。
「お願い、せめて遺骨だけでも持たせて。お父さんの魂が──」
「魂なんてありませんよ。科学的じゃないでしょう。」
達也は私の手を振り払い、仏壇の扉を開けた。中には白さんの遺骨と、先祖代々の遺骨が並んでいる。達也の祖父母の遺骨もあった。
「この人たち、僕は会ったこともないし関係ないですよ。」
「達也、あなたのおじいちゃんとおばあちゃんよ。あなたが生まれる前に亡くなったけれど、きっと天国から見守って──」
「だからそういう非科学的な話はやめてください。」
エリカが仏壇の引き出しを開けて中を物色し始めた。
「あら、これ、金の仏具じゃない。売ればいい値段になりそう。」
「エリカさん、それは──」
「お母さんには関係ないでしょう。この家のものはもう私たちのものなんですから。」
私は言葉を失った。この二人は一体何を言っているのだろうか。
夕方になり、私の荷物は小さなダンボール三箱にまとめられた。四十二年間の生活が、たったこれだけになってしまった。
「母さん、外を指差しました。もう出て行ってください。」
「でも、今すぐに住む場所なんて──」
「それは母さんの問題でしょう。ホテルでもネットカフェでも、どこでも行けばいいじゃないですか。」
「達也、私はあなたの母親よ。」
「だから何ですか? もう僕には関係ありません。」
エリカが追い打ちをかけるように言った。
「そうですよ。もう他人なんです。二度と連絡しないでください。私たちの新しい生活の邪魔をしないで。」
私は震える手でダンボールを抱えて玄関を出た。外は雨が降り始めていた。
「あ、そうそう。」
振り返るとエリカさんが玄関に立っていた。
「鍵も返してくださいね。他人が勝手に入ってこられたら困りますから。」
私は黙って鍵を渡した。達也は私の目を見ようとしない。
「母さん、もう来ないでください。エリカの両親に合わせたくないので。」
「達也、最後に一つだけ聞かせて。私はそんなに悪い母親だったの?」
達也は一瞬言葉に詰まった。しかしすぐに冷たい表情に戻った。
「別に悪くはなかったですよ。でももう十分です。分かってください。」
玄関のドアがバタンと閉められた。私は雨の中、ダンボールを抱えて立ち尽くした。涙なのか雨なのか、顔を濡らすものが何なのか分からない。ただ心の中で何かが完全に壊れる音がした。
近所の人が通りかかり、心配そうに声をかけてくれた。
「よし子さん、大丈夫ですか? ずぶ濡れじゃないですか。」
「ええ、大丈夫です。ちょっと──」
言葉が続かない。まさか息子に家から追い出されたなんて言えるはずがない。タクシーを呼んで、とりあえず駅前のビジネスホテルに向かった。
部屋に入ってダンボールを開けてみると、写真と最低限の着替え。そして白さんの形見の腕時計。それだけだった。仏壇も遺骨も思い出の品々も、全て奪われてしまった。
ベッドに座り込んで、私は声を殺して泣いた。白さん、あなたがいなくなって、私はこんな仕打ちを受けています。四十二年間、何のために頑張ってきたのでしょうか。
その時、携帯電話が鳴った。親友の正子からだった。
「よし子、今どこにいるの? 達也君から聞いたわよ。ひどい話じゃない。」
「まさ子、私どうしていいか──」
「とにかく落ち着いて。実はあなたに伝えなきゃいけないことがあるの。」
まさ子の声がいつになく真剣だった。
「達也君のこと、近所で噂になってるわ。どうやらかなりの借金を抱えているらしいの。しかもあなたの家を担保にして──」
「え、家を担保に? どういうこと?」
「そうよ。私の知り合いの不動産屋さんから聞いたの。でもおかしいのよ。その家の名義を確認したら──」
私は息を飲んだ。
「よし子、あの家の名義、あなたになってるはずよ。白さんが生前にあなたへ贈与したって。」
「そんなこと知らなかった。」
「とにかく明日、一緒に弁護士さんのところへ行きましょう。私の従兄が弁護士をしているから相談に乗ってもらえるわ。」
翌日、まさ子と一緒に法律事務所を訪れた。弁護士の先生は優しい笑顔で迎えてくれた。
「よし子さん、まずは落ち着いてください。書類を確認させていただきますね。」
先生は丁寧に一つ一つ確認していく。
「これは興味深いですね。よし子さん、この家の名義は五年前に白さんからあなたに生前贈与されています。正式な手続きも完了していますよ。」
「本当ですか?」
「ええ、間違いありません。つまりこの家は完全にあなたの所有物です。息子さんには何の権利もありません。」
私は驚きで言葉が出なかった。
「それだけではありません。白さんの生命保険も確認しましたが、受取人は全てあなたです。三千万円の保険金が下りるはずです。」
「三千万円も──」
「はい。さらに白さんの退職金の一部も、あなた名義の口座に振り込まれているようです。通帳を確認してみてください。」
震える手で通帳を開くと、確かに二千万円の残高があった。白さんが私のために残してくれたお金。先生の言葉に、私は涙が溢れた。
「白は、最後まで私のことを考えてくれていたのですね。」
「これで、息子さんが家を担保に借金をしているという話ですが──」
先生は書類をめくりながら続けた。
「これは完全に無効です。所有者であるあなたの許可なく、勝手に担保設定することはできません。もし本当にそんなことをしていたら、詐欺に問われる可能性もあります。まだ確定ではありませんが、調査が必要ですね。」
「それよりよし子さん、あなたはこの家をどうされたいですか?」
私は深く息を吸った。頭の中で、何かがはっきりと見えてきた。
「先生、私にはあの家を処分する権利があるということですね。」
「もちろんです。売却するも、取り壊すも、全てあなたの自由です。達也さんたちを追い出すことも当然できます。不法占拠ということになりますから。」
まさ子が私の手を握った。
「よし子、あなたは何も悪くない。堂々としていいのよ。」
私は立ち上がった。もう迷いはなかった。
「先生、お願いがあります。家を取り壊したいのです。全て更地にして。」
先生は少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「分かりました。手続きをお手伝いします。ただ、事前に現在の居住者に通告する必要がありますね。」
「いいえ、その必要はありません。もう他人だと言われましたから。」
私の声は、自分でも驚くほど冷静だった。
法律事務所を出て、私はまさ子と喫茶店に入った。
「よし子、本当に家を取り壊すの?」
「ええ、決めました。達也たちは私を他人だと言った。仏壇も白さんの遺骨も処分すると言った。なら私も遠慮する必要はないでしょう。」
まさ子は真剣に私を見つめた。
「でも親子じゃない。後悔しない?」
「まさ子、私は四十二年間ずっと我慢してきました。達也のため、家族のために。でももう限界です。夫の遺骨をただの木と言われた時、私の中で何かが切れました。」
達也たちが望んだことだ。私という邪魔者を排除したかったなら、お望み通りにしてあげましょう。
その日の午後、私は解体業者を訪ねた。担当の鈴木さんは親切に説明してくれた。
「よし子さん、一軒家の解体ですね。建築の大きさからすると、費用は約百万円です。更地にするまで三日ほどかかります。」
「三日後にお願いできますか?」
「可能ですが、現在お住まいの方は──」
「もう誰も住んでいません。私の所有物ですから問題ありません。」
鈴木さんは少し不思議そうな顔をしたが、契約書を用意してくれた。
「では三日後の朝八時から作業を開始します。近隣への挨拶回りは我々で行います。」
「お願いします。ただ、作業当日まで住人には知らせないでください。」
「分かりました。守秘義務は守ります。」
契約書にサインをして手付金を支払った。百万円は決して安くないが、白さんが残してくれたお金がある。これもきっと白さんの意思だと思った。
次に向かったのは湘南の不動産屋だった。すぐに物件を紹介してくれた。
「こちらはどうでしょう? 二LDKで、バルコニーから海が見えます。管理も行き届いていて、シニアの方に人気です。」
内見をすると、明るい日差しが差し込む素敵な部屋だった。
「家賃はおいくらですか?」
「月額十二万円です。礼金を合わせて初期費用は五十万円ほどです。」
私は決めた。生命保険金も入れば、十分に生活していける。
「契約します。できるだけ早く入居したいのですが。」
「でしたら、明日から入居可能です。」
帰りに仏壇店に立ち寄った。小さいけれど品のある仏壇を購入し、新居への配送を頼んだ。遺骨は新しく作り直したい。
「承ります。戒名をお教えください。」
白さんの戒名を伝えながら、私は心の中で謝った。白さん、あなたの遺骨は守れなかった。でも新しい遺骨で、また一緒に暮らしましょう。
その夜、ホテルの部屋で私は達也への手紙を書いた。
「達也へ。お望み通り家を出ます。ついでに家も一緒に持っていきますね。三日後の朝、確認してください。母より」
短い手紙だったが、言いたいことは全て込めた。これを郵送すれば達也の手元に届くのは二日後。解体が始まる前日の夕方だ。
翌日、私は新居への引っ越しを済ませた。ダンボール三個の荷物なので、すぐに終わった。海の見えるバルコニーに立つと、心が洗われるようだった。
白さん、見てください。素敵な場所でしょう。ここで新しい生活を始めます。
夕日が海を金色に染めていた。明日の朝、達也たちはどんな顔をするだろうか。でももう関係ない。他人だと言ったのは彼らの方だ。
携帯電話に銀行から入金の通知が来た。白さんの生命保険金の一部が振り込まれたようだ。これで当分は困らない。私は深呼吸をした。
明日で全てが終わる。いいえ、新しい人生が始まるのだ。
ベッドに入る前にもう一度白さんの写真を見つめた。白さん、私は間違っていないですよね。達也はあなたの息子であることも否定したんです。仏壇も先祖も全て否定したなら、私も母親であることをやめてもいいですよね。
写真の白さんは、優しく微笑んでいるように見えた。
解体当日の朝、私は新居のバルコニーでコーヒーを飲んでいた。時計は七時五十分を指している。あと十分で重機が動き出すだろう。
八時ちょうど、携帯電話が鳴った。達也からだ。昨日の夕方に手紙が届いたようだ。
「母さん、何してるんですか? 今すぐやめてください。」
「おはよう、達也。何のことかしら?」
「とぼけないでください。家を解体するって。正気ですか?」
「ええ、正気よ。私の家ですから、私の自由でしょう。」
「ふざけないでください。僕たちが住んでるんですよ。」
「あら、おかしいわね。私を追い出した時、『もう他人だ』って言ったじゃない。他人が住んでいる家なんて、私には関係ないわ。」
電話の向こうで何かが倒れる音がした。きっと慌てているのだろう。
「母さん、お願いします。やめてください。エリカの両親が今日引っ越してくるんです。」
「それは大変ね。でも他人の私には関係ありませんから。」
「母さん──」
私は電話を切った。すぐにまた鳴ったが出なかった。
三十分後、再び電話が鳴った。今度はエリカからだった。
「お義母様、お願いします。解体を止めてください。」
「あら、エリカさん。今更都合が良すぎませんか?」
「すみませんでした。謝ります。だからお願いします。」
「何を謝るの? あなたたちは何も悪いことをしていないでしょう。私を追い出した時、『もう十分お世話になった』って言ったのはあなたじゃないの。」
エリカは言葉に詰まった。
「だって……お義母様一人では広すぎるし。」
「そうね。だから私も家はいらないと思って、解体することにしたの。あなたたちの言う通りよ。」
「でも私たちはどこに住めばいいんですか?」
「それはあなたたちの問題でしょう。私に聞かれても困るわ。」
電話の向こうでエリカが泣き始めた。でも私の心は全く動かなかった。
「お義母様、本当にすみませんでした。私が悪かったです。」
「何が悪かったの?」
「全部です。お義母様を追い出したり、仏壇を処分しようとしたり──」
「ああ、そう。でももう遅いわね。契約は完了していますから。」
また達也の声が聞こえてきた。電話を代わったようだ。
「母さん、金なら払います。解体費用くらい払うから、止めてください。」
「あら、お金があるの。借金で首が回らないって聞いたけど。」
達也は息を飲んだ。
「誰から聞いたんですか?」
「色々な人から。それに、私の家を勝手に担保にしようとしたそうね。それ、犯罪よ。」
「違う! それは誤解です!」
「誤解でも何でももういいわ。ところで、エリカさんのご両親にはもう連絡した?」
「まだです。どう説明すればいいか──」
「正直に言えばいいじゃない。『自分が母親を追い出して、その腹いせに家を解体された』って。」
達也は黙り込んだ。
十時頃、解体業者の鈴木さんから連絡があった。
「よし子さん、順調に進んでいます。屋根の撤去が終わりました。」
「ありがとうございます。予定通りお願いします。」
「ただ、現場に若い男性と女性が来て、作業を止めるよう要求しているんですが──」
「無視してください。彼らには何の権限もありません。」
「分かりました。警備員もいますので大丈夫です。」
午後になって達也から何度も電話があったが、全て無視した。留守電には謝罪と懇願のメッセージが入っていた。
「母さん、本当にごめんなさい。僕が間違っていました。仏壇も大切にします。だからお願いです──」
遅すぎる。白さんの遺骨を「ただの木」と言った時点で、もう許すつもりはなかった。
夕方、鈴木さんから写真が送られてきた。家は完全に解体され、更地になっていた。四十二年間の思い出が詰まった家だったが、不思議と悲しくはなかった。これで本当に終わったのね。
夜になって、見知らぬ番号から着信があった。出てみるとエリカの母親だった。
「達也君のお母様ですか? 一体どういうことですか?」
「どういうことと言われましても──」
「娘から聞きました。家を解体したって本当ですか?」
「ええ、本当です。私の所有物ですから。」
「でも私たちが住む予定だったんです!」
「それは知りませんでした。でももう関係ありませんね。」
「ひどいじゃないですか!」
「ひどい? 私を追い出したのはあなたの娘さんと達也ですよ。夫の葬儀直後に。」
エリカの母親は黙った。
「それに、私はもう『他人』だそうです。達也がはっきりそう言いました。他人に遠慮する必要はないでしょう。」
「でも親子じゃないですか!」
「親子? 仏壇も遺骨も処分しろと言われた時点で、親子ではなくなりました。」
電話を切ると、また達也から電話があった。今度は出てみた。
「母さん──エリカと離婚することになりそうです。」
「そう。」
「エリカの両親が激怒しています。騙されたって。」
「自業自得ね。」
「母さん、本当に僕を許してくれないんですか?」
「達也、あなたは私に何と言った? 『もう十分だ。他人だ。二度と連絡するな』と。その言葉、全部返すわ。」
「母さん──」
「もう『母さん』と呼ばないで。あなたが望んだことよ。私たちは他人。二度と連絡しないで。」
私は静かに電話を切った。外を見ると、満月が海を照らしていた。美しい夜だった。
新しい仏壇に手を合わせて、白さんに報告した。
「白さん、全て終わりました。これからはあなたと二人で静かに暮らします。」
風が優しく吹いて、カーテンが揺れた。まるで白さんが答えてくれているようだった。
それから一ヶ月が経った。湘南の海が見えるマンションでの生活にも慣れてきた。朝は五時に起きてバルコニーでヨガをするのが日課になった。海から登る朝日を浴びながら深呼吸をすると、心が洗われるような気がする。
「白さん、今日も良い天気ですよ。」
新しい仏壇に手を合わせて線香を上げる。小さくても品のある仏壇に、新しく作った白さんの遺骨もきちんと納められている。
この一ヶ月で、私の生活は大きく変わった。近所のカルチャーセンターで陶芸教室に通い始めた。先生は私より少し年上の優しい女性で、丁寧に指導してくれる。
「よし子さん、綺麗に作られてますね。」
「ありがとうございます。心を落ち着けて作ることが、こんなに気持ちいいなんて知りませんでした。」
教室の仲間たちとも親しくなった。皆、それぞれの人生を歩んできた方々だ。お茶の時間には色々な話に花が咲く。
「よし子さんはお一人暮らしなの?」
「ええ、夫を亡くしました。でも今は自由で幸せです。」
本当にそう思う。誰にも気を使わず、自分のペースで生活できる。こんな贅沢があったなんて、今まで知らなかった。
週に二回は近くのスポーツジムにも通っている。水中ウォーキングは膝に優しく、体力維持に最適だ。夕方には海辺を散歩する。波の音を聞きながら歩いていると、心が穏やかになる。
先日、まさ子が遊びに来てくれた。
「よし子、すっかり若返ったじゃない。表情が明るくなったわ。」
「そうかしら。自分では分からないけど。」
「本当よ。前はいつも何かに追われているような顔をしていた。今はとても穏やかで幸せそう。」
まさ子の言葉に、私は微笑んだ。確かに、今の私は幸せだ。
「達也君のことは聞いてる?」
「いいえ。何も。連絡も取っていないし、取るつもりもないわ。」
「そう。実は私の知り合いから聞いたんだけど──」
まさ子は少し言いにくそうにした。
「エリカさん、離婚したらしいわよ。それに達也君もリストラされたって。」
「そう。」
私は特に何も感じなかった。もう他人のことだ。まさ子が尋ねた。
「よし子、後悔してない?」
「全くしていないわ。むしろ、もっと早く決断すべきだった。」
本心だった。我慢することが美徳だと信じ込んでいた自分が、今では愚かに思える。
ある日、郵便受けに手紙が入っていた。差出人は達也だった。一瞬迷ったが、開封した。
「母さんへ。もう母さんと呼ぶ資格はないかもしれませんが、最後に伝えたいことがあります。僕は取り返しのつかないことをしました。父さんが亡くなって悲しんでいる母さんを追い出し、仏壇まで処分しようとした。人として最低のことをしました。今、僕は全てを失いました。仕事も家庭も住む場所も。でもこれは当然の報いだと思っています。母さんを傷つけた罰です。本当にごめんなさい。もう二度と連絡はしません。母さんが幸せでいてくれることを、遠くから祈っています。達也」
読み終えて、私は静かにそれを折りたたんだ。涙は出なかった。ただ少しだけ、達也のことが哀れに思えた。でも許すつもりはない。
白さん、達也は反省しているようです。でも私はもう前を向いて生きていきます。
仏壇に手を合わせて、手紙をしまった。過去は過去。今は新しい人生を楽しむ時だ。
最近、新しい趣味も見つけた。海辺の風景を描く水彩画だ。まだ下手だが、描いている時間は無心になれる。これが本当の自由というものなのね。
私は今、心から幸せだ。誰かのために生きるのではなく、自分のために生きる。それがこんなに素晴らしいことだったなんて。
夕暮れ、バルコニーでお茶を飲みながら私はこの一ヶ月を振り返った。達也に家を追い出された時は、人生の終わりだと思った。でも違った。あれは新しい人生の始まりだったのだ。
理不尽な仕打ちを受けた時、我慢し続ける必要はない。自分の尊厳を守るために戦うことは、決して悪いことではない。むしろそれは生きる者の権利であり、義務でもあるのかもしれない。
私の決断は極端だったかもしれない。家を解体するなんて、普通の人はしないだろう。でも私にとっては必要なことだった。過去と決別し、新しい人生を始めるために。
私は今、六十七歳。人生の残りの時間はそう長くはないかもしれない。だからこそ、一日一日を大切に、自分らしく生きていきたい。誰に遠慮することもなく、誰に気を使うこともなく。
海に沈む夕日を見ながら、私は深呼吸をした。潮風が優しく頬を撫でていく。
白さん、私は強くなりました。あなたが残してくれたお金と愛情のおかげで、新しい人生を歩んでいます。ありがとう。
明日は陶芸教室の発表会がある。「自由」をテーマにした作品を出す予定だ。今の私の心境を一番よく表している言葉だから。
人生はいつでもやり直せる。六十七歳でも、七十歳でも、八十歳でも。大切なのは、自分を信じて前を向いて歩くこと。
私は立ち上がり、部屋に戻った。明日も早起きしてヨガをして、陶芸教室に行って、充実した一日を過ごす。これが私の選んだ人生。誰にも邪魔されない、私だけの幸せな人生だ。

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