母の日、私は82歳の母に「介護保険の申請をしよう」と言った。すると母は、夫が使っていた古い茶碗を両手で包んだまま、こう言ったんだ。「千鶴に迷惑をかけたくない。あの800万円があれば、自分の面倒は自分で見られたのに」—…

母の日、私は82歳の母に「介護保険の申請をしよう」と言った。すると母は、夫が使っていた古い茶碗を両手で包んだまま、こう言ったんだ。「千鶴に迷惑をかけたくない。あの800万円があれば、自分の面倒は自分で見られたのに」—...

私は82歳になった。今でもあの夜のことを夢に見る。画面が光った瞬間、指が止まった瞬間、そして翌朝、残高がゼロになったと告げられた瞬間。ほんの数秒の出来事だった。60年かけて積み上げたものが、数秒で消えた。

私の名前は白石ハル。夫が死んで10年、ずっと一人で暮らしている。長野の郊外にある小さな平屋。六畳の部屋と狭い台所。それで十分だった。

若い頃は市内の中学校で給食の調理員をしていた。朝五時半に起きて、重い食缶を運び、何百人分もの飯を炊いた。定年まで働いて、その後も夫と二人でつましく暮らした。外食なんてほとんどしたことがない。旅行も行かなかった。

夫の裕二が死んだのは、私が65歳の時だった。真冬の早朝、起きたら布団の中で冷たくなっていた。その日のことは今でもはっきり覚えている。でも、それについては今日は話さない。

夫が死んでからも、私はほとんど生活を変えなかった。毎朝5時に起きて、茶を飲み、狭い庭に出て大根の世話をする。それだけが日課だった。娘の千鶴が心配して電話をよこすが、私は「大丈夫」とだけ言う。それ以上、言うことが思い浮かばないからだ。

私たちが持っていた貯金は800万円だった。夫婦二人で何十年もかけて積み立てた金だ。多い額ではない。でも、私にとっては全てだった。老後の医療費に使うつもりだった。膝が悪くなっても、施設に入らなくてはならなくなっても、千鶴に頼らずに済むように。それだけを考えて、この金を守ってきた。

千鶴は今47歳で、スーパーの夜間レジをしている。離婚して、子供はいない。住宅ローンを抱えて、毎月ギリギリで生きている。それは娘の口から直接聞いたわけではないが、電話の声でわかる。声が疲れている時と、そうでない時がある。最近は、ずっと疲れている。

私が千鶴に絶対に迷惑をかけたくないと思っているのは、そのためだ。自分の面倒は自分で見る。800万円がある限り、それができると信じていた。

スマートフォンを持つようになったのは、3年前のことだ。千鶴が買ってくれた。LINEで連絡できるからと言って、使い方を教えてくれた。正直なところ、私はその機械が苦手だった。画面が小さくて、文字が滲んで見える。指が太くて硬いせいか、押したつもりのないところを押してしまうことがよくあった。それでも千鶴のためにと思って、少しずつ覚えた。

LINEの使い方、写真の見方。それくらいは何とかできるようになった。ネットバンクのアプリも、千鶴に設定してもらった。「いちいち銀行まで行かなくていいから楽だよ」と言われた。確かに、膝の具合が悪い日に銀行まで歩くのは大変だ。だから、しぶしぶながら使うようにした。IDとパスワードはノートに書いて、引き出しにしまっていた。

あの夜のことを話す。

10月の初め、夜の9時を少し過ぎた頃だった。私はもう布団に入っていた。早寝早起きの習慣は、今も変わらない。部屋の電気を消して横になり、うとうとしていた。その時、枕元に置いていたスマートフォンが光った。

メールの通知だった。差出人の欄には、私が預金を預けている地方銀行の名前があった。件名は「重要:お客様のご口座の不正アクセスを検知いたしました」。

私は体を起こして、もう一度ゆっくりと読んだ。内容はこうだった。「お客様のご口座に対し、第三者による不正なアクセスが確認されました。このまま本日中にご本人確認のお手続きをいただけない場合、安全のためご口座を一時停止させていただく場合がございます」。

停止。その言葉が頭の中で響いた。口座が止まったら、年金はどこへ振り込まれる?膝の通院費はどうやって払う?

私は布団の上に座ったまま、メールをもう一度読んだ。ロゴマークは確かに私が使っている銀行のものだった。文章は丁寧で、難しい言葉は使っていなかった。メールアドレスもそれらしい文字列だった。

千鶴に電話しようかと思った。でも、時計を見ると9時半を過ぎていた。千鶴はこの時間、スーパーのレジに立っている。忙しい時間帯のはずだ。こんな些細なことで呼び出して、後から「何でもなかった」となったら、また心配をかける。いつも心配ばかりかけている。

メールの最後に、確認用のリンクが貼ってあった。「こちらからご確認ください」と青い文字で書いてある。「本日中」という言葉が気になった。今夜対応しなければ、明日の朝には口座が凍結されているかもしれない。

私は何度もメールを読み返した。怪しいところを探そうとした。でも、探しても探しても、おかしなところが見当たらない。銀行のロゴ、丁寧な言葉遣い、メールアドレス。全部、本物に見えた。

手のひらがじっとりと湿ってきた。私は自分に言い聞かせた。落ち着け、と。でも、落ち着こうとすればするほど、「本日中」という文字が頭から離れなかった。

指が動いていた。気づいた時には、もうリンクを押していた。画面が切り替わり、見慣れた色遣いの銀行のサイトが表示された。ログイン画面だ。「IDとパスワードを入力してください」と書いてある。

私は引き出しからノートを取り出し、IDとパスワードを書き留めてあるページを開いた。老眼鏡をかけて、一文字ずつ確認しながら入力した。指が震えていた。「ログイン」ボタンを押すと、画面が変わった。「ご本人確認のため、確認コードをSMSにてお送りしました」と表示された。

すぐにメッセージが届き、6桁の数字が書いてあった。私はその数字を入力した。「確認」ボタンを押した瞬間、画面が一瞬点滅した。そしてすぐに、電話が鳴った。画面には銀行の名前が表示されていた。私は反射的に出た。

「夜分に失礼いたします」

落ち着いた、低い声だった。「セキュリティ管理部のものです。先ほどお客様のご口座に対し、複数の不審なアクセスが確認されました。現在、お客様の資産は非常に危険な状態にございます」

「どうすれば…」と私は言った。自分の声が震えているのが分かった。

「ご本人確認のため、現在のご住所とお口座番号をお聞かせいただけますでしょうか」

私はすぐに答えた。男は一切急かさなかった。私が答えるたびに、「ありがとうございます」と静かに言った。次に男は言った。

「大変申し訳ございませんが、セキュリティの再設定のため、カードの有効期限と、引き出し用の暗証番号のご確認が必要でございます。こちらはお客様の資産を守るための手続きでございます」

私は手を止めた。暗証番号。それは夫と二人で決めた4桁の数字だ。誕生日でも記念日でもない、何でもない数字を選んだのは、分かりにくくするためだった。その番号は誰にも教えたことがない。千鶴にも教えていない。

でも、男は今、銀行のセキュリティ部署の人間として電話をかけてきている。画面には銀行の名前が出ていた。この人が情報を悪用するはずがない。むしろ、この手続きをしなければ口座が危険なままだ。

「お客様の資産を守るため」という言葉が頭の中で繰り返された。

私は4桁の数字を、ゆっくりと読み上げた。

「ありがとうございます」と男は言った。声のトーンは、最初から最後まで変わらなかった。

「最後に、ご被害の範囲を特定するため、通帳に記載されている現在の残高を教えていただけますか?」

私は引き出しを開けて、青い表紙の通帳を取り出した。老眼鏡を外して、また掛け直して、残高の欄を見た。800万円と、少しの利息。その数字を読み上げた。

「承知いたしました」と男は言った。「手続きが完了次第、改めてご連絡申し上げます。ご協力いただき、誠にありがとうございました」

そして、電話が切れた。

部屋が静かになった。時計が9時45分を示していた。私はスマートフォンを膝の上に置いて、ため息をついた。良かった、と思った。ちゃんと手続きができた、と思った。

庭の方から秋の虫の声が聞こえた。大根の葉が夜風に揺れているのが窓ガラス越しに見えた。私は眼鏡を外して、布団の中に戻った。800万円は守られた。明日も朝5時に起きて、茶を飲んで、庭に出ればいい。そう思いながら目を閉じた。眠りに落ちるまで、それほど時間はかからなかった。

翌朝、目が覚めたのはいつもより少し遅かった。5時10分。暗いうちから虫の声が続いていたせいか、眠りが深かったのかもしれない。

布団の中で天井を見つめながら、昨夜のことを思い出した。あの電話のことだ。銀行から来た男の、落ち着いた低い声。「お客様の資産を守るため」という言葉。

なんとなく胸の底がざわついていた。眠れたはずなのに、体が妙に重かった。

起き上がって台所へ行き、ポットに水を入れてスイッチを入れた。茶が湧くのを待つ間、窓の外を眺めた。大根の葉が朝露に濡れていた。空は薄い灰色で、日の出まであと少しというところだった。

茶を一杯飲んだ。いつもはこれで体が温まる。でも、その朝は飲み終わっても胸のざわつきが消えなかった。昨夜のことを、もう一度きちんと確認したい気持ちが湧いてきた。手続きは本当に終わったのか?口座は本当に守られているのか?

アプリを開いて、残高を見れば分かる。スマートフォンを手に取って、銀行のアプリを開いた。IDを入力した。パスワードを入力した。

画面に、赤い文字が出た。「ログインできません」。

打ち間違いかと思って、もう一度入力した。ノートを引き出しから出して、ページを開いて、一文字ずつ確認した。間違っていない。それでも、ログインできなかった。三度、四度と試した。結果は変わらなかった。画面はその度に「ログインできません」と表示するだけだった。

背中に冷たいものが走った。

昨夜、あの男に暗証番号を教えた。IDとパスワードも入力した。確認コードも入れた。全部、自分でやった。でも、それは銀行が求めてきたからだ。銀行の名前が画面に出ていた。銀行から来たメールだった。銀行からの電話だった。

私は台所の椅子に座って、スマートフォンをテーブルの上に置いた。指先が冷たかった。窓の外では、空が少しずつ明るくなっていた。

財布の中からキャッシュカードを取り出した。裏面に印刷されている問い合わせ先の電話番号を、老眼鏡をかけて確認した。電話をかけた。自動音声が流れ、指示に従って番号を押した。保留音が流れた。古い演歌のような、ゆっくりとした音楽だった。

何分経ったのか分からなかった。

「お電話ありがとうございます」と女性の声が言った。若い声だった。

私は昨夜あったことを話した。メールが来たこと、リンクを押してIDとパスワードを入れたこと、電話がかかってきたこと、暗証番号を教えたこと、通帳の残高を読み上げたこと。できるだけ順番通りに話したつもりだったが、途中で自分でも順番が分からなくなった。

女性は途中で何度か確認した。「そのメールは何時に届きましたか?」「お電話は何時頃でしたか?」「暗証番号はどのようにお伝えしましたか?」。私はその度に答えた。声が途切れそうになるのを、何とか堪えて答えた。

「少々お待ちください」と女性は言った。また保留音になった。

しばらくして、女性が戻ってきた。声のトーンが少し変わっていた。静かで、沈んだ声だった。

「大変申し訳ございません。お客様、弊行から昨夜そのようなメールやお電話をお送りした事実はございません」

頭が空白になった。

女性は続けた。「お客様は、フィッシング詐欺と呼ばれる手口の被害に遭われた可能性が高いでございます。口座の状況を確認いたします。少々お待ちください」

また保留音が流れた。今度の沈黙は、最初よりも長く感じた。私はキャッシュカードをテーブルの上に置いたまま、ただ待っていた。

「お電話ありがとうございます」と女性が戻ってきた。「確認いたしました。お客様の口座より、本日未明に出金がございました」

「いくら…」と私は聞いた。喉が引き攣っていた。声が自分のものではないような気がした。

女性は一呼吸置いた。その一呼吸が、妙に長かった。

「800万円、全額でございます」

スマートフォンが手から離れた。テーブルの上に落ちて、鈍い音を立てた。椅子に座ったまま、動けなかった。体の中から何かが抜けていくような感覚だった。窓の外の鳥の声も、台所の時計の音も、全部、膜の向こうから聞こえているみたいだった。

800万円。夫と二人で働いた給食室の重い食缶を、何年も何年も運んだ。年末年始も休まずに出勤した。ボーナスは毎回そのまま通帳に入れた。夫が死んでからも、一円も崩さなかった。老後のため、千鶴に迷惑をかけないためにと、自分に言い聞かせながら、ずっと守ってきた。

それが、一夜のうちに消えた。

スマートフォンからは、まだ女性の声がしていた。「お客様、お客様」と呼びかけていた。私は機械を拾い上げた。

「はい」と言った。それしか言えなかった。

女性は言った。「お客様、まず落ち着いてお聞きください。この後、警察への届出をお願いしております。また、弊行の窓口にお越しいただき、口座の凍結手続き及びお届けをお願いできますでしょうか?」

「分かりました」と私は言った。分かっていたかどうか、自分でも分からなかった。でも、そう言った。

電話が終わった。私は老眼鏡を外して、テーブルの上に置いた。窓の外では、日がすっかり上がっていた。大根の葉の露は消えていた。

どうしよう、という気持ちが湧いてきたが、すぐにその気持ち自体が消えた。どうしようもない、ということが、言葉にする前から体で分かっていた。

私はそのまま台所の椅子に座っていた。朝ご飯を作ろうとは思わなかった。食欲もなかった。ただ座って、窓の外を眺めていた。大根の葉が、風もないのに少し揺れていた。収穫の時期が近い。あと一週間もすれば、引き抜き頃になる。

今年は、誰のために作るのか。そんなことを唐突に考えた。

千鶴に連絡しなければ、ということは分かっていた。でも、どう話せばいいのか分からなかった。千鶴は今、家にいるはずだ。夜間のレジは深夜1時で上がる。帰ってきて少し眠って、今頃はまだ寝ている時間だ。

「お母さんが騙されて、全部なくなった」。その言葉を声に出すことが、どうしてもできなかった。

9時を少し回った頃、私は千鶴にLINEでメッセージを送った。電話ではなく、文字にした。電話だと、声が崩れる気がした。

「話したいことがあります。起きたら連絡ください」

それだけ書いた。送信ボタンを押してから、スマートフォンをテーブルに伏せておいた。返事が来るまで見ないようにしよう、と思った。でも、5分もしないうちに、またひっくり返して画面を確認した。まだ既読がついていなかった。

10時になって、既読はついたが返事はなかった。10時10分に、電話が鳴った。千鶴からだった。

「もしもし、母さん?どうしたの」と千鶴は言った。声が眠たそうだった。少し急いでいるような、それで心配しているような、両方が混じった声だった。

私は、しばらく黙った。

「昨日の夜、銀行からメールが来て」と私は言った。「それで、電話もあって…」

私は昨夜のことを、できるだけ順番通りに話した。メールが来たこと、リンクを押したこと、IDとパスワードを入れたこと、確認コードを入れたこと、電話がかかってきたこと、暗証番号を読み上げたこと、通帳の残高を伝えたこと。今朝になってアプリが開けなくなったこと。銀行に電話したこと。全額なくなったと言われたこと。

全部話し終えて、私は黙った。千鶴も黙っていた。

数秒後、千鶴は言った。

「今から行く」

それだけだった。怒鳴らなかった。「なんでそんなことをしたの」とは言わなかった。ただ、「今から行く」。それだけ言って、電話が切れた。

私はその一言が、何よりも重かった。

千鶴の家から私の家までは、車で40分ほどかかる。私は台所を片付けた。茶のカップを洗って、テーブルを拭いた。ノートを引き出しに戻した。何もかもがいつもと同じ手順だったが、全部どこか動作のようだった。

それから居間に移った。テレビはつけなかった。座布団に座って、庭の方を向いた。大根の葉は日が高くなって、朝よりも緑が濃く見えた。800万円という数字を、また頭の中で繰り返した。それが現実のことだとは、まだどこかで信じられていなかった。

チャイムが鳴ったのは、電話から1時間ほど経ってからだった。私は立ち上がって玄関に向かった。ドアを開けると、千鶴が立っていた。仕事ではなく普段着のジャケットを羽織っていた。顔が白くて、目の下に隈があった。昨夜の仕事で、ほとんど眠れていないのが見てわかった。

千鶴は私の顔を見て、何も言わなかった。私も何も言えなかった。ただ玄関先で向かい合って、数秒が過ぎた。千鶴が先に動いた。靴を脱いで上がってきて、私の横に立った。

「座ろう」と言った。

居間に戻って、二人で座った。千鶴は私の向かいではなく、隣に座った。

「スマホ見せて」と千鶴は言った。私はスマートフォンを渡した。千鶴はしばらく画面を操作していた。メールを見て、着信履歴を見て、アプリを開こうとして、やはりログインできないのを確認した。

「これ、フィッシング詐欺だよ」と千鶴は言った。声は静かだった。「メールも電話も全部偽物。お母さんのID、パスワード、暗証番号、全部盗まれた」

「分かっている」と私は言いたかった。でも、それを言うのが怖かった。「分かっていながらやってしまった」と聞こえる気がしたから。

千鶴はスマートフォンを持ったまま、少しの間黙っていた。それから言った。

「確認コードが来た時、止まれなかった」

私は答えられなかった。確認コードというのは、本物の銀行が本人確認のために送ってくるものだ。詐欺師がそれを求めてくるということは、本来おかしい。でも、私はその時そこまで考えられなかった。画面の指示通りに入力した。それが疑わしいとは、考えもしなかった。

「止まれなかった」と私は言った。声が出なくて、もう一度言い直した。「止まれなかった」

千鶴はそれを聞いて、何も言わなかった。スマートフォンをテーブルに置いて、また膝の上で手を組んだ。

「怒らないの?」と私は言った。

千鶴は私の方を見た。「怒っても意味ない」と言った。それ以上、何も言わなかった。

「怒っても意味ない」という言葉が、胸の中に落ちた。怒鳴られた方が、まだ良かった。この子は、怒ることすら躊躇しなければならないくらい、疲れているのだと。その一言ではかった。

千鶴が言った。「警察に届けて、それから銀行の窓口に行こう。今から」

私は頷いた。

「お金のことは、おいおい考えよう」と千鶴は続けた。「まずは手続きだけ」

「おいおい」という言葉が気になった。でも、私は何も聞かなかった。聞けなかった。おいおい考えたとして、どんな答えが出てくるのかが、すでに分かっていたから。

千鶴は台所に立って、お茶を入れてくれた。私の家の引き出しの中身を知っているから、茶葉がどこにあるかも、茶碗がどこにあるかも、迷わずに出した。二杯の茶をテーブルに置いて、千鶴はまた隣に座った。

二人でお茶を飲んだ。どちらも何も話さなかった。熱いお茶の湯気が、二人の間でゆっくりと上に向かった。窓から光が入って、その湯気が細く白く見えた。

千鶴がお茶を飲み終えて、茶碗をテーブルに置いた。その小さな音が、静かな部屋によく響いた。

「それじゃ、行こうか」と言った。声は穏やかだった。

私はコートを着た。玄関にかかっていた薄いグレーのコート。もう10年近く同じものを着ている。ボタンを上から順番に止めながら、なぜか今日これを着るのが少し嫌だと思った。気持ちに関係ないことが気になるのは、気持ちが許容量を超えている時の癖だ。

玄関を出る時、私は一度だけ振り返って庭を見た。大根の葉が静かに並んでいた。鍵をかけて、千鶴の車に乗った。

車は千鶴が運転した。助手席に座ると、シートが少し後ろに下がっていて、私の足が届かないくらいだった。千鶴の背が私より高いから、シートの位置が違う。そんな当たり前のことが、なぜかぼんやりと頭に浮かんだ。

走り出してからしばらく、二人とも黙っていた。窓の外を民家が流れていった。洗濯物を干している家があった。小さい子供が庭で何かを掘り返していた。どれも普通の朝の景色だった。今日がこんな日だということを、外の世界は知らない。

「警察の生活安全課に行くから」と千鶴が言った。目は前を向いたままだった。「被害届を出すだけだから、長くはかからないと思う」

私は頷いた。でも、「警察」という言葉が、未だに現実のものとして頭に収まらなかった。警察に行く人間が自分だとは、この年まで一度も考えたことがなかった。

市の警察署は、バイパス沿いの古い建物だった。千鶴が駐車場に車を止めて、二人で中に入った。受付で要件を告げると、若い制服姿の男性が奥に案内してくれた。部屋には机が四つほどあって、そのうちの一つに中年の男性警官が座っていた。50代くらいで、眼鏡をかけていた。髪が少し薄くなっていた。

「状況をお聞かせください」と警官は言った。メモ帳を開いて、ボールペンを持った。名前と生年月日と住所を確認してから、昨夜何があったかを聞いてきた。

私が話し、千鶴が補足した。警官は頷きながら聞いて、時々メモを取った。表情は変えなかった。おそらく、こういう話は何度も聞いているのだろうと思った。

「被害金額は?」と警官は聞いた。

「800万円です」と千鶴が答えた。私は黙っていた。

警官はその数字を書き留めて、一度だけ私の方を見た。目があったが、何も言わなかった。書類の記入に戻った。

被害届の用紙を渡された。千鶴が隣から手伝ってくれながら、私は一つずつ書いていった。名前、住所、被害の内容、金額、日時。ボールペンを持つ指が、なかなかうまく動かなかった。字が震えた。

書き終えて提出すると、警官は言った。「詐欺の手口については捜査しますが、フィッシング詐欺は送金先が海外の口座であることが多く、被害金の回収は非常に困難な場合がほとんどです」

「非常に困難」という言葉を、私は聞きながらその意味を頭の中で別の言葉に置き換えていた。戻ってこない、ということだ。

千鶴が何か質問していたが、私はあまり聞いていなかった。警官の声も千鶴の声も、少し遠くに聞こえた。部屋の蛍光灯が明るすぎて、目が疲れた。

外に出ると、空が白く光っていた。午前の終わりに近い時間で、気温が少し上がっていた。

「銀行行こう」と千鶴が言った。私は頷いた。警察署の駐車場で、しばらく二人とも車に乗らずに立っていた。千鶴がため息をついて、「それじゃ、乗って」と言った。

銀行は駅前にある二階建ての古い建物だった。私が長年使っている支店だ。月に一度、通帳の記帳に来る顔馴染みの窓口の女性がいる。その人に今日のことを話さなければならないと思うと、また体が重くなった。

中に入ると、番号札を取るように案内された。椅子に座って待った。平日の昼前で、お客さんはそれほど多くなかった。老人が二人、窓口の前に並んでいた。私と同じくらいの年頃の人たちだった。何気なくその背中を眺めながら、あの人たちはこういう目に遭ったことがあるのだろうか、と考えた。

番号が呼ばれた。窓口には、見たことのない若い女性が座っていた。いつもの顔馴染みの人ではなかった。少し、ほっとした。

用件を告げると、女性は少し待つように言って、奥の方に電話をかけた。しばらくして、別の女性が奥から来た。30代くらいで、胸に「係長」というバッジをつけていた。

「応接コーナーに案内してください」と窓口の女性に言って、私たちを別の場所に連れて行った。狭い部屋だった。テーブルを挟んで、向かい合う形で座った。

係長の女性は書類を持ってきて、「状況を確認させてください」と言った。また同じことを話した。メールのこと、リンクのこと、電話のこと、暗証番号のこと。三度目になると、言葉がするすると出てきた。まるで自分に関係のない話をしているような感覚だった。

「口座の凍結はすでに完了しています」と係長が言った。「昨日の未明の出金で、残高はほぼゼロになっております。通帳の再発行と、新しいカードのご準備をお勧めします」

「ほぼゼロ」という言葉が妙に引っかかった。ほぼということは、少しは残っているのか。そう思って聞いてみた。

係長は少し間を置いた。「はい。120円ほどございます」

120円。私は手の中の書類を見た。何も書いていない白い紙面だった。120円とはどういう残高なのか、しばらく考えた。おそらく、最後に利息が加算されたものが残ったのだろう。それ以上考えるのをやめた。

通帳の再発行の手続きをした。新しいキャッシュカードの申請もした。書類に名前を何度も書いた。印鑑を押す場面もあった。係長の女性は、ずっと丁寧だった。言葉は優しかったが、事務的だった。それで正しいと思う。こういう場所は、事務的であるべきだ。

1時間ほどかかった。終わる頃には、私は疲れきっていた。

「何か不明な点はございますか」と係長が言った。

千鶴が少し迷ってから言った。「被害の保証とか、そういう制度はないんでしょうか?」

係長は少しだけ表情を変えた。変えたというよりも、変えないようにした、という感じだった。「フィッシング詐欺の場合、基本的にはお客様ご自身が情報を入力されているため、銀行側での保証は難しい状況です。一部状況によっては保証の対象となることもありますが、今回のケースについては、審査が必要です。ただ、正直に申し上げますと、全額の保証は難しいかと存じます」

千鶴は頷いた。私も頷いた。二人とも、分かっていた。それでも、聞かないよりは良かった。

銀行を出ると、昼時を回っていた。太陽が真上にあって、影が短かった。

帰りの車の中は、行きよりも重かった。行きはまだ何かが始まるという感覚があった。でも、帰りは全部終わってみて、結局何も変わっていないことだけが分かっていた。

千鶴はラジオをつけた。昼のニュースが流れた。どこかの市で工事が始まったとか、野菜の値段が上がっているとか、そういう話だった。私の耳に入って、すぐに出ていった。

家まであと10分ほどのところで、千鶴が言った。

「お母さんの年金、月いくら?」

唐突だったが、聞かれると思っていた。

「6万3000円くらい」と私は答えた。

千鶴はハンドルを持ったまま、少し黙った。「今の家賃はない。持ち家だから。水道光熱費とか食費とか、全部合わせると…」

私はしばらく考えた。「4万か、4万5000くらい」

「じゃあ、ギリギリ生活はできる」と千鶴は言った。それは質問ではなく、自分に言い聞かせているような言い方だった。

「ギリギリ」という言葉が、しばらく頭の中で鳴り続けた。今は体が動く。自分で料理ができる。通院は一人でできる。でも、あと5年、10年したら。足が弱って、台所に立てなくなったら。病気になって、入院が必要になったら。介護が必要になったら。

施設の費用は、月に15万から20万かかると、何年か前に聞いたことがある。年金が6万3000円では、到底足りない。その差額を埋めるために、800万円があった。それだけあれば、5年は何とかなる計算だった。

今は、その計算が成り立たない。千鶴に出してもらうことになる。毎月ギリギリで生きている千鶴に。住宅ローンを抱えた千鶴に。夜間のレジで疲れ果てている千鶴に。

私はコートの膝の上に手を置いて、視線を窓の外に向けた。田んぼが続いていた。稲刈りが終わって、切り株だけが残っている。茶色くて、乾いた景色だった。

家に戻ったのは、1時を少し過ぎた頃だった。千鶴が「上がっていくよ」と言って、一緒に中に入った。居間に戻ると、朝と何も変わっていなかった。座布団が二つ並んで、窓の外に大根の葉が見えて、時計が壁にかかっていた。午前中に起きたことが、全部、この部屋には何の痕跡も残っていなかった。

千鶴が台所でお湯を沸かし始めた。お茶が来て、千鶴は今度は向かいではなく、向かいに座った。話をするための位置だと、すぐにはかった。

「ちゃんと話しておきたいんだけど」と千鶴は言った。

私は頷いた。

「お母さんの生活費。今のままで回るかは、もう少し見ないと分からない。でも、急にどうこうはならないと思う。今すぐ何かが変わるわけじゃない」

千鶴の言葉はゆっくりだった。選んで話しているのが分かった。感情を先に出さないようにしているのも、分かった。

「ごめん」と私は言った。

千鶴は少し間を置いた。「謝らなくていい」と言った。

「でも…」と私は続けた。「千鶴に迷惑かけたくなかったんだよ。それだけを考えてたんだよ。ずっと。あの金があれば、自分のことは自分でできると思ってた」

喉の奥が詰まった。声が途切れた。

千鶴はお茶を一口飲んだ。それから、ゆっくりと置いて、私の方を見た。

「知ってるよ」と千鶴は言った。「お母さんがどれだけ気にしてたか、知ってる。だから、そこは責めてない」

「責めてない」という言葉が、不思議と苦しかった。責められた方が、楽だった。責められれば、謝ることができる。謝れば、少し楽になれる。でも、千鶴は責めない。責めないから、私には謝る相手がいない。謝っても、受け取ってもらえない。その謝りたい気持ちが、行き場をなくして胸の中でずっと渦巻いている。

ただ、千鶴は続けた。「これからのことは、一緒に考えないといけない。お母さん一人で、全部抱え込まないで欲しい」

私は頷いた。頷くしかなかった。

千鶴が言わないことを、私は分かっていた。千鶴のローンの残額のこと。毎月の支出のこと。今の給料では私を施設に入れるだけの余裕がないこと。それが千鶴にとってどれほど重いことか。それを今ここで言わないでいるのが、千鶴の精一杯だということ。

私は窓の外を見た。大根の葉が夕方の光を受けて、少し黄色みがかって見えた。収穫しなければ。もう少しで食べ頃を過ぎる。でも、今日はそんなことを考える気になれなかった。

3時を過ぎた頃、千鶴が立ち上がった。「今夜も仕事だから、そろそろ行くね」

私は頷いた。千鶴は台所に行って、茶碗を洗ってくれた。食器棚に戻して、拭いたタオルをきちんと元の場所にかけた。私の家の片付け方を、千鶴はちゃんと覚えている。

玄関で靴を履きながら、千鶴は言った。「また来るから。何かあったら、すぐ連絡して」

「分かった」と私は言った。

千鶴がドアを開けて、外に出た。振り返らずに車に向かって歩いた。その後ろ姿が、なんとなく小さく見えた。実際には私より大きいのに、なぜか小さく見えた。

ドアを閉めると、家の中が急に静かになった。居間に戻って、座布団に座った。千鶴が座っていた向かいの座布団に、少しだけ跡が残っていた。私はその後を眺めた。

時計が3時20分を示していた。何かしなければならない気がして、台所に立った。でも、冷蔵庫を開けても、何も思いつかなかった。昨日から、何も食べていなかった。お腹は空いているのかもしれなかった。でも、何も食べたいとは思わなかった。

冷蔵庫を閉めて、またテーブルの前の椅子に座った。窓の外が、暗くなり始めていた。庭の大根の葉が、夕暮れの中で黒い影になった。一日中あそこにあって、私のことなど関係なく、ただ育ち続けている。

この日のことを、頭の中で整理しようとした。警察に行った。銀行に行った。書類を書いた。どちらも丁寧に対応してくれた。でも、お金は戻ってこない。そのことだけが、一日かけてより鮮明になっただけだった。

82年生きてきて、これが最初で最後の大きな失敗だと思った。でも、一度の失敗で全部消える。それが現実だった。

台所の電気をつけた。オレンジ色の明かりが、狭い部屋を照らした。冷蔵庫に、昨日の残り飯があった。小さな鍋に移して、水を足して、火にかけた。お粥にして食べようと思った。味付けは、塩だけでいい。

鍋の中でお粥がゆっくりと煮える音が、台所に満ちた。湯気が上がって、窓ガラスが少し白く曇った。食べ終えて、食器を洗って、布団を敷いた。いつも通りの順番で、いつも通りのことをした。それだけが、今日の私にできることだった。

布団に入って、電気を消した。天井が暗かった。目を閉じると、今日あった人たちの顔が浮かんだ。警官の眼鏡。銀行の係長のバッジ。千鶴の目の下の隈。それぞれの顔が順番に浮かんでは、消えた。

誰も怒鳴らなかった。誰も馬鹿にしなかった。みんな、丁寧だった。それが却って、自分の失敗の大きさを静かに教えてくれているようだった。

あれから10日が経った。警察にも銀行にも行って、必要な手続きは全部終わった。新しいキャッシュカードが届いた。薄い封筒で、いつもなら何でもない郵便物が、その日は妙に重く感じた。封を開けてカードを取り出して、引き出しの中にしまった。

通帳の残高は、120円のままだ。年金が振り込まれるのは来月の半ばだから、それまで日数がある。

毎朝5時に起きて、茶を飲んで、庭に出る。大根はもう収穫した。引き抜いて、半分は干して、残りは台所の隅に積んだ。それだけのことを、機械のように繰り返している。

詐欺に遭った直後は、頭が空白だった。何も考えられなかった。でも、10日も経つと、逆に考えすぎるようになった。夜中に目が覚めて、暗い天井を見ながら、これからのことを計算する。

年金が月6万3000円。光熱費と食費と雑費を全部合わせると4万から4万5000円。手元に残るのは1万5000円から2万円。通院費が月に6000円ほどかかるから、最終的に残るのは1万円あるかないか。それは、生活できる金額だ。千鶴が言ったように、ギリギリではあるが、何とかなる。

今の体の状態が続く限り、今のまま何も変わらない限り。でも、何も変わらないということは、年を取っていくほどありえない。

先月、向いの山田さんが施設に入った。79歳で、転んで骨折したのがきっかけだった。月に17万かかると山田さんの娘から聞いた。17万。私の年金の3倍近い。貯金がある間は、その差額を自分で出せるはずだった。800万あれば、47ヶ月分。約4年間の施設費用の不足分を埋められた。焦ることなく、ゆっくり考える時間があった。

今は、その時間がない。足を悪くした時、頭がおかしくなった時、誰かの世話がいるようになった時、その費用は全部千鶴にしかかる。そのことを、目が覚めるたびに考える。

詐欺から2週間が経った週の土曜日、千鶴が来た。仕事が休みの日に、来てくれた。手に袋を持っていた。スーパーで買ってきたものらしく、袋から野菜と豆腐と魚の切り身が覗いていた。

「一緒に食べよう」と千鶴は言った。

千鶴はエプロンをかけて、手を洗って、慣れた手つきで料理を始めた。私の家の台所の配置を、千鶴はよく知っている。フライパンがどこにあるか、包丁がどこにあるか、迷わずに取り出した。

「大根の煮物作るから」と千鶴が言った。持ってきた大根と一緒に、台所の隅に積んであった私の大根も使っていいかと聞いた。

「いいよ」と私は言った。

千鶴は手際よく大根の皮を剥いて、輪切りにした。出汁を取って、醤油とみりんで味付けをした。匂いが台所に広がって、私の胃が少し動いた。この10日で、食欲がほとんどなかったことに気づいた。

「お母さん、最近ちゃんと食べてる?」と千鶴が鍋をかき混ぜながら言った。

「食べてるよ」と私は言った。嘘ではなかった。食べてはいた。ただ、何を食べたかを思い出せないくらい、味のしない食事をしていた。

千鶴はこちらを見ないまま「そう」と言った。それ以上は、聞かなかった。

二人でテーブルについた。大根の煮物と、魚の塩焼きと、豆腐の味噌汁。それだけだったが、十分だった。千鶴の料理は、昔から丁寧だ。私が教えたわけでもないのに、いつの間にかきちんとした料理ができるようになっていた。

食べながら、二人はしばらく黙っていた。テレビもつけなかった。箸の音と、鍋のとろみの音だけが聞こえた。

千鶴が箸を置いて、「仕事のシフト、来月から少し変わる」と言った。

「そうなの?」と私は言った。

「夜だけじゃなくて、昼のシフトも入るようになった。週に2回くらい」と千鶴は続けた。声は平坦だった。

私は大根を口に入れながら、千鶴の言葉の裏を考えた。夜のシフトに加えて、昼も入る。それは仕事が増えるということだ。仕事が増えるのは、お金が必要だからだ。

「大変じゃない?」とだけ言った。

「慣れるよ」と千鶴は言った。また平坦な声で。その平坦さが、答えだった。

片付けを終えて、二人で居間に戻った。千鶴はお茶を入れてくれた。前回と同じように、私の向かいではなく、向かいに座った。

「お母さんに、聞いて欲しいことがある」と千鶴は言った。

私は茶碗を両手で包んで、千鶴の顔を見た。

「ケアマネさんに相談した」と千鶴は続けた。「介護保険の申請のこと」

介護保険。その言葉を、私は黙って受け取った。介護保険の申請をするということは、認定を受けるということだ。要介護や要支援という区分けをされて、それに応じたサービスを使えるようになる。ホームヘルパーが来たり、デイサービスに通ったりする。

私はまだ、一人で料理ができる。掃除もできる。買い物は少し遠いが、歩いていける。こういう人間が、介護保険の申請をする。

「まだ、そんな段階じゃないと思うけど」と私は言った。声が少し硬くなったのが、分かった。

千鶴は頷いた。「分かってる。今すぐ何かサービスを使うって意味じゃない。でも、申請だけしておけば、いざという時にすぐ動ける。手続きに時間かかるから」

千鶴の言っていることは正しい。手続きには時間がかかる。申請してから認定が降りるまで、1ヶ月以上かかることもある。いざ必要になってから動いても、間に合わないことがある。事前に申請しておくのは、合理的な判断だ。

分かっている。頭では分かっている。でも、申請するということは、自分が老いて助けが必要な人間だと認めることだ。書類に名前を書いて、役所の人間に家の中を見られて、日常生活の細かいことを評価される。それが、どうしても受け入れがたかった。

「少し考えさせて」と私は言った。

千鶴は何も言わずに、頷いた。

その日、千鶴はいつもより少し疲れて見えた。顔色が悪いというより、目の焦点が少しぼんやりしていた。食べながらも、時々何かを考えているような表情になった。

「仕事、大変なの?」と私は聞いた。

千鶴は少し間を置いてから、「まあね」と言った。「昼のシフトが増えてから、体がついていかなくて。夜と昼が交互だから、リズムが崩れる」

それは私のせいだと、すぐに思った。でも、言わなかった。言っても何も変わらないし、千鶴をまた困らせるだけだ。

「無理しないで」と私は言った。言いながら、この言葉がどれほど空虚か分かっていた。無理しなければ、お金が足りなくなる。それを分かっていて、「無理しないで」という。それが、親の言える精一杯だ。

千鶴は「うん」と言った。

千鶴が帰った後、私は縁側に座った。夕方の光が庭を照らしていた。大根を抜いた後の土が、斜めの光を受けて赤味がかって見えた。

来年も、ここに大根を植えるのか。植えるだろう、とも思った。他にすることがないから。でも、誰のためにということは、もう考えないようにしようと決めた。誰のためでもなくていい。ただ植えて、育てて、収穫する。それだけでいい。

夜、布団に入る前に、また通帳を出した。引き出しにしまうつもりだったが、もう一度最後のページを開いた。800万円の出金の記録。その下に、来月6万3000円が入ってくる。その次の月も、その次の月も、少しずつ積み上がっていく。

何年かかるか計算する気にもなれなかった。でも、積み上がっていくことは確かだ。それだけしかない。

布団に入って、電気を消した。闇の中で、千鶴が言った言葉を思い出した。「知ってるよ」という、あの短い一言を。責めるでもなく、許すでもなく、ただ受け取ったあの言葉を。

庭の虫は、もうほとんど鳴かなくなっていた。秋が深くなっている。来週あたりから、朝の気温がまた下がるだろう。そうしたら、コートを一枚多く出さなければならない。そういうことを考えながら、私はゆっくりと目を閉じた。

詐欺に遭ってから、1ヶ月が経った。11月の半ば、年金が口座に振り込まれた。6万3400円。

スマートフォンの銀行アプリで残高を確認した時、少し手が止まった。アプリを開くたびに、あの夜のことを思い出す。画面を見るたびに、あのメールを思い出す。おそらく、これからもずっとそうだろう。

6万3400円が、今の私の全てだ。

生活は変えた。変えざるを得なかった。まず、スーパーに行く回数を週に2回に決めた。以前は気が向いた時に行っていたが、今は曜日を決めて、必要なものだけを買う。買い物の度に、小さなメモを書いていく習慣をつけた。何を買ったか、いくら使ったか、台所のカレンダーの欄に記録する。千鶴が来た時に、見せられるように。

電気代を少し抑えようと思って、夜は早めに暖房を消すことにした。その代わり、布団を一枚増やした。押入れの奥に眠っていた古い毛布を引っ張り出してきた。夫が使っていたものだ。洗って干して、布団の上に重ねた。少しかび臭かったが、干しているうちに匂いが薄れた。

食費は、月1万2000円を目標にした。以前の1万5000円から、少し削る。肉はほとんど買わなくなった。豆腐と卵と安い魚の切り身があれば、何とかなる。大根は自分で育てたものがまだある。千切り大根にしたものを水で戻して、煮物にする。それで十分だ。

毎朝5時に起きる習慣は変わらない。茶を飲む。庭に出る。でも、庭に出ると、大根を抜いた後の土が目に入る。来春まで、そこは何も植えない。ただ土がそこにある。冬になれば霜が降りて、土が硬くなる。それを毎朝見る。

詐欺の前は、庭に出るのが楽しみだった。葉の育ち具合を確かめて、水をやって、草を抜く。小さなことだが、毎朝の張り合いだった。今は、惰性で出ているような気がする。それでも、出る。出ないよりは、いい。

千鶴は、週に一度、土曜日に来るようになった。毎回ではないが、大体来る。来る時は、必ず何か食材を持ってくる。私が断ると、「どうせ買いすぎたから」という。買いすぎたわけではないことは、分かっている。でも、受け取る。受け取るしかない。

通帳は、毎回見せる。千鶴は数字を確認して、何も言わない時と、少し何か言う時がある。「今月は食費が少し多い」とか、「水道代が上がった」とか。私は聞いて、頷く。それが、私たちの新しい形だ。誰が決めたわけでもなく、そうなった。

11月の最後の土曜日、千鶴が来た。いつものように食材を持ってきて、いつものように台所に立った。「鍋にしよう」と言って、白菜と豆腐と鶏肉を切り始めた。

私は居間で、千鶴が料理をする音を聞いていた。包丁の音、鍋に水を張る音、火をつける音。それらが重なって、台所から聞こえてくる。その音が、どこか懐かしかった。

千鶴がまだ小さかった頃、私が料理をして、千鶴が居間で宿題をしていた。あの頃の音に似ていた。立場が逆になったということを、その音を聞きながら考えた。

鍋を真ん中に置いて、二人で食べた。白菜が柔らかくなって、出汁が染みていた。鶏肉は、千鶴が骨なしのものを買ってきてくれた。私が骨を外すのが手間だと知っているから。

「美味しい」と私は言った。

千鶴が少し笑った。「お母さんが育てた白菜入ってるから」と言った。

そうだった。庭の隅に植えておいた白菜を、千鶴が持ってきた食材と一緒に入れてくれた。自分が育てたものを食べるのは、いつぶりだろう。いつもより、味がするような気がした。

食べながら、千鶴が言った。「来月から、介護保険の申請、一緒にしよう」

先月も同じことを言われて、「考えさせて」と答えた。それから1ヶ月、私は考えた。朝、茶を飲みながら。庭の土を見ながら。夜、布団の中で天井を見ながら。

今度は、断らなかった。

「分かった」と言った。

千鶴が、少し目を細めた。驚いたのか、安心したのか、その両方なのか分からなかった。

「ありがとう」と千鶴は言った。

「ありがとう」と言われるのが、妙にくすぐったかった。私が折れたことに対して、千鶴が礼を言う。この関係がいつからこうなったのか考えると、少し混乱する。でも、考えすぎなくてもいいと思う。

片付けをして、お茶を飲みながら、千鶴がもう一つのことを話した。

「来年の正月、うちに来ない?」と千鶴は言った。「一人でここにいても、つまらないし」

私は少し考えた。千鶴の家は、市内のマンションだ。1DKで、一人には十分だが、二人では少し狭い。千鶴の部屋で寝て、千鶴に正月の料理を作ってもらって、テレビを見て過ごす。それが想像できた。

「邪魔じゃない?」と私は聞いた。

「邪魔なら、言わない」と千鶴は言った。

「そうだな」と私は言った。「考えておく」

千鶴はそれ以上は言わなかった。ただ、頷いてお茶を飲んだ。

ある時、電話で千鶴に聞いた。「本当に、行っていいの?」

「来て欲しいから、言ってるんだよ」と千鶴は言った。

「来て欲しい」という言葉が、少し意外だった。邪魔にならないように遠慮しているつもりだったが、千鶴は本当に来て欲しいと思っているらしかった。

「分かった」と私は言った。「行く」

12月の中頃、銀行からまた封が届いた。保証についての最終通知だった。「今回の件については、保証の対象外と判断した」と、丁寧な文章で書かれていた。最後に「お客様の今後の安全なご利用のために」として、フィッシング詐欺の注意事項が一枚添えられていた。

読み終えて、封筒に戻した。予想していた結果だった。驚かなかった。でも、ゴミ箱に捨てる気にはなれなかった。引き出しの中の、先月来た銀行の手紙の隣に並べてしまった。どちらも開けたくない引き出しになった。でも、捨てられない。

クリスマスの少し前、千鶴が来た。この日は食材ではなく、小さな箱を持ってきた。

「誕生日のお祝い。先に渡しておくね」と千鶴は言った。

私の誕生日は、来年の1月だ。箱を開けると、手袋が入っていた。薄いケシ糸の手袋で、グレーだった。

「外に出る時、寒いかなと思って」と千鶴は言った。

「変な色じゃない。ちょうどいい色だよ」と私は言った。手袋を両手にはめてみた。柔らかかった。

千鶴がこれを選ぶ時、どんなことを考えたのか想像した。値段を見たのか、色を迷ったのか、私の手のことを考えて選んだのか。何も言わなかったが、そういうことが想像できるだけで、少し胸が温かくなった。

その日の夕方、二人でテレビを見た。ニュースが終わって、旅番組が始まった。温泉の特集だった。

「温泉、行ったことある?」と千鶴が聞いた。

「若い頃に一度だけ」と私は言った。「父ちゃんと、箱根に行った。結婚してすぐの頃だった」

千鶴は画面を見ながら「そうか」と言った。それ以上、何も話さなかった。でも、その沈黙は重くなかった。旅番組の温泉の映像と、二人の沈黙が同じ空間にあった。私はその時間を、今も覚えている。

大晦日の夕方、私は荷物を小さなバッグにまとめて、千鶴の迎えを待った。着替えと、常備薬と、手袋と、通帳。通帳を持っていくつもりはなかったが、なぜか入れてしまった。どこに行くにも、手元に置いておきたい気持ちがあるのかもしれない。それとも、存在を確認したいのかもしれない。通帳の残高は、120円から始まって、今は少し増えた。

チャイムが鳴って、千鶴が来た。「重くない荷物だね」と言った。

「大したものは入ってない」と私は言った。

車に乗って、走り出した。夕暮れの道路。車が流れていた。年越しの買い出しだろう。スーパーの駐車場が混んでいた。普通の景色だった。

車窓から流れていく町を見ながら、この1年のことを考えた。10月の初め、夜の9時過ぎに、あのメールが来た。それから3ヶ月が経った。警察に行った。銀行に行った。千鶴が毎週来るようになった。通帳を一緒に見るようになった。介護保険の申請をした。認定調査員が来た。銀行から保証なしの通知が来た。手袋をもらった。

一つ一つは小さい出来事だ。でも、積み上がると3ヶ月分の重さがある。

800万円は戻ってこない。そのことは、今でも茶を飲む度に、庭の土を見るたびに思い出す。おそらく、これからも何かの度に思い出すだろう。でも、3ヶ月前と比べると、思い出すたびに胸が締めつけられる感覚は、少し薄くなった。薄くなっただけで、消えてはいない。

千鶴のマンションは、5階建ての古い建物だった。エレベーターで3階に上がって、廊下を歩いた。千鶴がドアを開けて、「どうぞ」と言った。

中に入ると、狭かったが、綺麗に片付いていた。千鶴らしい部屋だった。余計なものが何もない。壁に時計と、小さなカレンダーだけがかかっていた。

「ここ座って」と千鶴がローテーブルを指した。座布団が二枚、出してあった。私は腰を下ろした。畳ではなくフローリングで、座布団が少し滑った。千鶴の部屋の天井を見上げた。自分の家と、高さが少し違う。慣れない場所の天井だった。

千鶴が台所で、年越しそばを作ってくれた。市販の麺を使った、簡単なものだった。でも、出汁は丁寧に取ってあった。カツオと昆布の匂いが、部屋に広がった。

「お母さん、そばアレルギーとかないよね?」と千鶴が聞いた。

「ないよ」と私は言った。「70年以上、食べてきたから」

千鶴が小さく笑った。久しぶりに聞く、力の抜けた笑い声だった。

二人でそばを食べた。テレビでは紅白歌合戦が流れていた。私が知っている歌は、ほとんど出てこなかった。でも、音楽が流れているのが、悪くなかった。

12時が近くなると、テレビが年越しのカウントダウンを始めた。千鶴がお茶を入れてくれた。

「今年、色々あったね」と千鶴が言った。

私は頷いた。「色々」という言葉で、全部が包まれた。詐欺のことも、警察のことも、銀行のことも、毎週の訪問も、介護保険の申請も、手袋も。全部が「色々」という言葉の中にあった。

「来年は、何もなければいいけど」と千鶴は続けた。

「そうだね」と私は言った。

テレビの中で人々が歓声を上げた。新しい年になった。

元旦の朝、私が先に目を覚ました。千鶴は布団で眠っていた。私はリビングに出て、窓から外を見た。曇っていた。初日は見えなかった。

台所を借りて、静かにお湯を沸かした。自分の家ではないから、どこに何があるか分からなくて、少し手間取った。ポットを見つけて、茶を一杯飲んだ。いつもと同じことをしているのに、場所が違うだけで、少し違う感覚だった。悪くはない。ただ、慣れていない。慣れるかどうかは、これからのことだ。

千鶴が起きてきたのは、8時過ぎだった。髪が少し乱れていた。

「おはよう」と言って、台所に向かった。「お雑煮、作るね」

「手伝う」と私は言った。

「いいよ。狭いから」と千鶴は言った。

私は台所の入り口に立って、千鶴が雑煮を作るのを見ていた。餅を焼いて、出汁を温めて、三つ葉を乗せた。私が昔作っていた雑煮と、ほとんど同じだった。千鶴が私のやり方を覚えていたのか、それとも自然にそうなったのか、分からなかった。

二人でテーブルに着いた。お椀の中に、丸い餅が一つ浮かんでいた。

「おめでとう」と千鶴が言った。

「おめでとう」と私も言った。

お雑煮を食べた。餅が柔らかかった。出汁が、ちゃんとした味だった。三つ葉の香りがした。美味しかった。それだけのことだが、美味しいと思えたことが、少し嬉しかった。この3ヶ月、味のしない食事が続いていたから。

食べ終えて、千鶴がお茶を出してくれた。二人でテレビを見た。お正月らしい番組が流れていた。

千鶴が言った。「また来年も、来てね」

「また来年」という言葉を、少し反芻した。来年の自分がどういう状態かは、分からない。でも、来年もここに来られるような状態でいたいとは思った。千鶴の部屋に来て、雑煮を食べて、お茶を飲む。それだけのことが、続けられるような体でいたい。

「来るよ」と私は言った。

千鶴が頷いた。

夕方、千鶴が車で送ってくれた。家の前でドアを開けて、バッグを持って降りた。

「ありがとう」と私は言った。

千鶴は「気をつけてね」と言った。「寒いから、手袋して」

私はバッグから手袋を出して、はめた。千鶴がくれた、グレーの手袋だ。柔らかかった。

車が走り去った。私は家のドアを開けて、中に入った。冷えた部屋だった。3日間、誰もいなかった部屋は、外の空気より少し温度が低い。暖房をつけて、コートを脱いで、手袋を外した。手袋を、玄関の棚の上に置いた。

居間に行って、座布団に座った。暖房がじわじわと効いてきて、部屋が少しずつ温まった。窓の外の庭を見た。冬の庭は、何もなかった。大根を抜いた後の土が、霜で白くなっていた。来春まで、このままだ。

800万円は、戻ってこない。千鶴は毎週来てくれるが、それには限界がある。介護保険の認定結果は、まだ来ていない。体は今のところ大丈夫だが、この先は分からない。年金は毎月入るが、余裕はない。

どれも解決していない。全部、そのままだ。

でも、と私は思った。今日、雑煮を食べた。美味しかった。千鶴が作ってくれた。千鶴の部屋で、二人でテレビを見た。「来年も来てね」と千鶴は言った。「来るよ」と私は答えた。

それだけのことが、今日あった。

82年生きてきて、1ヶ月前まで800万円を持っていて、今は120円から始まったお金が少し増えた通帳を持っている。誰かの重荷になりたくなかったが、なっている。自分の力で全部やっていきたかったが、できなくなった。それが、今の現実だ。

受け入れたわけではない。諦めたわけでもない。ただ、それが今日のことだ。明日になれば、また別のことが来る。来た時、また考える。それだけのことだ。

時計が夕方の6時を示した。台所に立って、夕食の支度をしようと思った。千鶴の家から帰ってきた日の夕食は、一人分だ。冷蔵庫に、残りがあるはずだ。

立ち上がって、台所に向かった。暖房がすっかり効いて、部屋が暖かくなっていた。

Thumbnail