家に帰ると、玄関に見知らぬ女物の靴が置いてあった。数十時間、一人で苦しんで産んだ赤ちゃんを連れて、やっと家に帰ってきたというのに。産後数日の娘は、私の腕の中で気持ちよさそうに寝息を立てている。でも、私の鼓動は娘の穏やかな息とは裏腹に、ドクドクと速く高鳴っていく。足音を立てないように静かに奥へ進む。娘が寝ていてくれたのが、唯一の救いだったかもしれない。寝室の前まで来ると、楽しそうに話す夫の声と、聞き覚えのある女の声が聞こえてきた。ショックで息が詰まった。何も考えられない。そんな中、腕の中にいる小さな命の存在が、なんとか私の正気を保たせてくれた。辛い現場に立ち会わせてごめんね。心の中で娘に謝った。私はそっとドアを開ける。隙間から中を覗くと、そこにいたのは――自分がダイエットサークルで知り合った友人のあけみだった。なぜ、彼女がここに?
思い返せば、あの日々があった。あけみに誘われてついていった先で、夫の大輔と出会ったのだ。大輔は明るく、私たちにも気さくに話しかけてくれた。コミュニケーション能力が高いだけでなく、ボランティア活動にも非常に積極的だった。きついとか忙しいと言われる場所に、進んで赴いていた。そんな彼は後輩からとても慕われていて、もちろん私もその一人だった。サークルでの活動のおかげか、就職活動にも困らなかったようだ。私も大輔を見習って、ボランティアも学業も全力でやった。その結果、私は内定をもらえることになり、あけみと居酒屋でお祝いをしている時に、卒業式ぶりに大輔と再会した。憧れの先輩に久しぶりに会えた私は舞い上がって、その場で大輔を映画に誘った。大輔も了承してくれて、デートに行った日に私たちは付き合うことになった。一年後、私たちは結婚した。あけみもそのスピード感に驚いていたけれど、私には大輔という確信のようなものがあった。男性経験はほとんどないけれど、大輔には不思議な安心感があったから。
「うん、おいしい。大輔、さすがだよ」
「SNSで見たレシピなんだけど、いけるだろ?」
「本当、大輔が料理してくれて助かるよ」
「いいって。なお子の勉強、大変だろ?」
大輔が作ってくれた鶏の照り焼きに箸をつけながら、私は頷く。そう、私は今、税理士試験の勉強の真っ最中なのだ。元々、共働きだから料理は大好き。でも、掃除などの家事は、いつの間にかほとんど大輔に任せきりになっていた。試験が終わったら元に戻すつもりだけれど、働きながら家のことをやるのは大変だ。けれど、大輔は嫌な顔を一つせずに家事を引き受けてくれる。素敵な人と結婚してよかった。そう心から思っていた。その後、試験には一発合格。大輔も私も、それで稼ぎが上がった。しかし、夫婦の関係は思わぬ方向へ進んでいく。
ある日、私は妙に体調が悪く、会社を早退して病院へ向かった。そこで医者から、とんでもないことを言われたのだ。
「ただいま」
「お帰りなさい」
大輔の声を聞くなり、私はすぐに玄関へ向かった。大輔は靴を脱ぎながら首をかしげる。
「どうした? 機嫌いいね」
「それがね、妊娠したの」
そう、体調不良は妊娠が理由だったのだ。医者から告げられた時、当然驚いたものの、それを上回るくらい嬉しかった。元々、子供は欲しいと思っていたし、稼ぎが上がった今ならお金の心配もしなくていい。きっと大輔も喜んでくれるだろう。そう思っていたのに、大輔の表情は曇った。
「そう。おめでとう」
そう言うと、リビングへと入っていってしまった。それだけ? 内心、肩を落とす。私は少し寂しさを感じながらも、男性はそういうものなのかもしれないと言い聞かせた。でも、その違和感は時間が経つにつれてどんどん濃くなっていく。体調不良に苦しみながらも、私はギリギリまで働いた。会社の人からは無理しなくていいと言われたけれど、仕事が大好きだから、なるべく頑張りたかった。しかし、その頃、大輔も繁忙期に入ってしまい、お互いになかなか家事の時間が取れなくなった。私はもう限界だと判断し、家事代行を頼もうと大輔に提案した。すると、大輔は怖い顔で私に言ったのだ。
「無駄な金を使うなよ。それならなお子が仕事やめて家事すればいいだろう」
思わぬ言葉に耳を疑った。そして、その日から大輔は当てつけのように、家事を一切しなくなってしまった。話し合う余裕も体力もなかった。余計なことを言って事を大きくしたくもなかった。それなら私が頑張ればいいや。そう思って、仕事と並行して家のこともやるようになった。きっと子供が生まれたら、大輔も元の優しい夫に戻るだろうと信じて。休日、くたくたの体で掃除機をかけていると、ソファーに何か挟まっているのが見えた。それは、大輔のスマホだった。拾い上げて置こうとしたら、背後から大輔の「おい」という怒鳴り声が飛んできた。慌てて振り向くと、大輔は私を力の限り睨みつけている。
「勝手に見るなよ。気持ち悪い」
「ごめんなさい。わざとじゃないの」
「そういうのいいから、返せ。早く」
大輔にスマホを奪われた勢いで、私はその場にへたり込んでしまう。その様子を見た大輔は、私に手を差し伸べるでもなく、不満そうにため息をついた。
「妊娠してるからって、甘えるなよな。うちのお袋は俺を産んでる時も、立派に働いてたって言ってた。つまり、なお子が余裕ぶってるからいけないんだよ」
横っ面を張り飛ばすような言葉に、頭が真っ白になった。ここまで言われなくちゃいけないの?
「子供がかわいそうだよ。こんな情けない母親で」
「ごめんなさい」
子供のことを出され、反射的に謝罪の言葉を口にする。そうだ。私はこれから、一人の人間を生み育てるんだ。こんなことでくじけたり、傷ついたりしている場合じゃない。
「スマホを見たことは謝るから、そんな風に言わないで。俺を責めるのは違うだろう」
「はあ。昔はお前も可愛かったのに、変わっちゃったよな」
そんな態度を崩さない大輔の声を聞きながら、私は俯いた。その翌日、私は職場で貧血になり倒れてしまった。もっともっと頑張りたいけど、ここが私の限界なのかもしれない。私はその日のうちに上司に相談し、退職の手続きを決めた。数週間後、私はまた病院を訪れていた。
「半田さんは、冷え性なので低体重児になる可能性が高いですね」
「そうなんですか」
「はい。それと、少し気味なのもあまり良くない。少しでいいので運動したり、食事量をセーブするようにしましょう」
言われていることへの心当たりは、数えきれないほどあった。大輔の料理は美味しいが、いわゆる男性が喜ぶようながっつりしたものが多く、脂質も糖質も高かった。私も仕事が忙しいからという理由で、ペロリと平らげてしまうことがほとんどだった。妊娠し、自分で料理するようになってからは、随分控えめな量にしていたつもりだったけれど、まだまだ足りないらしい。大輔は私の全身を見ては、蔑むような目を向けるようになった気がする。態度が変わったのも、私が太ったからなのだろうか。今や、ほとんど会話もかわさず、夫婦関係は冷えきっていた。状況を改善したい気持ちは当然あるものの、どうしたらいいのか、見当もつかなかった。
数日後、私が起きると大輔はソファーの上で眠っていた。うっすらお酒の匂いもするし、朝帰りしたのだろう。飲み会だったのかなと思い、毛布を持ってきてかけてあげようとしたら、大輔のポケットから何かが滑り落ちた。拾い上げると、それはカップル向けの宿泊施設のカードだった。無駄に洗練された雰囲気を醸し出している黒いカードを見て、私は瞬間的に頭に血が上るのが分かった。
「大輔、起きて」
「なんだよ。うるさいなあ」
「うるさいじゃないわよ。これは何?」
カードを目の前に突き出すと、大輔の目が泳いだ。それが何よりの証拠だった。私は堰を切ったように、大輔の今までの不満を口にした。言い出したら止まらなくて、言葉が泉のように溢れてくる。そのうちに涙も出てきて、自分が情けなくなって、思わず「お兄ちゃん」と口走ってしまった。私と兄は仲が良く、兄は私が困っている時にいつでも駆けつけてくれた。子供の頃の名残りで、感情が限界まで高ぶると、未だに兄のことを呼んでしまうのだ。いい加減直さないと思いながらも、頭がパニックになっていると、頭より先に口が動いてしまう。大輔にも馬鹿にされるかと思ったものの、予想に反して、大輔の顔は青ざめていた。
「お、俺が悪かったよ。ごめん」
「え?」
「今までのことは謝るし、家事も俺がやる。だから、離婚はやめてくれないか。お兄さんにも迷惑がかかるし。この通りだから」
大輔はその場で私に向かって土下座をした。いきなりの展開に私は面食らったものの、大輔の情けない姿を見ているうちに、また怒りが湧き上がってきた。その後、離婚届にはきっちりサインをもらい、その日はそこで終わった。
数ヶ月後、私はタクシーで病院に向かっていた。午前中に陣痛が来たので、用事だけ済ませて、その足で病院に向かうことにしたのだ。医者に注意されてから、食事改善に気を遣っていたものの、結局入院になりそうだった。大好きな家のことをお願いね、とメッセージだけ送り、背もたれに体を預ける。あの日から、大輔は言葉の通り家事を懸命に行い、私は随分快適な生活をさせてもらった。でも、それは私のことが大事だからではない。それは痛いほど分かっていたから、病院にも呼ばない。一人で産んで、一人で育てる。私はそう決意して、お腹を撫でた。
無事に出産と退院を終え、私は家へと帰ってきた。腕に抱かれた娘は、気持ち良さそうに寝息を立てている。ドアを開けると、予想通り、女の靴があった。辛い現場に立ち合わせてごめんね。心の中で娘に謝り、まっすぐ寝室へと向かう。ベッドに裸で寝転んでいたのは、大輔とあけみだった。二人は一瞬固まった後、どんどん焦ったような表情になっていく。
「ち、違うの? これは……聞いてくれ」
べらべらと何かを言っているけれど、私にはもう関係のない話だ。
「慰謝料と養育費のことは、後で弁護士を通して連絡するから。とりあえず、他人の二人は出ていってくれる? ここ、私の家なの」
「他人?」
「そう。他人。ほら、早く」
「お前、何言ってんだよ。ここは俺の家でもあるんだから、絶対に出ていかないぞ。そうだ。そもそも、お前が先に不倫したんだろ。俺の子じゃないなら、養育費を払う理由なんてない」
大輔は鼻の穴を膨らませながらまくし立てた。何でも、看護師をしているあけみから「妊娠期間は十月十日だから、妊娠期間がずれてるんじゃない」と言われたのだそうだ。予定日から逆算したところ、大輔が出張の日に私が妊娠している。つまり、娘は大輔の子供ではなく、別の男の子供に違いない。言い切った大輔は得意げだが、あけみは無言のまま俯いている。それも当然だろう。大輔は大きな勘違いをしているのだから。
「本当、日本の性教育って遅れてるわよね。あけみも看護師なら、ちゃんと正しい知識を教えてあげてよ」
あけみが怯えたように震えたのを見てから、私は大輔に向き直った。
「出産予定日は、着床した日からではなく、生理が終わった日から計算されるの。つまり、きっちり十月十日にはならないのよ。このことをあけみが知らないはずがない。つまり、あけみは分かった上で、誤った情報を伝えた。おそらく、私を貶めるために、私を有罪にして離婚させて、財産分与でも狙ってたのね」
「そ、そんなつもりじゃ……」
「税理士兼ライターが不倫して離婚なんてネタを掴めば、お金をがっつり取れるかもしれないもんね」
そう。私は働きながら税理士の資格を取り、今はライターとして生計を立てている。お金にまつわる分かりやすい記事を書くと、業界で少しずつ名前も通り始め、本も出せることになった。稼ぎが大輔を上回っていることも、きっと気づいていただろうし、そこにつけ込むつもりだったのだろう。大輔もようやく自分の置かれている状況が分かったらしく、表情を曇らせたまま口を開いた。
「ど、どんな理由があろうが、俺たちはまだ夫婦なんだから」
「ああ、そのことだけど、もう離婚届は出してあるから」
大輔の間抜けな顔に、思わず吹き出しそうになったものの、なんとか耐えた。実は、陣痛が来た日、病院に行く前に役所によって離婚届を提出していたのだ。事前に調査会社に依頼し、浮気の証拠も相手も集めた上で、ドライブレコーダーには大輔とあけみの情けない会話がしっかり記録されていた。「私たちの関係に気づかないなんて、本当にお気楽だ」とか、「金持ちだから離婚するのは惜しい」だとか。大輔は、子供に使う予定だったお金も、あけみに使い込んでいたらしい。
「分かった。ここは私の兄が購入してくれた家で、名義も私。何の関係もない赤の他人は住んじゃいけないの。これ以上騒ぐなら、弁護士と警察を呼びますから」
窓から二人の荷物を放り出し、冷たく言い放つと、二人はようやく事の重大さが分かったのか、服を着始めた。背中を丸めて出ていく二人に向かって、私は叫ぶ。
「慰謝料、絶対に減額しないからね!」
さらに数ヶ月後。
「あれ? またお兄ちゃんテレビに出てる。しかもこれ、筋トレ番組じゃない?」
「筋肉弁護士だからな、俺」
「ほら、ゆうが上腕二頭筋だよ」
「ちょっと、変な言葉教えないで」
私と娘の優香は、実家の近くで二人暮らしを始めた。兄はほぼ毎日うちに来て、優香にデレデレだ。テレビに引っ張りだこの弁護士が、姪っ子に骨抜きにされているなんて、クライアントも予想していないだろう。あの後、兄が大輔の実家とあけみの家宛てに内容証明を送ってくれた。大輔の実家にはDNA鑑定書もつけ、優香が大輔の子供であることも証明してくれた。慰謝料と養育費はもちろん、優香のための貯金の使い込みもしっかり大輔に請求してくれた。きっと大輔は、兄ならこれくらいのことを簡単にやってのけると分かっていたから、土下座したのだろう。大輔とあけみは兄を逆恨みして、兄のSNSやブログに誹謗中傷を書き込んだものの、すぐに開示請求で訴えられた。さらに、いわゆる「特定班」と呼ばれるネットの人々に身元を特定されたようだ。私も兄ほどではないにしても、最近は有名になってきた。「人気税理士のなおちゃんの元夫は犯罪者」なんてタイトルのついたまとめ記事を見つけた時は、ひっくり返りそうになった。そこから、あけみの身元も特定されたらしい。決め手になったのは、過去にSNSにアップした匂わせ写真だったそうだ。誹謗中傷されるようになり、今は看護師の仕事もやめてしまったらしい。事件をきっかけに、ボランティアサークルの仲間からも連絡をもらった。何でも、大輔は学生時代から評判が悪かったらしい。後輩にはいい顔をしていたものの、面倒な仕事は同期に押し付け、目立つ仕事ばかりを率先して行っていたそうだ。ボランティア活動を行っていたのも、彼が第一志望にしていた会社がボランティアに力を入れており、その点数稼ぎで頑張っていただけ。私たちに優しかったのは、ただただ女癖が悪く、女と見ればすぐに手をつけるからだった。しかし、そんな大輔は今や、ボランティアサークルが主催の炊き出しに並んでいるらしい。隣には女性がいたと聞いたから、きっとあけみのことだろう。
「本当、ろくなもんじゃない男、掴んじゃったな」
「結婚するなら、俺みたいな男にしとけよ」
「なお、お兄ちゃんに言われてもね」
優香が兄の腕の中で楽しそうに笑う。この子と一緒に歩んでいく未来は、まだ始まったばかりだ。
――それはまだ、私が夫と結婚して二年目の時。全ては、あの一本の電話から始まった。
「今すぐ病院に来て。お父さんが倒れたの!」
深夜一時、着信音で目覚めた私が次に聞いたのは、義母の必死な声だった。
「あ、はい、分かりました。今すぐ向かいます」
私は慌てて夫を連れて、車で病院に向かう。助手席に座る夫は、お酒臭い息を吐きながら、くすくすと楽しそうに笑っていた。
「ああ、おかしいな。親父、倒れたのか。そうか。俺が渡したものを飲んだんだから。そりゃそうだよな。うまくいってよかった」
私は血の気が引いた。ドクン、ドクン。自分の心音が大きくなっていくのを感じる。
「ど、どういうこと?」
車内には、夫の嫌な笑い声だけが響いていた。
「これで俺が、すぐに社長になれるな」
私は目的地を変更し、ハンドルを切った。私の名前はなお子。夫の大輔は、結婚して二年になる。子供はいないため、夫婦二人きりの生活だ。子供は、いずれは欲しいと思っているけれど、大輔と話し合って、今は仕事に専念しようということになった。というのも、大輔の父が印刷会社の社長だったからだ。大企業ではないけれど、地元では名の知れた会社だった。企業のフライヤーから公的機関の書類、最近はWEBデザインまで幅広く手掛けている。街を歩けば、義父の会社が手掛けた仕事が必ず目に入るような会社だ。大輔は一人息子で後取りだったため、結婚を機に勤めていた会社を退職し、義父の元で仕事を学んでいた。私も何か力になれればと思い、義父の会社で大輔と一緒に働いている。まだまだ学ぶことが多い。今は子供は作らず、仕事を精一杯頑張ろうと、結婚した時に二人で決めた。未経験で分からないことだらけだったが、仕事はやりがいもあったし、毎日楽しかった。義父は仕事にはとても厳しい人だったが、誰よりも仕事へ真剣に向き合い、お客様からも社員からも一目置かれる自慢の義父だった。義父とは対照的に、義母は明るく、おしゃべりが大好きで、細かいところまで気が利くだけで空気が明るくなるような人だった。私は義両親を尊敬していたし、とても大好きだった。何より、仲良く寄り添う姿に、私も大輔とこんな夫婦になっていけたら、と私たちの未来を重ねて想像した。
結婚当初は、何もかもがうまくいくような気がしていた。しかし、結婚前は優しかった大輔の私への態度は、結婚してから少し経った頃から変わり始めた。共働きだからと家事は分担しようと提案してくれたのに、だんだんと帰りが遅くなり、気がつけば家事は私が全て行うようになっていた。たまに早く帰ってきても、スマートフォンをいじってばかりで何もしない。結婚前は、食事を作れば必ず感謝の言葉をくれていたのに、今は「いただきます」すら言わず、食事中もスマホばかり見ている。近頃は深夜になることも多く、心配して声をかけると「うるさい」と、私の顔も見ずに寝室へこもってしまう。そんな日が続き、楽しかった結婚生活は、いつしか大輔の不満に耐えるだけの生活になっていた。耐えられなくなった私が大輔の態度に文句を言うと、大輔は決まって言うのだ。
「俺は将来社長になる男だぞ。いいのか? そんな態度で後悔するぞ」
と、偉そうに私を鼻で笑う。腹が立ち、離婚が何度も頭によぎったが、義両親はとてもいい人だったため、離婚して関係が途切れてしまうことが嫌だった。義父の会社の社員もいい人ばかりだし、仕事の内容も面白い。大輔と離婚することで、これが全てなくなってしまうのなら、少しくらい腹が立っても見ないふりをしよう。そう目をつぶりながら、結婚生活を続けていた。
私のそんな我慢が限界を迎えたのは、残暑が和らぎ始めた秋の夜のことだった。深夜に、珍しく慌てた声の義母から電話があった。義父が倒れた。義母からそう聞いた私は、頭の中が真っ白になった。眠っていた大輔を慌てて揺り起こす。
「大輔、起きて」
「ああ、なんだよ、こんな夜中に」
眠そうに大きなあくびをする大輔に、私は上ずった声で義母から聞いたことを伝える。
「お父さんが倒れたって、今お母さんから……」
「ああ、お父さんが?」
「明日の朝じゃダメ?」
「何言ってるのよ。倒れたのよ」
「分かった。分かった。行けばいいんだろ」
渋々ながら話す大輔は、私の言葉を無視して布団に潜ろうとする。今日もいつも通り遅くまで出歩いていた大輔は、きっと外でお酒を飲んできたのだろう。何を言っても聞こえていないようで、生返事しか返ってこない。仕方なく、引きずるように無理やり車に乗せ、病院へ向かった。車に向かうまでは嫌そうにぶつぶつと文句を言っていた大輔だったが、車に乗ると揺れが心地よかったのか、助手席でうつらうつらと船を漕ぎ始める。実の父親が倒れたというのに、呑気な大輔の様子に、私は無意識にため息が漏れた。
「お父さんが危ないかもしれないっていうのに、よく眠れるわね」
どうせ聞こえていないだろうとこぼした言葉に、意外なことに返事が返ってきた。
「親父のやつ、なお子からって言ったら、喜んで受け取ってさ」
「え?」
返事というよりは寝言だったのか、ふわふわとした話し方だった。何が楽しいのか、くすっと堪えきれない笑いをも漏らしながら、大輔は話し続ける。
「一緒に飲もうって言ったら、嬉しそうにあんなにガブガブ飲むんだよ」
「今日、お父さんと一緒に飲んでたの?」
「そうだよ。親父も、どんなに誘っても飲みになんて行かねえくせに。お前の名前出したら、すぐ準備してるから始めてよ。俺の誘いは断るくせに、なお子ならいいんだとよ。あんなに飲んでさ」
「これで俺が、すぐに社長になれるな」
大輔の言葉に、私は血の気が引いた。まさか、大輔がお父さんのお酒に何か入れたのだろうか。嬉しそうに、楽しそうに、こらえきれない笑いを漏らしている大輔に、背筋が凍る。大輔のせいでお父さんが倒れたのだったら、どうしよう。ハンドルを握る指先が冷えていくのが分かる。私は車をコンビニの駐車場に止めた。震える手で、義母に電話をかける。何度か呼び出し音が鳴った後、いつもより元気のない義母の「もしもし」という声が聞こえる。
「なお子ちゃん? さっきは突然ごめんなさいね。お父さん、大丈夫だったわ。少し血圧が上がったみたいで、命に別状はないみたい。念のため今日は入院するけど、安心してね」
「そうだったんですか。良かったです」
「心配かけてごめんなさいね」
「本当に無事で良かったです」
ほっと胸を撫で下ろす。安心すると、なおさら、先ほどの大輔の言葉が引っかかる。
「お母さん、聞きたいことがあるんです」
「なに? どうしたの?」
助手席を横目で確認する。いつの間にかぐっすりと眠ってしまった大輔は、気持ちよさそうに寝息を立てている。
「今日の夜、大輔さんとお父さんって、一緒にお酒飲んでましたか?」
半分祈るような気持ちだった。違っていてほしい。否定してほしい。しかし、義母から返ってきたのは、肯定の言葉だった。
「飲んでたわよ。なお子ちゃんがお父さんにワインを買ったからって、大輔がうちに持ってきたのよ」
大輔がそんなことをするわけがないという、淡く抱いていた気持ちが、大きな音を立てて崩れ落ちた。頭の中で「どうしよう。どうしたらいいんだろう」と、答えの出ない問いがぐるぐると回る。
「そうですか……。お母さん、私、これから警察に行ってきます」
「え? 警察?」
何も知らない義母の不思議そうな声が、どこか遠くに感じた。私は震えそうになるのを抑えながら、なんとか声を絞り出し、先ほど大輔が話したことを義母に伝える。
「大輔がそんなことするはずないわ。何か勘違いよ」
そう言う義母を振り切り、私は大輔を連れて警察へと向かった。警察についてからは、思った以上に大変だった。目を覚ました大輔は、初めは状況がよく分かっていなかったみたいでおとなしかったが、警察に連れてこられたことに気づくと、大声を出しながら大暴れした。泥酔していることもあり、警察官に向かって「うるさい。触んな。俺は帰る」と怒鳴りながら、壁や机を殴る蹴るを繰り返す。見かねた若い警察官に取り押さえられ、動けなくなった大輔は大声で騒ぎ始めた。
「俺が警察に来なきゃいけない理由なんてない。話せよ」
「でも、奥さんは、あなたからお父さんに何か危険なものを飲ませたと聞いたそうですが」
顔を真っ赤にさせて唾を飛ばしながら話す大輔とは反対に、警察官は冷静に大輔に質問する。
「危険なものなんて飲ませてねえよ」
「では、さっき車の中では、あんなに飲んだから、これですぐに俺が社長になれるって言ってましたけど」
「俺が飲ませたのは、ただの酒だよ。親父は普段飲まないから、酒を進めただけだよ。それで、ちょっと転べばいいのにって思ったんだよ」
大輔の言葉に、私はぽかんとしてしまった。つまり、私の勘違いだったということ? 警察官も私の方を、呆れたような目で見ている。申し訳ないやら、恥ずかしいやらで、私は肩をすくめて俯いた。大輔にも申し訳ない。勝手に疑って、警察にまで連れてきて。帰ったら、きちんと謝ろう。しかし、私は大輔の続きの言葉に耳を疑った。
「親父は普段ほとんど飲まないから、たくさん飲めば足元がおぼつかなくなるだろうと思って。それで、どこかで転んで大怪我すればいいのにと思って。倒れたって言うから、酒で倒れたのかと思ったら、ただの高血圧かよ。期待させやがって」
何か堰き止めていたものが崩れたように、義父への本音を叫ぶ大輔。大輔の言葉は止まることなく、どんどんエスカレートしていく。
「あいつ、俺の誘いには乗らないし。俺が持ってきた酒は飲まないくせに、なお子の用意したワインだとニヤニヤしながら飲みやがって。息子は俺だぞ。息子の酒は飲めないのに、他人の酒を飲めるのかよ。息子の嫁にデレデレしやがって、気持ち悪い」
大輔は叫びながら、再び暴れ始める。すぐに警察官に取り押さえられたが、何度も大騒ぎを繰り返したせいで、近所の人たちまで覗きに来て、収拾のつかない状態になってしまった。近所の人たちがこそこそと話す声が聞こえてきて、穴があったら入りたい気持ちだった。結局、家族間のもつれとして処理されることになり、私たちは明け方に家に帰った。帰りの車内は、とても静かだった。暴れ疲れたのか、ぐっすりと眠る大輔を横目に見ながら、私は今までずっと考えては決心のできなかった離婚を決意した。警察での彼の姿が元々の彼の本性なのか、仕事のストレスが爆発しただけなのか、私には分からないけれど、大輔と一緒に生活するのはもう無理だ。憧れていた義両親のような夫婦には、きっと、なれない。こんな人とは、一緒に生きてはいけない。
義父は確かに、私にとてもよくしてくれていたし、大切にしてくれていた。でも、それは、大輔の妻だからだ。血の繋がらない私が家族として馴染めるように、義父は気を使ってくれていた。仕事も未経験の業種の上、義実家の会社で働くなんて息が詰まるだろうと、気にかけてくれていた。他人だからこそ、優しくしてくれていたのだ。その一方で、義父は大輔には特別厳しくしていた。元々一人っ子で、将来は社長になるという強い思いを持ちながら、周囲からちやほやされて育ってきたからか、大輔は調子に乗りやすかったり、他人を見下してしまったり、思い通りにならないと癇癪を起こしたりするところがあった。大輔のそんな部分を心配していた義父は、次期社長として育てるために、入社後は特に厳しく指導していたらしい。大輔が一人前になるまでは、プライベートでも甘い顔は見せないと、大輔からの誘いも断っていた。義父は、実の息子だからこそ、大輔にきつく当たったのだ。大輔が義父の愚痴をこぼすたびに、私なりにフォローを入れていたが、それも逆効果だったのかもしれない。大輔が義父の思いに気づくことはなく、むしろ恨みを募らせる結果になってしまった。大輔は一人前になるどころか、夜も遅くまで遊び回り、「次期社長に向かってなんて口を聞くんだ」と私を馬鹿にして鼻で笑い、義父の大怪我を願って酒を進めるような、義父が求める姿とはかけ離れたものになっていた。
私は迷ったけれど、こっそりと録音していた警察でのやり取りを、義父に聞かせることにした。義父は激怒し、大輔は次期社長どころか、会社を解雇されることになった。さらに、義父は「余裕ぶってるお前を、一人前に育てるために厳しくしたが、こんな恥ずかしい結果になるとはな。うちの敷居をまたぐな」と、大輔に言い放った。実質、勘当状態だ。大輔は何度も義父に謝っていたが、聞き入れてもらえず、最後は泣きそうな顔で背中を丸めて出ていった。私はと言うと、大輔と離婚したのだから、義実家とも会社とも繋がりがなくなってしまったと思っていたが、まさかの会社を継ぐことになった。一人っ子だった大輔の他に、会社を継ぐ人もおらず、義父の願いだった。今回倒れたことで、義父は本格的に引退を考え始めたらしい。最初は私が継いでもいいものかと迷ったけれど、何か少しでも義両親に恩返しができるなら。義母の思いを継ぐために、未熟ながらも、社長として日々奮闘している。
様々な人に支えられながらも、少しずつ仕事に慣れてきた頃だった。私が社長になってから数ヶ月後、突然、私のスマホが鳴った。画面には、意外な名前が表示されていた。
「もしもし」
「なお子か」
「今更、何の用?」
「久しぶりだな」
久しぶりにも関わらず、大輔は親しげに私の名前を呼ぶ。
「なお子が親父の会社、継いだんだってな」
「そうだけど」
「お前、一人だと大変だろ。昔から馴染みの社員も多いし、女社長なんて舐められるんじゃないか?」
「そんなことないわ」
「強がらなくていいからさ。なあ、なお子。俺たち、やり直さないか?」
「今更、何を言っているのよ。やり直すわけないでしょ。そもそも、お父さんを大怪我させようとした人と、なんてやり直せるわけないじゃない。それだけなら、切るわね」
私は大輔の言葉を待たずに、電話を切った。この先、何度も電話をかけられても面倒なので、合わせて着信拒否設定にしておいた。しかし、これが良くなかったのかもしれない。次の日、大輔は会社に現れた。仕事上がりに、新しく入った中途採用の新入社員と話しながら、会社から駐車場へ向かっていた時だった。大輔と、何人かの男性たちが、私たちに近寄ってきた。大輔は、以前に警察で暴れた時のように、何かを大声で叫びながら、私の方へ走ってくる。本当に怖い時は動けないし、声も出ないと言うけれど、本当にそうだった。恐怖で固まった私は、近づいてくる大輔を、ただ見ていることしかできなかった。大輔が目前まで近づき、もうダメだと固く目をつぶった時、何かが倒れる大きな音と、「大丈夫ですか?」と切羽詰まった声が聞こえた。恐る恐る目を開けると、新入社員の彼が、心配そうに私を見ている。
「うん。大丈夫。ありがとう」
「警察を呼びますね」
何もできなかった私に変わって、彼が警察に説明してくれて、大輔と男性たちは警察に連行されていった。大輔は、私が復縁を断った上、着信拒否したことで逆上し、会社で待ち伏せすることにしたらしい。会社での待ち伏せを提案したのは、仲間の男性たちだそうだ。まだ結婚生活が続いていた頃、深夜まで遊び歩くようになった大輔が、飲み屋で知り合った人たちらしい。義父に酒を飲ませ、怪我をさせようという作戦を考えたのも、この男性たちだった。大輔が社長になったら、大輔に取り入って美味しい思いをするつもりだったそうだ。その作戦を私が壊してしまったため、私に復讐がしたかったらしい。昏睡状態で何も聞いていなかった私に、警察への付き添いを買って出てくれた新入社員の彼が、後から教えてくれたことだ。もしあの場に彼がいなければ、どうなっていたかと思うと、ぞっとする。今も私のことを心配して、会社の送り迎えは彼が付き添ってくれている。申し訳ない気持ちはあるが、ありがたい気持ちの方が大きい。今度、お礼に食事でもご馳走しようかな。今日も隣を歩いてくれる彼を見上げて、私は頭の中で、美味しいお店をピックアップした。



