私は会場の隅で、シャンデリアの光の下、静かに笑う男を見つめていた。彼はグラスを掲げ、自分の未来が約束されたかのように得意げに挨拶を終えた。柏山レンジ。この会社で私が何よりも確かめるべき男。彼は私を見つけると、わざと大きな声で言った。「あれ?なんで派遣がこんな場所にいんの?」周囲の視線が一斉に私に集まる。彼はにやにやしながら近づいてきて、勝ち誇ったように続けた。「ちょうどいいや。みんなの前で言っといてやるよ。派遣は今月で首。」会場がどよめいた。「わかる?君みたいな駒はいくらでも替えが効くんだよ。」私はゆっくりとグラスを置き、まっすぐに顔を上げた。そして、胸の奥でずっと温めていた言葉を、静かに、しかしはっきりと放った。「それは、あなたの方ですよ。」
あの朝のことを思い出す。3ヶ月前、よく晴れた月曜日。私は派遣社員、藤崎魔として、この名衛トレーディングの本社ビルに足を踏み入れた。創業30年、食品を扱う中堅商社。社員たちは皆忙しそうに廊下を歩いている。私は総務部の片隅に案内され、古びたパソコンの前に座らされた。「派遣さん、これやっといて。」渡されたのは、誰もやりたがらない伝票整理の山。私は黙って頷き、淡々と手を動かした。目立たず、けれど仕事は正確に。それがこの3ヶ月の私の役割だった。
昼休み、喫煙室で声をかけてきたのは、同じ派遣の若い女性だった。「藤崎さんだよね。私、相澤みさきです。」人懐っこい笑顔に、思わずこちらも頬が緩む。みさきは入って半年、まだ要領が掴めず怒られてばかりだと笑った。それでも腐らず、必死に食らいついている。その姿が、なんだか放っておけなかった。
喫煙室を出たところで、設備管理の島田さんとすれ違った。68歳の白髪の職人気質な男だ。すれ違い様、ふと足を止め、私の顔をじっと見た。「いや、誰かに似てる気がしてな。」そう言い残し、道具箱を下げて去っていく。私は胸ポケットの名刺入れをそっと押さえた。島田さん、あなたは母を覚えているのだろうか?しかし今はまだ言えない。私はただの派遣社員。そういうことになっているのだから。
その時、廊下の奥から聞き覚えのある高い笑い声が響いてきた。レンジだ。彼は笑いながら総務部に入ってきた。仕立てのいいスーツに、これ見よがしの高級腕時計。30歳にして常務。もちろん実力ではない。社長の一人息子という、それだけの肩書きだった。「ああ、また派遣が増えたの。」レンジは私の机の前で立ち止まり、値踏みするように見下ろす。「そもそもさ、誰でもできる仕事だよね。だから派遣で十分。」周りの社員が気まずそうに目を伏せた。誰も彼を止めない。止められないのだ。
その時、書類を運んでいたみさきがレンジの肩に軽くぶつかった。「あ、す、すみません。」みさきの腕から書類がばさりと床に散らばる。レンジの顔がみるみる歪んでいく。「は?おい、この派遣、俺に何した?」「ち、違うんです。わざとじゃ…」「言い訳すんなよ。だから派遣は使えねえんだ。」レンジは散らばった書類をわざと踏みつけた。みさきの目に、じわりと涙がにじむ。私は静かに立ち上がり、床の書類を拾い集めた。「私が運びます。」レンジの視線が、今度は私に向く。「へえ。派遣が派遣をかばうんだ。仲良しごっこ。」嘲笑うような笑いが部屋に響いた。私は何も言わず、ただ書類を揃え、頭を上げて彼を見返した。その真っ直ぐな目が気に入らなかったのだろう。レンジの笑みが一瞬だけ凍り付いた。「なんだよその目。派遣のくせに。」彼はそう吐き捨て、足音を荒げて去っていった。
床に膝をついたまま、みさきが小さく呟く。「藤崎さん…かばってくれて、ありがとう。」私は首を横に振る。「大丈夫。あなたのような子が報われない場所であっていいはずがない。」その思いが、静かに胸の奥で熱を持ち始めていた。
その日から、私は伝票の山により丁寧に目を通すようになった。派遣の私に回ってくる雑務。けれど、この会社の血の巡りは、その伝票にこそ現れる。そしてすぐに気づいた。いくつかの経費に、不自然な流れがある。接待費、交際費の名目で、月に何十万もの金が同じ一社へ抜けていく。宛先は聞いたこともない小さな広告会社。そして、その決裁欄には、いつも同じ印があった。柏山レンジ。私は表情を変えず、数字だけを静かに頭へ刻んでいく。
夕方、資料室で島田さんと二人きりになった。彼は古いキャビネットを整理しながら、ぽつりと口を開いた。「昔なあ、ここに藤崎っていう派遣さんがいたんだ。」私の手が思わず止まる。「よく気の付く、いい人でなあ。なのに、当時の課長にひどく言われて、やめさせられちまった。」島田さんは遠い目をした。「その課長ってのが、今の社長さ。」胸の奥がぎゅっと締め付けられる。けれど、私はまだ何も言えない。「…その人、どうしてるんですかね?」やっとそれだけを絞り出す。島田さんは首を振り、静かに答えた。「だあな。ただ、あの人の忘れ物を、俺はまだ捨てられずにいる。」忘れ物。その言葉が、名刺入れと同じ重さで胸に落ちてきた。
翌週、レンジの横暴はさらに露骨になっていった。きっかけは些細なことだった。私が整理した伝票の一枚に赤い付箋を貼って戻したのだ。「この接待費、領収書の番号が空です」と、事実だけを添えて。それを見たレンジの顔が、朝礼の場で真っ赤に染まった。「おい、派遣。お前、俺の決済にケチつけたのか?」フロア中の視線が私に集まる。「間違いを指摘しただけです。」「間違い?俺が間違えるわけないだろう。派遣のくせに生意気なんだよ。」レンジは私の机の書類を乱暴に床へ払い落とした。紙が雪のように舞い散る。「拾えよ。それがお前の仕事だろう。」私は静かに膝を折り、一枚ずつ拾い集めていく。屈辱ではない。この男がどこまで自分の首を絞めるのか。私はただ、それを見届けていた。
その時、レンジがとどめのように言い放った。「大体、派遣の分際で正社員に意見すんな。お前の親も、どうせ碌な育て方してないんだろう。」親。その一言に、拾う手がほんの一瞬だけ止まる。母のことを、この男は何も知らない。知らないまま、踏みにじった。私は顔を上げ、レンジの目をまっすぐに見た。「私の母は、誇りを持って働く人でした。」声は震えていない。ただ、静かに芯があった。レンジは一瞬怯み、それを隠すように鼻で笑った。「はっ、派遣が母親の話でお涙頂戴かよ。」そう吐き捨て、彼は去っていった。床にしゃがんだ私の肩に、そっと手が置かれる。みさきだった。「藤崎さん、あんなの気にしちゃだめですよ。」私は微笑み、首を振る。「気にしていない。むしろ、その言葉こそが、いつか彼自身を刺す証言になる。」そう静かに確信していた。
その週の終わり、島田さんに資料室へ呼ばれた。彼は古い金属ロッカーの前で私を待っていた。「これ、ずっと預かってたんだ。」差し出されたのは、埃をかぶった小さな紙袋。「例の藤崎さんの忘れ物さ。いつか取りに来るかと思ってな。」私は震える手で袋を開けた。中から出てきたのは、色あせた一冊のノート。表紙に、見慣れた文字で「藤崎苗」と書かれている。母の字だ。ページをめくると、そこには貴重な業務メモが並んでいた。どの取引先がどんな味を好むか。誰が困っていて、どう助けたか。母はこの会社を心から大切にしていた。なのに、たった一言で切り捨てられた。最後のページに、母の走り書きがあった。「人を肩書きで測る会社は、いつか肩書きに潰される。」胸の奥が熱くなる。母は恨み言の一つも書かなかった。ただ、静かな真実だけをそこに残していた。「島田さん、なぜこれを私に?」私が尋ねると、彼は穏やかに笑った。「藤崎さん、あんた、あの人にそっくりだよ。目の奥がな。」見抜かれている。けれど、不思議と怖くはなかった。
その時、社内放送が流れた。来月、創立30周年の祝賀会を開くという。合わせて、レンジの常務就任も正式に披露されると。放送を聞きながら、私は母のノートをそっと胸に抱いた。「お母さん、あと少しだよ。あなたを笑ったこの場所で、私は決着をつける。」
祝賀会を数日後に控えた朝、事件は起きた。レンジがフロア全員の前で、みさきを呼びつけたのだ。「相澤さ、君、もう来なくていいから。」みさきの顔から血の気が引いていく。「え、私…」「使えないんだよ。単純に。派遣なんて切るのに理由もいらないの。」レンジは面倒くさそうに手を振った。「週末までに机片付けといて。目障りだから。」みさきはその場に立ち尽くしたまま、動けない。理不尽な宣告にフロアは静まり返ったけれど、誰も声を上げない。15年前と同じ光景。弱いものが、肩書きの前にただ潰されていく。私はそっとスマートフォンの録音を止めた。レンジの暴言は、全て記録に残した。これで、また一枚。
夜、私は泣きじゃくるみさきを、駅の裏で慰めていた。「私、必死にやってきたのに。なんで?」「あなたは何も悪くない。」私ははっきりと言い切った。「悪いのは、人を駒だと思っている、あの男の方。」みさきは涙を拭い、それでも小さく笑った。「藤崎さんがいてくれて、よかった。」その言葉が胸に染みる。守りたい人がいる。だからこそ、私は迷わない。その夜、私は一本の電話をかけた。相手は、親会社の顧問弁護士。「予定通り、祝賀会で動きます。全ての資料を整えてください。」電話の向こうで、静かな「承知しました」が返る。窓に移る自分の顔は、もう派遣事務のものではなかった。柏山レンジ、あなたの祝賀会を、私が終わらせる。
祝賀会当日。都心のホテルの大広間に、名衛トレーディングの社員と取引先が200名近く集まっていた。シャンデリアが輝き、シャンパングラスが触れ合う。壇上には社長の柏山剛造。その隣で、レンジが誇らしげに胸を張っていた。「本日は私の常務就任を祝っていただき、感謝します。」レンジの挨拶に、儀礼的な拍手が起こる。私は会場の隅で、地味なスーツ姿のまま静かにその様子を見ていた。まだ誰も私に気づかない。派遣事務がなぜこの場にいるのか。その意味を、この後全員が知ることになる。
歓談が始まってしばらく、レンジのグラスが進んだ頃だった。彼は会場の隅にいる私を目ざとく見つけた。「あれ?なんで派遣がこんな場所にいんの?」わざと大きな声だった。周囲の視線が一斉に私へ集まる。レンジはニヤニヤと近づいてきた。「言っとくけど、君みたいなのが来る場所じゃないから。」グラスを揺らしながら、彼は勝ち誇る。「ちょうどいいや。みんなの前で言っといてやるよ。」そして、その言葉を高らかに放った。「派遣は今月で首。」会場がさっと揺れる。「わかる?君みたいな駒の効くコマは、いつでも捨てられるの。」取引先の何人かが眉をひそめたけれど、レンジは止まらない。「ほら、惨めに謝って、さっさと消えろよ。」
私はゆっくりとグラスを置いた。そして、まっすぐに顔を上げる。会場が静まり返った。私は静かに口を開いた。「それは、あなたの方ですよ。」「はあ?」レンジの顔に間抜けた笑みが浮かんだ。「何言ってんの?派遣が。頭でも沸いた?」私は答えず、胸ポケットから一枚の名刺を取り出した。そして、それをレンジへ静かに差し出す。彼は面倒くさそうにそれを受け取り、固まった。名刺にはこう記されていた。「名衛トレーディング親会社、MKパートナーズ代表取締役 藤崎魔。」レンジの顔色がみるみる変わる。「先月、本社の全株式は私の会社が取得しました。」私ははっきりと会場全体に告げた。「つまり、この名衛トレーディングの新しいオーナーは、私です。」広間が大きく騒めいた。社員たちが信じられないという顔で私を見つめている。剛造社長ががくっと肩を落とし、立ち上がった。「そ、そんな話、聞いていない。」「お伝えする義務はありません。」私はレンジに視線を戻す。「私はこの3ヶ月、ただの派遣として社内を見てきました。誰が人を大切にしているか。誰が肩書きで人を踏みつけるか。この目で確かめるために。」レンジは名刺を握りしめたまま後ずさった。「う、嘘だ。派遣がオーナーなんて。」「その派遣ごときに、あなたは今、自分の首を握られています。」私は一歩、彼へ踏み出した。「先ほどの言葉、そっくりお返しします。首になるのは、あなたの方ですよ、柏山さん。」シャンデリアの光の下で、レンジの顔から笑みが完全に消えた。
「う…。」レンジは名刺を床に叩きつけた。「ふ、ふざけるな。買収したからって、俺を首にできると思ってんのか?」「できます。むしろ、そうすべき理由が山ほどある。」私が静かに告げると、レンジの額に汗が滲んだ。見かねた剛造社長が愛想笑いを浮かべて割って入る。「ま、待ってください。息子も、悪気があったわけでは…」「悪気がなければ、人を駒のように捨てていいと?」私の一言に、剛造の笑みが凍りつく。私は会場の入り口へそっと目配せした。扉が開き、スーツ姿の男性が2人、静かに入ってくる。「紹介します。当社の顧問弁護士と、公認会計士です。」弁護士が分厚いファイルを手に前へ進み出た。「本日までに、柏山レンジ常務に関する社内調査が完了しております。」レンジの顔がさっと白くなる。「ちょ、調査…」会計士が一枚の資料を掲げた。「まずこちら。この2年間、実態のない広告会社へ流れた接待費、総額1200万円。」会場がさっと湧いた。「その広告会社の代表は、柏山レンジ常務ご本人の大学時代の友人です。」レンジの唇がわなわなと震える。「し、知らない。俺は…」「そんな決裁書は、全てあなたのものです。」私は静かに畳みかけた。「これは、ほんの一枚目に過ぎません。」弁護士が次のファイルに手をかける。レンジは逃げ場を探すように会場を見回したけれど、誰一人、彼に手を差し伸べるものはいなかった。
弁護士が二枚目のファイルを開いた。「次に、ハラスメントについてです。」私はスマートフォンを取り出し、会場のスピーカーへ繋いだ。「これは、数日前の社内でのやり取りです。」再生ボタンを押す。レンジの声が広間いっぱいに響き渡った。「相澤さ、君、もう来なくていいから。」「使えないんだよ。単純に。」「派遣なんて切るのに理由もいらないの。」会場が水を打ったように静まる。続けて、別の音声が流れた。「派遣の分際で正社員に意見すんな。お前の親も、どうせ碌な育て方してないんだろう。」取引先の人々が露骨に顔をしかめた。私は録音を止める。「これが、あなたが日常的に部下へ向けてきた言葉です。」レンジは真っ赤な顔で叫んだ。「そ、そんなの、勝手に取っただけだろ。侵害だ。」「自らの加害を認めないのですか。」私が返すと、彼は言葉を失った。
さらに、会場の後方から一人の男性が手を挙げた。先日、レンジに頭を下げ続けていた、下請けの担当者だった。「私からも証言させてください。」彼は震える声で語り始めた。「柏山常務には、無理な納期と不当な値引きを何度も強要されました。取引を切ると脅され、断れなかったんです。」同じように、数人の取引先が次々と頷いた。レンジの悪業は、もはや隠しようがなかった。私は静かに彼を見つめる。「あなたが踏みつけてきた人たちが、今、声を上げています。」レンジはその場にへたり込んだ。
私は、レンジから剛造社長へと視線を移した。「さて、ここからはあなたの話です。柏山社長。」剛造がびくりと肩を震わせる。「私は何も…」「15年前、この会社に、藤崎苗という派遣社員がいました。」その名を口にした瞬間、剛造の顔色がはっきりと変わった。「よく気が付き、誰よりも会社を思う人だった。けれど、当時課長だったあなたは、彼女を人前で嘲笑い、追い出した。」会場の後方で、島田さんがそっと前へ歩み出た。「その現場に、私はいました。」彼は静かに、けれど確かな声で告げた。「『派遣ごときが口を出すな』。柏山さんはそう言って、あの人を切ったんです。」剛造の額から油汗が滲む。「む、昔の話じゃないか。もう、時効だ。」「人の尊厳に、時効はありません。」私は胸ポケットから、母のノートを取り出した。「その藤崎苗が、私の母です。」会場が大きくどよめいた。レンジが目を見開いたまま、私を見上げる。「じゃあ、さっきの親…?」「ええ、あなたが『碌な育て方してない』と笑った、その母です。」私は母のノートの最後のページを開く。「母は恨み言一つ残しませんでした。ただ、こう書いていた。」震える指で、その一行をなぞる。「人を肩書きで測る会社は、いつか肩書きに潰される。」会場は静まり返ったまま、誰も動けなかった。「その言葉が、今日、現実になるんです。」
レンジが突然、床に膝をついた。「待ってくれ。悪かった。謝る。だから、首だけは…」さっきまでの傲慢さは、跡形もなく消えていた。「金なら返す。全部返すから、頼む。」私はその姿を静かに見下ろした。「返せばいいという話ではありません。あなたが奪ったのは、お金だけじゃない。人の誇りと、時間と、涙です。」レンジは言葉に詰まり、項垂れる。剛造社長も、ふらつきながら頭を下げた。「藤崎さん…いや、代表。どうか、会社のことを考えて…」「会社のことを考えているからこそ、私は動いています。」私はきっぱりと言い切った。「腐った幹を残したまま、社員の未来は守れません。」
その時、会場の隅にいたみさきが、涙を浮かべて私を見ていた。私は彼女にそっと微笑みかける。「相澤さん、あなたの解雇は、取り消します。」みさきの目から、大粒の涙がこぼれた。「あなたのように、腐らず懸命に働く人こそ、この会社に必要です。」会場から微かな拍手が起こり、それは次第に大きくなっていった。社員たちの表情に、少しずつ光が差していく。長い間レンジに押さえつけられてきた者たちだった。私は改めて親子へ向き直る。「では、ここからはけじめの話です。」弁護士が最後の一枚をテーブルに置いた。そこには、この会社のこれからを決める文書があった。レンジと剛造の顔が、恐怖に引きつる。会場の空気が張り詰めていった。
弁護士が文書を読み上げた。「まず、柏山レンジ常務取締役の職を解き、懲戒解雇とします。」レンジの体がくずおれた。「業務上横領、総額1200万円については、本日付けで刑事告発いたします。」「そ、そんな…刑事って…」「証拠は全て揃っています。逃げ場はありません。」会計士が静かに頷いた。「さらに、下請け業者への強要行為についても、被害届が提出される予定です。」レンジは床にへたり込んだまま、壊れたように繰り返した。「終わった…俺の人生…。」「あなたが自分で終わらせたんです。」私は冷たく、けれど静かに告げた。レンジの悪評は、その日のうちに業界中へ広まった。コネで守られてきた男を、もうどこも雇わなかった。
続いて、私は剛造へ向き直る。「柏山剛造社長。あなたには、代表取締役の辞任を求めます。」「わ、私は横領などしていない。」「ええ。けれど、息子の不正を知りながら見て見ぬふりをした。監督責任は免れません。」剛造は力なく、その場に崩れ落ちた。「そして、15年前、母を追い出した、その責任も。」私の声に、剛造はもう何も返せなかった。その日、柏山剛造は辞任し、柏山家は経営から完全に手を引いた。親子は肩を寄せ合うようにして、会場を去っていく。かつて人を肩書きで見下した親子が、今、全ての肩書きを失っていた。母のノートのあの一行の通りに。会場に残された社員たちは、静かにその背中を見送っていた。
祝賀会から半年が過ぎた。名衛トレーディングは、新しい会社に生まれ変わっていた。派遣も正社員も、分け隔てなく評価される。人を肩書きではなく、仕事と誠実さで見る。それが、新しい社の理念になった。みさきは正社員に採用され、後輩の面倒をよく見る先輩になっていた。「藤崎さん、いえ、代表。私、この会社が大好きです。」そう言って笑う彼女の顔は、あの日涙を浮かべていた頃とは、まるで違った。島田さんは定年を延長し、若手に現場の技術を教えている。「藤崎さんのお母さんも、きっと喜んでるよ。」その言葉に、私はそっと頷いた。
ある晴れた日、私は母の墓の前に立っていた。胸ポケットから、あの古い名刺入れを取り出す。すり切れた革の内側に、母の走り書きがまだ残っていた。「肩書きよりも、優しさを忘れない人でいてね。」そうか。ノートの言葉の続きだったんだ。私はずっと、母の言葉を復讐の言葉だと思っていたけれど、違った。母が本当に残したかったのは、恨みではなく、願いだった。「お母さん、私、あなたの働いた会社を、あなたの願った場所に変えたよ。」墓標に、春の風が柔らかく吹き抜けていく。その風は、まるで母の返事のようだった。人を肩書きで測る者は、いつかその肩書きに潰される。けれど、人を大切にする者の元には、いつか大切な人が集まってくる。母が残したノートを胸に、私はまっすぐ前を向いて、歩き出した。



