窓口に座った若い女性行員の声が、途中でわずかに揺れた。俺が差し出した古い通帳の色あせた表紙を見つめたまま、彼女は顔を上げようとしない。何かまずいことでもあったのだろうか。俺は、亡くなった母が残した通帳から金を下ろせないかと思って来ただけだった。
「佐野です。佐野美和子。先日亡くなった母の名義で」
そう答えた瞬間だった。女性行員は小さく息を飲むと、椅子から立ち上がった。そして「少々お待ちください」とだけ言い残し、奥へ走っていった。
残された俺は、わけも分からず通帳を握りしめたまま立ち尽くすしかなかった。この日、この古びた一冊の通帳が、俺の知らなかった母の人生を少しずつ照らしていくことになる。
俺の名前は佐野渡。十九歳。半年前までは大学に行くつもりで机に向かっていた、どこにでもいる受験生だった。それが今はコンビニの夜勤と町場の日雇いをかけ持ちして、九歳の妹・咲と二人きりで暮らしている。父は七年前に病気で亡くなった。そして先月、母が亡くなった。
女手一つで俺と妹を育ててくれた母は、四十四歳の若さであっけなく逝ってしまった。大きなものは何も残らなかった。家賃の払えない古いアパートと、心細そうな顔をした幼い妹と、数えるほどの古い荷物だけだった。それでも、俺がやるべきことは一つだけはっきりしていた。この妹を何としても守り抜くこと。ただそれだけだった。
母が倒れたのはいつもの朝だった。その日も母はまだ暗いうちに家を出ようとして、玄関で急に頭を押さえてうずくまった。俺が気づいた時にはもう返事をしなかった。くも膜下出血というものだったらしい。病院に運ばれて二日後、母は静かに息を引き取った。最後まで、俺にも妹にも何ひとつ言い残すことはなかった。いつも通りの朝、いつも通りに家を出ようとして、そのまま帰ってこなかった。それが母の最後だった。
葬儀は質素なものだった。父の兄にあたる合造おじさんをはじめ、親戚は何人か来てくれたけれど、通夜の席で浴びせられたのは慰めの言葉ではなかった。
「全く、今頃になって急なことだな。お前、これからどうするつもりなんだ? 妹の面倒くらいお前が見るしかないだろう。うちだって余裕があるわけじゃないんだ。まあ、母親が残したものなんて、どうせ何もないだろうしな」
俺は膝の上で拳を握ったまま、何も言い返せなかった。言い返したところで、この人たちが妹を引き取ってくれるわけでもない。頼れる大人はどこにもいなかった。
母のわずかな貯金の中から葬儀代を払うと、手元にはほとんど何も残らなかった。親戚たちは葬儀が終わるのを待たずに、一人また一人と帰っていった。家に戻ると、咲が母の使っていた古いエプロンを膝に抱えて、ぽつんと座っていた。
「お兄ちゃん。お母さん、本当にもう帰ってこないの?」
「ああ」
「私、いい子にしてたら帰ってくるかな?」
「咲はずっといい子だよ。だから、そういうことじゃないんだ」
そう言うのが精一杯だった。九歳の妹に死というものをどう説明すればいいのか、十九歳の俺には分からなかった。
生活はその日から目に見えて苦しくなった。母のわずかな稼ぎで何とか回っていた暮らしは、その稼ぎが消えた瞬間に崩れ落ちた。家賃は先月分から滞っていた。俺は夜勤を増やし、休みの日は工場へ行った。それでも月末になると財布の中は心細くなった。妹には「大丈夫だ」と言った。だが、本当のところ、明日の飯をどうするかさえ俺には見えていなかった。
思えば母はいつも疲れていた。昼はスーパーの総菜売り場で働き、その前は駅の近くの小さな定食屋で長く働いていたと聞いている。母は自分のためにはほとんど何も買わなかった。夕飯の時、母がよく「母さんはお腹空いてないから」と言って、自分のおかずを俺と咲の茶わんに移していたことを、今になって思い出す。
正直に言えば、俺は母のことをどこか少し恥ずかしく思っていた時期があった。友達の親が綺麗な服を着て新しい車に乗っているのを見るたびに、いつも疲れた顔をして安売りの総菜を袋に詰めて帰ってくる母が、惨めに見えて仕方がなかった。中学の頃には「学校に来ないでほしい」とひどいことを言ったこともある。母はその時も怒らなかった。ただ「そうだね。ごめんね」と寂しそうに笑っただけだった。
母の手のこともよく覚えている。母の手はいつも荒れていた。指の関節はごつごつして、あかぎれがいくつもできていた。若い母の手とはとても思えなかった。台所に立つと、母はよくいつも多めにおにぎりを握っていた。俺が「こんなに食べないよ」と言うと、母は「いいの。誰かにあげるかもしれないから」とはぐらかすように言った。誰にあげるのか、俺は一度も聞かなかった。
思えば母には、俺の知らない時間がたくさんあった。休みの日でさえ、母は朝早くに家を出て行くことがあった。どこへ行くのかと聞いても「ちょっと人に会いに」とだけ言って、いつもの古いコートを羽織って出かけていく。帰ってくるのは大抵昼過ぎだった。手には空になった弁当の包みや小さな折り箱を持っていることもあった。
母が働いていたスーパーから電話がかかってきたのは、そんな日々の中でだった。母のロッカーに私物が残っているので、最後の給料と一緒に取りに来てほしいという。俺は学校が休みの咲を連れて、その店へ向かった。咲が毎日頭を下げて働いていた場所を、俺は一度も見たことがなかった。
店に着くと、総菜売り場は夕方の買い物客で賑わっていた。コロッケや煮物や揚げ物が湯気を立てて並んでいる。このひとつひとつを母が作っていたのだと思うと、不思議な気持ちになった。売り場の隅には小さな張り紙があった。手書きで「佐野さん ありがとうございました」と書かれ、その周りにたくさんの寄せ書きが添えられていた。「美和子さんの煮物、また食べたかったです」「いつも助けてくれてありがとう」。そのひとつひとつを読むうちに、俺の目はじわりと熱くなった。ここにも、俺の知らない母がいた。
総菜売り場の裏の狭い事務所に通された。出てきたのはチーフの本田さんという中年の男の人と、母と同じ売り場で働いていた吉江さんというパートのおばさんだった。吉江さんは俺と咲の顔を見るなり、目をうるませた。
「あなたたちが美和子さんの…まあ、こんなに大きくなって。咲ちゃんは写真で何度も見せてもらってたのよ」
「母がお世話になりました」
俺が頭を下げると、吉江さんは慌てたように首を振った。
「お世話だなんてとんでもない。お世話になってたのはこっちの方よ。美和子さんはね、この売場のみんなのお母さんみたいな人だったの」
吉江さんは母の思い出をぽつぽつと話してくれた。新しく入ってきたパートさんが仕事を覚えられずに落ち込んでいると、母はそっと横について根気よく教えていたこと。誰かが体調を崩して休むと、母が黙ってその人の分まで働いていたこと。
「私ね、去年主人が入院して家計が本当に苦しかった時期があったの。そしたら美和子さん、何も言わずに総菜のあまりを『これ、捨てるだけだから持って帰って』って、毎日持たせてくれてね。あれでどれだけ助かったか」
俺はうつむいたまま聞いていた。俺の知らない母がそこにいた。
「みわ子さんは朝も早かったなあ」
チーフの本田さんが口を開いた。
「うちの開店より随分早く来てね。でも、その前にもどこかに寄ってるみたいだったよ。いつもおにぎりをいくつも持ってね。『誰かに届けてるんですか?』って言ったら、笑ってごまかしてたけど」
おにぎりという言葉に、俺は顔を上げた。家で母がいつも多めに握っていた、あのおにぎりだ。母は誰にあげるとも言わずに、毎朝それをどこかへ届けていたのか。その誰かが誰なのか、俺には検討もつかなかった。
俺は思い切って吉江さんに聞いてみた。
「あの、母は台用金庫っていう信用金庫に口座を持っていたんです。かなり遠いのに…何か知りませんか?」
吉江さんは少し考えてから答えてくれた。
「詳しくは知らないけどね。美和子さん、昔から桜台の辺りでずっと働いてたのよ。あなたが生まれるよりもっと前から。あの信用金庫の人たちとも、その頃からの長い付き合いみたいだったわ。あの人にとっては、大事な場所だったんじゃないかしら。行けば、あなたの知らないお母さんのことも少しは分かるかもしれないわね」
その言葉が、なぜか俺の胸に引っかかって離れなかった。母が俺の生まれる前から働いていた町。母の大事な人たちがいる場所。知りたいと思った。同時に、少し怖くもあった。俺の知らない母を知ることは、俺がどれだけ母を見ていなかったかを思い知ることでもあるからだ。それでも俺は決めていた。あの通帳を持って、桜台へ行こう。
家に帰ると、咲は母のエプロンをつけた自分の絵を一枚描いた。拙い絵だったけれど、そのエプロン姿はどこか母によく似ていた。
「お兄ちゃん、この絵、母さんの仏壇に飾ってもいい?」
「ああ、母さん喜ぶよ」
帰り道、咲は母のエプロンを大事そうに抱えていた。
「お母さん、すごい人だったんだね」
「ああ、そうだな」
「私、大きくなったらお母さんみたいになれるかな?」
「なれるさ。咲は母さんに似てるから」
思い出に浸っていられる時間は長くは続かなかった。月末が来た。家賃の催促は、とうとう「これ以上お支払いがない場合は」というきつい文に変わっていた。電気料金の紙も赤い字で印刷されていた。俺のわずかな稼ぎでは、二つを同時に払うことはできなかった。結局俺は電気代を先に払い、大家さんに家賃をもう少し待ってほしいと頭を下げた。大家のおばあさんは何も言わずに、ただ「無理しなさんな」とうなずいてくれた。
ある夜のことだった。俺が台所でうつむいていると、寝ていたはずの咲が起きてきて隣に立った。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ」
「お兄ちゃんも『大丈夫』っていう。お母さんと同じ」
どきっとした。
「あのね、お母さんもしんどい時、いつも『大丈夫』って言ってたの。でもね、私知ってたよ。お母さん、本当は大丈夫じゃない時もあったって」
俺は言葉に詰まった。
「だからお兄ちゃんも無理しないでね。しんどい時はしんどいって言っていいんだよ」
その言葉に、こらえていたものが溢れそうになった。守っているつもりで、俺はこの子に守られていた。
そんなある夜、家に合造さんがやってきた。葬儀の日以来だった。あの時俺たちを見捨てるように帰っていった叔父が、今更何の用だろう。
「よう、どうだ? うまくやってるか?」
「なんとかやってます」
「なんとか、ねえ。無理するなよ。そこらのお前が妹一人養うなんて、大無理な話なんだよ」
叔父は部屋の中を見回した。
「なあ、渡る。咲はうちで預かってやろうか。うちなら飯も食わせてやれるし、学校にもちゃんと通わせてやれる。お前も自分一人なら、いくらでも身軽に働けるだろう」
「いえ、咲は俺が育てます」
「強がるな。お前に何ができる? この家賃も払えないようなボロアパートで妹を飢えさせる気か? なあ、悪いようにはしない。咲をうちで引き取れば、児童手当だってこっちで受け取れる。お前も仕送りの一つもしなくて済むんだ。お互い、その方が楽だろう」
「手当て」という言葉に、俺はかすかな引っかかりを覚えた。
「すみません。でも、咲とは離れません」
「ふっ、まあいい。せいぜい、いつまで持つかな」
叔父は鼻で笑って帰っていった。その背中を見送りながら、俺の中で何かが音を立てて崩れそうになっていた。それでも俺は思った。あの日母の葬儀で俺たちを見捨てるように帰っていったのは、あの人たちだ。困っている時には指一本貸そうとしなかった。それが今更、咲を引き取るだと。虫のいい話だった。
翌朝、隣の部屋の大家のおばあさんが握り飯を届けてくれた。
「渡るくん、あんたちゃんと食べてるのかい? 無理しなさんな」
「ありがとうございます」
「困った時はお互い様だよ。あんたのお母さんにも随分よくしてもらったからね。あんたのお母さんはね、この辺りでも評判のいい人だったよ。自分だって大変だろうに、うちの前の掃除までしてくれたりね。困ってる人を見ると、ほっとけない人だった。あんたもあの人の子だ。きっと大丈夫だよ」
その言葉がじんわりと心に染みた。その握り飯を咲と二人で分けて食べた。温かかった。
俺は仏壇の前に座り、母の写真に語りかけた。
「母さん、俺どうすればいいのかな? このままじゃ咲を守ってやれない」
写真の母は、いつものように少し困った顔で笑っているだけだった。答えは帰ってこない。それでも俺は母に問いかけずにはいられなかった。
「母さんなら、こんな時どうする? 母さんはどうやってこの暮らしを支えてきたんだ?」
その時、ふと母の声が聞こえた気がした。「本当に困った時だけ」。通帳のあの字だった。もう先延ばしにはできなかった。今が、まさにその「本当に困った時」だった。
俺は茶封筒から通帳を取り出し、それを握りしめた。
「咲、ちょっと出かけてくる。母さんの通帳のお金を下ろしてくるよ」
「うん。行ってらっしゃい。お母さんにありがとうって言っといてね」
咲のその言葉に小さくうなずいて、俺は家を出た。バスに揺られて、町の反対側にある大和信用金庫を目指した。母がなぜか大切にしていた、あの遠い信用金庫へ。
バスに揺られること四十分ほどかかった。桜台という町は、古い商店街の残る小さな町だった。大和信用金庫桜台支店は、商店街の外れにある古びた二階建ての建物だった。自動ドアをくぐると、こぢんまりとしたロビーに数人の客がいた。俺は番号札を取って順番を待った。通帳を握る手が少し汗ばんでいた。
俺の番号が呼ばれた。窓口には若い女性の行員が座っていた。名札には「立花」と書かれている。柔らかい笑顔の、感じのいい人だった。
「お待たせしました。本日はどのようなご用件でしょうか?」
「あの、この通帳のお金を下ろしたいんです。それと、解約もお願いできますか?」
俺は母の通帳を窓口に差し出した。立花さんは通帳を受け取り、機械にかけようとして、その手が止まった。表紙の名義の欄を見ている。美和子という、母の名前を。その瞬間、立花さんの表情が変わった。柔らかかった笑顔がすっと消え、代わりに何かに驚いたような、信じられないような色が浮かんだ。
「あの、失礼ですが、この通帳のお名前をもう一度伺ってもよろしいですか?」
立花さんの声が途中でわずかに揺れた。
「佐野です。佐野美和子。先月亡くなった母の名義で」
そう答えた瞬間だった。立花さんは小さく息を飲んだ。そして椅子から立ち上がると「少々お待ちください」とだけ言い残し、奥へ走っていった。残された俺は、わけもわからず通帳を握りしめたまま立ち尽くすしかなかった。
一体何が起きたのだろう。母の名前を見た途端のあの反応。俺の頭に嫌な想像が次々と浮かんだ。もしかして母はこの信用金庫に何か借金でもしていたのだろうか。そう思うと背筋が冷たくなった。最悪の想像ばかりが頭を巡った。借金の取り立て、差し押さえ。母が残したものは、実は負の遺産だったのかもしれない。
窓口の奥では、何やらざわめきが起きているようだった。立花さんが年配の行員に何かを必死に伝えている。その行員が目を見開いてこちらを見た。奥のデスクにいた人たちが、一人また一人と手を止めて立ち上がっていく。一人の年配の行員がこちらを見て、口元を手で覆った。まるで泣くのをこらえているようだった。
何かがこの信用金庫の空気を、静かにそして確かに変えていた。その中心に、俺の差し出した母の通帳があった。俺はたまらない気持ちでうつむいた。何が起きているのかさっぱりわからない。ただ、これだけの大人たちが母の名前一つで、こんなにも心を動かされている。その事実だけは、はっきりと伝わってきた。
やがて奥のドアが開いた。先頭に立っていたのは、白髪の混じった物腰のいい年配の男性だった。仕立てのいいスーツを着て、胸には「支店長」という名札をつけている。その人はまっすぐに俺の方へ歩いてきた。そして俺の前に立つと、がばっと頭を下げた。釣られるように、後ろの者たちも一斉に腰を折った。
「あなたが佐野美和子さんの息子さんですか?」
頭を垂れたまま、支店長が絞り出すように言った。その声は震えていた。頭を上げたその人の目は赤くにじんでいる。
「はい、佐野渡です。美和子の息子です」
俺が答えると、支店長はもう一度深く頭を垂れた。
「篠原と申します。この桜台支店で支店長をしております。美和子さんがお亡くなりになったと伺いました。私たちはそのことをつい先日知ったばかりで、お参りにも行けず、本当に申し訳ないことをしました」
俺はわけが分からなかった。どうしてこの人たちが、母の死をこんなにも悲しんでいるのだろう。
「あの、母が何かご迷惑をおかけしたんじゃ…」
俺が恐る恐るそう聞くと、篠原さんは驚いたように顔を上げた。
「迷惑だなんて、とんでもない。逆です。私たちは美和子さんに、返しても返しきれないほどの恩があるのです。この支店にいる者みんな、美和子さんに助けられてきました」
その言葉に、俺は頭が真っ白になった。母がこの人たちを助けた? あの、いつも疲れて貧しくて、弱音ひとつ吐かなかった母が? 俺の混乱をよそに、行員たちが口々に母のことを話し始めた。一人一人の目に涙が浮かんでいた。
最初に俺に応対した立花さんが、涙を拭いながら前に出た。
「私、この信用金庫に入ってすぐの頃、大きなミスばかりしてもうやめようって、毎日泣いていた時期があったんです。そんな時も声をかけてくださったのが、美和子さんでした。ここに来られるたびに、私におにぎりを一つ握って持ってきてくださって。『大丈夫。あなたならできるから』って。何度も何度も。あの言葉とあのおにぎりがなかったら、私はとっくにやめていました」
俺は何も言えなかった。「大丈夫」。それは母が俺や咲にも、いつもかけてくれた言葉だった。母は家の外でも、同じ言葉と同じおにぎりで、こうして誰かを支えていたのだ。
篠原さんは壁際の棚から、一枚の古い写真を持ってきた。
「これを見ていただけますか?」
そこに映っていたのは、二十数年前のものだろうか。若い行員たちに囲まれて、一人の女性が笑っていた。エプロン姿で大きなおにぎりの包みを抱えている。母だった。今よりずっと若いけれど、紛れもなく母の顔だった。俺の知らない、二十代の母が、そこにいた。
「この写真は、ずっとこの支店に飾ってあります。私たちにとって、美和子さんはそれくらい大切な方なのです」
俺はその写真から目が離せなかった。こんな母の顔を、俺は見たことがなかった。家ではいつも疲れて眉間にしわを寄せていた母が、ここではこんなにも幸せそうに笑っている。喉の奥が詰まった。
篠原さんは俺を奥の応接室へ案内してくれた。篠原さんは静かに話し始めた。
「美和子さんはね、いつもこうおっしゃっていました。『困っている人を見て見ぬふりだけはできないでしょう』と」
その言葉に、俺ははっとした。それは母が俺にも言っていた言葉だった。家でも外でも、母は同じ思いで生きていた。
「美和子さんはご自分のことは、ほとんど話されませんでした。でも一度だけ、こぼされたことがあります。『うちの子たちには寂しい思いをさせてるの。だからせめて、よそのお子さんや困ってる人には優しくありたいの』って」
その言葉に俺はした。母は俺たちに寂しい思いをさせていると気にしていた。だから、あんなに他人に優しかったのか。
気づけば俺は篠原さんに、全てを打ち明けていた。母が残した通帳を叔父が狙っていること。叔父が咲の後見人になろうとしていること。俺が十九歳で定職もなく、このままでは妹も通帳も奪われかねないこと。情けなくて、涙が出た。
篠原さんは俺の話を最後まで静かに聞いてくれた。そして聞き終えると、その顔にこれまでとは違う厳しい色が浮かんだ。
「そうですか。そういう方が現れましたか。美和子さんがあんなに大事に残されたものを、そんな形で奪おうとする人がいるとは。渡るさん、一つ聞かせてください。あなたは妹さんを、これからもご自分で育てていきたい。そうお考えですね」
「はい。当たり前です。咲は母さんが命がけで守った子です。俺が守ります」
篠原さんは深くうなずいた。
「わかりました。それを聞けてよかった。実はね、美和子さんはこの通帳を、あなた方お二人以外の手に決して渡らないように、ある準備をされておられました。その話も含めて、全てお話しします」
篠原さんはしばらく何かを考えるように黙っていた。そして、ゆっくりと話し始めた。
「二十年近く前のことです。私はある大きな銀行の本店にいました。融資の担当としてそれなりに油の乗った時期でしたが、ある時、私が目をかけていた一つの会社が倒産しましてね。私が大丈夫だと信じて多額の融資を通した会社でした。その焦げ付きの責任を、私は一身に追わされました。役職を外されました。同僚は潮が引くように私から離れていきました。おまけにその信用がたたって、妻ともうまくいかなくなり、その頃の私は家庭も仕事も、何もかも失いかけていました。毎日が真っ暗でした。生きている意味なんて、これっぽっちも感じられなかった」
篠原さんの声は静かだったが、その奥には二十年経っても消えない痛みが滲んでいた。
「お恥ずかしい話ですが、私はある日、この桜台の川にかかった橋の上に立っていました。命に手をかけて、もういいだろうと。そう思ったその時でした。後ろから声をかけられたんです。『お兄さん、そんなところで何してるの? 危ないよ』って。振り返ると、若い女の人が立っていました。美和子さんでした。美和子さんはまだ随分お若かった。二十四だったでしょうか。この桜台の小さな定食屋で働いておられました。夜勤明けだったのか、疲れた顔をして。それでもその目は、まっすぐに私を見ていました。私は『放っておいてくれ』と突き離しました。『あんたに何がわかる』と。それでも美和子さんは、私の腕を離しませんでした。『分からない。分からないけど、あなたが今ここで死んだら、明後日、私が絶対に後悔するから』って」
俺は息を飲んだ。
「美和子さんは私を、自分の働く定食屋に連れて行ってくれました。そして温かいご飯と味噌汁を出してくれた。『とりあえず食べて。辛い話はお腹いっぱいになってからでいいから』って。私はその湯気の立つご飯を見た瞬間、ぼろぼろ泣きました。何日ぶりかのまともな食事でした。私は『どうしてこんな見ず知らずの落ちぶれた男にそこまでしてくれるのか』と聞きました。そうしたら美和子さんは笑って、こう言ったんです。『放っておけないんだから、しょうがないでしょう。私も昔困った時に、知らない人に助けてもらったことがあるの。だから順番に返してるだけ』って」
その言葉に、俺は聞き覚えがあった。母が俺に言った、あの言葉。「母さんも昔、そうやって誰かに助けてもらったことがあるから」。母が返し続けていたその「順番」の一番先にいたのが、この篠原さんだったのだ。
「それから美和子さんは、毎朝私におにぎりを握ってくれました。仕事を探しに行く私に、『これ食べて、頑張っておいで』って。そのおにぎりの温かさだけが、あの頃の私のたった一つの支えでした。半年ほどかかりました。私は少しずつ立ち直って、別の信用金庫に拾ってもらいました。そこから必死に働きました。もう一度、人に信じてもらえる人間になりたくて。立ち直った私は、美和子さんに恩を返させてほしいと頼みました。お金でも何でも、できることは何でもすると。でも美和子さんは、受け取ってくれませんでした。その代わりに、こう言ったんです」
篠原さんの声が震えた。
「『じゃあ、一つだけお願いしていい? 私、いつか子供を持つの。その子たちがいつか本当に困る日が来るかもしれない。私がそばにいてやれない日が来るかもしれない。その日が来たら、その時だけ、この子たちを助けてやってくれませんか』って。私はその言葉を、一生忘れません。自分のことじゃないんです。まだ生まれてもいない我が子のことを、あの人はその時もう案じていた。私は約束しました。ならずっと。その約束が、私に生きる理由をくれたんです」
俺は声も出せなかった。母は俺たちのために、こんな昔から、こんな立派な人を味方につけていてくれたのか。「本当に困った時だけ」。通帳の表紙のあの文字が、俺の頭の中で母の声と重なった。
「美和子さんはこの桜台支店に口座を作りました。そして子供が生まれる前から、その口座にこつこつとお金を貯め始めたんです。いつか生まれてくる我が子が困った時のために。私は、美和子さんとのその約束を守るために、何年もかけて希望を出し続けて、この桜台支店に支店長として戻ってきました。美和子さんが戻って来た時は、それはもう喜んでくださいました。『まあ、あなた店長さんになったの? すごいじゃない』って、自分のことのように」
篠原さんはふと目を伏せた。
「最後にお会いしたのは、亡くなる一ヶ月ほど前でした。少しお疲れのようでしたが、いつもの笑顔で、『息子がこの春、大学生になるのよ』って嬉しそうに話しておられました」
俺はした。俺は結局、大学には行けなかった。母は俺が大学に行くものだと信じて、この人に自慢していてくれたのか。
「あの時、美和子さんは帰り際に私に言い残されました。『篠原さん、私にもしものことがあったら、あの子たちのこと、その時だけお願いね』って。まさかそれが本当に最後になるとは」
母はどこかで感じていたのだろうか。自分に残された時間がもう長くないことを。だからあんな風に念押ししていったのだろうか。考えても答えは出なかった。ただ、母が最後の最後まで俺たちのことを案じてくれていたことだけは、確かだった。
「この支店の人間がみんな美和子さんを慕っているのは、恩があるからだけじゃありません。美和子さんの生き方に、私たちは憧れていたんです。あんな風に見返りも求めず、人に優しくできる人になりたいと。あなたのお母さんは、私たちの誇りでした」
俺は顔を手で覆った。これが、恥ずかしいと思っていた母。「学校に来ないで」と突き離した母。その母は、こんなにも立派な人だった。
「渡るさん、あなたがご自分を責める必要はありません。美和子さんは一度もあなたたちを恨んだことなんて、ありませんでした。それどころか、あなたと妹さんの話をする時、美和子さんはこの世で一番幸せそうな顔をして、おられましたよ」
「でも、俺にはそんな資格…」
「いいえ。美和子さんが命を削ってまで守りたかったのは、あなたたち二人です。あなたが自分を責めてうつむいてしまったら、美和子さんのその思いが報われません」
その言葉に、俺は顔を上げた。
「篠原さん、どうして母は俺たちに何も言わなかったんでしょうか? こんなすごいこと、少しくらい自慢したって良かったのに」
篠原さんは少し考えて、こう言った。
「美和子さんは多分、自慢や恩着せがましさとは一番遠いところにいた人です。人に優しくするのは、あの人にとっては、息をするのと同じくらい当たり前のことだったんでしょう。それに、きっとあなた方には、そういう自分を見せる必要がなかったんですよ。家ではただのお母さんでいたかった。それだけで良かったんだと思います」
数日後、俺は咲の手を引いて、再び桜台支店を訪れた。篠原さんが母から預かったという一通の封筒を持ってきた、その時だった。支店の自動ドアが乱暴に開いた。
「おい、渡る。やっぱりここにいたか」
合造おじさんだった。叔父はずかずかとロビーに入ってくると、大声でまくし立てた。
「話は聞いたぞ。ここに美和子さんの通帳があるんだってな。おい、あんたら銀行の人。その通帳の金は俺が管理する。俺はこの子たちの後見人になる男だ」
ロビーがしんと静まった。咲が怯えたように俺の後ろに隠れた。俺はとっさに咲を守るように抱き寄せた。
「お前は黙ってろ。まだ若いお前に金の管理なんかできるわけがないだろう。妹のためにも、大人の俺が預かってやるって言ってるんだ。家族なんだから、当然だろうが」
俺は体が震えた。またこの人は、咲と金を奪おうとしている。何か言い返さなければと思うのに、言葉が出てこなかった。情けなかった。あれだけ咲を守ると誓ったのに、俺はこの叔父一人に言い返すこともできない。十九歳の俺には、権威も金も後ろ盾も、何もなかった。
その時だった。篠原さんが静かに俺と咲の前に進み出た。そして合造おじさんとまっすぐに向き合った。
「お客様、少しよろしいですか?」
その声は静かだったが、反論を許さない重みがあった。
「申し訳ございませんが、この通帳はお母様がこちらのお二人のお子様のためだけに残されたものです。他のどなたにもお渡しすることはできません」
「なんだと? こっちは親族だぞ。血のつながった叔父だ。その俺が管理するのが筋だろうが」
篠原さんは表情を変えなかった。
「いいえ。お母様が最後まで守ろうとされたのは、失礼ながらあなたではありません。このお二人のお子さんです」
その一言に、合造さんの顔が赤黒く染まった。
「き、貴様、銀行の分際で俺に指図する気か?」
「指図ではありません。事実を申し上げているだけです」
篠原さんは一枚の書類を取り出した。
「お母様はきちんとした遺言を残されています。遺言書と言います。財産は全て渡るさんと咲さんに。そしてそこには、お母様のはっきりとしたお気持ちもしたためられています。『子供たちのことは兄である渡に託したい。他の親族の世話にはならせたくない』と」
「そ、そんなの、まやかしだ!」
「ワさんが妹さんの未成年後見人になるための申し立てには、私ども大和信用金庫とこの桜台支店の者一同が、全力で後ろ盾になります。渡るさんには当金庫で働いていただくお話も進めています。安定した仕事、住まい、そして支えてくれる大人。家庭裁判所が求めるものは、全て私たちが揃えます」
俺は耳を疑った。仕事。後ろ盾。俺が喉から手が出るほど欲しかったもの。それを篠原さんは、差し出してくれた。この人は会ったばかりの俺のために、どうしてここまでしてくれるのか。いや、違う。この人は俺のためじゃない。母のためにしてくれているのだ。二十年前に自分を救ってくれた、あの人への恩を、今こうして返そうとしている。
「ですから、どうぞお引き取りください。あなたの出る幕は、ここにはございません」
合造おじさんはぶるぶると震えていた。周りを見渡すと、行員たちがみんな冷ややかな目で叔父を見ていた。叔父は捨て台詞を吐いて、逃げるように支店を出ていった。
俺が呆然としていると、篠原さんが優しく微笑んだ。
「お待たせしました。これが、美和子さんからお預かりしていた手紙です」
篠原さんはあの封筒を俺に手渡した。中には、母のあの几帳面な字で、びっしりと書かれた紙が数枚入っていた。俺は咲と身を寄せ合って、その手紙を読んだ。
「渡、咲へ。この手紙をあなたたちが読んでいるということは、母さんはもうそばにいないのですね。ごめんね。もっと長く一緒にいたかった。母さんはあなたたちに、大きなものは何も残してあげられません。お金も家も、立派なものは何も。でも、二人が明日を諦めなくてもいいように、少しずつ少しずつ貯めてきたものがあります。桜台の信用金庫に。困った時は、あの通帳を持ってあの町に行きなさい。きっと母さんのことを覚えていてくれる人がいます。お母さんは一人であなたたちを育てたんじゃない。たくさんの人に助けられて支えられて、ここまで来ました。だからあなたたちも、一人で抱え込まないで。困ったら、人を頼りなさい。そしていつか余裕ができたら、今度はあなたたちが困っている誰かに手を差し伸べてあげて。それが母さんの、たった一つの願いです。渡、咲を頼みます。咲、お兄ちゃんを支えてあげてね。二人が笑って生きていってくれること、それだけが母さんの幸せです。母より」
読み終えた時、俺の頬は涙でぐしゃぐしゃになっていた。母は死ぬ前から、ずっと考えてくれていた。自分がいなくなった後、俺たちがどうやって生きていくのかを。
「お兄ちゃん、お母さん、いなくなってもずっと私たちのこと、守ってくれてたんだね」
咲が俺の手をぎゅっと握った。
「ああ、そうだな。母さんは最後まで、俺たちの母さんだったよ」
その言葉を言った瞬間、俺の中で何かが解けた。母を失ってからずっと、一人で背負ってきたもの。それが母の手紙の温かさの中で、静かにほどけていった。
それから、俺と咲の生活は少しずつ変わっていった。篠原さんは約束通り、俺が咲の未成年後見人になるための手続きを手伝ってくれた。母の遺言書、信用金庫の全面的な後ろ盾、そして桜台支店のみんなの証言。家庭裁判所は、俺を咲の後見人として認めてくれた。合造おじさんは、あの後二度と姿を見せなかった。
俺は篠原さんの計らいで、その大和信用金庫で働かせてもらえることになった。最初は雑用ばかりだったけれど、生まれて初めての安定した仕事だった。夜勤のかけ持ちでぼろぼろになっていた体に、ようやく人間らしい生活が戻ってきた。立花さんが俺の教育係になって、根気よく教えてくれた。
仕事に慣れてきた頃、俺は窓口であることに気づくようになった。お金の相談に来る人の中には、あの頃の俺のように追い詰められた顔をした人がいる。そういう人の話を、俺はできるだけ丁寧に聞くようにした。母がそうしていたように。
引っ越しもした。桜台に近い小さなアパート。古いけれど日当たりのいい二部屋。咲は大喜びだった。
「お兄ちゃん、ここ、日がいっぱい入るね」
「ああ。これで咲も明るいところで絵がかけるな」
ある休みの日、俺は咲を連れて母の墓を訪れた。
「母さん、俺、桜台の信用金庫で働くことになったよ。咲も元気に学校に通ってる。母さんが俺たちのために残してくれたもの、全部受け取ったよ。お金だけじゃない。母さんがどんな風に生きてきたのかも。俺、ずっと母さんのこと恥ずかしいなんて思ってて、本当にごめん。母さんは俺の自慢の母さんだ。今は心からそう思う」
風がふっと吹いた。線香の煙が、俺と咲の方へ優しく流れていった。
「お兄ちゃん、お母さん、来てくれたのかな?」
「ああ、きっとそうだな」
咲は母の墓に、自分の描いた絵をそっと添えた。母の笑った顔の絵だった。
それから数年が過ぎた。咲は中学生になった。母の絵を描いていた小さな女の子は、すっかり背が伸びて、絵の道を本気で目指すようになっていた。俺はあの信用金庫で、今も働いている。咲は絵本作家になりたいと言うようになった。
「あのね、私、優しい人が出てくる絵本を書きたいの。困ってる人にそっと手を差し伸べる人のお話」
それが誰のことを思い描いているのか、俺には聞くまでもなかった。咲の描く絵の中には、いつもどこかにエプロン姿の優しい女の人がいた。母のあの通帳は、今も大切にとってある。残高はもうほとんどない。俺と咲のこれまでの暮らしを支えるために使わせてもらったからだ。けれど、俺はこの通帳を手放す気はなかった。これは、母が俺たちに残してくれた一番の宝物だった。
母が残してくれたものは、もう一つある。それは、俺自身の生き方だ。母を知って、俺は変わった。人の痛みに目を向けられる人間に、少しでもなりたいと思うようになった。
ある年の春だった。俺は咲と二人で桜台を訪れた。今度は助けてもらうためではない。篠原さんに、一つ相談したいことがあったのだ。
「篠原さん、俺、母の名前で小さな基金を作りたいんです」
「基金ですか?」
「はい。母みたいに、困っている子供たちを少しでも支えられるような。俺たちが母に助けられたみたいに。今度は俺たちが、誰かを守る番だと思うんです」
篠原さんはしばらく俺を見つめていた。それから大きくうなずいて、目をうるませた。
「美和子さんが聞いたら、どんなに喜ばれるか。わかりました。私もこの支店も、全力でお手伝いします。いえ、手伝わせてください。それが私たちが美和子さんに恩を返せる、たった一つの方法ですから」
基金のお披露目の日には、たくさんの人が集まってくれた。篠原さんはもちろん、立花さんも水野さんも、あの日母の思い出を語ってくれた行員たちも、総菜屋の吉江さんや、握り飯を届けてくれた大家のおばあさんまで駆けつけてくれた。みんな、母にどこかで支えられた人たちだった。母がその生涯をかけて、一人また一人と結んできた縁。その縁が、今、母の名前の元にこうして集まっていた。
会場には、あの母の若い頃の写真を飾らせてもらった。おにぎりの包みを抱えて笑う、二十代の母。その隣に、咲が母の似顔絵を添えた。そして咲がみんなの前で、小さな声で挨拶をした。
「お母さんは、いつも困ってる人に優しくしてました。だから私たちも、お母さんみたいになりたいです。この基金で、たくさんの人が笑ってくれたら嬉しいです」
たどたどしい挨拶に、会場から温かい拍手が起こった。俺はその光景を少し離れたところから見ていた。母が蒔いた種が、こうして花を咲かせている。
基金が最初に手を差し伸べたのは、母親を病気で亡くしたばかりの幼い兄弟だった。そのうつむいた心細そうな顔を見た時、俺はあの日の自分と咲を見ているようだった。俺はその子たちに温かいご飯を食べさせてやった。そして言った。
「一人で抱え込まなくていいんだ。困った時は、頼っていいんだよ」
これは、かつて母が俺たちに残してくれた言葉だった。母から俺へ、そして俺からこの子たちへ。母の優しさは、確かに次の手へと渡っていく。その連鎖の真ん中に、今、俺は立っていた。
帰り道、咲がふと俺の手を握った。
「お兄ちゃん、私、お母さんの子供でよかった」
「ああ、俺もだよ」
そう、俺は心からそう思えた。あんなに恥ずかしいと思っていた母が、今は俺の一番の誇りだった。母はもういないけれど、母の優しさは桜台のあの人たちの中に残っている。母が残したあの通帳の中に残っている。そしてこれから、母の名前の基金が救っていくたくさんの子供たちの中に、これからもずっと残っていく。
母さん、ありがとう。俺はあの日言えなかった言葉を、今、まっすぐに伝えられる。母は最後まで、そしてこれからもずっと、俺たちの母さんだ。



