娘の小さな口から飛び出した言葉に、私は心臓が止まるかと思った。
「あの子、パパと寝てた。」
場所はいつもの公園。最初はただの子供の勘違いだと思った。
「寝てたって、どういうこと?」
笑い飛ばそうとしたのに、娘の顔は真剣そのものだった。小さな手を握りしめ、震える声で言う。
「パパのタブレットで見たんだよ。本当に、あの子と寝てたんだもん。」
その瞬間、時間が止まった。タブレット、写真、そして心の奥で何かが崩れていく音がした。
「どこで見たの?どんな写真だったの?」
必死に問い詰める私の声に、娘の肩が震える。
「お布団の中で、パパと知らない女の子が一緒に寝てる写真。パパのタブレットの中にあったの。」
背筋が凍った。そういえば、最近、家事で手が離せない時、夫はよく娘にタブレットで動画を見せていた。あのタブレットに、そんなものがあったなんて。
「パパは私が動画見てる時、テレビ見てたの。私、間違ってパパの写真がいっぱい映ってるところ見ちゃって。」
娘は、知るべきではなかった何かを、そこで見てしまったのかもしれない。そして私は、見たくなかった現実と向き合うことになる。
私は白田綾音。数年前、会社の同期だった白田信雪と出会った。彼は仕事熱心で気さくな人柄で、最初はただの同僚だった。けれど、いつしか一緒にいる時間が心地よくなり、互いに惹かれ合い、やがて交際が始まった。
「俺たちって、気が合うと思わない?」
「うん。私も同じことを感じてた。」
そして私たちは結婚し、翌年には娘を授かった。悩んだ末に私は会社を辞め、専業主婦になることを選んだ。
「しばらくは専業主婦になろうと思うの。キラが生まれたから、ちゃんと育てたいし。」
「そうか。俺もサポートするよ。2人の生活を守っていくからね。」
娘のキラは、生まれた瞬間から私の心を震わせるほど愛しかった。育児は大変だったけれど、信雪は夜に付き合うなど積極的に協力してくれた。初めてキラを連れて実家に行った時、元警察官の父は懐かしそうに目を細めた。
「いつの間にか、母親になったんだな。」
現役の刑事である妹の佳香も、柔らかな笑みを浮かべながら続ける。
「今度、子守りを手伝うよ。」
私は思わず微笑みながら答えた。
「みんなに見守ってもらえて、心強いよ。」
「当然だよ。家族なんだから、協力しないとね。」
キラがハイハイを始め、初めて言葉を発するたびに、夫婦で喜び合った。何気ない日常こそが宝物だった。そして、キラが4歳になった頃のことだった。
「信雪、最近随分と花に凝ってるのね。何かあったの?」
そう声をかけたのは、それまで花にまるで興味のなかった信雪が、突如として毎日花束を買ってくるようになったからだ。花は色とりどりで、リビングに飾れば部屋は一気に華やいだ。私はその優しさを素直に受け取りつつも、どこか腑に落ちない違和感を拭えなかった。
「ねえ、どうして急に花なんて?前はあまり気にしてなかったでしょ。」
「気まぐれみたいなものさ。綾音が喜ぶと思ってやってるだけだよ。」
その言葉に悪意は感じない。けれど、その穏やかな時間の裏側に潜む不穏な空気を、私はなぜか感じ取っていた。
数日が過ぎたある朝のことだ。私はいつものようにパートへ向かおうと自転車に跨った。ところが、ブレーキレバーを握っても手応えがまるでない。ブレーキがかからず、私は慌てて車体を止めた。見てみると、ワイヤーが完全に切断されていたのだ。
「どうしてこんな状態になったんだろう。乗る前に気づいてよかったけれど……」
パンクや錆のせいならともかく、ワイヤーが綺麗に切られている。いたずらにしては危険すぎる。私は恐怖に襲われた。帰宅後、信雪に自転車のことを話してみたが、彼は気にも留めていない様子だった。
「どうせ誰かのいたずらだろう。」
そう言って軽く笑われると、私の中にあった不安も口に出せなくなってしまった。
しかし、数日もしないうちに、また不可解な出来事が起きた。今度は車の警告灯が点灯したのだ。慌てて車を止めてボンネットを開けてみると、ブレーキオイルが漏れていた。これも何者かが意図的にやったとしか思えない状況だった。2度目となると、さすがに恐怖が増していた。恐る恐る信雪に報告しても、彼はただ苦笑いを浮かべるだけで、真剣に取り合ってくれない。私はそんな信雪の態度に、不審を抱き始めた。
ブレーキオイルの出来事から数日後、特に変わったことは起こらず、私もいつもの日常に戻りつつあった。最近はパート先が忙しくなり、キラの送り迎えを父にお願いしている。元警察官の父は、幼稚園の先生や他の保護者たちからの信頼も厚かった。その日もパートを終えて家に帰ると、父が難しい顔で待っていた。
「お父さん、どうしたの?」
「ちょっと妙な話を聞いたんだよ。幼稚園で、保護者の1人から声をかけられてさ。『綾音さんに2人目のお子さんができたんですね。おめでとうございます』ってな。」
当然、父がそんな話はないと否定すると、相手は軽減そうな表情を浮かべたという。どうやら、信雪がキラとは別の子供と手を繋いで歩いている姿を見かけたのだとか。
「その保護者が見違いだったって慌ててきたけどな。何か変な噂があるんじゃないか。」
私は胸の奥に得体の知れない不安が湧き上がるのを感じた。夕食の支度中、何気ないふりを装って信雪に問いかけると、彼は一瞬だけ表情を強張らせた。そして、少し間を置き、苦笑いを浮かべながら口を開いた。
「世の中には自分にそっくりな人が3人はいるって言うだろう。きっと、誰かと見間違えたんじゃないか。」
その反応は、どうにも嘘を隠しきれていないように見えた。
それから何日か経った休日。私はパートも休みだったので、キラを連れて近所の公園へ散歩に出かけた。芝生の広場で走り回る子供たちを見て、キラは嬉しそうに笑う。久しぶりにゆっくり過ごせる時間が持てて、少し気が晴れた。
「たまにはお日様の下で一緒に遊ぶのもいいよね。」
「ママ、ボールで遊ぼう。あの子たちも投げっこしてるよ。」
そう言われて見渡すと、若い母親と小さな女の子がボール遊びをしていた。微笑ましい光景に目を細めていると、急にキラがその親子を指差した。
「あの子、パパと寝てた。」
最初は意味が分からず、私は吹き出しそうになった。だが、キラが真剣な顔をしているのが気にかかる。
「寝てたってどういうこと?キラ、そんなこと言ったら失礼だよ。」
キラは泣きそうな目で、しかしはっきりと唇を震わせながら続けた。
「違うの。本当に見たの。パパのタブレットで見たんだもん。」
その言葉に、私は背筋が凍るような衝撃を受けた。まるで突飛もない冗談かと思いたかったが、キラがあまりにも強い口調で言い切るため、笑ってごまかすことができなかった。
「キラ、それはどういう意味?どこで見たのか、教えて。」
その問いかけに、キラは言葉をつまらせている。私も思わず大きな声を出してしまったため、キラの小さな肩は震え、目には涙が滲んでいた。
「本当に見たんだよ。あの子とパパが同じお布団で寝てる写真があったんだ。パパのタブレットで見たんだよ。」
そういえば、信雪は私が家事で手が離せない時、キラの面倒を見てくれていたが、彼は面倒くさがって自分のタブレットでキラに動画を見せていた。だからキラが信雪のタブレットを触る機会が多かったのは間違いないだろう。
「パパは私が動画見てる間、テレビ見てたの。そしたら、私、間違ってパパの写真がいっぱい映ってるところを見つけたの。パパはいつも他のとこ触っちゃダメって言ったから、そのことパパには内緒にしてたの。」
私はキラの言葉を聞きながら、頭の中が混乱していた。花束を買ってくるようになった信雪の不可解な行動。幼稚園で囁かれる妙な噂。そして今、目の前にいる親子。それらが結びつくようでありながら、どこか現実感が乏しい。キラは私が黙って考えているのを見て、自分の話を信じてもらってないと感じたのか、必死に訴えかけてくる。
「ママ、本当に見たの。あの子がパパと一緒にいたんだよ。」
その言葉を聞きながら、私は意を決した。まずは、この事実がどこまで本当なのか、しっかりと確かめる必要がある。何より、キラがこれ以上動揺しないようにすることが最優先だ。公園の片隅で、私はキラを抱きしめたままそっと目を閉じた。平穏だった家族の日常が、ゆっくりと崩れ始めているのではないか。嫌な予感ばかりが頭をよぎる。しかし、この先どんな現実が待ち受けていようとも、私は娘のために向き合わなければならない。
「分かった。キラは嘘なんてつかないって、ママは信じてるから。」
キラを安心させるように微笑んで見せる。しかし、その内心はまるで地面が揺らぐように不安定だった。そして、ある確信めいた言葉が私の頭をよぎる。
『信雪は浮気している。このまま何もしないわけにはいかない。証拠を掴んで、真実をはっきりさせなきゃ。』
そう心に決めた私は、すぐに探偵事務所へ連絡を取った。最初はためらいがあったが、そんなことを気にしている場合じゃない。電話越しの担当者は丁寧に対応してくれ、「ご主人の行動を調べましょう」と静かに請け負ってくれた。
「まずはご主人の生活リズムを把握するため、時間帯や出入り先を調査します。」
「よろしくお願いします。結果をお待ちしています。」
それだけ伝えて受話器を置いた時、心臓の鼓動が早まっているのを感じた。夫の不貞を突き止める行為は、決して気持ちのいいものではない。しかし、このまま何もせずに疑いだけを募らせるよりは、真実に立ち向かうべきだと思う。
数日後、探偵から連絡があった。「1度事務所まで来てもらえないか」という言葉に胸騒ぎを覚えながら、私はキラを幼稚園に預けて急いで向かった。
「ご依頼の件ですが、結論から言うと、ご主人は不倫をしています。」
面と向かってそう告げられた瞬間、頭が真っ白になる。分かっていたはずなのに、心のどこかでただの誤解であってほしいと願っていたのかもしれない。それでも私は震える声を抑え、詳細を聞かせてほしいと話を促した。
「ご主人の行き先を数日間追いました。毎日通っている花屋があるのはご存知ですね。」
「ええ、最近やたらと花束を買ってきていましたから。」
「その花屋の店主、弓江という女性と、ご主人は深い関係にあります。写真をご覧ください。」
差し出された封筒には、信雪と弓江が並んで歩く姿や言葉を交わしている場面が何枚も収められていた。そこには笑顔の信雪が映っており、私が見たことのない表情を浮かべているようにさえ見えた。
「信じられない。花を買ってくるのも、私への思いやりなんかじゃなかったんですね。」
頷くと、探偵は少し言いにくそうに続けた。
「さらに驚くべきことに、ご主人は弓江さんとその娘さんと一緒に買い物をしていました。まるで家族ごっこみたいじゃないですか。」
その写真には、子供の手を引きながら3人で歩く姿がはっきりと捉えられていた。
「しかし、どうやら2人の関係は長続きしなかったようです。弓江さんの夫である東山という男が全てを知ったとの情報があります。」
「東山って、どんな人物なのですか?」
「裏社会と繋がりがあると言われており、前科もあると噂されています。ご主人はその東山から高額な慰謝料を請求されているようです。」
「そんな……」
「そして、これは確認が定かではありませんが、弓江さんの子供がご主人との間にできた子供だという主張をしているようなんです。」
現実離れした話に、頭が追いつかない。信雪がそんな危険な相手の妻に手を出していただけでなく、子供まで作っていたなんて。考えるだけで足元が崩れるような気がした。
「東山は、ご主人に支払わなければ妻や会社に不倫をばらすと脅迫しているそうです。実際にご主人は怯えていたと、関係者から聞きました。」
「だからあんなに落ち着きがないのに、花だけは買い続けていたんでしょうか。私を欺くための方便だったのかもしれません。」
「さらに、この東山はかなり悪質な手段を使うようです。ご主人を追い詰めるだけでなく、お2人の私生活を隠し撮りして、売る価値があるとも話しています。」
私は愕然とした。一度裏社会の人間が絡むと、どんな手口を使われるか分からない。
「こちらがその会話の記録です。東山の言葉を抜粋すると、『お前の奥さんや娘さんをネタにすれば高く売れる』といった内容があります。」
「そんなひどいこと……キラに何かあったらどうするんですか。許せません。」
感情が高ぶった私は、その場で涙をこぼしそうになった。しかし、ここで取り乱しても仕方がない。私が守るべきはキラであり、そして自分自身の安全でもある。
「念のため、これ以上危険が及ばないよう、離れた場所で生活することをお勧めします。信雪さんが東山とどう動くか分からないですから。」
「そうですね。まずは娘を安全なところに避難させます。私も同じ家にいるのが怖いんです。」
私が言い切った時、探偵は深く頷いた。そして報告書を手渡し、「もしもの時はすぐ連絡してください」と言ってくれた。探偵事務所を出る時、私の心には決意が芽生えていた。こんな危険な状況にキラを置いておくわけにはいかない。信雪に真相を突きつける前に、安全を確保しなくてはならない。
「何があっても、キラだけは守らないと。」
声に出してそう呟くと、私は足早にその場を立ち去った。すぐに幼稚園にキラを迎えに行き、家に戻った。キラの手を取り、日常の荷物をまとめ、今の家から離れる覚悟を固めたのだ。
実家の玄関を開けると、母と父、そして妹の佳香が揃って出迎えてくれた。
「よく来たね。キラちゃんも大丈夫だった?」
「大丈夫……でも、疲れた。」
私は少し力の抜けた声で答えた。キラは祖父と祖母の顔を見ると、ほっとしたのか、手を振りながら「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼びかける。佳香が心配そうに私に尋ねる。
「お姉ちゃん、顔が青いよ。何があったのか、教えてくれる?」
私はためらいながらも、これまでの経緯と探偵から得た情報を打ち明けることにした。信雪が裏社会の人間と関わりのある女性と不倫していること。その女性との間に子供を作ったかもしれないこと。その不倫が相手の夫に発覚し、信雪が慰謝料を脅迫されていること。そして、私たち親子のプライバシーが悪用されかねない危険な状況になっていること。言葉が震えそうになるのをこらえながら、私は必死に話した。すると佳香はキラを抱きしめ、力強く私に言った。
「大丈夫。私がすぐに信雪さんを調査する。キラちゃんにも2度と怖い思いをさせないから。」
頼もしい妹の言葉に、私はいくらか救われた気持ちになる。続けて父が厳しい口調で言い放った。
「こんな卑劣なことは、見過ごせない。」
その瞬間、私の背筋は少し伸びた。今は実家に身を寄せることが最善策だったと、改めて実感したのだ。
それから数日経ったが、私は1度も自宅に戻らず、キラを連れて実家で過ごしている。その間、信雪からは毎日のように電話がかかってきた。
「いつ帰って来るんだ」「キラの顔が見たいよ」
留守電に甘い言葉を残している。私は拳を握りしめながら、怒りと悲しみが混ざった感情を抑えきれない。実家に来ている理由も知らずに帰りを迫る信雪が、信じられないのだ。嫌な雰囲気を避けるため、電話には出ずに留守電を聞くだけにしている。その度に胸がざわつく。
「無理して電話に出なくていいよ。ここでゆっくりしなさい。」
母はそう優しく言ってくれるが、心の中で悶々とした気持ちは膨らむ一方だった。佳香が調査を進めているというのに、私はただ待っていることしかできない。キラの表情に不安が広がらないよう普段通りに接するつもりでも、ふとした拍子に顔が曇ってしまう。
『このままじゃいけない。なんとか決着をつけないと、キラの未来まで壊されてしまう。』
そして、迎えた日の朝。佳香から証拠が揃ったとの連絡を受けた。私は意を決して、今日自宅に戻ると家族に告げる。キラを実家に残し、まずは1人で家に入るつもりだった。
「お姉ちゃん、1人じゃ危険だよ。私も一緒に行くから、安心して。」
その申し出に、私は素直に頷いた。佳香の職業柄、もしもの場合でも心強い存在である。家に到着すると、妙に静かな空気が漂っていた。リビングに踏み込んだ瞬間、信雪が私の姿を見てほっとしたように口を開く。
「やっと帰ってきたんだな。キラはどうした?」
しかし、私の隣にはキラではなく佳香がいることに気づくと、彼の表情はわずかに警戒を含んだものへと変化した。私は黙ったまま鞄の中を探り、探偵から預かった録音データを取り出す。
「キラはここにいない。あなたの裏切りがどれだけ危険か、もう分かってるから。」
そう言い放つと同時に、録音を再生した。そこには、信雪と東山がやり取りする声がはっきりと残っている。
『支払わなければ、全部ばらすぞ。奥さんも娘も、ただじゃ済まないからな。』
『待ってくれ。そんな金は用意できない。どうしたらいいんですか……』
テーブルに置かれたスピーカーから流れる声が止まると、信雪の顔は急速に青ざめていく。弁解の余地がないのは明らかだった。
「私とキラを、あなたはどうするつもりだったの?私が知らないとでも思っていたの?」
信雪はうろたえた様子で、それでも強気に言い返そうとする。
「何の話だ?お前、疲れてるんじゃないのか?」
私は冷静さを保ちながら、写真の束を取り出す。
「これは何?説明できる?」
写真を広げると、信雪と弓江が寄り添う姿。子供と歩く3人の姿が映っている。信雪の顔から血の気が引いていく。
「こ、これは違うんだ。これは単なる知り合いで……」
彼は額に汗を浮かべ、目を泳がせながら言葉を絞り出す。
「これが何なんだって言うんだよ。何も起きてないんだ。」
「自転車のブレーキを切ったのも、車のブレーキオイルを抜いたのも、あなたよね。」
その言葉に、信雪の顔は驚愕に歪み、言葉に詰まる。信雪は椅子に崩れるように座り込んだ。佳香が一歩前に出て、厳しい目で信雪を見下ろす。
「お前らに何が分かるんだ!」
信雪の声が裏返る。
「俺はあの女に誘惑されたんだよ。俺は被害者なんだ!」
彼は言い訳を並べ立て、自分の非を認めようとしない。
「お前だって、キラのことばかりで俺に構ってくれなかったじゃないか!」
突然、信雪がテーブルを拳で叩きつける。その音に私は思わず身を引いたが、決意を固めて前に進み出る。
「私を陥れようとしたくせに。警察に突き出されたくなければ、速やかに離婚に応じて、キラの親権も放棄して。」
そこまで言うと、信雪の視線は一点に定まらなくなった。しばし沈黙が続くが、やがて彼は逆上したように叫ぶ。
「ちゃんとお前を始末しておけばよかった。そしたら、全部丸く収まったのに!」
その言葉に私は息を飲み、隣にいた佳香がさっと体を前に寄せた。
「自転車のブレーキも、車のオイル漏れも、全部計画だったんだよ!」
「やっぱり、あれはあなたの仕業だったのね。」
信雪はさらに熱を帯びた調子で叫ぶ。
「弓江と再婚して、新しい生活を始めるつもりだったんだ。お前さえいなければ、俺は幸せになれたんだよ!」
家族を守るべきはずの夫が、私を害する計画を立てていたという現実に、足が震え、涙と怒りが込み上げてくる。すると、佳香が冷静な声で言い放った。
「今の発言で、殺人未遂の疑いが濃厚になったわ。任意同行を求めます。」
そして、佳香が信雪の腕を掴もうとした。しかし、信雪は佳香を突き飛ばし、出口に向かって逃走を図る。私は床に手をつきながら「待て!」と叫んだが、走り去る背中を止めることはできなかった。
その時、1台の高級車が急停止した。後部座席のドアが勢いよく開かれ、中から屈強な男たちがまるで訓練されたかのような動きで飛び出してくる。
「え、ちょ、ちょっと待って!」
信雪が数歩後ずさるも、男たちは容赦なく両腕を掴み、まるでガラクタを運ぶような手際で車内に押し込む。
「助けてくれ!」
悲鳴のような声が聞こえたと同時に、車は勢いよく走り去った。
「え、今のは一体……誰が連れ去ったの?」
身の周りで起こる出来事があまりに急展開すぎて、思考が追いつかない。佳香は険しい表情のまま、無線で仲間に連絡を取り始める。私たちの目の前から消えた信雪が、これからどうなるのか。想像するだけで息が詰まりそうである。床に散らばる録音データを見ながら、私はただ震えるしかなかった。あの瞬間、信雪が車に連れ去られたことは確かだ。それが誰の仕業なのか、私にはまだ検討もつかない。
「お姉ちゃん、とにかく安全を確保して。私が後を追うから。」
妹の声に、私は小さく頷くだけだった。最悪の形で明るみに出た信雪の本性と、彼を連れ去った謎の車。不倫や脅迫だけでなく、殺人未遂の事実までもが次々と暴かれてしまったのだ。
『もう戻れない。ここからどうなっていくの?』
呆然としながらそう呟く耳に、まだ信雪の絶叫が残響しているようだった。
信雪が連れ去られ、私が呆然としている間、佳香は素早く逃走車両のナンバーと車種を記憶していた。すぐに警察本部に連絡して緊急手配をかけたおかげで、その車は検問に引っかかった。連れ去られた信雪も含め、乗っていた者たちは全員逮捕されたのだ。連れ去った犯人は、東山を主犯とする裏社会の人間たちだった。その中には、あの弓江も含まれていた。東山たちがなぜあのタイミングで私たちの家の前にいたかと言うと、信雪が逃げないよう常に監視していたからだそうだ。そんな折、私と佳香が家に入っていくところを見て、東山はかなり焦ったらしい。なぜなら東山は裏社会の人間であるため、警察関係者に追われることも珍しくなかった。それで、刑事である佳香のことも何度か見たことがあったのだ。東山は私と佳香が姉妹であることは知らない。しかし、なぜか警察の佳香が信雪のところに訪れている。もしも信雪が自分たちのことを警察に話したら厄介なことになると勘違いし、信雪を強引に連れ去ったのだ。結果的に東山は恐喝罪で捕まったが、弓江もその脅迫に絡んでいたらしい。信雪も、私への殺人未遂容疑で連行された。
警察の調べによって、弓江が産んだ女の子は信雪の子ではなく、最初の夫である東山との間にできた子だと判明した。実は東山と弓江は最初から夫婦で、信雪を欺き、子供を信雪との間にできた子だと言っていたのだそうだ。もちろん目的は、高額な慰謝料を請求するため。弓江に夢中だった信雪は、彼女の言葉を無条件に信じ、自分の子だと錯覚した末に、私とキラを疎ましく思うようになっていた。その挙げ句、私を事故に見せかけて殺害し、弓江と再婚しようと考えたというのだから、許せない。弓江とは再婚もできず、東山からは慰謝料を請求され、信雪は身を滅ぼした。
そして、刑務所で面会した時、信雪は憔悴しきった様子で泣きついてきた。
「結果的に、あの子は俺の子じゃなかった。だから、もう一度やり直せないか。」
私は湧き上がる怒りを抑えながら、はっきりと拒絶した。
「あなたはキラを危険に晒した。そんな人を許すつもりはありません。私とあの子の前に、2度と現れないでください。」
信雪は情けない声で嘆き続けたが、私の心に未練は全く残っていない。今はキラの笑顔だけが、私にとって唯一の救いとなっているのだ。
事件後、父と妹の佳香は、変わらぬ優しさで私とキラを支え続けてくれた。実家で休んだ私は、再びパートを続け、キラとの時間を少しでも増やすように心がけている。その苦しかった日々は、もう過去のものだ。これから先、私たち親子にはきっと安らぎのある未来が待っていると信じている。キラが楽しそうに笑う姿を見るたび、私は少しずつ前を向けるようになってきた。過去の傷は消えないが、新しい生活の中で、私とキラは再び笑顔を取り戻そうとしている。私たちは大丈夫。どんな困難があっても、必ず一緒に乗り越えていきます。



