「清掃員は近づくな」
その声の低さに、耳の奥がじんと痺れた。創業九十周年の式典を控えたこの朝、視点中がどこか浮き足立っているのは感じていた。膝をついて記念碑の周りを拭いていた手が、思わず止まる。この二年、峰岸の下打ちにも聞こえないふりで通してきた。だが、この声に刃物のような鋭さを感じたのは初めてだった。
次の瞬間には、俺が手にしていたはずのモップが峰岸の手の中に移っていて、肩を強く掴まれた体が裏口の方へよろめいた。ロビーにいた行員たちの気配が一斉にこちらを向いたのが分かった。言葉を返す気にはならなかった。俺はただ、道具箱の取っ手を握る手に力がこもるのを感じていた。裏口へ向けて、足が一歩動きかけていた。
そこへ、正面玄関の外でクラクションもなく、低いエンジン音だけが静かに止まった。ロビーの奥にまで届いた重いドアの音に、峰岸の肩から力がふっと抜けていくのが分かった。気づけば、赤絨毯の両側には窓口の行員も障害の連中も、次々と列を作り始めていた。それでも人混みに混ざれずにいるのは峰岸だけ。握ったモップを下ろす間もないまま、戸惑ったようにこちらを見下ろしている。
出入り口に、白髪の男の姿があった。オールバックに撫でつけた髪。胸には古びた記章。ノーブランドのスーツをまとい、出迎えの列を一つも見ずに通り過ぎていく。歩みが向かう先は、記念碑の前。まだ裏口へ足を向けたところで動けずにいた俺だった。
目があった瞬間、時間が止まったような静寂が落ちた。膝で磨いてきたはずの記念碑の文字が、いつもよりずっと遠くに見えた。視点中の行員三十人が見つめる中、遠取は俺に向かって深く頭を下げた。頭を上げるまでの数秒、何かを確かめるような目で、誰も声を出さないまま、じっと俺の顔を見つめていた。峰岸だけが、握ったモップを取り落としそうになっている。
「橋村さん、私はあなたに謝らなければならない。本店の廊下を追われたあの日、あなたは大口融資先の粉飾を見抜き、三百億円の損失からこの銀行を守った」
何が起きているのか。俺自身、すぐには飲み込めずにいた。だが、峰岸の顔から余裕という余裕が抜け落ちていくのだけは分かった。久しく忘れていた誰かの声が、耳の奥で不意に蘇りかけている。二年間、床に膝をついてきたことの全てが、この一瞬のために積み重なっていたような気がした。その言葉は波のように、背後から広がっていった。
—
全ては、その数週間前に始まった。
朝七時半の商店街は、まだシャッターの奥で眠っている。パン屋の換気扇から漏れる焼きたての匂いだけが、人より先に通りへ出勤していた。
俺の名前は橋村。今年で三十五歳になる。清掃会社に入って五年。この町の銀行・遠銀行高倉支店を任されて二年目になる。時給は千二百円ほどで、窓口に座る初任給にも届かない。それでも、俺はこの仕事を悪くないと思っている。角を曲がると、通りの先に石造りの建物が見えてくる。三階建ての古い構えに縦長の窓が並び、朝日が壁の凹凸を浅く照らしている。それが、この町の小さな支店だ。行員とパートを合わせて三十人が働いている。
自分の理由は、家から近いからと会社には言った。だが、本当の理由はそれだけではない。それを誰かに話したことは、一度もない。
夜明けのロビーは、蛍光灯が半分だけついていて、ワックスの匂いが冷えた空気の底に沈んでいる。百五十坪の床には古いタイルが貼られ、何十年分の靴音を吸って鈍く光っていた。柱には「創業九十周年」と染め抜かれた垂れ幕が、今月から掛かっている。正面玄関の脇には、膝の高さの黒い石が添えられている。黒い御影石には「此処 昭和十一年」とあり、その下に「創業の地」と小さく掘られていた。
俺には、この仕事についてから毎朝欠かさず決めていることがある。どこよりも先に、その記念碑の前の床から磨き始めることだ。膝をつき、腰から白い磨き布を外してタイルの目地に沿ってゆっくりと手を走らせる。床は正直だ。手を抜いた日は曇り、手間をかけた分だけ翌朝の光が変わる。この時間だけは、ロビーは俺と床だけのものになる。
五年前まで、俺はこの銀行の本店にいた。数字だけを読み、書類の上だけで人を採点する側の人間だった。今は同じ看板の下で膝をついて床を手入れする側にいる。どちらが上でどちらが下か。そんな話をするつもりはない。ただ、あの頃に見えなかったものが、この低さからは不思議とよく見える。それだけの話だ。
—
八時二十分、行員たちが通用口から流れ込んでくる。
「橋村さん、おはようございます。今日もその辺、ピッカピカですね」
窓口係の瀬夏だ。この支店で俺を名前で呼ぶのは、入行五年目になる彼女一人だけだ。俺は軽く会釈を返した。すると、横を光る靴が硬い音を立てて通り過ぎた。峰岸という、この春に入ったばかりの新人行員で、融資課の見習いをしている。
「ちょっと、開店前のロビーをうろうろしないでもらえます?清掃の邪魔なんで」
モップの柄を指の先でつつくように押してくる。俺は何も言い返さないまま、黙って道具だけを壁際に寄せておいた。不思議と腹は立たなかった。彼の中で人間は所属と肩書きで一列に並べられていて、作業服の男はその列の一番外側にいる。かつての俺も、形は違えどよく似た物差しを胸のポケットに差していた。だから、彼に怒る資格が俺にはない。
フロアの奥から、融資課長の貝原の声が聞こえてくる。この支店の収益の六割は自分が作っていると豪語する男で、峰岸は子犬のように従っている。
「峰岸、お前は先月の獲得ゼロだろうが。結果を出してから言え」
叱られた新人の声だけが、誰もいないロビーまで転がってきた。続けて、柔らかい声が場を包み直す。支店長の岩瀬が、貝原の最後にゆっくりとした口調で式典の話をしている。
「来月の式典まであと一ヶ月。本部からもお客様が見える。店を隅々まで綺麗にしておこう」
朝礼が終わると、岩瀬は必ずロビーを一周する。銀縁メガネの奥の目を細め、両手を軽く合わせて、開店前の店の顔を確かめて歩く。
「橋村さん、今朝もご苦労様。床がいいと店の顔が締まるね」
支店長にまで名前を覚えられている清掃員は、世の中にそう多くないだろう。俺は帽子のつばに手を当てて、短く礼をした。穏やかで敵のいない人。行員たちが影でそう評しているのを、床を磨きながら何度か耳にしたことがある。
—
九時、正面のシャッターが上がり、支店の一日が始まった。開店して三十分も経たないうちに、ATMコーナーの前で声が上がった。作業服姿の年配の男が、機械の画面を睨みつけたまま声を荒げている。釣り銭切れの画面のまま機械が止まり、お金が戻らなくなったらしい。真っ先に駆けつけたのは峰岸だった。
「お客様、故障ではなくエラーです。手順通りに操作していただかないと」
「手順通りにやって、これなんだよ。人の金を飲んどいて、その言い草があるか」
マニュアル通りの言葉が、火に油を注いでいく。騒ぎを聞きつけた岩瀬が、ゆっくりとした足取りで割って入った。
「お客様、朝のお忙しい時間に申し訳ないことです。私は支店長の岩瀬と申します」
深く腰を折って丁寧に名乗りながら、峰岸に茶を出させる。声の温度だけで、男の肩から角が取れていくのが分かった。俺は乾いた雑巾で床を丁寧に拭き直す。その時、ATMの足元の暗がりに小さな銀色が見えた。膝をついて機械の下に布を差し入れると、五百円玉が一枚、誇りと一緒に滑り出てきた。エラーの原因は機械の中ではなく、釣り銭口の縁から転げ落ちた一枚だったらしい。俺はそれを拾い上げ、峰岸に渡した。峰岸は罰が悪そうに受け取り、男に返して騒ぎは収まった。
岩瀬が俺の方を見て、眼鏡の奥で目を細めた。
「助かったよ。いやあ、名探偵だね」
床の高さにいる人間には、床の高さのものが見える。それだけの単純なことだが、この店でそれを知っている人間はまだ少ない。
—
昼休み、搬入の脇の段差に腰を下ろして弁当を広げると、携帯が震えた。清掃会社の所長からだ。
「橋村よ。例のポスターの件、銀行に伝えといたぞ」
ロビーの柱に貼られたキャンペーンポスターの数字が、一桁ずれていたのだ。清掃員が行員に直接指摘するわけにもいかず、会社を通して伝えてもらった。
「ま、あんまり銀行さんの中身に首を突っ込むなよ。うちは床が商売なんだからな」
「分かってます」
午後のロビーは、年金支給日が近いせいか年配の客が多かった。杖の先が床をつく音、順番待ちの咳払い。その隙間を縫うように、俺は手すりと灰皿を拭いて回る。
「奥さん、定期に寝かせておくだけじゃもったいない。今はもっといい商品があるんですよ」
融資コーナーの衝立の向こうで、今日も何かの契約がまとまっていく気配がする。やがて、衝立の影から白髪の老夫婦が書類の入った封筒を抱えて出てきた。二人とも、いい買い物をしたのか、それとも分からないのか。曖昧な顔をしていた。出口まで送りに出た峰岸が、老夫婦の背中に深々とお辞儀をしてから、少しの間だけ動かなかった。その横顔が、なぜか曇って見えた。
戻り際の貝原が、控えていた峰岸の肩を叩いて何かを教え込んでいる。
「いいか?シルバー層はな、銀行の言うことを断らない世代なんだ。昔の信用が染みついてる。その信用を数字に変えるのが融資の腕だ。分かったら顔と名前を覚えてこい」
金色のボールペンが指の間でくるりと回った。その言い回しのどこかに、小さな棘のような引っかかりを感じた。とはいえ、清掃員の身でそこまで首を突っ込んでいい話ではないはずだ。
俺がゴミ箱の袋を変えていると、背中に峰岸の声が刺さった。
「そこのゴミ、まだ残ってるんですけど。あと、通路を拭くなら人のいない時間にやってもらえます?」
「分かりました。後でします」
「昼間からロビーにいる意味あります?」
言葉の端々に悪意、本音の響きがあった。彼にとって俺は風景の中の道具の一つで、本来なら口を聞く必要すらない何かなのだ。
—
夕方、にわか雨が人通りを洗って上がった。閉店間際のロビーに、客の傘の先が点々と濡れた跡を残していく。俺は「足元注意」の縦札を出し、入口のマットを新しいものに変えた。自動ドアが開いて、小さな人影が入ってきた。藤色のカーディガンを着て、腰が少し曲がっている老夫人である。濡れた石畳で靴底が滑ったのか、入口の段差の前で大きくよろけた。俺は駆け寄って、腕を貸した。
「足元が濡れてますから、ゆっくりで大丈夫です」
「あらあら、ごめんなさいね」
「お名前は福富トメ様でしたね」と、通帳を見せてもらいながら確認する。老夫人は何度も俺に礼を言って、手提げから茶色い皮のケースを取り出した。使い込まれて角の丸くなった通帳のケースだった。随分古い品らしいのに手入れが良く、窓の夕日を受けて飴色に光っていた。ああいう艶は店の棚には並ばない。長い年月、毎日人の手に触れてきた物だけが持つ光だ。
瀬夏がカウンターの奥からすぐに飛び出してきて、老夫人に駆け寄った。
「おばあちゃん、いらっしゃい。大丈夫でしたか?」
「夏の顔を見に来たんだよ。ついでに預金もね」
福富トメが、瀬夏の祖母であるらしい。瀬夏は自分の祖母にそうするように、老夫人の背に手を添えてカウンターへ導いていく。二人のやり取りには、長い顔馴染みの温かさがあった。ああいう時間の流れる窓口も、この店にはまだ残っている。
その後ろ姿を見送っていると、峰岸とすれ違った。
「お客に触らないでくださいよ。何かあったら誰が責任取るんすか?」
「すみません。転びそうでしたので」
峰岸は鼻を鳴らして、光る靴の先でマットの端を軽く踏んで出ていった。靴底が残していたわずかな泥の跡を、俺はまた黙って拭き直す。
—
閉店後のロビーは、機械の音が止むと急に天井が高くなったように感じられる。シャッターの内側で最後のモップを絞りながら、ふと通りに面したATMコーナーの明かりに目をやった。ガラスの向こう、外付けのATMの前に、藤色のカーディガンが立っていた。トメさんだった。引き出し口の前に立ったまま、機械に触れるでもなく、一枚の紙を両手で握りしめている。大きさからして、はがきのようだった。預金を終えて帰ったはずの人が、なぜ外のATMの前に戻ってきているのだろう。夕日がその小さな背中を長い影にして、歩道の上へ引き延ばしていた。やがて、老夫人は紙を手提げの奥へ押し込み、俯いたままゆっくりと商店街の方へ消えていった。俺は吹き上げた床に立ったまま、しばらくその方向を見ていた。
—
あれから二日が過ぎていた。水曜の空はどんよりと重く曇り、通用口へ向かう足取りにもその重さが宿っているようだった。手帳に控えた契約番号の文字は、書いた日から一度も薄れていない。
ロビーに入るといつもの場所に膝をつき、目地に沿って布を滑らせていく。床は正直だ。手を抜いた覚えなどないのに、今朝はどこか磨きにくいと感じた。そんなことを思っていると、後ろでバケツの倒れる音がした。振り返ると、峰岸が通り過ぎざまに、足の先でバケツの取っ手を払ったところだった。水が跳ねて、磨いたばかりの床に黒い染みが広がっていく。
「触るな。邪魔なんですよ。こんなところに置きっぱなしにして」
「すみません。すぐ片付けます」
謝る理由などないと分かっていても、言葉はいつも先にそう出てしまう。バケツを起こしてこぼれた水を拭き取る間も、峰岸は腕を組んで俺の手元を見下ろしていた。
そこへ、両手を軽く合わせながら、いつもの穏やかな足取りで岩瀬が近づいてきた。
「まあまあ、ことを荒立てなさんな。峰岸君、朝から大きな声を出すもんじゃないよ」
柔らかい声だったが、峰岸の肩がわずかに縮んだのが見て取れた。峰岸は短く詫びて、逃げるようにフロアの奥へ引っ込んでいった。岩瀬は俺のそばにしゃがみ込み、磨き上がったばかりの床に目を落とす。
「橋村さんは丁寧に働くね。君は目がいいね」
「ありがとうございます」
短く返すと、岩瀬は満足に頷いて両手を合わせたまま、朝の見回りに戻っていった。穏やかで敵のいない人。行員たちがそう評する姿を見るたび、俺はどこか落ち着かない気持ちになる。理由は自分でもうまく言葉にできなかった。
—
昼の混雑が引いた頃、ロビーの隅で人影が動かずにいることに気づいた。藤色のカーディガンだった。トメさんが、ATMの脇の長椅子に浅く腰かけたまま俯いている。手提げの影から、見覚えのある茶色い革のケースの角が覗いていた。近づくと、膝の上でぎゅっと握られた一枚のはがきが目に入った。
「おばあさん、大丈夫ですか?」
「ああ、橋村さん、ちょっとね、頭の中がこんがらがっちまって」
そう言う声には、いつもの柔らかさがどこにも残っていなかった。
「これ、見てもらえるかい?私には難しいことがよくわからなくて」
差し出されたはがきを受け取る。厚みのある紙。角の潰れ方。消印の日付。印刷された文字を一つずつ目で追った。審査会社の名前は「日の出クレジット株式会社」とあり、下段には契約番号と月々一万八千円の返済が二ヶ月分滞っている旨が記されている。差出人の住所も電話番号も、全て町の金融業者が使う正規の様式と寸分違わなかった。
「そんなお金、借りた覚えなんてこれっぽっちもないんだよ。いつ届いたものだったかね。郵便受けに入ってて、何度読んでも身に覚えがなくて」
架空の請求書なら、署名も番号も出鱈目であることが多い。ところが、目の前のはがきは書式の隅々まで本物の素材の作りをしていた。宛名の書体、契約番号の桁の並び、貸金業者としての登録番号の表示。一つでも欠けていれば作り物と分かるはずの要素が、欠かさず揃っている。素人が真似ようとしても、まず再現できない細部だった。かつて審査の机で嫌というほど見てきた、本物の癖が指先の感覚のように蘇ってくる。
「おばあさん、これは作り物の脅しじゃないと思います。本物の催促です」
「じゃあ、私が何かの書類に判を押しちまったのかね。年を取ると物忘れが増えてね。あんたにまでこんな恥ずかしい話を聞かせて」
「おばあさんのせいだと決まったわけじゃありません。でも、判を押した覚えがあるのとないのとじゃ話が違うでしょう」
「押した覚えがないなら、それが答えです。無理に思い出そうとしなくて大丈夫です」
架空請求より、こちらの方がよほど始末が悪い。なぜなら、どこかに本当の契約書が必ず存在するということだからだ。
「うちの人はね、借りたら耳を揃えて返す。それが人の道だって、口癖みたいに言ってた人でね。その言葉通りに生きてきたつもりなのに、こんな葉書一枚で台無しになっちまうのかね」
そこまで一息に言ってから、トメさんは小さく息をついた。
「誰にも言えなくてね。恥ずかしくて、夏ちゃんにも言い出せなかったんだよ」
胸のうちで何かが小さく音を立てた気がした。俺は聞こえなかったふりをして、腰の道具袋から小さな手帳を取り出していた。
「契約番号と会社名だけ控えさせてもらえますか?何かの役に立つかもしれません」
「そんなこと、あんたにさせちゃ悪いよ」
「床を磨くのも数字を読むのも同じ手です。心配いりません」
トメさんは戸惑いながらも頷いた。俺が手帳の隅に番号と社名を書き写していると、背後から靴音が近づいてきた。
「清掃員が営業ですか?効率悪いんで、やめてもらえます」
手帳を覗き込むような目つきで、峰岸が割って入ってくる。
「営業ではありません。頼まれてメモを控えていただけです」
「頼まれてもダメですよ。個人情報とかもあるんで。おばあさん、こういうのは窓口かうちの人間に相談してください」
「ああ、はい。ええ、すみませんね」
トメさんは慌てたように手を振り、はがきを手提げの奥へしまい込む。俺は道具を手に取り、その場を離れた。振り返ると、トメさんは所狭しと立ったまま、峰岸に何か窓口の案内をされているところだった。その背中は、雨上がりの夕方に見た後ろ姿と同じくらい小さく見えた。
—
昼休み、搬入の段差に腰を下ろして弁当を広げながら、手帳の文字をもう一度見返した。日の出クレジット株式会社。社名は、聞き覚えがないようでどこかで見た覚えもある。携帯電話で登録番号の数字だけを検索にかけてみる。出てきた検索結果には、同じ登録番号を掲げる実在する中堅の審査会社の名が並んでいた。つまり、架空の会社ではない。本物の会社が本物の書式で本物の催促を送ってきているということだ。架空の会社なら、まだ救いがある。放っておけばいずれ諦めて消えていくものだからだ。むしろ本物だからこそ、どこかに本物の契約書が眠っているということになる。眠っている契約書には、必ず誰かの拇印が押されている。その誰かがトメさん自身であるはずがない。
かつての自分なら、この段階でもう答えの検討をつけていただろう。今の自分には、それを確かめる立場も権限もない。その事実が、思っていたより重く胸にのしかかってきた。
審査の机では、こういう家庭訪問での契約は後で揉めやすいと教わったものだった。対面で断れない年配客に、その場の雰囲気で判を押させる手法は支店内でも度々問題になった。だからこそ、支店には二十にも三十にもなる確認の手順が定められていたはずだった。その手順のどこかが、今回は丸ごと抜け落ちている。
—
閉店後、通用口を出ると、ゆっくり歩くトメさんの後ろ姿が見えた。腰の曲がった背中に手提げの重みが加わって、足取りがいつもより遅い。追いつくのに、大した距離はいらなかった。
「おばあさん、お荷物少し持ちましょうか?」
「橋村さん、いいよ、こんな年寄りの荷物なんて」
そう言いながらも、トメさんは手提げをあっさり俺の手に預けた。通りに並ぶ店先を、二人でゆっくりと並んで歩く。夕方の商店街には、夕飯の支度を急ぐ人の声があちこちから聞こえていた。
「さっきの続き、少しだけ聞いてもいいですか?」
「あんな話、聞いて楽しいものでもないだろうに」
「気になるんです。あのカードローン、本当に心当たりがないんですか?」
トメさんはしばらく考え込むような顔をした。
「そういえば、何ヶ月か前に銀行員さんが家まで来てくれたことがあったよ」
「家までですか?」
予想していなかった一言に、俺は思わず手帳を持つ手を止めた。
「年金の受け取り方を見直すとかで、若い人が丁寧に説明してくれてね。書類にもあれこれ判を押した気がする」
「その方のお名前は覚えていますか?」
「さあね。愛想のいい人だったことしか」
顔も名前も残っていないほど当たり前の顔をして、彼女の暮らしの中に入り込んでいたということだ。
「若い男の方でしたか。それとも年配の?」
「若い人だったよ。声も高くて早口でね。名刺はもらった気がするけど、どこへしまったものやら」
「その書類の控えは、家に残っていますか?」
「どこにしまったか、探してみないとわからないね」
言葉の端々に、疲れと諦めのようなものが隠しきれずに滲んでいた。
「うちの人が生きてたら、こんな話すぐに見抜いてくれたんだろうけどね。紙一枚の嘘も人の嘘も、あの人はよく見えてた人だったから」
なんと相槌を打てばいいのか、俺には分からなかった。
「無理にとは言いません。ただ、これ以上は知らない書類に判を押さないでください」
「そんなこと言われても、来た人が悪い人には見えなかったんだよ」
トメさんのその一言が、思っていたよりもずっと重く胸の奥に落ちた。悪い人に見えないものほど、後になって厄介なことになる場合が多い。そのことを、俺は誰よりもよく知っているつもりだった。
バス停の前でトメさんと別れて、俺は支店のある方角へゆっくりと歩き出す。夕暮れの通りには、街灯の明かりが一つ、また一つと灯り始めていた。
—
六畳一間のアパートに帰ると、電気ポットの湯が湧くまでの間に手帳を開いた。書き移した契約番号と社名を、蛍光灯の下でもう一度見直す。かつて審査の机にいた頃、こういう契約書を一日に何十枚とめくっていた。相手が高齢であればあるほど、その手順は丁寧でなければならない。正常な契約なら、本人が理解した上で判を押すまでにいくつかの手順を踏むはずだった。商品の説明、意思の確認、後日の確認の電話。面倒なだけの手続きに見えて、その一つ一つが後で本人を守るための壁になっている。トメさんの話には、その壁のどれもが見当たらなかった。家まで来た愛想のいい説明。いくつかの拇印。断る隙も考える間も与えられないまま、話は進んでいったのだろう。その先に、月々一万八千円を払い続けるカードローンがいつの間にか出来上がっている。
手帳の余白に、思いつくままに事項を書き出してみる。家を尋ねてきた行員。丁寧すぎる説明。残っていない名刺。判を押した記憶だけがおぼろげな書類。一つ一つはただの親切に見える。それでも並べてみると、輪郭のようなものがうっすらと浮かび上がってくる気がした。
審査の机にいた頃なら、この輪郭に名前をつけるまであと一歩もかからなかっただろう。今の俺には、その一歩を踏み出す資格すらないはずだった。清掃員が銀行の中身に口を出せば、営業の邪魔をするなと追い返されるのがオチだ。それでも、手帳を閉じる気にはなれなかった。トメさんの背中を思い出すたび、指の先が勝手に手帳の淵をなぞっていた。床を磨く手と数字を読む手は、結局のところ同じ一つの手でしかない。
—
あれから五日が過ぎていた。手帳に控えた契約番号の文字は、書いた日から一度も薄れていない。
通用口で着替えていると、通りかかった行員の立ち話が耳に入ってくる。今日、本店から臨店検査が入るのだという。年に一度の定例のものらしかった。俺の仕事にはおよそ関わりのない話のはずだった。それでも、道具箱を下げる手にいつもより少しだけ余計な力がこもっているのを感じた。
昼前、トメさんが窓口にやってきた。藤色のカーディガンの袖から、いつもの手提げが覗いている。俺は灰皿の脇でモップを動かしながら、自然とその背中を目で追っていた。トメさんが窓口に座ると、通帳を取り出してカウンター越しに差し出す。
「夏ちゃん、悪いんだけどね。しばらく記帳してなかったから、まとめてお願いできるかい」
「はい。お預かりしますね」
通帳を受け取った瀬夏の手が、慣れた動きで記帳機に差し込まれる。機械の音がしばらく続いた後、その手がふっと止まった。俺はその止まり方に、審査の机で覚えた小さな違和感と同じものを感じ取った。慣れた手というものは、止まるべき場所でしか止まらない。
「おばあちゃん、これ。八月の頭に、八十万円のお引き出しがありますけど」
「え?八十万?そんなお金、下ろした覚えなんてないよ」
トメさんの声が一段低くなった。
「私の記憶違いかもしれないので、確認しますね」
瀬夏は通帳の記載を指でなぞりながらもう一度日付を確かめる。
「引き出しは間違いないです。窓口の記録にも、同じ日に大きな出金の履歴が残っています」
「それって、誰かが勝手に…」
言葉の途中で、トメさんは何かに気づいたように不意に口をつぐんだ。自分で言った可能性に、自分で怯んだような沈黙だった。
「おばあちゃん、通帳の記録をこのまま処分したり書き直したりしないでください」
「そんなことするわけないだろ。大事なものだもの」
トメさんは通帳を両手で包むように持ち直し、胸の前でぎゅっと抱えた。その仕草から、この人がどれだけこの通帳を大切にしてきたかが伝わってくる。俺は少し離れた場所で雑巾を握ったまま、二人のやり取りを黙って聞いていた。催促のはがきとこの八十万円は、多分同じ根から出ている。その根の先に誰がいるのか、今の俺にはまだ見えない。手帳を開くと、催促のはがきに記載された日付とこの引き出しの月が、ほとんど重なって並んでいる。契約が動いた直後に同じ口座から現金が引き出される手口を、俺は審査の資料の中で一度だけ見た覚えがあった。金を借りさせることと金を運び出すことが一つの流れの中で完結しているのだとしたら、もう偶然という言葉で片付けていい話ではなくなる。この程度の金額を家に上げるようにして動かせる相手は、支店の中でも限られている。融資を任された行員か、それに順ずる立場の誰かでなければ、こうも滑らかには運べない。
—
午後、正面玄関から本店の監査一行が入ってきた。先頭を歩くのは岩瀬で、両手を軽く合わせながら来客をロビーの奥へ案内している。黒いスーツの一団が数人、岩瀬の後ろに続いた。俺はその場所で膝をつき、いつも通り床の目地に布を走らせていた。
一団の最後尾に、黒縁の眼鏡をかけた男の姿がある。書類鞄を胸に抱える癖のある持ち方に見覚えがあった。その顔が、記念碑の前で膝をついている俺を見つけた瞬間、足がぴたりと止まった。俺は布を握ったまま顔を上げ、その視線とまともにぶつかった。監査役はそのまま数歩先へ進み、彼一人だけがその場に取り残される。織田桐矢。本店にいた頃、机を並べていた後輩の名前だった。俺の喉の奥で、その名前が音にならないまま止まった。
織田桐矢は書類鞄を小脇に抱え直すと、名刺入れから一枚を抜き出す。その両手が震えているように見えた。膝をついた俺の前に、織田桐矢は両手で名刺を差し出し、深々と頭を下げた。
「橋村さん、俺です。織田です」
ロビーの空気が一瞬だけ止まった気がした。近くにいた行員たちが、何事かと視線を寄せてくる。俺はとっさに名刺を受け取る手を止めた。
「お間違いかと思います」
短く返した声は、自分でも驚くほど平たかった。織田桐矢は顔を上げたまま、しばらく何も言わなかった。その目だけが、人違いなどではないと語っていた。
「人違いでしょ。監査役が清掃員に頭下げるわけないでしょ」
近くにいた峰岸が、笑いを含んだ声でそう言い放つ。近くの行員たちも軽い冗談を見交わすだけで、誰もそれ以上は口にしなかった。心臓がいつもより明らかに速い音を立てているのが、自分でも分かった。この場で名乗り出てしまえば、清掃員としての日々は今日でもう終わる。そう分かっていながらも、俺はまだその先の答えを持てずにいた。
岩瀬が異変に気づいて振り返ったのは、その時だった。
「織田さん、どうかされましたか?こちらです。どうぞ」
柔らかい声に促されて、織田桐矢はようやく体の向きを変えた。
「失礼しました。人違いです」
そう言い直しながらも、名刺を持つ手だけは俺の指先に静かに押し付けられていた。織田桐矢は一行の後を追って、フロアの奥へ消えていく。その背中が見えなくなるまで、俺は膝をついたまま動けずにいた。手のひらの中で、名刺の角が小さく食い込んでいる。窓口の奥から、瀬夏がこちらをじっと見ているのに気づいた。彼女だけが、今の数十秒を最初から最後まで見ていたようだった。
—
一段が奥へ消えると、ロビーはすぐにいつもの午後の顔に戻った。峰岸だけが、まだ愉快そうに口元を緩めている。
「本店の監査役ともあろう人が、清掃員相手に勘違いするとか笑えますよね」
「そうですね」
短く答えて、俺は道具箱を引き寄せる。峰岸はそれ以上追求することもなく、鼻歌交じりにフロアへ戻っていった。手のひらの名刺を、作業服の内ポケットへ滑り込ませる。紙の角の感触だけが、名刺を渡された指先にまだ確かに残っている。
閉店間際、俺が通用口の方へ歩いていると、瀬夏が小声で声をかけてきた。
「橋村さん、今夜少しだけお時間いただけませんか?」
普段の明るい声とは違う、慎重な響きだった。
「構いません」
「駅前の喫茶店でいいですか?閉店したら」
—
喫茶店は、駅前商店街の外れにある小さな店だった。年期の入った木のカウンターに、豆を引く音と電球色の明かりが柔らかく満ちている。窓際の席に向かい合って座ると、瀬夏は両手でカップを包むようにして、しばらく黙っていた。
「話というのは」
先に切り出すと、瀬夏は小さく息を吸ってから顔を上げた。
「おばあちゃんの、八十万円のことなんです。私、あの通帳を見てからずっと落ち着かなくて」
俺は黙って続きを待った。
「窓口にはいろんな契約が通ります。でも、あんな金額の動きに本人の記憶が全くないなんて、普通じゃないですよね」
「普通ではないと思います」
短い相槌だけでは足りないと感じたのか、瀬夏はさらに言葉をついだ。
「橋村さんは、あの催促のはがきのこともすぐに本物だって見抜きましたよね。あれは、普通の行員にできることではないはずです。今日の監査役の方のことも…。橋村さんは、本当は何をしていた人なんですか?」
問いかけには攻めるような色はなかった。ただ答えを知りたいという真っすぐな響きだけがあった。俺はしばらくの間、すっかり覚めてしまったカップの中のコーヒーに目を落とした。
「元銀行員だ。事情があってやめた」
短く答えると、瀬夏は驚いたように目を見開いた。
「金…。詳しいことはまだ話せない。すまない」
「無理に聞き出そうとは思いません」
瀬夏はそう言ってから、テーブルの上のカップへそっと視線を落とした。しばらくの沈黙の後、彼女はぽつりと切り出した。
「うちの父がよく言ってたんですけど、『お客様の顔を見て仕事しなさい』って。窓口に来る客の名前も家族構成も、全部頭に入ってる人だったんです。私がこの仕事を選んだのも、多分その言葉のせいです」
「いい言葉だ」
「今の支店は、正直その言葉から遠いところにあるような気がしてて。数字の話ばかりが飛び交う中で、客の顔の話をする人間はもうほとんど残っていない」
短い相槌を打ちながら、俺は自分の過去の一部を思い出していた。かつての俺も、数字だけを見て顔を見ない側の人間だった。
「正直に言うと、私、少し怖いんです」
「怖い?」
「おばあちゃんのことをこれ以上調べて、もし本当に店内の誰かが絡んでいたら、自分がこの支店にいられなくなるかもしれない。そう考えると…」
声の震えから、彼女がどれほど不安を抱えているかが伝わってきた。
「怖いなら、無理に関わらなくていい」
「いえ、怖いのとやめるのとは違う話です。おばあちゃんの顔をこれ以上曇らせたくないんです」
その横顔に、窓口に立つ時のものとは違う、もう一つの強さが見えた気がした。
「橋村さんは、なんでおばあちゃんのこと、そんなに気にかけてくれるんですか?」
「困っている人を放っておけないだけだ」
それが答えになっていない答えだということくらい、自分でもよく分かっている。瀬夏はそれ以上深く尋ねようとはしなかった。
「おばあちゃんの話をもう一度整理させてくれないか」
瀬夏が頷くと、俺は指を折りながら聞いたことを順に並べていった。若い担当者が家を尋ね、年金の受け取り方の見直しだと説明し、その場でいくつもの判を押させている。本来なら、契約の説明の後に日を置いて本人が中身を理解しているかを確かめる電話が入るはずだった。その手順が、トメさんの話のどこにも出てこない。瀬夏の顔が見る間に曇っていくのが分かった。
「同じ日に判を集め、その場で話を終わらせてしまえば、後から本人に確かめさせる余地は残らない。そういう手法を、俺は本店にいた頃何度か目にしたことがあった」
「橋村さんは、それを見抜くための仕事をずっとしてきたんですね」
「私、あの契約書のことをもう少し調べてみます。窓口の記録を当たれば、少しは分かることもあるかもしれない」
「無理はしないでくれ。相手が誰であれ、店内の人間だ」
その一言を耳にした瞬間、瀬夏の表情がわずかに強張るのが見て取れた。
「店内の人間、ですか?」
「確証はない。だが、契約の手法を見る限り、外の人間には作れない」
瀬夏はしばらく黙り込んでから、ようやく声を絞り出すように口を開いた。
「橋村さんは、それが誰だかもう検討がついているんですか?」
「まだ確信はない。だが、絞れる範囲は狭くなってきている」
そう答える俺の声は、自分でも意外なほど低く沈んでいた。
—
翌朝、約束の七時半、応接室のドアを開けると、織田桐矢がすでに椅子から立ち上がって待っていた。黒縁の眼鏡の奥、目の下にうっすらと疲れの色が滲んでいる。書類鞄を胸に抱え直しながら、織田桐矢は声を落として要件を切り出した。
「いくつかの支店から、高齢の客に関する妙な苦情が本部に寄せられているという。契約した覚えのない商品を後から発見されるという類のものです。高倉支店にも、その兆候が出ているらしい」
胸の奥で、手帳に控えた文字が音を立てて動いた気がした。
「なぜ、それを俺に話す?」
「本部の会議室で聞くより、橋村さんの目で見た話の方がよほど信用できると思ったからです」
「定例の検査とは別に、私は個人としてもこの件を調べているんです。ただ、確証がなければ監査部も本腰を入れようがない。来月に控えた創立九十周年の式典まで、上は波風を立てたくないはずだと、織田は言葉を選びながら付け加えた」
その言葉は思いの外重く、俺の胸の奥に長く尾を引くように響いてくる。
「もし確かなことが分かったら、私は動きます。今度こそ」
言葉を切って、織田桐矢は俺の目をまっすぐに見た。短い沈黙の後、俺はそれだけを確かめるように小さく頷いた。
「気になっている話が一つだけある。まだ確かめている途中だ。裏が取れたら必ず伝える」
「お待ちします。急かすつもりはありません」
織田桐矢はそれ以上尋ねようとはせず、椅子からゆっくりと腰を上げた。立ち去り際、一瞬だけ足を止めて、黒縁の眼鏡越しに俺を見ている。
「橋村さんがこの支店にいてくださって、よかったです」
その一言だけを残して、織田桐矢は傘を手に取り応接室のドアの向こうへ静かに消えていった。
—
昼の混雑が引いた合間を見計らって、瀬夏はトメさんを奥のカウンター席に招き入れた。雨のせいで客足はまばらで、峰岸も貝原も外回りに出払っている時間だった。
「おばあちゃん、これが取引の履歴を開示してもらうための書類です。順番に埋めていけば大丈夫ですから」
書類を差し出す手つきには、いつもより慎重な硬さがあった。
「こんな難しそうなもの、私一人じゃとても」
トメさんは老眼鏡をかけ直し、細かい文字に目をこらす。
「うちの人が生きてたら、こういう書き物はあっという間に片付けてくれたんだけどね」
そう言って小さく笑って見せたトメさんの顔は、無理に明るく振る舞おうとしているだけのように見えてしまう。
「橋村さんにも手伝ってもらいますね」
俺は書類の項目を一つずつ声に出して確かめていく。こういう書類の埋め方だけは、清掃員になっても指先が覚えたままだった。
「あの家まで来た行員のことですが、もう少し覚えていることはありませんか?」
「そうね。名刺はもらったはずなんだけど、しまった場所を忘れちまって」
「ご住所も正確にお願いします」
「朝日町三丁目の、ね、あの角の家だよ」
その住所を目にした瞬間、指先から体温が引いていくのが分かった。それは、かつての机で何度も見た住所と寸分違わなかった。福富という苗字はそう珍しいものでもないと、どこかで自分に言い聞かせてきた気がする。だが、名前と住所が並んだ時、逃げ場はどこにもなくなった。
福富皮革工芸場。十年前、まだこの支店の融資窓口は記念碑のすぐ脇にあった。作業服ではなく行員の制服を着た二十五歳の俺が、そこに座っていた。向かいに座った秋夫は、油の匂いの染みついた手を固く握り、声を絞り出すように頼み込んだ。
「一度だけでいい。工場を見てもらえないだろうか。新しい取引の話もあるんだ」
俺は決算書から目を上げなかった。
「数字が全てです」
顔も見ないまま、融資の申し出を突き返した。秋夫が肩を落として席を立つ音だけを、俺は書類の影で聞いていた。半年後、あの工場のシャッターが降りたと風の噂で耳にした。
窓の外の雨音で我に返った。記憶の中の光景は、もう昔の顔をしていない。目の前にいるのは、あの時の女将だった。書類を書き終えたトメさんを見送った後、瀬夏が搬入まで追いかけてきた。
「橋村さん、さっき顔色が変わりましたよね。何かあったんですか?」
雨の滴が軒先から糸を引いて、二人の間に細い簾を作っていた。俺はしばらく黙ったまま、その簾を見つめている。
「福富皮革工芸という工場を知っているか?」
「おばあちゃんの、亡くなったご主人の工場ですよね」
「まだ窓口がロビーの奥にあった頃、その工場の融資を書類だけで切り捨てた融資係がいる」
瀬夏の表情がゆっくりと強張っていくのが分かった。
「俺だ」
短い言葉が、雨音の中に落ちた。
「工場を見て欲しいと頼み込まれて、それでも数字だけを見て断った。半年後、工場は畳まれたと聞いた。それきり確かめなかった。顔もはっきりとは覚えていなかった。今日、住所を見るまでは」
瀬夏は何も言わず、雨の帘を見つめたまま立ち尽くしていた。しばらくして、彼女は静かに口を開いた。
「分かりました。知らないままの方が嫌でした」
「瀬夏さんには、隠しておくべきだったかもしれない」
「知らないままの方が、嫌です」
その一言だけで、雨の下の空気がわずかに温度を取り戻した気がした。
「何をすれば、償いになるんですか?」
「分からない。ただ、目を背けずにいる一日を一日ずつ重ねるしかない」
—
翌日、トメさんを伴って支店を訪れたのは、俺の発案だった。正式な窓口から開示請求を出せば、ことは表沙汰になり、誰かが動かざるを得なくなる。昨夜のうちに異議申し立ての様式を調べ、必要な項目を全て埋めておいたつもりだった。
瀬夏が受け付けた書類を、白髪の年配の行員が受け取り、眉をひそめた。
「これは少々お時間をいただく手続きになりますね。異議申し立ての様式に不備があるようです」
「不備とは、どこでしょうか?」
「届出印の添付が足りません。出直していただく他ありません」
「昨日、担当の者と一緒に一通り確認したはずですが」
「規定は規定ですので。上の判断が必要なことです」
その視線が、一瞬だけ奥の支店長室の方へ流れている。
「上の判断とは、店長の判断ということでしょうか?」
「まあ、そういうことになりますね」
そこへ、両手を軽く合わせながら岩瀬がゆっくりと歩み寄ってきた。
「まあまあ、ことを荒立てなさんな。お客様には後日改めてご案内すればいいことだ」
柔らかい声だったが、その言葉で話はそれ以上進めようがなくなった。岩瀬の視線が、書類の脇に立つ俺の方へゆっくりと流れてきた。
「橋村さんも、随分お客様思いだね。感心なことだ」
言葉だけを聞けば、ただの世間話だった。しかし、その目の奥には、これ以上前に出るなという静かな線が引かれていた。
「おばあちゃん、これ」
瀬夏がカウンターの奥で、小さく声を上げた。画面の隅の契約履歴に、「確認電話済み」という表示が残っていた。この日、トメさんの自宅に電話をかけた記録になっているという。
「おばあちゃんの家に、固定電話はある?」
トメさんは画面から目を上げ、小さく首をかしげた。
「固定電話?今時、そんな重たいもの、もうとっくに処分しちゃったよ」
「確認の電話なんて、うちには来てないと思うんだけどね」
トメさんの一言が、端末の表示よりもよほど重く響いた。短いやり取りの間にも、岩瀬は無表情な顔のまま、次の来客へと視線を移していた。
—
午後、応接室のドアの前を雑巾で通りかかった時、中の声に足が止まった。
「早く判を押せ。時間がないんだよ」
半開きのドアの隙間から、貝原の手が書類の束をせわしなく取り替えているのが見えた。その向かいに、瀬夏が硬い顔で立っている。
「お前も分かってるだろう。支店のためだ」
「はい」
その返事の小ささが耳に引っかかった。味方だと思っていた背中に、初めて小さな疑いの影が差した。昨日、「知らないままの方がいい」と言い切った顔と、今の従順な横顔がうまく重ならない。
俺は雑巾を握り直し、何も見なかったふりで廊下の奥へ歩き出した。その日の夕方、窓口に確かめに戻ると、端末の「確認電話済み」の記録はすでに別の日付に書き換えられていた。トメさんの異議申し立ての控えも、ファイルの中から静かに姿を消していた。紙の上の事実など、誰かがその気になれば一夜でいくらでも書き換えられるものらしかった。
その日の仕事を終えると、所長から呼び出しの電話が入った。
「橋村、銀行さんから苦情が入った。お客に馴れ馴れしく接触してるってな。清掃の仕事の枠を超えて営業の邪魔をしている。来週から担当を外す、下手をすれば出入り禁止だと脅かされたよ。『清掃員の分際で客の家庭の事情にまで首を突っ込むのは困る』ともな」
その言い回しに、峰岸の口ぶりと同じ響きを感じた。上に立つ者ほど言葉を選びながら、同じ線引きを静かに引いてくる。穏やかで敵のいない人という評判が、今になって別の顔を見せた気がした。
「分かりました」
それ以外に返せる言葉が見つからなかった。
—
事務所を出ると、傘も差さずに商店街の方へ歩いた。濡れたアーケードの下に、藤色のカーディガンが見えたのは角を曲がってすぐだった。
「橋村さん」
声をかけられて、俺はそこで足を止める。
「融資の課長さんが家まで来てくれてね。丁寧に説明してくれたよ。『開示請求などというものは、年寄りが手を出すと却って面倒になるだけだ』って」
言葉の一つ一つに、貝原の口調が透けて見えるような説明を、そのまま繰り返した。
「おばあさん、それは…」
トメさんは俺の言葉を遮るように、首を小さく振った。
「あんたが親切のつもりでやってくれたのは分かってるんだよ。でも、終わらせて欲しいんだよ、私は」
いつもの柔らかさを失っていないその声が、その分だけ強く胸に刺さった。
「でもね、清掃員のあんたを信じた私がバカだったのかね」
その一言は、雨よりも冷たく胸に落ちた。
「待ってください」
「もういいんだよ」
トメさんは俺の方を見ないまま、手提げの持ち手を握り直した。
「うちの人を亡くしてから、ずっとこの通帳一つを頼りに生きてきた。これ以上、揉め事にはしたくない。夏ちゃんにも、しばらく通帳のことは言わないでおくれ」
雨音に紛れて消え入りそうなほど小さな声で、トメさんは言葉を重ねた。そして、濡れた歩道をいつもよりゆっくりと歩き去っていった。藤色の背中が雨に滲んで、小さくなっていく。追いかける足が途中で止まった。これ以上追えば、あの人をもっと追い詰めるだけだという気がした。
—
気づけば、足は古い工場のあったシャッター通りの路地に向かっていた。二十五歳の頃と同じ場所に、錆びたシャッターが降りたままになっている。壁には、外された看板の輪郭だけが雨に濡れてうっすらと残っていた。残る「福富」の文字の跡を指先でなぞる。雨がその跡を容赦なく叩いていた。
背後で、傘を畳む音がした。
「ここにいると思いました」
振り返ると、瀬夏が息を切らして立っていた。
「おばあちゃんの様子がおかしかったので」
「おばあちゃんのこと、聞きました。所長さんから支店に連絡が入ったって」
「俺のせいで、おばあさんはもっと追い詰められた」
瀬夏はすぐには言葉をつがず、俺の横顔をじっと見ていた。
「橋村さんは悪くありません」
「悪くないはずがない。俺が動かなければ、トメさんは今頃静かに暮らしていられたかもしれない」
「橋村さんがやってるのは調査です。贖罪じゃありません」
瀬夏の声には、初めて聞く強さがあった。
「おばあちゃんを助けたいんじゃなくて、あの日が自分を消したいだけじゃないんですか?」
俺には、何も言い返す言葉がない。
「おばあちゃんの顔を見て、話を最後まで聞いたことありますか?」
雨音だけが路地に長く尾を引いた。答えは喉の奥で凍りついたまま、出てこなかった。瀬夏はそれ以上は何も言わず、傘も差さずに来た道を戻っていった。濡れた背中が、街灯の光の中を遠ざかっていく。血ナの声が、いつまでも耳の奥で鳴り続けていた。贖罪のつもりで積み上げてきたものが、今夜、足元からまとめて崩れていくのが分かった。
—
翌朝、雨はすっかり上がっていた。現れたばかりの空気の中を、俺は支店とは反対の方へ歩いた。朝日町三丁目の路地を折れると、古びた瓦屋根の平屋が見えてくる。道端の植え込みに、名前も知らない小さな花が水滴をいくつか残していた。あの日、背を向けて歩き去っていった背中を、俺はまだ覚えている。「清掃員のあんたを信じた私がバカだった」という一言も、まだ耳の底に残ったままだった。このまま追い返されても文句は言えない訪問だと分かっていた。それでも、今日だけは足を止めるわけにはいかない。あの決済の日、俺はこの人の夫の前で決算書から一度も目を上げなかった。今度こそ、目をそらさずに立っていようと決めていた。
呼び鈴の代わりに、引き戸を軽く叩いた。しばらくして、藤色のカーディガンの肩がその隙間から覗く。
「橋村さん、こんな時間に何の用だい?」
その声には、昨夜の路上で聞いたものと同じ硬さが残っていた。
「聞いて欲しい話があります。少しだけ時間をください」
トメさんはしばらく引き戸を握ったまま迷っていた。やがて、黙って戸を大きく開けた。
「上がりなさいよ。立ち話もなんだから」
通された部屋には、線香の匂いが薄く満ちている。畳の縁に沿って、古い座布団が一枚だけ俺のために出されていた。小さな仏壇の中で、白髪の男の遺影が微笑んでいた。写真の中の顔は、書類越しに見た若い頃の男の顔とはもう似ても似つかない。福富秋夫。俺は胸の中でその名を呼んだ。
俺は畳に手をつき、深く頭を垂れた。
「あなたの工場を切り捨てた融資係は、これです。十年前、決算書の数字だけを見て話を最後まで聞かずに追い返しました。一度だけ工場を見て欲しいと言われたのに、書類から目も上げませんでした」
長い沈黙が、線香の煙と共に部屋に降りた。
「顔を上げなさいよ、橋村さん。顔を見せてくれ。話はそれからだよ」
俺は顔を上げた。トメさんの目は、思っていたよりずっと穏やかだった。
「うちの人はね、あの帰り道でこう言ったんだよ。『銀行を恨むな。あの若い人は机の向こうで、わしより辛い顔をしとった』って」
その言葉を、俺はすぐには飲み込めずにいる。
「うちの人は、あんたのこと、恨んでなかったんだよ。立場が違えば、あんたも同じことをしたかもしれない。それでも、あの人の目には、あんたも辛そうに映ったんだろうよ」
「工場を畳んだ日もね、うちの人は誰のことも悪く言わなかった。近所の人らが集まって、最後にみんなで酒を開けてくれって言い出してね。うちの人は機械を売る金より、酒を開ける方を選んだんだよ。悔しいとも恨めしいとも言わずに、ただ黙って道具を片付けてたよ。あの人は、最後まで道具を大事にしてた人だったからね」
トメさんは立ち上がり、台所で茶を入れてくる。湯のみを俺の前に置く手は、もう震えていなかった。
「それを聞いて、俺が楽になっていいはずがありません」
「楽になれとは言ってないよ。ただ、事実を話しただけさ」
トメさんは立ち上がり、仏壇の脇の小さな箪笥を取り出した。蓋を開けると、使われた形跡のない皮の名刺入れが一つ収まっている。色の細かい手縫いのステッチが縁に並んでいた。角の丸め方一つにも、職人の手の跡が残っている。
「これはね、うちの人が最後に作り上げた試作品なんだよ。『いつかまた銀行さんと仕事ができる日のために』って言ってね。工場を畳んでも、恨みより先にその日のことを考えてた人だったよ。その日が来るまで、今日のところはしまっておくよ」
蓋を閉じる音が、狭い部屋に小さく響いた。
「おばあさん、確認させてください。あの契約書の日付に心当たりはありますか?」
トメさんは戸棚の引き出しをゆっくりと開けた。引き出しの奥には、ゴムで束ねられた古いお薬手帳が何冊も並んでいる。トメさんはお薬手帳を戸棚から取り出し、古いページをめくった。
「ちょうどこの日はね、寝込んでたんだよ。膝の調子が悪くて」
差し示されたページには、契約の日付と重なる受診の記録が残っている。
「あの整形外科にはね、もう何年も月に一度は通ってるんだよ。その日、家にはいなかったということですね」
「業者が来たのは、その前の日か後の日だったのかもしれないね」
これで、契約の当日にトメさんが自宅を不在にしていたという一点が固まった。
「もう一つ伺います。お宅に固定電話はありますか?」
「風呂場の電話ならね。うちの人と一緒にとっくに処分しちゃったよ。今時、あんな重たいもの置いとく理由もないだろう」
その一言で、店内に残る「確認電話」の記録の虚偽が完全に確定した。ありがとうございます、おばあさん。
「橋村さん」
「あんたを疑って悪かったね」
「謝らないでください。俺の方こそ」
「もういいんだよ、その話は」
俺は家を後にする。玄関先まで見送りに出たトメさんが、戸口でふと足を止めた。
「橋村さん、また来ておくれよ。仕事の話じゃなくてもいいから」
「はい。必ず」
引き戸の閉まる音が、来た時よりずっと軽く聞こえた。
—
午後、応接室の前を雑巾で通りかかると、今日は隙間から声が漏れていた。いつもなら、応接室は「来客中」の札が下がっているだけで、俺は近づかない場所だった。昨日までとは違う、抑えの効かない口調が耳に届く。
「あ、ここに一筆サインしてくれないか?『意思確認は電話も含めて本人に対し適正に実施済み』。これだけだ」
紙を挟んだ書類バサミを、瀬夏の手元に押し付けるのが見えた。
「それ、事実と違います」
「事実かどうか、俺が決める。お前は判を押すだけでいい」
瀬夏は書類から目を離さないまま、一歩も引かなかった。
「私、確認の電話をした記憶も立ち合った記憶もありません」
「記憶にないってだけで、なかったと言いきれるのか」
貝原の声が応接室の壁に低く響いていた。
「言い切れます。おばあちゃんのお宅に、そもそも固定電話がないんです」
「誰から聞いた、そんな話?」
貝原の声のトーンが、初めて落ちるのが分かる。
「私が自分の目で確かめてきました。課長は最初、来店して確認したと言っていたはずだ。今更、話を変えるな」
「変えているのは、課長の方です。窓口のメモには『来店確認』と書いてあります」
一拍置いて、貝原の手からペンが滑り落ちた。
「悪いようにはしない。今だけ、話を合わせてくれればいいんだ」
「悪いようにしないなら、最初から本当のことを言えばいいはずです。サインしないと困るのは、お前の方だぞ」
「脅すんですか?」
「脅してるんじゃない。忠告してるんだ」
「それでも、嘘に判は押せません」
短い沈黙の後、貝原が机を叩く音が響いた。足音が荒く応接室のドアへ近づいてくる。俺はとっさに雑巾を握り直し、何も見なかったふりで壁際に身を寄せた。貝原がフロアの奥へ消えると、瀬夏は肩の力を抜くように長く息を吐いた。その足で、瀬夏は半地下の搬入まで俺を追いかけてくる。
「橋村さん、聞いてましたよね」
「悪いと思った。だが、動けなかった」
「謝らないでください。むしろ、聞いていて欲しかったんです」
瀬夏は手提げの奥から、一枚の封筒を取り出した。
「これ、差し替えられる前の申込書と顧客カードのコピーです」
「いつ、こんなものを?」
「課長に書類を渡す前に、コピー機に寄っただけです。誰も見ていませんでした」
「先日、応接室で見たあの受け渡しは…」
「はい。コピーを取ってから、原本だけを課長に渡しました」
瀬夏は封筒を両手で少しだけ握り直した。
「橋村さんに疑われてるんじゃないかって、ずっと苦しかったんです」
「疑っていた。すまない」
「謝らないでくださいって、言ったばかりです」
封筒の中には、もう一枚、几帳面な字で書かれたメモが入っている。
「課長が最初にどんな説明したか、自分だけのために残していたメモです。『来店して本人確認をした』と最初は言っていたはずなんです。今日、応接室で聞いた話とは、確かに違う」
「怖くなかったといえば、嘘になります。それでも、おばあちゃんの顔を思い出したら、判は押せませんでした」
「これで、少しは戦えますか?」
「十分すぎるくらいだ。今夜、これを織田に届けてくる」
瀬夏は封筒を俺の手のひらに押し付けるようにした。
「私も、何かできることがあれば言ってください」
「窓口でいつも通りに働いてくれ。それが一番助かる」
—
その夜、喫茶店の窓際で織田桐矢が先に来て待っていた。俺は封筒を挟んで、今日の出来事を順に話した。お薬手帳の日付、電話のない家、応接室でのやり取り、保全されていたコピー。その全てを伝え終えるまで、織田桐矢は一度も口を挟まなかった。
「橋村さん、これは支店の中だけで抱える話ではありません。正式に動ける方法はあるか?」
「本人による開示請求は、本部のお客様相談室を通せば支店を経由せず受理されます。加えて、業務監査部への通報書は、私から預かることができます。支店の妨害を飛び越えられるということか」
「はい。今度は書類が消えることはありません。高齢の方への金融商品には、意思確認や適合性の原則が定められています。今回は、その手順そのものが最初から抜け落ちていたことになります」
織田桐矢は書類鞄からノートを取り出し、几帳面な字で書き留めていく。
「揃っていますね。これなら通報書に添えられます。受理までに数日はかかると思います」
「待つしかないということか」
「待つというより、備える時間だと思ってください。本部が動けば、支店の帳簿にも監査の手が入ります」
「今度こそ、書類は消えないんだな」
「私がこの目で確かめます」
織田桐矢はノートを閉じ、少しだけ表情を緩めている。
「本店で机を並べていた頃、橋村さんによく言われました。『数字の裏に必ず人がいる』と」
「言われた側は、覚えているものだな」
「忘れたことなど、一度もありません」
—
通報書が受理されてから、三日後の夜。携帯が鳴った。画面には、織田桐矢の名前が表示されている。
「橋村さん、通報書が正式に受理されました。トメさんの分も、無事に届きました」
「そうか」
「それともう一つ。来週の火曜、創業九十周年の式典で、遠取が高倉に来ます。橋村さんなら、どうしますか?」
その問いは責めるためのものではない。これから何が起きるにせよ、答えを決めるのは俺自身だという念押しだった。
「まだ迷っている」
「だが、逃げるつもりはない」
—
式典の朝。俺はいつも通り、その場所に膝をついた。ロビーの奥では、天井用の紅白幕がほとんど張り終わっている。創業九十周年の垂れ幕の隣に、遠取を迎える縦看板まで用意されていた。瀬夏がカウンターの奥から、いつもの挨拶を寄越す。
「橋村さん、おはようございます」
「おはようございます」
短いやり取りの中に、これまでとは違う何かが互いの間にだけ通じていた。俺は道具箱を下げ直し、いつもの手順で床を拭き始めた。黒い記念碑は、今朝もいつもと変わらず冷たかった。
ロビーへ足を踏み入れると、紅白の幕が天井近くまで隙間なく張り巡らされていた。創業九十周年の垂れ幕の隣に、遠取を迎える縦看板が置かれている。普段は素通りする常連客まで、今朝は足を止めて看板を見上げていく。俺は今日も、開店前の白い光の中で膝をつき、道具を開いた。中身はいつもと少しも変わらない。今日で最後になるかもしれないという思いだけが、胸の底に重く沈んでいた。
足音が乱暴に近づいてくるのが、布を握る手のひらにまで伝わってきた。顔を上げると、峰岸が式典用のネクタイを締め直しながら大股でこちらへ歩いてくる。今朝は、いつもの下打ちだけでは済まない気配があった。
「ちょっと、今日だけは困るんすよ」
峰岸の指先が、俺の腕を掴もうと伸びてくるのが見えた。その声には、いつもの苛立ち混じりの下打ちとは違う、はっきりとした悪意があった。
「清掃員は近づくな」
その一言に、周りで準備をしていた行員たちの視線が一斉にこちらへ集まった。峰岸はモップの柄を奪い取り、俺を裏口の方へぐいと押しやろうとしている。肩に食い込む指の感触に、痛みよりも先に乾いた諦めを覚えていた。俺は何も言い返さず、ただ黙って道具箱の取っ手を握り直した。言い訳も抗弁も、今日この場では何の意味も持たないと分かっていた。
俺が俯いたまま床の木目に目を落としていると、正面玄関の外で黒塗りの車が滑るように停止する音がした。
「遠取がお見えです」
その一言に、峰岸の手から力が抜けていくのが分かった。フロアから溢れ出た行員たちが、赤絨毯の両脇へ次々と列を作っていく。支店で働く行員たちがほぼ全員、その列の中へ収まっていった。峰岸だけが列に加わり損ね、モップの柄を握ったまま立ち尽くしている。俺の腕を強引に押さえていたその手が、この場に一人だけ取り残されていた。峰岸が俺を押しやろうとしたその動きが、皮肉にも遠取の視線をこの場所へ引き寄せることになった。もし峰岸が黙って見過ごしていれば、この視線はきっと他の誰かの上を通りすぎていただろう。自分の悪意が自分自身を追い込んだことに、峰岸はまだ気づいていない。
玄関から現れた白髪の男が、整列する列の前をゆっくりと歩いてくる。出迎えの先頭では、進行役の行員がお辞儀の姿勢を整えていた。だが、白髪の男の足はその手前で止まらなかった。案内の列を素通りし、男はまっすぐ記念碑の前へと歩いてくる。峰岸に肩を押されたまま立っていた俺の前で、男の足がぴたりと止まった。帽子を取る時のような間があった。整列した行員たちの息遣いまで、ぴたりと止まったように感じられる。場の空気が一斉に凍りついた。支店中の行員三十人が整列する先で、遠取が俺に向かって深々と頭を下げた。
「橋村さん、私はあなたに謝らなければならない。本店の廊下を追われたあの日、あなたは大口融資先の粉飾を見抜き、三百億円の損失からこの銀行を守った」
どよめきが列の後ろからゆっくりと広がっていく。瀬夏が口元を抑えたまま、目をうるませているのが見て取れる。峰岸の顔がみるみる青ざめていくのが分かった。自分がたった今、モップの柄で押しやろうとした相手の正体に、峰岸はようやく気づき始めている。普段なら軽口の一つも叩ける男が、今は開きかけた口から言葉らしい言葉を一つも出せずにいる。肩書きだけで人を測ってきた峰岸にとって、この場の光景は物差しそのものの崩壊だったはずだ。
「その罪を、あなたは誰にも着せず一人で背負って去っていた。名誉はすでに内部で回復されている。私はあなたをずっと探していた。業務の記録には、今もあなたの名前を欠いたままの欄が残っている。今日はそれを正式に訂正するために来た」
その言葉に、周りで整列していた行員たちの息が揃って呑まれるのが分かった。誰かの名誉を訂正するために、遠取自らが足を運ぶことなど、滅多にあることではない。それだけの重みを持つ言葉が、今この記念碑の前で俺一人のために置かれている。
俺は、どう答えていいか分からず、ただその場に立ち尽くしていた。
「ありがとうございます」
それだけを、やっと絞り出すことができた。清掃員として膝をつき続けてきた日々と、審査役として書類を睨んでいた日々が、一瞬だけ重なって見えた。どちらの俺も、確かに同じ一人の人間だったのだと、今になってようやく思える。
—
「そして、もう一つ。今朝、業務監査部から報告が上がっている」
遠取の口調が一段低くなるのが分かった。遠取の後ろから、書類鞄を抱えた織田桐矢が一歩前に出てくる。案内されるまま、俺たちは支店長室へと場所を移していた。テーブルの一方には、岩瀬と貝原、そして峰岸が並んで座っている。反対側には、遠取と織田、そして俺が並んでいた。
岩瀬はいつもの柔和な笑みを崩さないまま、両手を軽く合わせた。
「では、皆の前でのお話は少々刺激が強すぎたのでは」
「事実を話しただけだ」
岩瀬の視線が、探るように俺の作業服の上を動いていく。
「元行員とはいえ、今は清掃員ですよ。お客様の情報に触れているなら、それこそ問題ではありませんか」
「その通りです。だから俺は今日、私的な立場として来ました」
俺は懐から一枚の紙を取り出し、テーブルの上に広げた。夜のアパートで何度も書き直した、金の流れの図だ。織田桐矢が、開示請求の書面をその隣にそっと並べた。トメさんの署名の隣に押された拇印が、朝の光の中で異様にくっきりと見える。
「トメさんが契約の当日に不在だった記録です。お薬手帳に受診の日付が残っています。トメさんのお宅には、固定電話がありません。店内に残る『確認電話』の記録とは、明らかに食い違います。システムの記録には、通話時間までご丁寧に入力されていました。電話が存在しない以上、その通話時間は誰かが後から作ったものになります」
「この空白の直後、トメさんの口座からまとまった額が引き出されています。本人には、まるで覚えがありません」
貝原君、この点について説明してもらおうか。遠取の指先で、金色のペンがいつもより速く回り始めた。
「それは電話ではなく、来店時に確認を…」
「ですが、店内システムの契約履歴には『確認電話済み』という表示が残っています。窓口のメモにあるのは『来店確認』の方です」
「メモの書き方が間違っていただけだ」
貝原の声からは、いつもの押し出しの強さが消えている。窓口のメモもあなたの最初の説明も『来店確認』のはずでした。それなのに、システムの記録だけが『電話確認済み』になっている。二つの話は食い違ったままです。貝原の体に汗が滲むのが見えた。
「差し替え前の書類と顧客カードの控えも揃っています。署名の筆跡も鑑定が済んでいます。入力記録やシステムの履歴については、私たち監査部の方で個別に確認を進めています」
俺たちが持ち込んだのは、あくまで表に出ている事実だけだった。数字だけを見て人を切っていた頃の自分なら、決して選ばなかったはずのやり方だった。
「その筆跡は…俺が書いたものじゃない」
貝原がちらりと、隣に座る峰岸へ目をやった。
「では、誰が?」
貝原は答えず、ただ金色のペンを指の間で意味もなく回し続けていた。
「峰岸君、署名を代筆したのはどの契約だ?」
峰岸は口を開きかけ、隣に座る貝原の横顔をちらりと伺った。貝原は見ようともせず、テーブルの一点だけを睨み続けている。
「俺は言われた通りにやっただけで…。課長に言われて入力しただけです。署名も一枚だけ代わりに…」
峰岸の声が次第に震え始めている。貝原の顔が、初めて峰岸の方を振り向いた。その目には、詫びる色も謝る色も一切浮かんでいない。
「結果を出してから言え」
その一言は、もう誰も従わせられない乾いた響きしか持っていなかった。
「結果を出せって、いつもそれしか言わなかったじゃないですか」
貝原は何も言い返さず、視線をそらすだけだった。岩瀬の笑みはまだそこにあった。だが、目の奥の温度だけが少しずつ抜け落ちていくのが分かる。
「支店長として、私は部下の細かな数字までは把握していませんでしたので」
「この割には、随分詳しいようだが」
「支店長には、支店長にしか見えないものもあるんですよ。遠取」
「なるほど。では、聞こう」
岩瀬の笑みの端が、ほんの一瞬だけ細かく震えたように見えた。
「何のことでしょう?」
「誰も金額の話などしていない。八十万かそこらのカードローンで、式典を台無しにするのかね」
場が、一瞬にして静まった。誰も金額を口にしてはいない。俺が紙に描いたのも、織田桐矢が揃えた書面も、具体的な額までは記していなかった。その一言が、岩瀬さんがどこまでこの件を知っていたかを、何より雄弁に物語っていた。岩瀬は自分の失言に気づいたのか、口元の笑みを慌てて引き締めている。だが、もう遅かった。岩瀬は銀の眼鏡をゆっくりと外していく。眼鏡の下から現れた目には、これまでの柔和さのかけらもなかった。長年、行員たちが人格者と呼んできた笑みの下に隠れていたのは、この目だったのだろう。
「大きい金額ではないと言いたかっただけですよ」
「誰もそんなことは聞いていない」
貝原の視線が、初めて岩瀬の横顔へ向けられた。長年、支店の顔として担ってきた相手の素顔を、貝原もまた今初めて見ているようだ。
「船長、あんたも知っていたんですか?」
岩瀬は答えず、ただ窓の外の紅白幕へ視線を逃しただけだった。その沈黙こそが、何よりも雄弁な答えになっていた。
「岩瀬君、この場で全てを明かすつもりはない。だが、店長としての責務は今日を持って解任してもらう。以降は、業務監査部の査問に応じてもらうことになる」
岩瀬の合わせていた両手が、テーブルの上でゆっくりと離れていった。
「貝原君も同様だ。横領した金額については、全額の弁済と相応の手続きを求める」
貝原の指から、金色のペンが滑り落ちる音が部屋に低く響く。拾おうとする素振りさえ、もう貝原にはなかった。支店の稼ぎ頭と呼ばれた男の背中が、テーブルの上でひどく小さく見えた。
「峰岸君。君はまだ引き返せる立場だ。だが、今日限り融資の仕事からは外れてもらう」
「わかりました」
峰岸の声は、もう震えを隠しきれていない。強い側にいれば安心だと信じてきた足場が、今この部屋で音を立てて崩れていくのが分かった。
—
応接室を出ると、ロビーには朝の光がいつもより眩しいくらいに深く差し込んでいた。黒い記念碑がその光を受けて、わずかな艶を帯びている。瀬夏がカウンターの奥から、涙をこらえるような顔でこちらへ駆け寄ってきた。
「橋村さん、全部見ていました」
「見苦しいところを見せた」
「見苦しくなんてありませんでした。ずっと、こういう橋村さんを誰かに見て欲しいと思っていました」
その一言に、かける言葉が見つからず、俺はただ小さく頷いた。
「おばあちゃんには、もう伝わっているんでしょうか?」
「今夜、俺の口から伝えるつもりだ」
瀬夏の表情が、少しだけ柔らぐのが分かった。
「おばあちゃんの通帳、全額戻るように、私からも掛け合います」
「頼む」
—
数日後、正式な処分が固まったと織田桐矢から連絡が入った。岩瀬は懲戒解雇の上、業務上横領に絡む疑いで刑事告訴の手続きに入り、退職金は全額返納と決まったという。支店長という肩書きも、柔和な笑みも、もう誰も口にしなくなっていた。貝原も同じ処分を免れず、着服した金と上乗せしていた手数料の全てを弁済することになったらしい。収益の看板だった男の名前が、通達文の中では他の誰とも変わらない一行に収まっている。峰岸だけは、諭旨解雇という形に落ち着いたと聞いた。トメさんの通帳については、契約自体が無効と認められ、引き出された分がそっくり戻ってくるという。手数料の名目で姿を変えていた分も、一円残らず洗い出されたという。
三人分の処分の知らせを、俺は決して胸のすく思いだけで聞いていたわけではなかった。数字で人を測ってきた男が、数字で裁かれて終わる。その巡り合わせに、どこか苦い味だけが残っている。数字だけを追っていた頃の自分なら、この程度の後味の悪さなど気にも止めなかったはずだ。裁かれるべきものが裁かれた。それだけで済ませられた話を、今は簡単に片付けられずにいる。
—
仕事を終えた足で、下町の路地を抜けてトメさんの家へ向かった。夕方の空気には、秋の冷たさがわずかに深まり始めている。引き戸を叩くと、エプロン姿のトメさんがすぐに顔を出した。以前より顔色が良く、声にも張りが戻っているのが分かる。
「よく来たね、橋村さん。上がっておくれ」
促されるまま、俺は仏間へ通される。線香の匂いに迎えられて、畳の上に正座した。仏壇の中で、福富秋夫の写真が変わらない微笑みを浮かべている。仏壇の前には、供えられたばかりらしい水菓子の小皿が置かれている。
「おばあさん、処分が全部固まりました。通帳の分は、近いうちに全額戻ります」
「そうか。それはありがたいことだよ」
トメさんの声には、これまで聞いたことのない安堵の色が滲んでいた。
「銀行からも、正式に詫びが入るはずです」
「詫びの言葉より、あんたが逃げずにいてくれたことの方が、よっぽど嬉しいよ」
俺は仏壇に向き直り、両手を膝に置いた。
「秋夫さん、工場を切り捨てた融資の詫びを、ようやくここまで持ってこられました。遅くなりましたが、報告します」
線香の煙が天井へ向かって、ゆっくりと伸びていく。トメさんは俺のすぐ隣に腰を下ろしたまま、長い間そっと手を合わせ続けていた。しばらくの間、部屋には二人分の呼吸の音だけが残っていた。
「うちの人も、これでようやく肩の荷が降りただろうよ」
「そう思っていただけると、救われます」
俺はその一言だけで、胸のつかえが少し軽くなるのを感じた。
「あんたを疑ったことも、今なら笑い話にできるね」
「あの時は、疑われて当然でした」
「工場を畳んでからも、あの人は道具だけは捨てなかったんだよ。古い革を撫でるような手つきでね。捨てられなかったというより、手放したくなかったんだろうね、きっと」
しばらくして、トメさんが仏壇の脇から見覚えのある箪笥を取り出した。蓋を開けると、飴色の革の名刺入れが、前に見た時と変わらない姿でそこにあった。
「これ、あんたがもらっておくれ」
「これは、トメさんが」
「うちの人の形見の試作品だよ。『また銀行さんと仕事ができる日のために』って言ってね。今日という日を、うちの人に見せてやれなかったんだよ」
トメさんは名刺入れを両手で押し出すようにして、俺の手のひらに乗せた。
「いただいて、いものでしょうか?」
「今日という日を、うちの人に見せてやれなかったんだよ。あんたが使ってやっておくれ」
俺は名刺入れの縫い目に指を這わせた。飴色の革は、記憶にあったよりも心なしか軽い。角の丸め方一つにも、几帳面だった職人の手の跡が残っている。内側には、小さな刻印が一つ控えめに押されていた。福富皮革工芸という屋号を、俺はもう決して忘れないだろう。
「大事に、使わせてもらいます」
「その代わり、その名刺入れが擦り切れるまで、ここに顔を出すんだよ」
「約束します」
トメさんは気が済んだというように、皺の寄った目元を満足そうに緩めた。
「これからは、私の方も一人だからね。ちょくちょく顔を見せておくれ」
「必ず伺います」
その言葉に、嘘はなかった。この人の元へ通う理由は、もう償いのためだけではなくなっている。
—
数日後の昼休み、事務所に呼ばれて顔を出すと、所長が茶を入れて待っていた。
「橋村、例の出入り禁止の話な。あれ、無くなったぞ。店長があんな形でいなくなるとはな。世の中わからんもんだ。お前、本当は銀行の人間だったんだってな。噂で聞いたぞ」
「今更、隠すようなことでもありません」
所長は湯飲みの縁を指でなぞりながら、しばらく黙っていた。
「戻る気か?」
「まだ決めていません」
「戻るにしろ、うちに残るにしろ、お前のやりたいようにやれ。うちはいつでも席を空けとく。お前が長年手をかけてきた床のおかげで、うちの契約は一件も切れちゃいないんだ」
「ありがとうございます」
湯飲みに残った茶を飲み干して、俺は礼を言い、事務所を後にした。
—
翌日、開店前のロビーに、聞き覚えのある革靴の音が響いた。顔を上げると、遠取がただ一人で立っている。護衛も秘書も連れず、ノーブランドのスーツに古い記章だけをつけた姿だった。先週の式典の時とは違い、行員たちの列も黒塗りの車の音もない。ただ一人の年配の男が、開店前の静けさの中に立っているだけだった。
「朝早くにすまないね。少し話がしたくて」
「遠取が、何のご用でしょうか」
「その呼び方は、もうやめにしよう」
遠取は懐から一枚の辞令案を取り出した。
「融資課長代理として、戻ってきてもらえないだろうか」
差し出された紙には、俺の名前と役職が几帳面な字で記されている。インクの匂いがまだ新しい、刷り上がったばかりの辞令案だった。
「即答はできません」
「分かっている。急かすつもりはない」
俺は道具箱の持ち手に手をかけたまま、しばらく黙っていた。
「五年探した。見つけた時には、清掃員の作業着を着ていた」
「情けない格好、見られましたね」
「情けなくはなかったよ。むしろ安心した。どこにいても、床から目をそらさない男だと分かったからだ」
「一つ、条件があります」
辞令案を挟んだ短い沈黙の中で、俺は一拍だけ間を置いてから続けた。
「現場を見てみてください。机の上だけで審査を終わらせません。判を押す前に、必ず現場まで足を運びます。数字だけを見て人を切り捨てることは、もう二度としません。小さな工場でも、商店街の店でも、断る前に必ず現場を見ます」
遠取の口元が、わずかに緩んだ。長年、鉄面皮で通してきた男の、数少ない表情の緩みだった。
「それが条件なら、こちらから頼みたいくらいだ。気にやってくれ。今度は、誰も止めない」
俺たちは一枚の辞令案を間に挟んだまま、しばらく黙って向かい合っていた。
「少し考えさせてください」
「いつまでも待つよ」
それだけを言い残すと、遠取は振り返らずにそのまま玄関を出ていった。革靴の足音が車寄せの方へ遠ざかっていく。俺はロビーに一人残り、辞令案の文字にしばらく目を落としていた。答えはまだ出ていない。数字だけを追っていた自分に戻るのが怖いのか。それとも、清掃員のままで終わるのが怖いのか。自分でもまだ分からない。トメさんから受け取った名刺入れは、今も道具箱の内ポケットに収めたままだった。それでも、道具箱の底できっちり畳まれた白い布の感触だけは、いつもと変わらず手のひらに馴染んでいる。
—
季節はひと巡りして、また春が来ていた。フロアの窓から差し込む朝日が、机の上を斜めに照らしている。濃紺のスーツの胸元で、革の名刺入れがいつもと違う重みを伝えてくる。机の隅に置かれた「融資課長代理」の札は、まだどこか真新しい手触りのままだった。机の引き出しにしまってある白い磨き布で、決済の前に机の上を一拭きするのが癖になっている。数字だけを追っていた頃は、机の汚れになど目もくれなかった自分がいた。今の俺は、判を押す前に書類の向こうの顔を思い浮かべることにしている。
新しく立ち上げた地元応援ローンは、上限五百万円ほどの地味な商品だった。規模の小さな工房や商店を対象にした枠で、審査には現地確認を必須にしている。企画会議で「そんなもの」と笑い声が上がった時、最後に釘を刺したのは遠取だった。「机の上だけで判断するなと言い出したのは、お前自身だろう」という一言だけで、場は収まった。
今日の決済書には、見覚えのある町の名前が記されていた。記念すべき地元応援ローンの第一号案件だった。申請書の束は以前よりずっと薄い代わりに、めくるたびに人の顔が浮かぶようになった。この一年で判を押した案件はまだ数えるほどだが、どれ一つ忘れたことはない。窓の外を見ると、通りを行き交う人影が朝の光の中で長く伸びていた。判を押す手の重さは、以前より確かに増した気がしている。
書類を鞄に納め、俺は現地へ向かうことにした。商店街を抜ける道のりは、作業服で通っていた頃と変わらない。シャッターの上がった惣菜屋から、揚げ立ての匂いが漂ってくる。八百屋の先には、走りの春野菜が値札と共に並べられていた。顔馴染みの店主と目だけで小さく会釈を交わしながら通り過ぎる。すれ違う顔ぶれの中に、俺を清掃員だったと知るものはもう少ない。通い慣れた道は、鞄の中身が磨き布から決済書に変わっただけで、少し違って見えた。
錆びたシャッターが降りていた路地に、久しぶりに足を踏み入れる。雨に打たれていた夜とは違い、通りには春の日が柔らかく満ちていた。錆びた壁に残っていた看板の跡には、削り出したばかりの木の看板が掛かっている。木の看板には「革工房 福」と、まだペンキの匂いの残る文字で書かれていた。近所の雑貨屋の女将までもが、開店祝いの小さな鉢植えを手に立ち寄っている。看板の下には、開店を知らせる小さな花輪が控えめに一つだけ飾られていた。
戸口の前で、若草色のカーディガンを羽織ったトメさんが、俺に小さく手を振っていた。
「橋村さん、待ってたよ」
「お待たせしました」
トメさんは目を細めて、俺の顔をしばらく見つめていた。
「こういう日を、うちの人にも見せてやりたかったよ」
「今日は、俺がその代わりに見てきます」
数字を数えることしかできなかった俺が、今日はこの足でここへ戻ってきた。工房の中には、革の匂いと木の香りが入り混じっていた。作業台の上には、裁断されたばかりの革が几帳面に並んでいる。奥から作業着の男が現れ、緊張した面持ちで俺に小さく会釈をした。
「橋村さん、この度は本当にありがとうございます」
「決済が通っただけです。ここからは、あなた方の仕事です」
棚に並んだ古い革包丁は、ほこり一つ落ちていない。使い込まれた後も、指先が革を長く支えてきた職人たちの手を思わせる。隣に立つ妻が、革のサンプルを一枚俺の手に乗せてくれた。
「父の代から使っていた型紙を、少しずつ直しているんです」
作業台の隅に置かれた帳面には、几帳面な字で仕入れと見積もりが記されていた。
「月々の返済は、無理のない額にしてあります。まずは、続けることを考えてください」
「はい。父も、同じように助けられたと聞いています」
期間は五年。初めの半年だけ据え置きにしてある。棚の端には、仕上がったばかりの長財布が一つ控えめに置かれていた。その財布はいずれ店先に並ぶ日を待つように、つややかな仕上がりを見せている。
「近所の方が、もう何人か予約してくださっているんです。商店街の口コミというのは、思っていたより早く広がるものらしい」
俺は鞄から決済書を取り出し、その場で承認印を押した。指先に伝わる革の硬さに、かつて数字だけで切り捨てた工場の記憶が重なって、消えていく。
「あんたが、うちの人の顔を見てくれたからね」
俺は何も言えず、ただ小さく頷いた。トメさんは黙って腰を上げ、部屋の奥にある小さな棚の方へと歩いていく。棚の隅の上に、秋夫さんの写真が飾られている。トメさんが線香を一本、俺の開いた手のひらの上にそっと乗せてくれた。
「ご報告が遅くなりました」
短く手を合わせただけで、多くを語る必要はなかった。
—
翌朝、開店前のロビーに一番乗りしたのは、いつも通り俺だった。通用口から入ってきた瀬夏の胸元に、見慣れない名札が下がっている。「お客様相談」という文字が、朝の光を受けて誇らしげに小さく光っていた。
「板についてきたな」
「まだ全然慣れませんけどね」
瀬夏は照れくさそうに名札の端を指先でなぞっている。
「窓口の頃より忙しそうに見えるが」
「お客様の顔を見る仕事は、増えましたよ」
瀬夏の受け答えには、以前よりずっと落ち着いた響きが感じられた。
「相談の件数は、去年より増えているらしいな」
「はい。おかげ様で、毎日忙しくしています」
俺たちはそれ以上、互いの先のことには触れなかった。聞かなくても分かることと、聞いてはいけないことの区別は、この一年で身についたものだ。瀬夏はカウンターの奥へ、いつもと変わらない足取りで歩いていった。
一人になったロビーで、鞄から古い白い布を取り出す。正面玄関脇の記念碑の前に膝をつき、布で一拭きした。窓の外では、商店街の看板に朝日が反射して眩しいくらいに輝いている。パン屋の換気扇から漏れる匂いが、今日も通りに漂っていた。通用口の外で、警備員があくびを一つ噛み殺していた。駐輪場の脇では、パートの誰かが自転車のかごから買い物袋を下ろしている。植え込みの根元には、何も知らない小さな花がいくつか顔を覗かせていた。春先特有の、まだ少し冷たい風が、開いたままの通用口から吹き込んでくる。
今日もまた、いつも通りの一日が始まろうとしている。道具箱の代わりに、今は書類鞄を下げて、俺はこの床の上に立っている。開店の時間まで、あと少しだった。



