その十二月の終わり、雨が降っていた。大沼正幸は、母の葬儀の場で、自分の人生が何かから滑り落ちていくような感覚とともに立っていた。五年前に買った喪服は、体重が少し落ちたせいで、肩回りが余っていた。それが気になったが、どうしようもなかった。
控室で親族たちが集まる中、正幸は部屋の隅でお茶の入った紙コップを持って立っていた。声をかけられるたびに「ご丁寧にありがとうございます」と言った。何度言ったか数えていなかった。
控え室のドアが開き、冷たい空気とともに正斗が入ってきた。三十五歳になる妹の息子だ。脳根のスーツに、傷一つない革靴。腕時計もシンプルだが上質なものだった。顔には余裕があった。正幸はその姿を見た瞬間、何かが胸の中で動くのを感じた。
「おじさん、今日は本当にお疲れ様でした。」
「ああ。」
「少し前、駐車場で足を滑らせたように見えましたが、大丈夫でしたか?」
正幸の耳がじわりと熱くなった。確かに、最上の石段を降りていた時、正斗のアルファードに目が行き、それで足元がおろそかになった瞬間があった。ほんの一瞬のことだったが、周囲の数人がこちらを見た。六十五にもなって足元を滑らせるとは。正斗に見られていたということが、胸に刺さった。
その後の仮想の間、正幸は正斗の車のことを考えていた。自分には持てない車。あの年齢で、それだけの収入があるということだった。
国別の後、場所を移して解食になった。席は自然に年配の親族が一方に、若い世代がもう一方に別れた。正幸は上寄りの席に座った。日本酒が回ってきた。飲むつもりはなかったが、気づけば飲んでいた。
テーブルの向こう側に警戒がいた。正幸の一人息子だ。壁際の席に座っていた。隣に誰もいなかった。黒のジャケットを着ていたが、素材が違った。正斗のスーツと同じ黒でも、質感が全く違った。正幸はその違いを見た。見なければよかったと思いながら見た。警戒は今、埼玉の外れで一人暮らしだった。市の図書館で非正規の職員として働いていた。給料は高いとは言えず、車も持っていなかった。結婚もしていなかった。その事実が、今日のこの席で正幸の中で固まっていった。
酒が進むにつれ、堀内が正斗の仕事の話を始めた。食品メーカーで海外向けの営業を担当している。大変ですがやりがいはあります、と正斗は答えた。若いのに立派だと堀内は言った。家も買ったとか聞いたが、昨年、妻の実家の近くに一軒立てました、と正斗は言った。
正幸はその会話を聞いていた。家を建てた。三十四歳で家を建てた。正幸が家を買ったのは三十九歳の時だった。ローンを抱えながら、給料を切り詰めながら、やっと買った。それでも誇らしかった。でも今のこの感覚は、誇らしさではなかった。
テーブルの向こう側で、警戒が箸を置いた。誰とも話していなかった。
「警戒。」
警戒が顔を上げた。テーブル全体の声が少し下がった。
「お前はいい加減、自分の人生をちゃんと考えているのか。」
警戒は何も言わなかった。
「正斗を見ろ。同年だろう。家を建てて、奥さんもいて、仕事もちゃんとやっている。お前はどうだ? 図書館で非正規で、一人で狭い部屋に住んで、このまま何年過ごすつもりだ?」
テーブルが静かになった。警戒は視線を落とし、膝の上で右手がゆっくりと握られるのが見えた。
「三十五にもなって、情けないと思わないのか? 親の顔を潰しているとは思わないのか。今日みたいな席に来ても、あんな格好で誰とも話さないで隅に座って…」
「おじさん。」
正斗だった。テーブルの空気が止まった。正斗の顔は、さっきまでの穏やかな顔ではなかった。
「お兄さんを責めないでください。」
声は低かった。荒げてはいなかった。しかし静かすぎて、かえってテーブル全体に届いた。
「おじさん、一つだけ聞いていいですか?」
正幸は答えなかった。
「自分のことを、幸せだと思ってみていますか?」
テーブルに静寂が落ちた。正幸はその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。幸せかどうかと聞いている。誰のことを? 正斗が自分自身のことを言っているのか、それとも別のことを言っているのか、一瞬分からなかった。
正斗は目を伏せた。今まで気づかなかった疲れが、その一瞬に顔の表面に出てきたようだった。
解食はその後も続いたが、誰も大きな声を出さなかった。正幸はそれ以上何も言えなかった。「幸せだと思ってみていますか?」という問いが、胸の中にそのまま残っていた。答えがなかったのではなかった。答えを探しているうちに、何が問われているのかが分からなくなっていた。
解食が終わり、店の外に出ると雨がまだ降っていた。正斗は別の親族と話しながら自分の車の方へ歩いていった。正幸は店の軒下で警戒を探した。警戒は少し離れたところに一人で立っていた。傘を持っていなかった。
「どうやって帰る。」
「電車で。」
「そうか。」
それだけだった。正幸は傘を開いて雨の中に歩き出した。振り返らなかった。駐車場で、正斗の大型右番が静かに出口へ向かうのを見た。テールランプが雨の中で赤く光り、曲がり角を過ぎて消えた。
駅まで歩きながら、雨音の中でその問いがまだ響いていた。
その翌朝、正幸は区役所の前に立っていた。受付で整理券を取り、役所の硬い椅子に座り、四十分近く待って、第三窓口に呼ばれた。
「戸籍東本はお持ちですか?」
「お母様の余貯金や不動産はございますか?」
「ありません。」
その言葉が空中に浮かんだまま消えていくような感覚を覚えた。手続きは一時間近くかかった。書き損じた用姿を書き直し、証明書類を出し直し、全てが終わったのは十一時を過ぎていた。
母が残したものは、小さなアパートの一室に置かれた家具と、数百円の残高が残った郵便貯金の通帳だけだった。それだけだった。
帰り道、スーパーに立ち寄った。白菜が百八十九円になっていた。先週は百四十九円だったはずだと思い、値札をもう一度確認した。正幸は白菜を棚に戻し、代わりに反玉の小さな袋を取った。それでも九十八円した。
自宅に戻り、一人で味噌汁を作って、昨日のご飯を温めて、静かに食べた。テレビはつけなかった。
食事を終えてから、迷彩書の入った引き出しを開けた。電気代、ガス代、水道代、それぞれの直近三ヶ月分の請求書を並べた。どれも去年よりわずかに上がっていた。電気代は二百円以上、ガス代は三百円近く上がっていた。金額としては小さい。しかし、それが毎月続いていた。
正幸は計算した。月の支出は、年金と夜間警備の収入を合わせて、ギリギリ賄える水準にある。何か一つ予定外のことが起きれば、その均衡はすぐに崩れる。母の葬儀と手続き関連の費用はすでに貯金から出した。残高は減った。
夕方、警備会社から翌月のシフト表がメールで届いた。来月は月二十八回の夜間勤務が入っていた。今月と同じだった。減りも増えもしない。
その夜、正幸は七時半に家を出た。制服にアイロンをかけ、靴を磨き、電車に乗って、駅から徒歩八分の場所にある七階建ての商業テナントビルに着いた。夜の九時から翌朝六時まで、エントランスと駐車場の巡回、合飯カメラの監視、トラブルへの対応。
ロッカーで同じ時間帯に勤務する田中という五十代の男と言葉を交わした。
「今日も寒いですね。」
「そうですね。」
それだけだった。
勤務が始まって二時間ほど経った頃、エントランスが騒がしくなった。二十代と思われる男が三人、肩を組みながら入ってきた。スーツ姿で、ネクタイが緩んでいた。飲んできたのは明らかだった。
「こちらは現在閉中です。ご要件をお聞かせいただけますか?」
三人のうちの一人が振り向いた。目が赤かった。
「ああ、閉まってんの。」
見るというよりも、見下ろすように正幸を見た。三人は笑い声をあげ、そのまま外に出ようとした。しかし、その途中で一人が持っていたコンビニの袋から缶を取り出し、飲みながら歩き始めた。缶の中身が少し床にこぼれた。
正幸はそれを見て、足を止めた。「清掃の方が困りますので」と言いかけて、声を飲み込んだ。三人はもう外に出ていた。自動ドアが閉じた。
正幸は清掃用具の棚から雑巾を取り出し、床の染みを拭いた。膝をついて、床に手をつきながら拭く。誰も見ていなかった。防犯カメラだけがその様子を記録していた。
その夜、上司からメッセージが届いた。来月から巡回の記録は紙の用姿ではなく、専用アプリに入力する形に変わるという連絡だった。操作方法は来週の調礼で説明するとあった。正幸はアプリを使いこなせるかどうか自信がなかった。聞くことも、弱みを見せることも、六十五年間生きてきた習慣として難しかった。
翌朝六時に勤務が終わり、駅に向かいながら財布の中の千円札を数えた。商店街の入り口のパン屋から、焼きたてのパンの匂いがしていた。通り過ぎた。
その日の午後、正幸の携帯電話に着信があった。画面を見ると、正斗の名前が表示されていた。
「おじさん、今夜少し時間ありますか? 話したいことがあって。昨日のこと、ちゃんと続きを話せなかったから。」
正幸は窓の外を見た。空は曇っていた。
「分かった。」
その日の夕方五時半、正幸は駅から歩いて十分ほどの場所にあるファミリーレストランに立った。奥の席に正斗が先に来ていた。窓の外には線路が見えた。
「昨夜はああいう形で終わってしまって。あの後、おじさんはどうされましたか?」
「別に。」
正斗は少し間を置いた。窓の外を電車が通りすぎた。テーブルの上の水のグラスがかかに揺れた。
「おじさん、自分は咲夜あの場で言い切れなかったことがある。車のこと、家のことも話しました。でも、言わなかったことがある。」
正幸は黙って待った。
「自分がどういう立場でその家に住んでいるか、より、毎日どういう気持ちで過ごしているか、ということです。」
声が少し低くなった。
「義父は、自分の家に住ませてやっているという意識が常にある人間です。面と向かってそういうわけではないけど、行動や物言いの全てにそれがにじみ出ている。例えば、子供たちの習い事を決める時、自分と妻が相談して決めようとすると、義父が別の案を出してくる。最初は提案という形を取っているけど、それを断るか保留にすると、翌日か翌々日に妻が自分のところへ来て『お父さんが会ってるんだけど』という話をする。それが何回か続くと、結局義父の意見の通りになっている。そういうことが何年も続いている。」
正幸は黙って聞いていた。
「先月は、長男の中学進学について具体的な学校名を上げてきました。できれば自分たちで考えたかった。でも、その学校に決めなければ、どういう雰囲気になるかがもう見えていた。義父が黙ります。食事の時も、家の中ですれ違う時も、妻は居心地悪そうになる。子供たちが空気を読んで静かになる。それが数日続く。そういう沈黙の使い方を、義父はよく知っている。」
その話を聞きながら、正幸は何かが胸の奥で動くのを感じた。咲夜のことを思い出した。商校代の前で、警戒が黙って俯いていたこと。あの夜、自分が警戒に向かっていった言葉の数々が、記憶の中で形を取り始めた。
「話を戻します。自分はおじさんに対して怒りたかったわけじゃない。昨夜、おじさんが兄さんのことを責めるのを聞いて、自分は止めたかった。でも、それは兄さんを守りたかったからじゃない。正確には、おじさんに早まって欲しくなかったんです。」
「早まる?」
「おじさんが、今どれだけのことを知らないで言っているのかを、ちゃんと伝えたかった。」
正幸はコーヒーを一口飲んだ。苦かった。
「一つ聞いてもいいか。」
「はい。」
「あの車と家のことを、今日まで誰かに話したことはあるか?」
「ありません。妻にも。」
「なぜ?」
「妻は義父の娘だから。妻を困らせたくない。それに、妻自身も状況を分かっていると思う。言葉にしないだけで。」
正幸は窓の外を見た。空が少し暗くなっていた。
「正直に言います。おじさんから見て、自分の生活は立派に見えると思う。車もある、家もある。子供も二人いる。世間的な水準からすれば、文句のない生活に見える。」
正幸は黙っていた。
「でも、その水準というのがそもそも何なのかという話なんです。おじさんが兄さんに求めていること、それは今の日本で実際に手が届くものなんでしょうか?」
「それは…昔はちゃんとやっていれば…」
「昔は、と。そこが問題なんです。」
正斗は上着のポケットからスマートフォンを取り出し、文部科学省と厚生労働省のデータをまとめたウェブページを表示した。
「令和七年度の大学進学率は58. 6%です。これは過去最高水準に見えるけれど、逆に言えば、まだ四割以上の若者が大学に進んでいない。おじさんが大学を出ていないことを失敗のように言う時、おじさんは日本の若者の半分近くを一斉に失敗者と呼んでいることになる。」
正幸は画面を見た。
「それだけじゃない。大学を出たとしても問題は続く。今、新卒で就職した若者の三人に一人が、三年以内に最初の会社をやめている。これは数字で出ている事実です。」
「だからと言って…」
「おじさん。兄さんが以前務めていた会社で何があったか、おじさんはどこまで知っていますか?」
正幸は答えなかった。
「残業が毎月百時間を超えていました。休日出勤が当たり前で、有求を取ると上司から嫌みを言われた。会議で怒鳴られることが日常だった。そういう環境に、兄さんは三年間いた。おじさんから『やめるな』と言われていたから。」
正幸の手がテーブルの上でわずかに動いた。
「ある時、兄さんから連絡があった。声がおかしかった。自分は当時学生だったけれど、何か普通じゃないと思って話を聞いた。『兄さん、もう続けられない』と言っていた。声が震えていた。あの時、兄さんは限界でした。」
正幸は何も言えなかった。
「おじさんがその頃、何と言っていたか覚えていますか? 『三年は我慢しろ。社会ってそういうものだ。弱い人間が使い物にならないのは当然だ。』そう言っていた。」
正幸はグラスの水滴に指が触れた。冷たかった。
「自分が兄さんを会社の近くのファミレスに連れ出して、二時間話した。その後、兄さんは会社をやめた。おじさんはものすごく怒った。自分にも電話してきた。『あんな弱い息子に育てた覚えはない。正党前が余計なことをしたせいだ』って。」
「でも、自分はあの時以外の選択肢はなかったと、今でも思っている。あのままにしていたら、兄さんは今ここにいなかったかもしれない。そういう状況でした。」
正幸は視線をテーブルに落とした。窓の外でまた電車が通った。
「おじさんを攻めたいわけじゃない。おじさんはおじさんの時代の常識で、正しいことをしようとしていた。それは分かる。ただ、その常識と今の現実がずれていることを、誰かが言わないといけないと思った。」
正幸は何も言わなかった。
「おじさんの世代が我慢して働いてきたことが、日本の経済を作ったことは事実だと思う。でも、その時代に通用した方法が今の時代でも通用するとは限らない。時代が変わった。それは誰かの失敗じゃなくて、ただ変わったということだと思う。」
しばらく二人とも黙っていた。
「一つ確認したいことがある。」
「はい。」
「あの子は、今どうしているんだ。」
「図書館の仕事を続けています。給料は高くないけど、職場の雰囲気は悪くないって言っていました。本を扱う仕事だから、会っているんだと思います。」
「一人で住んでいるのか。」
「はい。埼玉の外れの方に、小さい部屋を借りています。」
正幸は黙った。胸の中で何かがゆっくりと動いた。長い間固まっていた場所から、形のはっきりしない何かが少しだけ動いた。
会計を済ませ、店を出ると外の空気はさらに冷えていた。駅に向かって二人で少し歩いた。交差点で信号が変わるのを待ちながら、正斗が言った。
「おじさん。昨夜のことは、誰も根に持っていません。おじさんが気にしているなら、それは言っておきたかった。」
正幸は何も答えなかった。信号が青に変わった。二人は別々の方向に歩き始めた。正幸は一度も振り返らなかった。
帰りの電車の中で、正幸は正斗が言った言葉を、一つ一つ確かめるように思い返した。限界だった。あのままにしていたら、兄さんは今ここにいなかったかもしれない。声が震えていた。すぐに会いに行った。
自分はあの夜、何をしていたのだろう。正確には覚えていなかった。警戒が会社をやめたという連絡を受けたのは確か月曜日の朝だったと思う。電話で声を荒げた記憶はある。使い物にならないとか、情けないとか、そういう言葉を言った記憶もある。しかし、その前の夜、あの夜警戒がどういう状態でどこにいたのかということを、自分は全く知らなかった。
翌朝五時に起きて、緑茶を入れ、新聞を読もうとしたが文字が頭に入ってこなかった。
午前中は特に予定がなかった。正幸は押入れの中から古いダンボール箱を引っ張り出した。亡くなった母の遺品の一部が入っていた。写真や手紙の束、それと使われなくなった陰間が数本入っていた。手紙の束は母が生前に書いて出せなかったものらしく、宛名のない封筒が三通あった。正幸は封を開けるかどうか少し考え、開けなかった。
昼過ぎに近所の郵便局に行った。母の銀行口座の解約に必要な書類の一部を窓口で確認したかったからだった。帰り道、商店街を通りながら、昼間のこの時間を歩いているのは年金生活者と主婦と低年退職者が中心だった。正幸も今やそのうちの一人だと気づいた。制服も名刺もない昼間の時間は、ただの六十五歳の老人だった。
帰宅して昼食に残り物で済ませてから、しばらく椅子に座ったままでいた。勝人からメッセージが届いたのは夕方の四時過ぎだった。昨日はありがとうございました。少し言いすぎたかもしれないと反省しています。おじさんのお気持ちを傷つけていたら申し訳ありません、という内容だった。正幸はメッセージを読んだ。返信しなかった。
言いすぎたという言葉が引っかかった。正斗が言いすぎたのではない。自分が知らなすぎただけだ。
翌日の午後、正幸は再び正斗から連絡を受けた。「今日もう少し話せませんか? 昨日言いかけたことで、まだ続きがある。」正幸は少し考えてから、「分かった」と返した。
待ち合わせは同じファミリーレストラン。時刻は午後三時。今日は正斗が先に来ていた。スーツではなく、カジュアルな格好だった。昨日よりも若く見えた。
「おじさん、昨日は申し訳なかった。」
「謝らなくていい。」
正斗は少し驚いたように顔をあげた。
「聞かせてくれ。昨日言いかけたことがあると書いてきた。」
「はい。」と正斗は小さく息をついた。「昨日自分が言いかけて止めたことがある。兄さんの話ではなくて、数字の話です。おじさんは、機能大学を出るのは当然で、まともな会社に長く務めるのが当然で、家を持って家族を養うのが当然だという考え方をされていた。自分は、その考え方の前提そのものが今の現実と会っているのかを確かめたかった。」
「会っていないと言いたいのか。」
「会っていないと感じているというだけでは弱いので、数字で確かめたかったんです。昨日スマートフォンを出したのは、そのためでした。」
「大学進学率の話は昨日少し出た。」
「はい。それは入り口です。問題はその先にある。大学を出たとして、その先が昔のように機能しているかどうかということです。」
「機能していない。」
言ってしまってから、自分がその言葉を選んだことに少し驚いた。
正斗は頷いた。「おじさんの時代、昭和の高度成長期から安定成長期にかけて、会社に長く務めると何が起きたか。給料が上がった。それだけじゃなかった。住宅ローンが通った。会社が家族の生活の保証をした。年功序列の制度があって役職が上がった。子供の教育費も今より安かった。国立大学の学費は今の三分の一以下だったんです。」
正幸は記憶をたぐり寄せた。確かに、そこまでの負担ではなかったような気がした。
「でも今は違う。国立大学の標準的な事業量は今や年間五十三万五千八百円。四年間で二百万を超える。これに入学金と生活費を加えたら、首都圏に住みながら国立大学に通う場合、四年間の総費用は平均で六百万から八百万円に達する。私立に行けばさらに高い。」
「そして、そこに奨学金が加わる。日本の奨学金制度の多くは給付型ではなく太陽型、つまり借金です。大卒者の53%が奨学金を借りている。平均の借入れ総額は三百万円台後半です。つまり、今の大卒の半数以上は社会に出る時点で、いきなり数百万円の負債を背負ってスタートしている。」
正幸は手元のグラスを見た。
「そこから就職すると。初任給は上がってきているとはいえ、手取りで見ると月に十五万円前後が中央値に近い水準です。そこから家賃、食費、通信費、奨学金の返済。東京や首都県では、家賃だけで手取りの三割近くを占める場合も珍しくない。」
「それでも、結婚して子供を持ち、家を買えというのが今の社会の標準的な期待なんです。」声にトはなかった。むしろ、その淡々とした言い方が正幸には重く感じられた。
「フラット35を運営する住宅金融支援機構のデータによると、地図都県均衡で土地付きの一戸建てを購入する場合の平均総額は五千万円を超えています。マンションも大差ない。子供二人を大学まで育てると、教育費だけで二千万円以上かかる。乗用車を維持すると、年間で四十万円から六十万円の出費になる。」
正幸は計算しようとしてやめた。
「足してみると、住宅、教育、車、それだけで七千万から八千万円規模の話になる。これを年収四百万台の若者が、奨学金の返済をしながら、税と社会保険料を差し引かれた手取りで賄えという。」
正幸は黙っていた。
「おじさんの時代は、物価と賃金が連動して上がっていった。家を買うことが資産形成を意味していた。我慢して働き続けることが、実際に生活水準の向上に直結していた。それは本当のことで、事実だったんだと思う。」
「だが今は違う。」今度は正幸自身が言った。
「賃金が実質的に上がっていない時期が三十年続いた。物価だけが上がり始めた。若い世代は将来の年金に対しても不安を持っている。公的年金だけでは老後の生活を維持できないというのは、もう政府も認めている話です。」
正幸の胸の中で、何かが音もなく崩れるような感触があった。
「おじさんは、今どういう状況にあるか聞いてもいいですか?」
正幸は少し考えた。隠すことでもないと思った。
「年金は月に約十四万円出る。それだけでは足りないから、警備の仕事をしている。二つ合わせてギリギリだ。」
「老後の蓄えはありますか?」
「少しある。」しかし、その「少し」という言葉が引っかかった。正確に言えば、数年前まで持っていた貯金の一部は母の介護関連の費用に使い、葬儀でまた減った。老後の備えと呼べる水準かと言われると、自信がなかった。
「以前、政府が老後に二千万円必要だと言って問題になったのを覚えていますか?」
「覚えている。」
「あの数字は2019年のものです。当時の物価水準で計算したもの。その後、物価は上昇した。同じ生活水準を維持するために必要な老後の備えは、今では二千万円では足りないという試算が複数出ている。三千万円以上必要だという声もある。それだけインフレが現実に進んでいる。」
「おじさんも、今その現実の中にいる。年金だけでは足りない。働き続けなければならない。それはおじさん個人の失敗ではなくて、今の日本社会の構造の問題なんです。」
正幸は窓の外を見た。午後の光が傾いていた。
「だとすると、自分は警戒に何を求めていたんだ?」
正斗は答えなかった。答えは正幸自身が出すべきだということが、その沈黙では勝った。
「自分が手に入れられなかったものを、あの子に求めていたのか。」
「おじさんが、啓介さんに怒っていたのは、啓介さんへの怒りだったんでしょうか。」
正幸はその言葉の意味を考えた。しばらく考えた。答えが出てきそうで、出てこなかった。
「分からない。」
「自分も分かりません。でも、怒りというのは何かへの恐怖や焦りが形を変えたものだと聞いたことがある。おじさんが啓介さんを責めていた時、おじさんの中に何があったのかは、おじさん自身しか分からない。」
正幸は静かに息を吸った。昔のことを思い出した。定年を迎えた日のこと。社長に挨拶をして、同僚と酒を飲んで家に帰ってきた夜。なぜかひどく空気な気持ちになったこと。翌朝目が覚めた時に、今日はどこへも行かなくていいと気づいた時の、奇妙な感覚。
「定年後の最初の半年が一番から買った。」話すつもりはなかったが、口から出てしまった。「何者でもなくなった気がした。会社の名前が取れると、自分が何者かを証明するものがなくなる。名刺がなくなる。毎朝出かける理由がなくなる。そういう感覚だった。」
正斗は頷いた。「それは本当のことだと思います。」
「だから、あの子がきちんとした会社に務めて欲しかったのかもしれない。自分がそこに歯価値を見い出せなかったから。」
長い沈黙があった。
「おじさん。一つだけ確認していいですか?」
正幸は目を向けた。
「啓介さんのことを、今でも大切に思っていますか?」
正幸は即座に答えなかった。即座に答えられない自分に、また少し驚いた。答えることが怖いのではなかった。どう答えれば正確なのかが分からなかった。
「思っている。ただ、うまく言えない。」
「言わなくていいと思います。言葉にするのが難しいことは、言葉にしなくていい。」
正幸は正斗を見た。この子は、と思った。この子はずっと自分に何かを渡そうとしている。石粒を投げているのではない。何かを手渡そうとしている。
「話が変わりますが、おじさん、一つ聞いてもいいですか?」
「なんだ。」
「おじさん自身は、今の仕事をどう思っていますか? 夜間の警備の仕事。」
正幸は少し間を置いた。
「正直に言うと…情けないと思っている部分がある。三十年以上、管理職として働いてきた。人を動かす仕事をしていた。今は、一人で廊下を巡回してゴミを拾っている。」
「おじさんが、自分に言い聞かせているんだ。生活のためだ。仕方ないと。しかし、内側でどう感じているかと聞かれれば、正直なところを言えば、そうだ。情けないと思っている。」
「それを、情けないと感じる必要があるのかどうか。」
正幸は言葉に詰まった。
「おじさんが情けないと感じているのは、なぜですか? その仕事に問題があるからですか? それとも、その仕事をしているという事実が、おじさんの中の何かの基準を下回っているからですか?」
「校舎だ。」
「その基準は、誰が作ったものですか?」
正幸は答えられなかった。
「社会が作ったのか、自分が作ったのか、それとも親から受け継いだのか。自分でも同じことを考えたことがあります。自分が義父の家に住んで、義父の金で生活していることを人に言えないのはなぜか。それも、誰かが決めた基準を内側に飼っているからだと思う。」
「その基準が現実に合っていないとしたら。その基準を守るために現実を攻めても、何も変わらない。」
正幸は息を吐いた。長い間えていた何かが、少し緩んだような音がしたのかもしれなかった。
「おじさん。昨日から今日にかけて、だいぶ無理なことを言ってきたと思う。おじさんが長い時間をかけて積み上げてきたものを、一気に崩すようなことを言ってしまった。それが正しかったかどうか、自分にも分からない。」
「正しかった。正しかった。聞きたくなかったけれど、正しかったと思う。正確には、まだ全部は受け入れられていない。だが、知る必要があった。」
正斗は少し目を細めた。何かを言おうとして、止めた。
「お礼を言う。」
「ええ。」
「昨日と今日、時間を作ってくれた。お前が言わなければ、自分はずっと知らないままだった。それはいいことではなかった。」
「おじさんが聞いてくれたから、言えたんです。」
会計は今日は正幸が二人分払った。店を出ると、外は完全に暗くなっていた。
「一つ聞いていいか。お前の家の話、今後どうするつもりだ。」
正斗はしばらく考えた。「正直、まだ分かりません。すぐに何かを変えられる立場にない。子供がいるし、妻のことも考えると、急には動けない。」
正幸は頷いた。
「ただ、こうしておじさんと話せたことで、少し楽になった気がします。誰かに話すということが、こういうことかと思った。」
「そうか。」
交差点の信号が青に変わった。正斗は餌釈して別の方向へ歩き始めた。
自宅に帰ってから、正幸は台所でお茶を入れて食卓に座った。夕食を作る気力がなかった。カンパンを取り出して食べた。食べながら、警戒のことを考えた。最後に顔を見たのは一年以上前だった。葬儀の日に遠くから姿を見た。声はかけなかった。
正幸はスマートフォンを手に取った。連絡先を開いた。警戒の名前があった。親指が画面の上で止まった。書けなかった。まだ書けるべきではないという感覚があった。何を言うのか、何を言えるのか、それが決まっていなかった。言葉のない状態で話し始めることで、また何か取り返しのつかないことを言いそうだった。
スマートフォンをテーブルに置いた。お茶を飲んだ。覚めていた。
「おじさんが啓介さんに怒っていたのは、啓介さんへの怒りだったんでしょうか。」その問いに対して、正幸はまだ答えを持っていなかった。
その夜も、正幸はなかなか眠れなかった。「老後の備えが三千万円。」そう聞いた時、正幸は即座に自分の通帳の残高を思い浮かべた。数字は頭に入っていた。それと三千万円を比べると、差がはっきりしすぎて考えるのをやめたくなった。しかし、やめられなかった。
求めていたのは成功ではなかったかもしれない。自分が手に入れられなかった安心を、警戒に手に入れて欲しかったのかもしれない。しかし、その安心が今の時代に存在するものなのかどうか、自分は一度も疑ったことがなかった。
翌朝、正幸はいつもより三十分遅く目が覚めた。新聞を開くと、物価上昇についての記事が出ていた。食料品と光熱費の値上がりが続いているという内容だった。正幸はその記事を最初の数行だけ読み、それ以上読む気になれなかった。
午前中は近所を少し歩いた。目的のない散歩だった。百円均一の店に入り、台所用のスポンジを買った。棚の前でスポンジを選びながら隣の棚を見ると、小さな観葉植物が並んでいた。小さな鉢に入った植物。値段は百円だった。正幸はしばらくそれを見てから、スポンジだけを持ってレジに向かった。
昼食を終えてしばらくして、正斗からメッセージが届いた。「おじさん、今日また話せますか? もう少しだけ続きがあります。」
また来るのか、と思った。しかし、すぐに断る気にはなれなかった。「夕方ならいい。」と返信した。
午後四時、正幸は同じファミリーレストランの前に立っていた。今日も正斗は先に来ていた。
「お前は礼儀に正しいな。」コートを脱ぎながら、正幸は独り言のように言った。
「そう育てられました。」と正斗は言った。「義父にですけど。」
それから少し笑った。乾いた笑いだった。正幸もわずかに表情をやらげた。
「今日は何の続きだ。」
「昨日話した数字の続きです。住宅と教育費の話までしました。今日は、その先を話したかった。おじさんが啓介さんに求めていた生活像について、もう少し具体的に数字を当てはめてみたかったんです。」
「おじさんが啓介さんに持っていたイメージを確認していいですか? 定職についていて、結婚して、子供がいて、家を持っている。それが普通の大人の姿だという考え方でよかったでしょうか?」
「そうだ。」
「その四つを、今の経済状況に当てはめてみます。まず住宅です。フラット35の調査によると、地都圏の均衡で土地付き一戸建てを購入する場合の平均取得額は現在も五千万円を超えています。これを三十五年老で組むとすると、金利を含めた総返済額は六千万円から七千万円になることもある。次に教育費です。子供を二人、効率中高を経て大学まで出すとした場合、一人当たりの教育費は約一千万円前後が目安と言われています。二人で二千万円。これは習い事や受験対策の費用を加えればさらに増える。自動車の維持費は、地方や郊外では車なしの生活は難しい場合も多い。車両の購入費、保険、車検、ガソリン、駐車場料金を合計すると、年間で四十万円から七十万円はかかる。十年で五百万円を超えることもある。
これを足していくと、住宅の総返済額が六千万から七千万、教育費が二千万、車が生涯で数百万。これだけで、八千万から一億円に近い支出になります。これを年収四百万台の若者が賄う。手取りにすると月に二十五万円前後です。そこから家賃、食費、光熱費、通信費、保険料を引くと、毎月手元に残るのはわずかになる。奨学金の返済がある人はさらに少ない。」
「おじさんの時代は、年功序列で給料が上がっていった。三十代には管理職に近づき、給与水準も上がった。住宅ローンを組んだとしても、将来的に収入が増えるという前提があった。今は違う。」
「今は、何が違う?」
「賃金が上がるという保証がない。正規雇用も崩れている。非正規雇用の割合は全労働者の37%を超えている。社員であっても給料が大きく上がらない企業は多い。将来に対する見通しが持てない中で三十五年ローンを組むことの意味が、おじさんの時代とは根本的に違う。」
「もう一つ、老後の問題です。これはおじさん自身の問題でもある。二千万円の話、以前は二千万円でした。あれは2019年に金融庁の審議会が出したレポートの数字です。その後、物価が上がった。エネルギーコスト、食料品、医療費、介護費用、全てが上がった。複数の試算では、今の物価水準を前提にすると、老後三十年間の不足額は三千万円以上になるという数字が出ています。」
「三千万か。」声に感情がなかった。
「おじさん。自分はおじさんを批判したいわけじゃない。そのことははっきり言っておきたい。おじさんも今の経済構造の中で働いて、年金をかけて、それでも老後の備えが折りつかない立場にいる。それはおじさんの失敗ではない。おじさんが啓介さんを攻めてきたのは、啓介さんが弱かったからじゃない。啓介さんを責めることで、おじさん自身が感じている不安や焦りをどこかに向けていたのかもしれない。そう思えてならない。」
正幸の指がテーブルの上でわずかに動いた。
「自分も同じことをしている。義父に対して何かを言えない代わりに、別のところで同じことをやっていることがある。人間は、圧力を受けると自分より弱い立場の誰かにそれを向けてしまうことがある。それを分かっていても、止められないことがある。」
「お前もか。」
「自分もそうです。」
しばらく二人とも何も言わなかった。
「兄さんは、今図書館で働いていますね。あの仕事に就いたのは、会社を辞めてから二年後のことでした。その間、アルバイトをしながら司書の資格を取った。おじさんはそのことをご存知でしたか?」
「知らなかった。」
「あの二年間は、相当かったと思います。自分は時々連絡を取っていた。兄さんは多くを語らなかったけれど、声の調子で大体は勝った。ただ、前の会社にいた頃と比べると、少なくとも落ち着いていた。司書の資格は、難しくはないけれどきちんと勉強が必要なものです。通信講座で取れる。兄さんは働きながら一年半かけて取った。それだけの意思があったということです。」
正幸はそのことを初めて知った。警戒が司書の資格を取ったという事実を、今この場で息子ではなく正斗から聞いた。なぜ自分に言わなかったのかとは思わなかった。言えない関係に、自分がしてしまったからだということが、今なら分かった。
「兄さんの給料は高くない。図書館の非正規職員の賃金は、地域によって差があるが、全国平均で見ると月に十五万円から二十万円程度が多い。ボーナスなし、あるいは少ない。昇給もほとんどない。」
「十五万から二十万…それで、おじさんの基準に照らすと、家は買えない。車も持てない。結婚も難しいということになる。そういう目で見れば、おじさんが啓介さんに感じてきたことは分かります。しかし、兄さんは今、職場で必要とされている。利用者に顔を覚えてもらっていると聞いた。本の相談に乗ることが多いらしい。読書会の手伝いもしているらしい。それが兄さんには合っている。」
「合っている…」
「それだけでいいかどうかは人によって違うと思います。でも、兄さんにとっては今の仕事が自分に合っているという感覚があるらしい。それは以前の会社では一度も感じられなかったことだと、以前話してくれた。」
正幸は水を一口飲んだ。
「おじさんは、警備の仕事を情けないと言っていた。兄さんも、それを世間的な基準で見れば大した仕事ではないと思っている部分があるかもしれない。でも続けている。合っているから続けている。それは一風ための静かなさだと、自分は思っています。おじさんも同じだと思う。六十五で警備の仕事をしながら生活を建てている。それも簡単なことじゃない。」
正幸は正斗の顔を見た。お世辞を言っているのかと思った。しかし、正斗の目は真剣だった。
「一つ聞いていいか?」
「はい。」
「警戒は、今どんな顔をしているんだ。」
正斗は少し考えた。「穏やかだと思います。あの頃と比べると。以前は、電話で声を聞くだけでどこかしら緊張していた。今は、話すと落ち着いた声をしている。」
「そうか。」
「もう一つ聞いていいか。お前は、なぜ俺にそこまで話す気になったんだ。葬儀の日に止めようとしたのは分かる。でも、こうして何日も時間を作って話してくれているのは、それだけの理由があるはずだ。」
「おじさんがひどい人間だとは思っていない。おじさんは自分なりの正しさで動いてきた人だと思っています。その正しさが時代とずれてしまっていた。でも、それはおじさんだけの問題ではなくて、あの時代にあの価値観の中で育てば、誰でもそうなり得る。」
「それだけか。」
「もう一つあります。兄さんが、本当はもう一度おじさんと話したいんじゃないかと、自分は思っている。そう感じることが何度かあった。直接言いはしない。でも、時々ぽつりとおじさんのことを口にすることがある。」
「どんなことを言っていた?」
「『親父は元気か』と聞いてきたことがあった。それだけです。ただ、それだけ。でも、聞いてきた。」
「親父は元気か。」その言葉が胸の辺りにあたって、そこに残った。
「おじさん。今夜、啓介さんに会いに行くつもりはありますか?」
「急だな。」
「突然過ぎたら、それはそれでいいです。ただ、自分が思ったことを言いたかった。」
正幸はしばらく何も言わなかった。
「住所は分かるか。」
正斗は小さく息を止めた。それから、「はい。」とゆっくりと言った。
「教えてくれ。」
正斗はスマートフォンを操作し、住所をメモ帳アプリで表示してテーブルに置いた。埼玉の外れの地名だった。路線と駅の名前も書いてあった。正幸はそれを自分のスマートフォンのメモに書き写した。
「ありがとう。」
「おじさん、無理に謝らなくていいと思います。謝ることが目的ではなくて、ただ顔を見に行くだけでも十分だと思う。」
正幸は頷かなかった。頷く必要がないと思ったからではなく、うまく頷けなかった。
会計は今日も正斗が払った。店を出ると、空気が冷えていた。
「おじさん。」と正斗は言った。「おじさんは、根は真面目な人だと思っています。それだけを言いたかった。」
正幸は何も言えなかった。正斗は餌釈して駅の方へ歩いていった。
自宅に戻り、スマートフォンのメモを開いた。住所が表示されていた。「今夜は遅い。明日にした方がいい。」そう思った。しかし、それが本当の理由かどうか、自分でも分かりかねていた。
「親父は元気か。」その一言が、正幸の胸の中で今夜しきりに動いていた。流し台の前に立ち、湯のみを洗った。水が冷たかった。
布団に横になって天井を見た。
「明日、行ってみよう。」何を言うかはまだ分からなかった。言えるかどうかも分からなかった。ただ、行くということだけが今この瞬間に決まった。
翌朝、正幸は四時五十分に目が覚めた。目覚ましより先に目が開いた。洗面所で顔を洗い、鏡の中の自分の顔を少しの間見てから、タオルで拭いた。
今日行くということは昨夜決めた。決めたことは変えるつもりがなかった。押入れから普段着のジャケットを取り出した。黒に近い紺のジャケットだった。これにした。ズボンはウールの灰色のもの。靴は茶色の革靴を出して、付近で軽く拭いた。それだけで少し見栄えが変わった。
八時半に家を出た。電車は混んでいた。釣り革に捕まって立った。乗り換え駅で降り、次の電車は空いていた。窓側の席に座った。
電車が動き出してから、正幸は窓の外を見ながら警戒に何を言うつもりかを考えた。昨夜も考えたがまとまらなかった。謝るということは決めていた。しかし、どう謝るかが言葉として出てこなかった。長い年月をかけてこじれたものが短い言葉で解けるとは思っていなかった。ただ、行かなければならないということだけは分かっていた。
目的の駅に着いた。改札を出ると小さな商店街があった。朝の時間で開いている店は少なかった。地図を見ながら住宅街の中を歩いた。道は細く、曲がり角が多かった。目的のアパートは角を曲がったところにあった。二階建ての古いアパートで、外壁のクリーム色の塗装が一部剥がれていた。入り口に小さな表札が並んでいた。
警戒の部屋番号は203号室だった。外階段を登った。踏板がわずかにきしんだ。ドアの部の下に小さなプレートがあって、手書きで「大沼」と書かれていた。正幸はその文字を見た。自分と同じ苗字だった。当たり前のことだったが、その当たり前のことが、今は少し違って見えた。
インターホンのボタンを押した。しばらく何も起きなかった。もう一度押した。今度は奥から気配がした。足音が近づいてきた。
ドアが開いた。警戒が立っていた。部屋着のまま。上は薄い灰色のスウェット。髪が少し乱れていた。顔を見た瞬間、正幸の胸の中で何かが動いた。警戒は父親の顔を見て、二秒ほど固まった。正幸は何も言わなかった。警戒も何も言わなかった。二人はしばらくその場で向き合っていた。朝の冷たい空気が二人の間にあった。どこかで鳥が泣いた。
「上がっていいか。」声が思ったより小さかった。
警戒は少し間を置いてから、「どうぞ。」と言った。声は落ち着いていた。感情の色が読めなかった。
部屋は狭かった。六畳ほどの空間に、小さな机と本棚と折りたたみ式のローテーブルがあった。窓際に薄い青色のカーテン。本棚には本がびっしり並んでいた。文庫本、単行本、それと図書館の業務関係らしいファイルが何冊か。机の上に、開いたままの本が一冊あった。窓の近くの小さな棚の上に、緑色の小さな植物が一鉢あった。土の色が新しかった。最近植え替えたのかもしれなかった。
部屋は綺麗に片付いていた。生活感はあるが、雑然としていない。使われているものが、それぞれの場所に収まっていた。
警戒が台所に立って、やかんを火にかけた。インスタントコーヒーを二つのマグカップに入れ、ローテーブルに置いた。自分もテーブルの向こうに座った。正幸はマグカップを両手で持った。高かった。
「急に来て済まなかった。」
警戒は首を小さく横に振った。何も言わなかった。
「正斗から住所を聞いた。」
「そうですか。」
「お前が…元気かどうか聞いていたと、正から聞いた。」
警戒は視線をマグカップに落とした。「そうですか。」とまた言った。今度は少し低い声だった。
正幸はマグカップを持ったまま、部屋の中をもう一度見た。本棚の本、机の上の開いた本、窓際の植物。一つ一つが、警戒がここで一人で過ごしてきた時間を示していた。
「随分、本が多いな。」
「仕事で読むものと、自分で読むものと、両方あります。」
「司書の資格を取ったと聞いた。」
警戒はわずかに顔をあげた。「正斗から。」
「そうだ。」
警戒は少し間を置いた。「二年かかりました。通信で取れるんですが、レポートが多くて。夜に書いていました。」
「夜に。」
「アルバイトを昼にやって、夜にレポートを書いて、という生活でした。特別なことではないですが。」
「特別なことだ。」
警戒は黙った。
「お前が資格を取ったことを、俺は知らなかった。」
「言っていなかったから。」
「なぜ言わなかった。」
攻める口調ではなかった。ただ、聞いた。警戒は少し考えてから、「言っても、何も変わらないと思っていた。」と言った。
その言葉が正幸の胸のどこかに刺さった。痛かったが、そのまま引き抜かずにいた。
「そうだったな。」
警戒は、正幸の顔を初めてまともに見た。コーヒーを飲んだ。苦かった。しかし、インスタントの苦さはファミリーレストランの苦さとは違った。この部屋の苦さだった。
「一つ言わせてくれ。」
警戒は黙って待った。正幸は手に持ったマグカップを見た。白いマグカップだった。縁が少しかけていた。それでも使い続けているマグカップだった。
「俺が間違っていた。お前の会社をやめるなと言い続けたこと。お前の生き方を全部間違いだと言い続けたこと。それは、俺が間違っていた。」
声が、自分でも聞き取れるくらいに震えた。
「お前がどういう状態にあったか、俺は分かっていなかった。知ろうともしなかった。俺は自分の価値観だけで話していた。それがどれほど的外れだったか、正に話を聞いて初めては勝った。今更だということは分かっている。それでも、言わなければならないと思った。」
警戒はテーブルの上に視線を落としたまま、動かなかった。正幸は待った。警戒が口を開くまで、しばらくかかった。
「怒っていない。」
声は静かだった。
「怒っていた時期はあった。随分長い間、怒っていた。でも、今は怒っていない。」
「なぜだ。」
警戒は少し考えた。「疲れたからではないと思う。疲れたから諦めたということではなくて、ただ時間が経ったということかもしれない。それと、自分がある程度自分の生活を作れるようになったからかもしれない。以前は、父親に何か言われるたびに揺れていた。でも、今は揺れない。自分の生活があるから、揺れない。」
「それは…」正幸は声が少し詰まった。「お前が強くなったということか。」
「強いかどうかは分からない。ただ、自分がどこに立っているかが、今は分かる。それが以前は分からなかった。」
「正斗が、お前の顔が穏やかになったと言っていた。」
警戒は少し目を細めた。「正斗は、よく見ている。」
「そうだな。」
外から自転車が通り過ぎる音がした。子供が何か言っている声がして、遠ざかった。
「仕事は、続けているのか。」
「続けています。」
「合っているか。」
「はい。」
間を置かずに言った。正幸はその即座の返答を聞いた。あの会社にいた頃、警戒の声はどうだったか。電話で話した時の声を思い出そうとした。はっきりとは思い出せなかった。ただ、今の声と違ったということだけは分かった。
「本が好きだったのか。」
「子供の頃から。母が図書館によく連れて行ってくれました。」
正幸は黙った。その話を聞いたことがなかった。
「ここにある本は、自分で選んだものだけです。借り物じゃなくて、自分が欲しいと思って買ったか、もらったものだけ。」
正幸は本棚を見た。小説や随筆が多かった。哲学の本も何冊かあった。ほとんど読んだことのない種類の本ばかりだった。
「一冊、読んでみるか。」正幸は言った。警戒が顔をあげた。「お前が進める本を。今更だが、読んでみたい。」
警戒は少しの間本棚を見た。それから立ち上がり、棚から一冊取り出した。薄めの文庫本だった。表紙に何か書いてあったが、正幸には馴染みのない著者名だった。
「これは難しくないです。短い話がいくつか入っています。日常のことが書いてある。」
正幸はその本を受け取った。思ったより軽かった。
「ありがとう。」
警戒は座り直した。しばらく二人で黙ってコーヒーを飲んだ。沈黙は、気まずくなかった。正幸は不思議にそう感じた。言葉がなくても、二人がこの狭い部屋の中にいるということ自体が、何かを言っていた。
「もう一杯どうぞ。」
「いや、そろそろ行く。仕事はあるか?」
「昼からです。」
「そうか。邪魔したな。」
「いいえ。」
正幸は立ち上がった。借りた本を手に持った。玄関で靴を履きながら、警戒に背を向けた状態で言った。
「また、来てもいいか。」
警戒は少し間を置いた。「はい。」
正幸は振り返った。警戒の顔を見た。警戒も、父親の顔を見ていた。どちらも何も言わなかった。それだけで十分だった。
ドアを開けて外に出た。外階段を降りると、朝の光が強くなっていた。空に雲があったが、その隙間から日が差していた。
駅に向かう途中、小さな公園があった。砂場とベンチが二つだけある公園だった。平日の朝で、子供は一人もいなかった。ベンチに年配の男性が一人座って、遠くを見ていた。正幸はその横を通り過ぎた。
駅のホームで電車を待つ間、ベンチに座った。手の中の文庫本を膝の上に置いた。表紙を見た。警戒が選んでくれた本だった。いつ読もうかと思った。今夜は勤務がある。明後日の朝にでも読めばいい。急ぐ必要はなかった。
電車が来た。乗り込んで窓側に座った。電車が動き始めた。景色が後ろに流れていった。住宅地、また住宅地。来る時と同じ景色だったが、見え方が少し違う気がした。そう感じているのが自分でも分かったが、どこがどう違うのかはうまく言えなかった。
自宅に着いた。コートを脱いでハンガーにかけた。台所でお茶を入れた。食卓に座った。手の中の文庫本をテーブルの上に置いた。窓の外の空を見た。雲の隙間が広がっていて、青い部分が増えていた。
正幸はお茶を一口飲んだ。今日の午後はどうしようかと思った。特に予定はなかった。今日も昨日と同じように、昼食を作って少し休んで、夜の勤務に備えて早めに横になる。それでいい。ただ、今日はそれが、昨日と同じ一日ではなかった。同じように見えるが、何かが違う。その違いがどこにあるのかを、正幸はうまく言葉にできなかった。
テーブルの上の文庫本に目をやった。今夜の勤務が終わったら読もうと思った。決めたことは少なかった。しかし、それでよかった。今日のところは、それだけで良かった。
窓の外で、遠く電車の音がした。どこかへ向かう電車の音が、遠ざかりながらやがて聞こえなくなった。正幸はお茶を飲み続けた。今日の空は、昨日より少しだけ明るかった。



