「どうせ、国が面倒を見るだろう」——そう吐き捨てて、息子は家を出て行った。その数秒後、妻が財布を開き、声もなく固まった。今月の食費の封筒が、空になっていたからだ。息子が、盗んでいったのだ。父さんの年金が一万円増えたその日から、我が家は静かに崩れ始めた。医療費の負担は月三万以上膨れ上がり、妻の目は網膜剥離で手術、そして家計を守るために、私はたった一つの選択を迫られた。それは、生涯取り戻せない何…

「どうせ、国が面倒を見るだろう」——そう吐き捨てて、息子は家を出て行った。その数秒後、妻が財布を開き、声もなく固まった。今月の食費の封筒が、空になっていたからだ。息子が、盗んでいったのだ。父さんの年金が一万円増えたその日から、我が家は静かに崩れ始めた。医療費の負担は月三万以上膨れ上がり、妻の目は網膜剥離で手術、そして家計を守るために、私はたった一つの選択を迫られた。それは、生涯取り戻せない何...

年金が増えたその夜、妻の目が壊れた。通知書には月額が約四千五百円増えると書いてあった。ほんのわずか、二人の表情が緩んだ。それが、すべての始まりだった。

六月の夜、主営の仕事を終えて帰宅した潮見総一は、台所で妻の蔦子が封筒を開けているのを見た。日本年金機構からだった。蔦子が差し出した書類には、来年度からの年金月額が約四千五百円増えると記載されていた。総一はそれを読み、そっと妻に返した。

「ちょっと計算してみるわ」

蔦子はそう言って、赤いボールペンで家計簿の余白に数字を書き始めた。総一の年金、妻のパート代、そして総一の給与。合計が出た。総一は頭の中でも同じ計算をしていた。以前読んだ記事を思い出した。住民税非課税世帯の基準だ。この地域では年間収入の合計が百四十八万円を超えると、非課税の対象から外れると書いてあった。蔦子が書いた数字は、百四十九万円を超えていた。一年間で、たった一万円の差だった。

その一万円が、来年度からの医療費の自己負担上限を大きく変える。今まで月に二万四千六百円だったのが、課税世帯になれば五万七千六百円になる。月に三万円以上の差だ。介護保険料も上がる。各種給付も見直される。国がくれた四千五百円が、毎月三万円以上の負担を連れてくる。

総一が何かを言おうとした時、小さな音がした。蔦子が持っていたコップが手から離れ、床に落ちた。割れずに、水だけが飛び散った。しかし蔦子はコップを見ていなかった。彼女の右手が、右目の周りをゆっくりと確かめるように動いていた。

「右の端っこに、黒いのが見えるの」

蔦子は言った。総一は古いスマートフォンで症状を検索した。『目の端 黒い影 突然』と打ち込むと、最初に『網膜剥離』という言葉が出てきた。治療が遅れると視力が永久に失われる可能性がある。できるだけ早く眼科を受診すること。総一は今夜、病院へ行こうと言った。蔦子は少し迷ったが、総一の顔を見て何も言わなかった。

夜間外来で、医師は「右目の網膜の一部が剥がれかけています。手術が必要です」と告げた。帰りの電車の中でも、二人は何も話さなかった。

翌週、蔦子は手術を受けた。退院した日、病院の会計で自己負担額は五万七千六百円だった。今月の上限に達していた。そう、今年度から自分たちは課税世帯になる。その数字が、これから長く続くことになる。

蔦子が横になっている夜、息子の直樹が訪ねてきた。お袋の目のことを聞いたと言う。だが、話はすぐに金の話になった。

「父さん、ちょっといいかな。仕事の方が、取引先からの入金が止まっててさ。今月の支払いが重なってるんだ。三十万でいいから、短い期間だけ貸してもらえないか」

総一は直樹の顔を見た。膝の上で指先が落ち着かなく動いていた。

「去年の十月に来た時も同じ話だったな。あの時、五万円を渡した。あれはどこへ行った」

直樹の顔が硬くなった。「あれは別の件だよ」声が高くなった。総一はそれを見ていた。直樹が口を開いた。

「親父は昔からそうだ。話を聞かない。融通が効かない。頼んでるのに」

「無理だ」

総一は短く言った。直樹の顔から何かが抜けた。それが一秒ほど続いて、また別の表情になった。低い声で「分かったよ。来た俺が馬鹿だったな」と言い、立ち上がった。玄関に向かう足音が聞こえ、ドアが開いた。その時、声が聞こえた。

「どうせ、国が面倒を見るだろう」

ドアが閉まった。静けさが戻った。蔦子がゆっくりと体を起こした。財布を開き、確認した。今月の食費の封筒が入っていたはずの場所が空になっていた。直樹が抜き取っていた。総一は出勤の準備をしながら、頭の中で計算した。今月の食費が消えた。手術の費用に当てるはずだった金もない。どうやっても足りなかった。

七月、請求書が三枚同時に届いた。病院から、区役所から、国民健康保険料の改定通知だった。病院の請求は毎月五万七千六百円。住民税は増加。保険料も増加。年金の増額分は月に四千五百円弱。その四千五百円が呼び込んできた負担の合計は、月に三万円を超えていた。

蔦子はパートを再開したが、食事の量が減っていた。総一は気づかないふりをした。八月の初め、台風の夜、主営の仕事が午前三時で打ち切られた。帰宅すると、暗い台所で蔦子が座っていた。テーブルの上に茶碗があった。冷えた白米に、醤油を垂らして混ぜていた。おかずはなかった。総一は廊下に立ったまま動けなかった。蔦子は顔を上げ、静かに言った。

「ちゃんと食べてるわ」

それは総一への言葉ではなく、自分に言い聞かせているようだった。

数日後、総一は亡き父の形見の腕時計を、渋谷の買い取り店に持っていった。書類がないと、二万円と言われた。相場の三分の一以下だった。交渉する気にもならなかった。交渉できる立場でもなかった。父の時計が二万円。その事実を頭の中で何度か繰り返した。積み重ねてきたものが、少しずつ形を失っていく感覚だった。

九月の初め、警備の管理小屋で、古い雑誌を見つけた。特集は『老後の資産管理と税の見直し』だった。その中の記事に、総一の手が止まった。

『知らなきゃ損する年金の任意停止』

記事は、国民年金法に基づき、老齢基礎年金の受給者が自分の意思で年金の支給を一時的に停止できると説明していた。停止した月の年金は永久に失われるが、その年の収入から除外される。総一は頭の中で計算を始めた。現在の見込み年収は百四十九万円強。そこから一ヶ月分の年金(約十二万四千円)を引くと、百三十六万円台に下がる。住民税非課税世帯の上限を大きく下回る。

代償は明確だった。一ヶ月分の年金、約六万二千円が永久に戻らない。しかし、それで医療費の上限が五万七千六百円から二万四千六百円に戻る。その差は月に三万円以上。蔦子の通院が続くなら、その差はすぐに元を取れる。

総一は年金事務所に通い、三回に分けて書類を提出した。最後に、理由書を求められた。総一は妻の病気、医療費の負担、収入の状況を事実だけ淡々と書き、最後に「停止した月の年金が永久に失われることは承知している」と加えた。四度目の訪問で、窓口の担当者・東上は書類を読み終え、こう言った。

「これは、住民税の非課税要件を満たすために、年金を意図的に停止するということですね」

「そうです」と総一は言った。東上は「審査に時間がかかる場合があります。今月中に処理が間に合わない可能性があります」と言った。総一はテーブルに両手を置き、静かに、だが揺るぎなく言った。

「私は法律に基づいた申請をしています。必要な書類は全て揃えました。理由書も書きました。審査が必要なら、今すぐ始めてください。間に合わないというなら、その根拠を条文で示してください。私の妻は網膜剥離の手術を受けています。毎月の医療費の上限は五万七千六百円です。その原因は、年金が一万円増えたことです。私はその一万円を修正するために、合法的な手段を調べ、必要な手続きを全て踏んできました。今月中に処理ができなければ、妻の来月の医療費の上限は、また五万七千六百円のままです。私には時間がありません」

東上は少し身を引き、何かを決めたように立ち上がった。別の職員と話し、戻ってきた。

「本日付けで申請を受理します。今月の停止申請として処理します」

十月、処理完了の通知が届いた。九月分の老齢基礎年金の支給を停止した旨、来年度の住民税判定において年間収入が百三十六万円台になる見込みである旨が、事務的な文面で記されていた。総一はそれを一度読むと、病院の領収書と同じ引き出しにしまった。

蔦子に「手続きが終わった」と伝えると、彼女は少しの間総一を見て、「そう」とだけ言った。声に力はなかったが、安堵がわずかに混じっていた。

十月の生活はそれまでで一番きつかった。停止した月の年金収入はなかった。電気はできる限りつけず、風呂は二日に一度。蔦子はスーパーでグラム当たりの値段を長い時間計算していた。総一の弁当は白米と梅干だけになる日があった。それでも、十月半ばの蔦子の通院で、診察と処置の費用は一万四千円だった。先月まで同じ内容で五万七千六百円を払っていた。総一は領収書を財布にしまい、その差額を頭の中で確認した。それだけだった。

十一月、十二月になり、寒さが増した。総一は変わらず夜勤を続けていた。十二月のある夜、玄関のチャイムが鳴った。直樹が立っていた。前回よりも痩せて、疲れていた。入ってもいいかと言い、中に入った。台所で蔦子が湯呑みを出し、黙ってテーブルに置いた。直樹は湯呑みに手を伸ばさず、テーブルを見ていた。

「借金がある」直樹は声に力を込めずに言った。「あの封筒の金も、返すつもりだったんだ。けど、使ってしまった。人から借りた金が返せない。相手が回収の人間を使い始めてる。この家を担保にするしかないかもしれない」

総一は直樹が話し終えるのを待った。そして立ち上がり、台所へ行った。棚の一番下の引き出しから、小さな果物ナイフを取り出した。リビングに戻り、直樹の向かいの椅子に座った。右袖のコートをまくり、前腕をテーブルの上に置いた。そして、ナイフを右手に持ち直し、自分の腕の横に置いた。何も説明しなかった。直樹の目を見た。声も出さず、眉も動かさなかった。

直樹は動かなかった。総一の腕とナイフを交互に見て、それから総一の目を見た。何かを読もうとしたが、読めなかった。台所では蔦子が静かにしていた。一分が経った。直樹はゆっくりと立ち上がった。リビングを出て、廊下を歩き、玄関のドアが開いた。今回は、戻ってこなかった。ドアが閉まり、廊下が静かになった。

総一はナイフをテーブルに置き、しばらく動かなかった。それから台所へ行き、ナイフを引き出しに戻し、手を洗った。リビングに戻ると、蔦子が台所の入り口に立って総一を見ていた。二人は目が合ったが、何も言わなかった。やがて蔦子はゆっくりと台所に戻り、夕飯の続きを始めた。

翌朝、外は雪だった。東京の初雪だった。帰宅すると、台所のテーブルに水筒と小さなメモが置いてあった。メモには、薄くなった赤いボールペンで『温かいからちゃんと飲んで』とだけ書いてあった。総一は水筒からお茶を飲んだ。暑かった。ゆっくり飲んだ。

十二月の晴れた昼前。総一は、今年起きたことを順番に思い出した。六月の通知、一万円の差、蔦子の目、病院の廊下、直樹の顔、買い取り店、年金事務所の四度の訪問。来年度から医療費の上限は二万四千六百円に戻る。住民税の非課税世帯の資格も戻る。一ヶ月分の年金は永久に戻らない。それも確定した。直樹とはもう会わないだろうと思った。後悔はなかった。悲しみのようなものは、もっと前に少しずつ、何年もかけて消えていた。

蔦子が帰ってきた。玄関で深呼吸をして、台所に入り、エプロンをつけた。水筒を見て「飲んだのね」と言った。総一は「飲んだ」と答えた。蔦子は少し頷き、冷蔵庫を開けた。総一は台所の椅子に座ったまま、蔦子の背中を見ていた。エプロンの結び目が少し曲がっていた。総一は何も言わなかった。

その夜、蔦子は家計簿を開き、赤いボールペンで十二月の収支を書き込んでいた。「どうだった」と総一が声をかけると、蔦子は振り返り、「来年は少し楽になると思う」と言った。あの一万四千円のことだと総一は分かった。「そうだな」と答えた。蔦子は頷き、立ち上がって片付けを始めた。

総一はベランダに出た。エコーの箱には最後の一本が入っていた。火をつけ、煙を吸い込んだ。今年も終わっていく。来年が来る。また計算して、穴を探す。穴が見つかれば塞ぐ。塞げなければ別の方法を探す。それでも足りなければ、また削る。終わらない作業だった。しかし、二人ともまだここにいた。蔦子の目が見えている。台所に明りがついている。赤いボールペンで数字が書き込める。それだけのことが、今夜は確かにそこにあった。

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