「先輩、それってパワハじゃないんですか?労働局に言いつけますよ」
新しく入ってきた女性社員、富美はニヤリと嫌な笑みを浮かべて言った。
「ああ、分かった。私が若くて男性にモテるからですね。独身で行き遅れの先輩は嫉妬して、仕事を私に押し付けるんだ」
私はその場で何も言い返せなかった。確かに私は独身で彼氏もいない。でも、特に寂しいと思ったことはない。仕事も軌道に乗り、大きなプロジェクトも任されるようになっていた。会社は完璧なホワイトとは言えないが、それでも同僚や上司は優しく、理不尽な扱いを受けたこともなかった。毎日は可もなく不可もなく、でもそれが幸せなことだと思っていた。
――あんな風に思えたのは、富美の教育係になるまでだった。
富美はいつも仕事をせず、自分のデスクでただひたすらスマホか爪をいじっている。注意すれば、色目を使われた男性社員たちが彼女の肩を持ち、私を悪者扱いする。そのせいで毎日が憂鬱だった。
「あ、そうだ。私、この後約束があるんで、もう帰りますね。だから仕事は全部、先輩がやっておいてください。彼氏もいないんだし、時間なんていくらでもあるでしょう?」
そう言って富美は颯爽と職場を去っていく。私はため息をついた。本気で何も知らないのだろう。
私の名前は半田直。中小企業で働く会社員だ。働き始めて10年近くになる。入社したての頃は失敗も多く、周りに迷惑をかけてきたが、今ではある程度会社に貢献できるようになったと思う。上司からは重要な仕事を任されるようになり、後輩からも頼られることが増えてきた。ただ、仕事人間ということもあり、男性との出会いはほとんどない。だけど、私は今の生き方に満足していた。
それが、ある新年度から変わってしまった。
富美が入社してきたのだ。笑顔や仕草が可愛らしく、男受けは良さそうで、女からは疎まれそうなタイプ。正直、プライベートでは絶対に関わりたくないと思える子だったが、私が彼女の教育係になってしまった以上、好き嫌いを言っている場合ではなかった。
最初のうちは富美も私に積極的に関わろうとはしなかったが、仕事上の関係はうまく築けていた。そう、あの日のまでは。
会社の休憩時間。私たちは女性社員数人で固まって昼食を取っていた。昔からの習慣だ。富美も当然そのグループにいて、基本的には一緒に昼食を取っている。いつも通りのある日、就職時の話題から富美の最終学歴の話になった。富美の面接をした社員が「うちみたいな会社に高学歴の子が面接に来たぞ」と言っていたのを誰かが思い出し、それが富美のことではないかと言い出したのだ。
実際それは当たっていた。富美の最終学歴は有名国立大学で、名前を聞けば誰もが「賢いんだね」と言うようなところだった。思わず私も「頭のいい人がうちに来てくれて嬉しいな」とこぼしてしまうほどだった。すると富美は気分を良くしたのか、今度は周囲に最終学歴を尋ね始めた。うちの会社にも高学歴の人はいなくもないが、基本的には平均的な大学を出ていたり、高卒がほとんどだ。それを知った富美は、自分より偏差値の低い学校の名前を聞くたびに満面の笑みを浮かべている。学歴でマウントを取りたいのか。まだ若いな。
そんなことを思いながら聞いていると、ついに私の番が回ってきた。
「直子さんはどこの大学を卒業したんですか?いつも仕事の説明がとても分かりやすいので、きっと頭がいいんだろうなと思ってるんですけど、もしかして東大ですか?」
そう言って富美は、自分の出身大学よりも偏差値が高い大学名を出してきた。お世辞かもしれないが、頼りにされているのは正直少し嬉しい。だけど、期待に答えられなくて申し訳ない。私はそんな高学歴出身ではないのだ。それどころか――
「ごめんなさい。私、大学出ていないのよ。というか、わけあって高校も中退しているの。だから富美さんが思っているほど私、賢くないわよ。きっと仕事も富美さんの方が覚えがいいんじゃないかしら」
私がそう返すと、他の同僚も驚いたようだったが、空気が悪くならないように「何言ってるのよ、直子さん。今では会社のエースじゃない」などと冗談半分にフォローしてくれる。しかし、富美にとってこのことはとても受け入れられないことのようだった。
「信じられない。東大を卒業した私が、大学どころか高校すら出ていない人に仕事を教えられているんですか?そんなのありえない。中卒にできる程度のことなんて、ゴミみたいな仕事じゃない?私、上に言って教育係を変えてもらいます」
富美はそう言ってその場を離れ、上司を探しにどこかへ行ってしまう。性格のいい子ではないだろうとは思っていたが、ここまでストレートに否定されるとさすがに少し傷つく。他の同僚たちも驚いたようで「気にしないで」「ひどい子ね」とフォローしてくれるが、それ以上は何かをしてくれそうな感じではなかった。まあ、それも仕方がない。最近は下手に若い子に関わるとパワハ扱いされてしまうからな。
この日以来、私は富美から見下されるようになった。教育係の変更という申し出は、さすがに学歴が理由では受け入れてもらえず、戻ってきた富美はより一層不機嫌になっていた。それからというもの、私が仕事のことを教えようとしても「低学歴が私に指図しないで」「あんたの言うこと聞くぐらいなら、トイレの便器でも舐めた方がまし」などと言う始末。そこまで言うなら、是非今すぐにでも便器を舐める姿を見せて欲しいものだが、そんなことを言えば私の首が飛びかねない。
まあ、このまま富美が意地を張って仕事をしないのであれば、私はそれ相応の評価をし、上に報告するだけだ。そう思っていたのだが、富美もさすがにその辺りは理解していたようで、対抗策を用意してきた。そう、男性社員の籠絡だ。私が富美に簡単な仕事を任せようとすると、男性社員が「それ、代わりに僕がやっておきますよ」と仕事を持っていく。格好をつけたいのかもしれないが、それは富美のためにならないし、自分の業務に集中してほしい。進捗表を見る限り、みんな自分の仕事に余裕があるわけではないのだ。
ただ、これはまだマシな方で、もっとひどい男性社員は「それ、パワハなんじゃないの?」と言ってくる。
「最近はコンプライアンスとか厳しいんだから、新人相手にあんまり無理な仕事をさせちゃだめでしょう。それで体壊したりしちゃったらどうするの?責任取れるわけ?」
私としては、新人でもできる仕事を振っているつもりだ。それに、万が一できなかったとしても、私に聞いてくれればフォローする準備はできている。そもそも、そうやって時には助けを求めることも仕事のうちである。今までも新人社員を何人か見てきたが、そうやって仕事を覚えてきた。できもしない仕事を押し付けるつもりはないが、それでも挑戦しなければ何も始まらない。その機会を、あろうことか先輩社員が取り上げるなんてあってはならない。だから私はそのことを男性社員に注意する。するとどうだ?今度は富美がその状況を見て、私のことを馬鹿にし始める。
「ああ、もしかして直子先輩、嫉妬してるんじゃないですか?普段男性に相手にされてないからって。そのフラストレーションを職場に持ち込んじゃダメですよ。恋愛経験もないんだから、いい年して結婚どころか彼氏もいないんじゃないですか?」
そう言って、男性社員たちはゲラゲラ笑う。私は心の中で毒づいた。そもそも、この会社に私が惹かれたくなるような男性社員がいるとでも?そんな言葉が喉元まで出かかっていたが、さすがに火に油を注ぐ行為だと私も分かっている。私がモテないのと、富美がサボってばかりなのに一体何の関係があるのよ。大体、あんたらがちゃんと仕事をしてくれれば――
だが、そんな私の気持ちは、富美と富美に心を奪われた男性社員には理解されるわけがない。こうして、日々に充実感を与えてくれていた会社は、いつの間にか居心地の悪い場所に変わっていた。
そんなストレスフルな生活の中、唯一の救いは、一緒に住む弟の陽介が私の愚痴を聞いてくれることだった。陽介は私より4歳年下で、お互いが就職してからも家を出る必要がなかったため、一緒に暮らし続けている。陽介も今年から新社会人で、初めてのことばかりで私より大変かもしれないとは分かっているのだが、ついつい昔からの癖で愚痴ってしまう。陽介は優しい子なので「愚痴くらい、いつでも聞くよ」と言ってくれる。
なんていい弟なのだろう。
しかし、そんなブラコンもそろそろ卒業しなければいけない。数日前のことだ。
「実はさ、ちょっと前に彼女ができて、姉さんに紹介したいから、今度家に連れてくるよ」
こんなことを言われたのだ。いつかこんな日が来るだろうと思っていたが、まさかこんなにも早く。いや、むしろ遅いぐらいなのか。高校の時も大学の時も、彼女を家に連れてくるどころか、女の気配すらなかったし。そんな風に色々考えながら、私はワクワクしたり、陽介の姉離れを悲しんだりしながらも、とうとう約束の日を迎えることになった。
ある土曜日。
「ただいま」
玄関の扉が開くと同時に、そんな声が聞こえる。最寄りの駅まで彼女を迎えに行っていた陽介が戻ってきたのだ。そして、陽介がリビングに連れてきた彼女の顔を見て、私はさっと血の気が引くのを感じた。
「陽介、私はこの人との交際を絶対に認めません」
気がついたら、私はそう叫んでいた。しかし、陽介の彼女は自己紹介どころか、言葉すら発していない。それなのに私が突然絶叫するものだから、いつも私には優しい陽介も、さすがに渋い顔を見せる。それでも怒りに任せて私を睨むようなことはせず、平静を心がけて陽介は尋ねてきた。
「どうしたんだよ。まだ挨拶もしてないっていうのに、いきなり認めないなんて。冗談にしちゃキツくない?せめて話を聞いてくれよ」
陽介の反応は何も間違っていない。仮に逆の立場だったとして、陽介からいきなり彼氏を否定されれば、私だって怒るだろう。それは私がブラコンすぎるだけだと、自覚はある。ともかく陽介の言い分は最もだが、私からしてみれば、話を聞いてやる必要などない。だって、陽介が連れてきたのは、富美だったのだから。
富美の方も、まさか自分の彼氏の姉が、常日頃から学歴やパワハ、独身などと馬鹿にしている女だとは思わなかったようで、その場で固まっている。
「す、すまない。落ち着いて聞いて欲しいんだけど。普段、俺が会社でのことを姉さんに愚痴ってるだろ?『新人の腐った女性社員がいる』って。その社員が、君の彼女なんだ」
これには陽介も驚きを隠せないようだった。富美に舐められるようになって以来、私はこれでもかというくらいに富美のことを愚痴っている。もちろん、嘘は何一つ言っていない。富美にやられたこと、言われたことを、陽介に聞いてもらっているだけだ。富美は思い当たる節がありすぎたのか、言い訳を始める。
「待って。直子先輩が陽介君に何を言ったのか知らないけど、会社とプライベートは別の話でしょ。ほら、私、陽介君を困らせるようなことしたかな?むしろ今まで陽介君に尽くしてきたよね。私、かなりいい彼女だよね?」
それは、おそらく富美が言うことも嘘ではないのだろう。人は関わる人の数だけ人格を持つ。私の前では小悪魔の富美も、陽介の前ではきっと素敵な彼女なのだろう。しかし、それも度を過ぎれば、感心できない多面性でもある。少し考えた陽介は、富美に向かってはっきりと告げる。
「確かに、富美は僕にはもったいないくらいの彼女だったよ。だけど、それでも姉さんを馬鹿にするような女性と付き合うことはできない。すまないが、僕と別れてくれ」
富美が焦る姿を見たのは、この時が初めてだった。自分の行いがこんな形で帰ってくるとは思わなかったのだろう。ただ、富美もそう簡単に諦めがつくわけがなく、反論する。
「そ、そんなのおかしいよ。何を言われたかは知らないけど、私が直子先輩の話に出てきたような人だと本当に思ってるの?そもそも直子先輩が言っていることが本当だなんて証拠はないじゃない。話を盛っているかもしれないじゃない。ただの虚言かもしれないじゃない」
「姉さんが嘘をつくわけがないだろう」
陽介の一喝に、富美はビクっと怯えて黙る。多分、陽介がここまで怒る姿を富美は見たことがなかったのだろう。私ですらほとんど見たことがない。それくらい陽介は優しい子なのだ。
ちなみに、陽介がここまで私のことを慕ってくれるのには理由がある。実は私たち兄弟は幼少期に両親を失っている。母が病気で亡くなり、父はそのことを受け入れられなかったのか、ただのクズだったのか、ある日蒸発した。こういう場合、普通なら親戚などが引き取ってくれたりするものだろう。しかし、母方の祖父母やその他親戚は、みんなこぞって渋った。今思えば、元々血が繋がっていないからだったのかもしれない。父方も、唯一祖父が存命だったのだが、金銭的な理由で引き取ってもらうことは難しかった。そのため、私は当時通っていた高校をやめて就職し、まだ中学生だった陽介を育てるために働き始めたのだ。私からすれば、姉である自分が弟の陽介を育てるために頑張るのは、ある意味当たり前のことだったし、当時はそれ以外に2人が生きていく方法が思い浮かばなかっただけに過ぎない。けれど、陽介はそんな私に対して恩を感じているのか、昔から「姉がバカにされることをひどく嫌う」のだ。
私がそんな昔話を回想していると、細い声が聞こえてきた。
「何よ、それ?」
怯えていた富美が、必死に声を振り絞ったようだ。
「陽介君、姉がつくほどのシスコンだったんだね。気持ち悪すぎて鳥肌だよ。ま、それなら振られても悔しくも何ともないわ。本当に本気になる前に分かってよかった。じゃあ今回の話はなかったってことで、もう帰るから。お邪魔しました」
そう言って、富美は私たちの家を後にした。去り際の小さな背中を見る限り、おそらく富美は本当に陽介のことが好きだったのだろう。さすがにその姿を見ると申し訳なく思う気持ちがなくもないが、こればかりは仕方がない。因果応報である。
こうして、陽介と富美の短い交際は終わりを迎えたのだった。
月曜日、朝目覚めて気づいた。陽介と富美の関係は終わった。そこに至るまでのことに何の後悔もない。大切な弟を、あんな女の毒牙にかけるわけにはいかなかったのだから。
だが、しかしだ。終わったのは陽介との関係だけで、私と富美、つまり教育係と新人という関係が終わったわけではない。つまり――
「めちゃくちゃ気まずいじゃないか」
眠気から覚めた私は、一人枕にそう叫んでいた。一体どんな顔をして富美と会えばいいのやら。一つ、きつく当たる?いや、それは論外だ。本当のパワハになりかねない。かと言って、優しく慰める?それもダメだ。別れる原因となった私がそんなことをすれば、むしろ煽っていると思われかねない。
「会社行きたくないなあ」
悩みながらそんなことを呟くも、出勤時間は一刻と近づく。こうして何もいい案が思いつかないまま、私は出社することになった。
結論から言うと、富美に関する心配は思い過ごしだった。そもそもその日、私は富美と会話する時間すら与えられなかったのだから。
「ああ、半田君、急で申し訳ないが、君の異動が決まったから、今すぐ荷物をまとめて旧本社に向かってくれる?そうすれば午後から新しい部署で働き始められるだろう」
出社するなり、いきなり人事課長に呼び出され、こんなことを言われた。意味が分からなかった。当日に異動の辞令が下るなんてありえない。それに私が命じられた旧本社にある部署は、主に研修などを行う場所だ。今の私が何の説明もなくそこに異動というのは、左遷以外の何者でもない。
「どういうことですか?私、新入社員の教育係の他にも、いくつか仕事を持っているんですよ。急に異動だって言われたって、引き継ぎの準備も何もできてません。せめて数日はもらわないと。それに、そもそも私は向こうで何の業務をするんですか?」
必死に抵抗する私に、人事課長はめんどくさそうな顔をして、とんでもないことを言った。
「大丈夫だよ。高学歴の君にできる仕事なんて、他の社員なら1日で追いつける。引き継ぐ必要もないよ。業務に関しては、向こうにいる人に聞いてくれ」
暑さで頭が沸いてしまったのか?優秀さと学歴は別の問題だろう。しかし、その後私がどれだけ反論しようと、異動は覆らないと言われ、最終的には「嫌なら会社を辞めたまえ」と言われる始末。仕方ないので、私は自分の席に戻り、荷物をまとめ始めた。すると、不意に視線を感じる。そちらに目をやると、富美と目があった。すると富美は、嫌な笑みを浮かべながら目をそらす。
この時、私は全てを悟った。富美と課長はグルだ。何をしたかは知らないが、およそ見当はつく。いつの時代も、色仕掛けというのは強力なのか。今すぐにでも富美を糾弾したい気持ちになった。女性のカンが間違いないと叫んでいる。だけど、カンだけで感情的に動くほどバカではない。証拠もないのにそんなことを言ったって、頭がおかしくなったと思われるだけだ。
こうして私は、なす術もなく左遷先で働き始めたのだった。
それから1ヶ月ほど経った頃のこと。会社のパソコンに、富美からメールが送られてきた。今までなら、見るだけ時間の無駄なのでメールを開くことすらしなかっただろう。だけど、左遷先はあまりにも暇だった。やることがないわけではないのだが、梱包作業など同じことの繰り返し。慣れてしまうと頭を使わずにできてしまう作業ばかりで、とにかく刺激がなかった。そのため、私は退屈しのぎになればいいと思い、好奇心でメールを見てしまった。
「お久しぶりです、直子さん。左遷先は楽しいですか?聞けば、そっちは仕事ができないのに首にすることができないグズが流れ着く掃きだめじゃないですか。ゴミみたいな仕事してお金もらえるのって、ある意味天国というか、給料泥棒じゃん。そんな場所じゃ、ますます男性との出会いが遠ざかりますね。そんな直子さんに朗報です。この度、私、結婚することになりました」
前半までの悪口は特に何も感じなかったが、富美が結婚するという事実にはさすがに少し驚いた。あんな小悪魔を、一体どこの誰がもらうんだ。そんな疑問が頭をよぎるが、答えは後半に記載されていた。
「相手は私より20個近く年上なんですけど、実業家のお金持ちなんですよ。いわゆる玉の輿ってやつですね。いやあ、直子さんの人生とは大きな差がついてしまいますね。で、せっかくなんで直子さんにも私の晴れ姿を見て欲しいんですよ。だから電子招待状のURLを貼っておきますね」
誰が行くものか。こんなマウントの取られ方をして、のこのこと出席するバカがいるわけがない。そう思った勢いで、パソコンを叩き割りそうにまでなったほどだ。だが、どうやら私はバカだったようだ。半年後、私は富美の結婚式会場に来ていたのである。
とはいえ、出席したのにはもちろん理由がある。富美からメールが来た日、私は怒りのままにメールを閉じ、仕事に戻ろうと思った。しかし、ふと思い立った。一応、相手が誰なのかを確認しておかなければ、と。実業家の知人などを思い当たらなかったが、万が一がある。もし富美の結婚相手が知り合いだった場合、不幸になる前に彼女の正体を伝えなければ。洋介の時のように、そのくらいの忠告は許されるだろう。そう思って電子招待状を確認すると、新郎は本当に私の知り合いだったのだ。あの時ばかりは、冗談抜きで目玉が飛び出るかと思った。
さて、話は今に戻る。さすがの富美も、私が本当に来るとは思っていなかったのか、私と目が合った時、歪んだ笑顔をこちらに向けていた。新郎の方といえば、私には気づいていないようだ。都合がいい。式は順調に進み、料理は美味しかったし、余興も面白かった。富美の母親の挨拶に関しては、普通に感動して危うく泣きそうになるほどだった。それをぐっとこらえ、終盤。新郎の挨拶が始まった頃だった。
突然、会場の扉が開く。そこには数人の男たち。その先頭の男が叫んだ。
「これは一体どういうことなんだ。富美ちゃんは、僕と結婚したいと言ってくれたじゃないか」
想定外の展開に、会場が騒然とする。みんな新郎の感動的なスピーチを期待していたことだろう。今にも泣きそうな表情で富美に言葉をかける初老の男性を見て、私は思った。あらあら、結婚式で乱入してくる人が本当にいるなんて。というか、この人、人事課長じゃなかったっけ?
え、どうして私がこの男を知っているのかって?そりゃあ、この男性は私を左遷した人事課長だからだ。実は、富美の結婚式に乱入してきたのは、富美と関係を持っていたうちの会社の男性社員たち。もちろん、富美の結婚のことをチクったのは、私。昨日の夜中に、富美と関係を持っていそうな男性全てにメールを送っておいたのだ。正直、乗り込んでくる人がいるかは賭けだったが、恋は盲目。向こう見ずにやってくる者が数人いたようだ。
「ああ、何てドラマみたいなことになるんだ」
会場はざわつきを超え、悲鳴のようなものまで起き始める。もちろん、会場スタッフや警備員は侵入者を捕まえようとするが、人事課長は意外と運動神経がいいのか、頑張って逃げ回っている。ああ、結婚式が台無しだ。富美も私の仕業だと気づいたのか、こちらを睨みつけている。おお、怖い、怖い。だけどね、富美さん。あなたはきっと、私に感謝することになるわよ。私の本当の目的は、こんなものじゃないのだから。
「お前たちは一体何をしているんだ」
新たな怒号が、会場入り口から聞こえた。しかし、それは人事課長が富美にぶつけたような、裏切りを糾弾する怒りとは違い、醜態を収めるための叱声。その声は、白髪の初老の男性から発されていた。彼の正体は、私や人事課長が働く会社の社長であり、同時に私の祖父。そして、富美と結婚式を行う新郎の父親でもあった。
順を追って説明しよう。両親がいなくなり、私が弟の陽介と2人きりになった頃。私たちは唯一残った血縁者である、父方の祖父を頼った。だが、当時の祖父は会社の経営が傾いていたこともあり、私たちを養う余裕などなかった。しかし、かといって私たちを施設に預けるのを忍びなく思った祖父は、代わりに選択肢を与えてくれたのだ。それは「施設に行くか、祖父の会社で正社員として働くか」だった。祖父曰く、当時は会社も傾いていたが、正社員として雇うのであれば給与は経費になるので、なんとか1人ぐらいなら雇えたそうだ。もちろん、他の社員同様働くことが大前提。一方、施設に行けば生活は安定するかもしれないが、陽介とは別の施設になり、離れてしまう可能性もあった。そのため、これ以上家族と離れたくなかった私は、高校をやめて祖父の会社に就職することを選んだのだ。その後、会社は持ち直し、人数も以前よりは増え、新本社を建てられる程度には成長した。じゃあ、なんで左遷の時は祖父を頼らなかったのか?そう思う人もいるかもしれないが、私にもプライドがある。いくら理不尽な左遷とはいえ、仕事のことで家族を頼りたくない。公私混同は、私が最も嫌うことだ。それに、私より後に入ってきた社員は、私と祖父が血縁者であることを知らない。社長令嬢として変に気を使われるのも嫌だった。だから、左遷の時は社長に何も相談しなかったのだ。
しかし、富美から招待状を見たことで、祖父に相談する必要性が出てきた。だって、新郎のところに記載されているのは、私を捨てたクソ親父の名前。しかも、実業家を名乗っていると来た。同姓同名の可能性もあったが、うさん臭さを感じた私は、祖父にこれを話すことにした。すると、祖父も同じようなことを思ったようで、すぐに興信所を利用して新郎の身元を調べ始めた。そうして分かったのは、新郎の正体はやはりクソ親父で、実業家ですらないこと。なんなら、詐欺グループに所属している可能性まであると言われた。調査結果から、富美がクソ親父に騙されそうになっていると分かったため、私は左遷した人事課長も、詐欺を働く父親も、全部まとめて叩きのめそうと思い、富美の結婚式に社長兼祖父を呼んだわけである。
突然現れた社長を目にした人事課長は、台の上のテーブルに乗ったまま動きが止まる。社長の鋭い眼光に耐えかねながら「あの、違うんですよ。これは……」と言い訳をしようとするが、何もかも後の祭り。
「人事課長君とは、今後のことで後日場を設けてゆっくり話そう。だから今日のところは、今すぐ皆さんに謝罪して、警備員に捕まりなさい」
そう言うと、人事課長はすぐにテーブルから降り、「本当に申し訳ありませんでした」と土下座をしながらくるくると回り、そのまま警備員に連行された。
そして、最も驚いているのは、新郎、改めクソ親父。
「待てよ。なんで父さんがここにいるんだよ。妻の富美と一体どういう関係なんだ。結婚式をめちゃくちゃにしやがって。おい、スタッフ、すぐに警察を呼んでくれ。このじじいを早くつまみ出してくれ」
滑稽だ。何も知らないクソ親父は、まるで自分には何の罪もないかのように振る舞っている。全てを知っている私たちからすれば、三文芝居でしかない。私が笑いをこらえていると、祖父が口を開く。
「その必要はない。警察ならすぐに呼んでいる。そして、連れて行かれるのは、お前の方だ。この結婚詐欺師が」
この瞬間の富美の顔は、私は2度と忘れることができないだろう。目も口も、なんなら鼻も耳の穴まで全開に広がっていたのではないだろうか。そして、その状態で、言葉にならない言葉を絞り出している。
「え?あ、詐欺?何それ?もうわけわかんない」
私は混乱する富美に、興信所からもらった調査結果のコピーを渡してあげた。そして全てを理解した富美は、隣にいるクソ親父に「ふざけんな、この野郎!」と叫んで、全力の往復ビンタを見舞いし、泣きながら会場を後にした。その後、警察が突入し、クソ親父は無事に逮捕されたのだった。
後日談。一連の騒動が収まり、私は弟の陽介にも、父親が逮捕されたことを伝えた。捨てられたとはいえ、実の父親。しかも詐欺を働いていたなんて話がニュースになったら、陽介から「もっと早く言ってくれ」と怒られると思ったが、そんなことはなかった。
「ああ、あの人、まだ生きてたんだ」
そう言ったかと思うと、陽介は「姉ちゃん、今日の晩御飯、何にする?」といつもの会話へと戻る。陽介の中で、自分を捨てた父親のことなど、とっくにどうでもいいものへと変わっていたようだ。なら、何も問題がない。
また、ある休日のこと。富美が私の家を訪れた。陽介はかなり警戒していたが、私が玄関の扉を開けるなり、富美は土下座を見せた。靴も脱がず、玄関の砂で服が汚れることも意に返さず。
「この度は、本当にありがとうございました。全て社長から聞きました。直子さんが、私を結婚詐欺の被害に合わないようにしてくれたのだと。そして、今までの暴言の数々、本当に申し訳ございませんでした」
そう言って、富美は頭を玄関の床に付ける。あの一件の後、祖父は程度に差はあれ、富美と男女の関係を持った男性社員を全て呼び出し、叱ったそうだ。特に、人事課長に関しては、家庭を持っているにも関わらず女性社員と関係を持ったことから、平社員に降格。課長は奥さんに離婚を告げられ、慰謝料も請求されたみたいだ。そのせいで転職する余裕もないようなので、首にならなかっただけ幸いだろう。ちなみに、富美も慰謝料を請求されているみたいで、お金には苦労しているようだ。その証拠に、私の家に感謝と謝罪を述べに来た富美は、みすぼらしい格好をしている。
まあ、ここまで落ちたのなら、後は登るしかない。すぐにあなたのことを許せるかって言われたら、正直それは難しい。それでも、自分の過ちに気づいて謝れるようになったのは成長だと思うわ。まあ、これからもしばらくは大変かもしれないけど、今の社会、高学歴が重宝されるのは事実だし、悔い改めたあなたなら、いくらでもやり直せるんじゃない?
私がそう言うと、陽介も頷いている。そんな私たちを見て、富美は涙を流しながら「ありがとうございます。頑張ります」と言って、家を去った。
そして、私のビジネスライフはと言うと、無事に左遷先から本社へと戻ってくることができた。また、日頃の成果が認められ、係長に昇進することに。そのことを陽介に伝えると、私よりも喜んでくれて、お祝いをやろうと提案してくれた。正直、こっぱずかしさがあったものの、トントン拍子で話は進み、祖父までお祝いに来てくれることに。こうして私たちは久しぶりに家族団欒の時を過ごすことができ、「ここまで頑張ってきてよかったな」としみじみしてしまったのは、また別の話。ともかく、これからも家族を大切にし、真面目に仕事に取り組もうと改めて思った。
恋愛の方は、まあ、そのうちなんとかなるだろう。



