夫を亡くして三年。静岡の海沿いの団地で、六十五歳の私は年金だけの静かな暮らしをしていた。そんなある梅雨の日、雨宿りにふと入ったパチンコ屋で、私は生まれて初めて「勝った」喜びを知った。あの瞬間、張りつめていた心臓の音が聞こえた。久しぶりに、自分が生きていると感じた。でも、あの日から私は少しずつ変わっていった。節約していた食費が消え、弁当を半分にして通い続け、借金までして入った店。そんな私を、娘…

夫を亡くして三年。静岡の海沿いの団地で、六十五歳の私は年金だけの静かな暮らしをしていた。そんなある梅雨の日、雨宿りにふと入ったパチンコ屋で、私は生まれて初めて「勝った」喜びを知った。あの瞬間、張りつめていた心臓の音が聞こえた。久しぶりに、自分が生きていると感じた。でも、あの日から私は少しずつ変わっていった。節約していた食費が消え、弁当を半分にして通い続け、借金までして入った店。そんな私を、娘...

六月の雨は静かに人の心に染み込む。音もなく窓ガラスを濡らし、カーテンの隙間から部屋の中へ、そしてなぜか心の隙間にも入り込んでくる。静岡県の海沿いにある古い団地の一室で、杉本千子(六十五歳)は午後四時を過ぎても薄暗い部屋にいた。

夫の吉男が死んで三年が経つ。真冬の朝、トイレの前に倒れているのを千子自身が見つけた。葬儀も四十九日も一周忌も三回忌も終わったが、部屋の空気だけはあの朝からずっと止まったままのように感じていた。

夕方になると、いつものように台所の棚の引き出しを開ける。そこにはスーパーのレジ袋が三角形に折りたたまれてきっちりと並んでいた。夫が生きていた頃は「そんなに貯めてどうするんだ」と笑われたものだ。夫が死んでから、捨てる機会がなくなった袋はさらに増えた。

冷蔵庫には豆腐が半分、卵が二個、醤油がそろそろ底をつきそうだった。奥に隠れるように缶ビールが一本あったが、それは吉男が死ぬ前に買ったものだった。なぜかずっと捨てられずにいた。

電気ケトルでお湯を沸かし、緑茶を飲む。やることがなくなると、押入れから古いアルバムを引っ張り出して眺めた。笑っている吉男、照れ臭そうな自分、幼い頃の娘・莉奈。今の自分とはまるで別人のようだった。

スマートフォンを手に取るが、通知は何もない。莉奈から最後に連絡があったのは五月の連休前。「お母さん元気? 仕事が忙しくてなかなか連絡できなくて」という短いメッセージに「気にしないで」と返信したきりだ。東京に嫁いで十年以上、莉奈は夫と二人で世田谷の賃貸マンションに住んでいる。子どもはいない。

六月のある火曜日、梅雨の雨が朝から止まなかった。千子は午後、傘を持って近所のスーパーへ出かけた。買うものは豆腐と卵ともやし、食パン。四百円もあれば足りる。年金が次に入るまであと三週間ある。残高は計算しないようにしていた。計算すると怖くなるから。

帰り道、雨が激しくなった。商店街のアーケードに折れ、水溜まりを避けながら歩いていると、路地の奥に色褪せた電飾看板が目に入った。パチンコ屋だった。有楽館という店名が薄れた文字で書いてある。以前から目の端に引っかかっていた店だ。

千子は少し迷ってから路地へ曲がった。自動ドアが開いた瞬間、音と光と空気が一気に押し寄せてきた。金属音の破裂音、電子音楽、タバコの煙が染み込んだ古い空気。体の奥から逃げ出したい衝動が湧いてきた。

その時、紺色のベストを着たスタッフが近づいてきた。「いらっしゃいませ。奥に一円パチンコのコーナーがございます。騒がしくなくて、ゆっくりお楽しみいただけますよ」

断ろうと思ったが言葉が出なかった。引き込まれるように、千子は奥へ足を踏み出した。

奥のコーナーは確かに静かだった。座っているのはほとんどが六十代、七十代に見える人たち。無言で画面を見つめ、手元のハンドルを握っている。一円パチンコは、玉一個が一円で遊べる。負けても小額で済む代わりに、当たった時の払い出しも少ない仕組みだとスタッフが説明してくれた。

千子は少し休んでいくだけならいいかと思い、財布から千円札を一枚取り出した。スタッフが玉の入ったケースをセットしてくれた。椅子に腰を下ろし、ハンドルを握る。硬くてひんやりとした感触。右に少し回すと玉が弾き出され、機械の中へ消えていく。最初は何も分からなかった。ただ、手がだんだん機械的に動き始めた。

時間が経つのを忘れていた。外の雨音も、スーパーの帰りであることも、冷蔵庫の中身も、莉奈から連絡がないことも、吉男の缶ビールも、全部がぼんやりと薄れていった。目の前の画面だけがあった。

千円分が終わりかけ、帰ろうと思いかけた時、突然画面が激しく光った。同じ絵柄が三つ並んだ。機械が震えるような電子音を発し、玉が勢いよく受け皿へ流れ込んできた。心臓がどん、と鳴った。続けてどんどん、と胸の中で何か大きなものが叩いているみたいだった。この感覚をいつ以来感じていなかっただろう。吉男が死んでからの三年間は平らだった。良いことも悪いこともなく、ただ静かに過ぎていく日々。世界は動いているのに、自分だけが止まっているような感覚がずっとあった。

それが今、胸の中で何かが動いていた。恐怖でも悲しみでもなく、もっと原始的で、もっと切なく、もっと眩しい何かだった。

スタッフが「おめでとうございます」と言った。千子は声が出せなかった。玉を景品と交換し、お菓子の詰め合わせをもらって店を出た。雨は少し弱まっていた。歩きながら、まだ心臓が少し早く鼓動しているのを感じた。ただそれだけのことなのに、今日一番鮮明な出来事として残っていた。

翌日も雨だった。布団の中で、昨日のことを順番に思い出した。ハンドルのひんやりした感触、画面が光った瞬間。思い出すと胸の辺りがざわついた。千子は「寄ってみるだけならいいか」と思った。千円だけ持っていく。昨日と同じことをするだけだ。

午前十一時頃、千円札を一枚だけ財布に入れて家を出た。昨日と同じ道を歩き、有楽館へ入った。今日は昨日ほど戸惑いはなかった。千円分の玉で一時間ほど遊んだ。当たりはなかったが、なぜか腰が上がらなかった。

それから毎日、千子は有楽館へ行くようになった。最初は今日だけと思っていた。次の日も今日だけと思った。三日目も四日目もその繰り返しで一週間が過ぎた。気づけば、有楽館へ行くことが朝起きた後の最初の予定になっていた。行く時間も少しずつ早くなり、帰る時間も遅くなった。一日六時間近くをあの奥のコーナーで過ごすようになった。

部屋のことは後回しになっていった。洗濯物は三日分溜まり、台所の流しに皿が出しっぱなしになっていた。夫が生きていた頃には絶対になかったことだ。食事のことも変わった。食費を削り、夜八時以降のスーパーで半額のシールが貼られた弁当を買う。半分食べて残りを翌朝食べる。それが一日の食事になった。

体が軽くなった。千子は痩せているのだと思っていた。栄養が足りていないとは考えないようにした。目薬の消費が増え、ハンドルを握る右手の親指の付け根に痛みが出てきた。

有楽館に通い始めて十日ほど経った頃、よく隣の席に座る老人が気になり始めた。小暮という名前で、千子より三つ年上の六十八歳。妻を五年前に亡くし、娘夫婦とは折り合いが悪く、今は一人暮らしだという。最初に話しかけてきたのは小暮の方だった。「お隣、毎日来てらっしゃいますね」と、画面を向いたまま言った。低くて少し枯れた声だった。

それ以来、小暮は毎日少しずつ話しかけてくるようになった。天気の話、昼に食べたものの話、どの機種が出やすいかという話。押し付けがましいところがなく、返事をしなくても気まずくならないので、千子も少しずつ答えるようになっていった。

ある日、千子が当たりを引けないまま三千円を使い切った時、小暮が言った。「一円じゃいつまで経っても元が取れませんよ。あっちの四円なら、一発当たれば一万五千円以上戻ってきますからね。温泉にでも行きたいと思ってるなら、あっちで一勝負してみればいいですよ。たまには気分転換にもなるし」

千子は「そうですか」とだけ言って聞き流した。しかしその言葉は頭のどこかに引っかかった。

梅雨が続くある週末、莉奈が突然訪ねてきた。事前の連絡はなかった。玄関に入るなり、いつもより顔が痩せて見えた。化粧はしているが目の下に隈があった。「ちょっと近くまで来たから」と言う莉奈。それが嘘だということは二人とも分かっていた。東京から静岡まで「ちょっと近く」で来られる距離ではない。

莉奈はデパートの袋から千子の好きな練り切りを取り出し、テーブルに置いた。二人でお茶を飲みながら、莉奈は東京の話をした。職場の人間関係、混む電車、最近行ったレストラン。しばらくして、莉奈が話の方向を変えた。

「旦那の会社、このところ残業が少なくなってて。業績が良くないらしくて、部門全体で残業の上限が下がったんだって。だから手取りが三万くらい減ってるんだよね。物価も上がって、マンションの更新でもまた一万五千円上がったし、なんか色々きつくて」

千子は何も言えなかった。お金の話をするには、自分の状況を正直に話さなければならない。有楽館のこと、毎日通っていること、食費を削っていること。そんなことを莉奈に話せるわけがなかった。話せるどころか、今この瞬間、こんなに痩せた娘が目の前に座っているのに、千子には渡せるお金が手元にほとんどなかった。

「大変ね。まあなんとかなるわよ。若いんだから」千子は空虚な言葉を口にした。莉奈は力のない笑い方をした。

莉奈が台所でお茶のお代わりを入れようと冷蔵庫を開けた時だった。数秒、莉奈は冷蔵庫の中を見て固まっていた。中には昨夜の半額弁当の残り半分、ほぼ空の醤油、卵一個、賞味期限が切れたもやし、使いかけのチューブのわさび。そして吉男の缶ビール。

莉奈が冷蔵庫を閉め、振り返った時、顔が変わっていた。「お母さん、ちゃんと食べてる?」

「食べてるわよ。年取ると食が細くなるから」

「あの弁当、半分しか残ってないけど、あれが今日のご飯なの?」

「昨日のだから、今日も食べようと思って」

莉奈がため息をついた。「こんなに質素に暮らして、お金はどこに消えてるの? 年金ってそんなに少ないの? それとも何か払うものが増えたとか?」

「別にどこにも消えてないわよ。質素なのは昔からよ」

莉奈は黙っていた。それから「そうか。こういう生活してるなら、うちのこと心配かけてごめんね。って言いたかっただけで」と、声を少し緩めた。「私が来て、お母さんにどうにかしてもらおうとか、そういうつもりじゃないから。ただ顔見たくてきただけで」

その言葉を聞きながら、胸の辺りがじんとした。顔を見に来てくれた娘に、自分は何もしてやれない。嘘をついて隠していることがある。

莉奈が帰り支度を始めた時、千子が洗面所から古い洗剤を取り出していると、リビングで莉奈の声がした。「ねえ、お母さん、これ何?」

莉奈は、椅子の背もたれにかけてあったカーディガンのポケットから、半分飛び出した薄いプラスチックのカードを持ち上げていた。有楽館のメンバーズカードだった。財布ではなく、カーディガンのポケットに入れていたのを忘れていた。

「ああ、スーパーのポイントカードよ」千子はすぐに言った。

「有楽館って書いてある」莉奈はカードの表を見た。「これ、パチンコ屋さんじゃないの? お母さん、パチンコやってるの?」

「たまに息抜きで。一円のコーナーだから、ほとんどお金もかからないし」

莉奈が千子を見た。「メンバーズカードまで作って、これが“たまに”なの? お母さん、冷蔵庫の中があんな状態で、弁当半分でご飯済ませて、それでパチンコに行ってるの? お母さん、正直に言って、毎日行ってるんでしょ」

「毎日じゃないわ」千子は嘘をついた。

「どのくらい使ってるの? 一日で」

千子は黙った。莉奈が深く長いため息をついた。「こんなに質素に生きてるの、お金がないからじゃなくて、パチンコに使ってるから節約してるんだ。自分がどういう生活してるか分かってるの? あんなに寂しそうに見えたから心配してきたのに、パチンコ屋に毎日通ってたんだね。こっちは旦那の収入が減って、毎月の計算が怖くてたまらないのに、お母さんは一人でパチンコですか」

千子は立ったまま何も言えなかった。

「お母さんの生活のこと、心配して、もし困ってるなら少し援助しようかとも思ってた。でも逆だったね。お母さんが質素に生きてるのは、ギャンブルにお金回すためだったんだね」

その一言が胸に刺さった。「ギャンブルじゃない。一円のパチンコよ」千子はとっさに言った。「お金なんてほとんどかかってない」

自分で言いながら、その言葉がどれほど嘘臭いか分かっていた。一日三千円から五千円。それが毎日続いている。

莉奈がカードをテーブルに置いた。静かな音だった。「お母さんが何をしようと、お母さんの自由よ。でも、こういうことなら、もう私には何も相談してこないで。心配して損したとまでは言わないけど、来なきゃよかったとは正直思う」

それから莉奈はコートを着てバッグを持った。練り切りの箱はテーブルに残したまま、「帰るね」とだけ言ってドアを閉めた。

千子は玄関の前に立ったまま動けなかった。莉奈の言葉が頭の中で繰り返された。「来なきゃよかったとは正直思う」。正しいからこそ、反論できなかった。

その夜、千子は九時過ぎに部屋を出た。財布に二千円を握り、夜の町を歩き、有楽館へ向かった。夜十一時まで開いていることは確認してあった。誰ともすれ違わない商店街を抜け、路地の奥の電飾看板の光に向かった。

八月に入った頃から、一円パチンコが物足りなくなっていた。正確に言えば、何も感じなくなっていた。ハンドルを握る、玉が飛ぶ、画面が回る。最初の頃は胸の中に波を起こしたその繰り返しが、今は手だけが動いて、気持ちはどこか別のところに漂っている感覚だった。あの六月の初日に感じた心臓がどんとなる感覚は、戻ってこなかった。

その喪失感をどこかで補おうとしていた。小暮が四円コーナーの話をするのは一度や二度ではなかった。「今日もあっちで出てましたよ。昼過ぎに」とか「一万五千円持っていって、三万になって帰ってきた人を見た」とか。

千子は四円コーナーをちらりと見るようになった。一円コーナーとは明らかに違う雰囲気があった。演出が派手で、画面の光が強い。座っている人間の顔には、一円コーナーの老人たちとは違う緊張感があった。

十月の初め、市役所から固定資産税の納付書が届いた。金額は六万円だった。二ヶ月に一度の年金が十一万円弱、月に換算すれば五万五千円。家賃が一万八千円、光熱費が八千円、保険料が六千円。それだけで三万二千円が消える。残りは二万三千円で食費と日用品と医療費を賄う計算だ。そこへ六万円の税金が来た。

通帳を確認すると、残高は四十七万円と少し。去年の春には百万円以上あったはずだった。一年半で五十万円以上が消えた。有楽館への支出を計算しないようにしていた。一日三千円、多い日は五千円。週に六日。ざっくり計算すれば、月に十万円前後がパチンコに消えていた可能性があった。

リナのことが頭に浮かんだ。もし今の自分に余裕があれば、五万円を莉奈の口座に振り込んでやれる。でも、五万円はない。六万円の税金も払えるかどうか分からない状況で、莉奈に渡せるお金などなかった。

その夜、布団の中で、小暮が言っていた言葉を思い出していた。「一発当たれば一万五千円以上戻ってくる」。税金の六万円を賄うには四回当たればいい。莉奈に五万円を送るには、さらにもう数回。そういう計算を何度も繰り返した。現実的ではないと分かっていた。それでも計算をやめられなかった。

十月の第二週の月曜日の朝、千子は目が覚めてすぐ、郵便局へ行き、普通預金から五万円を下ろした。税金の支払いに使うべきお金だ。それは分かっていた。分かっていて、郵便局から有楽館の方向へ歩き始めた。「今日だけ」と思った。「今日、四円で一度だけ試す。当たれば税金を払っても余りが出る。当たらなくても一万円くらい損をするだけだ。それなら後でなんとかなる。来月の年金でやりくりすればいい」

有楽館に着いたのは午前十時を少し過ぎた頃だった。いつもならまっすぐ奥のコーナーへ向かうところを、今日は途中で左に折れた。四円コーナーのエリアに入ると、音がすぐに変わった。機械の音が大きく、演出音も派手で、画面の点滅が激しかった。

千子は端から二番目の台に座り、スタッフに一万円札を渡した。一円コーナーと同じ操作なのに、重さが違った。一回ハンドルを回すたびに消費される玉の量と速さが、一円コーナーとは比べ物にならない。一万円が、三十分もかからずに消えた。次の一万円を出す前に考える時間がなかった。

午前十一時過ぎ、小暮が現れた。「来ましたか。どうですか?」

「まだ当たらない」

「この台はちょっと重いですね。隣のあの台の方がまだ出やすいですよ。台を変えてみたらどうですか」

千子は台を変えなかった。ここまで投資したのに、ここで逃げたら損をした分が戻らない。その考えが体を椅子に縛りつけていた。

午後二時を過ぎた頃から、体の内側から熱が出ているような感覚があった。手のひらが湿っていた。財布に一万円が残っている。それを出したら、今日持ってきた五万円が全てなくなる。税金のために下ろした五万円が。頭の一部はそのことを正確に認識していた。でも、その認識と、手が財布に向かう動作の間に、何も挟まらなかった。

最後の一万円札を機械に入れた。午後三時四十分。画面が暗くなり、残高がゼロになったことを示す表示が出た。五万円。今日一日で五万円が消えた。税金のために下ろしたお金だった。それが六時間足らずで、一度も大当たりを出すことなく機械の中に消えた。

椅子から立ち上がろうとして、足が震えた。体が傾き、一瞬台に手をついた。小暮がこちらを見ていた。何も言わなかった。それでよかった。何か言われたら崩れてしまいそうだった。

夕方の町を歩きながら、頭の中が妙に静かだった。怒りでも悲しみでもなく、ただ静かだった。何かが大きく決定的に終わった後のような静けさだった。海沿いの道に出ると、空の端が赤くなり始めていた。夕焼けだった。その赤さを見た時、なぜかひどく間違いだと思った。こんなに美しい空の色が、今の自分を照らしていることが、残酷だった。

部屋に帰りつくと、電気もつけずに廊下に立ち尽くし、畳の上に膝から崩れるように座り込んだ。財布の中には千円札が一枚と小銭が少しだけ。今朝下ろした五万円は、もう世界のどこにもない。固定資産税の納付期限は来週だった。

リナには、今日有楽館で五万円を溶かしたことを絶対に言えない。あの日カードを見つかった時よりも、もっと言えない。言ったら今度こそ取り返しがつかなくなると思った。

誰にも話せない。リナには話せない。吉男はいない。友人もいない。誰にも話せないということがどれほど人を追い詰めるか、千子はこの三年間で少しずつ知っていった。そして、その孤独を一時的に忘れさせてくれるのが、あの機械の前に座っている時間だった。だから行くのをやめられなかった。そう分かっていても、やめられなかった。

十一月に入ると、海沿いは急に風が冷たくなった。千子は灯油を買うのをやめ、毛布を重ねて寝た。節約しなければならない理由は明確だった。固定資産税六万円を普通預金から出したことで、残高は三十四万円を切っていた。それでもパチンコはやめられなかった。一円コーナーでも、週に数回行けば月に四、五万円は消えた。それが続いていた。

十二月の頭、電気料金の請求書が来た。未払いになっていた。翌日、電気代を払いに郵便局へ行ったが、帰りに有楽館へ寄った。返済が滞り、請求書が積み上がっていく。

駅の近くに、無人契約機のコーナーがあった。消費者ローンの無人契約機が三台並んでいる場所だ。千子はこれまで目をそらしていた。自分には関係ない場所だと思っていた。

十二月の第二週の水曜日、有楽館から帰る途中、気づいたらその路地の前に来ていた。風が吹き、コートの前が開いて冷たさが体に当たった。千子は路地へ入った。

画面に従って操作を進めた。身元確認、年収、年金収入の入力。審査のメッセージが出て三分ほど待った。その三分間、千子は機械の前で小さく立ち、壁の一点を見ていた。

画面が切り替わった。「審査が通った」。利用限度額は五十万円、金利は年十八%と表示された。千子は数字を見た。十八%、二十万円借りれば一年で三万六千円の利息。借りられる金額を選び、機械が一万円札を二十枚出した。

受け取った札を財布に入れながら、手は少し冷たかった。財布が急に重くなった。この重さが、お金ではなく別の何かの重さのように感じた。でも今は、これしか方法がなかった。

翌朝、千子は電気代と水道代を払った。それでも手元に十四万円近く残っていた。税金と固定費を払い、久しぶりにいくらか余裕ができたような気がした。その「余裕ができた気がする」という感覚が、判断を狂わせた。正確に言えば、この十四万円は借りたお金だ。余裕ではなく、返済していかなければならない負債だ。

でも、午前十時になると、千子は有楽館へ向かっていた。「今日は一万円だけにしよう」と心に決めていた。しかし、一時間が経ち、二時間が経ち、三時間が経った時には、一万円が消えていた。次の一万円を出した時、自分がもう「今日は一万円だけ」という決意を忘れていることに気づいた。気づいたが、手は動いていた。

その日、千子は一円コーナーで六時間過ごし、一万五千円を使った。借りたお金の残りは、一週間も経たないうちに、ほとんど有楽館に消えていた。

十二月の中旬、夜九時過ぎに電話が鳴った。スマートフォンの画面に、莉奈の名前が出ていた。あの日以来、莉奈からの連絡は初めてだった。千子は電話に出た。

「お母さん、元気?」莉奈の声はいつもより低く、掠れていた。「お母さんに頼みたいことがあって」

莉奈の夫・信也の会社が、十二月に入って大規模な人員削減を発表したらしい。信也は三十九歳で、食品系メーカーの物流部門にいた。先月から残業がなくなって収入が減っていたのは、莉奈が静岡に来た時に話していたことだった。その後、十二月の頭に部門の再編が決まり、信也は来月末で雇用契約が終わると通知された。社員ではなく契約社員だったらしく、退職金もほとんど出ないらしい。

「今、家賃が二ヶ月分滞納してて。大家さんには話してあるけど、来月中に払わないと出ていかないといけない。旦那が仕事探してるけど、すぐには決まりそうもなくて。お母さんに、十万円だけかしてもらえないかと思って」

十万円。千子は受話器を持ったまま動けなかった。今の自分に、十万円を莉奈に渡す余裕があるかどうか。口座の残高を頭の中で計算しようとして、数字が散らかった。

「少し待って」千子は言った。「今月は年金の入るタイミングが遅くて…」と言いかけて止まった。嘘だった。

「お母さん、最近体の調子が良くなくて。病院に払うものもあって、今月は本当に余裕がなくて、ごめんね」

「そうなの。体、大丈夫?」莉奈の声が小さくなった。

「大丈夫よ。大したことじゃないから」千子は嘘の上に嘘を重ねた。

「そっか。そうだよね。急に頼んでごめん。無理だよね」莉奈は感情のない声で言った。「じゃあ、また連絡するね」

電話が切れた。千子はスマートフォンを持ったまま、コートも脱がずに椅子に座っていた。今までの嘘はパチンコのことを隠すための嘘だった。今夜の嘘は、困っている娘に手を差し伸べないための嘘だった。その差が、胸の中に錘のように沈んでいた。

四十分後、また電話が鳴った。電話に出ると、莉奈の声が変わっていた。低くて、感情が抑えられていた。それがかえって怖かった。

「お母さん、一つ聞いていい? 今日、消費者金融から電話があったの。お母さんの名前で、返済の確認をしたいって。緊急連絡先に私の番号が登録されてたみたいで。お母さん、消費者金融で借りたの? 無人君って書いてあった。お母さん、なんでそんなところで借りてるの? 体の調子が悪いって言ってたじゃない。病院のために借りたの?」

「違う」千子はやっと言った。

「じゃあ、何のために?」

千子はまた黙った。

「お母さん、正直に言って」莉奈の声には遠慮が一切なかった。

「パチンコよ」千子は言った。自分の口から出た言葉を、言ってしまってから改めて聞いた気がした。

莉奈がしばらく黙った。「パチンコのために、消費者金融でお金を借りたってこと? しかも返済遅れてるんでしょ。お母さん、私が静岡に行った時、冷蔵庫の中が空っぽだったじゃない。あの時、お母さんが節約してるからご飯もろくに食べてないんじゃないかって、ずっと気になってた。だから心配して、今夜電話したのに。お母さんが大変な思いをしてるなら助けたいと思って、電話したのに。そうじゃなかったんだね」

「最低だと思う」莉奈は言った。低く、短く、はっきりした言葉だった。「うちは今本当に追い詰められてる。旦那の仕事がなくなって、家賃が払えなくて、来月どうなるか分からなくて。それでも誰にも頼れなくて、やっとお母さんに電話したのに。お母さんは、パチンコに消費者金融のお金を使ってたんだね」

千子は何も言えなかった。

「もう連絡しないで。お母さんのことは、もう私には関係ない。お母さんの好きにしたらいい。ただ、もう私に電話しないで。もう来ないで。私はもう、お母さんに何もしない」

電話が切れた。千子はスマートフォンを耳から離した。通話時間は十七分だった。莉奈の声が頭の中で繰り返された。「最低だと思う」「もう連絡しないで」。正しいことを言っている。莉奈は何も間違っていない。怒るのは当然だ。見捨てたいと思うのも当然かもしれない。

千子はコートを脱がずに布団に横たわった。今夜は眠れないと分かっていた。でも、目を閉じていれば、少なくとも何も見なくて済む。冷蔵庫の唸りが聞こえ、波が打ち寄せた。千子は暗闇の中で目を閉じたまま、静かに夜の底に沈んでいった。

一月になった。年が明けたからと言って、何かが変わるわけではなかった。請求書が来る。電話が鳴る。出ない。また請求書が来る。その繰り返しだった。無人君への返済は最初の月に一度だけ払って、後は滞納していた。郵便受けを開けるのが怖くなっていた。でも開けないわけにはいかない。開けると封筒が三、四通入っていた。千子はそれらをテーブルの隅に積み上げた。

部屋の電気をつけるのをやめていた。日中は窓からの光で過ごし、暗くなったら布団に入った。明るくすると、テーブルの上の封筒の山が見えた。積み重なった洗い物が見えた。枯れた鉢植えの花が見えた。暗い方が、それらが見えなくて済んだ。

眠れない夜が続いた。布団の中で天井を見上げながら、リナの声を何度も聞いた。「もう連絡しないで」。繰り返すたびに、胸の辺りが重くなった。泣ければ良かったかもしれないが、涙は出なかった。

一月の下旬のある朝、財布の中身を確かめた。千円札が一枚、小銭が少し。合わせて千四百円ほどだった。次の年金が入るまで、あと五日ある。その間、食費も交通費も賄わなければならなかった。

「勝てばお金が増える。当たれば、次の年金が入るまでの五日間がしのげる」そういう計算を頭の中で繰り返した。計算がおかしいことは分かっていた。千円を使えば千円が消える。当たる保証はない。むしろ負ける方が圧倒的に多い。それでも、有楽館へ行けば、少なくとも何かが変わるような気がした。

有楽館に着いたのは午前十時過ぎだった。いつもの音、いつもの光、いつもの空気。でも、今日はその「いつも」が少し違って感じられた。足が重かった。一円コーナーへ向かう途中、小暮の姿が見えた。いつもの席に座っていて、千子に気づいて小さく頷いた。千子も頷き返した。

いつもの席に座り、千円を出し、ハンドルを握った。しかし、今日は画面を見ていても何も感じなかった。最初の頃の胸がざわつく感覚も、世界が遠ざかる感覚もなかった。ただ手だけが動いていた。機械のように手だけが動いていた。もう、これが逃げ場でもなくなっているのかもしれなかった。

二時間ほど経った頃、千子はトイレへ立った。古いタイルの床で、いつも消毒液の匂いがする場所だ。ドアを押して中に入った時、足が止まった。

便台の脇に、人が倒れていた。小さな体だった。丸まるように横向きに倒れ、薄いグレーのコートを着ている。頭の白い髪が床に広がっていた。そばに黒い財布が落ちていた。財布は開いていて、中は空だった。

倒れている人間が生きているのか死んでいるのか、一瞬分からなかった。体が動かなかった。自分の呼吸だけが聞こえた。

その時、廊下側からドアが開いて、清掃員の若い男が入ってきた。モップを持っていた男は、床の老婆を見て「ちっ」と舌打ちした。それから「またか」という顔をして、老婆の腕を両手で掴み、引きずり始めた。廊下に出すつもりらしかった。老婆は抵抗しなかった。されるがままに引きずられながら、千子を一瞬だけ見た。その目だった。

清掃員が老婆を廊下へ引き出していった後、千子は一人でトイレの中に残された。鏡の前に立った。蛍光灯に照らされた自分の顔が映っていた。思っていたより老けていた。目の周りが落ちくぼみ、頬の肉がこけ、髪が乱れていた。カーディガンの胸元に、何かの食べかすがついていた。

鏡の中の顔と、床に倒れていた老婆の輪郭が、頭の中でぴたりと重なった。あの老婆は、一円パチンコの台の前で持ってきたお金を全部使い切って、立ち上がれなくなって、トイレの床に倒れていたのだ。清掃員にとって、床に倒れた老婆は、処理すべきものだった。

千子は、自分がいつかあの老婆と同じになることが分かった。今日ではないかもしれない。来週かもしれない。来月かもしれない。でも、今の生活を続ければ、必ずあの老婆と同じになる。床に倒れて、財布が空で、誰かに腕を掴まれて廊下へ引きずり出される。それが自分の行き先だった。

一円コーナーの方へ戻りかけて、足が止まった。席には残り玉がまだ少しあった。「もったいない」。その言葉が頭に浮かんだ時、千子は自分が今まで何度その言葉に騙されてきたかを思った。もったいないから続ける。ここまで使ったから、あと少し続ければ当たるかもしれない。その「もったいない」が、毎回自分を椅子に縛りつけてきた。

千子は席に戻らなかった。コートのポケットから、メンバーズカードを取り出した。有楽館という文字とカード番号が印刷された、プラスチックのカード。莉奈に見つかったあの日も、ここに入っていた。

出口に向かって歩いた。自動ドアの前に小さなゴミ箱があった。千子はカードをその中に落とした。音もなく落ちた。

自動ドアが開いた。一月の外気が顔に当たった。冷たかった。路地に立って、千子はしばらく動かなかった。体が震えていた。寒さからだけではなかった。今まで何度もこの路地を歩いたが、出口から出てきたのは初めてだった。いつもは名残惜しさがあった。もう少し続けていれば当たったかもしれないという感覚が足にまとわりついていた。今日は違った。ただ寒かった。

財布の中に千円札が一枚残っていた。有楽館に千円を持って入ったが、今日は一円も使っていなかった。弾を買わなかった。席には座ったが、財布を出さなかった。

団地へ帰り、暗い部屋の中に入った。電気をつけた。蛍光灯がチカチカしてから点いた。テーブルの上の封筒の山が見えた。千子はコートを脱ぎ、椅子に座り、封筒の山の前に座った。

今まで積み上げるだけで中を開けることを避けていた封筒を、一つずつ取り上げた。無人君からの通知には、延滞している元金と利息の合計が書かれていた。千子が借りた二十万円は、延滞利息を含めて二十二万円を超えていた。市役所からの通知には、固定資産税の分割払いの案内が載っていた。電力会社からの最終通告には、今月中に払わなければ電気が止まると書かれていた。

千子はそれらをテーブルの上に並べた。「見ると怖くなると思っていたが、実際に広げてみると、怖さとは少し違う感覚があった。重かった。でも、それまで目の奥に隠れていたものが、ようやく形になって現れたという感覚でもあった。目を背け続けていたものが、今ここにある。それは怖いが、見えている分だけ向き合えるような気がした。」

その夜、千子は寝る前に紙を一枚取り出し、持っている書類を種類ごとに分けてリストを作った。無人君への債務、電気代の未払い、分割払いが可能な税金の残り、今月の年金が入った後の残高の見込み。書いてみると数字が整理された。整理された数字は厳しかったが、頭の中でぐるぐるしている時よりはマシだった。

翌朝、市役所からの通知に「生活困窮者支援窓口」という文字を見つけた。税金の相談に来るよう書いてあった。千子はその部分を指で何度かなぞった。自分が生活困窮者だと認めることが、これまではできなかった。でも、今の自分は実際にそうだった。

翌日、千子はクローゼットから一番綺麗な服を選んだ。莉奈の成人式に着ていったベージュのスーツ。吉男の七回忌以来着ていない。取り出すと、少し防虫剤の匂いがしたが、状態は良かった。鏡の前に立ち、髪を整え、薄い口紅を引いた。書類をバッグに入れ、玄関で靴を履いた。この靴を履いて出かけた先が、この半年は有楽館ばかりだった。今日は違う場所へ行く。

市役所は団地から歩いて二十分ほどだった。窓口の前まで来ると、若い男性の職員が座っていた。千子はバッグを持ったまま、その職員の前に立った。それから腰を折った。深く長く、その姿勢のまま言葉を絞り出した。

「助けてください」

声が震えていた。

「どうすればいいか教えてください。私は、間違えました」

顔をあげると、目が熱くなっていた。ここ何ヶ月も泣けなかったのに、今、市役所の窓口で、若い職員の前で、涙が流れていた。恥ずかしかった。でも、恥ずかしさよりもっと大きな何かが先にあって、涙は止まらなかった。

職員が立ち上がり、「どうぞ、座ってください」と落ち着いた声で言った。「ゆっくりで大丈夫ですよ。聞かせてください」

千子は椅子に座り、バッグから書類を取り出した。手が震えていた。職員は急かさなかった。ただ待っていた。千子は話し始めた。全部話した。六月に初めてパチンコ屋に入ったこと。毎日通うようになったこと。四円コーナーで五万円を失ったこと。無人君で借金したこと。借りたお金もまたパチンコで使ってしまったこと。電気代も税金も払えなくなっていること。娘と話せなくなっていること。

話しながら、何度か声が詰まった。でも、職員は途中で口を挟まなかった。メモを取りながら、時々頷きながら聞いていた。話し終えた時、千子はひどく疲れていた。でも、体の内側が少し空になったような感覚があった。ずっと飲み込んでいたものを、初めて外に出した感覚だった。

相談は一時間以上かかった。職員は複数の制度を案内してくれた。消費者ローンの債務については、法テラスを通じた無料法律相談を予約できること。弁護士が間に入ることで、利息の減額や返済計画の組み直しが可能になる場合があること。電気代の未払いについては、止まる前に電力会社に連絡して事情を話せば、分割払いに応じてもらえる可能性があること。固定資産税の分割払いの手続きも一緒に進めてくれた。そして、生活困窮者自立支援制度の説明もあった。今の収支が生活保護の基準に近い場合、支援員がついて生活の立て直しを一緒に考える制度だと言った。

千子は全てをメモした。帰り際、職員が「次は来週の火曜日にまた来ていただけますか。今日の内容を整理した書類を用意しておきます」と言った。千子は「はい」と言った。「ありがとうございます」と言うだけでも、また喉が詰まった。

半年後、夏。千子は午前六時半に起きた。目覚まし時計のアラームで起きると、まず電気をつけた。部屋が明るくなった。封筒の山はもうテーブルの上になかった。届いた書類はきちんと開けて内容を確認し、対応したものから処理するようにしていた。

台所で電気ケトルのスイッチを入れ、エプロンと動きやすい靴に着替えた。七時に家を出た。職場は地元の中規模病院で、団地から自転車で十分ほどだった。千子の仕事は院内清掃だった。主にトイレと廊下と待ち合い室を担当する。朝七時半から昼の一時まで、週五日。時給は九百九十円だった。

六十六歳の体には確かにきつかった。五時間半ずっと動いていると、帰る頃には足が疲れていた。でも、疲れた体で自転車に乗って帰ってくると、シャワーを浴びて昼食を食べると眠くなった。その眠さが千子には心地よかった。体が疲れて眠るのは、考えが追いかけてこない眠り方だった。

給料は月に約十一万円。年金と合わせると、月々の収入が十六万円ほどになった。弁護士との相談で、無人君への借金は利息の計算で元金が圧縮され、返済総額が十四万円まで下がった。それを月々一万五千円ずつ返済していた。電力会社との分割払いも続けている。全部払うと手元に残るのはそれほど多くなかった。でも、以前のように計算するのが怖くて通帳を開けないということは、もうなくなっていた。

有楽館の前を通ることがあった。最初の頃は意識して別の道を通っていたが、今は同じ道を通っても、曲がる気にならなかった。あれほど強く引かれていたのに。あの床に倒れていた老婆の目を思い出すと、足は自然に前に向いた。

病院の裏口の脇に小さなベンチがあった。昼休みの間、千子はそこでおにぎりを食べた。梅干しのおにぎりを二個、朝のうちに握ってきた。ご飯を炊いて、梅干しを乗せて、のりを巻く。コンビニで百三十八円のおにぎりを買っていた頃と、何かが違った。自分で作ったものを食べているという、それだけのことかもしれない。

夏の病院の庭で、蝉が鳴いていた。おにぎりを食べながら、スマートフォンを確認した。莉奈からの連絡は、今日もなかった。一月に市役所へ行った翌日、千子は莉奈にメッセージを送った。短いメッセージだった。

「パチンコのことは本当だった。消費者金融で借りたことも本当。全部話せなくてごめんなさい。今、市役所と一緒に立て直すことを始めた。体は元気。返事がなくてもいい」

莉奈からの返信は来なかった。それから半年、返信はない。既読かどうかも見なかった。見ると、また夜が長くなりそうだった。このまま連絡が来ないかもしれない。何年かして、ふいに来るかもしれない。どちらになるのかは、千子には決められないことだった。決められないことを決めようとしないということを、千子は少しずつ覚えていた。

おにぎりを食べ終えた。蝉が鳴いていた。病院の窓から患者の話し声が小さく聞こえ、ナースステーションの方で誰かがカートを押しながら歩いていく音がした。日常の音だった。千子は空を見上げた。夏の空は高かった。白い雲が少しあって、その向こうに青があった。梅雨の頃の灰色に閉ざされた空とは、違う色だった。

体は疲れていた。借金はまだ残っていた。莉奈とはまだ話せていない。吉男はいない。これからどうなるかは、まだ分からない。でも、千子は今日の昼の空を見ていた。見ていることができた。それが半年前にはできなかったことだと、千子は思った。部屋の電気もつけられなかった。請求書を開けることもできなかった。自分が困窮者だと認めることもできなかった。それらが今は、少しずつできるようになっていた。

ものすごく変わったわけではない。ただ、少しだけ前と違う。

昼休みが終わる時間になった。千子はおにぎりの包みを畳んで、立ち上がった。体は少し重かった。でも、動いた。裏口のドアを開けて中に入ると、廊下が冷房で涼しかった。モップを持って、仕事に戻った。

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