私は池田正也。40代の会社員で、今は大手企業の社長を務めている。世間的に見ればエリートと呼ばれる立場だろう。しかし、その道のりは決して華やかなものではなかった。母子家庭に育ち、貧しいながらも母と二人で静かに暮らしてきた。幼い頃から成績は良く、母や先生たちは私に希望を託してくれた。
高校受験の頃、母は私に言った。
「私立は無理だけど、公立なら行きたいところに行きなさい。」
その言葉を励みに勉強を続け、地元の公立高校へ進んだ。そして公立大学を目指してひたすら勉強に励んだ。しかし、高校3年生の夏、母が倒れてしまう。雲行きが怪しくなり、学費が払えるかどうかという不安が押し寄せた。一時は学校を辞めて働くことも考えた。そんな私に母は言った。
「退学だけはしないで。学費はどうにかするから、あなたは学校に行きなさい。」
母は親戚に頼み込み、なんとか学費を工面してくれた。おかげで高校を卒業できたが、私は進学を諦め、就職することを決めた。大学に行きたい気持ちはあったが、働きながらでも行けると考えた。地元の防石工場に就職し、働きながら資格を取る日々を送った。
転機が訪れたのは15年前のことだ。防石工場で製造ラインの管理者になっていた私を、取引先の大手企業の担当者が気に入ってくれたのだ。
「自分らしくやれることをやればいい。そんな気持ちで来てくれ。」
そう言われて、私はその企業に引き抜かれた。そこから15年、私はコツコツと、時に泥臭く大手企業の中で生き抜いてきた。転職当初から、私が自分なりにできることの一つとして続けてきたのが清掃だった。出社時に作業着を着て、その日決めたエリアを自分で掃除する。それが私の習慣だった。
春先のある日、私は本社ビルのエントランスを掃除していた。作業着で床にモップをかけていると、スーツ姿の女性が近づいてきた。顔を上げると、彼女はパッと笑顔を見せた。
「池田君よね。」
「ああ…もしかして、広瀬さん?」
「ええ、そう。広瀬よ。驚いた。久しぶりだね。」
彼女は高校時代の同級生、広瀬さんだった。彼女は当時、学校一の美女と言われ、いわゆる高嶺の花だった。私は周囲の意見に同意していたが、一方で彼女に対して複雑な感情を抱いていた。
「ここは確かに公立でいろんな人がいるけど、池田君みたいに家が貧しい人って珍しいよね。」
彼女はよく私の家庭の事情や貧しさをネタにして笑っていた。悪気はない冗談のつもりだったのかもしれない。だが、言われた私はいい気分ではなかった。私は彼女のことを避けるように生活していた。
そんな彼女が卒業式の日、信じられないことをした。私に告白してきたのだ。
「私、池田君のことが好きだったの。」
謝罪と秘めた思いを打ち明けられたが、私はそれを信じることができなかった。冗談だとしか思えなかった。もしかしたら誰かを巻き込んだ嫌がらせかもしれない。そう思った私は、怒りを込めて返事をした。
「そう言われても…貧乏人の僕をからかうのがそんなに楽しいんですか?」
すると彼女は俯き、顔を赤らめて呟いた。
「失礼な人。もういい。」
そう言って彼女は去っていった。私はその後、誰かが種明かしに現れるのを待っていたが、誰も現れなかった。広瀬さんの告白は、わけのわからない不思議な出来事として心に残っていた。
そんな広瀬さんが、十数年ぶりに私の職場に現れたのである。何を言われるのかと身構えていると、彼女は想像もしていないことを言った。
「その格好、清掃員なの?」
「いや、まあそういう感じでも。」
「そういう感じでもってどういうこと?」
「別にいいじゃないですか。」
「え、あの、だって高卒の池田君にはぴったりの仕事だもん。そういう仕事しかつけないでしょ。」
彼女は昔と変わらず、楽しそうに私を笑った。そして、同じくスーツ姿の男性を呼び寄せた。
「富部部長、彼は池田君と言うんですけど、私の高校の同級生なんです。」
広瀬さんは私を紹介すると、その上司らしき男性も私をじろじろと見て鼻を鳴らした。
「ああ、どうも。そうか。世間は狭いな。」
「同級生なんですけどね。彼、学校で一番貧乏な家の生まれなんですよ。」
「そうですね。底辺の人っていうところでしょうか。」
二人は私を侮辱するように笑った。広瀬さんは私について何のためらいもなく話し、もう一度笑った。そして、この日の目的を明かした。
「今日はここに商談に来たのよ。もう契約寸前。ざっと200億円規模の計画。」
それを聞いて、私はある新規プロジェクトを思い出した。ある信販系メーカーとの共同プロジェクトだ。おそらく広瀬さんたちは、その進行メーカー側の担当者なのだろう。
「そうですか。まあ、お手柔らかに。」
相手を刺激するだけだと思い、私は曖昧な返事をした。だが、相手はさらにからかってきた。
「いや、大事な商談前に空気が悪い。あんたみたいな低脳の人間には消えてもらわないとね。」
富部さんは手で払う仕草をした。ここで反論しても仕方がない。私は清掃道具を詰めたカートを押して、その場を去ろうとした。
「失礼します。」
すると、私が進もうとしている方向から一人の社員が小走りで叫びながらやってきた。
「ちょっとあなたたち、なんてことを言うんですか?」
「いや、いいんだよ。」
「よくありませんよ。」
私は半ば諦めていたが、社員は食い下がった。その間に、広瀬さんたちはその社員に自己紹介をしようとしていた。
「ああ、何かありましたかね。すみません。私、こういうもので。」
富部さんは社員に名刺を渡そうとした。そんな富部さんの背後には広瀬さんが控え、同じく名刺を手にしていた。
社員は二人をちらりと見ると、私に言った。
「社長、決めてもよろしいでしょうか? このような方々との契約は、私の一存で白紙にさせていただきます。」
「なっ、それは…まだ今決めることでも…何をおっしゃるんですか?」
私は怒りが収まらない様子の社員を下がらせると、作業着のポケットから自分の名刺を取り出した。
「挨拶が遅れました。私、社長に就任いたしました池田です。就任は先週のことなんですが、あえて丁寧に。」
そう言って、富部さんに名刺を差し出す。彼は驚いたのか、顔面蒼白で絞り出すように「ああ」としか言えなかった。その背後の広瀬さんは、呆然とした顔で震えていた。
「いや、これはこれは。」
何も言えなくなった広瀬さんの代わりに、富部さんがたどたどしく口を開いた。
「申し訳ありません。弊社の広瀬が大変に失礼なことを。」
「いえ、失礼なのはあなたもでしょ?」
「ああ、申し訳ありません。」
「ここで伝えるのも失礼かと思いますが、お帰りいただけますか?」
私は富部さんと広瀬さんに、初めて怒りを見せた。二人の行いは、社会人どころか人としてあってはならないものだった。
「申し訳ありません。」
富部さんは絶叫するように頭を下げると、媚びる笑顔を浮かべて私にすり寄った。
「もちろん、失礼はお詫びいたします。ただ、言分というものもありまして…何でしょうか?」
「その社長が清掃員のふりをしているだなんて。そんな話、無理がありすぎじゃありませんかねえ。」
「清掃員はふりなんかじゃありません。これが私の日課なんです。ここに来て15年、掃除を続けていますよ。」
富部さんの媚びた笑みは不快だった。だが、彼はひたすら食らいついた。
「それは素晴らしい。ああ、そうですか。」
「ええ、そうです。」
「とも、あの、1つ伺いたいんですが。高卒のあなたがなぜ大手企業の社長になられたんですか?」
「まあ、端的に言えばスカウトです。15年前、私は故郷の防石工場で働いていたところを、今の会社の担当者に引き抜いてもらった。そしてその時私を引き抜いてくれた人は、前社長の息子である大平裕介という人でした。」
大平さんは社長候補でありながら、生まれ持ったアドバンテージに甘えることなく営業の一線で実力を発揮している人だった。そんな彼は、私の地道で粘り強い性格を気に入り、熱心に説得して転職させてくれた。地方の中小工場から高卒で大手企業にやってきた私は、想像通りの風当たりの強さに直面した。最初の頃はまともな仕事も与えてもらえず、周囲を観察して学ぶしかなかった。しかし、地元にいた頃とは違い、学ぶことが多い日々への感謝は大きかった。私は本心からそう思っていた。
そんな中で、何もやらせてもらえない代わりに自発的に何かをしたいと考えて始めたのが、今でも続く朝の掃除だった。
「まあ、ただの思いつきから始めましたが、今でも続いているんですよ。」
「はあ…でも継続は力なりは本当ですね。」
「この掃除のおかげで、多少なりとも道は開けましたから。」
コツコツと掃除をする。仕事はひたすら見て学ぶ。そんなことを繰り返しているうちに、私のことを面白いと感じる上司が出てきてくれた。そうして私を評価してくれる人たちは、私を最初に見つけて惚れ込んでいた大平さんに合流していった。私への評価を改め、今後の会社を担う一人として育成したいと考えてくれる人が増えたことで、私はやっと会社の一員として認められた。
「自分が社長になるその時には、君には右腕的存在になってもらいたいね。」
社長交代の話が社内で浮上し始めた頃、大平さんは私にそんな計画を明かしていた。自分が社長になった暁には人事改革を行い、社内で埋もれていた人材を発掘して会社の気風を変えたい。そう考えていたのだ。だが、そんな話をした矢先に、大平さんは倒れてしまった。病に倒れた大平さんは、間近に迫っていた社長交代を白紙にした。
「病気を抱えた身では会社を背負えない。」
そう言って、彼は父親からの社長職の引き継ぎを断念したのだ。
「前社長は先月に亡くなりました。大平さんも病を患い、2人は時期社長を私と決めていました。私も荷が重いと思いましたが、2人には言い尽くせない感謝がある。恩返しをしなければと思い直しました。」
私が話を締めると、富部さんは小さく頷いた。そして広瀬さんも一歩前に進み出た。
「そうね。そうなの。あなたはそうして昔もすごかった。」
彼女は力なく、寂しげにそう言うと頭を下げた。
「失礼なことを言ってしまったこと、お詫びいたします。本当に申し訳ありませんでした。ええ、契約の白紙は受け入れます。今日はこれで失礼いたします。」
もう一度頭を下げ、引き上げようとする広瀬さん。そんな彼女に富部さんが声を荒げた。
「おい、勝手なこと言うな! お前のせいでこうなったんだぞ!」
富部さんは真っ赤な顔で広瀬さんに詰め寄り、「土下座しろ」と怒鳴った。私はそんな富部さんを制した。
「まあまあ、ちょっと待ってください。これで一度は謝ってもらったわけですからね。」
私は謝罪を受け入れる姿勢を示した。その上で、この日の予定の相談を始めると告げた。
「せっかく来ていただいた商談は行います。私も同席させてもらいますから、後ほどお会いしましょう。」
その後、私はスーツに着替え、商談が行われる会議室に向かった。私は平常心だったが、広瀬さんたちはどうもそうはいかないらしい。二人とも、どこか怯えているようにも見えた。
「では、お手元の資料をご参照の上、スクリーンにご注目ください。」
商談のプレゼンを引っ張るのは富部さんで、彼はなんとか気を張っていた。
「資料3ページ目のグラフですが…これは計画開始後半年の…」
「すみません。これはそもそも何のグラフでしょう?」
「ああ、それは収益ではなく、おそらく工場の稼働状況の進捗を示しているかと。」
「示している方というのはどういうことでしょう? そうではないんですか?」
「ああ、ええ、すみません。収益と工場の稼働状況を…」
富部さんは背筋こそ伸ばして話していたが、説明そのものがおぼつかない。こちら側の担当者が質問すると、まともに答えられない。
「これは人員に関する人員配置の変遷を説明したものです。」
「いや、そうは見えないんですが。これは収益の見積もりだったり、そういう分野の資料では?」
「え、ああ、失礼しました。申し訳ない…」
「今何の話をされているのか分かりませんが。このままでは契約は締結できませんよ。」
こちら側の担当者は、シドロモドロの富部さんに厳しい言葉を突きつけた。富部さんは困ったように私を見た。私が俯くと、彼は小さなため息を漏らして広瀬さんを見た。
「お前、なんて資料を用意してくれたんだ! お前のせいだぞ! 今日はお前のせいで!」
富部さんは完全に自暴自棄になったのか、広瀬さんを問い詰めた。広瀬さんは呆然と上司を眺め、そのまま俯いた。私はそれを見て、あることに気づいた。私が見た限り、広瀬さんが用意した資料には何の問題もない。彼女は完璧で分かりやすい資料を作り上げていたのだ。問題は富部さんのプレゼンそのもの。彼の頭の中には資料の内容が入っていない。彼は資料をめくりながら、見たままを喋ろうとしていただけだった。
「失礼。」
私は手を挙げ、怒る富部さんを止めた。
「1つ聞きますが、富部さん、あなたは広瀬さんに仕事をさせるだけさせて、手柄を自分のものにしようとしたんじゃないですか?」
「え、いや…」
「冷静に見ていますとね、そうしか思えませんよ。あなたは広瀬さんが作成した資料の中身を知らない。違いますか?」
「ああ、そうかもしれません…」
「そうですか。いや、残念だ。」
「残念とはどういう…?」
「今回の契約はお断りします。プロジェクト自体は進めますが、別のパートナーを探させてもらいます。今日はもうお引き取りいただけますか? 申し訳ないが、もう話は聞けませんよ。」
私は社長として一つの判断を下した。私に睨まれた富部さんは、観念したのか荷物をまとめた。それまでの喜怒哀楽の激しさはどこへやら、帰る時の富部さんは小さくなって肩を沈ませていた。一方、広瀬さんは肩の力が抜けたのか、さっぱりした顔で部屋を出ていった。
その後、広瀬さんたちの会社では大騒ぎになったらしい。200億円規模の商談が破断になったのだから、当然だろう。彼らの会社では、契約がなくなったことで社内が噴出した。プロジェクトを潰しただけではなく、富部さんには以前から浮上していたハラスメント疑惑の調査まで始まった。最終的に富部さんは地方に左遷され、役職も剥奪されたという。広瀬さんも私への言動について責任を問われ、営業から外れることとなった。
数日後、私を訪ねて広瀬さんがやってきた。
「先日は本当に申し訳ありませんでした。ええ、ですがもうこれで終わりです。ありがとうございます。それから、商談継続の申し入れを聞きました。ご決断くださり、ありがとうございました。」
広瀬さんは私が謝罪を受け入れたことにお礼を言い、さらに商談継続についても感謝を示した。彼女たちの会社側から社長や役員レベルでの謝罪があり、新しい担当を選出して話を仕切り直したいと頼まれたのだ。私は広瀬さんたちの会社自体には魅力を感じていたので、その依頼を受け入れた。
「私からもいいですか?」
「はい。」
「高校時代、卒業式であなたの話を真面目に受け止めずに失礼を…あの時は申し訳ありませんでした。」
私は昔の思い出を振り返り、当時の自分の態度を詫びた。彼女の言葉をひねくれて受け取ったことは、いつまでも引っかかっていたのだ。それを伝えると、彼女は寂しげに微笑んだ。
「あの気持ちは本当だった。でも、本心を隠したいやら悔しいやらで、ひどいことを言ってしまったんです。」
私たちは十数年ぶりに、胸の内の想いを交わし合った。しかし、だからと言って何かが進展するわけでもなく、私たちはそのまま別れた。全てが終わり、再開した商談はすんなりとまとまった。新しい担当者は真摯な態度でこちらと向き合ってくれる人で、心から信頼できると感じられた。私の見立てでは、プロジェクトは成功するだろう。そして私は、新しい担当者から広瀬さんのことを聞いた。彼女は総務で新たな仕事に向き合い、静かに過ごしているらしい。私は彼女の活躍を願いながら、また顔を合わせる機会があればと思っている。



