十年間、俺はりんごだけを育てて生きてきた。医学会を追われ、妻を失った天才医師の過去を隠して、山奥の農園で静かに。そんな俺の前に、ある日、余命半年の女と五歳の娘が現れた。「先生の理論でしか、娘は救えません」。俺が答えを渋っていると、女の子がこう言ったんだ。「ママね、おじちゃんに会うために、いっぱいお薬飲んできたの」。その瞬間、十年前に俺を医学会から追い出した男が、農園に現れてこう言った。「あの…

十年間、俺はりんごだけを育てて生きてきた。医学会を追われ、妻を失った天才医師の過去を隠して、山奥の農園で静かに。そんな俺の前に、ある日、余命半年の女と五歳の娘が現れた。「先生の理論でしか、娘は救えません」。俺が答えを渋っていると、女の子がこう言ったんだ。「ママね、おじちゃんに会うために、いっぱいお薬飲んできたの」。その瞬間、十年前に俺を医学会から追い出した男が、農園に現れてこう言った。「あの...

10月の朝の空気は冷たく、りんごの枝が赤い実の重みで静かに垂れていた。俺は剪定バサミを手に、一本一本の枝を確かめながら畑を歩いていた。手のひらに残る土の匂い。指先に触れる木の皮のざらつき。この十年、俺の世界はここにある。

俺の名前は原田聡。山奥の村で小さなりんご農園を営んでいる。村の連中は俺のことを無口な原田さんと呼ぶ。それでいい。必要以上のことは話さない。それが俺の暮らし方だ。

畑の向こうから子供の声がした。男の子が二人、ランドセルを背負って坂を上がってくる。学校帰りにいつも寄り道をしていく子たちだ。

「おじちゃん、りんごちょうだい」

「今日のはまだ渋いぞ。あっちの箱から一つずつ持って帰れ」

「やった。ありがとう、おじちゃん」

子供たちは歓声を上げて木箱の前へ駆けていった。俺は口元だけを少し緩めた。それ以上の表情を作る癖は、とうの昔に忘れてしまった。

十年前、俺は別の場所にいた。白い天井の下、無数のモニターに囲まれ、朝も夜もなかった。世界最年少で国際医学会賞を受賞したのが三十三歳の時。ノーベル賞の候補にも名を連ね、新聞の一面に俺の顔が載った。そのすべてがある日崩れた。巨大な力に押し潰され、俺は医学会を追われた。研究成果は闇に葬られ、俺の名は消えた。天才だった男として噂されるだけになった。

それでも俺は死ななかった。妻が病で先立ったあの日から、生きることに意味など求めていない。ただりんごを育て、季節の巡りに身を任せる。それだけの日々で良かった。

昼を過ぎた頃、農園の入口に一台の古い軽自動車が止まった。土埃を上げてやってきたその車から、三人の人影が降りてきた。年配の男が一人、若い女が一人、そして小さな女の子が一人。年配の男が深々と頭を下げた。

「原田聡先生でいらっしゃいますね。突然お伺いして申し訳ありません。私、佐藤と申します」

先生という響きに、俺の手が止まった。その言葉を、この十年誰にも呼ばせていない。

「人違いですよ。ここには原田という農家しかいません」

俺は視線をそらし、木箱に手をかけた。それでも男は動かなかった。

「先生、私は元高校教師です。十年以上、娘を救う方法を探して独学で医学を学んでまいりました。海外の論文も読み、学会の資料を取り寄せて、たどり着いたのが先生の理論でした」

俺は答えなかった。男は続けた。

「娘の真理は遺伝性の難病を患っております。先日、余命半年と告げられました。孫のひなはまだ五歳です。母親を失うにはあまりにも幼すぎるのです」

若い女が静かに前に出た。

「初めまして、真理と申します。父が長い間、先生のお名前を口にしておりました。ご迷惑なのは重々承知しております。それでも一度だけお目にかかりたくて」

小さな女の子が母親の陰から出てきた。

「おじちゃん、りんごのおじちゃん」

無邪気な声だった。

「ママね、おじちゃんに会うためにいっぱいお薬飲んできたの。だからね、おじちゃん、ママとお話ししてくれる?」

俺は口を開きかけて閉じた。何を言うべきかわからなかった。十年間封じてきた感情の蓋が、叩かれたような気がした。

「立ち話も何です。中へどうぞ」

それだけを言うのが、俺の限界だった。

俺の住む小屋は農園の奥にある。古い木造の平屋で、中には薪ストーブと本棚が一つあるだけだ。本棚には農業の本と、そして誰にも見せない古い医学書が並んでいる。三人を中に通し、俺は湯を沸かした。ひなは物珍しそうに部屋の中を見回している。

佐藤が鞄から厚い封筒を取り出した。

「これが娘の検査結果と、これまでの治療経過です。先生のかつての論文、二〇一二年の『遺伝子修復治療における新規アプローチ』を読み込みまして、娘の症例にあの理論が応用できるのではないかと」

俺は封筒を受け取らなかった。

「佐藤さん、買い被りです。俺はもう十年もメスを握っていません。研究の現場からも離れています。あの理論は未完成のまま止まっているんです」

「存じております。それでも、先生しかいないのです。国内外あらゆる病院を回りました。娘に残された時間で可能性があるとすれば、先生の理論だけなのです」

真理が俺の目を見た。

「原田先生、私、自分の命がどうこうより、この子が母親を覚えていられるうちに、できるだけ一緒にいてやりたいんです。半年では、この子はきっと私の顔さえ忘れてしまう。それが母親として、どうしても辛くて」

真理は膝の上で両手を握りしめていた。俺は視線を落とした。言葉が出てこなかった。妻が病室で息を引き取ったあの日の光景が、突然鮮明に蘇った。最後まで妻は俺にありがとうと言い続けた。俺は何もできなかった。天才と呼ばれた男が、自分の妻一人救えなかった。

ひなが俺の膝に近づいてきた。

「おじちゃん、なんで泣きそうなの?」

俺は自分の頬に手を当てた。

「泣いてないよ。ちょっと昔のことを思い出しただけだ」

「ふうん。おじちゃん、りんごのお仕事上手?」

「まあ、下手ではないと思うがな」

「じゃあ明日、ひなもお手伝いしていい?ママがね、おじちゃんのお家で少しだけお休みしたいって」

俺は佐藤の顔を見た。父親は深く頭を下げた。

「図々しいのは承知しております。近くの宿は取っております。ただ、娘は長い移動に耐えられません。少しの間、この村に滞在させていただきたいのです。先生に返事をせかすつもりはございません」

土下座しそうな勢いだった。

「返事は明日まで待ってください。今日はもう遅い。宿までの道は険しいですから、村の入口まで送ります」

それが精一杯の答えだった。

三人が帰った後、俺は本棚の前に立った。一番奥、埃をかぶった医学書に手を伸ばしかけ、途中で止めた。指先が震えていた。窓の外ではりんごの枝が夜風に揺れていた。静かだった暮らしに、確かに何かが入り込んできた。

翌朝、俺が畑に出ると、農園の入口にひなが立っていた。麦わら帽子をかぶり、小さな長靴を履いている。その後ろで真理が椅子に座って毛布を膝にかけていた。昨日より顔色が悪かったが、それでも笑っていた。

「おじちゃん、おはよう。ひな、お手伝いに来たよ」

「早いな。朝ごはんは食べてきたのか?」

「うん。パンと蜂蜜。おじちゃんのりんごの蜂蜜かな?」

「さあ、どうだろうな。この村のは甘いぞ」

俺はかごを一つ、ひなに手渡した。軽いかごだ。それでも五歳の子には少し重かったらしく、両手で抱えている。

「これ、どうするの?」

「落ちてるのを拾って、この中に入れるんだ。傷んでるやつはこっちの木箱にな」

「傷んでるって、どういうの?」

「触ってみて柔らかいやつだ。あと、皮が黒くなってるやつのことだ」

ひなは真剣な顔で頷いた。一つ一つのりんごを両手で持ち上げ、指で押して確かめている。その姿を真理が遠くから見つめていた。

俺は真理のそばへ歩いて行った。毛布の上に水筒を置いた。

「温かい茶です。冷えると良くないでしょう」

「ありがとうございます、原田先生。あの子、はしゃいでしまってすみません」

「子供は元気なのが一番だ。真理さん、体は大丈夫ですか?」

「今日はいい日です。悪い日は、朝起き上がることもできないので」

真理は水筒を両手で握った。

「先生、昨日は無理を申し上げました。父も私も答えを急いでいるわけではないのです。ただ、この子がりんご畑で走り回っている姿を見られただけで、私は来てよかったと思っています」

俺は答えなかった。ひなが向こうで大きなりんごを両手で掲げて、こちらを見ていた。

「おじちゃん、これ、大きいよ」

「そいつは一番いいやつだ。かごに入れておけ」

ひなは満面の笑顔で頷いた。昼近くまでひなは畑を歩き回った。かごがいっぱいになると木箱まで運び、また戻ってくる。その繰り返しに飽きる様子もなかった。

「おじちゃん、りんごの木、いっぱいあるね」

「二百本ある。一本ずつ名前をつけてやってもいいくらいだ」

「じゃあ、これはひなちゃんの木ね」

小さな指が一番若い木を指した。まだ実をつけて三年目の細い木だった。

「よし、じゃあこの木は今日からひなちゃんの木だ」

「本当に?やった。ママ、聞いた?ひなの木ができたよ」

真理はそっと目を閉じた。俺は視線をそらして剪定バサミを握り直した。胸の奥で、何かが動いていた。

その夜、俺は小屋に一人で戻った。薪ストーブに火を入れ、湯を沸かす。昼間のひなの声が耳に残っていた。本棚の前に立った。昨日途中で止めた手を、今度は伸ばした。一番奥の埃をかぶった医学書。表紙に「原田」と自分の名が刻まれている。指でそっと埃を払った。十年前、俺がまとめかけていた研究ノートだ。遺伝子修復治療。未完成のまま闇に葬られた理論。ページを開いた。自分の字がそこにあった。数式、構造式、走り書きのメモ。まだ息をしている。そう感じた。真理の症例に、この理論が応用できるか。封筒の中身を、俺はまだ見ていない。開けてしまえば、戻れなくなる。それが分かっていた。

俺は封筒を鞄から取り出した。テーブルに置いて、しばらく眺めた。ひなの顔が浮かんだ。ママはきっと元気になるという、あの子の信じきった目。俺は封を切った。検査データが並んでいた。遺伝子の変異部位、進行速度、投薬記録。一行、また一行と読み進めるうちに、俺の頭の中で止まっていた歯車が回り始めた。可能性はある。完全ではない。だが、道筋は見える。俺は自分の手を見た。農作業で節くれだった指。明かりの下で、俺は夜が明けるまでノートに向かった。殴り書きした数式が何ページにも及んだ。十年間の空白が、嘘のようだった。

三日後の午後、農園にもう一台車が入ってきた。真理たちの軽自動車ではない。黒塗りの、村には不釣り合いな高級車だった。運転手が扉を開け、降りてきたのは仕立てのいいスーツを着た男だった。髪をきっちりと固め、革靴が土の上で光っていた。その顔を見た瞬間、俺は剪定バサミを握る手に力を込めた。

「お久しぶりです、原田先生。いや、今は原田さんとお呼びした方がよろしいですか?」

河田彰。十年前、俺を医学会から追い出した男だ。何ひとつ変わっていない、あの笑みだった。

「何の用だ?」

「随分と田舎に馴染まれましたな。土のついた作業着がお似合いです」

「要件を言え」

河田はゆっくりと近づいてきた。

「ある筋から聞きましてね。最近、佐藤という一家が先生を尋ねてきたと。娘さんが遺伝子病で、先生の理論を求めていると」

「誰から聞いた?」

「そんなことはどうでもいいでしょう。大切なのは、私どもがその特許の権利を正当な形で持っているということです」

俺は答えなかった。河田は懐から書類を取り出した。

「契約書です。先生が理論を完成させ、我が社に譲渡していただければ、佐藤マリさんの治療費は全額こちらで負担いたします。世界最高の医療も手配しましょう。悪い話ではないはずです」

「十年前と同じことを言うんだな」

「十年前とは違います。あの時、私は先生を潰した。今度は先生を救いに来たのです」

俺はバサミをポケットに収めた。

「あんたが救うのは俺じゃない。あんたの会社の株価だろう」

「言い方はご自由に。ただ、覚えておいてください。あの親子の命を握っているのは、先生の判断だ。先生が一人で理論を完成させても、臨床に持ち込む力はもう先生にはない。我々の力が必要なのですよ」

河田は書類を木箱の上に置いた。

「三日、差し上げます。それが過ぎれば、こちらも別の手を打たせていただく。では、お元気で、原田先生」

黒い車が去った後、俺はしばらく動けなかった。書類を掴んで破ろうとして、途中で止めた。破ったところで、この男は消えない。それが十年前の教訓だった。

夕方、農園の入口にまた別の人影が立った。若い男だ。スーツではなく地味なジャンパーを着ている。その顔を見て、俺は息を飲んだ。

「先生、ご無沙汰しております」

三浦次郎。俺の元教え子だった。十年ぶりに見る顔は少し年を取り、目の下に隈があった。

「先生の理論を完成させたいんです。世界中の研究者と十年やってきました。最後の一つが、どうしても解けない。先生にもう一度だけ、力を貸していただきたい」

俺は空を見上げた。夕焼けがりんごの枝を赤く染めていた。静かだった暮らしが、音を立てて崩れていく。

三浦を小屋に招き入れたのは、日がすっかり落ちてからだった。俺はテーブルに開いたままのノートを置いた。

「これは、三日ほど前から書き始めた。真理さんの症例に、俺の理論を当てはめてみたんだ」

三浦はページを一枚ずつめくった。指先が震えていた。目に涙が浮かんでいた。

「先生、ここです。ここの式が、僕らが十年どうしても解けなかった箇所です」

「先生はこれを三日で解いたのか?」

「解けたわけじゃない。ただ、道筋が見えただけだ。ここから先は設備がいる。細胞株もいる。俺一人ではどうにもならない」

三浦は顔を上げた。

「河田が来た。三日以内に契約しろと言ってきた。あの男の下で完成させれば真理さんは救える。だが理論は闇に消える。世界中の同じ病の患者には届かない」

「三浦、それはお前のところでやれるか」

三浦は一瞬黙った。そして俺の目をまっすぐに見た。

「先生、国立の設備を全部使えるように話をつけます。倫理委員会も僕が走ります。研究チームは十年間、先生を待っていた仲間ばかりです。皆、無償でも動きます」

「河田が邪魔をしてくるぞ。あの男は俺を二度と許さない」

「今度は僕らがいます。先生はもう一人じゃない」

俺は静かに口を開いた。

「三浦、俺はもう一度メスを握るつもりはない。だが、理論は完成させる。臨床はお前たちに託す」

「先生、ありがとうございます」

三浦は深く頭を下げた。その肩が小さく震えていた。

翌朝、俺は佐藤に電話をかけた。真理を東京の三浦の施設で受け入れると告げた。受話器の向こうで、父親が声を詰まらせるのが分かった。

「先生、本当によろしいのですか?」

「間に合うかは分からない。それでも、やってみる価値はある」

「ありがとうございます。ありがとうございます、先生」

その言葉が何度も繰り返された。俺は受話器を置いた。

真理が村を立つ前日、ひなが農園にやってきた。麦わら帽子をしっかりかぶって、小さな手に紙袋を下げている。

「おじちゃん、なんだこれ?」

「ママと作ったの。りんごのジャム。おじちゃんのりんご、いっぱい入ってるよ」

紙袋の中に小さな瓶が三つ入っていた。不揃いな形の瓶に、丁寧にラベルが貼ってある。『ひなとママのジャム』と、たどたどしい字で書かれていた。俺は瓶を一つ手に取った。

「おじちゃん、ママね、明日遠くの病院に行くんだって」

「ああ、聞いてるよ」

「ママ、治るかな?」

「わからない。俺にも約束はできない」

ひなは俺を見上げた。

「でもね、ママ言ったの。おじちゃんに会えてよかったって。ひなもそう思うよ」

「そうか」

「おじちゃん、ひなの木、覚えてる?」

「ああ、覚えてる。あの若い木だな」

「ひながいない間、水あげてね。ママが元気になったら、また一緒にりんご拾いに来るから」

俺は膝をついて、ひなと目線を合わせた。

「約束する。ひなちゃんの木は俺が守る。帰ってくるまで、ちゃんと大きくしておくよ」

「指切りして」

小さな指が差し出された。節くれだった俺の指が、その細い指に絡んだ。『指切りげんまん、うそついたら針千本のます』と、ひなが歌った。その歌が風に乗って、りんごの枝を揺らした。

ひなが母親に手を引かれて坂を降りていく後ろ姿を、俺は畑の入口で見送った。真理が一度だけ振り返り、深く頭を下げた。俺も頭を下げた。

一年後の秋、りんごの枝がまた赤い実で重たかった。俺は畑に出て、いつものように剪定バサミを動かしていた。村の子供たちが坂を駆け上がってくる声が聞こえる。その中に、一つ聞き覚えのある声が混じっていた。

「おじちゃん、ひなちゃんの木、まだある?」

俺は顔を上げた。坂の上に、六歳になったひなが立っていた。その後ろに真理が立っていた。自分の足で、ゆっくりと、しかし確かに歩いていた。真理の頬には、あの日にはなかった色があった。髪も少し伸びていた。佐藤がその後ろで、微笑んでいる。三浦も一緒だった。真理は俺の前まで来ると、深く頭を下げた。その目に涙が浮かんでいた。

「原田先生、ただいま戻りました」

「お帰りなさい」

それだけの言葉が、なぜか喉に引っかかった。ひなが俺の足に飛びついてきた。

「おじちゃん、ひなの木、大きくなった?」

「ああ、去年より実を三つ多くつけたぞ」

「本当?見に行く!」

ひなは走り出した。若い木の前で立ち止まり、両手を広げて笑った。真理はその姿を見つめながら、静かに口を開いた。

「先生、三浦先生から伺いました。河田さんの会社が、先生の理論を止めようと随分と圧力をかけてきたと。それを、先生方が全部跳ね返してくださったと」

「俺じゃない。三浦とその仲間たちだ」

すると三浦が口を開いた。

「先生、それは違います。先生が理論を託してくださらなければ、僕らは何もできなかった。真理さんの症例は論文になります。世界中の同じ病の患者に道が開かれます。先生の名前を載せさせてください」

「俺の名は消えたままでいい。載せるなら、お前たちの名前だけでいい」

三浦は何か言いかけて、口を閉じた。そして深く頷いた。それ以上は言わなかった。

佐藤が俺のそばに来て、静かに立った。

「先生、娘はひなが小学校に上がるところを見ることができました。運動会も卒業式も、きっと見られるでしょう。あなたが時間をくださいました」

「時間をくれたのは、あなた方の方です。俺の止まっていた時間を、動かしてくれた」

父親は何も言わず、ただ深く頭を下げた。

ひなが向こうから大きなりんごを両手で掲げて、叫んでいた。

「おじちゃん、ママ、一番大きいよ」

真理が笑った。声を出して笑った。その笑い声が、二百本のりんごの木の間を風になって渡っていった。俺は空を見上げた。十年前失ったと思っていたものが、この畑の上に確かに戻ってきていた。風が吹き、りんごの枝が一斉に揺れた。

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