「白石さん、君のアカウントから100億円が不正送金されたんだ。どう説明するつもりだ?」 上司の怒号が響く中、彼女は必死に否定した。「私がそんなことをするはずがありません!」…

「白石さん、君のアカウントから100億円が不正送金されたんだ。どう説明するつもりだ?」 上司の怒号が響く中、彼女は必死に否定した。「私がそんなことをするはずがありません!」...

百億円の不正送金が、会社の若い女性エンジニア白石さんのIDから実行された――。上司の怒号がフロアに響き、彼女は血の気が引いた顔で必死に否定した。

「私がそんなことをするはずがありません。何かの間違いです」
しかし、ディスプレイに映し出されたログは、紛れもなく彼女のIDとパスワードで実行されたことを示していた。周囲の視線は疑念と動揺に満ちていた。

そんな騒ぎを、俺は少し離れた席から冷静に眺めていた。そして、ゆっくりと立ち上がると、中心に向かって歩き出した。

「ああ、その騒ぎのことですか。もう解決しましたよ」

俺の一言に、フロアは水を打ったように静まり返った。誰もが信じられないという顔で俺を見ている。俺の名前は森蘭人。社員数十名にも満たない小さなセキュリティ会社で、システムエンジニアとして働く地味な男だ。かつては、もっと大きな舞台にいた。だが、それはもう過去の話だ。信頼していた人間に裏切られ、全てを奪われたあの日から、俺は静かに埋もれて生きることを選んだ。そんな俺の日常に、ひとつだけ波紋を投げかける存在がいた。

隣の席で働く白石アカだ。茶色く染めた髪をポニーテールにし、いつも明るい笑顔を振りまく、俺より4つ年下の同僚。仕事もできて、誰からも好かれている。ただ、なぜか俺に対して異常なほど興味を持っているようだった。俺の過去を探ろうとするような質問を、何かにつけてしてくる。彼女の明るさの裏に、何か別の顔が隠されているのではないか。そんな疑念を、日に日に強くしていた。

ある日、久しぶりに元同僚の高橋から連絡があった。かつての親友であり、俺の無実を信じ続けてくれた数少ない人物だ。居酒屋で酒を酌み交わすうちに、彼は真剣な顔で忠告してきた。

「今の時代、どんな人間がどんな繋がりを持っているか分からん。お前が信頼できると思った人間が、実はということもある。慎重すぎるくらいでちょうどいい」

その言葉に、胸騒ぎがした。そしてある夜、会社に残っていた白石さんを見かけた。彼女はひとり、懸命にディスプレイと向き合っている。仕事熱心な横顔を見て、俺の疑念は少し恥ずかしいものに思えた。思わず声をかけると、彼女は仕事の相談に乗ってほしいと言う。複雑なサイバー攻撃のパターン解析。俺は久しぶりに、誰かと知識をぶつけ合う楽しさを感じていた。

作業が一段落した時、彼女はぽつりと自分のことを話し始めた。優秀な兄に対するコンプレックス。兄と比べられ続けた幼少期。そして、せめて仕事だけは、とセキュリティの道を選んだこと。彼女の言葉には、普段の明るさからは想像もできない切実な思いが込められていた。

「バカみたいですよね、こんな理由」

俺は静かに言った。
「バカみたいなんかじゃない。誰だって最初はそんなもんだ」

その夜から、俺の中の白石さんに対する見方が変わった。彼女は警戒すべき相手ではなく、守り応援すべき存在なのかもしれない。だが、その穏やかな日々は長くは続かなかった。ある朝、大手都市銀行が国際ハッカー集団「ファントム」による大規模なサイバー攻撃を受けたというニュースが飛び込んできた。ファントム。それは数年前、俺が別の場所で追い詰めようとしていた相手だ。中心人物は黒崎。逮捕寸前まで追い詰めながら、姿を消した男。奴が、また動き出したのか。

俺はすぐに高橋へ連絡した。奴の仕業の可能性が高い。この数年でさらに力をつけたようだと、高橋の声には危機感が滲んでいた。俺は夢中で情報収集を始めた。泥沼から這い上がるように、かつての自分へと戻っていくようだった。だが、奴が残した痕跡は巧妙で、まったく糸口をつかめない。焦りが募り、冷静さを失いかけていた時、背後から優しい声がかかった。

「無理しすぎですよ」

白石さんだった。差し出されたマグカップの温かさが、凍えた心に染み渡る。彼女は「私にできることがあれば、手伝わせてください」と真剣な目で言った。危険だと断ろうとしたが、彼女の指摘は的を射ていた。奴が使う暗号通信に、ステガノグラフィーが使われている可能性。俺が見落としていた重要な手がかりだった。彼女の知識と鋭さに、驚かされた。

「君の力を貸してもらえるだろうか」
「はい。絶対にお役に立ちます」

こうして、俺と白石さんの秘密の共同作業が始まった。彼女は驚くべき速さで状況を理解し、俺の分析を何度も助けてくれた。調査が進むにつれ、ファントムの計画が見えてきた。国内外の重要インフラを狙った、同時多発的なサイバーテロ。決定的なデータを握った俺は、高橋に連絡を取った。

「ついに掴んだぞ、奴の尻尾を」
「よくやった!」

いつもの居酒屋で、高橋にUSBメモリを渡した。これで奴を追い詰められる。久しぶりに飲む酒は、妙にうまく感じられた。だが、高橋がデータを確認している時だった。彼の携帯が緊急の着信音を鳴らす。電話の内容を聞くうちに、高橋の顔が青ざめていく。

「どうした?」
「…情報が、漏れてたんだ。俺たちが掴んだ情報、全部、奴らの手に渡ってた」

頭を殴られたような衝撃だった。内通者がいる。その時だった。

「あ、森さん、やっぱりここにいらしたんですね。これ、さっきのUSB、会社に置き忘れそうになってましたよ」

居酒屋の入り口から、白石さんが明るい声で現れた。その手には、俺が高橋に渡したものと同じUSBメモリが握られている。彼女は俺を気遣って、わざわざ届けに来てくれたらしい。だが、最悪のタイミングだった。高橋の目が、怒りで激しく揺れる。

「この女が、内通者だ…!」
「違う! 彼女は俺の同僚で、調査を手伝ってくれたんだ!」
「とぼけるな! タイミングが良すぎるんだよ!」

「森さん、まさか…今追っている事件、黒崎ってハッカーが関係しているんですか?」

白石さんの問いに、俺は言葉を失った。彼女は震える声で続けた。
「黒崎は…私の兄の名前です」

その言葉は、雷鳴のように俺の頭を打ち抜いた。彼女が以前話してくれた、優秀な兄。それが黒崎だったとは。両親の離婚で別々に育ち、兄とはほとんど会えなくなったこと。兄を思い、有名になれば連絡が来るかもしれないと、必死で技術を磨いてきたこと。彼女の思いと、残酷な現実。高橋はなおも疑いの目を向けるが、俺は彼女を信じると決めた。

「君の兄が何者であろうと、君は君だ」

やがて高橋は渋々ながら引き下がり、俺は白石さんに、過去の全てを話した。信頼していた上司の裏切り、はめられた罠、そしてファントムの濡れ衣で全てを失った日のこと。話を聞き終えた彼女は、静かに涙を流した。

「私が、兄を止めなきゃいけない。これ以上、悪いことをしてほしくないんです」

翌朝、会社は騒然としていた。大手取引先への百億円規模の不正注文が、白石さんのIDで実行されていたのだ。彼女の顔から血の気が引く。罠だ。黒崎の仕業だ。俺の過去の濡れ衣と同じ、卑劣な罠。彼女の無実を証明するため、俺は全力でサーバーと格闘した。そして、彼女が以前何気なく話してくれた、兄との秘密の言葉――「大丈夫。きっと星が味方してくれるよ」。それを偽装プログラムのキーとして入力した時、画面が切り替わった。隠されていた真のアクセスログが、不正アクセスが外国のサーバーを経由して行われたことを示していた。俺は勝利を確信し、証拠を突きつけた。黒崎は海外で拘束され、首謀者として立件された。

面会室で、俺は黒崎に対面した。彼は静かに語った。アカが自分から離れていくのが怖かった。妹の成長を覗き見ることが、唯一の心の支えだった。アカが俺に見える場所からいなくなり、俺がアカに近づくのも許せなかった。歪んだ、だが痛いほどの動機だった。そこへアカが現れた。彼女は兄に語りかけた。

「私は兄さんを裏切ったわけじゃないよ。ただ、自分の力で前に進みたかっただけ。あの言葉、覚えてる? 『大丈夫。きっと星が味方してくれるよ』。あれは、兄さんが私にくれた最初の魔法だったんだ」

黒崎の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。そして、彼の供述から、俺を罠にかけた張本人である元上司の名前が明らかになった。彼は黒崎に脅され、俺を内通者に仕立て上げていたのだ。元上司は逮捕され、俺の無実は完全に証明された。

事件の解決後、警視庁からサイバー犯罪対策への復帰を打診された。失ったものを取り戻すだけでなく、新たな一歩を踏み出すチャンス。俺はアカを、初めて2人で夜景を見たあの公園に呼び出した。

「これから、俺はまた別の場所で働くことになる。君とは職場が離れてしまうけど」
「森さんが…森屋さんらしく輝ける場所に戻れること、私も心から嬉しいです。少し、寂しいですけど」

その言葉に、胸が熱くなった。
「俺にとって、一番大切な場所は、もう見つけたんだ」

「君の隣だ。君がいてくれるなら、どんな困難だって乗り越えられる。君が俺を信じ続けてくれたように、俺も君の全てを信じている。…君が好きだ」

アカの瞳から、真珠のような涙がこぼれ落ちた。だが、その顔は、これまで見た中で一番幸せそうに輝いていた。

「私も、私もずっと大好きです」

彼女はそう言うと、俺の胸に飛び込んできた。俺は彼女を、壊れ物を抱きしめるように優しく強く抱きしめた。見上げた夜空には、数えきれないほどの星がまたたいていた。まるで、俺たちの新しい道を祝福しているかのように。

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