深夜の警備員室で、黒田銀事は古い折りたたみ椅子に腰を下ろしていた。蛍光灯が一本、点滅を繰り返し、やがて消えた。廊下の奥では自販機の薄い光だけが床を照らしている。六十七歳の銀事は、引き継いだ警備員の制服を着ていた。肘が擦り切れ、袖が長すぎて手の甲まで覆う。それでも彼は何も言わなかった。言える立場ではないことを、よく分かっていたからだ。
深夜二時を回った頃、銀事は手帳を取り出し、巡回のチェック項目を確認した。非常口、消火器、各フロアの施錠確認。ペンを走らせるたび、長年工場で酷使した関節が悲鳴を上げた。三時を過ぎて主控室に戻ると、テーブルの上には残りかけのお茶と、コンビニで買った百二十円のおにぎりの袋があった。夕方に買ったものだが、腹は減っても手がつけられなかった。帰りの電車賃を考えると、食べ物に使った金が頭の中でぐるぐる回った。
包みを開きながら、銀事は手元の古い携帯電話を確認した。着信はない。妻の千恵子は最近、夜中に目が覚めると言っていた。気分が悪くなっても連絡をためらうだろうと思うと、胸の奥が痛んだ。だが、深夜にかければ起こしてしまう。おにぎりを一口かじった。冷たくて米が硬くなっていた。それでも黙って食べた。
壁のカレンダーを見ると、給料日まであと十一日。手取りで十四万円ほど。そこから家賃が七万二千円、光熱費が一万五千円、千恵子の薬代が月に三千円弱。食費を切り詰めて二万円以内に抑えれば、残りはほとんどない。机の引き出しから茶封筒を取り出すと、中には手書きの収支メモが入っていた。工場を辞めてから十年以上、ずっとこのやり方でやってきた。銀行の通帳はほとんど見ないようにしていた。残高を確認するたび、気持ちが沈むからだ。
六時を少し過ぎた頃、銀事は制服を脱ぎ、私服に着替えた。グレーのズボンに薄手のジャンパー。袖口はすり切れているが、まだ着られる。外に出ると十一月の朝の冷気が顔に当たった。電車は混んでいた。銀事は座れず、吊り革に掴まりながら何度も居眠りしそうになるのを堪えた。隣に立っていた若いサラリーマンが、肩が触れた瞬間、無言で体をずらした。銀事は気づかないふりをした。
自宅のアパートに着いたのは七時を少し回った頃だった。古い鉄骨作りの建物で、玄関ドアには錆が浮き、廊下の手すりはぐらつく。鍵を回してドアを開けると、六畳の和室の隅で息子の直人が寝転がっていた。四十歳になる。体格は大きく、腹の出た体つきで、ジャージ姿のままスマートフォンを顔の上に掲げていた。部屋の隅には空のペットボトルが転がり、テーブルの上には昨夜のコンビニ袋が置かれたままだった。
直人が十五年間、正業についていないことを銀事は知っていた。最初は心配した。それから悩んだ。だが今ではもう何も言わないようにしていた。何を言っても無駄だということを、長い時間をかけて学んでいたからだ。
「昼飯代」
直人は短くそう言った。目線は画面のままだった。銀事はポケットから財布を取り出し、千円札を一枚、テーブルの上に置いた。残りの小銭だけが手元に残った。直人は気配も見せずに、その札をすぐに手元へ引き寄せた。
台所に入ると、妻の千恵子が流しの前に立っていた。六十五歳で、肩の骨が浮き出るほど痩せている。スーパーの清掃員として働くため、手の甲はいつも荒れていた。千恵子は振り返り、銀事を見て小さく頷いた。それから、湿った重い咳をした。胸を押さえ、体を折り曲げてしばらく咳込んだ後、ゆっくりと息を整えた。
「おはよう。ご飯、あるよ」
小さな茶碗に冷や飯を盛り、漬け物を添えてテーブルに置いた。銀事のために用意したもので、自分の分はなかった。千恵子は薄いジャケットを羽織りながら、今日は午前七時から昼過ぎまでのシフトだと言って出ていった。銀事は椅子に座り、冷や飯を食べた。横の部屋からはスマートフォンの動画の音が聞こえてくる。誰かが笑っている声、賑やかな音楽。銀事は聞こえないふりをしてお茶を飲み続けた。
食事を終え、押入れの布団を敷いて横になると、疲労が全身にのしかかってきた。それでもすぐには眠れない。頭の中で数字がぐるぐる回り続ける。今月の家賃、千恵子の薬代、食費、給料日までの日数。先月より少し支出が増えた。千恵子がスーパーで弁当を一個、余分に買ったからだ。五百八十円。その五百八十円が頭から離れなかった。
うつらうつらとし始めた昼頃、携帯電話が鳴った。見知らぬ番号だった。出ると、スーパーの名前を名乗る女性の声だった。
「黒田千恵子さんのご主人でしょうか。奥様が作業中に倒れられまして。今は従業員控室に寝かせてあります」
「救急車は呼んだのか」
銀事が聞くと、女性は言い訳めいた口調で「本人が大丈夫だと言い張ったので」と答えた。コートも着ずに部屋を飛び出し、駅まで半ば駆け足で向かった。電車に乗ってから財布を開くと、小銭が百八十円しかなかった。
スーパーのバックヤードでは、千恵子が折りたたみ椅子に座っていた。顔色が青く、額に汗をかいている。床のモップを掴んで倒れそうになったところを同僚に支えてもらったと後から聞いた。千恵子は恥ずかしそうに目を伏せた。
「大したことない。ちょっと目まいがしただけ」
だが、呼吸が浅く、喉が鳴っている。唇の端が少し紫色がかっていた。それを見た瞬間、銀事の胃の底が重くなった。店長も心配そうな顔をしながら言った。
「大事を取って、病院に行かれてはどうですか」
丁寧な言葉だったが、その意味はよく分かった。ここに長居されても困る、ということだ。銀事は千恵子の肩を支えて立ち上がらせた。千恵子は歩けたが、ゆっくりとしか動けない。階段を一段降りるたびに小さく息を吐いた。
最寄りの内科クリニックは診察時間を過ぎていたが、受付で事情を話すと待合室の隅に座るよう言われた。医師は五十代の男で、淡々とした口調だった。
「肺の状態が良くない。炎症が見られ、今回の疲労で悪化した可能性がある。このまま様子を見るのは危険です。入院が必要です」
入院。銀事はその言葉をゆっくりと飲み込んだ。医師は続けた。
「初期費用として、概算で十万円ほど必要になります」
十万円。銀事は表情を変えなかった。医師の前では何も顔に出さないようにした。「分かりました」と言って千恵子の方を向いた。千恵子は俯いていた。目を合わせなかった。彼女も分かっていたのだ。十万円が今の二人にとって何を意味するかを。
廊下で財布を開けると、千円札はもうなかった。直人に渡した一枚が最後だった。通帳の残高は先月確認した時で二万三千円ほど。先週、千恵子が薬を買い足したから、もう少し減っているかもしれない。千恵子が銀事の袖を引いた。
「帰ろう。入院なんていい」
声は小さかったが、その中に何かがあった。怒りではなく、諦めに近いものが。銀事は千恵子の手をそっと押し返した。
「大丈夫だ。何とかする」
その言葉を言いながら、自分でも意味が分からなかった。何とかできるのか。どうやって。誰に頼れる? 翌朝、銀事は病院の廊下にある公衆電話の前に立っていた。財布の中に百円玉が三枚。それだけだ。昨夜、千恵子を一旦自宅に連れ帰り、入院の手続きは明日にすると病院に伝えた。十万円の都合をつける時間が必要だった。だが、一晩経っても、その十万円がどこから出てくるのか、まるで見当がつかなかった。千恵子は布団の中で浅い呼吸を繰り返していた。隣の部屋では直人が出ていったのか、布団が抜け殻のように残っている。
銀事が向かったのは、警備会社の事務所だった。雑居ビルの二階にある狭い部屋。署長の小関が椅子に深く腰かけ、タバコを吸っていた。五十五歳で、白髪交じりの頭を整髪料で固めている。銀事が話を切り出すと、小関は目を細めた。
「黒田さん、あんたいくつだっけ? 」
「六十七です」
小関は鼻から息を抜いた。
「六十七で二十四時間か。もしあんたが勤務中に倒れたとして、誰が責任を取るんだ。保険も出ないし、会社としても困る」
体を気遣っているかのような言い回しだったが、その裏側にあるリスクを語っているだけだということは銀事にも分かった。それでも頭を下げた。
「お願いします。時間外の割り増しはいりません」
その言葉を言った瞬間、胸の中で何かが砕けた。だが、顔には出さなかった。小関は少し黙り、灰皿にタバコを押し付けた。それから机の引き出しを開け、何かを探すふりをしながら考えているようだった。
「まあ、やり方はある。正規の記録には残せない。時間外の割り増しは半額だ。保険はなし。それでいいなら入れてやる」
銀事はすぐに頷いた。「それでいいです」と。異論を挟む余裕も、気力も、もうどこにもなかった。
外に出ると曇っていた。道路の向こうのコンビニの前にベンチがあり、銀事はそこに座った。頭の中で計算をした。二十四時間のシフトが一回入れれば、追加で三万円前後になる。それを二回こなせば入院費に近づく。だが、今週中に二回入るには、通常のシフトも含めて七十二時間近く働くことになる。できないとは思わなかった。できないと思う余裕がもうなかった。
自宅に戻ると直人がいた。ソファに横になり、ヘッドフォンをつけてスマートフォンを操作している。どこかで酒を飲んできたらしく、部屋に酒の匂いが漂っていた。銀事は声をかけようかと思ったが、やめた。何を言えばいいか分からなかったし、言ったところで何かしてくれるとは思えなかった。
その夜、千恵子が小さな声で言った。
「ごめんね」
銀事は首を振った。「謝ることはない」と言おうとしたが、言葉が出てこなかった。代わりに「大丈夫だ」と言って、部屋を出た。廊下に出て、壁に手をついた。
翌日から二十四時間シフトに入った。夜の十時から翌日の夜十時まで、廊下の巡回を繰り返し、各フロアの鍵を確認し、来訪者の記録をつける。明け方の数時間だけ、主控室の椅子で目を閉じたが、眠れたのかどうかも分からないうちに、また六時の定時巡回が来た。二日目の夜明け前、トイレの鏡に映る自分の顔は、目の下が黒く沈み、頬の肉が落ちて骨の形がはっきりしていた。それでも銀事は目をそらさなかった。この顔が自分の顔だ。仕方がない。
週末に近づいたある夜、主控室の電話が鳴った。無言電話が多かったから、珍しいことだと思いながら出ると、男の声だった。低く、事務的な口調。
「黒田銀事さんのお宅ですか」
「そうですが」
「息子さんの黒田直人さんが、あなたの名前で借用書を作成し、三百万円を借り入れていました。今は延滞利息を含めて五百万円になっています。返済の見通しを教えてほしい」
銀事は受話器を持ったまま、しばらく声が出なかった。五百万という数字が頭の中に入ってきたが、そこから先へ進めなかった。男は続けた。
「借用書には、あなたの名前と認印が押してあります。その認印は本物か確認したい」
銀事には心当たりがなかった。自分が誰かの保証人になった覚えも、誰かに印鑑を貸した覚えもない。だが、家にある印鑑の置き場所は直人も知っている。銀事自身が税金の書類に使うたびに、同じ引き出しにしまっていたからだ。電話が切れた後、銀事はしばらく受話器を机の上に置いたまま動けなかった。
翌週、二十四時間シフトを終えて帰宅すると、玄関に見知らぬ靴があった。高級で安いものではなかった。部屋に入ると、スーツ姿の男が二人、テーブルを挟んで座っていた。直人はソファの端に縮こまるようにして座り、目を合わせなかった。男たちは名刺を差し出し、丁寧な言葉遣いだったが、言っている内容は明確だった。借用書に記載された署名と認印は本物であると。保証人として連帯責任が生じる。五百万円の返済計画を早急に提示してほしい、と。
銀事は直人を見た。直人は視線を床に落としたまま何も言わなかった。銀事が「署名に覚えはない」と言うと、男の一人が書類を広げた。そこには確かに「黒田銀事」という名が書いてあった。筆跡は銀事の字に似ていたが、少しこもっていた。印鑑の朱肉の色は、銀事が見慣れたものと同じ色だった。
男たちは一時間ほどいて、返済の期限を来月末に設定し、連絡先を書いた紙を置いて帰った。部屋には直人と銀事だけが残された。
「何があったのか、説明してくれ」
銀事は静かに言った。声を荒げなかった。直人はしばらく黙っていた。スマートフォンをタブレットの上で指でなぞっていた。やがて口を開いた。その言い方は、言い訳でも謝罪でもなかった。むしろ当然のことを言っているという口ぶりだった。
「俺が就職できなかったのは、ちゃんとした教育を受けさせてもらえなかったからだ。あんたが工場の公務員で終わったから、俺には何のコネも後ろ盾もなかった。だから自分で何とかするしかなかった」
借りた金は事業に使おうとした。うまくいかなかったが、それはそういうものだ、と。最後に直人はこう言った。
「親が子供を育てる責任があるように、子供が困っている時に助けるのも親の務めだろう」
そう言って立ち上がり、財布だけ持って部屋を出ていった。玄関のドアが閉まる音がした。銀事は一人残され、テーブルの上に置かれた書類を見た。五百万円。自分の月収が十四万円だ。手取りで五百万円を返すには、生活費を一切使わなかったとしても三年半以上かかる。生活費を差し引けば、その倍以上の年月が必要だ。千恵子の入院費も薬代も家賃も、その計算には入っていない。
銀事は書類を畳み、引き出しにしまった。今夜はただ眠らなければならない。明日もシフトがある。千恵子の薬も明後日には切れる。布団に入り、目を閉じた。
翌朝、銀事はATMで通帳の残高を確認した。一万八千四百円。先月確認した時より五千円ほど減っていた。千恵子が薬を買い足したのと、先週の食費が嵩んだためだ。一万八千円で五百万の借金がある。その数字の厳しさが、画面の光の中で静かに輝いていた。
その日の午後、銀事は区役所の生活保護の相談窓口に向かった。以前から気になっていたが、足を踏み入れたことはなかった。自分がそういうものに頼る人間だとは思っていなかった。だが、今は思っているかどうかという話ではなかった。窓口は混んでいた。四十数分待って呼ばれた担当者は、三十代の男性で、銀事の話を聞きながらいくつか確認の質問をした。最後に担当者は言った。
「息子さんが四十歳で健康であれば、扶養義務の観点から、まず息子さんに就労と生活費の負担を求めることが前提になります。行政としては、同居の扶養義務者がいる場合、すぐに生活保護の受給対象とは判断しにくいです」
「息子は家を出て行きました。今どこにいるか分かりません」
「それであれば別居の確認が必要です。住民票の移動はありますか」
「ありません」
担当者は少し黙った。
「申し訳ありませんが、住民票上の同居が確認される場合、書類上は扶養関係が継続していると見なされます。今の段階での受給は難しい状況です」
声は丁寧だった。だが、その丁寧さは銀事の話を聞いているのではなく、規則を読んでいる時の丁寧さだった。銀事は窓口を離れた。廊下を歩きながら、法テラスという言葉を頭の中で繰り返した。弁護士に相談するにも、費用がかかる。それを払う金がない。
自宅に戻ると直人がいた。ソファに横になり、テレビをつけていた。銀事はコートを脱ぎ、テーブルの向こう側に座った。
「話がある」
直人はテレビの音量を少し下げた。完全には消さなかった。銀事は静かに話し始めた。業者の件について、いつ借りたのか、何のために使ったのか、自分の名前を使ったのはなぜか。攻める口調ではなかった。ただ事実を確認したかった。直人は少しの間天井を見ていた。それから体を起こし、テレビに背を向けた。
借りたのは二年前。事業を始めようとしていて、知り合いと一緒にやるつもりだった。だが知り合いが途中で抜けて、資金だけが消えた。自分の名前では借りられなかった。過去に少し問題があって。印鑑は家にあったから使った。悪いとは思ったが、返すつもりだった。返せると思っていた、と。
銀事はその言葉を聞いて、しばらく何も言わなかった。返せると思っていた、という言葉を頭の中でゆっくりと転がした。二年間、そう思いながら何もしなかった、ということだ。その二年間、自分と千恵子は何をしていたか。食費を切り詰め、薬代を節約した。その二年間、直人は返せると思いながら、ただここにいた。
「五百万円を返す方法が今の自分にはない。お前にも何か考えてほしい。仕事を探すことでも、業者と交渉することでも、何でもいい」
銀事がそう言うと、直人は銀事を見た。しばらく何も言わなかった。やがて口を開いたとき、その声は最初は低く、それから少し高くなった。
「俺のせいにするのか。俺だって苦しかった。仕事がないのはなぜか、考えたことがあるか。景気のせいだ。社会のせいだ。俺が悪いわけじゃない。あんたが俺にちゃんとした環境を用意できなかったのが根本にある。学歴がない。コネがない。それはあんたの家庭の問題だ」
顔色が少し赤くなっていた。声が震えていた。
「俺は被害者なんだ。今さら何かしろと言われても困る」
そして立ち上がった。ジャケットを手に取り、財布を掴んだ。テーブルの上にある銀事の小銭入れに手を伸ばした。中には数百円が入っていた。直人はそれをポケットに入れた。銀事を見なかった。そのまま玄関へ向かい、靴を履いて出ていった。ドアが閉まった。テレビでは料理番組が始まっていた。銀事はリモコンを手に取り、電源を消した。部屋が暗くなった。
その夜遅く、銀事は夜勤のシフトに向かった。体は重かった。だが、歩かなければならなかった。深夜二時頃、主控室の椅子で目を閉じた。眠るつもりはなかった。五分だけ目を閉じようと思っていた。次に気づいたのは廊下で物音がした時だった。時計を見ると四時を過ぎていた。二時間近く眠ってしまっていた。慌てて廊下に出ると、ビルの裏口のドアが開いていた。巡回してみると、異常はなかった。だが、駐輪場で気づいた。いつも止まっている自転車が一台、なくなっていた。三〇一号室の住人のものだ。巡回記録を確認すると、二時の巡回では「異常なし」と書いてあった。自分が書いた字だ。その後、眠ってしまっている間に誰かが入って自転車を持ち去ったのだ。
翌朝、一番に出勤してきた小関に銀事は正直に報告した。小関は報告を聞きながら黙っていた。やがて顔を上げた。その目に感情らしいものはほとんどなかった。計算しているような目だった。
「住人への弁償は会社がやる。だが、その費用は今月の給料から引かせてもらう。さらに、こういう事態が起きた以上、次のシフトからは通常の時間に戻ってもらう。二十四時間はなしだ」
給料から引く、という言葉が銀事の頭の中でゆっくりと沈んでいった。今月の給料は自転車の弁償分が引かれ、十万円を少し超える程度になると分かった。そこから家賃を払えば、残りは三万円に満たない。小関は続けた。
「あんたの年齢でこういうことが起きると、正直困る。うちは小さい会社だ。リスクを取れない。一ヶ月後に契約を更新するかどうか、その時点で判断する。今すぐ切るわけじゃないが、覚悟しておいてほしい」
銀事は頭を下げた。「申し訳ありませんでした」と。小関は何も言わなかった。視線を書類に戻した。
外に出ると晴れていた。銀事は駅へ向かう道を歩きながら「一ヶ月後」という言葉を頭の中で繰り返した。一ヶ月後に仕事がなくなる。収入がなくなる。家賃が払えない。千恵子の薬も買えない。電車に乗り、窓の外を流れる建物を見ながら、直人がまだ幼かった頃のことを思い出した。小学校の入学式の朝、ランドセルが体より大きくて、後ろに引っ張られるように歩いていた。あの時の後ろ姿を銀事は今でも覚えている。抜け殻のような直人の今の姿と、あの頃の姿が重ならなかった。
帰宅すると、千恵子が台所で薬を飲んでいた。銀事は何も言わなかった。千恵子も何も聞かなかった。ただ、銀事は千恵子の隣に立ち、一緒に台所にいた。千恵子が薬を飲み終えるまで、そこにいた。
十一月の末、千恵子が病院から戻ってきた。入院ではなく帰宅だった。入院費の見通しが立たないまま一週間が過ぎ、病院側から丁寧な言葉で在宅療養に切り替えることを勧められた。費用が払えないならベッドを開けてほしい、ということだ。銀事は担当医に頭を下げ、薬の処方箋だけを受け取り、千恵子を連れて帰った。帰りの電車の中で、千恵子は一度も口を開かなかった。窓の外を見ていた。その横顔は、何かを諦めた人間の顔だった。
自宅に着くと、千恵子はすぐに布団に入った。銀事が掛け布団を肩まで引き上げてやると、千恵子は小さく「ありがとう」と言った。部屋の隅の石油ストーブは灯油が切れていた。押入れを探したが、予備の灯油缶も空だった。手持ちではスタンドまで買いに行くこともできなかった。代わりに毛布を一枚引っ張り出し、掛け布団の上に重ねた。
翌朝、銀事は早く起きて千恵子の朝食を作った。冷蔵庫には卵が一つ、豆腐の残り、昨日の味噌汁の残り。卵を溶いて味噌汁に加え、弱火で温めた。豆腐を小さく切って茶碗に入れ、醤油を少し垂らした。千恵子は体を起こして食べた。途中で咳が出て、しばらく止まらなかった。銀事は千恵子の背中に手を当て、ゆっくりさすった。咳が収まるまでそうしていた。
午後から夜勤のシフトがある。その前に千恵子の薬を薬局で受け取らなければならない。処方箋には三種類の薬が書いてあった。合計で二千八百円ほどかかる。財布には三千円ある。薬を買えば、残りは二百円だ。二百円で今日を乗り越えるか。乗り越えられないことはない。昼は食べなければいい。夜勤の休憩時間に、職場の給湯室でお湯をもらえる。
薬局で薬を受け取り、帰り道、銀事は小さな公園の前を通った。ベンチに老人が一人座って、鳩に餌をやっていた。あの老人には鳩に与える餌がある。自分には今、それだけのものもない。惨めだとは思わなかった。ただ、それが事実だと思った。
自宅に戻ると、千恵子は布団の中で目を開けていた。天井を見ていた。銀事と目が合うと、「行ってらっしゃい」と言った。声は細かったが、はっきりしていた。銀事は頷き、「行ってくる」と言ってドアを閉めた。
夜勤の途中、銀事は主控室で今月の収支を計算した。今月の給料は十万円を少し超える程度。家賃を払えば、残りは三万円に満たない。千恵子の薬代、食費、光熱費。どう切り詰めても足りない。五百万円の借金のことは、今は考えないようにしていた。考えても今すぐどうにかなるものではない。今月の家賃を払うことだけを考えた。今週の食費だけを考えた。今日の千恵子の薬だけを考えた。そうやって目の前のことだけを見ることで、何とか保っていた。
深夜の巡回中、廊下の掲示板に一枚のチラシが貼ってあった。シルバー人材センターの求人案内だった。「週三日から短時間でも可」という文字が目に入った。銀事はしばらくそのチラシを見ていた。今の仕事が一ヶ月後に終わるかもしれない。そうなれば別の収入が必要になる。銀事は小さくチラシの電話番号を手帳に書き写した。
夜勤が明けて帰宅したのは朝七時過ぎだった。家の中が静かだった。直人の靴はなかった。千恵子の部屋のドアは閉まっていた。銀事はコートを脱ぎ、台所でお湯を沸かした。インスタントの味噌汁を一袋、お湯で溶いた。それを飲みながら、千恵子の部屋のドアをそっとノックした。返事がなかった。ドアを開けた。千恵子は布団の中に横たわっていた。目を閉じていた。銀事は眠っているのだと思い、そっとドアを閉めようとした。その時、何かが違うと感じた。部屋の空気が違った。
銀事は一歩、部屋の中に踏み込んだ。千恵子の顔を見た。顔色が蒼白だった。唇が薄く開いていた。胸が動いていなかった。銀事は千恵子の肩に手を当てた。冷たかった。布団の上から触れているのに、冷たさがすぐに伝わってきた。体温がなかった。銀事はその場に膝をついた。千恵子の顔を見ていた。眠っているような顔だった。苦しんでいる様子はなかった。ただ、眠ったままどこかへ行ってしまっていた。
銀事は千恵子の手を取った。冷たかった。細い指だった。指が裂け、爪の根元が赤く荒れていた。毎日洗剤で洗い続けた手だ。この手で何十年も飯を作り、洗濯をし、銀事の弁当を詰めた。銀事は千恵子の手を両手で包んだ。温めようとしたわけではなかった。ただ、そうせずにはいられなかった。どのくらいそうしていたのか分からなかった。やがて、銀事は立ち上がった。携帯電話を取り出し、119番に電話をかけた。「救急ですか? 火事ですか?

」と聞かれたので「救急です」と答えた。「妻が亡くなったようです」と。声は思ったより落ち着いていた。
救急車が来て、警察にも連絡が入った。死亡診断書が作られた。「心不全」と書いてあった。慢性的な呼吸器の疾患を背景に、夜間に容態が悪化したものと思われる、という説明を受けた。警察官の一人が「ご家族に連絡は」と聞いた。銀事は少し考えて、「息子がいます。今どこにいるか分かりません」と答えた。警察官はそれ以上聞かなかった。
千恵子の遺体は病院に搬送された。銀事は一人で部屋に残された。千恵子がいた布団はまだそのままだった。枕に千恵子の髪が数本落ちていた。銀事は布団の前に座った。泣けなかった。泣こうとしているわけでも、泣くまいとしているわけでもなかった。ただ、涙が出なかった。胸の中に何かがあるのは分かった。重く暗く、底のないものが。だが、それが涙になって出てくることはなかった。
夜遅く、玄関の鍵が開く音がした。直人だった。銀事がテーブルに座っているのを見て、少し驚いたような顔をした。
「お前に話がある」
直人は部屋に入り、ソファに座った。普段と同じように、だらしなく体を傾けた。だが、銀事の顔を見て、何かを感じたのか、体を少し起こした。
「今日、お前の母さんが亡くなった」
直人は何も言わなかった。銀事は続けた。今朝、夜勤から帰ったらもう冷たくなっていたと。病院に搬送された。今は霊安室にいる。葬儀の手続きをしなければならない、と。直人はまだ何も言わなかった。ソファの上で体を固くしていた。やがて直人が口を開いた。
「そう。金はあるのか」
銀事は少しの間、直人を見ていた。それから首を振った。
「ない。葬祭扶助という制度がある。それを使えば、最低限の葬儀はできる」
直人は黙って聞いていた。それから言った。
「じゃあ、それでいいんじゃないか」
銀事は直人の目を見た。直人は目をそらした。それだけだった。直人はそれ以上何も言わず、立ち上がって自分の部屋に入った。部屋には銀事一人だけが残された。
千恵子の葬儀は、区の制度で手配された葬儀社によって行われた。仮通夜のみの、最もシンプルな形だった。参列者は銀事一人だった。直人は来なかった。前日の夜、来るかと聞くと、直人は少し間を置いてから「行けない」と言った。理由は言わなかった。銀事も聞かなかった。
小さな葬儀場の一室で、銀事は椅子に一人座っていた。棺の前に白い菊が数輪供えられていた。棺の蓋は閉まっていた。銀事は棺を見ていた。千恵子の顔は見えなかった。だが、銀事は千恵子が中にいることを感じていた。長年一緒にいた人間の存在というのは、目に見えなくても感じるものだとその時思った。斎場に送られ、骨上げの時間が来た。銀事は箸を持ち、小さな骨を骨壺に収めた。細い骨だった。痩せていたから、骨も小さかった。骨壺を両手で持ち、銀事は葬儀場を出た。外の空気は冷たかった。骨壺の中には、まだ温かさが残っていた。
自宅に帰ると直人がいた。部屋でテレビを見ていた。銀事が骨壺を持って入ってきても、テレビから目を離さなかった。銀事は千恵子の部屋に入り、布団の横に骨壺を置いた。それから部屋を出た。台所で手を洗いながら、鏡を見た。疲れた顔だった。それだけだった。
その夜、銀事は布団に入ったが眠れなかった。隣の部屋ではテレビの音がしていた。直人は起きていた。千恵子の部屋は静かだった。静かすぎた。これまでは、静かな夜でも千恵子の気配があった。眠っている気配、呼吸の音、たまに寝返りを打つ音。そういうものが空気の中にあった。今夜はそれが何もなかった。銀事は天井を見ていた。四十年以上一緒にいた。工場で知り合い、結婚し、子供が生まれ、工場を辞めて二人でやってきた。贅沢なことは何もなかった。旅行に行ったことも数えるほどしかない。それでも隣に千恵子がいた。それが当たり前で、だからその当たり前がこんなに大きなものだったとは、亡くなるまで分からなかった。
千恵子が亡くなってからの一週間は、不思議なほど静かだった。銀事は毎朝決まった時間に起きた。顔を洗い、台所でお湯を沸かし、インスタントの味噌汁を一人分作った。食べながら何も考えないようにしていた。考えると手が止まった。手が止まると、そこから動けなくなった。だから考えなかった。千恵子の部屋はそのままにしてあった。布団も畳んでいなかった。銀事は毎朝その部屋の前を通る時、ドアを少しだけ開けた。それだけだった。中には入らなかった。
十二月の最初の週、大家から封筒が届いた。先月分の家賃が未払いになっているという通知だった。銀事は封筒を開けて中の紙を読んだ。分かっていたことだ。今月分を合わせれば二ヶ月分の滞納になる。銀事は警備会社に電話をかけ、自分から契約の確認をした。小関は少し間を置いてから言った。
「来月からはちょっと厳しい。別の現場に回せるかどうか、調整してみる。だが、確約はできない」
「了解しました」
電話を切った。「確約はできない」。それはないに等しいという意味だ。長年働いてきた人間には、それくらいのことは分かった。
その週、銀事は区役所に行き、生活保護の再申請をした。今度は千恵子の死亡届を添付し、息子の住民票がまだこの住所にあることを正直に伝えた上で、息子は実質的に行方不明に近い状態であり、生活費を一切入れていないという事情を説明した。担当者は前回と同じ男性だった。銀事の顔を見て少し表情が変わった。書類を確認しながら、「今回は同居の配偶者が亡くなり、収入が大きく変わったことになる。息子さんの状況も改めて確認が必要になる」と言った。上司に確認を取りに戻ってきてから、こう言った。
「今すぐの受給は難しいが、まず就労支援窓口に繋ぐことはできる。また、住居確保給付金という制度もあります。家賃の一部を一定期間補助するものです。ただ、息子さんが住民票上の同居人である限り、生活保護の判定が複雑になる。もし息子さんが住所を移すか、就労の意思がないことが確認できれば、状況は変わってきます」
銀事は帰り道、「就労支援」という言葉を反芻していた。六十七歳に就労支援が何の役に立つのか、という気持ちがなかったわけではない。だが、今は選べる立場ではなかった。
その夜、銀事は直人に話をした。住民票を移してほしい、と頼んだ。どこに移すかは直人が決めていい。ただ書類上だけでも別の住所にしてほしい。そうすれば行政の手続きが変わると、できるだけ穏やかに話した。直人は最初何も言わなかった。スマートフォンを見ながら銀事の話を聞いていた。銀事が話し終えると、直人は顔を上げた。
「なんで俺がそんなことしなければならないんだ。住民票を移すのは面倒だ。それに、今の住所で登録しているものも色々ある」
「お前が出ていくだけでもいい。住民票はそのままでも、実際にここにいなければ、それで話が変わる可能性がある」
直人はしばらく黙っていた。それから言った。
「出ていけということか」
声が少し尖っていた。銀事は首を振った。
「出ていけとは言っていない。ただ、状況を説明しただけだ」
直人は何も言わなかった。しばらくして立ち上がり、自分の部屋に入った。翌朝、直人はいなかった。荷物は残っていたが、本人の姿がなかった。昨夜のうちに出て行ったらしかった。いつ戻るか、あるいは戻らないのか、銀事には分からなかった。連絡する方法も、連絡する気力も、今の銀事にはなかった。
十二月の中旬、大家から内容証明郵便が届いた。二ヶ月分の家賃滞納について、来月末までに支払いがない場合は退去を求めるという内容だった。銀事は通知を何度も読んだ。来月末、つまり一ヶ月半後にはこの家を出なければならないかもしれない、ということだ。
銀事は区役所の就労支援窓口に行き、住居確保給付金の申請をした。担当者は収入要件、資産要件、ハローワークへの登録が条件になると説明した。ハローワークには翌日行った。受付で求職登録をした。六十七歳。直近の職歴は警備員。その前は工場の機械工、と書いた。担当者が画面を見ながらいくつか求人を出してくれた。警備員の仕事が数件。一件は「六十五歳以上歓迎」とあった。時給九百五十円。週四日、一日六時間。月に九万円ほどの計算だ。家賃には足りない。だが、ゼロではない。申し込んでみようと思った。断られるかもしれない。それでも申し込まなければ何も変わらない。
一週間後、人材会社から連絡が来た。面接に来てほしい、という内容だった。銀事は受話器を持ちながら「そうですか」と言った。日時を確認し、電話を切った。それから少しだけ息をついた。面接がある。まだそれだけだ。採用されたわけではない。だが、扉が一枚開いた。
面接は小さなビルの会議室で行われた。面接官は五十代の男性だった。銀事の履歴書を見ながら、いくつか質問をした。体に問題はないか、夜勤はできるか、長期で続けるつもりがあるか。銀事は一つずつ正直に答えた。「夜勤もできます。長く続けたいと思っています」と。面接官は一通りの話を聞いた後、少し間を置いて言った。
「ご年齢の方には、なかなか厳しい現場もあります。ただ、うちは短時間でも丁寧に働いてくれる方を求めています。一週間以内に連絡します」
銀事は礼を言い、頭を下げて会議室を出た。廊下で靴紐が少し解けているのに気づき、立ち止まって結び直した。外に出ると、冬の風が強かった。コートの前を合わせ、駅に向かって歩いた。
それから十日ほどが過ぎた。採用の連絡は来なかった。その間に、住居確保給付金の審査結果が届いた。「受給決定」という通知だった。三ヶ月間、家賃の一部が補助される。全額ではないが、毎月四万円が補助されることになった。これで家賃の分を少し補える。退去の危機は、少しだけ遠のいた。銀事は通知書を折りたたみ、引き出しにしまった。ほっとする、というには小さすぎる感情が、胸の中に一瞬あった。
十二月の末、大晦日が近づいたある夜、銀事は夕方に買い物に出かけた。スーパーで見切り品の総菜を二つと、小さなみかんを三個買った。それだけが今夜の夕食になる。レジに並んでいる時、後ろに若い家族が並んだ。父親と母親と小さな子供が二人。かごの中には年越しそばの材料や年始の食材が山積みになっていた。子供の一人が母親の袖を引っ張り、何かをねだっていた。母親は困ったように笑いながら、「だめよ」と言っていた。銀事は前を向いたまま、会計を済ませた。
外に出ると風が強かった。袋を両手で抱えながら駅への道を歩いた。町は年末の灯りで賑やかだった。商店街の電飾が点滅していた。どこかから懐かしいような音楽が流れていた。角を曲がった時、銀事は向こう側の歩道に見慣れたシルエットを見た。大きな体。だらりとした歩き方。コンビニの袋を片手に下げてゆっくりと歩いている男。直人だった。銀事は立ち止まった。直人はこちらに気づいていなかった。隣に三十代くらいの女性がいた。二人で笑いながら話していた。直人の笑い声が風に乗って聞こえてきた。銀事は動かなかった。怒りが来るかと思ったが、来なかった。悲しみが来るかと思ったが、それも来なかった。ただ、遠い場所で誰かが笑っているのを見ているような、静かな感覚があった。
直人が角を曲がり、見えなくなった。銀事はまた歩き始めた。足元を見ながら歩いた。靴の縁が、前よりさらに剥がれていた。
自宅に戻り、台所で総菜を皿に移した。みかんを一つ剥いた。テーブルに一人分の食事を並べた。椅子に座り、手を合わせた。「いただきます」と声に出さずに行った。食べながら、銀事は千恵子の部屋のドアを見ていた。閉まったままだった。
食べ終えて、食器を洗った。台所を片付けた。それから、千恵子の部屋のドアを開けた。部屋の中に入ったのは、千恵子が亡くなってから初めてのことだった。布団はまだ畳んでいなかった。骨壺はそのまま布団の横に置いてあった。銀事は骨壺の前に座った。しばらく、そこにいた。寒かった。暖房をつけていなかったからだ。だが、その寒さの中に、確かに千恵子の気配があった。実際にいるわけではない。そんなことは分かっている。だが、この部屋の空気は千恵子がいた空気だった。それが今もそこにあった。
銀事は骨壺に向かって、いくつかのことを話した。声は出さなかった。頭の中で話しかけた。住居確保給付金が通ったこと。面接があったこと。スーパーで見切り品を買ってきたこと。直人を見かけたこと。元気そうだったこと。そこまで話して、銀事は止まった。「元気そうだった」という言葉をもう一度頭の中で繰り返した。自分の息子が元気そうだった。それが嬉しいのか、悲しいのか、怒りなのか、銀事には判断できなかった。そのどれもが少しずつあって、混ざり合っていた。銀事は骨壺にもう一度目をやり、立ち上がった。部屋を出て、電気を消した。
翌年の一月、銀事に採用の連絡が来た。先日面接を受けた警備会社からではなく、シルバー人材センターからだった。近くの公共施設の清掃補助。週三日、一日六時間。時給は九百円。警備の仕事ではなかった。だが、仕事は仕事だ。銀事はその場で了承した。
初日、指定された公共施設に朝八時に出向いた。担当者に挨拶をし、道具の場所を教えてもらい、清掃の手順を説明された。モップの使い方、雑巾の絞り方、廊下の拭き方。全部知っていることだったが、銀事は黙って聞いた。清掃を始めると、体が思い出したように動いた。四十年間、工場で機械を扱ってきた体は、単純な繰り返し作業に馴染んでいた。モップを引き、水を絞り、また引く。廊下が少しずつ綺麗になっていく。それだけのことだったが、体を動かしていると頭が静かになった。
昼過ぎに作業が終わり、銀事は施設を出た。外の空気が冷たかった。駅に向かいながら、今日一日のことを振り返った。何か特別なことが起きたわけではなかった。廊下を拭いて、窓を拭いて、それで終わりだった。だが、その一日が銀事には確かなものだった。給料は月に十万円に満たないだろう。住居確保給付金が三ヶ月で終われば、また家賃が厳しくなる。五百万円の借金はまだそのままだ。直人がどこで何をしているかも分からない。それでも今日は働いた。明日も来てほしいと言われた。それだけが、今の銀事の手の中にあるものだった。
二月のある昼下がり、銀事は施設の休憩室で弁当を食べていた。弁当と言っても、家から持ってきたおにぎりが二つと、スーパーで買った小さな総菜だけだ。他の清掃スタッフの女性が二人、向かいのテーブルに座っていた。一人が銀事に話しかけてきた。
「黒田さんは、どちらからいらっしゃるんですか? 」
「近くです」
「そうですか」
それだけだったが、久しぶりに誰かと言葉を交わした気がした。銀事はおにぎりを食べながら、その感覚を少し不思議に思った。話しかけられることが、こんなに久しぶりだったとは。千恵子がいた頃は、毎日何かを話していた。大したことではない。今日の天気のことや、スーパーで何が安かったとか。そういう小さな言葉のやり取りが、毎日あった。それがなくなって、もう三ヶ月近くが経っていた。
三月になった。住居確保給付金の補助が終わる月だった。銀事は区役所に行き、延長の相談をした。担当者は「収入の状況によっては延長も検討できます」と言った。書類が必要になると言われ、帰り道、郵便受けに封筒が入っていた。差出人は弁護士事務所の名前だった。部屋に上がり、封筒を開けた。内容は、債権回収業者から委託を受けた弁護士からの、債務の確認と返済計画の提示を求める通知だった。五百万円と、その後に加算された遅延損害金の合計額が書いてあった。銀事は一度その数字を見て、封筒を畳んだ。それから引き出しに入れた。
次の週、銀事は法テラスに電話をかけた。受付に事情を説明すると、弁護士との相談を無料で受けられると言われ、予約を入れた。相談の日、銀事は法テラスの事務所に出向いた。廊下に椅子が並んでいて、何人かが順番を待っていた。銀事の前に番号を呼ばれた男性は、銀事よりは若く見えたが、目の周りが暗く落ち込んでいた。どういう事情かは知らない。だが、その顔を見て銀事は何かを感じた。自分だけではないのだ、という感覚だった。
弁護士は四十代の女性だった。落ち着いた話し方をした。銀事の話を聞きながら、時々メモを取った。
「五百万円の債務については、まず借用書の有効性を確認する必要があります。署名が偽造であれば、否認を主張できる可能性があります。ただし、証明には時間がかかります」
銀事は「可能性がある」という言葉に引っかかっていた。可能性がある、というのは、必ずそうなるという意味ではない。長い時間をかけて、それでも解決しないかもしれない。だが、今はその可能性があるというだけで十分だった。弁護士は最後に言った。
「一人で抱え込まないでください。手続きを進める間も、何かあれば連絡してください」
その言葉が、久しぶりに人から言われた普通の言葉だった。
春になった。公共施設の桜が咲いた。清掃の仕事で施設に向かう朝、銀事はいつも同じ道を歩く。その道の途中に小さな公園がある。ベンチが一つと、桜の木が一本。ある朝、銀事はその公園の前で少しだけ立ち止まった。桜の花が満開だった。風が吹くたび、花びらが数枚、ベンチの上に落ちた。誰も座っていなかった。千恵子は桜が好きだったか、と銀事は思った。考えてみると、よく分からなかった。洗濯物が乾く晴れた日は好きだと言っていた。花については、あまり話していなかった。長年一緒にいたのに、知らないことがまだあった。
銀事はまた歩き始めた。今日も清掃がある。帰りに郵便局によって、住居確保給付金の延長書類を出さなければならない。来週、法テラスから連絡が来る予定だ。空は晴れていた。銀事は歩きながらポケットに手を入れた。財布がある。今日の弁当のおにぎりがある。施設までの定期があって、仕事がある。それだけだ。派手なものは何もない。だが、今日一日を、銀事は自分の足で歩いていく。それが今の銀事にできることの全てだった。


