「この功績は全て担当部長の私が譲り受ける。君の役目はもう終わりだ。」
そう言って寺島部長は笑った。ああ、この人は本当に最低な人間だ。
俺は言われるまま死に物狂いで働き、過去最高の契約を取った。しかし待っていたのは首だった。部長は約束を守ることなく俺を追い出した。
部長に命じられ、退職の挨拶に取引先へと向かったその時、俺はある人物に声をかけられた。そして俺の人生は180°変わっていったのだ。
俺の名前は小谷。中堅の商社で営業の仕事をしている。
「小谷さん、後でお時間いただいてもいいですか?見積もりのことで質問があります。」
「ああ、会議の後に見るからデスクに置いておいてくれ。」
高校卒で入社して、それなりの年月が経った。営業として最初はアポが1つも取れなかったけれど、今は部内の代表として部下の教育も担当している。
「小谷さん、お疲れ様です。例の案件、受注確定しました。」
「おお、すごいじゃないか。交渉があったな。」
「小谷さんのアドバイスがあったので無事軌道に乗せられました。管理システムに入力したので後で承認お願いします。」
「分かった。確認しておくよ。」
頑張っている部下たちを見ていると、自分の新人時代を思い出す。
俺の上司は門野さんという人だった。
「残業して終わらせます。」
「それ、できてるって言わないでしょ。ほら、一緒に終わらせるよ。」
高校卒業したばかりでまだ子供だった俺に、門野さんは仕事の全てを教えてくれた。仕事ができて活発な門野さんは、部署のムードメーカーだった。
「私、海外に行くことにしたよ。」
突然告げられたのは、ビルの屋上で缶コーヒー片手に休憩している時だ。旦那が海外赴任になってね、残ることも考えたけど、海外での生活に前々から興味があってさ。一緒に仕事を進める傍らで、門野さんのプライベートにはとても踏み込めなかったけど、門野さんはこつこつと自分のキャリアを進めていた。
「係長のポスト、小谷君を推薦しておいたから、しっかりやんなよ。」
門野さんの推薦通り、係長になって数年。仕事には少し慣れたけれど、内心は焦りしかなかった。あの時の門野さんに比べれば、俺はまだまだだ。もっと腕を上げなければ。
そう気合いを入れて仕事に取り組んでいる、そんなある日のこと。
「寺島と言います。今日からよろしく。」
本部から寺島という方がやってきた。俺の所属している部署は特に人手が足りておらず、営業成績を高め、業務の安定を保つために本部から通達が来たらしい。
「ここは年中忙しいので、来てくださって本当に助かります。是非お力添えいただけると。」
「ああ、もちろん。君たちにはもっと頑張ってもらわないといけないからね。」
部署の代表として挨拶を持ちかけたが、寺島部長はなんだか浮かない。俺はなんとなく嫌な予感がした。
寺島部長が来てから、チームはさらなる営業成績の飛躍に向けて、より一層勢力的に働いた。しかし、部長がチームに慣れてくると、業務と業務の合間を縫って独自のルールをねじ込むようになった。
「この案件は最優先であるから、心して進めるように。」
特にチームの部下に対しては、容量を度外視した案件や納期、仕事量を押し付け、その手柄は自分のものとして上層部に報告を始めたのだ。仕事が増えることで営業成績が伸びるならいいが、寺島部長が時より行き過ぎた指示を繰り返すせいで、ミスや雑務を押し付け合うなど現場の雰囲気が悪くなっていた。
「みんな一体どうしたんだよ。仲間同士で意見を合わせたって仕方がないだろう。ここはもう一度みんなで協力して。」
「そうですよね。努力が大事ですよね。でも、これは彼女の仕事なので…すみません。取引先と打ち合わせに行ってきます。」
寺島部長に直接相談もしてみたが、取り合ってくれない。
「最近の若いのはやる気がないのか?定時になったらすぐ帰って。私が若い頃は日付が変わるまで働いたものだよ。小谷君もそう思わないかね。」
俺はその度にやんわりとかわして、部下たちの仕事を巻き取ったり、寺島部長との窓口対応や案件をこなして、前よりもずっと忙しくなった。門野さんの言いつけ通り定時退社を心がけていたつもりだが、最近は日付を回っての帰宅が続いている。
寺島部長がやってきてから数ヶ月後、週次の報告会がやってきた。取引先との打ち合わせから帰社すると、なんと部下の1人がみんなの前で頭を下げていた。
「お前は何をやってもダメだな。みんなに自分の不始末をここで謝罪しろ。」
数字が伸び悩む現場を見て、寺島部長は焦ったのか。ミスをした人間をみんなの前で叱り付け、さらに無理な案件を押し付けたのだ。
報告会が終わった後も、寺島部長はイライラしている。
「寺島さん、確かに営業成績には改善点が多くありますが、これはチームの問題です。個人を大勢の前で叱り飛ばすだけでは、本人のパフォーマンスが落ちるだけです。あんな見せしめのような真似をして…」
「うるさい。能力がないあいつが全部悪いんだ。大体、成績が悪いのは君が普段から部下を甘やかすからだろうな。そもそも使えない部下をなんとかするのが君の仕事だ。もっと頭を使ってもらわないと困るよ。」
頭にカッと熱が入り、俺は拳を握りしめたが、部下が居る手前、なんとか押し殺した。だが、とうとうある日の朝、部下から電話が来た。
「小谷さん、すみません。しばらく会社を休職させてください。」
「どうしたんだ?挽回するって張り切ってたじゃないか。」
明らかに様子がおかしい。
「それが、この前寺島さんに…」
電話口で彼女はぽつりぽつりと話して、泣き出してしまった。
「小谷さんはみんなで協力することが大事って言いますけど、もう無理です。寺島さんにも小谷さんにもついていけません。」
そう言って力なく電話を切ってしまった。俺は頭を殴られた気がした。上司失格だ。自分は間に挟まれるばかりで、部下に何もしてやれていなかったのだ。
「おい、小谷君、来てくれ。」
向こうから寺島部長の声がする。言われるままデスクに行ってみると、彼は管理システムを開いていた。このシステムは、昔、門野さんと協力して考案したものだ。元エンジニアの門野さんが出したアイデアで、紙に印刷せずとも案件の内容を記録してパソコンから閲覧できる。見積もりの承認をもらおうと会議で忙しいリーダーを追いかけなくて済むし、リーダー側も予算や担当者がまとまったものを一望でき、双方で好評だったものだ。
「マニュアルを読んでもさっぱりわからん。小谷君が入力してくれないか。」
先ほどの電話で聞いた力ない声が頭に繰り返されて、俺は深く息を吸い込んだ。
「ああ、この部分を選択して、金額を入力するだけです。」
「なんだ、そこか。分かりにくいな。」
寺島部長はぶつぶつ言いながら予算を入力し始めた。
「全く、こんなシステムを作って本当に困るよ。一体誰がやったんだ。紙で見るのが1番分かりやすいのに。」
「これは私と前任者とで案件の合間に作成したものです。どの部分が分かりにくかったですか?」
「ああ、なんだ、君が作ったのか。通りで分かりにくいと思ったよ。こんなちまちま入力するのに余計な時間をかけていたのか。」
嫌みを言わないと気が済まないのか、プライドがそうさせるのか、寺島部長はどんどんとヒートアップし始めた。
「すみませんが、社内では好評ですし、課長も喜んでくださいました。これまでの承認の流れも大幅に改善できたので、そのまま使っていて…」
「そんなこと今は聞いていない。そんなにシステム化したいんなら、私が担当している案件は全て君が入力してくれたまえ。印刷も頼むぞ。大体私は忙しいんだ。休職するなんて言い出した奴がいるせいで。」
その時、俺の堪忍袋の緒が切れた。
「それは、寺島部長の嫌がらせが原因なんじゃないですか。」
「はあ?」
電話口でぽつりぽつりと話した。みんなの前で謝罪させられた後、彼女は挽回すべく、日々必死に頑張っていた。それは周りの目から見ても明らかで、誰もが彼女の身を案じていた。しかし、ある日の朝、寺島部長に嫌みを言われたのだという。気にしないように努めていたが、この前の帰り道、酒を飲んだ部長から心ない言葉を投げかけられたという。「お前は変わらない。無能が何しても無駄なんだから、もう諦めろ」と。
部下が不安げにこちらを見ているのに気づいてはいたが、俺は止まらず続けた。
「もう会社に復帰することは難しいと、僕に報告がありました。寺島部長、仕事以外のあなたの振る舞いでチームが疲弊しています。お願いします。もうこんなことはやめてください。」
俺は寺島部長に何度も頭を下げた。
「これなら、君がなんとかしたまえ。」
「はい?」
「ここの営業成績を、君が過去最高記録にしてみせろ。無論、私も部下も君には手を貸さない。ここまで私に向かって、ただで済むと思うなよ。」
無力さと諦めと怒りが混じった感情を感じながら、俺はただ寺島部長を見つめるしかなかった。
「わかりました。」
それからのことはよく覚えていない。ただ、日夜、休日と平日の境目もよくわからないまま必死に働いた。だんだんと部下との会話も減ってしまい、軽口を叩いたやり取りの中で、頭の中には休職した彼女の電話の声と、寺島部長の嫌みだけがぐるぐると回っていた。
今目の前にあるのは、奥深い見積もり書とプロジェクトの契約書、寺島部長の面食らったような顔だけだ。
「おお、最近、事業を拡大したA社じゃないか。」
もっと堂々としたかったが、疲労の影響か頭にはモヤがかかっていて、うまく言葉にならない。
「今朝、担当の方から承諾をいただきました。過去最高の予算です。約束通り、部下のことは…」
「ああ、なんだ。まさか本当にやるとは思わなかったよ。」
寺島部長がゲラゲラと笑い始める。
「豚もおだてりゃ木に登るとはよく言ったものだ。安心しろ。この功績は全て担当部長の私が譲り受ける。こんな予算の案件、係長に任せられないからな。」
俺はもう何を言われているのかも分からなかった。
「ご苦労さん。君の役目はもう終わりだ。」
「それはどういう…」
「首だよ。上司には、不始末を出したとして報告させてもらった。ああ、そうそう。やめる前に、担当が私に変更になったと、ちゃんとA社には挨拶に行くように。じゃ、よろしく。」
寺島部長がニヤニヤと笑う。ああ、この人は本当に最低な人間だ。俺の頭にはそれだけが浮かび、目の前が真っ暗になった。
夢を見た。おぼろげな目の前に門野さんがいた。
「小谷君ってさ、責任感ばっかりあるよね。たまには人に頼ることを覚えないと。できるばっかりじゃ信用されないよ。」
缶コーヒーを片手に笑っている。そんなことは分かっている。俺はやはり門野さんのように何一つ仕事ができない。むしろ責任だけが増えて、根っこは何にも頼れないまま。こんな自分では今のポストは守れない。部下を守れない。こんな時、門野さんならどうするんだろう。
目を覚ますと見慣れない部屋にいた。
「あ、小谷君、大丈夫?」
見上げると、そこに門野さんがいた。
「え、門野さん?」
「久しぶりだね。覚えてる?小谷君、うちの会社のエントランスで倒れたんだよ。」
必死に頭を働かせて思い出す。そういえば俺は、担当交代の挨拶のためA社を訪ねていた。門野さんは俺が倒れた時の様子を足早に説明してくれたが、俺は門野さんを見て、緊張の糸がぷつんと切れてしまった。涙が溢れ出した。
「え?どうしたの?」
「すみません…すみません。今、チームがちょっと大変なことになってて…」
門野さんが慌てるのも、俺はなかなか涙が止まらなかった。ある程度落ち着いてから、門野さんに促されるままことの次第を話した。
「へえ、すごいじゃん。そんな規模の案件を獲得するなんて、私もしたことないよ。」
「いえいえ。大したことじゃないんです。もう後がないという気持ちでやったんで。」
「休職した子、心配だね。私もさ、昔、上層部に言われたことあるよ。出世したいなら、そういうことやれってさ。」
「え?」
「もちろん断ったよ。だけど、初めての女性ポストってことで、色々納得しなかったんだろうね。まあ、昔のことだけどさ。」
その人、今も休職中で、復帰もできるか分からなくて、他に打診も来ていて、僕が何とかしないとみんな…
「でも、小谷君が無理するなら、部下のみんなも倒れるまで無理するんじゃないかな。」
不意を突かれて、俺は思わず面食らう。
「俺は別にそんなつもりじゃ…」
「うん。その気持ちも分かるよ。仕事を頑張るのは当然だと思う。だけど、それ以上に楽しむことの方が大事だと思うな。」
門野さんはそう言って、医務室の窓に肘をついた。
「私ね、小谷君の指導を任された時、すごく悩んだのね。私より仕事ができる人なんて部内にたくさんいるもの。でも、その時、私がその人たちに少しでも勝てる部分があるなら、楽しんで仕事をすることだって思ったんだよね。」
楽しむこと。門野さんとの仕事は大変なことが多かった。正直、最初の方は死にそうになったこともいっぱいだ。でも、門野さんの判断はいつも納得できることだったし、困った時は何度も何度も助けてくれた。何もできない俺を信じて任せてくれた。怖くてしかなかった仕事が、楽しかったのだ。
「ほら、小谷君っていつも自分が何とかしなきゃって、責任感だけ強いじゃない?だから、何より仕事って楽しいって思って欲しかったの。」
門野さんは自分にも他人にも厳しかった。だけど、終わったことを蒸し返したりしないし、飲み会で孤立している部下に積極的に声をかけに行っていたのを覚えている。俺が初めての受注をした時は、「私の分も任せちゃおうかな」と自分のことのように喜んでくれたことも。今の自分は部下に対してちゃんと喜べているだろうか。何より、部下が楽しめるように、自分も楽しめていただろうか。
「小谷君、今、その仕事を楽しくないでしょう。やらなきゃダメだからやってるだけでしょ。人生を考え直す時なんじゃない?」
医務室に緩やかな風が吹き込む。
「大丈夫だよ。見てる人はちゃんと見てるから。」
門野さんの言葉に、俺は力を込めて頷いた。
それから数ヶ月後、あれから俺は門野さんの推薦でA社にて働くことになった。医務室での再会の後、落ち着いて話をさせてもらったのだが、門野さんは旦那さんの海外赴任が終わった後、一緒に帰国していた。その際、社長からスカウトされてA社で働いていたのだ。そのおかげで俺の転職が叶ったわけだが、ここでは前職で培った営業スキルは存分に活かせるし、福利厚生も充実している。
そして何より。
「小谷さん、案件を詳細データにまとめました。」
「あ、ありがとう。」
休職から復帰した彼女と、また働くことになった。門野さんの推薦で配属されたチームに、彼女も入ってきたのだ。彼女は休職をしっかり取って回復し、女性も活躍しているA社で再スタートを切ったのだ。
「噂ですけど、小谷さんのチームのみんな、後から寺島さんに退職届をまとめて出したらしいですよ。」
「え、そうなのか。」
「見てください」と彼女がスマホを見せてきた。そこには転職サイトに掲載された元チームの写真があった。人手が足りないのか、採用のハードルがうんと下がっている。
「小谷さんがやめた後も、寺島部長は全然態度を変えなかったんですよ。代わりはいくらでもいるって感じで。で、どんどん仕事のできる人ほどやめちゃって。」
写真では、寺島部長より年上であろうメンバーが寺島部長を左右で挟み、体格の小さな部長は心なしか虫を噛んだような表情をしている。
「あの時は力になれず、申し訳なかった。」
「何言ってるんですか?小谷さんが1番割を食ってたじゃないですか。みんな知ってますよ。案件のことも、全部。あの時は本当にありがとうございました。」
彼女は前よりも生き生きとしていて、俺は胸を撫で下ろすとともに驚いた。人は環境によってこんなにも変わる。彼女はめきめきと力をつけ、今は上司と部下ではなく、立派なチームのパートナーになった。もし俺があのまま前の会社にいたら、彼女を縛っていただろうし、いつか寺島部長のように暴言を吐くようになったかもしれないと思うと、首になって本当に良かったと思う。
2人で食事をしていると、電話が鳴った。取ると、寺島部長の哀れな声が聞こえてきた。
「ああ、小谷君。A社との契約データがなくなっているんだ。君が担当したシステムだろ?復旧もできないし。一体どうしてくれるんだ。」
あんなに怒鳴られていた聞き慣れた声が、もう体に染み付いている。
なんだ、俺には散々なことを言って追い出したのに、今や自分を助けてくれる部下の1人もいないのか。色々と考えたが、もう諦めてしまった。
「知りませんよ。私は上司に向かって首になった高卒君ですから。」
本当は自動的にデータが保存されているし、その場所も前任に引き継いでいるのに、いつものように人の意見も聞かず適当にいじってしまったんだろう。
「データ紛失につきましても上層部に報告しますので、よろしくお願いします。」
何かわめく声が聞こえたが、俺はもう電話を切ってしまった。寺島部長の声を聞くのも、きっともうこれっきりだ。責任を取らされることになるだろうが、俺の知ったことではない。
「あ、小谷君。」
取引先に向かう途中、廊下で門野さんに会った。
「お疲れ様です。今から取引先の元へ打ち合わせに行ってきます。」
「そうなんだ。頑張ってね。」
門野さんはひらひらと手を振って、笑顔で去ってしまった。門野さんは今、人事の仕事をしており、最近は新卒採用の準備でとても忙しいのだそうだ。
俺も負けてられないな。気合を入れて、俺はオフィスの外に踏み出した。



