午後の外来の混雑がようやく落ち着いた。俺は休憩室の隅で背もたれに体を預けていた。午前中だけで37人の患者を見た。熱を出した子供、目まいを訴える主婦、酔って転んで頭を切った中年の男。どれも大した病気ではないと言えばそうだし、見落とせば命に関わると言えばそうでもある。
俺の名前は朝倉優馬。43歳。地方総合病院の総合診療医だ。外来も病棟も救急も、呼ばれればどこへでも行く。専門は何かと聞かれれば「特にありません」と答える。だからこの病院では「何でも屋」と呼ばれている。本人がいないところでは、もう少し違う呼ばれ方をされていることも知っている。
休憩室の扉が開いて、若い研修医が二人、笑いながら入ってきた。俺が目を閉じているのを見て、片方が声を潜めた。
「また寝てますよ、あの人。いいご身分だよな。外来の後に昼寝なんて、窓際医師ってやつ」
「まあ、うちにも一人くらい必要なんじゃない?ああいうの」
二人は笑いをこらえている。俺は目を閉じたまま動かなかった。言葉はいくらでもあるが、口にする気にはならない。若い医者が先輩を軽んじるのはいつの世も同じだ。俺自身、若い頃はもっと生意気だった。
ポケットの中でPHSが震えた。病棟からの呼び出しだ。
3階の病棟へ上がる途中、階段の踊り場で佐田光高と待ち合わせた。心臓血管外科部長。34歳で部長になった、この病院の顔とも言える男だ。
「朝倉先生、702号室の患者、うちに紹介してくれたのはいいんですけどね。新雑音が気になりました。念のためと思って」
「気になったら全部こっちに回すんですか?総合診療の仕事ってそういうことでしたっけ?」
佐田は薄く笑って階段の手すりに片手を置いた。
「あなた方の仕事は専門医へ適切に振り分けることだ。判断は我々がする。餅は餅屋ですよ」
俺は黙って頷いた。反論する気はなかった。彼の言うことは半分は正しい。佐田は俺の返事を待たずに階段を降りていった。
病棟へ入ると、救急科の岩城弓が廊下でカルテを抱えて待っていた。真面目で、患者のことしか頭にないような女性だ。俺を見つけると少し駆け寄ってきた。
「朝倉先生、昨日の救急で運ばれてきた田村さん、意識戻りました」
「そうか。それは良かった」
「先生が『工場の事故も一応調べておいた方がいい』って言ってくださったの。あれ当たっていました」
「たまたまですよ」
「3回目ですよ、先生。たまたまが3回目です」
彼女は俺の顔を覗き込むように見た。俺は目線を外してカルテを受け取った。
「読ませてもらいます。ありがとう」
彼女の背中を見送りながら、俺は自分の口の軽さを少し悔んだ。言わずに済むことは言わない方がいい。
ナースステーションの前を通ると、看護師たちが小声で話しているのが耳に入った。
「朝倉先生、今日もお疲れの様子よね」
「無理もないわよ。あちこち呼ばれて」
「でも佐田先生、また嫌味言ってたみたいよ」
「あの人にも困ったものね」
俺が近づくと、二人は口をつぐんで慌ててカルテに視線を落とした。俺はそ知らぬ顔で通り過ぎた。
夕方までに病棟を3度、救急を2度回った。脱水の男性、複雑な既往のある妊婦。俺は一つ一つ丁寧に見た。派手なことをする必要はない。見落とさないこと。それだけを俺は自分に課している。
日勤の業務が終わり、夜勤への引き継ぎを済ませたのは夜の7時を回った頃だった。医局へ戻ると事務が待っていた。
「朝倉先生、院長がお呼びです」
「今から伺います」
院長室の呼び出しは久しぶりだった。扉をノックすると、中から低い声が返ってきた。原田常司院長。この病院を30年支えてきた男だ。俺がここに来た時、履歴書の空白の10年を見ても何一つ追及しなかった人だった。
「入りなさい」
俺は一礼して、来客用のソファに腰を下ろした。
「疲れているようだね」
「いえ、そうでもありません」
「若い連中がまた君のことを何か言っていたようだが、気にしていない」
「若いというのはそういうものです」
原田は薄く笑った。
「朝倉君」
「はい」
「君はいつまで過去に縛られているつもりだね」
その一言で部屋の空気が変わった。原田は俺を責めているわけではなかった。
「院長、私はもう二度とメスは握りません。この病院で外来と病棟と救急を回して、それで十分です」
「そうか」
原田はそれ以上何も言わなかった。無理に説得しようとしないのがこの人だった。俺は立ち上がった。
「今日はありがとうございました。失礼します」
「朝倉君」
呼び止められて俺は振り返った。原田は静かな目で俺を見ていた。
「一つだけ覚えておいてくれ。逃げているうちはまだ縛られている。向き合った時にだけ、人は自由になる」
俺は小さく頭を下げて扉を開けた。医局へ戻り、私物の鞄を手に取る。窓の外はもう真っ暗で、駐車場の街灯だけが小さく光っている。明日もまた外来がある。何もない診療の積み重ねが俺の仕事であり、俺の居場所だった。
その日は朝から曇っていた。外来を3件終えたところで、廊下がざわつき始めたのを感じた。足音がいつもと違う。革靴の音が複数、早足で近づいてくる。俺は診察室のドアを少し開けて廊下を覗いた。黒いスーツの男たちが4、5人、事務所前を突き進んでいた。耳にイヤホンを差し、視線だけが忙しなく動いている。明らかに病院関係者ではない。背後で看護師が小声で言った。
「スピーカーさんですって。政府の偉い方が倒れたって」
「内閣官房長官の黒川さんだそうです」
その直後、館内放送が鳴った。
「救急外来へ。応援可能な医師は集合」
俺は白衣の袖をまくり直して階段を駆け降りた。
救急外来はすでに人で溢れていた。制服の警察官、黒いスーツの男たち、医師、看護師。その中心のストレッチャーに、灰色の顔をした男が横たわっていた。黒川長官。テレビで何度も見た顔だ。岩城がすでにモニターを見ていた。彼女は俺に気づくと短く状況を告げた。
「意識レベル低下。血圧70代。CTレトゲで大動脈の拡張が疑われます。腎機能も相当悪いです。糖尿病の既往もあります」
俺はカルテ画面を覗き込んだ。数字が並んでいる。どれ一つとして良い方向を指しているものはない。佐田光高が奥から出てきた。腕を組んでモニターを睨みつけている。
「これは無理だ。かなり進んでる。うちで手を出せる範囲じゃないな。大学病院に応援を要請しよう」
そう言った佐田の顔から、いつもの余裕は消えていた。声だけは冷静を装っていたが、指先がかすかに震えているのを俺は見ていた。
1時間もしないうちに、病院の玄関前は報道陣で埋まった。静かだった地方病院が、一夜にして日本中の視線を浴びる場所に変わった。夜半までに全国から名医が続々と到着した。心臓血管外科の権威、大学病院の教授、東京の私立医大から専門家。中には俺がかつて学会の表紙で何度も見た顔もあった。彼らは俺の顔など知らない。知っているはずもない。
俺は白衣のポケットに両手を突っ込んで、廊下の隅からその光景を眺めていた。
大会議室に緊急のカンファレンスが設けられた。長机の周りに十数人の医師が並んだ。壁のスクリーンには黒川長官のCT画像が映し出されている。大学病院の教授が腕を組んだまま口を開いた。
「人工血管への置換は不可欠だが、腎機能がこれでは術中に完全に破綻する」
別の医師が続いた。
「そもそもこの心機能で人工心肺に耐えられるかどうか。4つの臓器が同時に崖の淵に立っている状態では……」
沈黙が落ちた。誰も口を開かなかった。一流と呼ばれる医師たちが揃って腕を組み、テーブルに視線を落としている。着手すれば失敗の可能性は高い。失敗すれば日本中の政治が揺れる。名医であればあるほど、その計算は早い。
俺は廊下の椅子に座ってコーヒーを一口飲んだ。苦かった。岩城が隣に来て静かに腰を下ろした。
「先生、あの中に入らなくていいんですか?」
「私の入るような会議じゃないですよ」
「そうですかね」
彼女はそれ以上何も言わなかった。ただ俺の横顔をしばらく見ていた。会議室から佐田が出てきた。顔が青白い。
深夜0時を回った頃、玄関に一台の車が滑り込んだ。黒いセダンから、杖をついた年配の男性がゆっくりと降りてきた。
藤堂成一郎。政府医療チーム責任者にして、日本医学会の中枢にいる男。俺は柱の影に思わず身を引いた。10年間、会わないように生きてきた顔だった。恩師の顔だった。
藤堂は玄関で佐田に迎えられ、そのまま集中治療室へ向かった。黒川長官のベッド脇に立ち、モニターを見て、CT画像を見て、それからカルテを最初のページからじっくり見ていた。医師たちが息を潜めて見守っていた。やがて藤堂は顔を上げた。
「朝倉優馬はどこだ?」
その一言で、会議室の空気が凍った。佐田が驚いた様子で口を開いた。
「朝倉先生ですか?彼はうちの総合診療ですが……」
「そんなことは知っている」
「あの、失礼ですが、この症例は総合診療が関わるレベルの……」
藤堂は佐田の言葉を最後まで聞かなかった。静かに一度だけ首を横に振った。
「この患者を救える医師は、日本に一人しかいない。その男がこの病院にいる」
佐田の顔が固まった。周囲の名医たちも互いに顔を見合わせた。誰も状況を飲み込めていなかった。だが、藤堂成一郎という男が冗談を口にする男ではないことだけは、全員が知っていた。俺は廊下の柱に持たれて天井を見上げていた。放送のスピーカーから俺の名を呼ぶ声が流れた。
「朝倉先生、集中治療室前へ来てください。繰り返します。朝倉優馬先生、至急、集中治療室前へ」
岩城が立ち上がって俺を見た。
「先生、行かれるんですか?」
「呼ばれれば行きます。総合診療ですから」
廊下の突き当たり、集中治療室の前に藤堂が立っていた。杖に両手を重ね、まっすぐに俺を見ていた。その後ろに佐田がいた。大学病院の教授たちがいた。医師たちの視線が一斉に俺へ集まった。俺はゆっくりと歩き出した。一歩また一歩。廊下の蛍光灯があの日の手術室の照明と同じように俺を照らしていた。藤堂の前で俺は足を止めた。言葉は出なかった。藤堂もしばらく何も言わなかった。ただ俺の顔をじっと見ていた。10年分の時間がその視線の中にあった。
やがて藤堂が口を開いた。
「久しぶりだな、朝倉」
「御無沙汰しております」
「今夜、お前の患者が奥にいる。見てやってくれ」
俺は返事ができなかった。病院中の視線が俺一人に注がれていた。逃げ場はもうどこにもなかった。
廊下は深夜だというのに人で埋まっていた。大学病院の教授たち、政府関係者。藤堂成一郎は俺を一瞥した後、その全員の方へゆっくりと体を向けた。杖の先で一度だけ床を軽くついた。
「諸君、この男を知らぬまま今夜を過ごしてもらっては困る」
藤堂の声は大きくはなかった。
「朝倉優馬、43歳。今はこの病院の総合診療だ。だが10年前まで、彼は違う場所に立っていた」
報道陣のフラッシュが医師たちの顔を一人一人順に照らしていった。
「日本最年少で大学病院の教授になった男だ。諸君は覚えているだろう。米国、ドイツ、シンガポール。世界中から招聘され、心臓と大動脈の手術で救えぬはずの患者を何人も救ってきた男だ。学会誌が『奇跡の外科医』と書き立てたあの男だよ」
佐田の顔から血の気が引いていくのが横目に見えた。彼は口を半分開けたまま、俺と藤堂を交互に見ていた。大学病院の教授が低く息を吐いた。
「まさか、あの朝倉先生?あの論文の……」
「そのまさかだ」
俺は廊下の壁に片手をついた。話を止めたかった。だが藤堂の声は止まらなかった。
「10年前、彼の元で研修していた後輩医師が、術中に致命的な判断ミスをした。患者は亡くなった。責任は指導医ではなく、ミスをした若い医師にあった。誰の目にもそうだった。だがこの男は記者会見の席で『全ての責任は自分にある』と言い切った。若い医師の名は最後まで出さなかった。そして翌日、辞表を出した。以後、医学会の表舞台から消えた」
廊下は静まり返っていた。岩城が少し離れた場所で両手を口に当てていた。その目にうっすらと光るものがあった。
「その後輩医師は今、地方の病院で立派に科部長をしている。名前は言わん。本人が一番知っているだろうからな」
藤堂は続けた。
「私は止めた。お前がやめる必要はないと、何度も言った。だがこの男は聞かなかった。誰かの人生を潰すくらいなら、自分の名前を消す方を選んだ」
藤堂はそこで初めて俺を見た。
「朝倉。10年、よく耐えた」
俺は下を向いていた。医師たちの誰も口を開けなかった。ただ、深く頭を下げる者が一人、また一人と現れた。俺は震える声で言った。
「藤堂先生、私はもうメスは握らないと決めた人間です。10年握っていません。今の私にあの患者は救えません」
「腕が落ちたのか?」
「……忘れていないだけだ。忘れたわけではないだろう」
「腕は落ちています。感覚も判断も10年前とは違います」
「朝倉」
藤堂は俺の目をまっすぐ見た。
「もう十分だ。お前は誰よりも多くの命を救ってきた。表舞台を離れてからも、この病院で名もない患者を毎日毎日救い続けてきた。私はそれを知っている。今夜の患者もその一人だ。ただ名前が少し有名なだけの一人の患者だ。お前が今までやってきたことと何も変わらん」
俺は目を閉じた。瞼の裏で、10年前の手術室と今日の外来の出来事が蘇る。背後で原田院長の声がした。
「朝倉君、行ってきなさい」
原田はそれだけ言って、静かに頷いた。俺は白衣のボタンに手をかけた。一つまた一つと外していく。手術室の前で、俺は手術着に袖を通した。帽子をかぶり、マスクをつけ、両手を消毒液の下にかざす。
手術室に入ると、麻酔科医が振り返った。若い外科医たちが緊張した顔で並んでいた。第一助手の席には原田が立っていた。彼の目はまっすぐ俺を見ていた。
「朝倉先生、私に執刀をやらせてください」
「わかりました。よろしく頼みます」
手術は午前2時に始まった。胸を開け、心臓を露出させ、人工心肺へ繋ぐ。病変は想像以上に広がっていた。腎臓は限界が近く、心臓は疲れきっていた。それでも俺の手はただ淡々と動いた。佐田は後にこう語ったという。あの夜、彼は自分が34年間見てきたどんな手術とも違う光景を見たと。俺の指は迷わなかった。
9時間の手術が終わった時、窓の外は白んでいた。モニターの数字が少しずつ正常の方へ近づいていた。麻酔科医が小さくガッツポーズをした。俺は手袋を外して、洗い場のシンクに両手をついた。10年ぶりの疲労が全身に落ちてきた。
手術の成功が伝えられると、病院の一階ロビーに集まっていた政府関係者たちが深々と頭を下げた。テレビカメラの前で藤堂成一郎が短く声明を出した。執刀医の名は伏せられた。それが俺の希望だった。藤堂は俺の希望をそのまま通してくれた。
翌日、佐田が俺の医局の机の前に立っていた。彼は一度深く息を吸い、深く頭を下げた。
「朝倉先生。今まで失礼な物言いばかりして申し訳ありませんでした。私はあなたのことを何も知らずに」
「頭を上げてください、佐田先生。あなたの言葉に間違いはなかった。総合診療は専門医へ患者をつなぐのが仕事です。私はその仕事をこれからも続けます」
佐田は顔を上げて、しばらく俺を見ていた。廊下で岩城とすれ違った。彼女は俺の顔を見て目を潤ませた。
「先生、ずっと不思議だったんです。どうして先生の助言だけあんなに当たるのか。先生はずっとこの病院で患者さんを守るためにいてくださったんですね」
「たまたまですよ」
「もうその台詞は通りませんよ」
彼女はそう言って、白衣の袖で目元を拭った。
1週間後、大学病院の学長から直々に電話があった。教授として戻ってきて欲しいと。藤堂からも同じことを言われた。俺は電話口で少し考えて、そして答えた。
「ありがたいお話です。ですが、私が救いたい患者はこの町にいます。ここを離れるつもりはありません」
電話の向こうで藤堂が小さく笑ったのが分かった。
「そう言うと思っていた。達者でな、朝倉」
その日の午後も俺は外来の椅子に座っていた。腰の痛い男性が入ってきて、目まいの主婦が入ってきて、熱を出した子供が母親に抱かれて入ってきた。何も変わらなかった。昨日と同じ地方病院の一日だった。
昼休み、若い研修医が二人、扉を開けて入ってきた。俺に気づくと、二人は姿勢を正して深く頭を下げた。
「朝倉先生、お疲れ様です」
俺は湯呑みを片手に小さく頷いた。窓の外、ちぎれ雲が山の稜線をゆっくりと流れていた。もう誰も俺を窓際医師とは呼ばなかった。俺は目を閉じて、次の外来の時間まで少しだけ休んだ。



