下請けは黙って従え。そう言われた瞬間、俺の腹の底で何かが冷たく固まった。
俺は市川、52歳。躯体工事を専門とする下請け会社の社長だ。社長といっても、俺は一人の職人として現場の最前線に立ち、工事の質と進捗をこの目で確かめる現場主義を通している。
今手がけているのは大規模商業施設の建築。地上6階建てで、俺の会社が受け持つのは3フロア分の骨格を組み立てる躯体工事だ。現場を一通り見て回り、職人に型枠の段取りを指示する。長年の勘が今日も俺の判断を動かす。
少し奥の区画では、配管工事を担う下請け仲間の松尾が職人と話していた。俺が声をかけると、松尾は苦笑いを浮かべた。
「千川さん、聞いてくださいよ。また現場監督から図面の差し替えが来ちゃって。今月に入って3回目ですよ」
松尾は胸ポケットから折りたたんだ紙を取り出し、日付と変更箇所を細かい字で書き留めていた。差し替えが来るたびに記録しているらしい。
「それはきついな。次の工程に間に合うのか?」
「正直、うちの職人も半分諦めてますよ」
月に3回の図面差し替えは、設計がまだ固まっていないことを意味する。そのしわ寄せはいつも下請けに降りかかる。
その時、元受けの現場監督である寺西の声が飛んできた。
「型枠の連中、明日中に仕上げろ。工程が遅れているのは分かってるんだろうな」
寺西は下請けへの指示権限を持つ立場だ。別の業者が何か答えようとしたが、寺西は遮った。
「理由はいらん。できるかどうかだ」
コンクリートの養生時間は現場監督の命令で縮められるものではない。打設から72時間は科学反応の問題であって、誰かの都合で変えられる数字ではない。そんなことは現場に立つ者なら常識だ。
翌朝、俺は寺西に現場事務所へ呼ばれた。プレハブに向かいながら、昨日の夕方のことを思い出す。現場事務所の前に、見覚えのある黒塗りの車が止まっていた。元受けの取締役の一人だ。工程の遅れを直接指摘しに来たのだろう。そしてその圧力が、今日の俺への呼び出しという形で降りてきたのだ。
俺は念のためスマホを取り出し、密かに録音アプリを起動した。
ドアを開けると、テーブルに工程表が広げてある。俺は入り口に立ち、寺西の出方を待った。
「市川さん、ちょっといいかな?」
寺西の口調は不気味なほど穏やかだ。それだけに嫌な予感が増す。俺はスマホの画面を下にしてテーブルの端に置いた。
「来週中に2フロア分の型枠を完了させてもらう。工程が2週間遅れているんでね」
寺西は簡単な作業でも命じるように軽く言った。俺は工程表に目を向ける。遅れを示す赤いラインは、設計変更の指示が重なった期間とぴったり重なっている。型枠の施工が遅れたのではない。元受け側の設計が固まらず、段取りを組み直すたびに工程が後ろへずれてきたのだ。
俺は頭の中で計算する。今の人員と進捗では3週間はかかる量だ。
「増員すれば可能かもしれません。しかし、それには追加費用が必要になります」
「追加費用? そんなの無理だ。予算の組み換えができないんでね」
「では、現在の工程のまま進めることしかできません」
「それも困る。後ろの工程に影響が出る。お前ら下請けだろ。なんとかしろよ」
寺西の口調から穏やかさが消えた。そして、さらに畳みかける。
「あと、3階の壁なんだが、設計変更で一部増し打ちが必要になった。さっきも言ったが、追加費用は今の金額の中で対応してもらう」
増し打ちとは壁を増やす追加のコンクリート工事だ。材料が増えれば手間も増える。俺は冷静に反論した。
「発注に記載されている仕様と違います。変更がある場合は書面での発注が必要です」
「そんな手続きをいちいちやってたら時間がかかるんだよ。悪いがやってもらう」
「できません」
俺が短く答えると、寺西は目を吊り上げた。
「あんたの会社にうちがどれだけ仕事を出してると思ってるんだ。その気になれば来月からの発注を止めることもできるんだぞ」
「承知しています」
「承知してるならば、下請けは黙って従え。契約を切られたら倒産するだろう。あんたのとこ」
確かに寺西の言うことは大げさではない。この現場との契約が切れれば、職人への給料が後ろにずれる。それは紛れもない事実だ。
だが、俺の頭は別のことを考えていた。今日ここで頭を下げれば、また同じ日が来る。来月も再来月も、寺西は同じ口で同じことを言うだろう。その度に俺たちは損を飲み込み、職人は黙って働き続ける。どこかで線を引く。それが今だと、腹の底に確信が降りてきた。
俺は腹を決め、静かに一言だけ口にした。
「その通りですね」
感情を一切込めず、何か含みを持たせた俺の返答に、寺西の手が止まる。帰ってくると思っていた言葉は、怒りか懇願かという感情的なものだったのだろう。揺れる寺西の目を見て、俺は言った。
「お話は以上でしょうか?」
寺西は答えない。俺は立ち上がり、扉を開けて外に出る。何をするかはもう決まっていた。
自社のプレハブへ向かい、工事書類の入ったファイルを棚から抜き出した。発注書、工程表、工事請負契約書をテーブルに並べ、ページをめくる手は落ち着いていた。
工事請負契約書の条文を一つ一つ確かめる。
「追加工事及び仕様変更に伴う工事は、双方の書面による合意を必要とする」
今日の寺西の要求は、この条文に真正面からぶつかっていた。実は、この事態を想定して俺は事前に専門家へ相談していた。書面合意なき一方的な契約変更は契約の根幹を揺るがす重大違反であり、現状回復での撤退は法的に争える余地があると、その判断は得ていた。
完全な勝ち目を保証してもらったわけではない。だが、争えると判断した。それで十分だ。
外に目をやると、夕暮れの現場で職人たちが後片付けを始めている。俺は外に出て、資材置き場の近くで松尾を見つけた。
「少し時間をもらえるか?」
俺がそう声をかけると、松尾は何かを察したのか、職人との会話をすぐに切り上げた。資材の影に入り、寺西から要求された追加費用なしの工程短縮と仕様変更を断ったことを伝えた。
「『下請けは黙って従え。契約を切られたら倒産するだろう』と言われたんだ」
そして、俺が決めたことを伝えた。
「この現場から撤退する。更地にして返すつもりだ」
松尾はすぐには答えなかった。
「更地ってことは、施工済みの分も全部壊して出るのか」
「そういうことだ。型枠を持ち帰るだけなら、向こうは別の業者を呼んで続きをやらせる。中断として処理されて、この話はそこで終わりだ。更地にして初めて、向こうは逃げ場を失う。それを寺西に自覚させるんだ」
「しかし市川さん、それで損害賠償請求されるんじゃないか」
「可能性はゼロとは言えない。ただ、向こうは書面なしで追加工事を要求してきたんだ。法的に争えばこっちの方が筋がいい」
松尾は作業着の胸ポケットからあの折りたたんだ紙を取り出した。
「うちも差し替えが来るたびに日付と変更内容を控えてきた。今月だけで3回ある」
紙を広げると、細かい文字で日付と変更箇所が並んでいた。松尾は何かを決意したように言った。
「分かりました。俺も撤退します。ただ、全業者が同じ判断をするとは限りません」
その夜、俺と松尾で手分けして現場の業者を回った。
外装の業者は来月に別の現場の入札を控えているから、元受けの機嫌を損ねるわけにいかないと言った。去年、元受けに差し替えを連発され、月末の支払いが危なくなった時、俺が自社の職人を無償で貸し出した会社だ。だが、あえてそのことは口にしない。契約書の条文と撤退の根拠だけを話し、決めるのはお前だと告げる。
しばらく考えた末、外装業者の男は俺たちに同調すると答えた。
「どの下請け業者も簡単には首を縦には振らない。元受けの圧力に対抗できるのは俺たち下請けの団結だけだ」
俺はそう言って粘り強く説得を続けた。どの業者も元受けの理不尽な要求に苦しめられた経験を持つ。最後は皆、重い口を開いて首を縦に振った。
最後の連絡が入ったのは夜の8時を過ぎた頃だ。基礎の社長が迷っているという。俺が直接話してくれないかと。俺が詰所に着くと、社長は明りの下で腕を組んで立っていた。
「2人の職人を新しく抱えたばかりで、この仕事は外せない。去年の追加工事の件も、結局うちが全部かぶったんだ。また同じ目に会うかと思うと……」
男の声に疲れが滲んでいた。俺は言った。
「今回寺西の要求を飲んだら、次も同じ話が来る。それだけは確かだ」
しばらく沈黙が続いた後、男は腕を解いて「分かった」と言った。
これで下請け全社の合意を取り付けた。重機の手配は昨日のうちに済ませてある。俺は詰所に集まった業者たちの顔を見て言った。
「今夜動くぞ」
夜の9時を過ぎた頃、最初の重機が動き出した。続いて各社の重機が配置につき、照明が展開される。夜の現場が白い光に包まれた。俺も工具を手に取り、施工済みの解体に加わった。
最初のコンクリート壁に工具を当てた瞬間、手が一瞬だけ止まった。自分たちが何日もかけて打ったコンクリートだ。型枠の寸法を何度も確かめ、型枠のタイミングを見極め、養生の時間を守ってようやく形になったものだ。壊すのが惜しくないといえば嘘になる。
だが、寺西の要求を飲む度に、俺たちは少しずつこの仕事の中身を捨ててきた。今日ここで壊すのはコンクリートじゃない。もうこれ以上、技術を踏みにじらせないという決断だ。
手を動かせ。俺は工具を握り直した。どの職人の顔にも怒りはなかった。ただ静かな決意だけがある。黙々と、しかし確実に、それぞれの持ち場で手を動かしている。
作業が始まって2時間ほど経った頃、寺西が現場に飛び込んできた。
「何をやってるんだ? やめろ!」
怒鳴り慣れた声とは違う。上ずった声だ。複数の業者が複数の重機で同時に動いている。止めようにも、どこへ向かえばいいのか分からない様子だった。
松尾が俺の横に来た。
「来たな」
俺は工具を地面に置き、寺西の方へ歩いた。重機の振動が夜の地面を揺らし続けている。寺西は俺の姿を見つけると駆け寄ってきた。
「今すぐ全部やめさせろ!」
「寺西さん、1点だけ確認させてください」
俺は上着のポケットから封筒を取り出した。工事請負契約書と発注だ。そしてもう1つ、スマホを取り出して昨日の面談の録音ファイルを画面に表示させた。
「昨日、発注に記載のない増し打ち工事の指示と、書面合意なしの工程短縮。この2点を要求したのは事実ですよね」
「そんな話をしている場合か! 今すぐ作業をやめさせろ!」
「契約書の条文を見てください。『追加工事及び仕様変更は双方の書面合意によるもの』と記載されています。あなたはこの条文に明確に違反した。各社との協議の結果、我々は契約に基づく正当な撤退という判断に至っています」
寺西は書類を手に取りページをめくった。しかし、俺がスマホの画面を向けると手の動きが止まる。視線の中に、怒りとは別の何かが混じっていた。一瞬、目が泳いだ。
「損害を請求するぞ」
「請求はもちろん受け付けます。ただし、契約違反の指示の記録はこちらにある」
寺西はそれ以上何も言わなかった。その後も作業が続く現場の端に立ち尽くしたまま、その場から離れようとしない。スマホを一度手にしかけて、また下ろした。上司を呼べば、契約違反の指示を繰り返していたことを俺たちに告発される。その一手が踏み出せないのだと、俺には見えた。
しばらくして、寺西はポケットからスマホを取り出し、誰かに電話をかけ始めた。短いやり取りで切る。表情は硬いままだった。
作業は徹夜で続いた。コンクリート壁が崩され、基礎が引き剥がされ、型枠が全て撤去された。怒鳴り声もため息も上がらない。静かに、手順通りに、淡々と撤去が進んでいく。
夜が明け始めた頃、最後の重機が停止する。朝の光の中で現れたのは、更地にされた地面だった。
後片付けを終えた松尾が俺の隣に立って腕を組んでいる。正面の仮設ゲートの向こうに、黒いワンボックスカーが止まった。
「市川さん、来たぞ」
松尾が前を向いたまま低い声で言った。ヘルメットを手に持った背の高い男が降りてくる。元受けゼネコンの社長、福田だ。定期視察で何度か見かけていた顔だ。福田はゲートをくぐり、更地に向かって進んでくる。途中で足が止まった。昨日の夕方まで3フロア分の骨格が立っていた区画が、整地された地面に変わっている。視線が更地の端から端へゆっくりと動く。
寺西が素早く福田の前へ進み出た。
「社長、下請けどもが勝手に解体したんです!」
「寺西、どういうことか詳しく説明しろ」
福田の声は静かだったが、黙らせる響きがあった。寺西が口を開きかけた時、俺は前に出た。
「こちらをご覧ください」
上着の内ポケットから書類を取り出し、福田の前に広げた。条文に付箋を張った工事請負契約書だ。
「『追加工事及び仕様変更に伴う工事は双方の書面による合意を必要とする』。この条文が今回の撤退の根拠です」
「社長、それは下請けが一方的に都合よく解釈しているんです!」
寺西が割り込んでくる。俺は発注書を取り出した。
「3階の壁の増し打ち工事は、この発注書のどこにも記載がない。口頭で要求されましたが、書面合意は一切存在しません」
福田は発注書を受け取り、黙ってページをめくった。寺西が横から言葉を差し込む。
「社長、発注書の記載がどうあれ、現場の判断というものがある。これは下請けが示し合わせた言いがかりです!」
俺はそれを聞く前に、もう1点確認させてくださいと言い、松尾を呼んだ。松尾が前に出て、折りたたんだ紙を広げ、福田に差し出した。
「私が記録した図面差し替えの履歴です。今月だけで変更箇所が3回分、ここに並んでいます」
福田はその紙を受け取り、数行読んで止まった。俺はスマホを取り出し、録音ファイルを画面に表示させ、再生ボタンに指を置く。
「社長、昨日、寺西さんが俺に向けて言った言葉を聞いていただきたい」
「おい、ちょっと待てよ!」
寺西が半歩踏み出す。強気の姿勢はその声から消えていた。俺はためらわず再生する。朝の現場事務所で録音した寺西の声が響いた。
「下請けは黙って従え。契約を切られたら倒産するだろう。あんたのとこ」
再生が終わった後、誰も動かなかった。福田が振り返り、短く名前を呼んだ。
「寺西。書面合意なしに追加工事を要求し、契約切れで脅した。これは事実なのか?」
「それは、下請けが話を大げさに……」
「工程遅延の責任は誰が取る? 答えろ」
寺西は口を開いたが、何も出てこなかった。口元が小さく動くだけで、そこから先は続かない。証拠は三つ重なって、声まで残っている。
福田は俺に向き直り、深く頭を下げた。
「市川さん。各社の皆さんにも、まずお詫びを申し上げます。詳細を確認した上で、誠実に対応させてください」
「よろしくお願いします」
俺は短く答えた。寺西だけがその場で動くこともできず、立ち尽くしている。俺は一目だけそちらに視線を向け、すぐに外した。技術で飯を食う者の筋を通した。ただそれだけだ。
あれから1ヶ月が経つ。寺西は現場を外され、本社の総務部へ移動になったと福田から直接聞いた。工事現場への復帰は認めないという。元受け側は改めて各社に条件を提示し直した。増し打ち工事が発注書に明記され、工程は実態に合わせて組み直された。全社が正式な条件のもとで再契約を結び、工事は再開したのだ。
当たり前のことを当たり前に守らせる。それだけのことだ。それだけのことに、これだけの覚悟がいる現場がある。だが、まだ戦いは終わらない。現場の数だけ戦いはある。そう思い、俺は気を引き締めるのだった。



