スピーカーから低いノイズが響いている。真夏の太陽が鉄骨のステージを白く焼いていた。俺は音響卓の前に立ち、フェーダーを一本ずつ確認していた。指先に伝わるわずかな引っかかりが昨日のリハーサルから気になっていた箇所だ。
「胃石さん、モニター3番まだハウってます」
インカム越しに若いスタッフの声が飛んでくる。俺は卓の左端のつまみを少しだけ右に回し、無線で短く返した。
「今下げた。もう一度マイクに声入れてみてくれ」
ハウリングは消えている。俺はメモ用紙に小さな丸を描いた。
俺の名前は胃石、35歳の音響スタッフだ。夏のフェス、冬のホール、地方のライブハウス。全国を機材と一緒に点々としてもう7年になる。俺の仕事は音を作ることじゃない。音を邪魔しないことだ。ステージの上で誰かが命を削って歌う。その声を余計なものを付けずに客の耳まで届ける、それだけだ。
ステージ袖から制作チームの久保田が歩いてきた。汗でTシャツが背中に張り付いている。久保田は40代後半、業界ではフル稼働の男だ。
「胃石さん悪い。3ステージの音響が急遽1人倒れたんだ。明日から手伝ってもらえるか?」
「俺の持ち場はどうする?代わりがいないと回らないだろう」
「ここは橋本に任せる。あんたなら3ステージも見られるって踏んでるんだ。頼むよ」
俺は少し黙って卓の上のメモを見た。明日のセットリスト、出演者のリスト。そこに並んだ名前の中に、一つ見覚えのある名前があった。
藤村レナ。
俺の指がわずかに止まる。久保田は気づかず続けた。
「藤村レナのステージなんだよ。あの子最近またチャート上がってきてるだろ。スポンサーも気合い入っててな」
「分かった、引き受ける」
「助かる。音、頼むよ」
久保田は俺の肩を一度叩いて人の中へ戻っていった。俺は藤村レナの文字をしばらく見つめ、ボールペンで軽く線を引いた。ただの仕事のリストだ、と自分に言い聞かせた。
夜の10時を回っていた。本番初日のリハーサルが終わり、スタッフ用のプレハブの中ではエアコンが効きすぎて頭がぼんやりする。長机の上には明日のステージ進行表が広げられている。
「藤村レナの出番は明日の16時半。曲は7曲、MCが2回入ります。最後の曲は新曲ですね」
「ああ、バラードのピアノ1本での弾き語り。アレンジは本人がかなりこだわってるらしい」
弾き語り、ピアノ。その言葉が胸の奥に小さな波紋を作った。
「胃石さん、バラードの音作り頼めるかな?あの子声が繊細だから、リバーブのかけ方一つで印象が変わるんだよ」
「やってみる。リハで一度合わせてもらえるか」
「もちろん。明日の朝は10時から抑えてある」
若いスタッフの一人が観光ガイドを開きながら言った。
「藤村さんって、子供の頃に大きな事故に遭ってるんですよね。それで一回音楽やめかけたって聞きました」
「ああ、有名な話だな。10年くらい前か。確か小学生の時だ。命に関わる怪我だったらしい」
「それでも歌い続けてるってすごいですよね。あの透明感は、ああいう経験があるからなんですかね」
俺は何も言わなかった。久保田がちらりと俺の顔を見た。
「胃石さん、明日早いから今日はもう上がっていいぞ。宿は抑えてあるからな」
「ああ、悪いな」
俺は立ち上がり、進行表を一枚折りたたんで胸ポケットにしまった。プレハブの扉を開けると、外は虫暑い夜の風だった。歩きながら、俺は自分の手のひらを見た。今はミキサーのフェーダーを動かすこの手が、かつて何を握っていたか。10年前のあの夜のことが、消毒液の匂いと一緒に頭の中に戻ってきていた。
俺はかつて医者だった。都内の救命救急センターで外傷外科を担当していた。夜中に運び込まれる事故、転落、出血。俺の手の中で助かった命もあったし、助けられなかった命もあった。
10年前のあの夜、運ばれてきたのはまだ小さな女の子だった。名前は確かに藤村レナと言った。
安いビジネスホテルの窓を少しだけ開けて、椅子に腰かけた。胸ポケットから進行表を出して机の上に置く。藤村レナの名前をもう一度指でなぞった。あの夜の記憶は、何度も忘れようとしても消えなかったものだ。
10年前、俺は25歳。研修を終えて救命の現場に立ったばかりだった。夏の夜、深夜の2時過ぎ。交通事故の連絡が入った。家族4人が乗った車がトラックと正面衝突した。両親は即死だった。後部座席にいた小学生の姉妹のうち、姉は重症。妹は軽症だった。
姉の名前が藤村レナだった。当時10歳だったはずだ。俺は彼女の手術についた。血まみれの小さな体。出血が止まらず、心臓が何度も止まりかけた。俺は必死だった。上級医の指示通りに、いやそれ以上を自分にできる限りやった。
彼女は助かった。命は助かった。ただ、声が出なくなった。喉の損傷、声帯の損傷。俺たちは命を優先した。それは間違っていなかったと、今でも理屈では分かっている。
分かっているのに、術後目を覚ました彼女が、自分の声が出ないことに気づいて、声にならない悲鳴を口の形だけで作った。あの顔が忘れられなかった。
彼女は歌が好きな子だったと、後で妹から聞いた。学校の音楽会でいつもソロを歌っていたと。
俺はその後しばらく現場に立ち続けようとした。ただ、メスを持つ手が震えるようになった。他の患者の手術中にも彼女の顔が浮かんだ。このままでは今度こそ誰かを殺す。そう思って俺は医者をやめた。逃げたと言ってもいい。
それから7年、音響の世界で生きてきた。人の声をただ届ける仕事。俺なりの贖罪のつもりだったのかもしれない。
藤村レナ。彼女は声を取り戻したのか。それとも別の藤村レナなのか。俺は何も知らないままここまで来ていた。
窓の外で夜の風が少し強くなった。明日10時、リハーサル。俺は彼女の声を自分の卓で扱うことになる。それが偶然なのか、何かの巡り合わせなのか、俺には分からなかった。ただ、引き受けた以上は仕事をする。それだけは決めていた。
朝の会場はしけさの中にあった。ステージの上にグランドピアノが一台ポツンと置かれている。昨夜のうちに運び込まれたものだ。俺は音響卓の前に立ち、フェーダーに指を置いた。夏の日差しはもう高く、会場の地面から熱気が立ち上がっている。ヘッドホンを片耳にかけ、機材の最終確認をしていると、久保田がステージ袖から手を上げた。
「胃石さん、藤村さん到着したぞ。これからリハ入る。ピアノの調律はもう済んでる。マイクは予定通りSM58を立てている」
「分かった。よろしく頼む」
しばらくして、ステージ袖から細身の女性がスタッフに付き添われて歩いてきた。白いシャツに紺色のスカート。背は高くないが姿勢がきれいだった。肩の辺りまで切り揃えた髪がステージの風で少し揺れている。
俺は息を止めた。あの夜、手術台の上にいた小さな体の輪郭が、目の前の彼女の姿に重なっていく。10年、俺の中の彼女はずっと10歳のままだった。
藤村レナはピアノの椅子に腰かけると、マネージャーらしき女性に軽く頭を下げた。それからマイクの前でゆっくりと口を開いた。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
少しかすれたけれど、澄んだ声だった。俺は卓の上でその声を聞いていた。
藤村はピアノの蓋を開けて鍵盤に指を置いた。イントロが静かに会場に流れ始める。俺はフェーダーを少しずつ持ち上げて、彼女の声の通り道を作っていく。歌声がスピーカーから帰ってきた瞬間、俺は思わず卓の縁を握り直した。
声にはっきりと傷の跡があった。高音にわずかな揺らぎ。息継ぎの度に喉に何かが引っかかるような、かすかな摩擦。医者の耳と音響の耳が同時にそれを拾っていた。
久保田がインカム越しに低く呟いた。
「胃石さん、どう聞こえる?」
「悪くない。ただリバーブは控えめでいい」
「了解。任せる」
リハーサルの1曲目が終わった。藤村はピアノから手を離して、マイクに向かって息を整えていた。俺は無線を切って卓のメモに書き込みを始めた。喉の状態、声量の癖、息継ぎの位置。
リハーサルが終わって藤村は一度楽屋に下がった。俺は機材ケースを取りにステージ裏の通路を歩いていた。角を曲がったところで、ちょうど楽屋から出てきた藤村とばったり出会った。俺は思わず一歩下がった。
「あ、すみません。音響の方ですよね」
「ああ、胃石です。リハお疲れ様でした」
「先ほどのバラード、すごく聞きやすかったです。マイクを通した時の私の声、自分でこんな風に聞こえたの久しぶりで」
彼女は屈託のない笑顔で言った。俺は何と答えればいいのか、すぐには言葉が出てこなかった。
「声、無理して出してませんか?本番ではもう少しマイクに近づいてもいいと思います。声量で押さなくて済むように、こちらで持ち上げます」
「あ、分かりますか?実は長く歌うと少し喉が……」
「ええ、聞いていれば分かります」
藤村は少し驚いたように俺の顔を見た。それからペットボトルを一本こちらに差し出した。
「よかったら、暑いですし」
「いただきます」
俺は受け取って軽く頭を下げた。藤村は壁に寄りかかって、少しだけ自分のことを話し始めた。
「私、子供の頃に事故に遭って、一度声をなくしているんです。お医者さんが命を助けてくれて、その後何年もリハビリして、ようやくこのくらい話せるようになって」
「そうですか」
「歌えるようになるなんて、最初は誰も思ってなかったみたいです。私自身も。でも、声を取り戻すたびに、不思議と助けてくれたあの夜の人たちに聞いてほしいなって思うようになって」
俺はペットボトルを握る手に力が入った。あの夜、彼女の手術についた医者の名前を、彼女は知らないだろう。当時の俺は名前を覚えてもらうほどの立場でもなかった。
「変な話ですみません。初対面の方に」
「いえ、いい話だと思います」
「今日は、その時に助けてくれた病院の先生たちが来てくださってるんです。前の方の招待席に。10年経って、こうして歌で恩返しできるのが嬉しくて」
俺の足が一瞬止まりかけた。あの夜の同僚たちが客席にいる。彼らは俺が辞めた後の10年を現場で戦い続けてきた人たちだ。俺はその場から逃げた人間だ。
藤村はぺこりと頭を下げて、楽屋の方へ戻っていった。
午後4時を過ぎていた。会場には観客が詰めかけ始め、ステージ前のフロアはもう人で埋まっている。俺は最後のチェックを始めていた。
「胃石さん、招待席に医療関係者が入ってる。あの子の命の恩人だってさ。ステージから紹介するらしい」
「ああ、本人から聞いた」
「最後の新曲、その人たちに捧げるって話だ。気合い入れて頼むぞ」
俺は短く返事をして、卓のフェーダーに指を置いた。心臓が自分でも分かるほど早く打っている。
開演のブザーが鳴り、客席が一斉に湧いた。藤村レナがステージに現れる。スポットライトが彼女の一つ一つの動きを白く照らした。彼女はマイクの前に立って、客席に向かって深く頭を下げた。
1曲目のイントロが流れる。俺は息を整えながら彼女の声を待った。スピーカーから帰ってきた声は、リハーサルの時よりも確かな芯を持っていた。客席の歓声と彼女の声とピアノの音が、一つの音の塊になって会場に広がっていく。
俺はその音の中でずっと卓の前に立ち続けた。俺がやるべきことはただ一つ。彼女の声を余計なものを付けずに客席の隅まで届けること。医者の手を捨てた俺に、今できることだ。曲が進むにつれて、客席の空気が変わっていくのが分かった。藤村の声が何かを人々の中に運んでいる。
セットリストは進み、いよいよ最後の新曲が近づいてきた。バラード、ピアノ一本での弾き語り。俺は卓のメモをもう一度見直した。
藤村がマイクの前で口を開いた。
「次の曲は、私の声をもう一度この世界に戻してくれたお医者さんたちに捧げます」
会場が静かにどよめいた。俺は卓の縁を握り、ステージの上の彼女を見ていた。
「この曲は新曲です。タイトルはまだ正式には決まっていません。ただ、10年前のあの夜、私の命を救ってくれたお医者さんたちのことを思いながら書きました」
イントロのピアノがゆっくりと会場に流れ始めた。静まり返っていく。藤村はピアノの椅子に腰を下ろし、鍵盤の上に両手を置いた。
「あの夜のことを、私はほとんど覚えていません。気がついた時には声が出なくなっていて、もう歌えないんだと思いました。それでも10年かけてここまで戻って来られました。今日、客席に当時の先生方が来てくださっています」
ステージのスポットが客席の前方をふわりと照らした。招待席に座る数人が軽く頭を下げているのが見えた。シャツとジャケットを着た男女だった。俺は卓の上で息を整えた。心臓の鼓動が少しだけ早い。
イントロのピアノが一音、また一音と会場に降りていく。藤村の声がマイクに届いた瞬間、俺の指は止まった。歌い出しの一言。あの息の混じったかすかに揺れる声がスピーカーから帰ってきた。ただ一人の人間として、俺はその声を聞いていた。
歌詞は難しい言葉を使っていなかった。「ありがとう」と、ただそれだけを何度も別の言い回しで歌っていた。
歌はサビに差しかかっていた。藤村の声がわずかに揺らぎながら伸びていく。俺はその揺れをフェーダーに添えた指でそっと支えた。リバーブのつまみに一瞬触れて、すぐに戻す。声の余韻にわずかな厚みが乗った。
頬に何か熱いものが伝っているのに気づいた。手の甲で拭う。ヘッドホンの中では、藤村の声だけが鳴っていた。
7年前、業界に入って間もない頃、久保田と二人で安い焼き鳥屋で飲んだ夜があった。酔った勢いで俺はぽつりと言った。
「昔、人の命を預かる仕事をしてたんだ」
「うん、そうか」
「お前は今は音を預かってるんだな」
それだけだった。久保田は深くは聞かなかったし、俺もそれ以上は言わなかった。
歌は最後のフレーズに入った。客席は誰も物音を立てない。最後の一音が天井に吸い込まれていった。数秒の沈黙の後、拍手が波のように起こった。
本番が終わって2時間が経っていた。藤村レナのセクションのスタッフは一旦解散になっていた。俺は機材ケースを車に積み終えて、駐車場の隅で缶コーヒーの蓋を開けた。夜風が昼間の熱を少しずつ運び去っていく。
背後で足音が聞こえた。振り向くと、藤村レナがマネージャーらしき女性と一緒に立っていた。ステージ衣装ではなく、Tシャツにカーディガンを羽織った姿だった。
「胃石さん、今日本当にありがとうございました」
「お疲れ様でした。いいステージだった。客席までちゃんと届いてましたよ」
「私、最後の曲、胃石さんの音響だったから歌い切れた気がするんです。声がちゃんと向こうに届いてるって、ステージの上で分かりました」
俺は缶を握ったまま軽く頭を下げた。言葉を探したが、出てこなかった。
「あの、変なこと聞いてもいいですか?」
「ええ」
「胃石さん、もしかして昔お医者さんでしたか?」
俺は顔を上げた。彼女の目はまっすぐにこちらを見ていた。
「リハの時、私の喉のことすぐに分かってくださって、マイクの近づき方まで的確で。普通の音響の方とは少し違う気がして」
「ええ。昔、救命の現場にいました。10年前、あなたの手術にもついていました」
夜の風が彼女の髪を揺らした。それから彼女はゆっくりと頭を下げた。
「ありがとうございました。私の声を二度、助けてくださって」
「俺は……声を奪った側の人間です。命は助けたが、あなたの歌は一度止めてしまった」
彼女は顔を上げて、静かに微笑んだ。
「先生たちが命を選んでくださったから、私は今ここで歌えています。歌は自分で取り戻しました。私には感謝の気持ちしかありません」
俺は何も言えなかった。10年、自分で許せなかったものが、目の前の人の口から全く違う形で差し出されていた。受け取っていいのか、まだ分からなかった。
藤村はもう一度軽く頭を下げて、マネージャーと一緒に駐車場を歩いていった。車のドアが閉まる音がして、テールランプが遠ざかっていった。
夜空を見上げると、夏の星がいくつか滲んで見えた。明日も別のステージがある。別の誰かの声を客席まで届ける仕事が待っている。



