亡き夫を送った翌日、息子の賢太が低く押し殺した声で言った。「荷物をまとめて、今すぐ出て行ってくれ。」
家の中にはまだ線香の匂いが残っている。昨日、私は40年連れ添った正一を見送ったばかりだった。
その隣で、みさが薄い冊子を差し出す。「お母さんにはこちらがいいと思って。老人ホームのパンフレットです。年金で入れるところを探しておきました。俺たちだって、母さんの面倒まで見られないんだよ。」
段ボールの山を背に、2人は当然のような顔をしている。
私はパンフレットを受け取らなかった。柱の傷、古い棚、正一が選んだ照明。この家の全てに、家族の時間が染みている。
「分かったわ。」
そう答えると、私は小さなスーツケースを一つだけ持って玄関を出た。
門の外には黒塗りの車が止まっている。降りてきた男が頭を下げた。
40年暮らした家を、私はもう振り返らない。私がこれからどこへ向かうのか。賢太とみさはまだ何も知らなかった。
その日のことを話す前に、少しだけ昔の話をさせてほしい。
私の名前は洋子。旧姓は水島という、68歳になる。40年前、28の時に正一と結婚して、瀬洋子になった。
結婚前の私は小さな不動産会社で経理をしていた。数字を扱う仕事だ。伝票の一円のずれも見逃さない性格は、その頃に身についた。
私の実家は地方でいくらか土地を持つ家だった。両親が残してくれた土地の話はいずれまた出てくる。今はそういう娘だったとだけ覚えておいて欲しい。
夫の正一は私より4つ年上の実直な人だった。若い頃は建設会社で資材の仕入れを担っていた。派手なことを嫌い、口数も多くない。それでも私の話は最後までじっと聞いてくれる人だった。
「洋子さんの数字は俺の目より確かだ。」
正一はよくそう言って、通帳も印鑑も私に預けた。家の切り盛りはいつしか私の役目になっていた。
私たちは郊外の古い一軒家で暮らした。門の柱は傾き、廊下は歩くときしむ。それでも正一はこの家がいいと笑った。庭の隅に自分で植えた金木犀を、毎年嬉しそうに眺めていた。
一人息子の賢太が生まれたのは結婚の翌年だ。腕に泣いた時の重みを、今でも手のひらが覚えている。この子にはできるだけ多くの道を選ばせてやりたい。そう思った。
賢太は成長し、内装の会社を立ち上げた。数年後、みさと結婚し、私たちの家のすぐ近くに越してきた。孫も生まれ、市立の中学へ通わせている。外から見れば絵に書いたような一家だったと思う。
私には賢太が生まれた年から続けている習慣がある。台所の引き出しの奥に、一冊の古いノートをしまってある。表紙には正一の字で「賢太」と書いてある。そこには私たちが息子に渡してきた金が、日付と共に記してある。始まりは賢太が生まれた年の粉ミルク代だ。経理の癖なのだろう。誰に見せるでもない。ただ、家族のために出ていくお金を私は帳面につけずにはいられなかった。
ページは年を追うごとに増えていった。学費、仕送り、祝い金。そのどれもが私の手を通って、息子の暮らしへ流れていった。
帳面をつけるのは、金を惜しむためではない。いつか賢太が困った時、何を背負わせてきたかを私がきちんと覚えているためだ。
正一もそのノートのことは知っていた。ある晩、私の手元を覗き込んで、「賢太」と書かれた表紙をそっと撫でたことがある。
「よく続くな、洋子さんは。」
「正確ですもの。数字は正直だから。」
正一は小さく笑い、それきり何も言わなかった。あの時の指先の動きを、私は今でも思い出す。
「お母さんっていつも家計簿つけてますよね。細かい人。」
ある日台所を覗いたみさがそう言って笑った。
「そういうのはもう時代じゃないですよ。今時スマホで済むのに。お母さんはお家のことだけしてればいいんですよ。お金の難しい話は賢太さんに任せておけば。」
悪気はないのかもしれない。けれど、その言い方には私を蔑むような響きがあった。私は帳面をそっと閉じた。何も言い返さなかった。
その週末、孫の塾の月謝が足りないと賢太が電話してきた。私は黙って用意した。翌日、みさは礼の一言もなく封筒だけを受け取り、こう言った。
「助かります。まあ、おじいちゃんの会社のお金ですもんね。孫のために使うのが当たり前でしょ。」
おじいちゃんの会社のお金。みさはそう思っている。賢太も多分同じだ。本当は誰の手が家計を回しているのか、2人は考えたこともない。
夜、寝る前に正一がぽつりと漏らすことがあった。
「賢太は俺たちが助けるのを当たり前だと思ってる。あれでいいのか、洋子さん。」
「でも、たった一人の息子ですもの。」
「甘やかしたのは俺たちだ。いつか自分の足で立たせないとな。」
その声には笑いも怒りもなかった。ただ遠くを見るような響きだけがあった。私は返す言葉を持たず、寝室の明かりを消した。
翌朝もみさは私の家の勝手口から入ってきて、洗い物の鍋を流しに置いた。
「これ、ついでにお願いしますね。お母さんどうせ一日お家にいるんだし。」
「どうせ」という一言が、鍋の底に張り付いた油のように私の中に残った。台所に立つ私を、みさは玄関先で順番を待つ客のような目で見ていた。
その頃はまだ、私はこの暮らしがいつまでも穏やかに続くものだと思っていた。
その日、賢太が久しぶりに一人で私たちの家に顔を出した。要件は決まっている。金だ。
「悪いんだけど、店の運転資金がちょっと足りなくてさ。銀行の融資が降りるまで、つなぎで貸して欲しいんだ。」
今の座敷に賢太はどさりと腰を下ろした。父親の正一には目もくれず、まっすぐ私を見る。
「父さんの会社のお金なら余ってるだろ。父さんも、俺が継ぐんだから当然だって言うと思うよ。」
私は台所で茶を入れながら、その言葉を聞いていた。父さんの会社のお金。賢太もまたそう信じている。正一は建設会社に務め上げた人で、自分の会社など持ったことはない。それでも賢太の頭の中では、両親のどこかに大きな財布があって、それはいずれ自分のものになる。そういうことになっているらしい。
「分かった。用意しておく。」
私がそう答えると、賢太は満足そうに茶をすすった。礼はなかった。
思えば、この子に渡してきた金は数えきれない。大学の4年間の学費、就職してからの車の頭金、結婚式の費用、新居の資金、孫が生まれてからの祝いと私立中学の学費、そして毎月決まって振り込む10万円の仕送り。賢太が内装の会社を始めた時には、借入れの連帯保証人にもなった。事業がぐらつく度、私は黙って穴を埋めてきた。
そのどれもが、あの「賢太」と書かれたノートに日付と共に残っている。累計の数字は賢太が想像もしないほど大きい。けれど賢太は、そのお金がどこから出ているのか一度も尋ねたことがない。当たり前に父の財布から出ていると思い込み、当たり前に受け取ってきた。
「今度の融資が降りたら、少しずつ返すからさ。」
賢太はいつもそう言う。返してきたことは一度もない。
「孫の私立の学費もそろそろ上がるんだよね。父さんたち、そこもよろしく頼むよ。」
まるで水道の蛇口をひねるような口ぶりだった。賢太にとって、私はいつでも開いている蛇口なのだろう。
その帰り際のことだった。玄関で靴を履く賢太の後ろから、いつの間にかみさが入ってきていた。手には大きなゴミ袋を下げている。
「お母さん、あの奥の部屋の古い本、まとめて処分していいですよね。ほこりっぽくて、見てるだけで気がめいるんです。」
奥の部屋。そこは正一の書斎だ。仕事で使った資材の図面や、若い頃から集めた古い建築の本が並んでいる。
「あれは正一さんの本よ。触らないでちょうだい。」
「でも、もう誰も読まないでしょう。場所を取るだけじゃないですか。今時、断捨離って言うんですよ。物が多いと運気も下がるんです。」
みさは棚に手を伸ばし、勝手に本を抜き始めた。その中には、正一が結婚前から使っている万年筆も無造作に放り込まれている。
「それはだめ。正一さんが大事にしているものなの。」
私は袋を取り戻し、本を棚へ戻した。指先が震えていた。
みさは不満そうに唇を噛む。
「よかれと思ってやってるのに。お母さんって本当に古い人ですよね。物にも人にも、いつまでもしがみついて。」
物にも人にも。その言葉が妙に耳に残った。
「賢太さん、あなたも言ってやってよ。お母さん全然片付けてくれないの。」
玄関の賢太は、面倒そうに肩をすくめただけだった。母と妻のどちらにもつかず、ただ早く帰りたいという顔をしている。
「まあ、母さんも年だからさ。物を捨てるのも労力なんだろう。みさ、あんまり無理させるなよ。」
年だから。賢太はそう言って私を労うふりをしながら、私を年寄り扱いした。
数日後、私が買い物から戻ると、玄関の土間に見覚えのある紙袋が置かれていた。中を見て、私は息を詰めた。正一が退職の記念にと2人で選んだ夫婦茶碗。その片方が割れた包みのまま、袋に入っていた。
「ああ、それ戻ってきた。棚の奥にあったから、いらないのかと思って。古くて欠けてたし、新しいの私が見立ててあげましょうか。」
欠けてなどいなかった。みさが乱暴に扱って割ったのだけれど、私はそれ以上責めなかった。賢太が結婚して15年ほど続いてきた嫁との間柄がある。一時の感情でそれを壊したくはなかった。
この人は、いずれ私自身も古いものとして袋に詰めるつもりなのかもしれない。そんな考えがふと頭をよぎった。違和感は日に日に濃くなっていった。
その頃、正一の体にはまだ何の異変もなかった。けれど正一は、まるで先を見通しているかのように、身の回りのことを整え始めていた。
ある土曜の午後、一人の男が我が家を訪ねてきた。仕立てのいい背広を着た、落ち着いた物腰の人だ。
「洋子さん、久しぶりですね。」
弁護士の高橋さんだった。当時58歳。正一とは若い頃からの付き合いで、我が家の事情もよく知っている。
正一は高橋さんを書斎に通し、私にも同席するよう言った。座敷には見慣れない書類が広げられていた。
「そろそろきちんと整理しておこうと思ってな。」
正一は茶をすすりながら穏やかにそう切り出した。
「うちの財産のことだ。家のことも土地のことも、洋子さんと2人で築いてきたものを、後になって誰かに勝手にされないようにしておきたい。」
高橋さんは頷き、書類の意味を一つずつ説明してくれた。難しい言葉は使わない。私にも分かるように噛み砕いて話す人だった。
「奥さん、正一さんはあなたのことをとても信頼していますよ。だからこそ、こうして早めに手を打っておきたいそうです。」
私はその言葉の重みをまだ測りかねていた。
話が一区切りついた時、座敷の上の私の携帯が鳴った。賢太からだった。要件はやはり金の相談だ。融資の審査が長引いているから、また立て替えて欲しいという。
「分かった。後で振り込んでおくわ。」
短くそう答えて電話を切ると、正一と高橋さんが顔を見合わせた。
「洋子さん。」
正一の声はいつになく低かった。
「あいつは俺たちが助け続けるのを当たり前だと思ってる。金を渡すたびに、あいつの足腰は弱くなっていく。それが俺は怖いんだ。」
「でも、困っているのを放ってはおけないでしょう。」
「放っておけとは言わない。ただ、一度は自分の力で立たせないと、あいつは一生他人の足で歩くことになる。」
正一の言葉には、息子を思うがゆえの厳しさがあった。私は茶碗を包む手を止めて、じっとその横顔を見た。
高橋さんが静かに口を挟んだ。
「正一さんは賢太さんを見放したいわけじゃない。むしろ逆です。息子さんに本当の意味で自立して欲しい。そのための備えを、今のうちにしておきたいんですよ。」
その日、正一は一通の手紙も書いていた。私当てのものだ。万年筆を握り、机に向かう背中はいつもより丸く見えた。書き終えると、封をして高橋さんに託した。その中身を私が読むのは、正一が亡くなった後のことだった。
高橋さんは帰り際にもう一つ、私に念を押した。
「奥さん、権利の書類は全て奥さんのお名前で整えてあります。家も土地も。もし将来誰かがそれを勝手に動かそうとしても、奥さんの許しがなければ動きません。正一さんがそう望まれたんです。」
「なぜ、そこまで。」
私は問い返そうとしたけれど、正一が「今はいい」と首を振ったので、私は口をつぐんだ。
正一がなぜそこまで念押ししたのか、その時の私にはまだ測りかねていた。
書斎を出る時、正一が私の顔を見ていった。
「洋子さんは、俺がいなくなっても一人でちゃんと立てる人だ。俺はそれを知ってる。」
「縁起でもないことを言わないで。」
「本当のことだよ。あんたは若い頃からそういう人だった。俺はあんたのその強さに惚れたんだ。」
その声には、いつものしけさとは違う真っすぐな響きがあった。私は何と返せばいいのか分からず、ただ茶碗を片付けるふりをした。
高橋さんを門まで見送った時、彼はふと足を止めてこう言った。
「何かあったらいつでも私に連絡してください。正一さんとの約束ですから。」
玄関の内側では、いつの間にか来ていたのか、みさが廊下の柱の影に立っていた。
「お父さん、また難しいお話ですか?あんまり根を詰めるとお体に障りますよ。」
気遣うような言葉だったが、その目は書類の方へ向いていた。何を話していたのか、探るような視線だった。
その日、私は自分が思っているよりずっと守られていたのだと、後で知ることになる。正一が残してくれたのは財産だけではなかった。けれど、その穏やかな時間は長くは続かなかった。
その年の冬、正一が倒れた。朝、庭の金木犀に水をやっていた正一が、急に胸を押さえてうずくまった。私は救急車を呼び、病院へ付き添った。
診断は心臓の病だった。手術でなんとか一命は取り止めたものの、入院は長引くという。
「洋子さん、すまないな。金木犀の世話、頼むよ。」
病室のベッドで正一は薄く笑った。管に繋がれてもなお心配するのは、私と庭の木のことだった。
その日から、私は毎日病院へ通った。着替えを届け、手を握り、他愛のない話をする。40年連れ添った人のそばにいたい。ただそれだけだった。
ところが、賢太とみさの関心は別のところにあった。入院から2週間ほど経った頃、2人が病室へ来た。見舞いというより、査定に来たような顔だった。
「父さん、後のことは心配しないでいいよ。それより、家のことなんだけどさ。」
賢太は正一の枕元でそんな話を始めた。
「もし何かあったら、あの家どうするつもりなの?名義とかちゃんとしておかないと、後で揉めるだろ。」
「賢太。」
私は思わず声をあげた。病人の前でする話ではない。
けれどみさは、悪びれもせずに続けた。
「お母さん、こういうことは早めがいいんですよ。お父さんが元気なうちにはっきりさせておかないと。私たちだって、将来のことがありますから。」
正一は目を閉じたまま何も言わなかった。ただ、握った私の手にわずかに力がこもった。
病院の廊下で、私は2人を呼び止めた。
「あの人の前で、財産の話はやめてちょうだい。今はあの人が良くなることだけを考えて。」
「感情論で言われてもさ。」
賢太は面倒そうに息を吐いた。
「現実的に考えないと。父さんが働けなくなったら、家計だってどうなるか分からないんだから。」
家計?この子は、その家計を誰が回してきたのかも知らずにそう言った。私は返す言葉を飲み込んだ。
正一が入院している間に、2人の振る舞いは日に日に変わっていった。ある日、私が病院から戻ると、賢太が我が家の居間で間取りの図面のようなものを広げていた。みさは巻き尺を手に、壁の長さを測っている。
「お母さん、この和室、子供部屋にちょうどいいですよね。あと、この古いキッチン、丸ごと変えたいんです。」
「何を言っているの?ここはまだ正一さんと私の家よ。」
「まだって。お父さん、あの調子でしょ?今のうちに考えておかないと。」
みさは私の返事も待たずに、図面へ書き込みを続けた。夫が病と戦っている間に、2人はもうその家を自分たちのものとして描き始めていた。テーブルの上には家具店のカタログまで置いてあった。付箋の貼られたページには、私たちの家には不釣り合いな真新しいソファが映っていた。
正一の容態は一進一退を繰り返した。良くなったかと思えば、また熱を出す。医者の顔は日ごとに曇っていった。
私は病室に泊まり込むようになった。夜、正一の微かな息を確かめながら、椅子で朝を待つ。細くなった手を握ると、若い頃のぬくもりが指先に蘇えるようだった。
「洋子さん。」
ある夜、正一が目を開けて、かすれた声で言った。
「賢太のことはあんたに任せる。あいつがあんたを大事にするなら、これまで通り助けてやってくれ。だが、もしあんたを邪魔者扱いするようなら──」
そこで正一は一度言葉を切った。
「その時は、もう母親だからと我慢しなくていい。あんたの人生を、あんたのために使いなさい。」
私は頷くことしかできなかった。
それから数日後の明け方、正一は眠るように息を引き取った。手の中の温度が、少しずつ遠ざかっていく。40年隣にいた人が、もう目を開けない。その事実だけが、部屋にぽつんと残された。
病院に駆けつけた孫は、私と同じように泣いていた。けれど賢太とみさは、涙よりも先に段取りの話を始めた。
「葬儀屋、どこにする?会社の付き合いもあるから、あんまり見栄張るのは困るな。」
「駅前の斎場がいいですよ。設備も新しいし、回覧の方にも便利ですし。」
夫を亡くしたばかりの私の横で、2人はスマホの画面を付き合わせていた。葬儀の場所も、花も、香典返しも、私の希望はほとんど通らなかった。
「正一さんは昔からのお寺で送って欲しいと言っていたの。あの人にとってゆかりのある場所なの。」
「あそこ、古いじゃないですか。駐車場も狭いし、会社関係の方に失礼ですよ。」
みさは私の言葉を最後まで聞かなかった。正一が親しくしていた人へ私が直接連絡したいと言っても、みさは名簿を先に取り上げてしまった。
「お母さんのやり方だと地味すぎるんです。来てくださる方に失礼でしょう。」
喪主は私のはずだった。それなのに、いつの間にか私は家の外に置かれていた。
「お母さんは長い間の看病でお疲れなんですよ。判断も鈍っていらっしゃるでしょうし、ここは私たちに任せてください。」
耳当たりのいい言葉を並べながら、みさは葬儀の全てを仕切っていった。
そして葬儀の日、私が正一の遺影を見つめている間に、みさは親族への挨拶を勝手に引き受けていた。
「母は昔から家のことしか分からなくて、これからは私たちが支えていくつもりなんです。そうそう、母にはいずれ高齢者向けの住まいに移ってもらおうと思ってます。あの広い家に一人じゃ寂しいでしょうし。」
親族たちの視線が、哀れむように私へ集まった。まだ夫の骨も拾っていないのに、2人はもう私の居場所を親戚の前で決めていた。
私は何も言い返さなかった。正一を送るこの場を、争いで汚したくなかったからだ。
親族の中に一人、私を案じてくれる年配の女性がいた。正一の従姉に当たる人だ。
「洋子さん、本当に大丈夫なの?何かあったら、いつでも言ってちょうだいね。」
「ありがとう。今は正一さんを静かに送ってあげたいの。それだけで私は十分だから。」
そう答えるのが精一杯だった。悲しむ時間さえ、2人に奪われているようだった。
私は心の中で、遺影の夫に語りかけた。あなたが言っていたことの意味が、今ようやく分かってきました。
そして、葬儀の翌日がやってくる。
葬儀の翌日。まだ線香の匂いが残る家の中で、私は正一の遺影の前に座っていた。40年の時間が、淡々と浮かんでは消えていく。門の柱、廊下の軋み、庭の金木犀。そのどれにも、あの人がいた。
そんな私を、賢太とみさが居間に呼んだ。2人の後ろには、いつの間にか段ボールの山が積まれていた。
「母さん、今後のことを話したいんだ。」
賢太の声はどこか事務的だった。喪服も脱がないうちから、2人はもう次の段取りに入っていた。
「相続の手続きが済んだら、この家、建て替えようと思ってる。」
「建て替え?」
「この家、古いし使いにくいだろ。俺たち夫婦で暮らすには、今のままじゃ不便なんだよ。」
私は膝の上で手を握った。この家には、正一と積み重ねた日々が詰まっている。孫が走り回った廊下も、正一が好きだった縁側もある。不便だからと簡単に捨てられる場所ではない。
「せめて四十九日までは、ここで正一さんを供養させて。まだあの人を送ったばかりなのよ。」
「これから介護が必要になってからじゃ遅いんです。」
みさが待っていたように口を挟んだ。
「私たちにも私たちの生活があるんですよ。お母さんと同居なんて、無理に決まってるじゃないですか。」
「そうだよ。父さんが亡くなった以上、この家は俺が相続するんだ。母さんの面倒まで、俺たちには見られない。」
賢太は言い切った。父の骨壺がまだ温かいうちに、息子は私を「面倒」と呼んだ。
私は2人の顔をじっと見つめた。
「私は、どこへ行けばいいの?」
「そんなの、こっちが知りたいですよ。」
みさが呆れたように肩をすくめた。
「いい年して、行く当てもないんですか?だから、ちゃんと考えておいてあげたのに。」
するとみさは、勝ち誇ったように薄い冊子を取り出した。
「お母さんにはこちらがいいと思って。老人ホームのパンフレットです。年金で入れるところを探しておきました。見学もできますよ。」
「母さんも、その方が安心だろ。」
差し出されたパンフレットを、私は受け取らなかった。代わりに、居間をゆっくりと見回した。柱の傷、古い棚。正一が選んだ照明。この家のありとあらゆるものに、家族の時間が染みている。
「荷物をまとめて、今すぐ出て行ってくれ。」
賢太が低く押し殺した声で言った。気まずそうな顔をしていたが、そこに迷いはなかった。その横でみさが小さく笑っている。
その時、私の耳に正一の最後の言葉が蘇った。もしあんたを邪魔者扱いするようなら。その時はもう母親だからと我慢しなくていい。
あなたは、こうなることを見ていたのね。私は心の中で、そっと夫に語りかけた。
「母さんも、いい加減に聞き分けてくれよ。」
黙っている私に苛立ったのか、賢太が声を荒げた。
「父さんが亡くなった。今、この家のあるじは俺なんだ。これからは、俺たちの時代なんだよ。」
俺たちの時代。その言葉を、私は静かに受け止めた。長い間、家族のためにと自分を後回しにしてきた。その結果が、この段ボールの山なのだ。
私はふっと息を吐いた。不思議と涙は出なかった。
「分かったわ。」
そう答えると、私は未練を断ち切るように立ち上がった。
自分の部屋で、必要なものだけをスーツケースに詰めた。正一の写真、あの「賢太」と書かれたノート。それから着替えを少し。40年の暮らしから持ち出すものは、それだけで足りた。
引き出しの奥から、正一の万年筆も取り出した。みさに捨てられかけたあの万年筆だ。手のひらに包むと、まだ夫のぬくもりが残っているような気がした。
ノートの表紙を指でなぞる。「賢太」と書かれた正一の字。この帳面には39年分の記録が眠っている。息子が忘れてしまった時間が、ここには全て残っていた。
持っていくべきものと、置いていくべきもの。その区別はもうはっきりしていた。私が守るべきものは、この家の壁の中にはない。
荷造りを終えて戻ると、賢太がどこかほっとした顔をしていた。
「もう、荷造り済んだのか。」
「ええ。こういうのは、早い方がいいでしょ。お互いに。」
「あ、ああ。タクシー呼ぼうか。」
「迎えはもう呼んであるから大丈夫。」
私はキャリーバッグを持ち上げ、玄関へ向かった。慌てて立ち上がる賢太と、その後ろに続くみさ。
「お母さんが分かってくれてよかったです。このまま居座られたらどうしようかと思ってたので。」
「あまり悪く思わないでくれ。これは母さんのためでもあるんだから。」
「今までありがとう。さようなら。」
儀礼として玄関まで見送りに出た2人に、私はそう返した。そして、正一と暮らした家の扉をそっと閉めた。
外に出た途端、冷たい空気が頬に触れた。石畳の上を、キャリーバッグを転がしながら歩く。門の外には、いつの間にか黒塗りの車が止まっていた。スーツ姿の男が降りてきて、深く頭を下げる。後部座席の扉が、音もなく開いた。
私はもう一度だけ、家を振り返った。2階の窓辺から、賢太とみさがこちらを見下ろしている。心配ではなく、厄介払いが済んだという顔だった。私を追い出したことで、2人は全てを終わらせたつもりでいるのだろう。けれど、本当の始まりはこの扉の外にあった。
車に乗り込むと、皮張りの座席が疲れた体を包んだ。運転席の男は、行き先をもう承知していた。私は膝の上に正一の写真とノートを乗せた。窓の外を、見慣れた住宅街がゆっくりと流れていく。振り返らなくても、あの家の輪郭が背中で遠ざかっていくのが分かった。40年分の重さを、私は今、そっと下ろしたのだ。
私がこれからどこへ向かうのか。賢太とみさはまだ何も知らなかった。
車が止まったのは、都心の一等地だった。目の前には、空をつくような高層のタワーマンションがそびえている。地上55階建て。ガラスの壁が午後の光を跳ね返していた。
運転手が扉を開ける。降り立った私を、エントランスで一人の男が待っていた。仕立てのいい制服姿の、40代半ばの人だ。
「洋子様、お帰りなさいませ。」
沢口さんだった。このマンションを管理する会社の担当で、もう10年近く私の物件を任せている。
「沢口さん、長い間管理を任せきりにして、ごめんなさいね。」
「とんでもございません。いつでもお戻りになれるよう、整えてございました。」
沢口さんは深く頭を下げ、私を専用のエレベーターへ案内した。ボタンは最上階の55階を指している。
この最上階の部屋は、私の所有物だ。両親が残してくれた土地の一部を売却し、その資金で正一と2人、10数年前に手に入れた物件だった。長らくある会社の経営者へ貸していたが、ちょうど契約が切れて、部屋は空いていた。
買った時も、正一は表に出たがらなかった。
「洋子さんが選んだ物件なら、間違いない。名義もあんたにしておけ。俺はあんたの後ろで見てるよ。」
そう言って正一はいつも、私の判断を信じてくれた。派手に構えるのを嫌い、財産のことを人前で口にしない。それがあの人の流儀だった。だから賢太も、母がこんな部屋を持っていることなど想像したこともなかっただろう。
扉が開くと、広いリビングが目の前に広がった。窓一面に、都心の街並みが箱庭のように見下ろせる。夕暮れの光が床にまで届いていた。
私は持ってきた正一の写真を、その窓辺にそっと置いた。窓の外には、明かりを灯し始めた町がどこまでも広がっている。
「正一さん、まさかこんな形でここへ戻ってくるとは思わなかったわ。」
写真の中の夫は、いつものように穏やかに笑っている。40年前、あの古い家に嫁いだ日のことを思い出した。あの頃の私は、いつか自分の判断でこんな景色を見ることになるとは、想像もしていなかった。
派手な暮らしがしたいわけではない。ここは、夫を亡くした私がもう一度自分の人生を始めるための場所だ。そう思うと、背筋がすっと伸びた。
沢口さんが温かい茶を入れてくれた。
「洋子様、お部屋のこともお車のことも、何かご入用があればいつでもお申し付けください。会社の者にも、必要な範囲で共有してございます。」
「ありがとう。みんなをあまり煩わせないようにね。ここで働く人たちを不安にさせたくないの。」
沢口さんは深く頷いた。長く私の物件を見てきた人だ。多くを語らずとも、私の望みを分かってくれていた。
この夜、私は弁護士の高橋さんに電話をかけた。
「奥さん、こちらへ移られたと沢口さんから伺いました。お体は大丈夫ですか?」
「ええ、なんとか。高橋さん、これからいくつかお願いしたいことがあるの。」
私は膝の上であの「賢太」と書かれたノートを広げた。39年分の記録が、ページの隅々まで並んでいる。長い間、私は黙って耐えてきた。けれど、耐えることと目を閉じていることは違う。私はずっと、事実だけは記録に残してきた。
「正一さんが残してくれたものと、これまで賢太に渡してきたお金。その全部を、一度きちんと整理したいの。私の思い込みではなく、事実として。」
「承知しました。税理士にも声をかけて、正確なところを出しましょう。」
「それから、賢太の事業の連帯保証のこと。あの契約がもうすぐ更新の時期でしょう。あれも確認しておいて欲しいの。」
「はい。更新の期限はこちらで抑えてあります。奥さんのご判断がいるところですから、勝手には動きません。」
私は相手を潰したいわけではなかった。ただ、こんな風に軽く扱われたまま終わるのだけは避けなければならない。それが、正一と私が築いてきたものへのけじめだった。
高橋さんの声はいつも通り落ち着いていた。それが今の私には何より心強かった。
電話を切った翌日のことだった。賢太は郊外のあの家を早速建て替えるつもりで、知り合いの不動産会社と内装業者に話を持ちかけたらしい。母親を追い出したその日のうちに、もう次の段取りに入っていたのだ。
「相続で俺がこの家を継ぐことになったんだ。古いから丸ごと建て替えたい。」
賢太は業者にそう説明したという。自分の家を自分の裁量で好きにできる。そう信じきっていた。ところが、話はそこで止まった。
業者が登記の内容を確認したところ、あの家は土地も建物も賢太名義ではなかった。それどころか、亡くなった正一の名義ですらなかった。所有者の欄には、私の名前があった。瀬洋子。ただ一人の名だった。
「大変申し上げにくいのですが、所有者はお父様ではなく、お母様のようです。ご本人の許可がなければ、解体も改築も勝手には進められません。」
業者はそう言って、賢太の依頼を丁重に断った。
父の家。賢太がそう信じて疑わなかったあの家は、初めから私の名義だったのだ。
なぜ父ではなく母なのか。賢太はその意味がまるで分からなかっただろう。ただ、母さんが何か仕組んだに違いないと、そう思い込んだに違いない。
業者からその話を聞かされた賢太は、電話口で声を荒げたそうだ。何かの間違いだ。父の家に決まっていると。だが登記は嘘をつかない。所有者は初めから私だった。その事実が、賢太の足元を揺らし始めていた。
翌朝、私の携帯には賢太からの着信が何十件も残されていた。
その朝、私は賢太からの電話にようやく出た。繋いだ途端、耳を劈くような声が飛び込んできた。
「母さん、この家が母さん名義ってどういうことだ?」
「そのままの意味よ。」
「そのままの意味って何だよ。あの家は父さんの家だっただろう。俺が継ぐはずだったんだ。」
賢太は業者から所有者の名前を聞かされて、頭に血が上っているようだった。
「父さんが死んだんだから、家も財産も長男の俺が受け取る。それが当たり前だろ。なのになんで母さんの名前になってるんだよ。」
「当たり前ね。私は静かに、穏やかに返した。あなたはあの家を父さんのものだと思い込んでいただけよ。誰の名義か、なんて一度でも確かめたことがあった?」
電話の向こうで賢太が黙った。図星だったのだろう。
「大体さ、気を取り直したように賢太が続ける。家がそうだとしても、父さんの預金とか保険金とかは俺が相続するんだよな。息子は俺だけなんだから。そのお金で会社も立て直せるはずだ。」
預金、保険金。賢太の頭の中にはまだ、父の残した大きな財産という幻がしっかりと居座っていた。
「あなたは父さんがいくら残したと思っているの?」
「そりゃ、あの家に預金に退職金だってあっただろう。少なく見積もっても、それなりの額に。」
私は思わず込み上げそうになる苦い笑いを抑えた。賢太は父の財産の中身を何ひとつ分かっていなかった。ただ、たくさんあると信じているだけだった。
「とにかく、話がある。今からそっちへ行く。」
「いいえ。話は弁護士を通してちょうだい。私一人ではもう受けないわ。」
「弁護士って何だよ。親子の話になんでそんなものを挟むんだ。」
「親子だからと曖昧にしてきた結果が、これでしょう。もう口約束では済ませられないの。」
私は電話を切った。すぐにまた着信が入ったが、放っておいた。画面には賢太の名前が何度も点滅していた。
着信の合間に、短いメッセージも届いていた。みさからのものだった。
「お母さん、水臭いじゃないですか。家族なんだから、ちゃんと話し合いましょうよ。」
昨日私を追い出した人が、今日は家族を口にする。その言葉の軽さに、私は返事をする気も起きなかった。
思えば正一は、何年も前からこの日が来ることを見越していたのかもしれない。だからこそ、家も土地も保険も全てを私の名義で整えておいた。あの人の用心深さが、今になって私を守っていた。
その日の午後、私は高橋さんと税理士を最上階の部屋へ招いた。テーブルには、整理された書類が並べられている。賢太が信じてきたものが、事実の前でどう崩れるのか。私はそれをはっきりさせておきたかった。
「奥さん、状況を整理しましょう。」
高橋さんが書類を一枚ずつめくりながら説明した。
「まず、郊外のご自宅。土地も建物も、奥さんの単独名義です。これは正一さんが生前に望まれたことでした。タワーマンションのこの部屋も、同じく奥さんの所有です。他にも奥さんが管理されている物件がいくつかあります。それについては、また改めて。」
税理士が続けて口を開いた。
「正一さんの預金についてですが、その多くはご夫婦の老後の生活資金として積み立てられたものです。賢太さんが相続できると思い込んでいた額とは、だいぶ違います。保険金についても、賢太さんが思っているようなものではありません。」
税理士が書類の一枚を示した。
「正一さんが残された保険の受け取り人は、奥さんです。賢太さんではありません。これも、正一さんが生前にきちんと指定されていたことです。」
そして高橋さんが私の顔を見た。
「賢太さんはすでに、長年にわたって高額の生前贈与を受けています。学費、結婚、車、事業資金、毎月の仕送りも含めて、その総額は相続で受け取れると期待していたものを遥かに超えているんです。」
私はあの「賢太」と書かれたノートを、テーブルの上に置いた。39年分の記録。息子が受け取ってきた金の一円まで残された記録だ。
表紙をめくると、一番古いページに賢太が生まれた年の日付がある。粉ミルク、肌着、小さな靴。金額の隣に、私の細かい字が並んでいる。ページをめくるごとに、賢太が育っていく。中学の制服、高校の修学旅行、大学の入学金、初めての車。そのどれもが私の手を通り、私が支えたものだった。あの頃の賢太の暮らしが、その数字の並びにそのまま刻まれている。
「大学の4年間で学費と仕送りだけでざっと数百万。就職の時の車の頭金。結婚式の費用。新居の資金。孫が生まれてからの祝いと私立中学の学費。そして20年近く、毎月10万円。」
私はページを指でたどりながら、そらんじるように言った。数字は全て頭に入っていた。
「事業を始めた時の運転資金と、その後の穴埋めを合わせれば、賢太が相続で受け取れると思っている額の何倍にもなるわ。毎月の10万円も、孫の学費も、私が自分の判断で出してきたものだった。父の財布から自然に湧いてくるお金など、どこにもなかった。」
「これを賢太さんは知らないのね。」
「知らないでしょう。知ろうとしなかったというのが、正しいかもしれません。」
「不思議なものね。あの子は自分が受け取ったものは全部忘れて、これから受け取るはずのものだけを、こんなに正確に数えている。」
「よくあることです。もらう側はもらった額を軽く見積もる。当てにする側は当てにした額を重く見積もる。賢太さんはその両方をやっているだけです。」
高橋さんの言葉が、静かに胸に落ちた。私はもうずっと前から、全てを調べ備えていた。ただ、それを賢太に見せる時がまだ来ていなかっただけだ。感情で怒鳴っても何も残らない。事実を整え、記録を残し、正しい手順で進める。それが、経理をしていた頃から変わらない私のやり方だった。
賢太が信じてきた「当たり前」が、音を立てて崩れていく。けれど、それはまだ崩壊の入り口に過ぎなかった。本当に崩れるのは、これからだった。
それから数日、賢太の生活は目に見えて乱れ始めた。まず、事業の資金繰りだった。賢太の内装会社は以前から銀行の融資で何とか回してきた。元々決して楽な経営ではなかった。何度も資金が足りなくなり、その度に私が黙って穴を埋めてきた。賢太はそれを、たまたま運が良かったくらいにしか思っていなかっただろう。
その借金には、私が連帯保証人として名をつらねている。ちょうどその契約が更新の時期を迎えていた。銀行から賢太の元へ、確認の連絡が入ったらしい。連帯保証人である瀬洋子様の意向のご確認をさせてください、と。
賢太は慌てて私に電話をかけてきた。声の調子が、昨日までとは違っていた。
「母さん、銀行が保証の更新の書類を送ってくれって言ってるんだ。いつも通り、判を押してくれるよな。」
「いつも通りね。私は手元の書類に目を落とした。高橋さんが用意してくれた、保証契約の写しだ。賢太、あなた銀行に追加の融資を頼んだそうね。断られたと聞いたけれど。」
「なんでそれを──」
「あなたが社長だと名乗っても、まともに取り合ってくれなかったでしょう。銀行はあなた個人ではなく、後ろにいる保証人を見ているのよ。」
電話の向こうで賢太が黙り込んだ。図星を突かれた時の、あの沈黙だった。
「賢太、あなたの会社が回ってきたのは、私が保証人になっていたからよ。それを知っていた?」
「そりゃ、母さんが保証人なのは知ってるけど、それが何だよ。」
「銀行があなたに融資をしてきたのは、あなたの会社の力を信じたからじゃないの。私の資産が後ろにあったから。それが外れたら、どうなると思う?」
電話の向こうで、賢太が息を飲んだ。自分の会社が自分の実力で回っていると信じてきた。その足場が、実は母の名義と資産で支えられていたのだと、賢太はようやく気づき始めていた。車も家も事業も、賢太が自分の力で手に入れたと思っていたものは、そのほとんどが私が黙って支えてきたものだった。
「なあ、母さん。」
賢太の声が急に猫なで声に変わった。
「昔からさ、母さんには世話になってきたよ。だから、これからも頼りにしてるんだ。保証の更新頼むよ。それがないと、うちの会社本当に立ち行かなくなるんだよ。」
昨日私を家から追い出した口が、今日は「頼りにしている」という。私はその変わり身の速さにもう、驚かなくなっていた。
「母さん、まさか更新しないなんて言わないよな。それがなくなったら、うちは──」
「その話はまた改めてしましょう。今は事実を確かめている段階よ。」
私はそう答えるにとどめた。まだ切り札を切る時ではない。
賢太はなおも食い下がった。
「頼むよ。子供の学費だってあるんだ。母さんなら、これくらい何でもないだろう。あんな部屋を持ってるんだから。」
あんな部屋を持っているんだから。賢太は私の資産を、自分の困り事を片付ける財布としか見ていない。その考えの浅さに、私は心の底が冷えるのを覚えた。
「あなたの子供の学費のことは、また別に考えます。今日のところは、これで。」
私は電話を切った。
電話を切って間もなく、今度はみさから着信があった。出るといつもの猫なで声だった。
「お母さん、賢太さんから聞きました。保証の更新、よろしくお願いしますね。あの人、あれで責任感だけは強いんですから。会社を潰すわけにはいかないんです。」
「みささん、あなたは昨日、私に何て言ったか覚えている?」
「え?昨日って──」
「行く当てもないのかと。だから施設を探しておいてあげたと。そう言ったわよね。」
みさはしばらく黙り込み、それから言葉を濁して取り繕った。
「あれは言葉のあやですよ。お母さんの体を心配して──」
私はそれ以上聞かずに、電話を切った。
高橋さんが傍らで書類を整えながら言った。
「奥さん、保証の更新をしないと決められるなら、期限までにその旨を銀行へ伝える必要があります。更新しなければ、銀行は賢太さんの会社にこれまで通りの融資を続けられなくなるでしょう。それが何を意味するか、賢太さんもいずれ理解します。判断は、奥さんに委ねられています。」
「ええ、分かっているわ。」
私は窓辺の正一の写真を見た。一度は自分の足で立たせないと、あいつは一生他人の足で歩くことになる。あの人の言葉が、今になってはっきりと意味を持ち始めていた。
私が保証人でいる限り、賢太は自分の会社の本当の姿と向き合わない。銀行も、母の後ろ盾がある限り賢太を甘く見続ける。それは賢太のためにもならない。
長い間、私は困っている息子を放ってはおけないと援助を続けてきた。けれど、その援助こそが賢太から立ち上がる力を奪っていたのだとしたら。私は自分がしてきたことの意味を、初めて別の角度から見つめ直していた。
甘やかしたのは私たちだ。正一のあの言葉が、今なら痛いほど分かる。手を離すことも、また親の務めなのだ。長年、私はよかれと思って手を貸してきた。だが、その手こそが賢太の背筋を曲げていたのかもしれない。今度は、手を引く番だった。
沢口さんが必要な物件の資料を届けてくれた。高橋さんは法的な段取りを一つずつ固めていく。かつて私を「家のことしか分からない年寄り」と決めつけた2人。けれど、私の周りには長年私を支えてくれた人たちがいた。私は一人ではなかった。
奪われたものを取り戻し、私の人生をもう誰にも軽く扱わせない。そう心に決めた翌日のことだった。賢太とみさは、あの家の業者からこのマンションのことを聞きつけ、とうとう押しかけてきた。
受付から来客を告げる連絡が入った。賢太とみさがエントランスで私に会わせろと騒いでいるという。私は2人を最上階へ通すよう伝えた。ただし、沢口さんに同席を頼んだ。
専用のエレベーターの扉が開くと、2人が落ち着きなく入ってきた。広いリビング、一面のガラス窓、遠くまで見渡せる街並み、重厚なテーブル、壁一面に整えられた本棚。その光景に、2人は目を奪われていた。自分たちの知っている「家のことしか分からない母」とこの部屋とが、どうしても結びつかないのだろう。2人はしばらく口も聞けずに、立ち尽くしていた。
「母さん、ここ、何なんだ?本当に母さんの部屋なのか?」
賢太はまるで狐につままれたような顔をしている。昨日まで母を「面倒」と呼び、老人ホームのパンフレットを突き付けてきた人間とは思えないほど、その声は弱々しかった。
「関係者以外は入れないはずの、こんな高いところに、どうして母さんがいるんだ?」
「ここは私の家だからよ。」
私が短くそう答えると、賢太は言葉を失ったように瞬きを繰り返した。
みさは部屋の隅々を、ねめ回すように見回していた。そして、その顔に貼り付けたような笑みが戻ってきた。
「お母さん、こんな立派なお部屋があるなら、最初から言ってくださればよかったのに。」
「そうだよ。こんなところを持ってるなんて、水臭いじゃないか。」
態度がまるで違っていた。昨日の冷たさが嘘のようだった。みさが媚びるような声で近づいてくる。
「ねえ、お母さん。見たところ、お部屋も随分余ってますよね。私たち家族も、ここで一緒に暮らせますよね。その方がお母さんも寂しくないでしょう。」
一緒に暮らす。私は2人の顔をまじまじと見た。
「昨日まで私を家から追い出そうとしていた人たちと、なぜ一緒に暮らすの?」
静かにそう問うと、賢太の顔がこわばった。
「あれは──あれは、みさに言われて、仕方なく。」
賢太が隣の妻へ責任をなすりつけた。
「ちょっと賢太さん、私のせいにするの?あなた、だってこの家は自分が継ぐんだって、乗り気だったじゃない?」
「俺は母さんを追い出すなんて言ってない。お前が同居は無理だって──」
「はあ?あなた、あの家は自分が相続するんだから、母さんには出ていってもらうしかないって、はっきり言ったじゃない。忘れたの?」
「それは、お前が介護なんて絶対に嫌だって毎晩うるさく言うからだろう。」
「私のせいにしないでよ。老人ホームのパンフレットを探してこいって言ったの、あなたでしょう。」
2人は私の目の前で、責任のなすり付け合いを始めた。夫を亡くしたばかりの母を追い出した罪を、互いに押し付け合っている。その姿は見苦しいとしか言いようがなかった。私はただ黙って、それを眺めていた。反論する必要もない。2人が口にする言い訳の一つ一つが、そのままあの日の真実を語っていた。
みさがはっと気づいたように取り繕う。
「お母さん、誤解しないでください。私はお母さんの老後を心配して、安心して暮らせる施設を提案しただけなんです。追い出そうなんて──」
「そんな施設をね。」
「そうですよ。あんな広い家に一人でいたら、いつ倒れるか分からないでしょう。私はお母さんのためを思って──」
私のため。その言葉を、2人は何度使えば気が済むのだろう。
「どうせ一人じゃ心細いんでしょ。だったら、私たちが一緒にいてあげるって言ってるんです。感謝して欲しいくらいですよ。」
みさはそう言ってのけた。追い出した相手に向かって住ませろと言い、その上で恩を着せようとする。その厚かましさに、私はもう驚かなかった。
「それに、お母さんももう年なんですから、いつ何があるか分からないでしょ。私たちがそばにいれば、安心じゃないですか。ねえ、賢太さん。」
「あ、ああ。そうだよ、母さん。俺たち家族なんだから、冷たいことは言うなよ。」
家族。2人は都合のいい時だけ、その言葉を持ち出す。昨日は荷物をまとめて出ていけ。今日は一緒に住ませてくれ。2人にとって、私は都合よく開いたり閉じたりする便利な扉に過ぎないのだ。
みさは部屋の中をゆっくりと歩き回りながら、まるで品定めをするように言った。
「それにしても、こんなに広いお部屋をお母さん一人で管理するなんて、大変でしょう。よかったら、私が代わりに切り盛りしてあげましょうか。お金の管理とか、お母さんには難しいでしょうし。」
お金の管理。かつて私を「家計簿ばかりつけている古い人」と笑った口が、今はこの資産を管理させろという。私はその言葉を聞き流した。
賢太も身を乗り出してくる。
「なあ、母さん。そういうことなら、俺が会社を畳んで、母さんの資産管理を手伝うってのはどうだ?俺、経営のことなら分かるしさ。悪い話じゃないだろ。」
自分の会社も回せない人が、私の資産を管理するという。2人の言葉はどこまでも自分たちの都合でできていた。私はその図々しさに、もう呆れる気も起きなかった。ただ、2人が自分の口で自分の本性を語っていくのを聞いていた。
私は深く息を吸った。黙って耐えてきた時間は、もう終わりだ。家族だからと許してきたことにも、限りがある。正一がいなくなった。今、私が真実を黙っている理由はどこにもなかった。
沢口さんが2人に飲み物を運んできた。その落ち着いた佇まいを見て、みさがようやく自分たちが間違った場所にいることに気づいたようだった。
「お母さん、この人は誰なんですか?どうして私たちのことを、そんな目で見るんです?」
「この方は、長い間私を支えてくれている人よ。あなたたちが気づかなかっただけ。」
賢太がごくりと唾を飲み込んだ。強気だった2人の勢いが、少しずつそがれていくのが分かった。
「分かったわ。それなら、全部お話ししましょう。私が今まで何をしてきたのか。あなたたちが何の上に暮らしてきたのか。」
私がそう口を開くと、賢太とみさは互いの顔を見合わせた。その顔には、初めて拭いきれない不安の色が浮かんでいた。
私は2人を来客用の椅子に座らせた。沢口さんがテーブルに数枚の資料を並べる。
「まず、私の昔の話から始めましょう。そこを知らないと、今の状況が分からないでしょうから。」
賢太がけげんそうに眉を寄せた。
「昔の話って…母さんはずっと専業主婦だっただろう。家のことしかしてこなかったじゃないか。」
「表向きはね。」
私はそう前置きした。
「結婚する前、私は不動産会社で経理をしていたの。数字を扱う仕事よ。土地や建物の値打ちを見て、どう活かすかを考える。そういう世界に、私は長くいたの。」
「経理って、そんな話聞いたことないぞ。」
「話さなかったのよ。正一さんと相談して、賢太のためには母親としての役目に徹しようと決めたの。でもね、家庭を守ることと、外で判断を下すことは、両立できるものなのよ。」
私は実家のことを話した。地方にいくらか土地を持つ家だったこと。両親が亡くなった時、その土地の多くを私が受け継いだこと。その土地を、私はただ寝かせておかなかった。扱いにくい土地を整理して、人に貸せる形にした。宿泊施設や賃貸の建物に変えていった。正一さんはいつも私の後ろで支えてくれた。2人で時間をかけて、育ててきたのよ。
思い出すのは、若い頃の正一の姿だ。私が図面を広げて悩んでいると、あの人はいつも茶を入れて隣に座った。洋子さんがいいと思ったなら、それでいい。俺はあんたの見る目を信じてる。派手な表には決して出ず、名前も表に出さず、ただ黙って私を支える。それが正一の流儀だった。だから、私たちが何をしているのか、外の人間は誰も知らずにいた。賢太でさえも。
失敗しないよう、私は毎日数字と向き合い続けた。景気が悪い年も、じっと耐えた。そうして少しずつ、財産は形になっていった。それは派手さとは無縁の、地道な積み重ねだった。
沢口さんが手元の資料を差し出した。私が所有し、あるいは管理している物件の一覧だった。このタワーマンションの一室、郊外のあの家、地方の宿泊施設、都心のいくつかの賃貸物件。それらの名前が、紙の上に並んでいる。
賢太がその一覧を食い入るように見た。見る見るうちに、顔から血の気が引いていく。
「これ、全部母さんのものなのか?」
「こんなに。私が所有しているか、実質的に管理しているものよ。両親から受け継いだ土地を元に、地道に増やしてきたの。」
「嘘だろ?何かの間違いじゃないのか?こんな数、ありえない。」
「こちらは正当な資料です。」
それまで黙っていた沢口さんが、初めて口を開いた。
「評価額の数字も、現時点で確認できる範囲のものを反映しております。お疑いでしたら、ご自身でお調べいただいて構いません。」
その落ち着いた声が、資料の信憑性を裏付けていた。賢太は返す言葉を見つけられずにいた。資料の数字は、賢太の知る母の姿とあまりにかけ離れていた。エプロンをつけて台所に立つ母。その母が、これだけのものを一人で動かしていた。
みさは口を半分開けたまま、資料を睨んでいた。信じたくないという顔だった。
「そんな…お母さんが、こんな…。だって、いつもエプロンをつけて、台所にいたじゃないですか。」
「エプロンをつけて台所に立つ人間が、数字を読めないと誰が決めたの?」
私が静かにそう返すと、みさは言葉に詰まった。私を「家のことしか分からない年寄り」と決めつけていたのは、2人の思い込みに過ぎなかった。
賢太の額に汗が滲んでいた。
「じゃあ、父さんの会社より、母さんの方がずっと──」
「比べるものではないわ。正一さんと私は、それぞれ自分の決めた道を歩んだ。ただそれだけのことよ。」
その時、みさが突然、賢太に食ってかかった。
「ちょっと賢太さん、あなた、実家はそんなにお金がないって言ってたじゃない。だから、早く相続って──」
「話が全然違うわ。俺だって知らされてなかったんだよ。母さんがこんなの隠してたなんて。」
「隠してたって?あなた、息子なのに母親のことも分かってなかったの?しっかりしてよ。私、あなたの家は資産家だって聞いてたから、一緒になったのに。」
「それ、今関係ないだろ。」
「あるよ。あなたがいずれ全部自分のものになるって言うから、私は広い家に住めるって信じてたの。それが全部お母さんのものだったなんて。」
2人はまた、責任のなすり付け合いを始めた。相続で楽をしようと組んでいた夫婦の間にはっきりと、亀裂が入り始めていた。私はその言い争いを、口を挟まずに眺めていた。みさの口から漏れる本音が、2人がどんな計算でこの家を欲しがっていたのかを、はっきりと物語っていた。
「どうして黙ってたんだよ。」
賢太が恨めしそうな目で私を見た。
「言ってくれれば、俺だって──俺たちだって、母さんにもっと、もっと優しくした。」
私はその言葉を引き取った。
「私が資産を持っていると知っていたら、あなたたちは私を追い出さなかった。そうね。でも、それは私を敬っているのではなく、私のお金を敬っているだけよ。何も持たない母親でも大事にできて、初めて家族でしょう。」
賢太は口をつぐんだ。反論の言葉が見つからなかったのだろう。
私はその様子を眺めながら思った。2人は私を家から追い出せば、それで終わりだと思っていた。けれど、本当の始まりはそこからだったのだ。
「でもね。」
私は2人の言い争いを遮った。
「あなたたちが本当に驚くのは、この資産の話ではないの。なぜ郊外のあの家まで、私の名義になっているのか。その理由は、まだ話していないわ。」
賢太がはっと顔をあげた。まだ、最大の理由は明かされていなかった。
賢太は資産の一覧よりも、一つのことに引っかかっていた。
「なあ、母さん。他の物件は母さんが自分で買ったって言うなら、まだ分かる。でも、あの家は違うだろう。」
賢太の声が震えていた。
「あの郊外の家は、俺が生まれる前から父さんと母さんが住んでた家だ。父さんが働いて建てた家だろ。それがどうして、母さん一人の名義になってるんだ。父さんの名前がどこにもないなんて、おかしいじゃないか。」
それは当然の疑問だった。夫婦で暮らした家なら、普通は夫の名義か、せめて共有になっているはずだ。それが私一人の単独名義になっている。しかも、正一が生前にわざわざそう整えていた。
「昔からそうだったのか?それとも、途中で名義を変えたのか?」
賢太が食い下がる。
「もし途中で変えたなら、いつだ?なんでだよ。父さんは、なんでそんなことをしたんだ?」
私はすぐには答えなかった。その理由を口にすることは、賢太にとって資産の話よりもずっと重い意味を持つ。私はそれを話すべきかどうか、迷っていた。
正一は生前に、一度だけ私に言ったことがある。あの件は、いつか賢太が母親を大事にできる人間になったら、水に流して忘れさせてやろう。だが、もし逆のことをするようなら、その時はあいつ自身に思い出させるしかない。
あの時の正一の横顔を、私は覚えている。息子を思う気持ちと、突き放さねばならないという覚悟が、その言葉には同居していた。
今、賢太は母親を大事にするどころか、家から追い出した。正一が想定していた「逆のこと」を、そのままやってのけたのだ。だとしたら、もう黙っている理由はない。
黙っている私を見て、高橋さんが代わりに口を開いた。
「賢太さん、お母様の名義になっているのには、はっきりとした理由があります。正一さんがそうせざるを得なかった。そういう出来事が、昔あったんです。」
「そうせざるを得なかった?」
賢太の顔色が、さっと変わった。ただ驚いたのとは違う変わり方だった。何かを思い出しかけて、それを慌てて打ち消すような、そんな顔だった。
「まさか──いや、そんな──」
賢太は口の中で何かをつぶやき、それから首を振った。
「なんだよ、それ。もったいぶらないで、はっきり言えよ。」
声が上ずっていた。強がってはいるが、その目の奥には隠しきれない怯えが揺れていた。私はその様子を見て、少しだけ胸が痛んだ。賢太は心のどこかで、覚えているのだ。自分が何をしたのかを。
「どういう意味だ?何があったんだよ。」
「それは、私の口から言うべきことではありません。」
高橋さんは首を横に振った。
「正一さんご自身が、いつか賢太さんに伝えるつもりであるものを、残されています。今日、それをお見せするのが一番いいのかもしれません。」
「あるもの?」
その言葉に、賢太もみさも身を固くした。
「ちょっと、賢太さん。あなた、お父さんに何かしたの?」
みさが小声で夫に詰め寄った。その顔には、これまでの強気とは違う、別の不安が浮かんでいた。夫が何か隠している。そのことに、妻の勘が働いたのだろう。
「うるさいな。俺は何もしてない。」
賢太はそう言い捨てたけれど、その声には力がなかった。膝の上で握った拳が、小刻みに震えている。
私はそんな2人を見つめながら、鞄に手を伸ばした。今日という日が来ることを、正一はどこまで見通していたのだろう。あの人は自分がいなくなった後のことまで、ちゃんと考えて備えていた。私が今こうして落ち着いていられるのも、全てはあの人が残してくれたもののおかげだった。
私は膝の上に置いていた鞄から、あの「賢太」と書かれたノートを取り出した。39年分の記録が眠る、古い帳面だ。
賢太がそのノートに目を止めた。表紙の自分の名前を見て、何かを思い出したように喉を鳴らす。
「それ、前に家で見たことがある。」
「そうね。あなたが子供の頃からずっと、台所にあったものよ。」
だが賢太は、それが何を記録した帳面なのか、一度も確かめようとはしなかった。自分の名が書かれた表紙を、ただの家計簿だと思い込んでいたのだろう。
「これは、あなたが生まれてから今日まで、私があなたに渡してきたお金の記録よ。始まりは粉ミルク代。」
テーブルに置かれたノートを、賢太が呆然と見つめる。
「でも、このノートの本当の意味は、お金の記録だけじゃないの。最後のページを見れば分かるわ。」
私はまだページを開かなかった。その前に、賢太に見てもらわなければならないものがあった。正一が自分の言葉で語った、あの記録だ。
「高橋さん、あれをお願いできますか?」
「はい。」
高橋さんが携帯端末を取り出し、壁の大きな画面に繋いだ。賢太がその手元を、食い入るように見ている。
「な、なんだよ。何を見せる気だ。」
「あなたのお父さんが、あなたのために残したものよ。」
私がそう答えると、賢太は喉を鳴らした。逃げ出したいような、けれど確かめずにはいられないような、そんな顔だった。
これから賢太が知るのは、資産の額でも名義の話でもない。父が息子に何を見ていたのか、その真実だった。その理由を、これから夫自身が語り始める。
画面に正一の姿が映し出された。病室ではなく、あの郊外の家の書斎だ。まだ元気だった頃の正一が椅子に腰かけ、こちらをまっすぐ見ている。賢太が息を飲む音が聞こえた。
「賢太。これを見ているということは、俺はもうこの世にいないんだろうな。」
正一の声が部屋に響いた。低く穏やかで、けれど芯のある声だった。
「お前に、話しておかなければならないことがある。19年前のことだ。」
19年前。その言葉に、賢太の体がびくりと揺れた。
「あの頃、お前は事業を始めたばかりで、金に困っていた。銀行から追加の融資を受けたくて、担保を探していたな。そしてお前は、俺と母さんの家の権利証と実印を、黙って持ち出した。」
賢太の顔から、完全に血の気が引いた。
「お前はあの家を担保に入れて、金を借りようとした。親に断りもなくだ。もしあのまま話が進んでいたら、俺たちは家を失っていたかもしれない。」
みさが隣で息を詰めた。賢太を見る目が、みるみる変わっていく。
「気づいたのは、母さんだった。書類のわずかな動きから、母さんは全部を見抜いた。そして、お前が取り返しのつかないことになる前に、お前が本当に必要としていた金を、正規の形で立て替えた。担保の話も、母さんが自分で先方に頭を下げて、白紙に戻したんだ。あの時、母さんがどれだけ走り回ったか、お前は知らないだろう。必死で、家を守ったんだ。お前の会社が今も続いているのは、あの日、母さんがお前の尻ぬぐいをしたからだ。お前が実力で勝ち取ったものは、一つもない。」
正一の言葉は厳しかった。けれど、その底には息子への深い情があった。
私は当時のことを思い出していた。あれは19年前の春だった。金庫の書類を整理していた私は、家の権利証と実印がないことに気づいた。心当たりは、一つしかなかった。賢太だ。
問い詰めると、賢太は震えながら白状した。事業の資金繰りに行き詰まり、親の家を担保に金を借りようとした。そう打ち明けた息子の顔は、紙のように白かった。
「頼むよ、母さん。今返せば、まだ間に合うんだ。でも、金がなくて──」
そう言って泣きつく賢太を、私は責めなかった。責めても、何も解決しない。
私はすぐに動いた。融資の話を持ちかけていた先へ自分で出向き、深く詫びて、担保の話を白紙に戻してもらった。賢太が本当に必要としていた資金は、私が正規の形で立て替えた。
全てを終えて家に帰ると、正一が玄関で待っていた。あの人は私から話を聞くと、長い間黙って腕を組んでいた。
「警察に突き出すべきかもしれん。」
低い声で正一はそう言った。
私は首を振った。
「この子は、まだやり直せます。一度だけ、目をつぶってあげましょう。その代わり、2度と同じことができないように、家も土地も私の名義にしておきましょう。」
正一はしばらく考えてから、頷いた。
それが、全ての名義が私になった本当の理由だった。私はそのことをずっと、誰にも言わなかった。息子の恥を表に出したくなかったからだ。賢太が2度と同じことをしなくて済むように。
「あの時、俺はお前を警察に突き出すこともできた。だが、母さんが止めた。この子はまだやり直せると。だから、俺たちはあのことを誰にも言わなかった。お前を守ったんだ。」
賢太の唇が震えていた。
「その代わり、俺たちは決めた。家も土地も財産も、全て母さんの名義に一本化する、とな。お前が2度と、親の財産を勝手に動かせないように。それがあの時の、精一杯の親心だった。」
画面の中の正一が、少し身を乗り出した。
「賢太。お前が忘れたふりをしていることを、俺はずっと知っていた。それでも、お前が母さんを大事にしてくれるなら、この話は墓まで持っていくつもりだった。」
正一の声が、初めてわずかに沈んだ。
「だが、もしお前が母さんを粗末に扱うようなら、その時は思い出しなさい。お前が今ある暮らしは、あの日、母さんが黙って守ってくれたものの上に成り立っているんだと。」
映像はそこで途切れた。部屋に、重い沈黙が落ちた。賢太は画面を見つめたまま、身動きもできずにいた。忘れたふりをして心の奥に押し込めていた過去。それを、死んだ父に正面から突きつけられたのだ。
「賢太さん。」
最初に口を開いたのは、みさだった。声が震えている。
「今の、本当なの?あなた、親の家を勝手に担保に入れようとしたの?そんな人だったの?」
「違う。いや、あれは昔のことで──」
「昔のことじゃないでしょ。あなた、そのことをずっと隠して、私と結婚したの?それどころか、今度はお母さんを追い出して、この家を全部自分のものにしようとして──」
みさの目に、夫を見る軽蔑の色が浮かんでいた。自分も散々追い出しに加担しておきながら、都合が悪くなると真っ先に夫を切り捨てようとする。その身勝手さも、また2人らしかった。
「お前だって、一緒になって母さんを追い出したじゃないか。」
「私はあなたが相続できるって言うから、信じただけよ。まさか、女癖がある人だなんて──」
夫婦の間の亀裂は、もう修復できないほど深くなっていた。
私はテーブルの上のノートを開いた。一番最後のページ。あの春、正一が帳面の余白に書き残した数行だ。そこには私の字ではなく、正一の字でこう記されていた。
「この春、賢太の借金を始末した。家の名義は洋子に。これでいい。あいつが気づくのを、待つ。」
「この帳面は、お金の記録だけじゃないの。」
私は賢太に言った。
「あなたが忘れようとした日のことも、ここに残っている。お父さんの字でね。」
賢太は崩れ落ちるように、その場に手をついた。
「覚えてる。覚えてるよ。あの時、俺は──」
そこから先の言葉は続かなかった。肩が小刻みに震えている。19年間、賢太はその罪を忘れたことにして生きてきた。母が黙って背負ってくれたおかげで、何事もなかったように暮らしてきた。そのことに、今初めて気づいたのだ。
父は全てを見抜いていた。そして、全てを黙って背負っていたのだ。私と2人で、この愚かな息子の未来を守ってきたのだ。
高橋さんが一通の封筒を取り出した。
「これは、正一さんが生前、奥さんに宛てて書かれた手紙です。奥さんの許しを得て、今日、賢太さんにも読ませていただきます。」
私は頷いた。正一があの日、書斎で書いていた手紙だ。中身は、私はもう知っている。
高橋さんが封を切り、正一の言葉を読み上げた。
「洋子さんへ。
賢太が君を大切にしてくれるなら、これまで通り助けてやってほしい。あいつも、たった一人の息子だ。」
賢太が顔をあげた。
「だが、もし賢太が君を邪魔者として扱うようなら、その時はもう母親だからと我慢しなくていい。君は、君のために生きなさい。それが、俺の最後の願いだ。」
読み終えると、高橋さんは便箋をそっと畳んだ。
その手紙を書いた日の、正一の背中を私は思い出していた。書斎の机に向かい、万年筆を握り、いつもより丸くなった背中。あの時、あの人は自分がいなくなった後、私と息子のことをどんな思いで思い描いていたのだろう。
「正一さんは、賢太さんに家や財産を継がせることよりも、もっと大切なものを受け継いで欲しいと願っていました。母親を敬い、家族を守る心。それさえあれば、財産などいらない。そうおっしゃっていました。」
賢太はうつむいたまま、動かなかった。
「正一さんは病室でも、最後まで賢太さんのことを気にかけておられました。あいつがいつか気づいてくれればいい、と。何度も、そうおっしゃっていました。」
その言葉が、賢太の胸にどれほど深く刺さっただろう。父が最後まで案じていたのは、財産のことではなく、息子の生き方そのものだったのだ。
高橋さんの声が続いた。
「もし賢太さんがその心を持たず、お母様を追い出して家だけを奪おうとするなら、その時は財産は一切渡さない。自分の力で生きなさい。それが、正一さんの遺言の趣旨です。」
「財産を渡さない?」
賢太がかすれた声で繰り返した。
「じゃあ、父さんの残したものは、どうなるんだ?」
「正一さんの財産の大部分は、奥さんの今後の生活の保障に当てられます。そして残りは、ご夫婦が長年密かに支援して来られた、地域の医療と高齢者支援の活動へ。正一さんは、そう望まれました。最も、正一さん名義の財産そのものが、ごくわずかしか残っていません。賢太さんがすでに受けてきた生前贈与を考え合わせれば、相続で渡せるものは、実質何も残らないのです。」
「地域の支援って何だよ。そんなの、俺は聞いてない。」
「あなたが、知らなかっただけよ。」
私は賢太に言った。
「正一さんと私は、若い頃から細々と地域の活動に寄付を続けてきたの。困っている高齢者の暮らしを支える、小さな取り組みよ。派手なことは何もしない。ただ、私たちにできることを、密かに続けてきただけ。」
賢太は初めて聞く話に、呆然としていた。両親が自分の知らないところで、他人のために手を差し伸べていた。その事実は、賢太の中の両親像を根底から覆すものだった。
賢太の目が、大きく見開かれた。父の財産は自分ではなく、見知らぬ地域の人々のために使われる。それがようやく現実として賢太に迫っていた。けれど、賢太の顔に浮かんでいたのは、金を失った悔しさだけではなかった。それ以上に、賢太を打ちのめしていたのは別のことだった。
父は自分を見抜いていた。母を守れない、情けない息子だと。そう思いながら、正一はこの世を去ったのだ。
「父さんは、俺のことをそんな風に思って死んだのか。」
賢太の声が震えた。
「母さんを守れない息子だって。そう思いながら、亡くなったのか。」
私は何も答えなかった。答えなくても、それが真実だと賢太自身が分かっていた。
思えば、正一は入院してからも、賢太が見舞いに来る度、何か言いたそうにしていた。会社のこと、家族のこと。けれど賢太は、面倒な話を避けるように、いつも早々に帰っていった。父が最後に伝えたかった言葉を、賢太は一度も受け取ろうとしなかった。
実の父を、賢太は用がある時だけ顔を出す相手としか見ていなかった。その父が、実は自分の全てを見抜き、それでも守ろうとしていた。その事実の重さに、賢太はようやく押しつぶされそうになっていた。
金を失うことよりも、父に失望されたまま見送ったこと。それこそが賢太にとって、一番重い罰だった。そしてその罰は、私が与えたものではない。賢太自身が、長い年月をかけて自分に用意したものだった。
その横で、みさがそわそわと落ち着かない様子を見せ始めた。
「あの、お母さん。私は賢太さんがそんな過去を持っているなんて、本当に知らずにいたんです。私は騙されていた、被害者なんです。」
みさは早くも、自分だけ逃げ道を探し始めていた。
「実家の母も心配していますし、しばらく実家に帰ろうかと思っているんです。頭を冷やす時間も必要でしょうし。」
「おい、みさ。お前、それはどういう意味だよ。」
「どういう意味も何も、私、こんなことになるなんて聞いてなかったもの。あなた、家も財産も継げるって言ったじゃない。それが全部嘘だったんでしょ?」
「嘘じゃない。俺だってこうなるなんて──」
「もういいわ。私、こんな家、うんざり。」
みさはそう吐き捨てた。あれほど欲しがっていた広い家も、そこにお金がないと分かった途端、「うんざり」の対象に変わった。
2人はまた言い争いを始めた。追い出しを共に企てた2人は、いざ計画が崩れると、互いをかばい合うどころか、我先にと沈む船から降りようとしていた。正一が案じていたのは、まさにこういう2人の姿だったのかもしれない。金で繋がった関係は、金がなくなれば、あっけなく解けてしまう。
「母さん、聞いてくれ。」
賢太がすがるように私を見た。
「俺は、父さんにそんな風に思われてたなんて、気づかなかったんだ。もし知ってたら──」
「私を大事にした。そう言いたいの?」
「違う。いや、そうじゃなくて──」
賢太は言葉に詰まった。自分でも、何が本心なのか分からなくなっているのだろう。
私はそれ以上、息子の言い訳を聞かなかった。聞けば聞くほど、そこには自分を守るための言葉しか並んでいなかったからだ。
父が残した言葉の重みを、この子はまだ半分も受け止めきれていない。それでも、いつか本当に分かる日が来るのかもしれない。そう思いながら、私は膝の上で手を組んだ。
私はその光景をじっと見ていた。そして、静かに立ち上がった。言うべきことは、まだ残っている。私は最後の言葉を口にするつもりだった。
私が立ち上がると、言い争っていた2人がはっと口をつぐんだ。
「賢太、それにみささん、私の話を聞いてちょうだい。」
私は2人をまっすぐ見据えた。声を荒げるつもりはなかった。怒鳴っても、何も残らない。私は事実だけを、はっきりと告げるつもりだった。
「私はね、あなたたちが私を家から追い出したこと、それだけを怒っているのではないの。」
賢太が顔をあげた。
「私が一番悲しかったのはね、お父さんを亡くしたその翌日に、あなたたちが私の悲しみよりも家のことを優先したこと。40年連れ添った人を送ったばかりの私に、荷物をまとめて出ていけと言ったこと。」
私の言葉に、賢太の目が赤く潤んでいく。
「あなたたちは私を母親としてではなく、邪魔な荷物として扱った。それが、一番悲しかったのよ。」
荷物。あの日、賢太が言った言葉だ。荷物をまとめて出ていけ。私は荷物ではないわ。40年この家族のために自分を後回しにして尽くしてきた、一人の人間よ。あなたたちはそれを、ゴミ袋に詰めるように追い出した。
みさが何か言いかけて、口をつぐんだ。私の声にはいつもの遠慮がなかった。それが、2人を黙らせていた。
「あの日、あなたは私に言ったわね。行く当てもないのか、って。だから、施設を探しておいてあげた、と。親切心を装って、老人ホームのパンフレットを差し出した。」
「それは、お母さんのためを──」
「私のためではないわ。あなたたちの都合のためよ。介護の負担になる前に、厄介払いをしたかった。ただそれだけでしょう。」
みさは反論できなかった。
「私は40年、この家族の荷物を、たった一人で背負ってきた。賢太の学費も、事業の穴埋めも、あなたたちの暮らしも、全部私が担ってきたのよ。」
私は一度言葉を切り、2人を見た。
「その荷物を、あなたたちは当たり前のように私に押し付けながら、私自身のことは邪魔な荷物だと言った。今度はあなたたちが、その荷物を自分で背負う番ね。身の丈に合わないものを、手放す番よ。」
そして私は、これから起こることを一つずつ告げた。
「まず、あなたの会社の連帯保証。あれの更新はしません。私はもう、保証人にはならない。銀行との話は、あなた自身がつけてちょうだい。」
「そんな──それがなくなったら、うちの会社は──」
「毎月の10万円の仕送りも、今月で終わりよ。孫の私立の学費も、これからはあなたたちが自分で払いなさい。車のローンの肩代わりも、もうしない。」
「待ってくれ。孫の学費は、あの子には罪はないだろう。」
「あの子に罪はないわ。だから、あの子とはこれからも会うつもりよ。でも、あの子の暮らしを支えるのは、祖母の私ではなく、親のあなたたちの役目でしょ。学費を払えないなら、あの子に合った学校をあなたたちが選び直しなさい。それが、親というものよ。」
賢太は言い返せなかった。孫を盾にすれば私が折れる。そう読んでいたのだろうが、その手ももう通じなかった。
「これらは全部、記録に残る形で進めます。銀行にも、しかるべき窓口にも正式に伝える。あなたたちが後になって、言った言わないで揉められないようにね。」
賢太が蒼白になった。
「そんな、一方的に言われても、生活が回らなくなる。」
「回らないなら、身の丈にあった暮らしに変えなさい。それが、自分の力で生きるということよ。」
私は静かに、けれど一歩も引かずに続けた。
「私はもう、あなたの失敗をお金で解決しません。19年前も、その後も、私はずっとあなたの尻ぬぐいをしてきた。でも、それがあなたをここまで甘やかしたのよ。お父さんの言う通りだったわ。」
「母さん、頼むよ。今回だけ。今回だけは──」
「今回だけ。その言葉を、私は何十回聞いてきたと思うの?あなたの『今回だけ』に、私は何度財布を開いてきたかしら?」
私は首を横に振った。
「それから、あの郊外の家のこと。」
賢太とみさが、同時に私を見た。
「あの家は、売りに出します。そして、その売却したお金の一部を、お父さんの名前を冠した基金に寄付するの。地域の医療と高齢者を支えるための基金よ。お父さんが生きた証として、家を売る。」
「じゃあ、俺たちの住む場所は──」
「あの家は、初めから私のものよ。あなたたちが住む権利も、売ったお金を受け取る権利も、どこにもないわ。」
2人は言葉を失った。自分たちのものだと信じ込んでいた家は、売られて、見知らぬ誰かのために使われる。自分たちの手には、一円も入らない。
「これは感情で言っているのではないの。全て記録と手続きに基づいて進めます。あなたたちが後から言い逃れできないようにね。」
私はテーブルの上の書類と、あのノートに手を置いた。39年分の記録、19年前の真実。その全てが、言い逃れのできない形でここに残っている。
「今後、私への連絡は全て、高橋さんを通してちょうだい。口先だけの謝罪では、もう済ませられないの。」
「そんな、他人行儀な──親子だろ?」
「親子だからと甘やかす時期は、もう終わったの。関係を曖昧にしてきた結果が、私を追い出したあの日でしょ。」
賢太はもう何も言えなかった。みさは唇を噛み、床の一点を睨んでいた。
「お帰りはこちらでご案内します。」
沢口さんが静かに2人を促した。
賢太は去り際に、一度だけ振り返った。
「母さん、俺は──」
何か言いかけて、けれどその先の言葉は出てこなかった。
「行きなさい。今のあなたに、私にかける言葉はないでしょう。」
私がそう言うと、賢太は奥歯を噛みしめ、俯いた。
賢太とみさは、崩れ落ちそうな足取りで部屋を出ていった。追い出した相手から何ひとつ受け取れないまま、手に入れたつもりだった家も財産も、その全てが指の間からこぼれ落ちていった。
かつてあの家の居間で、2人は勝ち誇った顔をしていた。段ボールを積み上げ、老人ホームのパンフレットを差し出し、私を追い立てた。あの時と今と、立場は完全に入れ替わっていた。それも私が仕組んだからではない。2人が自らの手で招いた、結果だった。
扉が閉まると、部屋に清らかな静けさが戻った。私は窓辺の正一の写真に、そっと語りかけた。
「これで良かったのよね、あなた。」
写真の中の夫は、いつものように優しく笑っていた。まるで、よくやったと言ってくれているようだった。
長い間、私は家族のために自分を後回しにしてきた。その暮らしを、私は今日はっきりと手放した。私が自分の人生を、自分の手に取り戻した瞬間だった。
それから、賢太たちの暮らしは坂を転がるように変わっていったという。連帯保証の更新が止まると、銀行は融資を引き上げた。賢太の会社は立ちまち立ち行かなくなり、事業を大きく縮小した。賢太は今、勤め人として一から働き直しているそうだ。高級車は手放し、背伸びして借りていた広いマンションも引き払った。郊外の小さなアパートへ移ったと聞いている。孫は家計に合った学校へ移ることになったらしい。
みさは華やかな暮らしを失って、実家へ帰ったという。すぐに離婚したわけではないが、互いに責任をなすり付け合い、別居のままだと聞く。私を悪者にして被害者を装おうとした2人だったが、親戚の間でも以前のように味方をしてくれる人はいなくなったらしい。あの日、葬儀の翌日に母を追い出したことが、次第にみんなの耳にも入っていったのだろう。
賢太は私に何度も連絡を寄越したけれど、私は生活費の援助には応じなかった。自分たちが軽んじたものの重さを、2人はこれからの暮らしの中で嫌というほど思い知っていくのだと思う。ただ、孫には罪がない。あのことだけは、時々合う機会を残している。
そうして、数年が過ぎた。ある日、賢太が一人で私を訪ねてきた。以前のような金の無心ではなかった。
「母さん。俺、母さんがどれだけ俺たちを支えてくれてたのか、失って初めて分かったよ。」
賢太は深く頭を下げた。
「許してもらえなくてもいい。ただ、自分がしたことをちゃんと謝りたかったんだ。父さんにも、母さんにも。本当に、済まなかった。」
その姿には、かつての傲慢さはなかった。私はしばらく黙って、息子の顔を見た。
「謝ってくれたことは、受け取るわ。」
私はそう答えた。
「でも、信頼は言葉ではなく、これからのあなたの行動で取り戻して。焦らなくていいから。」
賢太は深く一礼して、帰っていった。親子の縁を、私は切らなかった。ただ、主導権は私が握ったまま、賢太にはやり直す余地だけを残した。
私は今、このタワーマンションの55階で、一人の暮らしを続けている。最初は、正一のいない広い部屋を寂しく感じることもあった。けれど、少しずつ私は自分の人生を取り戻していった。
古い友人の節子さんを部屋に招くようになった。2人で街を見下ろしながら、他愛のない話に笑う時間が、何よりの薬になった。
「洋子さん、あなた、昔より顔つきが明るくなったわね。」
節子さんにそう言われた。自分でも、そんな気がした。誰かに気を使い、顔色を伺う暮らしから、私はようやく解放されたのだ。
正一と行けなかった土地へ、旅にも出た。あの人と一度は行こうと約束しながら、いつも家族の用事を優先して後回しにしてきた場所だ。写真の中の正一を鞄に入れ、私は一人でその景色を見に行った。
地域の高齢者を支える活動にも、今度は表に立って関わり始めた。長く離れていた不動産の仕事にも、また手を戻している。数字と向き合う時間は、今の私に確かな張り合いをくれた。
そして、正一の名前を冠した基金を正式に立ち上げた。困っている人の暮らしを、静かに支える。あの人が望んだ通りの形で。郊外のあの家は無事に買い手がつき、その売却したお金の一部が基金の核になった。金木犀の庭のあった家は、こうして見知らぬ誰かの明日を支える力に変わっていった。
若い頃は、資産を増やし守ることに夢中だった。それが今では、誰にどう手渡していくかに頭を悩ませている。不思議なものだと思う。
夫の写真に、私は語りかける。
「私はね、あなたを失って、全てが終わったと思っていたの。」
窓の外には、明かりを灯した町がどこまでも広がっている。
「でも、あなたが残してくれたのは、財産だけじゃなかった。自分の足で立つ強さを、あなたは私に残してくれた。」
あの日、息子に家を追い出された私は、居場所を失ったと思っていた。けれど、本当に失ったのは古い家ではない。家族だからと自分を犠牲にし続ける生き方を、私はあの日、手放したのだ。
私は夫の写真の隣に、旅先で撮った新しい一枚を飾った。これからは、自分の人生を大切に生きていきたい。



