「すまん。離婚してくれ。」
私の前に置かれた離婚届。すでに週一の欄は記入済みだった。私は即座に自分の欄にサインをした。
「これで私たち夫婦、ママとパパになれるんだね。」
「ああ、おめでとう。」
皮肉を込めて言ったが、浮かれた二人には伝わらないらしい。
私の名前は川崎さや。三十四歳。大学卒業以来、同じ会社で働いている。給料は同年代の中でも安定している方で、貯蓄もそれなりにあった。子供を迎える準備は万端だった。しかし、なかなか授かれず、人生の難しさを感じていた。
高校時代の同級生である週一と結婚したのは二年前。社会人になってから再会し、交際が始まり、半年後には結婚していた。価値観も笑いのツボも食べ物の好みも似ていて、相性はいいと思っていた。少なくとも当時の私はそう信じていた。
結婚して二年、私たちは一度も妊娠しなかった。最初の一年はまだ焦らなかった。二年目に入っても「そのうちできるよ」と笑い合っていたけれど、友人たちの出産報告を見るたびに胸がざわつくようになった。そして先月、私は不妊治療専門のクリニックを受診した。
待合室で週一は相変わらず楽観的だった。
「俺は三人兄弟だし、不妊とは無関係だと思うけどな。」
「そうだね。」
「遺伝的に考えても、俺が不妊っていう可能性はかなり低いと思うんだよな。」
私は何度も説明した。不妊の原因は女性だけとは限らない。夫婦で検査を受けるのが当たり前になってきている。それでも週一はなかなか聞き入れてくれなかった。結局、折れるのはいつも私だった。仕方なく、最初は私だけが通院していた。
採血に超音波検査、ホルモン検査、基礎体温の記録。慣れない通院や毎日のルーティーンは想像以上に負担が大きかった。それでも原因が分かれば前に進めると自分に言い聞かせて頑張ってきた。
診察室で担当医は穏やかに言った。
「現時点では奥様に大きな異常は見当たりません。今後妊娠を望むなら、まずは旦那さんの検査もした方がいいでしょうね。」
やっとの思いで週一を病院に連れて行った。検査を受けることには渋々といった様子だったが、ようやく夫婦として同じスタートラインに立てるような安心感を覚えていた。
「検査結果は一週間ほどです。次回の来院の際に詳しくご説明しますので、ご夫婦でいらしてくださいね。」
病院を出て駐車場へ向かう途中、週一はあっさりと言った。
「俺は絶対に問題ないし、興味ないから、検査結果はさやか一人で聞いてきてよ。」
「え?一緒に行こうよ。」
「いやいや、どうせ何も出ないって。それに平日は無理だし。」
「土曜日なら大丈夫でしょ。」
「せっかくの休みの土曜日を二週連続で潰されるのもちょっとさあ。」
「潰されるって……俺がかわいそうじゃん。」
悪気のない笑顔だった。だから余計に性質が悪い。不妊治療を夫婦の問題ではなく、妻が勝手に進めていることのように考えているのが透けて見えた。
「じゃあ再来週でもいいから、一緒に行こう。」
本当は一刻も早く結果を知りたかった。しかし、週一が来てくれるならそれでよしとするしかなかった。
次の来院日までの時間は驚くほど長く感じた。夜ベッドに入ってもなかなか寝つけず、スマホで不妊治療について検索してしまうことも増えた。検索すればするほど不安になるのに、やめられない。
本当なら友人に愚痴を聞いてもらいたかったが、それも難しかった。仲のいい友人たちはすでに結婚していて子供もいる。「そのうちできるよ」と安易に励まされても複雑な気持ちになるだろうし、「大変だったね」と同情されたらきっと落ち込んでしまう。だから私は誰にも相談できずにいた。
そんな時、自然と足が向く場所がある。義実家だ。私は休みの日の昼過ぎ、手土産を持って一人で義実家を訪ねた。
「さやかちゃん。いらっしゃい。」
嬉しそうな義母の笑顔を見た瞬間、それだけで少し肩の力が抜けた。義母は昔から明るい人で、いつも私を気遣い、実の娘のように接してくれる。
「やっと週一が病院行ったんだってね。どうだった?」
「それが……」
「まだ結果は聞けてないんです。それに、週一が一緒に結果を聞きに行くのを面倒くさがって……」
その一言をきっかけに、私は最近の出来事を一気に話し始めた。話しているうちに、自分でも驚くほど不満が溜まっていたと気づいた。
「検査結果より休みが大事だって言うんですよ。」
「もうあのこったら! さやかちゃんが本当に悩んでるって分かってるのかしら。」
義母はまるで自分のことのように怒ってくれた。その反応が嬉しくて、じわりと温かいものが胸に広がる。私は両親を数年前に事故でなくしていて、一人っ子だったから兄弟姉妹もいない。身内らしい身内はほとんどいなかった。だからこそ、義両親の存在は私にとって特別だった。本当の家族だと思っている。
「もし問題がなかったら一緒に喜びたいし、仮に何かあったとしても、夫婦で受け止めたいんです。」
「当たり前よ。夫婦の問題なんだから、一人で抱える必要なんてないのよ。」
その言葉を聞いた瞬間、不思議と涙が出そうになった。私を認めてくれて、味方になってもらえる。ただそれだけのことが、今の私にはとても心強かった。
それから数日後のことだった。仕事を終えて帰宅し、夕食の準備をしていると、リビングでくつろいでいた週一が不機嫌そうな顔で口を開いた。
「さやかのせいで、母さんから電話で怒られたぞ。」
「え?」
「なんでわざわざ告げ口するんだよ。」
「告げ口って……私は攻めるつもりでお母さんに話したわけじゃない。ただ誰かに聞いて欲しかっただけよ。」
「結果的に怒られたんだから、同じだろう。」
「お母さんが不快に思ってくれただけでしょ。」
週一は頭をかきながら苦言を漏らす。
「電話口で三十分は説教されたぞ。父さんまで後ろで『その通りだ』とか言ってるし。」
「俺だけ完全に悪者扱いだった。」
「実際、ちょっと悪かったと思うけどね。」
「それはズルいだろ。」
週一は一瞬言葉に詰まったが、やがて観念したように肩をすくめた。さっきまでの不機嫌そうな顔とは違い、真面目な顔になる。
「さやかが本気で悩んでるってのは分かったから。」
「正直、俺はそこまで真剣に考えてなかったんだよ。そのうちできるだろうって思ってたし。」
「でも、母さんに散々言われてさ。……まあ、俺もそろそろ子供欲しかったし、ちゃんと検査結果は聞きに行くし、結果次第で治療も受ける。」
「本当?」
思わず声が弾んでしまうほど嬉しかった。
「本当だって。二週間後だろ。一緒に頑張ろう。」
「頑張ろうね。ありがとう。」
気づけば自然と笑顔になっていた。ここ数週間、胸の中に重くのしかかっていた不安がわずかに軽くなる。結果がどうであれ、一緒に聞いてくれて、前向きに治療をしてくれる。ただそれだけのことなのに、こんなにも嬉しい。未来が明るくなった気がした。
翌週の金曜日、仕事を終えた私はどこか浮き足立った気分で家に帰っていた。明日は病院だ。ようやく週一の検査結果が分かる。二週間後には、二人で一緒に結果を聞きに行く約束をしたのだ。
「ただいま。」
玄関のドアを開けたが、返事はなかった。いつもなら週一がリビングから「おかえり」と顔を出す時間のはずなのに、珍しいなと思いながら靴を脱いだ。その瞬間だった。
「ごめん。さやか。」
視線を上げた私は、その場で固まった。リビングに入ってすぐのところで、週一が土下座していたのだ。両手を床につき、額がフローリングに触れるほど深く頭を下げている。異様な光景だった。だが、本当の衝撃はその隣にあった。同じように床へ額を押し付けて震える女性がいたのだ。
「……まなみちゃん?」
職場で何度も見た顔だった。私の仕事の後輩、原田まなみ。
「ごめんなさい。さやかさん。」
まなみは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「私、本当に思い出のつもりだったんです。」
「思い出?」
次々と疑問が浮かぶのに、答えが一つも見つからない。週一は依然として頭を下げたままだった。その肩は小刻みに震えている。私は急激に嫌な予感を覚えた。
「何があったの?」
やがて週一は震える声で言った。
「……ごめん。」
「だから何を! 本当にごめんって、何が!」
かぶせるようにまなみも泣き叫ぶ。
「ごめんなさい!」
そして次の瞬間、二人はほぼ同時に口を開いた。
「まなみに、俺の子供ができた。」
世界から音が消えた気がした。私はまばたきを忘れたまま立ち尽くす。
「待って。どういうこと?」
震える声でなんとか問い返すと、週一はまるで用意していた台本を読み上げるかのように慌てて説明を始めた。
「本当に最初はただ相談に乗ってただけだったんだ。前回、会社の皆さんでうちに来ただろ。その時、こっそり持ちかけられて。」
「相談?」
「『仕事中のさやかはピリピリしてて怖いけど、どうしたら仲良くなれるか』って。」
全く心当たりがない。職場でのまなみは自由奔放そのものだ。締め切りを守らず、勝手な判断で仕事を進める。私が指摘すれば露骨にため息をついたこともあったし、聞こえるように舌打ちされたのも覚えている。そんな彼女が私を怖がっていただなんて、到底信じられない。
「嘘……!」
怒りと混乱が入り混じり、つい声が大きくなる。するとまなみは「ひっ」と小動物のような悲鳴をあげ、そのまま週一の背中へ隠れた。まるで私が加害者で、まなみが被害者だと言わんばかりだ。週一はそんなまなみをかばうように肩を抱いた。
「ほら、だからだよ。まなみってずっと怖がってたんだよ。」
「厳しすぎるんだよ、さやか。正論で攻められる方の身にもなれよ。」
私の頭の中には、職場で好き勝手に振る舞うまなみの姿しか浮かばない。そんな彼女が私に怯えているだなんて、おかしい。
「それで、私を恐れている人が私の夫と浮気するの?」
静かに問いかけると、まなみの方がぴくりと動いた。
「喧嘩を売ってるよね。怖い先輩の夫を寝取るだなんて、すごい度胸だよ。」
黙り込むまなみに変わり、週一が口を開く。
「だから最初はそんなつもりじゃなかったんだって。」
「じゃあ、どんなつもりだったの?」
言葉に詰まる週一。私は冷たく二人を見下ろした。土下座しているのに、申し訳なさは全く伝わってこない。むしろ、どこか開き直りすら見える。
「とりあえず立って、椅子に座って。まずは話を聞こう。」
結局、改めて詳しく話を聞いたところで、彼らの主張は最初から何一つ変わらなかった。週一は何度も「本当に悪かった」と頭を下げるものの、その口から出てくるのは謝罪よりも言い訳ばかり。まなみもまた目に涙を浮かべながら俯いているが、自分のしたことの重大さを理解しているようには見えなかった。
週一の話によると、まなみは私との関係に悩んでいたらしい。相談に乗っているうちに親しくなり、やがてまなみが週一に恋心を抱いた。しかし、相手は既婚者。しかも自分の直属の先輩である私の夫。本来ならば好きになってはいけない人だ。だから諦めようと何度も気持ちを押し殺したが、どうしても諦められず、まなみは潤んだ瞳で週一を見つめながら言ったそうだ。
「一度だけ思い出が欲しいです。」
「本当にそれで最後のつもりだったんです。でも、まさか妊娠するなんて。」
「その一回の行為で妊娠したってこと?」
「はい。まさか避妊しなかったの?」
私が問いかけると、週一は慌てたように顔を上げた。
「したよ。ちゃんとした。」
「じゃあ、なんで妊娠するのよ。」
「だからその……避妊に失敗することもあるって聞くじゃん。ニュースとかネットとかで。私たちもきっとそれで……」
「そう、本当に事故みたいなものでさ。」
必死に頷き合う二人の姿は、もはや漫才のようだった。仮に避妊に失敗したとしても、そこへ至るまでの過程は事故ではない。自分たちの意思で会い、自分たちの意思で関係を持った、その結果が今なのだ。どうして被害者のような顔ができるのだろう。
「なるほどね。」
私は静かに頷いた。二人とも少し安心したような顔をする。
「それで……うん。だから、それを聞いた上で改めて聞くけど、」
私は二人を交互に見た。
「今日は何しに来たの?」
「何しにって……。いや、謝罪。それもあるけど……」
「まさか、離婚のお願い。」
部屋の空気が一瞬でぴりつき、緊張感が走った。週一は言葉に詰まり、助けを求めるようにまなみを見た。まなみもまた、不安そうに週一を見返している。彼らの思惑は嫌というほど分かる。きっと子供のために、私に身を引いて欲しいのだろう。あくまで私から申し出て欲しいのだ。
「ただ浮気の報告をしに来ただけなら、帰って。」
冷たく言い放つと、週一はさらに身を乗り出した。
「いや、それは……」
「私、仕事終わりなの。朝から働いて疲れて帰ってきたところに、突然こんな話をされて、どれだけ辛いか分かる?」
声は震えていた。怒りなのか悲しみなのか、自分でも分からない。まなみは視線を泳がせ、小さく肩をすくめた。
「それじゃあ、また日を改めて……」
さすがに居心地が悪くなり、耐えきれなくなったのか、まなみはそそくさと立ち上がった。週一も慌てて後を追う。静まり返るリビング。数時間前まで、明日は二人で病院へ行き検査結果を聞く予定だった。もしかしたら治療方針が決まるかもしれない。そんな未来を信じていたのに、今では何もかも崩れ去ってしまった。
すると、玄関先から彼らの話し声が聞こえてくる。小声のつもりなのだろうけれど、静寂に包まれた室内では驚くほど鮮明に耳へ届いた。
「先輩、諦めてくれないかも。離婚しないって言われたらどうしよう。」
不安がるまなみに、週一は即座に答えた。
「大丈夫だよ。幸い俺たちの間には子供がいないんだし、あいつも変な意地を張ってるだけだよ。この子のためにも、絶対に離婚するから信じて待ってて。」
「うん。大丈夫。俺が何とかする。」
「ありがとう。」
二人の声が少しずつ近づき、そして重なった。恋人同士のような甘い空気。その会話を聞きながら、私は唇を強く噛みしめた。夫婦なのは私の方なのに。二年間、妻でいながら妊娠できなかった。一方で、浮気相手であるまなみはたった一度の関係で妊娠したという。誰が見ても、私よりまなみの方が週一と相性がいいのだろう。邪魔者は私の方かもしれない。そんな考えが頭をよぎり、胸が締めつけられる。
やがて玄関のドアが閉まる音が響いた瞬間、張り詰めていたものが一気に切れた。足から力が抜け、私はテーブルに顔を伏せる。頭の中がぐちゃぐちゃのまま、私は考え続けた。
「絶対に離婚するから」と誓った週一の言葉が何度も頭の中で反響する。一人きりの部屋で、私は静かに目を閉じた。彼らの思惑通りになるのは悔しい。だからと言って、意地だけで婚姻関係を続けたところで、何になるのだろう。ふと、テーブルの上に置かれた診察券が目に入る。病院でもらった予約表だ。
「検査結果……もう必要ないな。」
思わず苦笑が漏れる。あれだけ待ち遠しかった結果なのに。
「あの、さやか。」
遠慮がちな声が聞こえた。振り返ると、週一が所在なげに立っている。まなみを送って帰ってきたのだろう。私の顔色を伺い、物に触るような態度で近寄る。少しは罪悪感があるのだろうか。
「いいよ。」
「え?」
「離婚しても。」
自然と口から漏れていた。週一の表情が変わる。ほんの一瞬だけだが、私は見逃さなかった。曇っていた顔がパッと明るくなったのだ。週一は肩の力が抜け、張り詰めていた緊張が消えている。まるで重荷から解放された人間の顔だ。
「本当か?」
「うん。」
「そっか。」
安心したように息を吐く。少しは離婚を迷ったり、引き止めるかもしれない。心のどこかでそんな期待が残っていたことが恥ずかしい。週一はとっくに私ではなく、まなみとの未来を選んでいたのだ。
「ありがとう。本当にごめんな。俺、子供のことを幸せにするから。」
私は静かに目を伏せた。謝罪よりも先に浮かぶのが子供の話なのか。苦しくなって、私がなんとか絞り出したのは離婚の見返りだ。
「その代わり、慰謝料はしっかり払ってもらうよ。」
その言葉を聞いた途端、週一の笑顔がぴたりと止まる。
「何その反応?」
「いや、その……もちろん払うよ。」
「お願いね。」
挙動不審な行動からして信用はできない。だが、先の騒動で疲れ切った私は、それ以上追求できなかった。気まずい空気の中、私はソファーで、週一は寝室のベッドで、それぞれ別々の場所で眠りについた。
離婚が決まった翌日、私は一人で義実家を訪ねた。すでに週一から報告があったらしく、到着と同時に義母に抱きしめられる。
「さやかちゃん。ごめんなさい。何と言っていいか、本当にごめんなさい。」
「お母さんが謝ることじゃないですよ。」
「今後、お母さんとお父さんに会えなくなるのが、一番寂しいかも。」
ぽつりと出た本音に釣られて、涙が溢れてくる。義母も釣られて泣いていた。その時、義父がすっと差し出される。義父が申し訳なさそうに立っていた。
「もし、さやかさんさえよければ……」
「ああ、いいわね。それ。」
突然の義両親からの提案を、私は戸惑いつつも喜んで受け入れた。翌週、私たちは再び義家に集まり、離婚についての話し合いを始めることになった。
私は週一、そして見知らぬ男性。この方は週一が誇らしげに紹介する。
「知り合いの弁護士の山本さんだよ。後でごちゃごちゃしたら面倒だからさ、お願いしたんだ。」
「へえ。私に何の相談もなしに同席させるとは。そんなに警戒されなくても。週一さんの知人とはいえ、私は公平です。平穏に離婚されるよう見守るだけなので。」
口ではどうとでも言えるものだ。信用はできない。
「なるほど。では、私も今日一日、この後の会話を録音させてもらいますが、よろしいですね。」
「え? もちろん。」
弁護士の山本は嘘っぽい笑顔で頷く。私はそっとボイスレコーダーのスイッチを入れた。週一とまなみは気にもしていない。ようやく離婚できると浮き足立っているようだ。
「じゃあ、早速これを。」
週一が取り出したのは離婚届だった。私は離婚届を凝視した後、週一に視線を移す。一瞬目があったが、すぐにそらされた。
「すまん。離婚してくれ。」
「随分と用意がいいのね。私は驚かされてばかりなのに。」
気まずそうに私の前に置かれた離婚届。すでに週一の欄は記入済みのようだ。私は即座に自分の記入部分にサインしていく。まなみも週一も大仰しくしているつもりだろうが、喜びが隠しきれていなかった。
「これで私たち夫婦、ママとパパになれるんだね。」
「ああ、おめでとう。」
皮肉を込めて祝いの言葉を口にする。浮かれた彼らには嫌味だと分からないらしい。そんな中で、一人だけ様子のおかしい人物がいた。弁護士の山本だ。
「パパとママとは……心妙なお持ちで。」
「山本さん、知らないんですか? この中には週一さんと私の赤ちゃんがいるんです。」
山本は「ヒュッ」と小さく息を吸い込むと、ガタガタと震え出した。
「話が違うじゃないか。」
掴みかかる勢いで週一に迫る。
「まなみさんとは、健全な中で思い合ってはいるが、関係はないと言っていたはずだ。」
「いや、だって、そんなこと言ったらお前、協力してくれないだろう。」
「当たり前だろう! おかしいと思ったんだ。円満離婚だから見守ってくれた、なんて。」
どうやら週一は嘘をついて、山本をこの場に同席させたらしい。二人は私の前で言い争いを始める。まなみは退屈そうに自分の髪の毛をくるくると弄っていて、完全に他人事だ。
「妻以外の女性と子供を作っておいて、慰謝料を払わないなんてできるわけないだろう。敏腕弁護士なんだろう。そこをなんとか。」
「無理だ。」
平然と言い放つ週一に、山本は呆れている。私は冷たく彼らに言い放った。
「盛り上がっているところ悪いけど、もう私たちは他人になるんでしょ。早く話し合いを終えて、出ていってほしいの。荷物もほぼ運び出していることだし。」
「ああ、まあ、そうせかさなくても。」
週一が苦笑いで私をなだめようとすると、まなみが「えっ」と声をあげる。
「荷物を運び出してるって。じゃあ、ここに残っているものは……。」
驚いているまなみに、情報を補足してあげた。
「全部、私のものよ。離婚後は週一がこの家を出ることになってるから。」
「でも、家電とか、ほら。」
彼女が目くばせしたのは、食洗機やロボット掃除機などの高級家電。まなみが言おうとしていることがなんとなく伝わってきた。
「あれ、全部先輩のものになるのは、ちょっとずるくないですか? どの家電も結構買うと高いですよね。購入して二年ならまだまだ使えるし、赤ちゃんが生まれると、家事も一苦労なんですよね。」
要するに、自分たちの新生活のためによこせと言いたいのだ。我が家は共働きのため、家事はできるだけ最低限にしたかった。そのため結婚してすぐに最新家電を揃えている。まなみはそれを目ざとく見ていたのだろう。
「せめて食洗機と掃除機、いや、ドラム型洗濯機も、それくらいは私たちがもらうべきでは?」
値段の高いものを狙って要望を伝えてくる。だが、そうはいかない。
「ああ、大丈夫。その必要はないわ。」
「でも!」
なおも食い下がってくるまなみに、私ははっきりと言った。
「全部、私の独身時代の貯金で購入したから、全部私のものなの。週一は一円も出してない。」
「は?」
「私が家電を欲しいって言った時、週一にも反対されてね。『食洗機なんてもったいない。手で洗えばいいのに』とか、『乾燥機は匂いが嫌いだから嫌だ』って。仕方なく、私は自分の貯金から出すしかなかったの。しかもね、言うだけで家事はしないのよ、その人。本当に口だけだから大変。まなみちゃんも頑張ってね。」
まなみは言葉を失っている。週一はまずいと思ったのか、即座に口を挟んできた。
「き、今日のところは解散するか。もう離婚届けは書いたし。」
「私はそれでもいいけど。慰謝料について、大体どのくらい払うか知っておきたいんじゃないの?」
「え? た、大変って?」
「私、一括でもらうから。分割だといつまでも縁が繋がっているようで気持ち悪いし。それに、途中で支払いが滞る可能性だってあるし。」
「でも、ほら、まなみも妊娠してるし、これから色々お金がかかるのに。」
私への謝罪よりも、あくまで子供とまなみを優先するらしい。
「それとこれとは別問題でしょ。」
冷たく言い放つと、週一は不満げに口を閉ざした。まなみのお腹の子供にお金が必要なのは分かる。だが、浮気された側である私が、どうして加害者の事情を優先して考えなければならないのだろう。
「まあ、慰謝料って言っても、高が知れてるだろうけど。」
「どうだろうね。弁護士さんに聞けば。」
突然話を振られ、山本はため息混じりに答えた。
「この場では何とも言えませんね。私も初耳のことが多いもので。」
ちくりと言葉で刺されて、週一は気まずそうに山本から目をそらす。
「残念。じゃあ、そうだ。先に財産分与について話しましょう。」
「え? 財産分与?」
「うん。金額を知りたいから、共通の通帳見せてよ。」
共働きの私たちは財布は別々だったが、将来のための貯蓄だけは夫婦共同で積み立てていた。毎月お互い十万円ずつ、合計二十万円を共有口座に入金する。結婚してから二年間、コツコツ積み立ててきた。
「一人十万を二年間だから、ざっと四百八十万円くらいにはなってるよね。」
「いや、その、何?」
週一の方がびっくりと震えた。嫌な予感がする。さらにそのまま彼は視線を泳がせる。右へ左へ。そして地面を見たまま固まった。まるで先生に叱られている小学生のような態度だ。
「……ねえ、通帳見せて。」
「今はちょっと……。」
少し声を強めると、週一は明らかに動揺した。
「まさか、使い込んだの?」
「違う! さすがの俺でも、そんなことしてない。」
彼は慌てて両手を振る。その否定の仕方が逆に怪しい。私はじっと週一を見つめた。週一は昔から嘘が下手だった。今の顔は完全に何かを隠している顔だ。
数分後、見かねた山本が別日の話し合いを促した。
「双方納得の上、離婚届けは書き終えましたし、慰謝料については後日、また改めて集まった方が……」
要は自分は早く退出したいのだろう。けれど、週一と共に来たからには、そうはさせない。
「後日は嫌です。この人、絶対に逃げるので。ねえ、財産分与だけでも今日決めて帰りたいんだけど。」
沈黙により、苦しい空気が流れる。やがて週一は観念したように長い息を吐いて、話し始めた。その顔は真っ青だ。
「まず、怒らないって約束してくれる?」
「内容による。」
浮気相手を妊娠させ、離婚を迫ってきた男に、これ以上気を使うつもりはなかった。週一は額に浮かんだ汗を拭う。テーブルの上で握りしめられた週一の拳が、小さく震えている。
「あの……さやかには黙っててくれって言われたんだけど。」
「何?」
私は手元のスマホを弄りながら聞いた。
「父さん、去年、定年退職しただろ?」
「うん。」
「それでさ、一気に収入が減ったのに、生活水準を下げられなかったらしくて、色々な場所に借金をしに行ったって。俺も何度も説得したんだけど……」
思わず間の抜けた声が漏れた。義父の借金? 私たちの共有貯金とはどうにも結びつかない。第一、義父は昔から堅実な人だ。しかし、週一は苦しい顔で頷く。
「最初は俺も信じられなかったんだよ。でも、本当なんだ。退職金もあったし、しばらくは問題ないと思ってた。でも、収入は減ったのに、今までと同じ感覚で金を使い続けてさ。外食も減らさない、旅行も行く。気づいたら借金してた。」
「お父さんの借金?」
「母さんも知らなかったんだよ。催促状が届いて、初めて発覚した。あの日、母さん泣いてたよ。」
「へえ。俺も何回も実家に行ってたのは、その話し合いのため。お前に隠してたのは悪かった。でも、本当に大変だったんだ。」
確かに週一は休日や仕事帰りに頻繁に義実家へ行っていた。私が同行しようとしたら妙に嫌がっていたから、不審に思っていたものだ。
「それで、今はどうなったの?」
「母さんも泣いて大激怒してたんだけど、俺が肩代わりして、ようやく落ち着いた。」
「肩代わり?」
「つまり、それがさやかと俺のお金、共有口座から出した。だから、今残金はほとんどない。本当にごめん。」
静まり返る部屋。時計の針の音だけが妙に大きく聞こえた。
「ちなみに、母さんは俺個人の貯金だと思ってる。さやかに黙って使ったのは、本当に申し訳ない。」
勢いよく頭を下げる週一。
「いくら使ったの?」
「……ほとんど。」
「具体的な金額を。」
「残ってるのは、数万くらい。」
四百八十万近くあったのに。ごめん。でも、俺、父さんを見捨てられなくて。母さんなんて、『さやかちゃんには絶対言わないで』って泣くから。
まなみは息を飲み、山本は黙ったままだ。週一は両手で顔を覆い、すすり泣きしている。
「そっか。じゃあ、仕方ないね。」
「ありがとう。分かってくれるのか、さやか。」
それまで真っ青だった週一の表情が、みるみる緩んでいく。まるで助かったと言わんばかりだ。まなみも胸を撫で下ろしている。
「よかった。」
山本も小さく咳払いをした。
「さやかさんにご理解いただけて、何よりだったな。まあ、ご両親の事情なら、仕方ない部分もありますからね。」
私は思わず笑いそうになった。確かにその通りだ。もし本当に義父が借金を抱え、義母が泣いて助けを求めていたのなら、私は黙ってお金を諦めた。週一の話が本当ならば、何も言えない。しかし、残念ながら、今の話は全部嘘だと知っている。
「私も、お母さんたちのことは大好きだから。」
週一は何度も首を縦に振る。
「ああ。だから、財産分与については勘弁してもらって。できれば、慰謝料も少し考慮してもらえないか。まなみが妊娠してるしさ。だから、お互い大人として、これから生まれる子供のために……」
図々しいことに、今なら行けると思ったのか。週一はベラベラと自分の事情を主張する。
「ねえ、待って。聞いて。」
私はにっこり微笑んだ。
「うん。あなたの言いたいことは、よくわかったわ。ただ、はい、そうですかと、全部お願いは聞けないの?」
「あ、まあ、そうだよな。いいよ。できる限りで。」
「だから、まずはお母さんたちからちゃんと説明してもらおうよ。」
週一の笑顔が固まる。
「だって、共有財産を使ったんでしょ?」
「そ、そうだけど。」
「だったら、当事者に話を聞くのが大切でしょ。」
私は淡々と言った。見れば、週一の額には再び汗が浮かんでいる。まなみは焦る週一を眺め、不思議そうに首をかしげた。
「先輩の言う通り、お母さんたちに聞けば、早めにお金返して欲しいでしょ。」
「そうね。全部本当なら、あなたたちへの慰謝料を免除してあげてもいいわ。」
「え、あ!」
ありありと目を輝かせるまなみ。彼女はこれでもかとはしゃぎ、週一の腕に絡みついた。
「最高じゃん! 週一さん、お母さんたちに説明してもらおう! それだけで慰謝料がなくなるんだよ!」
「いや、だから、母さんたちには知られたくないって……。」
「話すべきだと思うな。そうだよ。お父さんを助けるために使ったんでしょ? だったら、さやかさんと週一さんにお礼くらい言わせようよ。」
「え? いや……。」
「五百万円も近いお金を出したんだから。てか、週一さんの給料、知らなかったけど、そんなに稼ぐんだね。私が専業主婦になっても問題ないじゃん。嬉しい。」
キャッキャと浮かれるまなみと、どんどん追い詰められて青ざめる週一。
「私も直接お話聞きたいな。大丈夫。お母さんたちに怒ったりは、絶対にしないから。」
「え、いや、でも……。」
山本はどうすればいいのか迷っているようだ。私たちの様子を見ながらポーカーフェイスを貫いているものの、目が不安げである。週一の喉が「ごくり」となった。
「もう、スマホ貸して。まなみから行ってあげる。」
まなみが週一のスマホを取ろうとした瞬間だった。
「だから、やめろって言ってるだろうが!」
週一が焦って、思わず大きな声を出したのだろう。まなみは驚き、固まった。
「ぐ、ごめん、まなみ。でも、ほら、母さんたちも色々傷ついてるし、忙しい中わざわざ予定を合わせるのも……」
あまりの衝撃に呆然としているまなみに代わり、私は自分のスマホを持ち上げた。週一の顔色が変わる。
「その心配はいらないから。」
「なんでだよ。」
私は廊下の方へ視線を向けた。ちょうどそのタイミングで、リビングと廊下をつなぐドアがゆっくり開く。現れた二人の姿に、週一は目を丸くした。山本ですら驚いている。
そこに立っていたのは、あの義父と、顔を真っ赤にして怒りをあらわにした義母だった。
「週一、あんたね、いい加減にしなさいよ、このバカ息子!」
聞いたこともない義母の低い声に、週一の唇が震える。
「く、母さん……。」
義母はゆっくりとリビングに入ってきた。
「今の話、全部聞かせてもらったわ。」
週一の顔から血の気が完全に引く。
「え、どこから聞いてたの?」
「全部よ。ああ、もう恥ずかしい。情けない。」
義父も眉間に皺を寄せて頷いている。
「まさかお前が、こんなにひどい男だったとはな。呆けれたよ。浮気して他の女性に乗り換えたと聞いただけでもがっかりしたのに。」
週一の顔がカッと赤くなる。
「でも、そのおかげで父さんと母さんは孫を抱けるんだぞ! さやかと結婚したままだったら、きっと一生子供を得られなかった。まなみのおかげで俺の子供に会えるのに、嬉しくないのか!」
声高に叫ぶ週一。その声には開き直りと苛立ちが混じっていた。まなみも勢いよく頷き、お腹を守るように両腕を回した。
「そうですよ。順番間違えたかもしれません。でも、結果的に私は週一さんの赤ちゃんを授かったんです。」
義母が眉を潜める。それ以上何も言うなという牽制だ。しかし、まなみは止まらなかった。
「先輩は二年間できなかったんですよね。避妊しなかったくせに。」
「まなみちゃん。違いますか?」
私をまっすぐ見るまなみの瞳に、罪悪感は見当たらない。ただひたすら自慢げだ。
「私だって好きでこんなことになったわけじゃありません。最初は本当に相談だけだったんです。でも、好きになっちゃって。人の気持ちなんてコントロールできないもんな。だから、神様が味方してくれたんですよ。出会う順番を間違えたかわいそうな私たちのために。」
まなみはこれ見よがしにお腹を撫でた。勝ち誇った顔で私にやりと微笑む。
「真実の愛があったからこそ、赤ちゃんは来てくれたんです。つまり、先輩は週一さんにはふさわしくなかったってこと。それが答えじゃないですか。」
私は黙って聞いていた。
「あなたね、本当に腹立たしい。それ以上口を開かないで。」
義母の制止など気にもせず、まなみはさらに声を大きくする。
「私だって悪者になりたかったわけじゃないんですよ。身を引こうと思ってましたもん。でも、赤ちゃんができた以上、もう前に進むしかないじゃないですか。」
「ああ、その通りだ。」
二人はまるで互いを鼓舞するように頷き合う。週一は義両親へ向き直った。
「父さんもお母さんもさ、さやかの手前、怒ったふりしてるけど、本当は嬉しいんだろ? だって、やっと孫ができるんだから。」
「そうですよ。可愛いですよ。私と週一さんの赤ちゃん。」
義父は見たこともない顔をしていた。唇を噛みしめ、どうにか怒りをこらえているようだ。
「お父さん、私は大丈夫なので。」
「もう我慢できん。このバカ息子を殴りつけてでも黙らせる。」
週一は義父を警戒したのか後ずさるが、口だけは軽やかに動かす。
「さやかには申し訳ないと思ってる。でも、人生って結果が全てじゃないのか。俺とまなみは間違ったスタートだったかもしれない。でも、最後はちゃんと家族になる。赤ちゃんも生まれるしね。」
もはや語るうちに気持ちが高ぶってしまったのだろう。テーブルを叩かんばかりの勢いで週一は叫んだ。
「家族になることの何がそんなに悪いんだよ!」
まなみも力強く頷く。すると、義母が震える声で呟いた。
「あなたたち、本気で言っているの?」
このままでは義父が週一たちに殴りかかる勢いだ。だが、こんな人たちのために義両親に手を汚して欲しくなかった。私はそっと義母の前へ出る。義母の方は怒りで小刻みに震えていた。
「お母さん、大丈夫ですよ。」
「さやかちゃん……。」
「代わりに、私が彼女と話します。」
私はまなみへ向き直った。敵意のこもった視線が帰ってくる。それに対して、にっこりと微笑んでやった。
「何笑ってるんですか? 強がっても意味ないですよ。」
「うん。まなみちゃんのことを尊敬してたの。そんなに週一のことが好きなんだなって。そこまで言い切れるなんて、素敵だね。本当に週一が大好きだって、伝わるよ。」
まんざらでもないのだろう。まなみは胸を張った。先ほどまで義両親に攻められていたことなど忘れたかのような表情だ。
「へえ。もちろんです。私たちが出会ったのは運命だったので。タイミングは少し遅くなりましたけど。既婚者だったからと諦める選択肢はなかったらしいです。」
「そうなんだよ。最初から私たちが結ばれるべきだったよね。先輩より先に出会いたかったな。」
義父が呆れたように目を閉じる。義母も何か言いたそうだったが、私は軽く首を振って静止した。まだ早い。もう少し話してもらおう。
「なるほどね。私は優しく頷いた。それじゃあ、安心だ。」
「何がですか?」
「今後、週一が借金を背負っても、それだけの愛があれば大丈夫そうだから。」
「え?」
あれほど熱弁していたにも関わらず、一瞬でまなみの笑顔が消えた。週一も「ぎくり」と肩を揺らす。
「まあ、まなみちゃんの方が給料いいもんね。週一の代わりに稼いじゃえば、問題ないか。」
「はあ? ちょ、おい! 慌てて割り込んでくる週一。どうやらまなみに収入のことは話していないらしい。何余計なこと言うなよ。」
「余計なこと? 私はわざと首をかしげて見せた。だって、結婚するんでしょ? 人生を共にする彼女には、ちゃんと話さなきゃ。」
「借金って何ですか?」
「いや、それは……。」
「私、生活費にはだいぶ余裕があるって聞いてたんですけど。」
彼女が「ぎろり」と睨みつける相手は私ではなく週一だ。
「そりゃ、私と週一、二人分の給料で生活してたからね。余裕はあったよ。でも、私への慰謝料と、共有財産の使い込みもあるし、今後はきついんじゃないかな。」
「そのくらい、すぐに生産できますよ。先輩がここに住むんでしょ? じゃあ、共有財産としてマンションの費用を半分もらえるはずだし。」
「このマンションは、財産分与の対象にならないよ。」
「え?」
どうやらまなみは何か誤解しているらしい。
「どういうことですか? 一人暮らしとか許しませんよ。だって、このマンション相当の価値があるのに。」
「あら、よく知ってるね。」
まなみは反射的に頷いた。
「そりゃ、有名ですもん。いいところだって。確か、全件文ですよね。」
「そう。思った以上に詳しい。お金が好きなのは知っていたが、情報通でもあるようだ。」
「しかも、駅近で朝でも会社でもみんな行ってましたよ。週一さん、すごいところに住んでるねって。」
私は思わず吹き出しそうになった。なるほど、そういうことか。まなみは本気で勘違いしていたのだ。それもあって、週一に目をつけたのかもしれない。
「週一さん、ローンもないって言ってたから、一括で払ったってことじゃん。」
「ああ、それは私のマンションだからだよ。」
私はあっさり答えた。
「え?」
空気が止まった。週一は口を開けたまま固まり、義父は呆れたように天井を見上げている。
「両親が亡くなった時の遺産で買ったの。名義も私。独身時代、私はそれなりに貯蓄していた。そこに両親が事故で亡くなって、生命保険と遺産が一気に入ってきた。だから、少しでも両親と共に暮らす気分になれればと、遺産でマンションを購入したの。そして、結婚後、週一がうちに転がり込んできたわけ。だから、離婚後も私が住むの。週一にローンがないのは事実だ。だが、資産もない。」
まなみの口がパクパクと開閉する。まるで水から上げられた魚のようだった。
「週一は一円も出してないもん。むしろ、賃貸だって勘違いしてるくらいだし。そもそも、週一、私の半分くらいしか稼いでないよ。」
「嘘!」
「本当だって。会社では週一見栄張りだからね。これ見よがしにすぐ小さな嘘をついたり、適当に愛想を振りまいたり。昔から週一の癖だ。」
「さやか!」
呼ばれて振り返ると、焦った顔の週一がいた。
「言わなくてもいいだろう。」
「でも、まなみちゃんと結婚するんでしょ? ちゃんと現実は知っておいた方がいいんじゃない?」
まなみの顔からみるみる血の気が引いていく。週一は椅子から身を乗り出す。
「大体さ、全部初耳なんだけど。遺産も生命保険もほとんどなかったって言ってたじゃん。マンションだって、賃貸じゃなかったのかよ。」
過去の私は周囲を警戒しており、基本的に質素な生活を心がけていた。だから週一が呆然としているのも無理もない。結婚後、真実を言おうか悩んだこともあったが、考えた末にやめた。今では悔やみながらも正しい判断をしたと思う。ちなみにマンションについては、週一は結婚して以来一度も家賃の振り込みをしたことがないから気づかなかったのだろう。光熱費も通信費も管理費も固定資産税も、とにかく面倒な手続きは全て私任せだった。請求書が届いても見ようともしない。だからこそ、私が賃貸だよと言えば、そのまま信じていたのだ。
「離婚の話し合いの際も、『ここ高いんだって。俺じゃ払えないから出ていくわ』と勝手に言ってくれた。訂正する理由もないため、そのままにしておいた。だって、自分は資産家ですなんて言いふらす人いないでしょ。それは、どんな人が寄ってくるか分からないし。」
そこで私は小さく肩をすくめた。
「ま、黙ってても、あなたみたいな人に引っかかっちゃったけどね。」
週一の顔がみるみる曇る。悔しそうに奥歯を噛みしめていた。
「し、あ、なんだよ。」
「何って?」
「マンション買っても残ってたってことは、遺産相当あったってことだろ?」
「まあ、それなりには。」
週一の目の色が変わった。
「どれくらい?」
「しばらく働かなくても困らないくらいかな。」
その様子を見て、義父が深いため息をつく。しかし、週一本人は気づいていない。
「だったら、慰謝料も財産分与、いらないじゃん。だって、困ってないだろう。」
まなみもすぐに同調した。
「確かに。先輩、お金持ってるならいいじゃないですか。だって、私たちこれから子育てなんですよ。赤ちゃんってすごくお金がかかるって聞くし。先輩はマンションに住めて貯金もあるのに、ずるい。」
「正直、俺たちの方が大変だろう。あまりにも理不尽な言い分だ。ケチケチしないでくださいよ。慰謝料なんて取らなくても、生活できるんだから。」
「そうそう。むしろ、応援してくれてもいいくらいじゃないですか。あ、結婚祝いの代わりとか。あ、でも、出産祝いな。」
義父が目を閉じた。山本でさえ目を見開いて驚いている。だが、当事者であるまなみと週一は気づかない。自分たちがどれほど非常識なことを言っているのか。
「それいいな。祝ってよ。先輩は一人でも生きていけるじゃないですか。無駄にお金を持ってても、亡くなった時にもったいないだけ。」
その瞬間だった。「パン」と乾いた音が響く。一道が息を飲む中で、週一の顔が横に弾け飛ぶように向いた。
義母は怒りで震えていた。
「あなたは一体、誰のお金の話をしているの? 浮気して妻を裏切って、共有財産に使い込んだのよ。その上、慰謝料を払いたくないから、お金持ってるなら援助しろですって!」
週一とまなみのあまりにも自分勝手な様子に嫌気がさしたのだろうか。義母の目には涙が滲んでいた。
「あんたみたいなバカ息子じゃないわ!」
空気が一気に凍りついた。
「いった……。」
頬を抑えながら週一が声を荒らげる。
「なんで俺なんだよ!」
「どんなに腹が立っても、よそのお嬢さんを叩くわけにはいかないでしょ。」
「え?」
まなみの視線が、週一への非難に変わった。さらに義母は週一を指さして続けた。
「それにね、全部あんたが原因じゃない。母さんでもさ、さやかちゃんみたいないい子を裏切って。私に申し訳ないと思ってくれているのだろう。私たちがどれだけさやかちゃんに感謝してたと思ってるの。親をなくして辛い思いをしているのに、いつも笑顔で言ってくれて。誕生日も母の日も欠かさず連絡をくれたし、体調を崩した時だって真っ先に駆けつけてくれた。そんな子を裏切っておいて、どうして自分が被害者みたいな顔をしてるの?」
「だって……。」
「だってじゃない!」
部屋中に響く怒声。あまりの圧に、まなみも黙って硬直している。
「あんたとは絶縁します。もう二度と、うちの敷居をまたがないでな。」
義父も義母と同じ気持ちのようだ。
「私もそうだな。私たち夫婦には、息子はいなかったと思うことにします。」
「は? なんでそうなるんだよ。孫に興味ないのかよ。ま、やっと生まれるんだぞ!」
「私と週一さんの子ですよ!」
まなみも必死になって叫ぶ。
「母さんだって楽しみにしてただろう。お母さん、おばあちゃんになれるんですよ!」
孫で仲直りしようとする魂胆だ。二人はそれが切り札だと思っているらしい。しかし、義母は首を横に振った。
「もちろん、子供に罪はありません。だったら、でもね。」
母は涙を拭いながら続けた。
「私が待ち望んでいたのは、さやかちゃんとの子だったの。さやかちゃんが産んでくれる孫を楽しみにしていた。」
「父さんまで……。仮に子供ができなかったとしても、それはそれで良かったんだ。週一は結婚して以来、私たちに子供を催促することは一度もなかった。なかなか授からない私にとって、それがどれだけありがたかったか。私たちは孫が欲しくて、さやかさんを家族に迎えたわけじゃないからな。」
義母は大きく頷いた。
「そうよ。」
私を見る義母の視線は、嫁を見るものではなかった。本当の娘を見るような、優しい目だ。
「孫ができなくても良かったの。だって、私にはいたんだから。」
胸の奥が締めつけられる。私は両親を亡くしている。だからこそ、その言葉がとても嬉しくて、誇らしい。
「お母さん……」
気づけば鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなっていた。
「ごめんね。こんな息子で、本当にごめんね。」
義母は泣きながら私の手を握る。
「謝らないでください。幸せにしてくれると思ってたのに。」
「ありがとうございます。そう思ってもらえて、本当に嬉しいです。」
次の瞬間、義母は立ち上がると、勢いよく私を抱きしめた。実の娘を抱きしめるように。冷え切っていた心に、温もりが広がった。
週一は複雑そうな顔で私と義母のやり取りを見ていた。つい先ほど「あんたなんか息子じゃない」と絶縁を言い渡した義母が、私を「娘」というのだ。面白いはずがない。案の定、週一は私を嘲笑うかのように息を吐いた。
「口では何とでも言えるさ。でも、結局大事なのは血縁だろ。母さんだって、今は感情的になってるだけだよ。冷静になれば、俺の方が大事に決まってる。」
週一はそう言うと、今度は私へ視線を向けた。
「所詮、さやかは他人なんだから。」
その言葉に、まなみが大きく頷く。
「確かに。離婚したら、もう他人ですもんね。先輩、せっかくお母さんたちと仲良くなれたのに、残念でしたね。」
そしてまなみは自分のお腹を優しく撫でる。
「でも、大丈夫です。その分、私がちゃんとお嫁さんとして可愛がってもらいますから。」
「なった。何を言ってるの?」
義母の表情から、一切の感情が消えた。先ほどまで怒りで震えていたのに、今は逆に恐ろしいほど冷静だ。
「私にだってね、誰を可愛がるか選ぶ権利くらいあるのよ。」
まなみの笑顔が固まった。義母は構わず続ける。
「それに、離婚したからって、さやかちゃんとの関係は終わらないわ。」
週一が軽蔑そうに眉を潜める。
「はあ?」
「むしろ、今まで以上よ。」
そう言って、義母は私の肩をそっと抱き寄せた。
「私たち、養子縁組の手続きを済ませてるから。」
数秒、誰も言葉を発しなかった。やがて最初に声をあげたのは週一だった。
「え?」
その顔から一気に血の気が引いていく。隣のまなみも同じだった。
「はあ?」
義父が静かに頷く。
「正式に娘になってもらった。」
週一は勢いよく立ち上がり、テーブルを叩く。
「いや、おかしいって!」
「何が?」
「何がじゃないだろう! だって、他人だぞ!」
義母は呆れたようにため息をついた。
「今は法律上も娘だけど、そういう問題じゃない。」
週一の焦りはどんどん強くなっているようだ。目は泳ぎ、手も震えている。
「ちょっと待てよ。」
そのまま義父と義母を交互に見てから、週一は恐る恐る口を開いた。
「じゃあさ、遺産ってどうなるんだよ。」
結局そこなのだろう。義母が目を閉じる。義父は深いため息をついた。
「娘になったってことは、相続権あるんだろう?」
「あるな。」
「はあ。それじゃあ、さやかの分だけ、俺の取り分減るじゃん!」
顔を真っ赤にして叫ぶ週一に、義母は小さく首を振った。怒りを通り越し、もはや哀れむような目だった。実の親に絶縁を言い渡された直後だというのに、週一が真っ先に心配したのは、親子関係ではない。お金だった。
「週一の話を聞いて、私は確信したわ。」
「なんだよ。」
義母は私の手を握る。そして、迷いなく言い切った。
「どうやら、私はあんたの育て方を間違えたみたい。」
「いや、そんなこと言われてもさ。」
週一が言葉に詰まる様子から、ショックを受けているのかと思ったが、彼はすぐに取り繕うように笑った。次に出たのは私と義母への批判だ。
「てか、母さんひどくない? 俺、今日散々なんだけど。ビンタされるし、絶縁されるし。ショックだわ。」
納得がいかないと言わんばかりに眉を潜める。頬にはまだ義母に叩かれた跡が残っていた。週一はさらに被害者ぶるように肩を落とす。
「私の方がショックよ。可愛いと思っていた息子が、こんな人でなしだったんだから。」
義母は呆れたように息を吐く。先ほどまで流していた涙も、今はすっかり引いていた。静かな声には、深い失望が滲んでいる。実の母からの人でなし扱いは、多少聞いたらしい。週一はむっと口を尖らせた。
「そんな大げさな。兄ちゃんたちだって、似たようなもんじゃん。」
「あの子たちは、あんたとは違うわよ。」
「てかさ、養子縁組とか言ってるけど、それ勝手にやっちゃダメなやつじゃないの?」
義父と義母を交互に見る彼の目は、鋭く光っていた。まさか反論する気なのだろう。
「さやかのせいで遺産が減るのは、俺だけじゃないんだろう。兄ちゃんたちも嫌がると思うな。」
その場の空気が少し変わった。義両親は互いに目くばせして、呆然としていた。そんな反応を週一は勘違いしたらしい。自分の味方が増えるとでも思ったのだろう。
「だってそうだろ。いくらさやかが母さんのお気に入りとはいえ、兄ちゃんたちはさやかの良さなんて知りっこないし。急に知らない女が娘になりましたって言われても困るだろう。それどころか、遺産目当ての女に騙されたって思うんじゃないの?」
まなみも「確かに」と頷いている。
「それはちょっと思うかも。」
二人は顔を見合わせて笑う。まなみの同意を得て、週一はますます得意げだ。先ほどまで青ざめていた男とは思えない。人は自分に都合のいい希望を見つけると、ここまで元気になれるものなのかと、逆に関心してしまう。しかし、週一の言うことも一理ある。私自身危惧していた点だ。もっと義兄たちと面識があれば、受け入れてもらえる可能性も少しは上げられた。実際は、会話したかどうかさえ思い出せないことが悔まれる。
「俺さ、母さんたちは今感情的になってるだけだと思うんだよね。だって、普通に考えておかしいじゃん。血の繋がりもない他人を娘にするとかさ。私が親だったら、絶対嫌だろう。さやかだってさ、さすがに期待しすぎだって。今は勢いで絶縁だなんだって言ってるけど、数ヶ月もすれば落ち着くって。」
週一も、そしてまなみも自信満々だ。まなみは自分のお腹を撫でながら微笑む。
「私と週一さんの、可愛い赤ちゃん。お母さんたちだって、絶対会いたくなりますよ。そして、結局お孫さんを抱っこしたら、全部許しちゃうと思います。絶対そう。私ならそうしますもん。」
とにかく、まなみの子供を盾にして両親を取り込むつもりなのだろう。孫を産むのだから、最後には自分が選ばれる。そんな自信が透けて見える。義母は限界だったのだろう。
「好き放題言ってくれて!」
今にも殴りかかる勢いで息を吸い込んだ。しかし、その瞬間、今まで黙っていた義父が静かに立ち上がった。そのままゆっくりとまなみの前まで歩み寄る。
「随分と、さやかちゃんのことを心配してくれてるんだな。うちの息子たちが、さやかちゃんを受け入れるかどうか、気になるか?」
「あ、へえ。」
突然話を振られたまなみは慌てて同意する。
「だって、普通なら嫌ですもん。知らない女が養子縁組だなんて。」
まるで自分が常識人であるかのような口ぶりだ。週一も隣で何度も頷いている。義父は小さく息を吐いた。
「なるほど。私たちが説明しなかったのも、悪かったようだな。」
まなみの顔に期待が浮かぶ。自分の意見が認められたと思ったのだろう。しかし、次の言葉でその表情は凍りついた。
「だが、あなたが心配する必要はないよ。息子たちからは、すでに了承を得ている。」
数秒、沈黙が落ちた。まなみは瞬きを繰り返す。意味が理解できないらしい。週一も同じだった。
「はあ?」
「だから、了承済みだと言ったんだ。」
「兄ちゃんたちが?」
声を荒らげる週一に、義父は当然だとため息をつく。その横から、今度は義母が口を開いた。
「そもそもね、養子縁組を提案してきたのは、あの子たちなのよ。『離婚したら、さやかちゃんと他人になってしまうでしょ。こんなに大好きなのに』って。だから、私は寂しいってあの子たちに話したの。そしたらね、長男が言ったのよ。『それなら養子縁組すればいいじゃないか』って。次男もすぐ賛成したよ。」
「そうそう。むしろ、私たちの方が驚いたくらい。」
まなみの顔から血の気が引いていく。週一も口を半開きにしたまま固まっていた。私は思わず聞き返す。
「でも、私、お兄さんたちとはほとんど面識がありません。結婚式であった程度で、まともに話したこともない。それなのに、なぜあっさりとそんな提案をしてくれたのか。」
義母は優しく笑った。
「面識ならあるわよ。だって、私、しょっちゅう話してたもの。」
まなみが嫌な予感を覚えたように表情を曇らせる。義母は気づかないふりをして続けた。
「ほら、あの子たち遠方に住んでるでしょ。だから、定期的に電話やビデオ通話をしてるのよ。」
義父も頷いて同意する。
「どうも、親のことは気になるらしくてな。」
義父は少し照れくさそうに笑った。
「そのたびに、私、自慢してたの。」
「自慢?」
「ええ。」
義母の目が緩む。
「いいお嫁さんが来てくれたって。私が風邪を引いた時、仕事帰りに看病してくれたでしょ。腰を痛めた時も病院へ連れて行ってくれたし、買い物に付き合ってくれたし。誕生日も毎年欠かさない。母の日も、父の日もね。」
二人は次々と私との思い出を口にした。その内容はどれも大したことではないけれど、私が覚えていないような小さな出来事まで、大切に記憶していてくれた。
「だからね、うちの息子が浮気したと聞いた時、長男も次男も、そのお嫁さんも、全員同じことを言ったわ。『さやかさんの味方をしろ』ってね。」
週一の顔が絶望に染まる。身内である兄は、自分より他人の嫁の方を持ったのだ。
「それから、あの子たち、週一に忠告があるからって、メッセージを送ってるって言ってたけど、読んだ?」
週一はすぐにスマホを手にする。そして、画面を見て読み上げた。
「『万が一の可能性を考えて、子供のDNA検査をした方がいい』……なんだよこれ。失礼だな。そんなの必要ないだろ。なあ、まなみ。」
振り返るが、まなみは斜め下を見て固まっていた。普段の彼女なら「ひどい」と怒り出してもいい内容のはず。それをしないということは、すでに答えは出ている。
「まなみ。お腹の子は、俺の子なんだよな。」
「あ、ああ、うん。もちろん、週一さんの子だよ。当たり前じゃん。」
なんとか取り繕っているが、視線は泳ぎ、口元はピクピクと痙攣している。
「まあ、まなみちゃんはモテモテだったからね。検査だけでもしておいた方が安心かもね。」
「最近は社内でも、よく男性と噂になってたし。」
まなみは顔を真っ赤にして立ち上がる。
「先輩、余計なこと言わないでください! モテるとか関係ないじゃないですか。私は週一さん一筋です!」
だが、その言葉に説得力はない。先ほどまで散々強気だった彼女は、今や額に汗をかき、落ち着きなく指先を弄っている。義父は静かに腕を組んだ。
「誰も攻めているわけじゃない。ただ、確認した方が安心だと言っているだけだ。」
「だから、必要ありません!」
義母も呆れたようにため息をつく。
「そんなに自信があるなら、なおさら検査すればいいじゃない。」
「それは……。」
言葉に詰まるまなみ。週一はまなみと義父母を交互に見た。さすがに違和感を覚えたのだろう。
「なあ、本当に俺の子なんだよな。」
「だから、そうだって言ってるでしょ!」
「じゃあ、なんでそんなに慌ててるんだよ。」
珍しく週一が食い下がる。
「慌ててない!」
「いや、慌ててるだろう。」
まなみは唇を噛みしめた。その様子を見ていた山本が、小さく咳払いをする。
「まあまあ、この件は、後日検査すれば白黒つく話ですから。」
本来ならそこで終わる話だった。しかし、まなみはそれを聞いてさらに顔色を悪くした。私は思わず首をかしげる。
「そんなに嫌?」
「嫌とかじゃなくて! じゃあ、何だって信じてくれないってことでしょ。それが悲しいだけ。」
まなみは必死になって否定するが、焦れば焦るほど怪しさが増している。最初は全く疑っていなかった週一も、次第に表情を曇らせ始めた。
「今って、DNA鑑定は簡単にできるんだもんな。そんなに高くもなさそうだし。念のため、やってみようよ。」
「必要ないってば!」
「でも、このままじゃ、ほら、俺はまなみのこと信じてるけど、世間というか周りは疑ってて……。」
「週一さんが信じてくれてるなら、それで十分だし!」
週一はどうにかDNA鑑定をしようとまなみを説得中。山本に目くばせして助けを求める。
「潔白だという証明にもなりますし、ここまでこじれると、受けた方がいいのでは。」
「ほら、まなみ、俺たちの愛、証明してやろうぜ。」
「……いやだ。」
まなみは決して承諾はしない。週一も強くは言えないらしく、戸惑っている。私は引き出しからファイルを取り出し、山本へと手渡した。
「私にですか?」
「ええ、ご確認ください。」
山本は不思議そうに受け取り、中を見た。そして、数秒後、震え出す。週一は大声で山本を呼んだ。
「山本、どうした?」
「DNA鑑定は、絶対にした方がいい。結果はもう分かってるが。」
あまりの衝撃に、ずっと敬語を崩さなかった山本がタメ口になっている。
「はあ?」
山本の手にした書類を覗き込んだ週一は、息を飲んで静止した。
私が山本に手渡したのは、本来週一と二人で聞く予定だった、不妊検査の結果だ。部屋の空気が一瞬で凍りついた。先ほどまで威勢よくまなみを庇い、義両親に食ってかかっていた週一は、固まったままピクリとも動かない。まなみも同じだった。紙に書かれた文字を見つめたまま、顔からさっと血の気が引いていく。
「んなんだよ、これ。意味わかんねえよ。」
週一は手の中の検査結果と、まなみの顔を何度も見比べていた。現実を理解できないのだろう。子供のように口を半開きにして止まっている。山本は深いため息をついた。
「そのままの意味だ。精密検査の結果、自然妊娠は極めて困難と診断されている。精子が確認できなかった。」
「そうだ。」
週一は勢いよく立ち上がった。椅子が「ガタン」と大きな音を立てる。
「そんなわけあるか!」
テーブルを叩きながら叫ぶ。週一は再び書類へ視線を落とした。そこには専門用語が並んでいる。だが、細かい内容など読めていないだろう。重要なのは結果だけだ。
「でも、まなみは妊娠してるんだぞ!」
週一の言葉と同時に、全員の視線がまなみへ集まった。まなみは肩を震わせていた。顔色は真っ青で、唇は乾き、目は泳ぎ続けている。ほんの数分前まで「運命の相手です」「可愛い赤ちゃんを抱っこさせてあげます」と得意満面だった女性とは思えない。
「しかも、俺は男だぞ!」
「男だからなんだ。無精子症は健康状態とは別問題だ。」
山本の言葉に、週一は反論できなかった。自分は男として完璧で、不妊の原因があるとすれば私の方だと決めつけていたのだろう。だから、いつも一人で病院にも行きたがらなかった。まなみの妊娠を聞いた瞬間も、自分の子だと一切疑わずにいたのだ。
「何かの間違いだ……。」
「そう思うなら、再検査すればいいよ。私は静かに答えた。でも、その結果を聞く前に、浮気相手の妊娠を理由に離婚を迫ったのは週一だよね。」
「それは……。」
私たちは翌日に病院へ行く予定だった。あの日のことを思い出す。病院へ行く前日、玄関で土下座していた二人。まなみのお腹にできたと言われた瞬間、私がどんなに絶望したか。二年間授かれなかった私より、たった一度で妊娠したまなみの方が週一と相性がいいのだと思った。
「まあ、全部嘘だったみたいね。」
静かに告げると、週一は顔を歪めた。その横で、まなみが必死に口を開く。
「違います! 検査ミスかもしれないじゃないですか! 病院側も再検査を進めてるようだし!」
「ただし、数値を見る限り、可能性は極めて低い。」
「そんなの、わからないでしょ!」
山本が呆れたように肩を落とす。
「じゃあ、どうしてDNA鑑定を嫌がるの?」
それを義父が低い声で尋ねた。
「本当に、週一の子なのか?」
「だから、そうだって……!」
「なら、鑑定できるな。」
その沈黙が何より雄弁だった。週一もようやく気づき始めたらしい。顔色がどんどん悪くなる。
「まなみ……。」
「だから、そんなの生まれてみなきゃわからないじゃないですか!」
「俺の子なんだろう?」
週一は年王して再度尋ねるが、まなみは答えない。週一の目が大きく見開かれる。ようやく自分が置かれている状況を理解したらしい。浮気し、裏切って離婚した。両親に絶縁宣言までされ、命がけで祭祀を守ろうとしたのに、自分の子ですらない可能性がある。
週一は助けを求めるように山本を見た。だが、山本は小さくため息をついただけだ。
「週一さん。法律上の話をしなきゃな。」
冷静な声に、週一の方が震える。
「あなたは奥様との婚姻中に、不貞行為を行い、その相手を妊娠させたと主張して離婚しました。でも、その子は俺の子じゃないかもしれなくて……。」
「確かに、その可能性もありますね。」
山本はあっさりと返した。週一の知人のはずだが、励ますそぶりはまるでない。ただただ弁護士として淡々と告げる。
「ですが、それは別問題です。仮にその子が別の男の子だったとしても、あなたが浮気した事実は消えません。あなたが被害者になれるのは、まなみさんとの関係の中だけです。残念ながら、さやかさんとの関係では、あなたは加害者です。」
山本は週一側の人間だと思っていた。だが、あまりにも情けない姿に愛想を尽かしたのかもしれない。彼が口にするのは厳しい言葉ばかりだ。まるで裁判官の判決のように投げかけている。次第に週一の顔から血の気が引いていく。
「それに対して、義父も静かに頷き、義母は顔を振って呆れ果てた。」
「その通りだな。」
「本当に情けない。」
「でも、俺だって騙されたんだぞ!」
自分の不貞行為を正当化できるとでも思っているのだろう。途端に被害者を主張する週一が、男として小さく見えた。私が怒りを口にする前に、義母の怒声が飛ぶ。
「さやかちゃんを裏切ったのは、あんたでしょ! 言い訳してるんじゃない! しかも、さやかちゃんは二年よ。どれだけ辛かったか。二年間、あなたを信じて、夫婦として頑張ってきたの。子供が欲しいって悩んで、病院にも通って、あなたのために食事だって気をつけて。それなのに、あんたは自分が何をしたか分かってるの?」
週一は何も言い返せない。義母への感謝の気持ちの後に、ざまあみろという感情が湧いてくる。私はそこで口を開いた。
「悲劇のヒロインぶっているところ悪いけど、まだ話は終わってないわよ。」
「へ?」
「週一が騙されたからって、私には何の関係もない。慰謝料と共有財産は、きっちり払ってもらわないと困る。」
週一は青い顔のまま、その場に膝から崩れ落ちた。
「いや、でも、今はそれより、お腹のこの父親が誰かを知る方が……」
「この後に及んで、自分のことばかり。私はそんなこと、どうでもいいの。それより、払うものちゃんと払ってもらわないと。他人であるあなたと、早く離れたいから。」
「そうね。さやかちゃんの言う通りだわ。今更、被害者ぶってどうするの?」
私と義母に散々言われて、週一は眉を下げて困惑している。半狂乱状態だ。
「待ってよ! こんなに一気にまくし立てられて! 俺、自分の子供じゃないって、まなみに浮気されたって分かって、ショックだったのに! それを金ね金ねって! こっちの気持ちも考えてくれよ!」
声を上げて泣き叫ぶ週一。大の大人がそこまで感情を荒らげられるなんて、羨ましい。私にはできなかった。
「全く同じことよ。私も、あなたとまなみちゃんにされたけどね。」
でもありと思い出される。仕事から帰宅した瞬間に目に入った週一の土下座。衝撃的な浮気報告に、妊娠宣言。畳みかけるように傷つけられた。
「私はいきなり夫に浮気された被害者。でも、あなたは自分で選択して行動した結果、つまり自業自得でしょ。」
週一は言葉を詰まらせる。またも山本に助けを求めるが、さすがに弁護士もお手上げなのだろう。静かに横に首を振る。
「さて、感情の話は終わり。次はお金の話をしましょうか。今度こそ、逃げ場は与えないわ。まず、共有財産返して。なんなら、そこから慰謝料をもらうから。」
静まり返った部屋に、私の声がはっきりと響く。先ほどまで自分は被害者だと泣き叫んでいた週一だったが、もう反論する気力も残っていないらしい。肩を落とし、視線をテーブルに固定したまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
「共有財産には……ちょっと手をつけてた。」
「ちょっと?」
週一は苦いものを飲み込むように顔を歪める。
「最初は本当に、少しだけだったんだよ。まなみと関係を持ち始めた頃から、出費が急激に増えたらしい。最初は食事代。それから、プレゼント。記念日でもないのにブランド品をねだられ、高級レストランへ連れて行けと言われる。週一は見栄っ張りだ。まなみの前では頼れる男でいたかったのだろう。」
「さやかと違って、まなみは絶対奢らなきゃいけないし。何でも試すから、大変だ。」
「はあ? ちょっと!」
今まで大人しくしていたまなみが、勢いよく顔をあげた。
「何その言い方? 全部、私のせいみたいじゃん。」
「実際、お前のせいだろ。」
「私が頼んだのは、普通のことだし!」
「普通の女は、毎月ブランドバッグ欲しがらねえよ。」
まなみはミーハーで、厭味ったらしいところがある。出社する際のファッションにもこだわりがあると、同期に語っていた。また、周りにマウントを取りたがるのも原因の一つだろう。
「欲しいなんて、一言も言ってない!」
「SNSで何回も送ってきただろう。買い物に行けば、買うまで動かないし。」
週一が言い返した途端、まなみは言葉に詰まった。どうやら心当たりはあるらしい。私は呆れながら二人を見つめた。この後に及んで、責任の押し付け合いとは。子供を授かったと喜び、運命の相手だなんてと盛り上がっていた姿が、遠い昔のようだ。
「とにかく、こいつには金がかかったんだよ。」
ただの浮気相手でも多大なる出費。妊娠が発覚し、離婚して再婚する未来を本気で考え始めてからは、さらに不安が膨らんだとか。生活費だけでなく、出産費用に育児用品代も必要だ。今までは私との共働きだったが、まなみは専業主婦希望。まなみと子供を一人で養わなければならないと思うと、目の前が真っ暗になったらしい。
「正直、金のこと考えたら、頭痛くなってさ。」
「だからって、私のせいにしないでよ!」
「お前のせいでもあるだろう。」
再び始まる言い争い。山本ですら呆れた顔で黙っている。週一はそんな空気に気づく余裕もないまま続けた。
「それで、思ったんだよ。」
「何を?」
「共有財産だけは、確保しとこうって。」
名案を思いついたと言わんばかりの口調だ。私は思わず笑いそうになる。夫婦の共有財産を勝手に使い込むことを「確保」と表現するらしい。週一は気づかない。その言葉がどれだけ自分勝手で愚かなのかを。
「さやかは、なんだかんだ言っても優しいから。子供がいるって言えば、慰謝料は分割で許してくれると思ったし。場合によっては、免除してくれるかなって。あと、共有財産の使い込みについてもさ。父さんたちの借金返済に使ったって言えば、それ以上責められないと思ったんだ。」
あまりにも浅墓な発想だった。私が義両親を大切に思っていることを利用したのだ。一気に週一への感情が覚め切っていく。元々浮気発覚以降、どんどん心は離れていったが、自分の両親を出しにするなんて許せない。
「本当になめられたものね。で、今いくら残ってるの?」
「いや、その……。」
「まさか、全部使った?」
「違う!」
慌てて否定する週一。その反応を見る限り、多少は残っているらしい。山本が口を開いた。
「週一さん、ここまで来たら、正直に話した方がいいぞ。後で発覚した方が、余計に不利になる。」
観念したのだろう。週一は長い沈黙の後、小さく呟いた。
「はっきりとは覚えてないけど、三百万くらいは残ってる。」
まなみが目を見開く。
「三百万!」
どうやら彼女も知らなかったらしい。
「なるほどね。私はあっさり頷いた。隠し場所は、あなたのご実家かしら。」
「なんでそれを!」
勢いよく顔をあげた週一の反応だけで十分だった。図星だ。弁護士の借金話は真っ赤な嘘だが、週一が頻繁に義実家へ通っていたのは事実だった。私は前から不思議に思っていた。あれほど面倒くさがりの週一が、なぜ休日になると実家へ顔を出していたのか。答えは単純だったらしい。
「お金がちゃんとあるか不安で、定期的に確認しに行ってたんでしょ? それとも、自分の口座のお金が減るたびに、回収してたとか?」
何も言わないのは肯定の証。この男が犯した罪は、浮気だけではない。私との未来のために積み立てたお金まで、自分の都合で食いつぶしていたのだ。まなみは信じられないものを見るような目で週一を凝視していた。
「ちょっと待って。共有財産って、私たちの結婚資金に使うって言ってたお金?」
「お前、今は黙ってろ!」
「そうなのね。それが三百万円なんでしょ。」
まなみの顔色が変わる。
「嘘でしょ? 信じらんない! 私、ちゃんと貯金してるから安心してって言われたんだけど!」
「いや、知ってただろ! 半分は私のものだ! でも、慰謝料で取られちゃうじゃん!」
先ほどまで週一と一緒になって私を追い詰めていたまなみだが、彼女は今度は週一を攻め始めた。なんとも滑稽な光景だ。週一は額の汗を拭いながら弁解を続ける。
「だって、仕方なかったんだよ! お前、ブランドのバッグ欲しいだの、ベビー用品は新品がいいだの、色々言ってただろう!」
「当たり前じゃない! 赤ちゃんのためなんだから!」
「その結果、俺がどれだけ金使ったと思ってるんだよ!」
「知らないわよ!」
義父は呆れたように目を閉じた。
「情けない。」
義母も深いため息をつく。
「お金があると思ったから、一緒になろうとしたの?」
まなみは否定しようと口を開くが、何も出てこない。反論の余地がなかった。
「この際だから、全部話して欲しいんだけど。浮気してたのは、まさか、一回だけの関係じゃないよね。金額からしても、絶対一回だけじゃないでしょ。」
「正直に話したら、慰謝料の減額してくれるか?」
「あなた次第。」
週一は淡々と話し始めた。一回の行為と聞いていたが、実際は一年前から付き合っていたらしい。当然、まなみが週一が既婚者で私の夫だと知っていた。
「いいマンションに住んでて、羽振りがいいため、狙い出したのがきっかけだ。顔も嫌いじゃなかったし。ま、すぐにデレデレしてくれるから、扱いやすかったし。」
「妊娠は、本当なの? 誰の子か、分かってる?」
「もう、この際だから、行っちゃってもいいっか?」
まなみは悪い笑みを浮かべ、口元に人差し指をかざす。
「絶対に内緒ですよ。実は、部長の可能性が高いんです。」
同時期に、部長と週一、両方とも関係を持っていたらしい。だから、不妊症だと気づくまでは確率は半々。どうせなら若い方がいいからと、週一に妊娠の報告をした。
「でも、まさか不妊だったなんて。賭ける方、間違えたな。」
「あなた、平然と言ってるけど、部長も既婚者だって分かってる。」
「ええ。でも、バレませんよ。先輩はおしゃべりなんてしないだろうし。もし噂になっても、私が否定すれば大丈夫です。私、略奪婚したんですよ。先輩の逆恨みで、周囲は納得しますから。」
想像以上の悪女だ。山本はなんとか無表情を貫いているが、週一と義両親は明らかに引いている。静かになったところで、私は山本へ視線を向けた。
「弁護士さん。これまでの話、全部聞いてましたよね。」
山本は疲れきった顔で頷く。
「ええ。週一さんは浮気はもちろん、共有財産を隠していることも認めました。二人の浮気の期間も判明してます。それなりの慰謝料は確定するはずだ。」
私の視線を警戒し、山本は誇らしげにこちらを見ている。
「え、山本!」
週一がすがるが、私はにっこりと笑いかけた。
「優秀な弁護士を紹介していただけますか? 証拠はあるので、お手は煩わせません。」
「証拠とは?」
ここで私は、ずっとテーブルの端に置いていたものを掲げる。ずっと動かさなかったから、誰も気づかなかったらしい。
「ボイスレコーダーです。最初からずっと、録音してました。」
山本は感心したように微笑み、週一は驚愕している。すでに事前に伝えていた義両親は満足げだ。そして、一番の動揺を見せたのはまなみだ。
「ひどい! 盗撮!」
「私は最初に言いました。『録音しますね』って。で、でも、ボイスレコーダーも、堂々と出してたし。」
「あ、でも、これでまなみちゃんが部長の浮気相手だって証拠も取れちゃったね。」
まなみが私に逆恨みでもしようものなら、容赦しない。会社でも、部長の奥様でも、喜んで録音データを渡してやる。
「欲しいものも得られたし、そろそろさやかちゃんも疲れたでしょう。あとは弁護士さんにお任せして、この子たち、追い出しましょうっか。」
「はい。」
義母は鋭く週一を見る。
「あんたは、絶縁だって言ったでしょ。私もお父さんも、さやかちゃんの味方よ。」
「そんな! でも、俺、住むところも……!」
「自分でどうにかしなさい。もう大人だろ。」
言い放ち、義父が週一の首根っこを掴む。義母はまなみの手を取り、背中を押して玄関へと導いた。
「父さん! 俺はまだ話が……! 待って! お母さん、私……!」
「あなたにお母さん呼ばわりされる理由はないわ。」
義母は毅然とした態度で彼らを玄関から追い出した。週一たちはしばらく何か言っていたが、やがて諦めたのだろう。私が義両親に励まされているうちに、いつの間にか静かになっていた。
その後、私は離婚届けを提出して、無事に離婚が成立。週一は何度も義実家に連絡を寄越し、どうにか許してもらおうと頭を下げた。しかし、義母も義父も断固拒否。申し訳なくなるほどに私を可愛がり、週一を拒絶した。
週一とまなみは、あっさりと離婚。まなみはだいぶごねたそうだが、やはり部長との不貞行為が露見したのが原因で、最後には諦めたらしい。ならばと部長に迫っていたが、すでに奥様にマークされており、私が情報提供する間もなく訴えられていた。更新所に狙われていたとか。別の男性である週一と結婚したため、一時期保留されていたが、離婚したのですぐさま問い詰められたそうだ。まなみは部長の奥様、双方に慰謝料を請求され、さすがにパニックになって実家に泣きついた。まなみの両親はそれなりに裕福だったので、慰謝料は肩代わりされ、一括で振り込み済み。会社も退職したため、今後私と彼女が会うことはないだろう。
週一の慰謝料は、ひとまず共有財産を全額もらうことに。それでも相場からすると足りないため、義父が代わりに払ってくれた。幸い、週一は仕事はそのまま続けるらしいので、少しずつ返済していくようだ。義両親のお金だと思うととても申し訳なくてもらえないと拒否したが、「けじめだから」と押し切られてしまった。
また、義兄たちとは改めて食事会を開き、顔合わせをした。週一とは驚くほど似ておらず、とても常識的で気遣いのできる方々だ。義母は、週一は末っ子だから甘やかしすぎたと反省していた。
離婚したのに、別れた夫の家族と交流があるなんて、一般的には変だと思われるだろう。養子縁組が有効のままなのもおかしいと思う。しかし、今でも私は自らの意思で義両親と連絡を取り、彼らの娘として定期的に会っている。今回のことで、親戚や身内のいない私にとって、信頼できるのは義両親だと実感したからだ。
もし私が違う人と結婚する際は、養子縁組を解消すると言われているが、可能ならばこのままがいい。そう伝えると、義母は涙目になりつつ言ってくれた。
「そうね。さやかちゃんは、私たちの可愛い娘だもんね。」
週一との結婚は間違いだったかもしれない。もはや彼との楽しかった思い出も、色褪せてしまった。ただ、義両親と出会わせてくれたことには、感謝したいと思う。
「お母さん、ずっと元気でくださいね。」



