「ただで家政婦が使えるんだから、限界まで使わないと損でしょ」——夫を亡くし、女手一つで息子を育て上げ、1300万円以上を注ぎ込んできた63歳の私は、息子夫婦に「週4で通って孫の世話をしてください」と命令されるようになった。片道1時間15分、交通費も全て自腹。感謝の言葉はなく、ある日ふと聞こえてきた息子夫婦の会話で、自分が「ちょろい」「邪魔」「所詮パート」と道具扱いされていることを知った。泣き…

「ただで家政婦が使えるんだから、限界まで使わないと損でしょ」——夫を亡くし、女手一つで息子を育て上げ、1300万円以上を注ぎ込んできた63歳の私は、息子夫婦に「週4で通って孫の世話をしてください」と命令されるようになった。片道1時間15分、交通費も全て自腹。感謝の言葉はなく、ある日ふと聞こえてきた息子夫婦の会話で、自分が「ちょろい」「邪魔」「所詮パート」と道具扱いされていることを知った。泣き...

仕事から疲れて帰宅した夜、スマートフォンに届いた息子からのメッセージを見て、私は自分の目を疑った。

「お母さん、明日から私たちの家に通って孫の世話をしてくださいね。」

「通って」という言葉が、まるで業務命令のように冷たく響いた。お願いではなく、命令。その一方的な文面に胸の奥が締め付けられるのを感じた。

すぐに息子の雄太から電話がかかってきた。

「母さん、エミからLINE来ただろ。週4で来てくれよ。給食センターの仕事なんてパートみたいなもんだろ。融通利くってさ」

私は言葉を失った。33年間、地域の子どもたちのために携わり続けてきた仕事。それがたった一言で「パートみたいなもん」と片付けられた。スマホを握る手が小さく震えていた。

私は竹内みさ子、63歳。市立給食センターで調理員として33年間働いてきた。食品衛生推進員の資格も持ち、地域の食育活動にも携わっている。夫は雄太が高校2年生の時に病気で亡くなった。それからは女手一つで息子を育て上げた。朝5時に起きて弁当を作り、昼は給食センターで働き、夜は内職。自分の服は何年も同じものを着続けた。息子のためなら何も惜しくなかった。

大学の学費として600万円、結婚資金として200万円、マイホーム購入の頭金として500万円。総額1300万円以上を息子と息子の家族に援助してきた。

「母さん、本当にありがとう。一生忘れないよ」

結婚式の日、雄太は涙を浮かべてそう言った。その言葉を私は信じていた。

しかし、孫が生まれてから全てが変わり始めた。最初は「お手伝いに来ていただけると助かります」という可愛らしいお願いだった。それが徐々に「来てください」になり、そして今日「通ってください」という命令に変わった。感謝の言葉は消え、「やって当然」という態度だけが残った。1300万円ものお金を注ぎ込んできた私が、今は「通え」と命令される立場になっていた。

その日の夜、私は眠れなかった。「週4で通ってください」という命令のような言葉が頭の中でぐるぐると回っていた。

私は思った。私にも仕事がある。33年間続けてきた給食センターの仕事だ。簡単に休めるものではない。

でも翌朝、雄太から再び電話がかかってきた。

「母さん、頼むよ。エミが参ってるんだ。仕事と育児の両方が大変でさ。頼れるのは母さんしかいないんだよ」

息子に言われると断ることができなかった。孫のためなら、息子の家庭を助けるためなら——私は「分かったわ」と答えてしまった。その瞬間、電話の向こうでエミの声が聞こえた。

「よかった。これで安心ね」

まるで最初から断られるとは思っていなかったような軽い声だった。

こうして私の「通い」の日々が始まった。

私の家から息子の家まで、電車で片道1時間15分。乗り換えも2回ある。往復で2時間半。週4日通うということは、移動だけで膨大な時間を費やすことになった。交通費は往復1200円。月に約2万円。年間で24万円近くを全て自腹で払うことになる。誰もその負担を気にかけてはくれなかった。交通費を出してほしいと言える雰囲気ではなかった。

朝6時に家を出て、息子の家に着くのは7時15分。玄関を開けるとすぐに慌ただしい一日が始まった。朝食の準備、食器洗い、掃除機かけ、拭き掃除、洗濯、アイロン掛け、買い物、孫の世話、昼食を作り、孫と食べ、片付けをして、また掃除。夕食の準備をして、孫をお風呂に入れて、寝かしつけをして帰宅するのは夜8時過ぎだった。

63歳の体には、想像以上の負担だった。膝が痛くても、腰が重くても、休むことは許されなかった。それでも私は文句一つ言わなかった。孫の笑顔を見られるだけで幸せだと自分に言い聞かせていた。

しかし、感謝の言葉はどこにもなかった。

「お母さん、この味噌汁薄くないですか?私の実家ではもっとしっかりした味付けなんですけど」

エミは顔をしかめながらそう言った。私が早朝から丁寧に出汁を取って作った味噌汁だった。

「お母さん、洗濯物の畳み方が雑です。もっと丁寧にやってもらえません?」
「掃除、ここ見てください。ほこりが残ってますよ」
「お母さんの料理、正直言って飽きるんですよね。今時の子どもには合わないと思います」

どんなに頑張っても感謝の言葉はなかった。むしろ「やって当然」という態度ばかりだった。私の努力は全て透明になっていくようだった。

雄太も妻の味方だった。

「母さん、エミの言う通りだよ。もう少し気をつけてよ」

私が何十年も作り続けてきた料理を、息子は簡単に否定した。あなたはこの味で育ったのに——そう言いたかったが、言葉が出なかった。

ある日、エミが真顔で私を見つめて言った。

「お母さん、最近もの忘れがひどくありません?この前もお使いの品を間違えてましたよね」

私は愕然とした。特売品があったから変更しただけだった。それなのにエミは続けた。

「認知症の始まりかもしれませんね。そろそろ施設のこと考えた方がいいんじゃないですか」

63歳で認知症扱い。私は言葉を失った。悔しさで涙が出そうになったが、必死にこらえた。

さらにエミは両親との比較を始めた。

「うちの両親は毎月30万円援助してくれるんです。海外旅行もプレゼントしてくれましたし。やっぱりしっかりした家庭は違いますよね」

雄太も露骨に言った。

「母さん、正直言ってエミの両親と比べると見劣りするよ。もう少し頑張ってくれないかな」

私は必死に働いて1300万円を援助してきた。それなのに「見劣りする」と言われた。

極めつけは、孫との時間だった。

「お母さん、孫の教育方針がちょっと古いんですよね。私の両親の方が教育に詳しいので、そちらにお任せしたいんです。お母さんは家事だけやってくれればいいですから」

「家事だけ」——その言葉が私の存在価値を否定しているように感じた。私は孫と遊ぶことすら許されなくなった。絵本を読んであげることも、一緒におやつを食べることも。まるで無料の家政婦、いや家政婦以下の扱いだった。家政婦なら給料がもらえる。交通費も支給される。私は全て自腹で、感謝もされず、文句だけを言われ続けた。

こんな日々がいつまで続くのか——そう思いながら過ごしていたある日、決定的な出来事が起きた。

その日も私はいつも通り息子の家で家事をしていた。昼食の片付けを終え、トイレに行こうと廊下を歩いていた時だった。部屋から雄太とエミの会話が聞こえてきた。二人とも、私がまだ家にいることを忘れているようだった。

「ねえ、お母さんにもっと来てもらえないかな?」エミの声だった。「週4じゃ足りないのよ。できれば毎日来てもらいたいわ」

私は思わず足を止めた。毎日?今でも体はきついのに、これ以上増やすなんて。そんなの無理に決まっている。

「でも母さん、最近疲れてるみたいだし。63歳だぞ」雄太がそう言った。少しだけ息子の優しさを感じた。やっぱり雄太は私のことを心配してくれている。血のつながった親子なのだから当然だ。そう思った。

しかし、次のエミの言葉がその淡い期待を完全に打ち砕いた。

「だから何?ただで家政婦が使えるんだから、限界まで使わないと損でしょ」

「ただで家政婦」——その言葉が私の心臓をわしづかみにした。足が震えて、壁に手をつかなければ立っていられなかった。

エミは続けた。

「お母さんって本当に便利よね。文句も言わないし、断らないし。使い放題じゃない」

「まあ確かにな。母さんは断れないタイプだから」雄太がそう答えた。

私をかばう言葉は一つもなかった。息子の声には何の感情もこもっていなかった。まるで他人事のように冷たく響いた。

「しかも交通費も自分で払ってくれてるし、本当に助かるわよね」
「そうだな。月2万円くらいかかってるはずだけど、一度も請求してこないし」
「当たり前でしょ。孫に会えるんだから、それくらい自分で払うべきよ」

私は全身の血が凍るような感覚を味わった。月2万円近くをずっと自分で払い続けているのを「当たり前」と言われている。彼らにとって、私の負担など最初から眼中になかったのだ。

さらに会話は続いた。

「ねえ雄太、正直に言っていい?」
「何?」
「お母さん、ちょっと邪魔なのよね」

「邪魔」——週4日、片道1時間15分かけて通い、朝から晩まで働いている私が「邪魔」。その言葉に、目の前が真っ暗になるような感覚を覚えた。

「邪魔ってどういうこと?」
「だから、お母さんがいる時間を使うじゃない。私、自分の両親と同居したいのよ」
「同居?でも母さんが通ってくれてるから助かってるんだろ」
「通いと同居は違うでしょう。お母さんには今まで通り通ってもらって、家事だけやらせておけばいいの。で、私の両親にはこの家に住んでもらうの」
「なるほど。エミの両親なら金も出してくれるしな」
「そうそう。お母さんはお金ないけど体は動くでしょ。だから家事担当。私の両親はお金持ちだから援助担当。うまく役割分担すればいいのよ」

私は壁に背中をつけて、必死に息を整えた。お金がないから家事担当——私が必死に貯めて渡した1300万円は、なかったことにされているのだろうか。あのお金があったから、この家を買えたのに。

「でも母さん、最近本当に疲れてるみたいだぞ。膝も痛いって言ってたし」
「だから何?お母さんが使えなくなったら、その時考えればいいじゃない。どうせ代わりの家政婦はいくらでもいるわ」

使えなくなったら、代わりはいくらでもいる——まるで道具のような言い方だった。私は人間ではなく、いつでも取り替えられる便利な道具として見られていたのだ。

「まあ、母さんは断れないタイプだからな。もっと来てって言えば絶対来るだろう」
「そうよね。お母さんって本当にちょろいわ。ちょっと孫を出しに使えば何でもやってくれるもん」

「ちょろい」「孫を出しに使う」——涙が溢れそうになった。でも泣いてはいけないと思った。今は全てを聞かなければ。

「ああ、お母さんがもっとお金持ちだったら良かったのに。うちの両親みたいにさ」
「仕方ないだろ。母さんは給食センターのパートだぞ。33年も続けてるって言ってるけど、所詮パートでしょ。大した稼ぎじゃないわよね」
「まあ、俺を育てるのに精一杯だったんだろ。貯金もそんなにないだろうし」

33年間私が誇りを持って続けてきた仕事、地域の子どもたちの食を支えてきた仕事。それを「所詮パート」「大した稼ぎじゃない」と笑われていた。

私は静かにその場を離れ、洗面所に駆け込んだ。鏡に映った自分の顔は血の気が引いて真っ白だった。「ただで家政婦」「限界まで使わないと損」「便利」「ちょろい」「邪魔」「使えなくなったら考えればいい」「所詮パート」——一つ一つの言葉が心に深く突き刺さった。

必死に育てた息子が、私をこんな風に見ていたなんて。

声を殺して一人で泣いた。涙が止まらなかった。

でも、泣きながら私は気づいた。もう十分だ。これ以上あの人たちに尽くす必要はない。私は道具じゃない。便利な家政婦じゃない。私には私の人生がある。33年間給食センターで築いてきた経験と信頼がある。誰にも奪えない、私だけの財産がある。

洗面所の鏡の中で、私は自分の目を見つめた。涙で潤んだ目の奥に、小さな炎が灯ったような気がした。その瞬間、私の中で何かが静かに、しかし確実に変わった。もう我慢しなくていい。反撃の時が来たのだ。

その日、私は何事もなかったかのように家事を終え、息子の家を後にした。

「お母さん、明日もよろしくお願いしますね」エミはいつも通りの声で言った。

私は黙って頷き、玄関を出た。

電車の中で窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。頭の中ではさっき聞いた言葉がぐるぐると回っていた。「ただで家政婦」「限界まで使わないと損」「ちょろい」「邪魔」「所詮パート」——悔しさと怒りが込み上げてきた。涙がこぼれそうになったが、必死にこらえた。電車の中で泣くわけにはいかない。

でも同時に、不思議な冷静さも感じていた。感情的になってはいけない。今は冷静に次の一手を考えなければ。私は33年間給食センターで働き、何百人もの子どもたちの食事を作り、衛生管理を徹底し、どんなトラブルにも冷静に対処してきた。その経験が今の私を支えていた。

家に帰ると、私はまずノートを取り出した。この3年間の出来事を全て書き出すことにした。日付、時間、言われた言葉、された仕打ち——一つ一つ思い出しながら、丁寧に記録していった。

書き出してみると、改めてその量に驚いた。週4日の通い、片道1時間15分、往復2時間半。交通費は月に約2万円。3年間で72万円。全て自腹で払い続けてきた。一日の労働時間は約8時間。週4日で32時間、月に128時間、3年間で4608時間にもなる。時給1000円で計算すると、460万円相当の無償労働をしていたことになる。援助金の1300万円と合わせたら、1760万円以上を息子家族に費やしたことになる。

これだけのことをしてきて「ただで家政婦」と言われている。数字にすると、改めて理不尽さが浮き彫りになった。私は何も悪いことをしていない。ただ家族のためと思って尽くしてきただけだ。それなのに、なぜこんな扱いを受けなければならないのか。

翌日、私は信頼できる友人の佐藤さんに連絡を取った。佐藤さんは元公務員で法律にも詳しい人だった。給食センターで一緒に働いていた時代からの付き合いで、何でも相談できる相手だった。

「みさ子さん、それはひどい話ね」全てを聞いた佐藤さんは深いため息をついた。

「どうしたらいいか分からなくて」
「まずは専門家に相談しましょう。私の知り合いにいい弁護士の先生がいるわ。大丈夫よ。あなたは何も悪いことをしていないんだから。むしろ被害者なのよ」

佐藤さんの言葉に、少しだけ心が軽くなった。

数日後、私は弁護士の山田先生に相談した。緊張しながら事務所のドアを開けると、山田先生は穏やかな笑顔で迎えてくれた。

「なるほど。状況を理解しました」山田先生は私の話を最後まで静かに聞いてくれた。途中で遮ることもなく、時よりメモを取りながら真剣に耳を傾けてくれた。

「みさ子さん、あなたには何の落ち度もありません。むしろ精神的虐待を受けていたと言えます」

「虐待ですか?」

「無償で労働しらで感謝もされず、人格を否定され続けてきた。これは立派な精神的虐待です」

先生の言葉に、私は初めて自分が被害者だったことを自覚した。ずっと家族のためと思って我慢してきた。それが当たり前だと思い込んでいた。でもそれは間違いだったのだ。

「訴訟を起こすことも可能ですが、どうされますか?」

「いえ、訴訟は考えていません。ただ、もう関わりたくないのです」

「分かりました。では、きっちりと縁を切る方法を教えましょう」

山田先生はいくつかのアドバイスをくれた。感情的にならず冷静に伝えること。相手の言い訳やなき落としに応じないこと。必要であれば録音などの証拠を残すこと。一度決めたら絶対に揺らがないこと。私はそのアドバイスを一つ一つノートに書き留めた。

そして、ふと気づいた。私にはまだ使っていない切り札がある。33年間給食センターで培ってきた経験と資格、食品衛生推進員としての信頼と実績、地域の栄養士や保健士、学校関係者との人脈。退職後も料理教室の講師や食育アドバイザーとして働ける。息子夫婦がいなくても、私は十分にやっていける。むしろ週4日の通いがなくなれば、もっと自由に生きられる。

私は深呼吸をした。準備は整った。明日、息子の家に行って全てを終わらせよう。もうあの人たちの便利な道具でいる必要はない。私は私の人生を取り戻すのだ。

翌日、私はいつも通りの時間に息子の家へ向かった。電車に揺られながら、何度も深呼吸を繰り返した。今日で全てが終わる——そう思うと、不思議と心が落ち着いていた。

息子の家に着くと、エミがリビングでスマートフォンをいじっていた。

「あ、お母さん、今日もよろしくお願いしますね」

いつも通りの軽い声だった。私のことを何とも思っていない声だった。

「エミさん、雄太はいる?」

「え?ああ、二階にいますけど、呼んでもらえる?何か話があるの?」

エミは怪訝な顔をしたが、雄太を呼びに行った。しばらくして、二人がリビングに揃った。

「何?母さん、話って」雄太は面倒臭そうな顔をしていた。

私はソファには座らず、二人の前に立った。

「今日で最後にします」

「は?」エミが顔をしかめた。

「通うのをやめます。今日が最後です」

一瞬、部屋が静まり返った。雄太とエミは顔を見合わせた。

「ちょっと待ってよ、母さん。急に何言ってるの?」

「急ではありません。ずっと考えていました」

「でも、明日から誰が家事するんですか?孫の世話は?」エミの声が少し上ずっていた。

「それはあなたたちで考えてください」

「いやいや、困るよ。うちは共働きなんだぞ」雄太が慌てた様子で言った。

私は静かに微笑んだ。

「困る。当たり前だろう。母さんがいなくなったらうちは回らないんだよ」

「そうですか。でも、ただで家政婦を使えなくなるのは確かに困りますよね」

二人の顔が一瞬で凍りついた。

「な、何言って——」

「『限界まで使わないと損』でしたっけ?」

エミの顔から見る見るうちに血の気が引いていった。

「聞いてたんですか?」

「ええ、全部聞いていました」

私はバッグからスマートフォンを取り出した。

「念のため、録音もさせてもらいました」

再生ボタンを押すと、あの日の会話が流れ出した。

「ただで家政婦が使えるんだから、限界まで使わないと損でしょ」
「お母さんって本当にちょろいわ。ちょっと孫を出しに使えば何でもやってくれるもん」
「お母さん、ちょっと邪魔なのよね」
「33年も続けてるって言ってるけど、所詮パートでしょ」

自分たちの声を聞いて、二人は完全に言葉を失った。エミは顔を真っ赤にして、雄太は青ざめていた。

「母さん、あれは——」

「その言い訳は聞きたくありません」

私は冷静に言った。

「私がこの3年間で費やしたものを計算してみました」

ノートを取り出し、読み上げた。週4日の通い、交通費は月2万円。3年間で72万円、全て自腹。一日8時間の家事労働、週4日で32時間。3年間で4608時間。時給1000円で計算すると460万円相当。そしてこれまでの援助金——大学の学費600万円、結婚資金200万円、マイホームの頭金500万円。合計1300万円。全て合わせると、1760万円を超えています。

部屋が静まり返った。

「これだけのことをしてきた私を、あなたたちは『ただで家政婦』『所詮パート』と呼んでいた」

「違うんです、お母さん。あれは——冗談で」

「冗談?」私はエミの目をまっすぐ見つめた。「『使えなくなったら考えればいい』というのも冗談ですか?『代わりはいくらでもいる』というのも?」

エミは何も言えなかった。

「母さん、俺が悪かった。本当に反省してる」雄太が頭を下げた。「これからは態度を改めるから。だから、通い続けてくれよ」

「無理です」

「なんでだよ。謝ってるじゃないか」

「謝れば済むと思っていますか?」私の声は、自分でも驚くほど冷静だった。「あなたは私を『便利』だと言いました。『断れないタイプ』だと笑いました。必死に育ててきた息子に、道具扱いされていたんです。それはもう遅いです。私の中で、完全に壊れました」

突然、エミが泣き出した。

「お母さん、本当にごめんなさい。私が全部悪かったんです。反省してます。許してください」

涙を流しながら、エミは私に近づいてきた。

「もう二度とあんなこと言いません。お母さんのこと、本当に大切に思ってます」

「大切に思っている人を『邪魔』とは言わないでしょう」

「あれは本心じゃなくて——」

「では、何が本心なんですか?」エミは言葉に詰まった。「あなたは自分の両親と同居したいと言っていましたね。私は家事担当。あなたの両親は援助担当。そういう役割分担だと。それはそれがあなたの本心でしょう。今の涙の方が嘘です」

エミの泣き顔が一瞬だけ歪んだ——悔しさによるものだったのだろう。

「とにかく、もう関わるつもりはありません。今日で終わりです」

私は玄関に向かって歩き出した。

「待ってくれ、母さん」雄太が追いかけてきた。「お願いだから考え直してくれよ。俺たちどうすればいいんだよ」

「自分たちで考えてください」

「でも、エミは一人でできないし、孫の世話も——」

「エミさんのご両親がいらっしゃるでしょう」私は振り返った。「毎月30万円援助してくださる立派なお家庭が。そちらにお願いすればいいのでは?」

雄太の顔が引きつった。

「あ、あっちは仕事があるし」

「私も仕事があります。33年間続けてきた、大切な仕事が。それを『所詮パート』と言われましたけどね」

「母さん、家政婦を雇う方法もありますよ。月に25万円くらいかかるそうですが——」

「そんな金、どこにあるんだよ」

「知りません。でも、私に払う気はなかったんでしょう。ただで使えると思っていたんでしょう」

雄太は何も言えなかった。

私は靴を履き、玄関のドアに手をかけた。

「待って。お母さん」エミが駆け寄ってきた。「お願いします。考え直してください。私たち、本当に困るんです」

「因果応報という言葉をご存知ですか?」私は静かに言った。「人を道具のように扱えば、いつか自分に帰ってきます。これがその報いです」

「そんな——」

「もう連絡しないでください。電話にも出ません」

「お母さん——」

私はドアを開け、外に出た。

「さようなら」

ドアを閉める瞬間、エミの泣き叫ぶ声が聞こえた。でも、私は振り返らなかった。

外は晴れていた。空がいつもより青く見えた。深呼吸をすると、胸の奥に溜まっていた重いものが少しだけ軽くなった気がした。3年間ずっと背負い続けてきた荷物。それをようやく下ろすことができた。

駅に向かって歩きながら、私は思った。これで良かったのだ。私は道具じゃない。便利な家政婦じゃない。私には私の人生がある。

電車に乗り、窓の外を眺めた。涙は出なかった。むしろ清々しい気持ちだった。片道1時間15分のこの道をもう通うことはない——そう思うと、自然と笑みがこぼれた。

家に着くと、私はまず熱いお茶を入れた。ゆっくりとお茶を飲みながら、これからのことを考えた。給食センターの仕事はあと2年で定年だ。その後は料理教室を開いてもいい。食育のボランティアに参加してもいい。可能性はいくらでもある。私の人生は、これからなのだ。

あれから半年が経った。

私の生活は、想像もしていなかったほど穏やかで満たされたものになっていた。朝、目覚まし時計に追われることはない。自然に目が覚め、ゆっくりとカーテンを開ける。窓から差し込む朝日がこんなにも温かいものだったなんて、ずっと忘れていた感覚だった。

週4日の通いがなくなって、私は初めて気がついた。あの頃、私はどれだけ疲れていたのかを。毎朝6時に家を出て、夜8時過ぎに帰宅する日々。体は悲鳴を上げていたのに、それすら感じる余裕がなかった。家族のためという言葉で、全ての痛みを押し殺していた。

今は違う。朝はコーヒーを入れ、ゆっくり新聞を読む時間がある。昼は好きな時に好きなものを食べられる。夜は早めにお風呂に入り、好きな本を読みながら眠りにつく。こんな当たり前の生活が、こんなにも幸せだとは思わなかった。あの満員電車の息苦しさからも解放された。

給食センターの仕事も、以前より楽しく感じるようになった。

「みさ子さん、最近表情が明るくなったね」

同僚にそう言われた時、自分でも驚いた。知らず知らずのうちに、私は暗い顔をしていたのかもしれない。重い荷物を下ろしたら、自然と笑顔が戻ってきた。体の調子も良くなった。膝の痛みも腰の重さも、随分楽になった。

そして、新しい挑戦も始まった。地域の公民館で、月に2回料理教室を開くことになったのだ。33年間の給食センターでの経験を生かして、家庭料理の基本を教えている。

「みさ子先生、今日のレシピも最高でした」
「給食センターで33年も働いていらしたんですね。さすがプロの味です」
「先生の料理はどこか懐かしくて、心が温まります」

生徒さんたちの笑顔が、私の新しい生きがいになっていた。「ただで家政婦」と言われた私の料理を、こんなにも喜んでくれる人がいる——それが何より嬉しかった。

市の食育推進事業からも声がかかった。小学校で子どもたちに食の大切さを伝える活動だ。

「おばあちゃん先生、今日の話、面白かった!」
「給食、残さず食べるね」

子どもたちの無邪気な笑顔に、胸が熱くなった。センターでの経験がこんな形で生かせるなんて、思ってもいなかった。「所詮パート」と蔑まれた仕事が、今、私の人生を輝かせている。

一方、息子夫婦の生活は大変なことになっていると聞いた。友人の佐藤さんが教えてくれた。

「みさ子さん、聞いた?息子さんのところ、かなり揉めてるみたいよ」

エミは家事が全くできず、毎日コンビニ弁当とカップ麺の生活だという。掃除も洗濯もまともにできず、家の中は荒れ放題らしい。家政婦を雇ったが、月に25万円もかかり、家計が火の車になった。エミの両親に助けを求めたが、「自分たちの生活で精一杯」と断られたらしい。毎月30万円してくれる「立派なご家庭」は、いざという時に頼りにならなかったようだ。結局、車を手放し、ブランド品も売り払った。それでも生活は苦しく、夫婦喧嘩が絶えないという。

「因果応報って、本当にあるのね」佐藤さんがしみじみと言った。

私は静かに頷いた。正直、少しだけ胸が痛んだ。それでも、あの決断が間違っていたとは思わない。

ある日、スーパーで買い物をしていると、雄太とばったり会った。以前より痩せて、顔色も悪かった。目の下にはくまができ、疲れきった表情をしていた。髪も乱れ、服もよれよれだった。

「母さん」

「あら、雄太。元気そうじゃないね」

「うん。色々あって……」

「そう」

私は特に何も聞かなかった。聞く必要もなかった。

「あの、母さん。何か——」

「何?」

「エミと、うまくいってないんだ。毎日喧嘩ばかりで、家に帰りたくないんだ」

「大変ね」

「母さんがいなくなってから、家の中がめちゃくちゃで。俺も仕事が手につかなくて」雄太は俯いた。「母さん、もう一度だけチャンスをくれないか?」

私は首を横に振った。

「もう、その話はやめましょう」

「でも——」

「雄太、私はもう前を向いているの」私は息子の目をまっすぐ見つめた。「あなたも自分の人生を自分で歩きなさい。私に頼るのではなく、自分たちの力で解決するの。それが大人というものよ」

「母さん……」

「体だけは気をつけてね」

私は買い物袋を持って、その場を離れた。振り返らなかった。涙は出なかった。私はもう、完全に解放されていたのだ。

家に帰ると、窓から午後の穏やかな日差しが差し込んでいた。私は静かに微笑んだ。

家族だからと言って、理不尽を我慢する必要はない。「通え」という命令には「ノー」と言っていい。自分の尊厳は、自分で守るものだ。人に尽くすことは素晴らしい。でも、自分を大切にすることも忘れてはいけない。それが、本当の意味で人を大切にすることにつながるのだから。

私の人生は、これからも続いていく。

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