「汚い手で触らないで。」
その言葉を聞いた瞬間、私は凍りつきました。孫の結婚式当日。会場に置かれた美しいピアノに触れようとした私に、嫁がああも言ったのです。でも、それは少し後の話。最初から順を追ってお話ししましょう。
私、鈴木くみ子、68歳。15年前に夫を病気で失ってから、女手一つで生きてきました。37年間勤めた保育士の仕事も、3年前に定年退職。今は夫の残した家で静かに暮らしています。
1ヶ月前のことでした。孫のみさが結婚することを、偶然知り合いから聞いたのです。25歳になったみさの結婚を心待ちにしていましたが、いつまで経っても知らせが届きません。不安になって息子の新一に電話をすると、冷たい声が返ってきました。
「母さんは来なくていい。父さんの名誉のためにも。」
「でも私もみさの祖母よ。」
「あやが嫌がってるんだ。母さんはただの元保育士だろう。恥ずかしいんだよ。」
電話はそれっきり切れました。私たちの孫の結婚式なのに。心の中で泣きながら、夫に語りかけました。夫が生きていたら、こんなことにはならなかったはず。それでも私は決めました。招待されなくても、孫の晴れ姿だけは見届けたい。
結婚式当日の朝、私は地味な服を着て会場へと向かいました。高級ホテルの結婚式場に到着した私は、入り口の華やかな装飾を眺めながら、そっと中を伺いました。受付にはあの親族が並んでいます。私の姿を見られたら追い出されるでしょう。タイミングを見計らって、受付の人が席を外した隙に、素早く会場に滑り込みました。
会場の隅、大きな柱の影に身を隠します。そこから純白のドレスに身を包んだみさの姿が見えました。本当に美しくて、涙がこぼれそうになりました。やがて親族紹介が始まりました。司会者が新郎側の家族を紹介していきます。
「新郎の父、鈴木新一様、母様。」
あやが優雅に立ち上がり、会場を見渡しました。そして誰かが尋ねたのでしょう。あの声が会場に響きました。
「主人の母は欠席です。まあ、ただの元保育士ですから、この場にはふさわしくないかと。」
会場から同調するような声が上がりました。
「そうね。お父様は立派な会社員だったのにね。」
親戚の一人がそう言いました。
「ええ、お父さんが亡くなってから、お母さんは本当に…まあ、労働者階級の方ですから。」
あの言葉に私の胸が締め付けられました。まるで私が家族の恥であるかのような扱い。柱の影で私は拳を握りしめました。親族紹介が終わり、披露宴が始まりました。新郎と並んで座る孫の笑顔。それを見られただけでも、来て良かったと思いました。
会場の隅に目をやると、黒く輝くグランドピアノが置かれていました。スタインウェイのコンサートグランド。披露宴の余興で使われるのでしょうか。不思議な懐かしさが込み上げてきました。まるで遠い昔の記憶が呼び覚まされるような。このピアノ、素晴らしいわ。思わず柱の影から出て、ピアノに近づいてしまいました。その美しい姿に心を奪われたのです。
「あの、失礼ですが。」
突然声をかけられ、私は振り返りました。若い式場スタッフが不審そうな表情で立っていました。
「どちらの方ですか?受付はお済みでしょうか?」
私は一瞬言葉に詰まりました。
「あの、私は…」
「申し訳ございませんが、関係者以外の方は…」
「祖母です。私は小さな声で答えました。新郎の祖母です。みさの…」
スタッフの表情が変わりました。
「みさのおばあ様でしたか。でもリストには…少々お待ちください。」
スタッフは小走りで去っていきました。私は不安にかられました。このまま逃げ出したい気持ちに駆られましたが、もう遅かったのです。数分後、スタッフが戻ってきました。その後ろには真っ赤な顔をしたあや、そして青ざめた新一が続いていました。
「お母さん。」
あの声が会場に響きました。幸い、他の招待客はまだ食事と歓談に夢中で、こちらには気づいていないようでした。
「なぜ来たんですか?」
あやは怒りで震えていました。その派手なドレスが、怒りでさらに赤く見えました。
「私はただ、みさの晴れ姿を…」
「勝手に入り込んで、これは不法侵入よ。」
新一も苦い表情で言いました。
「母さん、恥ずかしいから帰ってくれ。父さんの顔に泥を塗るな。」
父の顔に泥を塗る。その言葉が私の心に深く突き刺さりました。
「新一、私はあなたの母親よ。孫の結婚式に…」
「母親?あやが嘲笑うように笑い、腕を大きく広げました。ここにいるのは医者、弁護士、会社役員、大学教授。社会的地位のある方たちばかりなのよ。その中に元保育士のおばあさんがいたら、どう思われるか分かりません。」
「でも私だってみさの家族…」
「家族?新一が遮りました。家族なら家族の名誉を守るべきだろう。母さんがここにいることで、僕たちがどれだけ恥をかくか。」
式場スタッフが困った表情で立っていました。
「あの、どうなさいますか?」
「すぐに外へ出てもらいます。あやが断言しました。この人は招待客ではありません。」
「でも、おばあ様なら…」
スタッフが遠慮がちに言いかけましたが、あやがそれを遮りました。
「この人はただの元保育士です。私たちの家族とは何の関係もありません。」
その時、みさが気づいてこちらに近づいてきました。純白のドレスが揺れています。
「ママ、どうしたの?あ…おばあちゃん。」
みさは驚いた表情で私を見ました。
「みさ、おめでとう。私が言いかけると、あやがすぐにみさを引き離しました。みさ、戻りなさい。この人はもう帰るところよ。」
「でも、おばあちゃん、来てくれたんでしょ?」
「いいえ。勝手に来たのよ。招待してないのに。」
みさの表情が曇りました。
「え、招待してないの?」
「みさちゃん、私はただあなたの幸せな姿を見たくて…」
しかし次の瞬間、みさは冷たく言いました。
「おばあちゃん、帰って。今日は私の大切な日なの。台無しにしないで。」
台無しに。孫からもそんな言葉を言われるなんて。新一が私の腕を掴みました。
「母さん、もう十分だろう。帰ってくれ。」
「痛い…新一…」
「これ以上、僕たちに恥をかかせないでくれ。」
あやが追い打ちをかけました。
「お父さんは立派な方でした。部長まで昇り詰めて、誇り高い人でした。でもお母さんは、ただ他人の子供の世話をしてただけ。その汚れた手で、この高級な会場に入ってくるなんて。」
汚れた手。その言葉に、私は自分の手を見つめました。確かに37年間の保育士生活で、この手は美しくはありません。でも…。
「さあ、出て行ってください。あやが冷たく言い放ちました。二度と私たちの前に現れないで。お母さんの存在自体が、私たちの恥なんです。」
私は何も言わず、ゆっくりと出口に向かって歩き始めました。でも、会場に置かれていたグランドピアノの前を通り過ぎようとした時、足が自然と止まりました。その漆黒の美しさに、気づけば私は引き寄せられていました。なぜでしょう?この瞬間、不思議な感覚が全身を貫きました。まるでピアノが私を呼んでいるような。遠い昔の記憶が、霧の中から浮かび上がってくるような。美しい鍵盤の蓋は開いていました。白と黒の鍵盤が照明を受けて輝いています。その規則正しく並んだ姿は、まるで私に「弾いて」と語りかけているようでした。
あやは私が出ていくのを見届けようと、少し離れた場所から見ていました。新一も腕を組んで、早く出ていけという表情で立っています。でも私はどうしても、どうしてもこのピアノから離れることができませんでした。
「あなた、覚えていますか?心の中で亡き夫に語りかけました。あなたはいつも言っていましたね。くみ子には何か特別な才能があるような気がするって。もしあなたが私の本当の姿を知っていたら…」
私はゆっくりと、本当にゆっくりと右手を鍵盤に向けて伸ばしました。人差し指でそっと中央の「ド」の音を。ただ一音だけでも…。
「汚い手で触らないで!」
突然、あやの絶叫が会場中に響き渡りました。その声の大きさに、披露宴の招待客たちも一斉にこちらを振り返りました。会場中の視線が私たちに集まります。あやはスカートの裾を掴んで私のところに駆け寄ってきました。その顔は怒りで真っ赤に染まり、目は炎で燃えていました。
「何してるんですか?そのピアノに触らないでって言ったでしょう。」
「あの、私はただ…」
「ただ?ただ何ですか?」
あやは私の手を乱暴に払いのけました。まるで汚いものを振り払うような仕草でした。
「このピアノが汚れる!あなたみたいな人間が触るものじゃないの!」
会場がざわめき始めました。招待客たちが何事かと注目しています。
「あやさん、そんな大声で…」
「大声当然でしょう!あやはさらに声を張り上げました。このピアノ、いくらすると思ってるんですか?200万円よ!200万円!」
あやは私の手を掴み、まるで証拠品を見せるように高く掲げました。
「皆さん、見てください。この手を。」
私は恥ずかしさで顔が熱くなりました。大勢の視線が私の手に集まっています。爪は短く切られて、手のひらは硬くてゴツゴツ。ひび割れも荒れてささくれだらけ。
「これが労働者の手よ。汚い!」
「あやさん、やめて…」
「やめる?なぜ私がやめなければならないの?あやは私の手を乱暴に振りました。この保育士の、労働者の手でしょう。37年間、他人のガキの鼻水を拭いて、汚いオムツを替えて、泥遊びに付き合った。そんな下品な仕事で汚れ切った手。」
周囲から同調するような、好奇の目で見る人々のささやきが聞こえてきました。
「まあ、噂には聞いてたけど…」「確かに…」「保育士ってそんな仕事なの?」
あやはさらに続けました。
「こんな汚れた手で、この高級ピアノに触れようとしたなんて信じられない。お父さんが生きてたら、絶対に許さなかったはずよ。」
亡き夫の名前を出されて、私の胸が痛みました。
「お父さんは品格のある方でした。教養もあって、音楽を愛していた。でもあなたはただの保育士。最低の労働者。」
「母さん…」新一が言い放ちました。「身の程をわきまえろ。」
実の息子から、大勢の前でそんな言葉を言われるなんて。みさも加わりました。
「このピアノは、音楽を理解する人だけが触れていいものなんだ。おばあちゃんみたいな教養のない労働者が触るものじゃない。おばあちゃん、みっともないからやめて。私の結婚式を台無しにしないで。」
あやは私とピアノの間に立ちはだかりました。
「分かりますか?あなたとこのピアノは、住む世界が違うの。このピアノは芸術品。あなたはただの汚い労働者。皆様、申し訳ございません!あやは会場の皆に向かって大声で言いました。この方は私の母ですが、ただの元保育士で教養も品格もない人間なんです。勝手に会場に入り込んで、このような醜態を…本当に申し訳ございません。」
そして私に向き直りました。
「いいですか?二度と、二度とその汚い労働者の手で高級なものに触らないでください。あなたの手は、お仏を扱うためのものでしょう。音楽とは無縁の、見苦しい汚れた手。」
私は自分の手を見つめました。確かに美しくはありません。でも、この手で1000人以上の子供たちを抱きしめ、育ててきました。この手には、私の37年間の誇りが刻まれているのです。でも今、大勢の前で「汚い手」と罵られ、息子からも見放され、孫からも拒絶されました。
スタッフが気まずそうに言いました。
「あの、そろそろ…」
「ええ、すぐに追い出します。あやが言いました。警備員を呼びましょうか?」
「いえ、私は自分で…私は静かに言いました。でも、なぜかピアノから目が離せませんでした。」
その時、会場の入り口から異厳のある声が響きました。
「その手が汚いですって?」
全員が振り返りました。そこには塩梅服を着た初老の紳士が立っていました。異厳のある声に、大勢の視線が入り口に集まりました。胸には文化勲章が輝き、その佇まいからして只者ではないことが一目で分かりました。老紳士はゆっくりと、しかし確かな足取りで私たちのところへ歩いてきました。
「失礼ですが…」あやが怯えたように訪ねました。「どちら様でしょうか?」
老紳士はあやには答えず、じっと私を見つめていました。その瞳には驚きと懐かしさが宿っているようでした。
「まさか…」
老紳士は私の顔を、信じられないという表情で見つめました。そして一歩、また一歩と近づいてきます。
「くみ子さん…」
私の心臓が大きく跳ねました。この声、この呼び方…。
「佐藤くみ子さん。いや、鈴木くみ子さん。やはりあなたでしたか?」
老紳士は目を見開きました。会場がざわめきました。私は小さく頷き、30年ぶりに聞くその声に、涙がこぼれそうになりました。
「藤原教授…」
「くみ子さん、本当にあなただったのですね。30年ぶりですね。」
藤原教授は感慨無量の様子で、私の手を取ろうとしました。
「ちょっと待ってください。あやが割って入りました。この汚い手の…保育士を、ご存知なんですか?どういうご関係で?」
藤原教授は初めてあやの方を向きました。その表情は、先ほどまでの柔和なものから、急に厳しいものに変わりました。
「汚い手の保育士。あなたは今、何とおっしゃいましたか?」
「事実を言っただけです。あやは胸を張りました。この人はただの元保育士。37年間、子供の世話をしてきただけの労働者です。」
藤原教授の顔に怒りの色が浮かびました。
「労働者。ただの保育士。教授は深いため息をつきました。あなたはこの方が誰だか、本当にご存知ないのですね。」
「知ってますよ。新一が口を挟みました。私の母です。鈴木くみ子。元保育士で、今はただの年金暮らしの…」
藤原教授はその名前を反芻しました。
「確かに、今は鈴木くみ子という名前ですね。でも…」
教授は会場を見渡しました。新郎側の席に見知った顔を見つけたようでした。
「山田さん、斎藤さん。こちらにいらしてください。」
呼ばれたのは、音楽関係者と思われる初老の紳士たちでした。
「藤原先生、どうされました?」
「実は、驚くべき再会をしたのです。この方を覚えていらっしゃいますか?」
山田と呼ばれた男性が私をじっと見つめました。
「この方は…待てよ。どこかで…」
斎藤という男性も首をかしげています。
「雰囲気は変われましたが、でもこの佇まい、この手の形…」
あやが鼻で笑いました。
「その汚い労働者の手が、どうしたって言うんですか?」
藤原教授はあやを一瞥し、そして言いました。
「汚い手とおっしゃいましたね。ではお聞きしますが、あなたは音楽をご存知ですか?」
「もちろんです。あやは胸を張りました。私は音楽一家の出身で、ピアノも習っていました。」
「そうですか。では…30数年前の、ショパン国際コンクールで優勝したのは誰か、ご存知ですか?」
あやは一瞬言葉に詰まりました。
「それは、確か日本人で…」
藤原教授が静かに言いました。
「日本人女性、当時若干20歳の鈴木くみ子が優勝したのです。」
会場がざわめきました。
「ちょっと待って。みさが口を挟みました。鈴木くみ子って、おばあちゃんと同じ名前…」
「偶然でしょう。あやが慌てて言いました。よくある名前ですから。」
藤原教授は優しく微笑みました。
「偶然、そうかもしれませんね。でも、この方は世界最高峰のコンクールで優勝を果たしました。音楽史上、空前の快挙です。」
山田氏が息を飲みました。
「ま、藤原先生、まさか…この方が…」
「でも…」斎藤氏が混乱した様子で言いました。「あの鈴木くみ子は、確か独身のまま引退したはずでは…」
藤原教授は私を見つめました。
「くみ子さん、もう隠す必要はありませんね。」
私は静かに頷きました。
「はい。もう、隠し通すことはできないようです。」
あやが青ざめ始めました。
「待って。何の話をしているの?お母さんがピアニスト?そんなバカな話!」
藤原教授は続けました。
「実は、鈴木くみ子は芸名でした。本名は佐藤くみ子。私の提案で、印象的な芸名として鈴木を使ったのです。」
会場が静まり返りました。
「そして、運命のいたずらでしょうか。教授は私を見つめました。彼女は、本当に鈴木という姓の男性と恋に落ち、結婚した。芸名と同じになったため、誰も真実に気づかなかったのです。」
新一は呆然として立ち尽くしていました。
「母さんが…世界的ピアニスト…?」
藤原教授は、大勢の注目を集めながらゆっくりと話し始めました。
「私は藤原誠二。東京芸術大学名誉教授で、日本音楽界に50年携わってきたものです。そして、私の人生で最も優秀な教え子が、今ここにいらっしゃいます。」
教授は私を指差しました。
「佐藤くみ子、芸名・鈴木くみ子。1994年、若干20歳で音楽史に名を刻んだ天才ピアニストです。」
会場が一瞬静まり返りました。そして、次の瞬間、爆発的などよめきが起こりました。
「まさか、あの伝説の…」「信じられない…」
あやは顔を真っ青にしてよろめきました。
「嘘…嘘でしょう?この汚い手の保育士が…」
藤原教授は厳しい表情で、あやを見つめました。
「汚い手とおっしゃいましたね。では、事実をお話ししましょう。」
教授は会場全体に向かって語り始めました。
「1994年10月。ショパン国際コンクールで、一人の日本人女性が世界を震撼させました。彼女の演奏を聞いた審査員、マルタ・アルゲリッチは『100年に一人の天才が現れた』と評しました。」
山田氏が興奮した様子で言いました。
「私も現地で聞きました。あの演奏は今でも忘れられません。特に、ショパンのバラード第1番の解釈は革命的でした。」
「その通りです。教授は頷きました。多くのコンクールを1年以内に制覇。しかも、全て圧倒的な優勝。教授は私を見つめました。しかし、世界から演奏依頼が殺到する中、彼女は忽然と姿を消しました。」
「なぜ…」新一が震える声で訪ねました。「なぜ、消えたんですか?」
教授は優しく微笑みました。
「愛です。彼女は一人の男性と恋に落ち、その人と生きることを選んだのです。」
私は静かに頷きました。夫との出会いを思い出していました。
「そして、これが運命のいたずらなのですが。教授は続けました。佐藤くみ子という本名の彼女は、印象的な芸名として、私の提案で鈴木くみ子を使っていました。佐藤では平凡すぎる、鈴木の方が覚えやすいと。」
「え…」あやが声を漏らしました。「でも、まさか…」
「そうです。教授は深く頷きました。彼女が恋に落ちた相手の姓が、偶然にも鈴木だったのです。つまり、結婚後の本名も鈴木くみ子になった。会場が騒然としました。誰もが、すでに結婚していた鈴木くみ子が活動していたと思い込み、真実に気づく者はいなかった。彼女は保育士として働く時、過去を完全に隠すため、旧姓の佐藤を名乗ったのです。」
その時、会場の後方からはっきりとした声が上がりました。
「佐藤先生!」
全員が振り返りました。ドレス姿の女性が立ち上がっていました。
「佐藤先生、私です。田中舞です。」
田中さんは涙を流しながら前に出てきました。
「佐藤先生は、私が4歳の時から音楽を教えてくださいました。母子家庭で、ピアノどころかキーボードも買えなかった。でも先生は『音楽に貧富の差はない』と言って、自腹で電子ピアノを買ってくださったんです。先生は週3回、無償で私にピアノを教えてくださいました。時にはお弁当まで作ってきてくださって。今、私は東京フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターをしています。全て、先生のおかげです。」
会場が静まり返りました。続いて、別の男性が立ち上がりました。
「佐藤先生、木村太郎です。」
30代の男性が、感慨無量の様子で言いました。
「私は重度の自閉症で、3歳まで一言も話せませんでした。でも佐藤先生は『音楽は言葉を超える』と言って、毎日ピアノを使って私と向き合ってくださいました。」
彼は涙を拭いました。
「3年かかりましたが、私は今、ニューヨークのジュリアード音楽院を卒業し、カーネギーホールでソロリサイタルを開いています。先生は私に、人生を与えてくださったんです。」
次々と、会場のあちこちから声が上がりました。
「先生のおかげで、フィルに入団できました。」「ミラノ・スカラ座で演奏しています。」「私は故郷で音楽教室を開いて、次の世代を育てています。」
なんと、この会場に私の教え子が10人以上もいたのです。皆、世界の音楽界で活躍していました。
藤原教授が、感動した様子で言いました。
「くみ子さんは、自分の栄光を捨てて、保育士として37年間、たくさんの子供たちに音楽を教えてきたのです。しかも、そのほとんどが無償で。これこそが、真の音楽家の姿ではないでしょうか。」
あやは完全に血色を失い、膝をついて震えていました。
「そんな…まさか…私は世界的天才に向かって、汚い手だなんて…」
みさも呆然として、涙を流していました。
「おばあちゃんが…伝説のピアニスト…私、何も知らなくて…」
新一は顔を真っ赤にして、立っているのがやっとという様子でした。
「母さん…僕は…父さんが知っていたら…」
その時、藤原教授が私に向かって言いました。
「くみ子さん。30年ぶりに、あなたの演奏を聞かせていただけませんか?」
会場中から声が上がりました。
「お願いします!」「佐藤先生の演奏を!」「伝説の演奏を聞かせてください!」
私は静かに立ち上がりました。でも、私の手は…。私は自分の手を見つめました。確かに37年の保育士生活で、美しいとは言えない手になっていました。
教え子の一人が叫びました。
「先生の手は、世界で一番美しい手です!私たちに音楽を教えてくださった、愛情に満ちた手です!」
他の教え子たちも口々に言いました。
「そうだ!」「先生の手は、最高の手だ!」
私は涙を拭い、ゆっくりとピアノに向かって歩き始めました。あやが慌てて立ち上がりました。
「待って!私、さっき…汚い手だって…ごめんなさい!」
しかし、もう誰もあの言葉に耳を貸す者はいませんでした。全員が私の演奏を待ち望んでいました。私はピアノの前に座りました。深呼吸をして、両手を鍵盤の上に置きます。
「あなた、見ていますか?今から、私の本当の姿をお見せします。あなたには言えなかった秘密を、今、明かします。」
心の中で、亡き夫に語りかけました。そして、演奏を始めました。ショパンの英雄ポロネーズ。最初の力強い和音が響いた瞬間、会場の空気が一変しました。まるで時間が止まったかのような静寂。30年のブランクなど存在しないかのように、指は完璧に動きました。いや、むしろ37年間、子供たちと共に音楽を奏で続けてきたことで、私の音楽はより深く、より豊かになっていました。
激しい主題部では、人生の全ての情熱を込めて演奏しました。夫との出会い、息子の誕生、保育園での日々。全てが音となって溢れ出します。続く叙情的な中間部では、亡き夫への愛を込めて演奏しました。繊細なタッチで奏でる旋律は、まるで天国の夫に語りかけているようでした。そして、圧倒的なクライマックス。これは私の人生そのものでした。喜びも、悲しみも、全てを乗り越えてきた68年の人生が、音楽となって響き渡りました。
演奏しながら、私は涙を流していました。汚い手?いいえ。これは私のものです。この手で、多くの子供を育て、音楽の種を蒔いてきた。これが私の誇りです。
最後の音が響き終わり、会場は完全な静寂に包まれました。1秒、2秒、3秒、4秒、5秒。そして、突然、雷鳴のような拍手と歓声が巻き起こりました。
「ブラボー!ブラボー!」
全員が総立ちでした。涙を流している人が大勢いました。音楽関係者たちは、まるで奇跡を見たような表情で熱狂的に拍手を送っていました。
演奏が終わり、拍手が鳴りやまない中、次々と世界の音楽関係者たちが私の元へ集まってきました。
「鈴木先生、いや、佐藤先生!ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の団員である山下です!30年ぶりの演奏、魂が震えました!来年のベルリン音楽祭、メインリストとしてお迎えしたい!」
「カーネギーホールでのリサイタルを!」「ロンドン交響楽団との共演を!」
世界最高峰の舞台からのオファーが、次々と舞い込んできました。その様子を、新一とあやは呆然と見つめていました。
やがて、二人は震えながら私のところへ近づいてきました。
「母さん…」新一の声は震えていました。「僕は…僕は何て愚かだったんだ…」
あやは突然、その場に土下座をしました。
「お母さん、本当に申し訳ございませんでした!私は何も知らなくて!まさかお母さんが、そんなすごい方だったなんて…」
みさも、純白のドレス姿のまま、母親に続いて膝をつきました。
「おばあちゃん、ごめんなさい…私、おばあちゃんのこと、何も知らなくて…」
新一も深々と頭を下げました。
「母さん、許してください。父さんが生きていたら、僕たちを絶対に許さないでしょう。」
「父さんは、母さんの才能を知っていたんじゃないですか?」
私は静かに首を横に振りました。
「いいえ。夫は最期まで知りませんでした。でも、よく言っていました。『お前には何か特別なものがある』と。」
三人は必死に謝罪を続けました。
「お母さん、お願いです。もう一度、家族として…」
私は静かに三人を見つめ、穏やかな声で、しかしきっぱりと言いました。
「もういいんです。ええ、あなたたちは私を『家族ではない』と言いました。『汚い労働者』だと。そして、夫の名誉を汚すとまで言いましたね。新一、あなたは私に『身の程をわきまえろ』と言いました。『父さんの顔に泥を塗るな』とも。」
新一が唇を噛みました。
「母さん、それは…」
「私は続けました。もう、家族ではないのです。あなたたちが望んだことでしょう。夫も天国で、あなたたちに失望しているはずです。」
あやが泣き崩れました。
「お母さん、そんな…今からでも…」
私は静かに言いました。
「人を見た目や職業で判断した、その報いです。」
藤原教授が静かに口を開きました。
「その通りです。くみ子さんの真の価値は、有名ピアニストだったことではない。37年間、無名のまま子供たちに愛を注ぎ続けたことです。」
私は、会場の皆様に向かって話し始めました。
「皆様。本日、この場をお借りして、発表させていただきます。」
会場が静まり返りました。
「私は『未来への音楽財団』を設立します。」
「えっ…」会場がざわめきました。
「経済的に恵まれない子供たち、親を亡くした子供たち、障害を持つ子供たち。様々な事情で音楽を学ぶ機会のない子供たちに、無償で音楽教育を提供する財団です。」
私は亡き夫のことを思いながら、続けました。
「夫はいつも『お前の才能を大切にしろ』と言っていました。この財団は、夫との思い出と、保育士としての経験を生かして運営します。」
藤原教授が目を輝かせました。
「素晴らしい!私も全面的に協力させていただきます!」
「私も!」「私たちも!」音楽関係者たちが次々と手を上げました。教え子たちも立ち上がりました。
「佐藤先生に恩返しさせてください!」「私も子供たちに教えます!」
私は微笑みました。
「これからは、本当に音楽を愛する子供たちのために、くみ子として生きていきます。」
新一が最後の訴えをしました。
「母さん。父さんの墓参りくらいは…一緒に…」
「新一。」私は息子を見つめました。「お墓には、一人で行きます。夫と二人きりで、話したいことがたくさんありますから。」
三人は、為す術もなく立ち尽くしていました。その夜、結婚式は続きましたが、主役であるはずの新郎新婦よりも、私の話でもちきりでした。
翌朝、私は一人で夫の墓を訪れました。
「あなた、聞いてください。私は墓石に向かって静かに語りかけました。昨日、全て明かしました。私が世界的ピアニストだったこと。でも、あなたと過ごした日々が、どんな栄光よりも大切な宝物でした。」
風が吹き、桜の花びらが舞い散りました。
「息子は私を否定しました。『汚い労働者』だと。でも、たくさんの子供たちが私を『先生』と呼んでくれます。これが、私の本当の財産です。」
私は深呼吸をして、続けました。
「あなたが亡くなって15年。一人で寂しかったけれど、これからは違います。見ていてください。私はこれから、もっと多くの子供たちに音楽の喜びを伝えます。それが、あなたが愛した私の本当の姿なのですから。」
墓石が朝日を受けて、まるで夫が微笑んでいるように見えました。私は墓前に備えた花を整え、ゆっくりと立ち上がりました。携帯電話が鳴り続けています。世界からの出演依頼や取材…。でも、私の心は決まっていました。華やかな舞台より、子供たちの笑顔を選ぶ。それが私の生き方です。
軽蔑と侮辱への最高の仕返しは、相手を見返すことではありません。自分の真の価値を証明し、それを本当に必要としている人のために使うこと。これが、私の完全な勝利なのです。



