先月、銀行の支店長が私の店に来て、椅子にも座らずにこう言いました。 「設備資金の三千万円、明日の正午までに一括で返せ。無理なら店の道具も土地も全部換金して、ここから出て行ってもらう」…

先月、銀行の支店長が私の店に来て、椅子にも座らずにこう言いました。 「設備資金の三千万円、明日の正午までに一括で返せ。無理なら店の道具も土地も全部換金して、ここから出て行ってもらう」...

午前九時、新宿西口の銀行支店長室に、スーツ姿の男と、黒いプロオーバーに白いエプロン姿の若い女性が向かい合っていた。
男は坂神大輔、四十五歳。今年の八月に着任したばかりの支店長だ。目線を鋭くして、彼女を見据えていた。
女性は田村さくら、二十四歳。新宿の駅前の角地で、代々続く理容室を営む店主だった。

「設備資金の残高、三千万円。明日の正午までに一括で落としてくださいね」

坂神は、ファイルも見ずに言い放った。

「じゃなきゃ、田村さんの椅子も鏡もハサミも、全部換金します。店じまいと、敷地からの退去も覚悟してください」

窓口の若い行員が、待合室の影で口元を手のひらで抑えた。ガラス越しに別の行員が、顎で室内を指して、肩を揺らして笑っていた。

「坂神支店長、少々お待ちください。田村様は当行にとって、法的に非常に重要な……」

「麻野君。余計な口出しは不要だ」

坂神は、さくらのエプロンの汚れと、擦り減った靴に一瞬だけ目を落とした。

「田村さん、常連はお年寄りばかりでしょう。低単価の店に、土地の権利なんてありえません。理容室なんて、今の時代にどれだけ稼げるんですか? しかも二十四歳の女がハサミを握って店を切り盛りとは、根性は買いますが、銀行は根性では動かないんですよ」

さくらは、無表情のままエプロンの紐を一度締め直した。

「……わかりました」

短く言い残し、静かに立ち上がった。頭を下げ、支店長室を出ていく。泣くのは後にしようと思った。この時、坂神はまだ知らなかった。自分が腕を組んで座っているこの支店ビルが、さくら名義の土地の上に建っていることを。そして、この銀行が彼女に毎月三百五十万円の地代を振り込み続けていることを。

支店長室を出た麻野は、廊下で足を止め、画面を伏せた。翌朝、この支店に何が起こるのか、誰も知らなかった。

時は遡る。さくらは専門学校で技術を磨き、国家試験に合格した。
「おかえり。見せてご覧」
実家の理容室で、祖母の君子が眼鏡を押し上げて、合格通知を覗き込んだ。
「ばあちゃん、受かったよ。これで免許が取れる」
「よく頑張ったね」

君子は手続きを運び、角地に定期借地で銀行の支店ビルを建てた。一階が理容室で、二階から上は銀行が使うフロアだった。
「免許が取れたなら、看板はお前に任せたい。無理してまでやれとは言わん」
「おじいちゃん子だったし、この店の匂いで育ったから。私が継ぐよ」

さくらは免許を取得し、椅子を磨き、技術を祖母から教わった。
「お客様の顔を急がせない。それがこの店の流儀よ」
君子は登記の写しを広げ、名義の欄と定期借地の料日を示した。
「名義だけ見て、本文を飛ばしたら終わり。銀行は隣でも、土地はうちの名前。いい?」
「うん、分かってる」

三年前、君子は病で倒れ、半年後に亡くなった。相続で名義はさくらへ移った。
「泣いてもいいよ。仏壇タオルはここにあるから」
「……ばあちゃんの土地、私が守る」

設備の更新のため、さくらは新宿西口支店へ設備資金の融資を申し込んだ。
「設備資金三千万円。返済計画はこちらです」
旧支店長の大森は、条件を丁寧に説明し、定期借地の更新案内も同封した。
「毎月の返済は、今の売上で回せます」
契約は成立し、パートの藤井里香が椅子の搬入と床の養生を手伝った。
「明るくなりましたね」
「私もこの店が好きですから」
「ありがとう、里香さん」

さくらは毎月の返済を遅らせることなく、大森支店長が節目ごとに挨拶に来てくれた。
「無理のない返済で、こちらも助かっています」
「こちらこそ、手続きを丁寧に見てくださって」

今年の七月末、大森支店長は別の拠点へ異動することになった。定期借地の更新を、確認書類にまとめておいてくれた。
「定期借地の更新は、ここにまとめてあります。お気をつけて」
「ありがとうございました」

坂神が大森の後任として着任したのは、今年の八月だった。着任の挨拶で、坂神は再開発の計画を掲げ、「駅前は顔が命だ」と声を張り上げた。そして、初日から田村理容室の看板を指差し、鼻で笑った。
「隣の看板が安っぽい。来店の印象を下げる」

「田村さん、銀行の看板が変わるって本当?」
「詳しいことは分かりませんが、うちは営業を続けますよ」
坂神は融資の返済表を毎週印刷し、さくらの店のカウンターへ置いた。遅延は一日たりとも許さないという意思表示だった。

「遅延はありません」
さくらが通帳のコピーを差し出すと、坂神は目も通さずに机の端へ滑らせた。
「坂神支店長、お客様への言い方は――」
「福祉支店長。融資の運用は私が握ります」
福祉支店長は黙り、ファイルの角を指で押さえた。

麻野は融資係の席で画面を閉じ、定期借地のファイル番号だけを紙に書いて、財布の中へ入れた。
「……大森支店長は、あのファイルを開いてない」

十月に入ると、坂神は再開発担当と会議室を何度も使い、地図に赤い線を引いた。
「支店の前面は一体感を持たせたい。隣の底辺店は、話をつけます。まずは銀行の看板を揃えたい」
「同感です。顔から入りましょう」
「……一体化って、うちのことですよね」
「里香さん、お客様には普通に接して」

十一月に入ると、坂神は新宿西口支店のロビーで、さくらの店を指差して来客に話しかけた。
「あそこは、眼中のノイズですよ。じじばあ連中の底辺店は、すぐ片付きます」
理容室に普通に入っている客は、首をかしげて案内の紙だけ受け取った。

十一月下旬、さくらが支店の面談を終えて店へ戻ると、麻野が借地権のメモを手渡した。その午後、坂神はロビーから同じ期限を繰り返した。
「明日の正午までですよ。口座が空っぽになってないですよね?」
里香はシャッター越しに端末を置き、録音の赤いランプだけを点灯させた。
「店先とロビー側、拾えてます」
「里香さん、お客様が来たら止めて」

夜、さくらは金庫から青いファイルを取り出した。ファイルには、登記の写しと定期借地契約書の写しが挟まれていた。ばあちゃんが何度も言っていた言葉を思い出す。
「血の名前は絶対に見失うな」

ノートが開かれる。そこには、電話番号と「高木さん、夜でも出る」と書かれていた。さくらは、ノートの番号に電話をかけた。呼び出し音が三回鳴り、声がした。
「首都圏再開発ナーズの高木だ」
「田村です。新宿西口の件、今夜話せますか?」
「……待っていた。資料は揃えてある」

高木は再開発大手の幹部で、君子の生前から土地の買収交渉を続けてきた相手だった。
「金額は全回時の三十億円で変わらん。今夜、抵当権の抹消と定期借地の終了手続きを同じ朝に流す。承知か」
「承知しています。銀行本部のコンプライアンスにも連絡を入れます」

さくらは窓の外へ目をやり、夜の新宿のネオン越しに、向かいの銀行ビルを見上げた。威圧は、手続きで返す。そう決めていた。

翌朝。支店の自動ドアが開く前に、黒いスーツを着た麻野が角地に立っていた。高木と抵当権担当、外部の司法書士、そして銀行本部から来た男が名刺を揃えた。
「コンプライアンス室の者です。臨店します」
本部員は銀行のワッペンを襟に付け、坂神の名札を一瞬だけ見た。

支店長室のドアが開き、さくらが青いファイルを机の中央へ置いた。
「田村さくらです。土地の売却金から、融資の三千万円を完済します」
さくらは振り込み依頼書を差し出し、口座番号を一つずつ読み上げた。
「入金、確認しました」
行員の声が掠れ、モニターの数字が緑に変わった。
「これで、設備資金の貸付は――ゼロです」

坂神の喉が動き、ネクタイの結び目がわずかに歪んだ。モニターの残高表示を指差し、同じ行を二度読んだ。
「……完済? それで俺のカードが切れるってことか?」
坂神は、さくらと高木の顔を交互に見て、呼吸が浅くなっていた。
「三十億の相手が、底辺店の女だったってのかよ」
「相手は権利者です。肩書きで決めるのは、当行の規定に反します」
「ふざけている」

本部員が手帳を開き、坂神の言葉を一言ずつ記録していく。
「臨店で脅すな。ここは俺の支配下だ」
「支配ではなく、当行の店舗です。通知案は、融資係の証人欄を経由していません」
「黙れ麻野。お前は部下だろうが」
「経由していないなら、規定違反の疑いがあります」

司法書士が登記簿を広げ、定期借地終了の通知を坂神の前へ滑らせた。
「定期借地権だと面談で一度も出てこなかった。資料の見方も、開いていませんでした」
さくらは青いファイルの目次を指差し、借地の項目へ人差し指を置いた。
「ファイルの、どのページだ?」
「争うなら裁判も選べますが、時間が増えるだけです」
「脅しだろうが」
「事実の説明です」

坂神は高木から目をそらし、さくらの青いファイルだけを見つめた。
「……最初から、組んでたのか」
「でかい顔しやがって。強奪も同然だ」
「譲渡は契約に基づく対価です。強奪ではありません」
坂神は椅子の背に体重を預け、手のひらで額を押さえた。

「ここで読んでいれば済んだ資料を見なかったのは事実です」
「こんなもの、見てない。融資は俺が握っていた。旧支店長が隠したんだ。俺のせいじゃない」
「旧支店長が隠したと、記録に残る発言は取り下げてください」
「記録なんて、あるに決まってる」
「口頭だけの説明は、調査で重くなります」

麻野が面談メモを机に並べ、支店長室とロビーでの時刻と発言箇所を印で示した。
「支店長室での指示はここに午後のロビーと店先での発言も、端末に残しています」
「調子に乗るな。麻野、お前が客の前で頭を下げろ。邪魔だったんだろう」
「田村様は、法的に最重要の取引先でした」

「証拠を消す気か?」
「証拠削除は、別の案件になります。見ています」
ロビー側のガラス越しに、客が数人足を止めていた。

坂神は、再開発担当の男を指差した。
「俺は口利きをしただけだ。金は動いてない」
「動いていなくても、口約束は残っています」
「再開発は上の方針だ。俺だけの話じゃない」
「締結は権利者名義で行います。坂神さんは当事者ではありません」

高木は、封筒を机の中央へ静かに置いた。
「臨店の内容は、私も記録に残します。再開発側担当は、口約束の経緯を本社へ提出してください」
「従業員を嘲弄する発言も、記録に残してください」
「顧客に関わる箇所は、別途整理します」

「待ってくれ。左遷だけは、勘弁してくれ」
坂神の声は、最後に細くなった。震える手で名刺入れを開き、指先が何度も滑った。
「本部長に電話させろ。運営会議で話は通している」
「本部長個人の裁量では動きません。手続きで処理します」
「……通じないのか。田村。お前、最初から罠を仕掛けていたんだろ?」
「威圧を、手続きで返しただけです」

「差別表現、規定違反の三点を、本日の報告に載せます」
「三点は撤回した。言い方の問題だ」
「私への言葉は、この場にいた人が聞いています」
「聞きました」
若い行員が短く答え、すぐに画面へ戻った。

「引っ越しの手配はこちらで支店分を含めて進めます。仮執行の保全も申し立て可能です。争うなら、手続きで続きます」
「裁判なんてしたら、俺のキャリアが終わる」
「今の進め方でも、評価に影響は出ます」
「影響じゃない。……終わりだ」

坂神は膝の上で手を組み、唇を噛んで、ファイルの束を胸に抱えた。
「俺は、新宿の駅前をよくしようとしただけだ」
「じじばあの金食い虫の底辺店と決めつけ、手続きを飛ばしたのは、支店長です」
「言葉じりを取るな。現場は荒れる」

本部員は、臨店表の欄に印をつけた。
「後日、懲戒委員会の日程が連絡されます。西口支店の管理職には、再教育の案内が出ます。福祉支店長も対象です」
「異論はありません。最初に申し込みます」
「現場だけ血を吸われるのか」
「研修は全員参加です。逃げ道は作りません」

「報道対応の連絡先も同封します。勝手な発言は、禁止です」
「同化か。手順の提示です。解釈は記録に残ります」

二週間後、銀行の掲示板に支店長異動の紙が貼られた。坂神の名前は、地方の小さな窓口へ移り、写真は掲げられなかった。
「新宿西口は、しばらく福祉支店長が代行です」

昼休み、融資係の席では印刷された臨店記録が回覧された。
「田村様の件は、手順通りに残しただけです」
「笑った席のログも、こちらにあります」
麻野はUSBを封筒に入れ、福祉支店長へ手渡した。
「提出してくれて、助かった」
福祉支店長は頷き、表に日付と署名を書き込んだ。

再開発の工事が角地を取り囲み、新しい案内板が立てられた。田村理容室の看板は仮店舗へ移り、ガラス戸に移転の紙が張られた。
「鏡の位置は、お客様が顔を見やすい高さがいい」
「ばあちゃんのノートにも、同じこと書いてあった」
さくらは椅子の角度を測り、メジャーを畳んだ。

「天のパーマ、きれいに読めたよ」
「ありがとうございます。待たせてすみませんでした」
里香は、洗い場のホースを巻き、床の水を拭き取った。さくらは、里香にタオルを一枚差し出した。
「怖かったです。でも、言い訳はしません」
「里香さんがいてくれたから、回りました」

仮店舗の夜、さくらは売上を閉じ、明日の予約の順番を紙に書いた。
「ばあちゃん、手順通りに進めたよ」
仏壇の君子上の顔写真が、照明に照らされていた。仮店舗の看板は小さかったが、予約の電話は以前と同じように鳴り続けた。

半年後。再開発ビルの一階に、田村理容室は新しく開いた。看板は落ち着いた色で、入口の床は滑りにくい素材だった。開店前、さくらは床の滑り止めテープの位置を、膝をついて確かめた。
「初日は、じいちゃんも袖で汗を拭くだけでいいよ」
「それは無理。ちゃんと並んで写真を撮る」

ガラス戸の向こうを、通勤客が途切れずに通り過ぎていく。さくらは、エプロンの紐をきゅっと結び直した。
「待ってましたよ」
「駅の改札から近くていいね」
「ありがとうございます。今日は、いつもの長さでよろしいですか?」

理容室の扉の影で、祖父が味噌汁のカップを持ったまま立っていた。
「味噌汁の担当は、じいちゃんだ。孫は、真ん中で笑え」
さくらは鏡に向けたまま、口元だけを緩めた。
「それもいいね。でも、隣に立ってよ」

地方の小さな窓口で、坂神が番号札を呼び、客の通帳を受け取っていた。昼前、常連の客が差し出した通帳の記入を二度確認し、声を落として読み上げた。
「ゆっくりでいいですよ。ご迷惑をおかけしました」
客は頷き、番号札を戻した。坂神は、説明書を指で叩いて、苛立った声を出しかけて、途中で止めた。

「この欄は、ここに書いてください。押し間違えないように」
評価表の研修欄には赤いコメントが増え、心構えの欄は空欄のままだった。昼休み、坂神は端末の地域欄から新宿の文字を消し、別の画面へ切り替えた。

週末の募集広告で、清掃ボランティアの文字を見て、坂神は指を止めた。
「……人に笑われに行くのか」
それでも坂神は印刷ボタンを押し、応募用紙を封筒に入れて提出箱へ入れた。

ボランティア当日、坂神は手すりだけを拭き、周りを見ず、顔を下に向けた。主催者が名札越しに「ありがとう」と言うと、坂神は返事が一拍遅れた。
「……はい」
研修の時間は給与明細に小さく記載され、坂神は数字を指でなぞってから、目を離した。

夜、懲戒委員会の案内PDFをようやく開き、三ページ目で閉じた。端末の明るさを下げ、画面を消す。元同僚からの着信が入ったが、坂神は名前を見て、無音で切った。

新宿の角地では、工事の音が鳴り、新しい銀行の看板が仮枠にかかっていた。その看板の下、理容室の中で、さくらは鏡の中の客に小さく笑いかけた。角地の方へ一瞬だけ目を向け、そのまま客の襟足にハサミを入れた。

新宿は、今も動いている。そして、この店も。

「お似合いですよ。次は、三週間後でよろしいですか?」
客は頷き、レジのレシートを丁寧に折って財布へしまった。さくらは窓の外へ目をやり、冬の曇った都心の空を見上げた。

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