数年前、俺は大手広告代理店で営業をしていた。同期には松田という男がいて、俺とは正反対のタイプだった。口が達者で明るく、入社初日から皆に愛されるような人間だ。俺はと言えば、コツコツと真面目に取り組むことだけが取り柄の地味な社員だった。
しかし、俺の頑張りはいつも松田と比べられて評価された。上司は決まってこう言うのだ。
「松田君は明るくて仕事もできるのに、君は愛想も悪いし仕事もできないじゃないか。少しは見習ってほしいよ。」
大きな契約を取ってきても、上司は俺を認めなかった。どんなに努力しても、俺の成績は松田の影に隠れてしまう。それでも俺は自分のやり方を変えなかった。取引先に誠実に向き合い、少しずつでも信頼を積み上げていく。そうすればいつか必ず評価されると信じていたからだ。
松田の本性を知ったのは偶然だった。彼が上司や取引先の悪口を同僚に話しているのを聞いてしまったのだ。
「あの上司、本当に話が長くてうるさいんだよね。俺にうまく使われてることも分かってないんだよ。」
それを聞いた時、驚いた。しかし、それから松田は俺を見下すようになっていった。俺が上司から比較されていることを知り、鼻で笑いながらこんなことを言ってくるようになる。
「お前かわいそうだな。優秀な俺と比べられて。まあ、実際お前は仕事もできないし仕方ないか。」
最初は偶に馬鹿にされる程度だったが、最近では顔を見るたびに嫌味を言ってくる。俺は気にしないようにしていた。自分の仕事に集中し、先月の契約数では営業部でトップの成績を収めた。ところが、上司の言葉は変わらない。
「先月は他のみんなが調子が悪かっただけだよ。松田君は成績が良くても調子に乗らずに頑張っているよ。」
そんな調子だ。上司は何をしても松田の話ばかりする。その度に松田は俺の元に近づいてきて、馬鹿にした笑みを浮かべて言うのだ。
「また俺と比べられてかわいそうだな。しょうがないから、今度上司と飲みに行く時、お前も誘ってあげようか。」
俺は断った。すると松田はケラケラと笑い出した。
「あの上司、本当にバカだな。高い飯を奢ってもらえるから付き合ってるだけだよ。あいつの話なんて聞きたいわけない。」
彼は取引先にもそうやって飯を奢ってもらい、飲みの場で契約を取っているらしい。それを自慢げに話す松田に、俺は呆れて何も言えなかった。
「お前は容量が悪いんだよ。お前みたいにコツコツやっても俺には叶わないよ。残念だな。」
腹は立ったが、俺は自分のやり方を信じることにした。そして、長い間温めてきた企画があった。来月、俺が中心となって進めている大型イベントだ。利益は1億ほどになる見込みで、これが成功すればようやく上司に認めてもらえるかもしれない。そう思って必死に頑張っていた。
ところが、その頃から松田が俺の企画に口を挟んでくるようになった。
「それはちょっと変えた方がいいんじゃないか。」
考え込んでいる俺のパソコンを覗き込んで言う。今までそんなことは一度もなかったため、不審に思った。俺が断ると、今度はこう言い出した。
「その企画、俺にも手伝わせてくれよ。俺ならいいアドバイスもできると思うんだよ。」
しつこく手伝うと言うので、流石に尋ねた。
「どうしたの? 急に。今までそんなことなかったじゃないか。」
すると松田は大きなため息をつき、悪びれもせず言い放った。
「これだからバカは。俺が手伝ったら俺の評価も上がるからに決まってんだろ。」
はっきりとそう言われ、俺は言葉を失った。自分の評価のために俺の企画を利用しようとしている。それが許せなかった。
「今まで俺が必死にやってきた企画だよ。自分の評価を上げるためだからって、手伝うとか軽々しく言わないでほしい。」
少し強い口調で言うと、松田は鋭い目つきで睨みつけてきた。
「お前、あんま調子乗んなよ。俺にそういうことを後悔させてやるからな。」
そう言って立ち去っていった。その数日後、俺は上司に呼び出された。松田へのパワーハラスメントについてだと聞かされた時、全く何のことか分からなかった。
「とぼけるな。お前が松田君にしていることは全て聞いたよ。無視をしたり、高圧的な態度を取っているらしいな。仕事を横取りしているのも聞いてしまったよ。まさかあの1億のイベントが松田君の企画だったとはね。」
俺は必死に否定したが、上司は聞く耳を持たなかった。
「君みたいな奴があんな企画を思いつくわけもない。松田君が優秀で嫉妬しているんだろう。精神的に参ってしまっていて、このままでは会社を辞めざるを得ない。どう責任を取るんだ?」
つまり、俺が辞めるべきだと言っているのだ。これ以上、この上司の元で働いても正当な評価はされない。そう悟った俺は、悔しさを飲み込んで告げた。
「……分かりました。僕が退職をします。」
「当たり前だよ。松田君にしてきたことをしっかり反省するんだな。」
最後までそう言われた。そして、俺の企画は全て松田が引き継ぐことになった。会社を去る時、松田は勝ち誇ったように言った。
「俺の言うことを聞いていれば、こんなことにならなくて済んだんだぞ。バカな自分を責めるんだな。」
俺は何も言わなかった。心の中で呟いた。「いつか必ず後悔させてやる。」その思いだけを胸に、俺は会社を去った。
それから数年後、俺は都心にある高級ホテルにいた。新しい取引先との重要な会談があるのだ。窓ガラスで自分の姿を確認し、2階のレストランへ向かおうとしたその時だった。
「関口、久しぶりじゃないか。」
聞き慣れた声に振り返ると、松田がニヤニヤとした笑みを浮かべて立っていた。あの頃と変わらない、俺を馬鹿にする時の顔だった。
「松田……久しぶりだな。」
大人の対応をしようと努めたが、彼は得意そうに話し始めた。
「俺さ、昇進したんだわ。お前の1億のイベントが成功したおかげだよ。サンキュー。」
あの時、俺から奪った企画のおかげで出世したと言っているのだ。怒りが込み上げてきたが、もう過去のことだと自分に言い聞かせた。
「そうか。」
俺が淡々と返すと、松田は気に食わなそうな顔をした。
「あれ? 怒らないんだ。俺のせいで辞めることになったのに。そういえば今日、これから5億のイベントの商談なんだ。まあ、お前と違って仕事のできる男だからな。」
「そうか。」
「なんだよ、その態度。どうせ俺に嫉妬してるんだろ。今は何の仕事してるんだ? どうせお前みたいな能力のない奴は、ろくな仕事に就けてないんだろう。」
鼻で笑いながら馬鹿にしてくる。俺は平静を保ちながら答えた。
「イベントの運営関係の会社だよ。」
「やっぱりバカだな。真面目にやっても成績が全てなんだよ。お前はもう関係ないから教えてやるけど。」
松田はまた例の笑みを浮かべ、とんでもないことを言い放った。
「実は今日の5億のイベントも、俺が企画したものじゃないんだよね。」
「どういうことだ?」
「他の会社の企画を盗んだんだよ。知り合いを酒に酔わせて企画を聞き出して、先に俺が提案しに行ったんだ。」
ヘラヘラと笑いながら平気でそんなことを自慢する松田に、俺は呆れを通り越して怒りが湧いてきた。どれだけ汚い人間なんだ。
「それで、お前は何の仕事をしているんだ? ああ、でも、5億の仕事をしている俺には言いにくいか。」
もう一度、同じ質問を馬鹿にしながらしてくる。俺は彼の目をじっと見て、静かに答えた。
「イベントの運営関係の会社だよ。ちなみに、その5億のイベントの担当者は俺なんだ。」
一瞬、松田の表情が固まった。
「はあ? 何言ってんだ。そんな冗談、全然面白くないから。」
「冗談じゃないよ。俺は今、その会社の営業課長を務めている。そして、そのイベントの提案があがってきた時、相手が松田だと聞いて嫌な予感がしていたんだ。まさか、また企画を盗んでいたとはな。お前のような人間を取引先として信用することはできない。このイベントは中止させてもらうよ。」
松田は突然お腹を抱えて大声で笑い出した。
「お前、いくら俺に恨みがあるからって、怖がらせるためにそんなこと言っても無駄だぞ! 全然怖くないから!」
俺は何も言わずに、名刺を取り出して彼の目の前に差し出した。笑っていた松田だったが、名刺に書かれた会社名と俺の役職を見た瞬間、顔色が真っ青に変わった。
「う、嘘だろ……。」
俺は本当に、彼の取引先の会社の社員だった。あの日、会社を辞めた後、たまたま街で元取引先のお客様に会ったのだ。入社当初から良くしてくれていた方で、突然会社を辞めたことを心配してくれていた。退職までの出来事を話すと、その方は言ってくれた。
「真面目でしっかり向き合ってくれる君が、そんな風になるなんて本当に残念だ。心配だ。今の会社を紹介しよう。」
その方の紹介で、今の会社に再就職することができた。社長は俺の仕事ぶりを評価してくれ、現在は営業課長を任せてもらっている。そして今日、この商談のためにここに来ていたのだ。
「こ、こんな大きな仕事、お前の独断で中止になんてできるはずないだろ!」
震える声でそう言う松田を前に、俺はスマホを取り出し、社長に連絡した。状況を説明し、松田と仕事をするのは信用できないと伝えると、社長はすぐに了承してくれた。
「関口君がそう言うなら間違いないだろう。」
電話を切り、俺は松田に言った。
「今、社長から了承を得た。商談はキャンセルだ。このイベントの話もなかったことにさせてもらう。」
言葉を失って立ち尽くす松田を残して、俺はその場を去った。ようやく、一矢報いることができたと思った。
しかし、松田がこれで諦めるはずもなかった。翌日、彼は元上司を連れて俺の会社に乗り込んできたのだ。そう、あの時、俺をパワハラで辞めさせた上司だ。
俺は社長と共に二人と面会することになった。元上司は強い口調で社長に抗議した。
「先日、関口さんにイベントを中止すると言われたのですが、契約目前でこんなことをされるのは納得できません。」
それに対し、社長は胸を張ってきっぱりと答えた。
「こちらとしても残念ですが、松田さんという方を信用することができません。そんな方とお仕事をするわけにはいきません。」
「具体的に、どのような点で信用できないと思われたのですか?」
元上司の質問に、俺が答えた。
「松田さんは先日私と会った際、このイベントは他社の企画を盗んだものだと話していました。私がこの会社の社員だと知らずに言ってきたのでしょう。そんな話を聞いて、今後お仕事をしたいとは思えません。」
俺が話し終えると、元上司はため息をつき、困った顔で社長に訴えるように言った。
「こんなことを言うのもあれですが、関口さんは元々うちの会社の社員でした。しかし、同僚へのパワーハラスメントが問題で退職させた経緯があります。今回の件も、何か因縁をつけているのではないかと思われます。」
この元上司は、今も松田の嘘を信じているようだ。俺が悪いと言わんばかりの発言に、黙って聞いていられなくなった。口を開こうとしたその時、隣の社長が声を上げた。
「うちの社員が嘘をついているとでも言うのですか? あなたは、パワーハラスメントという件について、しっかり事実確認を行ったのでしょうか?」
「もちろんです。うちの優秀な社員が嘘をつくはずがありません。」
「同じ言葉をお返しします。私も関口君のことを信頼しています。これでは話が平行線ですね。では、第三者機関による調査をさせていただくのはどうでしょう?」
社長はそう提案した。
「その調査で潔白が証明されれば、イベント中止を撤回させていただきます。しかし、もし嘘であれば、その時は今後の条件を全てのんでいただきますよ。私の部下を嘘つき扱いされて、黙っているわけにはいきませんので。」
松田が嘘をつくはずがないと思い込んでいる元上司は、自信満々にその提案をのんだ。
「ええ、そうしましょう。」
しかし、隣に立つ松田の顔が、どんどん青ざめていくのが分かった。彼は慌てて元上司に言った。
「あ、あの、調査というのはさすがにやりすぎでは……。第三者を入れると色々と面倒ですし、お金もかかりますし……」
「大丈夫だ。金ならちゃんと上に掛け合って確保してやる。しっかり調査してもらって、潔白を証明しようじゃないか。」
元上司は松田の異変に全く気づいていない。本当に節穴だ。そして、松田は自分の味方だと思っていた上司に、追い詰められていった。
その後、第三者機関による調査で、松田の悪事が次々と明らかになった。俺へのパワハラの件も冤罪だったことが証明され、取引先から仕事を盗んでいたことも発覚した。その結果、松田は解雇され、彼を擁護していた元上司も左遷されたと、社長から聞かされた。
しかし、俺にとって松田たちがどうなろうと、もう大した関心はなかった。何よりも、最後まで俺を信じてくれた社長の存在が嬉しかった。そして、俺は思う。俺も、部下をしっかりと信じ、きちんと事実確認をして判断できるような人間になりたい。自分を拾ってくれたこの会社と社長に、恩返しをするつもりで、これからも真面目にコツコツと働いていこう。そう強く決心した。



