夫から突然電話がかかってきた。娘の結婚式が始まっているという。だが、私には娘などいない。夫の修二はそれだけ言うと、一方的に電話を切った。
私は混乱しなかった。彼がなぜ慌てていたのか、私は知っている。今日で全てを終わらせる。そう決意して、私は支度を始めた。クローゼットからスーツを取り出し、着替え、鏡の前で化粧を直す。インターホンが鳴り、呼んでおいたタクシーが待っている。
「ハリネプリンスホテルまでお願いします」
車窓から街並みを眺めながら、私はこれまでの日々を思い出していた。私には子どもがいない。それが原因で、修二とは10年以上、会話らしい会話をしていない。最初は無視されるだけだったが、次第に陰湿な嫌がらせに変わっていった。親族の前で「子供も作れない出来損ないの嫁」と罵られ、家事にもいちいち文句をつけられた。親族たちも私には同情しながらも、早く孫の顔が見たいと言うものだから、私はますます惨めな気持ちになった。
数年前から修二は家に帰らない日が続き、週末はほとんど外出していた。結婚した当初は「一緒にいたい」と言ってくれた人なのに、私が妊娠できないせいで、私たちの関係は完全に冷め切っていた。
私には友人と呼べる人がほとんどいなかったが、一人だけ心を許せる人がいた。高校時代からの親友、霊子だ。当時、クラスメイトから嫌がらせを受けていた私に、彼女が優しく声をかけてくれたのが始まりだった。卒業後も連絡を取り続け、私が結婚してからも変わらなかった。不妊治療のことで相談しても、彼女は真剣に聞いてくれた。「仕方さんだけのせいじゃない。二人の問題だから、一人で抱え込んじゃだめだよ」と、いつも私の肩を抱いてくれた。
40歳が近づいても、霊子だけが私の支えだった。しかし、そのうち彼女からの連絡は徐々に減っていった。私から遊びに誘っても、「今はそんな時間がない」とか「引っ越しして家が散らかっているから遊びに来られても困る」と、冷たい態度を取られることが増えた。その時はあまり気にしなかった。
「お客さん、着きましたよ」
運転手の声に顔を上げる。この町で最大のホテルだ。ロビーに入り、案内に従って7階へ向かう。エレベーターが開くと、受付の女性がにこやかに迎えてくれた。
「新婦のお母様ですね。お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
私は無言で頷き、彼女に案内されるまま会場に入った。式はすでに始まっており、ちょうどキャンドルサービスが終わったところだった。新郎新婦が幸せそうに手を振っている。本来なら私がここにいる資格はない。しかし、これは絶好の機会だ。さっきの電話は間違い電話。その電話の主の隣に、私は腰を下ろした。
拍手が落ち着き、隣の男が私の方を向いた。修二だ。彼は私の顔を見るや、手にしていたビールを落とし、椅子から転げ落ちた。「なんでお前がいるんだ?」と、BGMにかき消されそうな声で言った。彼は私がこんな大胆な行動に出るとは思っていなかったのだろう。
周りの視線がこちらに集まるが、誰もが私を新婦の母として迎えているようだ。反撃のタイミングを計っていると、会場の後ろから小さな騒ぎが聞こえてきた。スタッフと、私と同じくらいの年齢の女性が揉めている。
「ふざけんじゃないわよ。新婦のしおりの母親は私よ。どうして私の席に人がいるのよ!」
その女性はスタッフに掴みかかられるようにしながら会場へ押し入ろうとしている。司会者が式の中止を告げると、その女性はずかずかと私の方へ向かってきた。しかし、彼女は私の顔を見た瞬間、動きを止めた。
「嘘?あんた、普段しないから誰か分からなかったわ」
「久しぶりね、霊子。急に私を避けるようになったのは、こういうことだったのね。あなた、私の味方をするふりをして、修と浮気していたんでしょう」
会場が騒然とする。すると霊子は無理やり平静を保って、会場全体に叫んだ。
「皆さん、騙されないでください!この人は完全に部外者です!私はこんな人を知りません!そうよね、修二!」
修二はぎこちなく頷いた。新郎側の親族が口を開く。
「うーん、今の人が言ったことが間違いじゃないだろう。よく見たら、その女性はしおりさんに全然似てないじゃないか。修二さんのストーカーじゃないのか?」
会場が一斉に私を冷たい目で見つめる。「部外者は連れ出せ」という声も聞こえてきた。確かに、新婦のしおりを産んだのは霊子だ。だが、このまま退散すれば、私がここに来た目的は果たせない。
「スタッフ、その部外者をつまみ出せ。そして再開しろ!」
周りも「そうだそうだ」と騒ぎ立てる。私は静かに言った。
「スタッフさん。私は新婦の父親の妻です。そして、こちらにおられる霊子さんは、何年も私の夫と関係を持っていた女性です。それだけではなく、彼女は私の友人でもありました」
私は持ってきた調査報告書をテーブルの上に広げた。霊子が私を避けるようになった理由。それは、修二との浮気を隠すためだった。私は家計簿の不自然な金の流れに気づき、調査会社に依頼していた。その結果、修二と霊子が27年以上も関係を続けていたこと、そして霊子の娘であるしおりの実の父親が修二であることが判明した。
会場が再びざわつき始める。今度は私を見る目が変わった。しおりが、驚いた表情で霊子を見つめる。「お母さん、本当に私を産んだのはあなたなんでしょう?でも、お父さんには奥さんがいたの?これが本当なら、私は今日でこの家族を終わりにします」
霊子は必死に弁解しようとするが、時すでに遅し。私は報告書を指差しながら言った。
「これは、ここ1年間の修二と霊子さんの行動を記録したものです。嘘ではありません。証拠は全てここにあります。しおりさん、あなたはどうか幸せになってください。私はあなたを応援しています」
しおりは涙を流しながら報告書を読み始めた。それから彼女は立ち上がり、両親に言い放った。
「私は今日限りで、あなたたちと縁を切ります。今までどうもありがとう。さようなら」
そう言うと、しおりは会場を後にした。私たちは別室へと連れて行かれ、そこで修二と霊子はようやく観念したように項垂れた。しかし、修二は開き直ったように言った。
「そもそも、お前が妊娠できれば俺はこんなことをする必要はなかったんだ」
「残念だけど、私は不妊治療にあなたのお金は一切使っていません。そもそも、あなたは私が外に出ることも禁止していたでしょ。私は独身時代の貯金で、あなたに内緒で在宅ワークをしていたのよ」
「じゃあ、今は結構稼いでいるってことか?」
「まあね。一人で暮らせるぐらいには稼いでいるわ」
修二は激怒し、机の上の報告書を破って私に投げつけた。「うるさい!在宅ワークなんて底辺の仕事だ。お前みたいな50代のババアは、すぐに首になるだろう!慰謝料なんて払ってやるから、さっさと離婚してくれ!俺は霊子とやり直すんだ!」
私は深いため息をついた。この人は最後の最後まで自分のことしか考えられない。25年間、私が抱いてきた期待が崩れ落ちていくのを感じた。もう何を言っても無駄だ。私は静かに立ち上がり、修二を最後に一度だけ見つめた。そこにいたのは、私がかつて愛した人ではなく、ただの身勝手な男性だった。
「さようなら、修二」
私は黙って別室を出て行った。不思議と心は軽やかだった。
離婚手続きはスムーズに進んだ。浮気の証拠がしっかりしていたおかげで、慰謝料も財産分与も私に有利に決まった。私は一人暮らしではあるが、あえて3LDKを購入した。自分用、仕事用、そして売却用に部屋を分けたかったのだ。
それからしばらくして、修二から電話がかかってきた。彼は泣きながら懇願した。
「助けてくれ。俺たち、もうこの町で生きていけないんだ」
「霊子と幸せになっていたんじゃなかったの?」
彼の話を聞くと、どうやら結婚式での騒動が動画サイトにアップされ、炎上しているらしい。「結婚式で新婦の母が二人」というタイトルで拡散されていた。霊子は両親に絶縁され、修二も会社を辞めざるを得なくなったという。
「少しお金を貸してくれないか?稼いでいるんだろう?」
「嫌に決まってるでしょ。あなたたちにお金を渡すぐらいなら、捨てた方がましよ。しおりさんのために使うわ」
「しおりに?お前、まさか、あの時のことを恨んでいるのか?」
「しおりさんからは、後日連絡があったのよ。『父や母が私に隠してきたことは一生許さない。でも、本当のことを教えてくれたさんには感謝しています』ってね。あの結婚式は、なんとか終了したそうよ。新郎側の親族は、しおりさんを温かく受け入れてくれたみたい。国境を越えて、新しい家族ができたのよ」
修二は黙った。それからようやく反省の言葉を口にした。
「俺が間違ってたんだよな。仕方さんは、俺がどんなに嫌なことを言っても、文句ひとつ言わずに頑張ってくれていた。この上、勉強までしていたなんて。霊子とはもう別れるつもりだ。だから、また一緒になってくれないか?今までのことは忘れて、俺も新しい仕事を見つけて頑張るから」
「修二、あなたの今の言葉を聞いて、やっぱり何も理解していないということがよく分かったわ。『今までのことは忘れて』と言うけれど、それは結局、自分が困った時だけの都合のいい発言よね。あなたはしおりさんをずっと騙し続けてきたのよ。その間、彼女がどんな気持ちでいたか考えたことがある?しおりさんは、お父さんとお母さんに愛されていると信じて育った。でも実際には、あなたは私との二重生活で忙しく、霊子さんは自分のことばかり。大切な結婚式でさえ、あなたたちの嘘が原因で台無しになった。あなたたちがどんなに傷つけたか、分かっているの?」
「それは俺だって辛かったんだ。仕方さんが子供を産めないから、やむを得ず」
「やむを得ず?27年間もしおりさんを騙したことが、やむを得ず?彼女が本当に幸せになったのは、あなたたちの嘘を知ってからよ。本当に愛してくれる家族を見つけたから。旦那さんの親族の方が、どれだけしおりさんを大切にしてくれているか、あなたは知らないでしょうね。そして私に対してもそう。あなたは私に何をしてきたか忘れたの?散々モラハラをして、外出も禁止して、挙げ句の果てに浮気をして、今になって『助けて』なんて、どの口が言うのかしら」
「でも俺は、仕方さんを養ってきた!家だって用意してやった!」
「私は結婚前から自分で働いていたし、あなたが知らないうちに在宅ワークでも稼いでいたわ。家だって、独身時代の貯金で頭金を出したのよ。あなたこそ、私に何をしてくれたっていうの?修二、あなたには自分の行動がどれだけの人を傷つけたか、全く理解できていない。だから今でも平気でそんなことが言えるのよ。しおりさんはもう新しい人生を歩んでいるわ。あなたたちの影に怯えることなく、本当に愛してくれる人たちと幸せになっている。だから、もう二度としおりさんに近づかないで。そして、私にももう連絡しないでちょうだい。あなたとの関係は、完全に終わったのよ」
電話の向こうからは、ただ重い沈黙だけが聞こえてきた。私は静かに電話を切り、そのまま着信拒否設定にした。
25年間、私は何のために過ごしてきたのだろう。愛して、支えて、理解してもらえる日を待ち続けた日々。でも今、ようやく分かった。相手を変えようとするより、自分が変わる方がずっと簡単で、ずっと幸せになれるということを。これからは、言いたいことを言う。誰かに合わせて声を殺すことは、もうしない。
それから2年後、私は職場仲間の未知と一緒に、小さなカフェを始めていた。地域の人々が集う温かい場所で、毎日が忙しくも充実している。ある日、しおりが夫と生後半年の赤ちゃんを連れて来店した。
「さん、息子のりくです。会いに来ました」
私は手作りのケーキを運び、3人でゆっくりと話をした。しおりたちは、結婚式の時のパンフレットを広げている。
「もう一度、結婚式をするんです。今度は子供と3人で、改めて。さんにも、是非来ていただきたいんです。あの時は本当にありがとうございました。おかげで、俺たちは本当に幸せです。さんが真実を教えてくれて、私の味方になってくれたこと、今でも感謝しています。さんが本当の母親だったらよかったのにって、思います」
まっすぐに見つめてくれるしおりを、私は思わず抱きしめたくなった。パンフレットを広げたまま幸せそうにケーキを食べるしおりたちを見ながら、私は思った。本当の幸せは、自分の心に嘘をつかないことではないだろうか。誰かを大事にするのと同じくらい、自分を大切にしながら、これからも笑顔で生きていこう。



