5年間、俺はメスを置いた。脳外科医だった自分を捨て、長野の田舎病院で腹腔鏡手術だけをする平凡な外科医として静かに暮らしていた。誰も俺の過去を知らない。知られたくもなかった。なのに昨夜、恩師から一本の電話がかかってきた。「お前の術式で、娘を救ってくれ」。5年前のあの日、俺の手術を受けた佐木翔は、二度と目を覚まさなかった。あれから一度も技術を成功させていない俺に、またメスを握れと言うのか。電話の…

5年間、俺はメスを置いた。脳外科医だった自分を捨て、長野の田舎病院で腹腔鏡手術だけをする平凡な外科医として静かに暮らしていた。誰も俺の過去を知らない。知られたくもなかった。なのに昨夜、恩師から一本の電話がかかってきた。「お前の術式で、娘を救ってくれ」。5年前のあの日、俺の手術を受けた佐木翔は、二度と目を覚まさなかった。あれから一度も技術を成功させていない俺に、またメスを握れと言うのか。電話の...

午前の診察室は、いつもと変わらない静けさに包まれていた。窓の外では銀杏の葉が風に揺れている。俺はカルテに目を落としながら、次の患者の名を呼んだ。

「次の方、どうぞ」

俺の名前は山岡浩。45歳。外科医だ。この長野の総合病院に来て、もう5年になる。

かつて俺は脳外科医だった。東京の大学病院で、世界初の記憶回路再建術を生み出した人間でもある。医学誌に名前が載り、海外の学会から招待が届いた時期もあった。今はもう、その肩書きを口にすることはない。ここでは腹腔鏡手術をやり、皮膚の縫合をする。それで十分だと、自分に言い聞かせている。

診察を終えて医局に戻ると、同僚の木鷺綾音が振り向いた。神経内科の医師で、俺より5つ年下だ。彼女は俺の経歴を知っている数少ない一人だった。

「お疲れ様です、山岡先生。今日も外来、立て込んでましたね」

「いや、いつも通りだよ。木鷺先生こそ、午後の検査が多いんじゃないか」

「ええ、MRIが3件です。でも最近、少し落ち着いてきました」

彼女は湯呑みに茶を注ぎ、俺の机にそっと置いた。余計なことは聞かない人だった。こちらの過去にも踏み込まない距離を取る。だからこそ、俺はこの医局で息ができていた。

「ありがとう。助かるよ」

「先生、顔色が少し悪いですよ。お昼、ちゃんと食べてくださいね」

俺は曖昧に笑い、椅子に腰を下ろした。窓の外では、銀杏の葉が1枚、ゆっくりと地面に落ちていく。5年前のあの日も、こんな秋の午後だった。

佐木翔。20歳の青年。交通事故で運ばれてきた、記憶回路再建術の最後の患者。彼の名前は今も俺の中に巣食っている。手術は成功したと公式には記録されている。だが俺は、あの日を境に脳に関する手術をやめた。理由は誰にも話していない。木鷺さえも、そこには触れない。

午後の手術を終えて家に戻ると、留守番電話のランプが点滅していた。俺は鞄を床に置き、再生ボタンを押す。聞き覚えのある低い声が部屋に流れ出した。

「鈴木だ。久しぶりに連絡した。折り返してくれ。番号は変わっていない」

鈴木佐雄。俺の恩師であり、元大学病院の脳神経外科教授。退官してから、もう3年が経っているはずだった。72歳になったあの人の声は、以前より少しかすれて聞こえた。俺は受話器を握ったまま、しばらく動けなかった。あの人が、要件もなしに電話してくる人ではない。ボタンを押す指が、わずかに震えた。

呼び出し音が3回鳴り、すぐに繋がった。

「山岡か。ご無沙汰しております。先生、お電話遅くなって申し訳ありません」

「いや、いい。仕事中だったろう」

しばらく沈黙が流れた。俺はその沈黙の重さをよく知っていた。

「美沙が事故にあった」

「美沙さんがですか?」

「3日前だ。交差点でトラックに巻き込まれた。意識が戻らん」

俺は受話器を持ち替え、壁に手をついた。美沙さん。鈴木先生の一人娘で、確か今年28のはずだった。学生時代に何度か教授室で顔を合わせたことがある。明るくて、よく笑う子だった。

「容態はどうなんですか?」

「重度の脳挫傷だ。出血は止まったが、後遺症の回復は見込めんと言われた。担当医に、お前に頼みがある」

何を言われるか、もう察しはついていた。

「お前の術式を、美沙に使ってほしい」

「先生、それは……」

「他に道がないんだ。お前の手しか、残されていない」

俺は目を閉じた。5年前の手術室の光景が目の裏に蘇る。モニターの音、血の匂い、自分の指先の感触。そして、佐木の二度と開かなかったまぶた。

「先生、私はもうメスは握らないと決めました。ご存知のはずです」

「知っている。お前が何を抱えているかも、全部知っている。だからこそ、お前に頼んでいるんだ」

あの厳格な恩師が、頭を下げているのが見えるようだった。

「すぐに答えを出せとは言わん。だが時間はない。一度こちらに来てくれんか。美沙に会ってからでいい」

電話が切れた後も、俺はしばらく受話器を握ったままだった。台所の蛍光灯が、低く唸っている。

翌朝、俺は早めに病院に着いた。誰もいない医局でコーヒーを入れる。昨夜から、ほとんど眠れていなかった。ドアが開き、木鷺が入ってきた。俺の顔を見て、彼女は少し驚いた様子を見せた。

「おはようございます、先生。眠れなかったんですか?」

「ああ、少しな。木鷺先生も早いね」

「カンファレンスの資料を作っていて。コーヒー、1杯いただけますか?」

俺は黙ってもう1つコーヒーを注いだ。

「昨夜、恩師から電話があった」

「鈴木先生ですか?」

「覚えてたのか?」

「以前、1度だけお名前を伺いました。先生がとても尊敬されている方だと」

俺はカップを両手で包み、しばらく言葉を探した。口にしてしまえば、もう後戻りはできない気がした。

「娘さんが事故にあった。脳挫傷で、意識が戻らない。先生は俺に、手術をしてほしいと言ってる」

「記憶回路再建術を?」

「ああ、そうだ」

木鷺は驚かなかった。ただ静かに湯呑みに目を落とした。彼女は俺の経歴を知っている。5年前、佐木という青年がいたことも、断片的には耳にしているはずだった。

「先生は、どうしたいんですか?」

「分からない。5年間、握らないと決めてきた。今さら戻れる気がしない」

「迷っているということは、断りきれていないということでもありますよね」

俺は顔を上げた。

「先生があの術式を生み出した医師だという事実は消えません。それを使うか使わないかは、先生が決めることです。誰かに止められて決めたことではないはずです」

「厳しいな」

「すみません。出過ぎたことを言いました」

「いや、いいんだ。そのくらい言ってもらった方が、考えがまとまる」

医局のドアの向こうから、看護師たちの朝の挨拶が聞こえてくる。新しい1日が、また始まろうとしていた。

「一度、東京に行ってくる。先生に会いに」

「行ってらっしゃい。ここのことはご心配なく」

新幹線の窓に映る景色は、長野を出てから少しずつ色を変えていった。山の紅葉が、やがて灰色の雲に飲まれていく。俺は鞄を膝に置いたまま、ほとんど動かなかった。

東京駅から大学病院までは、タクシーで20分ほどだった。あの建物の正面玄関を見上げるのは、5年ぶりだ。

ICUの前で、鈴木先生は待っていた。カーディガンを羽織り、両手をだらりと下げている。3年ぶりに見る恩師は、一回り小さくなったように見えた。

「来てくれたか、山岡」

「ご無沙汰しております。先生、新幹線の中でずっと考えていました」

「まず、会ってやってくれ」

ガラス越しに、ベッドに横たわる美沙さんが見えた。頭部には包帯が巻かれ、人工呼吸器のチューブが口元から伸びている。モニターには心拍と血圧の波形が、淡々と流れていた。俺は無言でガラスに手を触れた。冷たい感触が、指先から肘まで伝わってくる。

鈴木先生は俺の隣に立ち、しばらく娘を見つめていた。

「お前が3年前に去った後、娘だけが残ってな。先月、結婚が決まったところだった」

「そうでしたか」

「式の招待を、お前にも送るつもりだったんだ」

俺は何と返せばいいか分からず、ただガラスを見つめていた。モニターの電子音が、規則正しく鳴っている。あの音は、5年前と何も変わらない。

「担当医の話では、このまま脳機能が落ちていけば、2週間も持たんそうだ」

「画像は見せていただけますか?」

「ああ、もちろん。佐山にも声をかけてある」

佐山の名前を聞いて、俺の肩が小さく動いた。大学病院時代の同僚で、俺のやり方に最後まで懐疑的だった男だ。5年前、佐木の症例検討会で、俺と最も激しくやり合った人物でもある。

カンファレンスに入ると、佐山はすでに座っていた。5年で髪に白いものが増えている。俺の顔を見て、彼は軽く顎を引いただけだった。

「久しぶりだな、山岡」

「ご無沙汰してます。佐山先生、お忙しいところ申し訳ありません」

「鈴木先生の頼みだ。断れるわけがないだろう」

モニターに美沙さんの脳のMRI画像が映し出された。出血は止まっているが、神経回路の断裂は深刻だった。俺は画像を1枚ずつ追いながら、頭の中で手術をなぞっていく。

「どうだ、山岡?」

「損傷部位は佐木君のケースと近いです。ただ、彼より浅いところに留まっています。回路の再建そのものは、理論上は可能です」

「理論上は、な」

佐山が口を開いた。腕を組み、画像を睨んでいる。

「山岡、お前の術式は佐木君で止まっている。あれから5年、誰も何もできていない。再現性が示されていない技術を、教授のお嬢さんに使うのか」

「佐山先生のおっしゃることは分かります」

「分かっているなら、なおさら冷静になれ。怖くて逃げるメスほど危ないものはないぞ」

鈴木先生は何も言わなかった。ただ画像の中の娘の脳を、じっと見つめている。

「俺は反対だ。標準治療で見取るのが、家族にとっても穏やかだ。鈴木先生も、本当はそれを分かっているはずだ」

「佐山、お前の言うことは正論だ。よく分かっている。だがな、私はあの子をもう一度笑わせてやりたいんだ。正論では、それができない」

部屋に沈黙が落ちた。佐山は椅子の背に寄りかかり、長い息を吐いた。俺は画像から目を離せなかった。5年前と同じ構図が、また目の前にあった。

「鈴木先生、少しだけ考える時間をください。今夜中にお返事します」

「ああ、待ってる」

俺はカンファレンスを出た。廊下の窓から、夕暮れの空が見えた。東京の空は、長野より一段暗かった。

ロビーの自販機の前で、缶コーヒーを買った。プルタブを引くと、後ろから足音が近づいてきた。振り返らなくても、誰か分かった。

「一杯、奢ってくれ」

「いいですよ。ブラックでいいですか?」

「ああ、それでいい」

2人でロビーの隅のベンチに腰を下ろした。夕方の外来は、ほとんど人がいない。佐山はコーヒーを一口飲み、缶を膝に置いた。

「5年前、お前があの術式を発表した時、俺は本気で反対した。覚えてるか?」

「忘れるわけがありません」

「あの時、お前は俺に言ったな。『誰かが最初に踏み出さなければ、医学は一歩も進まない』と。それを、お前自身が一番信じられなくなっているように見える」

俺はコーヒーの缶を両手で握り直した。

「佐木君は、術後1度も意識を取り戻しませんでした。3ヶ月後に肺炎で亡くなった。ご両親は私を責めなかった。それが、一番きつかった」

「だろうな」

「あのやり方はまだ完成していなかった。私が成果を急ぎすぎました。だから5年、メスを置きました」

佐山はしばらく黙っていた。

「山岡、1つだけ言わせろ。俺は今でもお前のやり方には反対だ。だが、お前という外科医のことは信用している」

「佐山先生……」

「やるなら、俺が第一助手に入る。鈴木先生のお嬢さんを、2人で生かす。やらないなら、俺は何も言わずに引き下がる。決めるのは、お前だ」

俺は佐山の横顔を見た。そこには、医者としての覚悟だけがあった。

「ありがとうございます」

「礼を言うのは、まだ早い」

佐山は立ち上がり、缶をゴミ箱に放った。廊下の奥に消えていく。

その夜、ホテルの部屋で俺は携帯を握った。発信履歴に、木鷺綾音の名前を出す。呼び出し音が2回鳴って、繋がった。

「先生、どうでしたか?」

「美沙さんに会ってきた。画像も見た。佐木君のケースより浅い損傷だ。やれると思った瞬間が、確かにあった」

「そうですか」

「5年間、自分は逃げていたのかもしれない。患者のためじゃなく、自分が傷つかないために、メスを置いていた」

「先生、それは逃げじゃありません。1度立ち止まれる医師の方が、私は信用できます」

「木鷺先生、ありがとう」

「ただ、立ち止まった分だけ、見えてきたものがあるはずです。それを、今度の手術で使ってください」

電話を切った後、俺は窓の前に立った。東京の夜景が、足元から広がっている。無数の光の中に、誰かの命が灯っているのだと、ふと思った。

俺は携帯を握り直し、鈴木先生の番号を押した。呼び出し音が1度だけ鳴った。

「先生、手術お引き受けします。ただし、佐山先生に第一助手に入っていただきます。その条件で、よろしいでしょうか?」

「ありがとう、山岡。ありがとう」

恩師の声が震えていた。俺は窓ガラスに額を当てた。5年間閉じていた扉が、ゆっくりと内側から開いていく音がした。

東京に戻ってから3日が過ぎていた。俺は大学病院に与えられた仮室で、シミュレーションを繰り返していた。机の上には美沙さんの脳画像のコピーが何枚も広げられている。狙うべき損傷部位を、赤いペンで何度もなぞった。夜の10時を回った頃、ドアがノックされた。鈴木先生だった。紙袋を1つ、手に下げている。

「夜分にすまんな。差し入れだ」

「先生こそ、お休みになってください。明日は長くなります」

「眠れんよ。お前の顔を見たくてな」

先生は椅子に腰を下ろし、紙袋から保温ポットを取り出した。湯呑みに茶を注ぎ、俺の前に置く。あの教授室で、何度もこうして茶を出してもらった。あの頃と手つきが、何も変わっていなかった。

「山岡、お前に1つだけ詫びておきたいことがある」

「詫びる? ですか?」

「佐木君のことだ。あの症例検討会の後、私はお前を呼んで言ったな。『お前の手は医学の未来を握っている』と」

「覚えています」

「あの言葉が、お前を追い詰めたのではないかと、ずっと思ってきた。教え子に未来を背負わせるなど、教師の仕事ではなかった」

「先生、それは違います。あの言葉があったから、私はあそこまで行けたんです。佐木君を救えなかったのは、私の力が足りなかっただけです」

「山岡……」

「だから明日は、5年前の続きをやらせてください。先生のお嬢さんを救うためでもありますが、私自身のためでもあります」

先生は湯呑みを置き、深く頭を下げた。白くなった髪が、蛍光灯の下で光っている。

先生が部屋を出ていった後、俺は窓を開けた。東京の夜風が頬を撫でていく。携帯が震えた。木鷺綾根からのメッセージだった。

「先生を信じています。長野でお待ちしています」

短い一文だった。俺はその文字をしばらく見つめていた。画面の光が、暗い部屋にぼんやりと浮かんでいる。俺は机に戻り、もう一度画像に向き合った。5年前、あの時は自信に満ちていた。今は違う怖さがある。だが、その怖さの分だけ、見えるものが増えているはずだった。

翌朝、手術室の前で俺は深く息を吸った。スクラブに着替え、手を洗う。手術室に入ると、佐山がすでに立っていた。麻酔科医、器械出しの看護師。全員が俺を見ていた。

「これより、鈴木美沙さんの手術を始めます。皆さん、よろしくお願いします」

第一助手の席に立つ。5年ぶりに見る脳神経外科の手術室だった。手の中のメスが、不思議なほど軽い。

「始めます」

メスを入れる瞬間、わずかに指先が震えた。佐山がすぐに気づき、無言で吸引のチューブを差し出してくる。俺は頷き、切開を進めた。震えは、最初の一筋を入れた時に消えた。開頭の段階は順調だった。

神経回路の断裂は、画像で見るより深い。俺は顕微鏡を覗き込み、丁寧に確認していった。

「山岡、そこに出血の痕跡がある」

「見えています。佐山先生、こちらをお願いできますか?」

「ああ、分かった」

2人の手が淡々と動いていく。不思議と息が合っている。言葉を交わさなくても、次の動きが分かる。

手術が始まって4時間が経った頃、回路の再建に入った。ここが山場だった。5年前のケースで、俺が最後まで悩み抜いた箇所だ。俺は呼吸を整え、極細の針を持った。損傷した神経の端を、1本ずつ繋いでいく。後の麻酔科医がこう語ったという。

「山岡先生の手は、まるで楽器を奏でているようでした。1本1本音を確かめるみたいに、慎重で優しくて。隣にいた佐山先生が、何度も小さく頷いていらしたのが、今でも忘れられません」

7時間後、最後の縫合が終わった。俺は顕微鏡から目を離し、ゆっくりと背筋を伸ばした。肩の筋肉が、固まったように痛む。モニターを見ると、生体反応は安定していた。

「閉創に入ります。佐山先生、ここからお願いできますか?」

「任せろ」

手術室を出ると、廊下の壁に寄りかかった鈴木先生がこちらを見た。俺はただ、小さく頷いた。先生は両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。肩が震えていた。

美沙さんの意識が戻ったのは、術後10日目の朝だった。ICUに駆けつけた俺の前で、彼女はゆっくりとまぶたを開いた。鈴木先生がベッドの脇で、娘の手を握っていた。

「美沙、父さんだ。分かるか?」

「お父さん……」

か細い声だった。鈴木先生は娘の手に額を押し当て、声を殺して泣いた。俺は一歩下がり、その場を看護師に任せた。ガラス窓の向こうから、佐山が腕を組んで立っているのが見えた。目が合うと、彼は短く顎を引いた。それだけで、十分だった。

リハビリは長くかかるが、それでも美沙さんの記憶は少しずつ戻り始めている。ある日、彼女は俺の顔を見てこう言ったという。

「私を助けてくれたのは、山岡先生ですよね。佐木君のお話、聞いたことがあります」

俺はその時、病室には立ち合っていなかった。看護師から後で聞いた話だった。佐木浩と美沙さんは、大学時代の親友だった。

そのことを、俺は鈴木先生から後に初めて教えられた。

「佐木君が亡くなった後、ずっとお前のことを気にかけていた。会いに行きたいと、何度も言っていたんだ」

「そうでしたか」

「あの子は、お前に救われた。佐木君の分まで、生きていく」

俺は何も言えず、ただ窓の外を見た。東京の空に、薄い雲が流れていた。

長野に戻る新幹線の中で、俺は一通の手紙を取り出した。退院の朝、美沙さんが俺に手渡したものだった。

「山岡先生、佐木君はいつも先生のことを尊敬していました。先生が私を助けてくださったこと、佐木君もきっと喜んでいると思います。ありがとうございました」

俺は窓の外に目を移した。車窓に、山々の輪郭が滲んでいた。5年間自分を縛ってきた何かが、ようやくほどけていくのを感じた。

長野駅のホームに降りると、改札の向こうに木鷺が立っていた。コートの襟を立て、白い息を吐いている。

「お帰りなさい、先生」

「ただいま。長い間、迷惑をかけたね」

「いえ、ちゃんと帰ってきてくれてよかったです」

俺たちは並んで、駅前の道を歩いた。銀杏の葉は、もうほとんど散り終わっていた。

「先生、また脳神経外科に戻られるんですか?」

「いや、しばらくはここで今の仕事を続けるよ」

「そうですか」

「ただ、もしまた誰かが俺の手を必要とする日が来たら、その時は迷わずにメスを握ろうと思う。それだけは決めた」

木鷺は前を向いたまま、小さく微笑んだ。俺たちの足元で、最後の銀杏の葉が風に転がっていった。

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