記憶が戻るまで、あの人から八千万円を振り込まれた本当の意味に気づかなかった。私は姉の身代わりとして山奥の宿へ嫁いだ。見たこともない名義の通帳に八千万円。夫になったばかりの人は「約束の分だ」とだけ言った。冷たい手を温めるのが得意なだけの、地味で影の薄い女だった私に。実家ではいつも奪われるだけだった。自分に価値なんてないと思って生きてきた。でも、ある日、姉がやってきて言った。「あんたなんかが愛さ…

記憶が戻るまで、あの人から八千万円を振り込まれた本当の意味に気づかなかった。私は姉の身代わりとして山奥の宿へ嫁いだ。見たこともない名義の通帳に八千万円。夫になったばかりの人は「約束の分だ」とだけ言った。冷たい手を温めるのが得意なだけの、地味で影の薄い女だった私に。実家ではいつも奪われるだけだった。自分に価値なんてないと思って生きてきた。でも、ある日、姉がやってきて言った。「あんたなんかが愛さ...

朝の薄暗い台所で、味噌汁の湯気の中、渡された通帳に並んだ数字。八千万円。私の名義の口座に振り込まれた、見たこともない桁の金額。夫になったばかりの人は、私の動揺をよそに、「それは約束の分だ。気にしなくていい」とだけ言った。昨日まで名前すらまともに知らなかった人に、なぜそんな大金を?

私は綾瀬美央、28歳。小さな食品卸の会社で経理をしている。器用で、細かい気配りと誰かの世話を焼くことだけが取り柄の、地味な女だ。二つ上の姉・花は、どこにいても目を引く華やかな人で、家の中はいつも姉が一番だった。母の関心はいつも花にだけ向かい、私が何をしても「そう」で終わり。欲しいものはいつも姉に奪われ、私の手柄はいつの間にか姉のものになった。「みよ、お姉ちゃんにあげなさい。あなたはお姉ちゃんの妹なんだから」――その言葉で、私の宝物はいつも消えていった。

中学生の頃、初めて密かに想った同級生さえ、姉は面白半分に奪って捨てた。その時から、私は何かを心から欲しいと願うことをやめた。欲しがれば奪われる。期待すれば裏切られる。ならば初めから何も望まない方が傷つかずに済む。そうやって心に蓋をして生きてきた。

そんな私に、ただ一人まっすぐ目を向けてくれる人がいた。父方の祖母だ。「みおの手は人をあっためる手だよ。この手はね、いつかみおを一番幸せなところへ連れて行ってくれる」と、しだれた温かい手で包んでくれた。姉に絵を奪われて母に褒められていた時も、祖母は珍しくきっぱりと母をたしなめてくれた。「あんた、それはみよが描いた絵だろう。ちゃんと見ておやり。上の子ばかり見てちゃ、下の子がかわいそうだよ」

祖母は若い頃、山奥の温泉宿で仲居として働いていた。宿の名前は一度聞いたけど、幼い私は忘れてしまった。祖母は私に、色あせた古い手ぬいと、若い頃の祖母が旅館の前に立つ写真を残してくれた。「これはみよのお守りだよ。困った時はこれを見てごらん」と。その祖母も、私が十五歳の時に亡くなった。病院のベッドで、細くなった指で私の手をさすりながら、「みおはね、大丈夫。この手があるから、きっと大丈夫」と言い残して。世界で唯一私を丸ごと肯定してくれた人がいなくなり、私はますます俯いて生きるようになった。

高校を出て就職した会社でも、私はいつの間にかみんなの雑用係だった。伝票の整理も、来客のお茶も、散らかった部屋の片付けも、全部私の役目。給料のほとんどは家に入れ、それを着飾るのはいつも姉だった。恋の一つも知らないまま、家と会社を往復するだけの28歳。このまま誰かの影のまま、静かに終わっていくのだろうと、私はもう諦めかけていた。

円談の話が舞い込んだのは、肌寒い春のことだった。父の勤める会社の取引先を通じて、山合いにある温泉旅館の後取りが、うちの娘を是非にと望んでいるという。この家で「娘」といえば花のこと。花は「旅館の後取り? お金は持ってそうね。一回くらい会ってあげてもいいけど」と興味なさそうに首を傾げた。お見合い当日、私は家族の支度に追われていた。花の長い髪を結い、母の着物の帯を直す。私自身はその席に呼ばれてすらいなかった。ただの荷物持ちとして、玄関先まで見送るだけ。それが私の役目だった。

ところが当日、花は朝から機嫌が悪かった。前の晩に相手の旅館を調べたら、口コミサイトで高評価が一つもないボロ宿で、山の中で周りにコンビニすらないらしい。「絶対に嫌。あんな田舎の宿の嫁なんて、私の人生終わりじゃない?」と騒いだが、今更断るには話が進みすぎていて、渋々ホテルへ向かった。

ホテルのラウンジには、写真通りの実直そうな男の人と、銀の髪を美しく結った品のいい老夫婦が待っていた。年の頃は八十近いだろうか。花は退屈そうにスマホをいじり、あくびを噛み殺すようなしぐささえ見せた。「ねえ、その旅館って正直儲かってるんですか? こんな時代に山奥の宿なんて」と、花は遠慮のない声で言った。相手の二人は気を悪くした様子も見せず、ただ静かに微笑んでいた。それがかえって花を苛立たせたのか、しばらくして花は「ごめんなさい。ちょっとお手洗いに」と席を立った。五分散っても、十分経っても戻ってこない。様子を見に行った母が青ざめた顔で戻ってきた。花はホテル外で待たせていた友達の車に乗り込んで、そのまま姿を消していた。スマホの画面には、こう書かれていた。『やっぱり無理。あんな田舎の宿の嫁なんて私には一生合わない。あとはよろしく。みよでも身代わりに立てておけば』

頭の中が真っ白になった。姉が散らかしたものを黙って片付けるのはいつだって私の役目。今度はそれがたまたま結婚だっただけ。慣れているからこそ、余計に惨めだった。父と母は相手の前で平謝りに謝るしかできない。その居たたまれない空気の中で、私はふと相手の男の人の顔を見た。怒っているでも落胆しているでもなく、静かにまっすぐ、なぜか私の方を見ていた。そして隣の老夫人が、ふっと目を細めた。まるで長い間会いたかった人にようやく会えたとでもいうような、不思議な笑みだった。私は気づけば立ち上がって、震える声で言っていた。「あの、申し訳ありません。姉の代わりに私では、ご迷惑でしょうか?」――なぜそんなことを口にしたのか分からない。ただ、この人たちにこれ以上恥をかかせてはいけないと思ったのか。あるいは、心のどこかでこの家から逃げ出せるなら相手は誰でも良かったのか。好きでもない相手に嫁ぐことよりも、この家で誰の影でもないまま朽ちていくことの方が、ずっと恐ろしかった。

老夫婦は私を見て、なぜかほっとしたように深く頷いた。そして隣の男の人に何かを耳打ちする。男の人は少し目を見開いたが、ゆっくりと頷くと、生まれて初めて聞く、低くて静かで優しい声で言った。「こちらこそ、よろしくお願いします」――その声に、どこか懐かしい心地がした。なぜだろう。それが何だったのか、思い出せなかったけど。

話は驚くほど早く進んだ。両親は厄介払いができてほっとしたようで、私は相手のこともよく知らないまま、山合いの温泉旅館へ嫁ぐことになった。電車とバスを乗り継ぎ、山道をどんどん登っていく。窓の外は深い緑の山ばかり。バス停で待っていたのは、あの総一郎さんだった。「荷物、それだけですか?」「はい。これで全部です」――私の荷物は小さなボストンバッグ一つ。中には着替えと、あの祖母の手ぬいと写真が入っていた。総一郎さんは少し寂しそうな目でそれを見て、何も言わずに車に乗せてくれた。

車でさらに山道を登った先に、その宿はあった。『花輪の湯』。古い木造の二階建てで、門をくぐると大きな木が一本立っている。建物は確かに古いけど、隅々まで掃除が行き届き、磨き込まれた廊下は艶やかに光っていた。玄関には季節の花が一輪、さりげなく生けてある。一目で、この宿が長い間大切に守られてきたと分かった。迎えてくれたのは、あのお見合いの席にいた白髪の老夫人。この宿の大女将で、総一郎さんのおばあさんだった。「よく来てくれたね。待っていたよ。さあさ、寒かったろう。お上がりなさい」と、私の両手を取ると、しだれた温かい手でぎゅっと包み込んだ。「ああ、いい手だね。本当にいい手をしている」

覚悟していた冷たい仕打ちはどこにもなかった。身代わりで来た穀潰しの嫁として辛く当たられると思っていたのに、この宿の人たちは誰一人、そんな目で私を見なかった。番頭の佐平さんは六十過ぎのがっしりした体つきで、面倒見のいい人。中居頭の春子さんは仕事に厳しいけど根は温かい。若い中居のさっちゃんは、すぐに私を「お姉さん」と呼んで懐いてくれた。みんな、私をごく当たり前のように一人の人として迎え入れてくれた。

その日の夕方、おばあさんは私を先にお風呂へと進めてくれた。「長旅で冷えたろう」と案内された内湯は、古いけどよく磨かれて、檜のいい匂いがした。とろりとしたお湯に肩まで浸かると、体の芯から小りが解けていくようだった。こんな風に誰かに気遣われて湯に浸かることを、私は随分長い間忘れていた。目頭がじんと熱くなった。――ここはなんて温かい場所なのだろう。

終元はごく質素なものだった。白い着物姿のおばあさんが、私に一杯の酒を注いでくれた。「つたない嫁だけど、どうかよろしく頼みますよ。あんたが来てくれて、本当に良かった」――その言葉に、胸の奥が熱くなった。実家では「いてもいなくてもいい」存在だった私が、ここでは「来てくれてよかった」と言ってもらえる。そのことが信じられないほど嬉しくて、私は込み上げるものをこらえるように頭を下げた。

その晩、初めて総一郎さんと二人きりになった。私は思い切って、ずっと考えていたことを口にした。「あの、私、この宿で精一杯働かせてください。仲居でも掃除でも何でもします。身代わりで来た私にお給料は結構です。置いていただけるだけで十分ですから」――総一郎さんはしばらく黙って、それから私の顔をまっすぐに見てぽつりと言った。「給料なんて話じゃない。あんたはこの家の人間だ。働きたいなら好きにすればいい。でも、無理はしなくていい」

そして翌朝。まだ薄暗いうちに目を覚ました私の枕元に、一冊の通帳が置かれていた。新しい私の名義の通帳。何の気なしに開いた私は、息が止まった。八千万円。何かの間違いだ。桁を見間違えたに違いない。何度数え直しても八千万円。震える手で通帳を握りしめて台所へ向かうと、総一郎さんはもう起きて、朝の味噌汁をよそっているところだった。「これ、何かの間違いじゃ?」「間違いじゃない。それは約束の分だ。気にしなくていい」「約束? 何の約束だというのだろう。私はこの人と何も約束などしていない。昨日初めて夫婦になったばかりなのに。総一郎さんはそれ以上何も言わず、黙って味噌汁の椀を差し出した。

その日から、私の花輪の湯での日々が始まった。旅館の仕事は想像以上に厳しかった。朝は誰よりも早く起きて、夜は足が棒のようになるまで働きづめ。慣れない星座で膝にはいつも痣ができた。最初の失敗は、お膳をひっくり返したことだった。両手にお膳を持って急いでいた時、敷居につまずいて盛大に転んでしまった。春子さんが飛んできて厳しい声で叱った。「何をしているの? お客様のお料理を何だと思っているの?」――情けなくて涙が滲んだ。ああ、やっぱり私はどこへ行ってもこうなのだ。その時、奥からおばあさんがゆっくりと出てきて、私のそばにしゃがみ込むとこぼれた汁を一緒に拭き始めてくれた。「誰だって初めは転ぶものさ。大事なのはその後どう立ち上がるかだ。みおさん、あんた手が冷たくなってるじゃないか」と、冷えた私の手をまたあの温かい手で包んでくれた。張り詰めていたものがふっと緩んで、私はポロポロと涙をこぼした。

それから私は人一倍練習した。夜、みんなが寝静まった後、一人でお膳を運ぶ傾向をした。すると番頭の佐平さんがある晩、それを見つけてぽそりと言った。「不器用なくせに粘る女だな。まあ、嫌いじゃないよ、そういうのは」そう言って、廊下の危ないところやお盆の持ち方のコツをこっそり教えてくれた。不思議なことに、体で覚えていくうちに、私の手は少しずつ思い出していくようだった。お絞りの巻き方、湯のみの出し方、布団の角の綺麗な揃い方。それは幼い頃、祖母のそばで身をまねて覚えたものだった。春子さんがある日、私の畳んだお絞りを見て目を見張った。「あんた、この巻き方どこで覚えたの? うちの昔の流儀じゃないの?」「祖母が昔、教えてくれたんです。祖母も若い頃、こういう仕事で働いていたと」そう答えると、春子さんは驚いたような顔をして、それ以上は何も言わなかった。

ある時、気難しいお客さんが泊まりに来た。都会の会社を定年になったばかりという男の人は、「料理が冷めている」「部屋が古い」「作法がなっていない」と、ことあるごとに文句をつけた。私が運んだお茶を一口飲んで「ぬるい」と吐き捨てられた時は、さすがに心がポキリと折れそうになった。その晩、洗い場の隅で一人うずくまっていると、さっちゃんがやってきた。「お姉さん、あのお客さん気にしちゃだめですよ。ああいう人、たまにいるんです」そう言うさっちゃんの目も少し赤かった。聞けば、さっちゃんは母子家庭で育ち、幼い弟の面倒を見ながらこの宿で働いて家に仕送りしているのだという。まだ二十二歳の細い肩に、家族の暮らしがかかっている。「私、お姉さんが来てくれて嬉しかったんです。だって、私にもお姉ちゃんができたみたいで」その言葉に、私ははっとした。私はこの子の前でしょげている場合ではない。翌朝、あの気難しいお客さんの朝食に一工夫を添えた。冷めやすい料理には小さな火鉢を添えて、お茶もその人の好みを見て濃い目に入れた。すると、帰り際にその人から「あんたの入れた茶はうまかったよ。世話になったな」と、ぼそりと言われた。その一言で、疲れが一気に吹き飛んだ。人はちゃんと見てくれている。心を込めればいつか伝わる。私はこの宿で、それを少しずつ学んでいった。

総一郎さんはいつも遠くから私を見守っていた。多くは語らないけど、私が落ち込んでいる時は決まって、温かいお茶を黙って私の机に置いて行ってくれた。それがこの人なりの励まし方なのだと、分かるようになっていた。ある晩、番頭の佐平さんから総一郎さんのことを聞いた。「旦那はな、十一の時にお母さんをなくしてるんだ。病気でな。そのすぐ後にお父さんも無理がたたって、若くして亡くなっちまった。それからはおばあさんと二人で歯を食いしばって、この宿を守ってきたのさ。不器用で寂しい男なんだよ、あれは」――その話を聞いて、私の胸はぎゅっと痛んだ。十一歳で母をなくす。祖母をなくした時のあの感覚を、この人も味わったのだろうか。そう思うと、急に身近に感じられた。

その年の夏の終わり、大きな台風が山を襲った。夜になると雨風は一層激しくなり、古い宿はミシミシと音を立てて揺れた。裏手の雨どいが外れて、放っておけば大切な建物が傷んでしまう。総一郎さんは激しい雨の中、一人でカッパを掴んで外へ飛び出していった。私はいても立ってもいられず、同じように外へ出た。「危ない。中にいろ」「いいえ。二人の方が早く終わります。私だってこの宿の人間ですから」――その言葉に、総一郎さんは一瞬、雨の中で私を見た。それから小さく頷いて、力を合わせて外れた雨どいをなんとか元に戻した。ずぶ濡れになりながら、真っ暗な中で声を掛け合う。そうしているうちに、私の胸は恐ろしさよりも、この人と一緒に宿を守っているのだという誇らしい気持ちで満たされていった。

嵐が収まり、軒下に二人並んで座り込んだ時、総一郎さんが冷え切った私の手を、自分の大きな両手でそっと包んでくれた。「冷たいだろう。すまない。あんたにこんなこと」――その手は大きくてごつごつしているのに、驚くほど温かかった。この手を包まれる感じを、私はどこかで知っている。そんな気がした。総一郎さんは少しの間黙って、それからぽつりと話し始めた。「子供の頃、母が死んで、俺はこの宿が嫌いだった。母がいなくなった場所だから、逃げ出したいとずっと思ってた。でも、ある時変わったんだ。この宿をちゃんと守ろうって思えるようになった」――そこまで言って、言葉を止めた。何かまだ言いかけていたようだったけど、この人はそれ以上話さなかった。

それから私は、総一郎さんのことを少しでも支えたいと思うようになった。夜遅くまで帳簿と向き合う総一郎さんのために、黙ってお茶を差し入れる。すり切れた作務衣の袖を、こっそり繕っておく。大したことはできないけど、ただ、ごまごました手仕事でこの人の暮らしを少しでも温めたかった。「これ、あんたが?」「はい。勝手にすみません」「いや、ありがとう。温かいよ」――たったそれだけの言葉だったけど、その「温かい」という一言が、私の胸を割りと満たした。ある日、総一郎さんが珍しく私を宿の裏山へ誘ってくれた。小さな滝の泉があって、そこから見下ろす谷の眺めは見事だった。「母が好きだった場所なんだ」と、ぽつりと言った。帰り道、細い山道で私が足を滑らせかけると、総一郎さんがとっさに私の腕を掴んでくれた。「気をつけて」とそれだけ言って、すぐに手を離す。でも、その大きな手のぬくもりは、私の腕にしばらく残っていた。私は、自分の頬がほんのりと熱くなるのを感じて、慌てて俯いた。この人のことを、私はいつの間にか一人の男の人として意識し始めていた。でも、私は身代わりで来た嫁。この人が本当に望んだ相手ではない。淡い思いを抱くことさえおこがましい。そう自分に言い聞かせた。

秋、花輪の湯に、昔からの大切なお客さんの一周忌の集まりが舞い込んだ。三田村さんというご高齢の男性で、四十年もの間、毎年奥さんと二人で泊まりに来ていた常連さんだったという。その奥さんが先に亡くなり、去年、三田村さん本人も旅立たれた。「三田村さんはね、この宿を本当に愛してくださった方でね。奥さんと出会ったのも、この宿だったそうだよ」と、おばあさんは目を潤ませた。この集まりだけは何としても心を込めてお迎えしたい。それが宿のみんなの一致した思いだった。けれど、ちょうどその頃、春子さんが腰を痛めて動けなくなってしまった。中居頭が抜けた穴はあまりに大きい。「みおさん、あんたにこの集まりの采配を任せたい。できるかい?」――嫁いで半年余りの私には、あまりに重い役目だった。怖かった。もししくじったら。でも、逃げたくはなかった。この宿の役に立ちたい。「やらせてください。精一杯」と、私は深く頭を下げた。

私は必死で考えた。三田村さんがいつも止まっていた部屋、好きだった料理、奥さんと縁側で並んで庭を眺めるのが好きだったこと。私は調理場の常さんにも頭を下げに行った。普段ほとんど口を効かない、怖い人だ。「三田村さんはな、うちの手作りの天ぷらが好きだった。奥さんとな、いつも取り合うみたいにして食べてた。よし、今年は俺が一番いいのをやる」――そう言った常さんの目が、少しうるんでいるように見えた。当日、私は三田村さんがいつも止まっていた部屋に心を込めて花を生けた。三田村さんの奥さんが好きだったという林道の花だ。前には常さんが約束通り、見事な山の天ぷらを添えてくれた。そして縁側には座布団を二つ、並べておいた。もうお二人はいない。それでも、この宿で過ごした幸せな時間が確かにここにあったのだとご遺族に感じてほしかった。

集まりは締めやかに、けれど温かに進んだ。ご遺族の中の三田村さんの息子さんが、生けられた林道の花に気づいてはっと息を飲んだ。「これは母が一番好きだった花だ。父も母のために、いつもこの花を」そして縁側に並んだ二つの座布団を見て、こらえきれずに涙をこぼした。「ああ、父さん、母さん、ここにいるみたいだ」――私はその様子を廊下の影から見ていた。胸がいっぱいだった。片付けを終えた後、腰を痛めて休んでいたはずの春子さんが杖をついて出てきて、普段の怖い顔のまま、ほんの少し声を柔らげていった。「見てたよ。あれも座布団も、あんたの考えだろう。私には、あそこまではできなかった。あんたは、いい女将になる。本当だよ」――厳しい春子さんの初めての言葉だった。佐平さんは何も言わず、ただ大きな手で私の肩をポンと叩いてくれた。さっちゃんは私の手を握って、自分のことのように喜んでくれた。――私はこの宿の一人になれた気がした。身代わりでやってきたよそ者ではなく、この花輪の湯をみんなと一緒に守っていく一人に。

その夜、みんなが寝静まった後、私は庭の花の木の下に一人で立っていた。見上げると満点の星だった。私は思った。ここにいたい。この宿で、この人たちと生きていきたい。生まれて初めて、私は自分の意思で自分の居場所を望んでいた。その時、背後に足音がした。振り返ると総一郎さんが立っていた。「今日はよくやってくれた。ありがとう」そして星空を見上げたまま、ぽつりと言った。「この木がな、花の花をつけると、それは綺麗なんだ。春にな。あんたにも、いつか見せたいと思ってた」――思ってた。過去の形で、この人はそう言った。まるでずっと前から私に見せたいと、思い続けてきたかのように。

幸せな時間ほど、あっという間に過ぎるものらしい。その日、宿の前に一台のタクシーが止まった。降りてきたのは、姉の花だった。我が目を疑った。あのお見合いの日以来一度も顔を見ていない姉が、なぜこんな山奥に? しかもその姿は、私の知っている花とはまるで違っていた。いつも完璧に整えていた髪は乱れ、化粧もはげている。「ふーん。あんた、こんなところにいたんだ」姉は宿をちろりと見回して、私を値踏みするように唇を歪めた。後になって佐平さんから聞いた話では、姉はあの日、駆け落ちした相手の男に捨てられたのだという。派手な暮らしにお金が続かず、男はあっさり姉の元を去った。行き場をなくした姉は、実家にも戻れず、私を頼ってきたのだった。私はつい、父に電話をかけた時、あの通帳のことを話してしまっていた。その話が、気の弱い父から母へ、母から姉へと伝わっていたのだ。お金の話だけは、この家の中を驚くほど早く駆け巡るのだった。

姉は宿の座敷に上がり込むと、遠慮なくお茶を要求し、まくしたてるように自分の不運をしゃべり始めた。「本当にひどい男だったのよ。お金がなくなった途端、手のひらを返して。私は何も悪くないわ。ただ幸せになりたかっただけなのに」――人しきり喋り尽くすと、姉は不意に声を潜めてこう言った。「ねえみよ、あんた聞いたわよ。この宿の旦那、あんたの名義の口座に八千万も振り込んだんですって。ずるいじゃない。そもそも、あの円談を私に来た話よ。あんたはただの身代わり。それなのに、あんただけいい思いをするなんて。ねえ、そのお金、少しくらい姉に分けてくれてもいいでしょ」――その言葉に、胸は冷たく沈んだ。けれど姉が本当に私を傷つけたのは、その後の一言だった。「大体あんた、本気で愛されてるとでも思ってるの? 冷静に考えてみなさいよ。あんな無口な男が、身代わりで来た地味なあんたを好きになるわけないでしょう。あれはただの気の毒がってんのよ。断りきれなかっただけ。そのお金だって、体裁のいい口止め料じゃないの? 用が済んだら捨てられるに決まってる。あんたは昔から、そういう女なんだから」「お姉ちゃん、私は」――何か言い返そうとしたけど、言葉が出てこなかった。「まさかあんた、あの人こと好きになったとか言うんじゃないでしょうね。やめてよ、いじらったらしい。身のほどを知りなさい。あんたなんかが心から愛されるわけないじゃない」――ピシャリとそう言い放たれて、私はまた口をつぐんだ。昔からそうだった。私は姉の前では、いつも言葉を失ってしまう。

姉は昼だけ言うと「また来るわ」と言い残して帰っていった。その言葉が、棘のように私の胸に刺さったまま抜けなかった。考えてみれば、私は生まれてからずっとそういう人間だった。姉のいらなくなったものを押し付けられる。誰かの都合で便利に使われる。そして用が済めば忘れられる。この宿での日々があんまり温かかったから、私はうっかり忘れていたのだ。自分がそういう星の元に生まれた人間だということを。そう思い込んでしまうと、あんなにも温かく思えた総一郎さんの優しさが、全て私を哀れんでのことだけのものに思えてきてしまった。その晩から、私はうまく笑えなくなった。総一郎さんの顔をまっすぐ見られなくなった。私は決めた。あの八千万円はお返ししよう。そして、この宿を出ていこう。私がいなくなれば、みんなが楽になる。そう思い込もうとした。

私が荷物をまとめようとしているのに、最初に気づいたのはさっちゃんだった。「お姉さん、まさか出ていくつもりですか? そんなの嫌です。どうして?」「ごめんね、さっちゃん。私、やっぱりここにいちゃいけないの。私はただの身代わりだから」そう言った私の手を、さっちゃんはきつく握りしめた。その目には涙がいっぱい溜まっていた。「そんなの嘘です。お姉さんは身代わりなんかじゃない。お姉さんが来てから、この宿がどれだけ温かくなったか。みんな、お姉さんのこと大事に思ってます。私だって、私だってお姉さんがいなくなったら嫌です」――さっちゃんの涙を見て、私ははっとした。この子は家族のために、細い肩で必死に働いている。この前も、弟が熱を出したと聞いて、一緒に看病の仕方を考えた。そのお礼だと、さっちゃんは泣けなしのお小遣いで私に小さな髪飾りを買ってくれた。その子が、こんなにも私を必要としてくれている。噂を聞きつけて、佐平さんも春子さんもやってきた。「バカなことを言うんじゃない。あんたが来てから、若旦那がどれだけ笑うようになったと思ってるんだ。あの母親をなくしてからずっと、笑わなかった旦那だぞ。あんたはこの宿になくてはならない人だ。それを身代わりだなんて、二度と言うな」「そうだよ。私はね、あんたにこの宿を継いでほしいと思ってる。そう思える若い人に、やっと巡り合えたんだ。お願いだから、行かないでおくれ」――みんなの言葉が、凍っていた私の心を少しずつ溶かしていく。その時、ふすまの向こうから大女将の声がした。「みおさん、ちょっとこっちへおいで。おばあちゃんの部屋に」

覚悟を決めておばあさんの部屋へ入ると、おばあさんは古い色あせたアルバムを膝の上に広げていた。「みおさん、あんた、その手ぬいを持っているんだってね。総一郎から聞いたよ。荷物の中に、大事そうにしまってあったって」そしてアルバムの一枚の写真を指さした。「この写真、見ておく」――それは若い頃の二人の女の人が、この花輪の湯の玄関の前で笑っている写真だった。私は息を飲んだ。その写真は、私が祖母からお守りとしてもらったあの一枚と、全く同じ日に撮られたものだった。「片方は、若き日の私。そしてその隣で眩しそうに笑っているのは、私のおばあちゃん、すずっていうんです」「そうだよ。すずちゃんだ。私の一番の親友だった人さ」――私は写真の中の若い祖母を食い入るように見つめた。この写真の中の人は、まだうんと若く、頬を赤く染めて、はち切れそうな笑顔で笑っている。心の底から幸せそうな顔だった。「すずちゃんはね、若い頃、この家の湯で仲居をしていたんだよ。私と二人で、それは仲良くやってた。すずちゃんの表なしの手付きは、それは綺麗でね。この宿のみんながすずちゃんを慕っていた。お客さんも、すずちゃんに世話をしてもらいたくて通ってくるほどだった」「すずちゃんはね、やがていい縁があって、この宿を出てお嫁に行った。あんたのおじいさんのところへね。それでも、私たちの縁は切れやしなかった。年に一度は手紙をやり取りして、あの人が遠くの町からわざわざこの山まで会いに来てくれたこともあったよ。ちょうど、うちの宿が一番苦しかった時期にね。すずちゃんは黙って私の手を握って、『たえちゃん、あんたなら大丈夫。この宿はあんたが守るんだよ』って。あの言葉に、私はどれだけ救われたか」「あんたのその手付きを初めて見た時、私は腰が抜けるほど驚いたよ。すずちゃんがそっくりそのまま帰ってきたのかと思った。ああ、すずちゃんの手がお孫さんにちゃんと受け継がれてる。そう思ったら、私は涙が止まらなくてね」――私は言葉を失っていた。私が無意識にやっていたあのお絞りの巻き方、湯のみの出し方。それは祖母がこの宿で覚え、私に伝えてくれた、花輪の湯の昔ながらのやり方だったのだ。私は震える手で懐からあの古い手ぬいを取り出した。そして、初めてその端に色染めされた文字をじっと見つめた。今までは色あせた模様のようにしか見ていなかったその文字。けれど今なら、はっきりと読めた。――花輪の湯。紛れもなく、この宿の屋号だった。「おばあちゃん、私をここへ導いてくれたのは、あなただったんだね」

私が涙を拭っていると、おばあさんは優しく私の背中をさすってくれた。「すずちゃんはね、亡くなる少し前に、私に手紙をくれたんだよ。『うちのみよが心配で仕方ない。あの子は優しすぎて、人にいいように使われてしまう。でも、あの子の手は本物だ。いつか、あの手を本当に必要としてくれる人のところへ行かせてやりたいね』って。私はその手紙をずっと忘れちゃいなかった。だからね、あんたがこの宿に来てくれた時、私は天にいるすずちゃんがあんたをここへ送り届けてくれたんだと、そう思ったんだよ」――言葉が詰まった。けれど、まだ分からないことがあった。「では、なぜ総一郎さんは私を?」――そう問いかけようとした時、おばあさんは静かに首を振った。「この続きは、私の口からじゃない。総一郎から聞いておやり。あの子がずっとあんたに話したがっていたことだ。みおさん、どうか逃げないで、聞いてやっておくれ」

その夜、私は総一郎さんに庭の花の木の下へ呼び出された。月の明るい晩だった。総一郎さんはしばらく木を見上げていた。それから、意を決したようにゆっくりと話し始めた。「二十一年前のことだ。俺が十一歳の時、母が病気で死んだ。俺はこの宿が憎くてたまらなかった。母がいなくなった場所だ。誰とも口を聞きたくなかった。毎日、台所の裏の暗いところにうずくまっていた」――私は黙って聞いていた。「そんなある日、一人の女の子がこの宿にやってきた。祖母の昔からの親友だっていう鈴さんが、孫娘を連れて遊びに来たんだ。その子は、七つくらいだったかな。うずくまっている俺を見つけて、そばに来た。そして、こう言ったんだ」――総一郎さんの声が少し震えた。「『お兄ちゃん、手が冷たいね。あっためてあげる』って」――私の心臓が早鐘のように打ち始めた。「その子は、俺のかじかんだ手を自分の小さな両手で包んでくれた。それから、どこで習ったのか、あったかいお絞りを作って、俺の手や首に当ててくれた。俺はびっくりして、何も言えなかった。その子の手があんまりあったかくて、母が死んでから初めて、俺は泣いたんだ。声をあげて、その子の前でわっと泣いた」「その女の子は、泣いてる俺に言った。『大丈夫だよ。お兄ちゃんの手、あったかくなったでしょう』って。俺はその子に約束したんだ。『大きくなったら、僕がこの宿をうんと立派にする。そうしたら必ず君を迎えに行く』って。子供のない約束さ。でも、俺はその日から変わった。この宿を守ろう。あの子を迎えに行けるように。それだけを支えに、生きてきた」――月の光の中で、総一郎さんはまっすぐに私を見た。「その女の子が、みよ。あんただ」――その瞬間、私の中で固く閉じていた記憶の扉が、音を立てて開いた。思い出した。ずっと忘れていた。祖母に手を引かれて山道を登ったこと。大きな木のある温かい宿。台所の裏でうずくまっていた、寂しそうな男の子。私はその子を放っておけなかった。祖母がいつも私にしてくれるように、その子の冷たい手を温めてあげたかった。記憶が次々と蘇ってくる。あの三日間、私はあの男の子の跡をちょこちょことついて回った。男の子は初めむすっとしていたけど、だんだん口を利いてくれるようになった。庭の大きな木の下へ連れて行ってくれて、「これは花の木だ。春になると、綺麗な花が咲くんだぞ」と、少しだけ得意そうに教えてくれた。帰る日、私はその子に言った。「また来るね」と。その子はこくりと頷いて、「約束だよ」と小さな指を差し出した。私はその指に自分の指を絡めた。――あれは、この宿だったのだ。あの男の子が、総一郎さんだったのだ。

「覚えていてくれたんですか?」「二十一年もずっと、忘れるもんか。あの日、あんたがくれた手のぬくもりが、俺の命綱だった。母が死んで真っ暗だった俺の毎日に、あんたが明りを灯してくれた。だから俺は、あんたを探した。鈴ずさんの家に手紙を出そうとしたこともある。でも祖母が止めた。ずさんは実家で片身の狭い思いをしているようだから、迷惑になっちゃいけないってね。倉するうちに、鈴さんはあんたが中学の時に亡くなっていた。頼りにしていた、たった一本の糸が途切れてしまったんだ」――私は、あの八百八万円は? そう問いかけようとした私の心を読んだように、総一郎さんは静かに首を振って、ふところから一冊の古い通帳を取り出した。それは私の名義のあの通帳とは違う、総一郎さん自身の使い込まれた通帳だった。開いて見せられたページには、十四年分の細かい振り込みの記録がびっしりと並んでいた。「宿を継ぐと決めた十八の時から、貯め始めた。いつかあんたを見つけたら渡すんだと。二度とあんたに寂しい思いや我慢をさせないように。それが俺の生きる理由だった。八千万は、その十四年の約束の分だ。あんたを金で縛るためじゃない。あんたに、もう誰の顔色も伺わないで生きてほしかった。それだけなんだ」――私はもう立っていられなかった。その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。涙が後から後から溢れて止まらなかった。身代わりなんかじゃなかった。哀れみでもなかった。この人は二十一年もの間、たった一人、私を探し続けてくれていた。たった一度の幼い日のぬくもりを命綱にして。私はその約束をすっかり忘れていたのに、それでもこの人はずっと私を待っていてくれた。「ごめんなさい。私、あなたのこと疑っていました。哀れみで優しくしてくれているだけなんだって。手切れ金を渡されたんだって。そう思い込んで、逃げ出そうとしていました」「あんたは、何も悪くない。辛い思いをたくさんしてきたんだろう。うまく言えなくて、悪かった。俺がもっと早くちゃんと伝えていれば。でも、もう大丈夫だ。これからは俺がいる。あんたはもう、一人で抱え込まなくていい」――総一郎さんがしゃがみ込んだ私の冷たい手を、あの日と同じように大きな両手でそっと包んだ。「今度は、俺があんたをあためる番だ。ずっとそう決めてた」私はその手を握り返すことしかできなかった。声にならない嗚咽の中で、私は生まれて初めて心の底から思った。――生きていてよかった。

真実を知って、私の心は生まれ変わったようだった。私はもう俯かなかった。あの通帳のお金が私を縛るための鎖なんかじゃないと分かった。それは総一郎さんが長い歳月をかけて紡いでくれた、真っすぐな思いの形だった。そう一郎さんとの距離も日に日に縮まっていった。あの台風の夜に手を握られてからというもの。私はこの人の不器用な優しさの一つ一つが、たまらなく愛しく感じられた。そして、幸せな私の元に、もう一度あの家族がやってきた。今度は姉の花だけではなかった。父と母も一緒だった。姉から八千万の話を聞いたのだろう。三人は宿の玄関先で、いかにも親しげな笑顔を作って私を待っていた。「みよ、元気にしてた?」「まあ、いい旅館じゃないの? お母さん、あなたのことずっと心配してたのよ」「そうだぞ。やっぱり家族はいいもんだな」――その白々しい言葉に、私は思わず笑いそうになった。母は早速本題を切り出した。「それでね、みよ。ちょっと相談があるの。実はね、お父さんの会社がちょっと大変で。あなた、旦那様から八千万も頂いたんですってね。なんだから、少しくらい都合してくれてもいいでしょ。親子でしょ」――やっぱり。この人たちはお金の匂いを嗅ぎつけてやってきたのだ。以前の私だったら、断れなかっただろう。逆らえば見捨てられるのが怖くて、俯いて言われるままに差し出していたに違いない。でも、今の私はもう違った。私はまっすぐに顔を上げた。そして、静かにはっきりとした声で言った。「お断りします」――母の顔から笑みがすっと消えた。「お母さん、お父さん。私、ずっとあなたたちに愛されたかった。普通の子みたいに褒めてほしかった。ただ、それだけだった。でも、あなたたちが私に向けてくれたのは、いつもお姉ちゃんの身代わりとしての役目だけ。私がどんなに家のことをしても当たり前。私の稼いだお金も、全部この家に消えていった」「育ててもらった恩は、感謝しています。だから、これ以上は何も望みません。その代わり、これ以上私から何かを奪うのもやめてください。このお金は、総一郎さんが私のために十四年もかけて貯めてくれた、大切なお金です。あなたたちに渡すお金は、一円もありません」――母は顔色を変えた。「なんて冷たい子なの? 親に向かってその言い方は? あなたをお腹を痛めて産んだのはこの私なのよ。少しくらい恩を返すのが当たり前でしょう」――以前の私なら、その「親」という一言にきっと心がくじけたはずだ。けれど、今の私の心はもう揺れなかった。「お母さん、私、この宿に来て初めて知ったんです。家族って、こうやってお互いを温め合うものなんだって。ここの人たちは、私が何も持っていなくても、身代わりでやってきた私を、丸ごと受け入れてくれました。お母さんたちが私にしてくれなかったことを、この人たちがしてくれたんです。だから、私はもう、ここが私の家です」――私の静かな言葉に、母は何も言い返せなかった。すると姉が金切り声をあげた。「何よ、その態度! あんた、身代わりのくせに! そのお金だって、本当なら私のものだったのよ!」その時だった。奥から総一郎さんが静かに歩み出てきた。その後ろには、おばあさんも春子さんも、みんながいた。「お引き取りください。みよは身代わりなんかじゃない。私が二十一年探し続けた、たった一人の人です。この人を侮辱するのは、私が許さない」――低く静かな、けれど有無を言わせぬ声だった。おばあさんも、姉をまっすぐに見据えていった。「あんたが勘違いしているようだけどね。あの円談は、元々綾瀬すずさんのお孫さんにと願って、こちらから申し込んだ話なんだよ。誰でも良かったわけじゃない。花さん、あんたじゃなかったんだ。最初から」――その言葉に、姉は雷に打たれたように固まった。自分が逃げたあの円談が、そもそも自分に向けられたものではなかった。その事実が、姉の最後の拠り所を砕いたようだった。私はそんな姉を見て、不思議と勝ち誇る気持ちにはなれなかった。ただ、少しだけかわいそうに思った。「お姉ちゃん、私、もうお姉ちゃんの身代わりでも影でもない。これからは、私は私として生きていくから。お姉ちゃんも、いい加減自分の人生を生きた方がいいよ」――それは恨みでも当てつけでもなかった。長い間姉の影で生きてきた私が、ようやく言えた、たった一つの別れの言葉だった。

三人の姿が山道の向こうに消えた時、私の隣で総一郎さんがそっと私の肩を抱いた。ふと庭の花の木を見上げると、いつの間にか枝の先に淡い紅色の花が咲き始めていた。「ああ、花の花だ。やっとあんたに見せられた」――私はその花を涙で滲む目で見上げた。総一郎さんがずっと私に見せたいと言っていた、花の花。それは長い長い冬を超えて、今、私の目の前で静かに咲いていた。私はこらえきれずに、総一郎さんの胸に顔をうずめた。――もう私はどこにも行かない。ここが私の場所だ。誰かの身代わりでも影でもない。この綾瀬美央という人間が丸ごと必要とされている場所。心の底からそう思えることが、涙が出るほど幸せだった。

それからの日々は、穏やかに流れていった。私たちは話し合って、あの大金をどう使うかを決めた。まず、宿で一番古くなっていた奥の一室を丁寧に直した。そして、その部屋に「小漏れの間」という小さな名前をつけた。柔らかな光が差す部屋という意味だ。仕事に疲れ果て、生きているのも辛いという顔をした人が、何も気兼ねなくゆっくりと心を休められる。昔の私のように、居場所をなくして俯いている誰かのために。その部屋には、あの古い手ぬいと祖母の写真を飾らせてもらった。この宿を心から愛した、一人の仲居がいた。その人の思いが、今もこの場所に宿っている。そのことを、訪れる人にそっと感じてもらえたら。そう願った。

翌朝から、私は正式に若女将としてこの宿に立つことになった。おばあさんはまだまだ元気だったけど、少しずつ宿のことを私に任せてくれるようになった。「みよさん、あんたになら安心してこの宿を預けられる。すずちゃん、あんたのお孫さんは、こんなにいい娘に育ったよ。あんたが『一番幸せなところへ連れて行ってくれる』って言ってた、あの手はね、ちゃんとここにたどり着いたよ」――おばあさんは仏壇の祖母の写真に静かに語りかけた。私はその隣で静かに手を合わせた。――おばあちゃん、私、やっとあなたの言っていた意味が分かったよ。この手は、ちゃんと私を一番幸せなところへ連れてきてくれた。ありがとう。その日から、私は宿の朝を一番に開ける人になった。まだ暗いうちに起きて、玄関のたたきに水を打つ。季節の花を一輪生ける。かつて祖母がこの同じ宿でそうしていたように。廊下を磨いていると、朝日が少しずつ差し込んでくる。その光の中で黙々と手を動かしていると、私は自分が確かにこの場所の一部になれたのだと感じることができた。総一郎さんはそんな私を見て、時々ふっと笑う。「鈴さんが乗り移ったみたいだ」と。私はそれがくすぐったくて、でもたまらなく嬉しかった。

それから二年の月日が過ぎた。花輪の湯は今では、小さな宿ながら遠くからわざわざ足を運んでくれる常連さんの絶えない宿になった。私の細やかな表なしが、少しずつ評判を呼んでいるのだと、総一郎さんは照れ臭そうに教えてくれる。さっちゃんは私の一番の右腕に育った。ある日、一人のお客さんが、あの小漏れの間に泊まった。仕事に疲れ果て、なんだか生きているのも辛いという顔をした、若い女の人だった。私はその人に、ただ湯の立つお茶と心を込めた食事をお出しした。何も聞かなかった。ただ「ゆっくり休んでください」とだけ伝えた。帰る朝、その人は玄関でポロポロと泣きながら、私の手を握っていった。「ここに来てよかった。もう少し、頑張ってみます」――その言葉を聞いた時、私は思った。ああ、私はあの日の私を救えたのかもしれないと。かつて居場所をなくして俯いていたあの頃の私を。祖母が私にくれたあの温かい手。総一郎さんが二十一年守ってくれたあの約束。そうやってたくさんの人から受け取ったぬくもりを、私は今、こうして次の誰かへと手渡している。それが、たまらなく幸せだった。

そして、その春。私たちの元に、小さな新しい命がやってきた。生まれたのは、女の子だった。抱っこするとまだふにゃふにゃで頼りないけど、その小さな手が私の指をぎゅっと握りしめる。そのぬくもりに、私は何度でも泣きそうになった。この子には、私が味わったような寂しい思いを決してさせない。誰かの身代わりにも、影にもさせない。あなたはあなたのままで、一番大切な子なんだよ。私はそう心に誓った。私たちはその子に「すず」と名付けた。私を一番幸せなところへ導いてくれた、あの祖母の名前だ。おばあさんはその名を聞くと、しだれた顔をくしゃくしゃにして喜んでくれた。「すずちゃんが帰ってきたね」と、何度も何度もつぶやきながら。この子の小さな手も、いつか誰かを温める手になるだろうか。そうであってほしいと、私は心から願った。実家の家族とはあれからほとんど縁はない。ただ一度だけ、父が一人でふらりと宿を訪ねてきたことがあった。孫の顔を一目見たかったのだという。父は縁側で娘をぎこちなく抱きながら、ぽつりと「みよ、すまなかったな。お前はちゃんと幸せになったんだな」と言った。その目には涙が滲んでいた。私はもう父を恨んではいなかった。ただ、「うん、私、幸せだよ」と笑って答えた。姉の花は今もあちこちを転々としているらしい。いつかあの人も、自分の足で立つ日が来ればいい。私はただ静かに、そう願っている。

季節が巡るたびに、私は思う。あのお見合いの日、姉が逃げ出さなかったら。私があの席で立ち上がらなかったら。私は今もあの家で下を向いたまま、生きていたのだろう。人生は本当に分からない。どん底だと思ったあの日が、一番温かい場所へと続く道の始まりだったのだから。その日の夕暮れ、私は娘を抱いて庭の花の木の下に立っていた。枝には、たわわに黄色く熟れた花の実が実っている。この実で、おばあさんが毎年喉にいい花の蜂蜜漬けを作ってくれるのだ。木のそばでは、総一郎さんがまだ細い若い苗木を一本植えていた。この娘が大きくなる頃には、あの小さな苗木もきっと立派な花を咲かせるだろう。その花の下で、私たちはまた笑い合っているだろうか。そんなことを思うと、私の胸は幸せではち切れそうになった。娘の小さな手をそっと握る。柔らかくて温かい、小さな手だった。ふと耳の奥に、祖母のあの優しい声が蘇る。祖母がいつも私に言ってくれた、あの言葉。私の手に託してくれた、あのぬくもり。それは長い歳月を巡り巡って、私をこの一番温かい場所へ連れてきてくれた。そして今、そのぬくもりはこの腕の中の小さな命へと、静かに受け継がれていく。腕の中で、娘のすずが小さくあくびをした。その無垢な寝顔を見ていると、私の頬も自然と緩む。この子は生まれた時から、たくさんの人に丸ごと愛されている。ただ、この子自身として。それが私には、何よりも嬉しかった。――私はもう、俯かない。私はこの場所で、この人たちと生きていく。長い長い冬を超えて、私はようやく私だけの温かい春にたどり着いたのだ。夕日が花の実を金色に照らしていた。宿の方から、総一郎さんが私を呼ぶ声がする。私は娘を抱いて、温かい明りのともる我が家へと、歩き出した。

Thumbnail