休日の午後、義母の家でお茶を飲みながらのんびりしていた私のスマホが鳴った。夫からだ。電話に出るなり、焦った声が飛び込んできた。「大変だ!お母さんが階段から落ちて怪我をしたらしい!」私は驚いて、目の前でお茶を飲んでいる義母を見た。「お母さんなら、今私の目の前にいるけど?」困惑する私に、義母はいたずらっぽく人差し指を唇に当て、静かにするよう合図を送った。何かを企んでいるような、あの笑顔。夫は私と…

休日の午後、義母の家でお茶を飲みながらのんびりしていた私のスマホが鳴った。夫からだ。電話に出るなり、焦った声が飛び込んできた。「大変だ!お母さんが階段から落ちて怪我をしたらしい!」私は驚いて、目の前でお茶を飲んでいる義母を見た。「お母さんなら、今私の目の前にいるけど?」困惑する私に、義母はいたずらっぽく人差し指を唇に当て、静かにするよう合図を送った。何かを企んでいるような、あの笑顔。夫は私と...

電話が鳴ったのは、休日の午後。お母さんの家で、のんびりお茶を飲んでいた時だった。

「大変だ!お母さんが家の階段から落ちて怪我をしたらしい!」

通話ボタンを押すなり、夫の達也が焦った声をあげる。あまりの大声に、スマホから声が漏れていた。

「え?お母さんが怪我?」

「だからそう言ってるだろ。しばらく介護で実家に行くから、家のことはお前に任せたぞ」

お母さん。お母さんなら、今まさに私の目の前にいる。

困惑して達也の顔を思い浮かべていると、お母さんがいたずらっぽく目配せをして、人差し指を唇に当てた。私はうなずき、スマホをスピーカーモードにして、お母さんと自分の間に置く。

「ねえ、本当にお母さんが怪我をしたの?じゃあ、今から急いでお母さんのところへ行くわね」

はっきりと聞こえるように、念を押すように確認した。

「は?いや、いい。お前はお母さんと仲が悪いだろう。お母さんのことは俺に任せろ。じゃあな」

一方的に電話を切る達也。何が何だか分からず呆然とする私を見て、笑いをこらえていたお母さんが、電話が切れた途端に吹き出した。

「うふふ。さ、しばらく様子を見てみましょうかね」

私への興味を完全に失っていた夫は、私とお母さんの秘密の関係をまだ知らない。これから達也が青ざめる様子が目に浮かび、私は口元が緩むのをこらえられなかった。

***

私の名前は美和。高校を卒業してから、ずっと介護ヘルパーの仕事をしている。夫の達也は高校の同級生で、20代後半の頃に結婚した。

新婚当時の悩みの種は、義母の信子さんだった。夫の実家が近所なので、スーパーやゴミ捨ての時に顔を合わせる。もちろん笑顔で挨拶するのに、いつも無視されていた。高学歴でキャリアウーマンだった信子さんは、高卒の私を息子の嫁にふさわしくないと嫌っているんだと思い込んでいた。

でも、しばらくしてそれは間違いだと分かる。ある日、信子さんから私が深夜に頻繁に家を空けていることを問い詰められた。

「あなた、いつも夜遅くまで遊び回っているんじゃないの?息子がかわいそうで仕方ないわ」

探るような口調に、浮気を疑われているのだと悟った。

「お母さん、違うんです。実は介護先の高齢者の方が深夜によく壊すので、ご家族から一緒に探してほしいと連絡が来るんです」

正直に事情を説明すると、信子さんは顔を赤くして、自分の勘違いを素直に詫びてくれた。

「失礼なことを言って本当にごめんなさい。一方的に浮気してるんじゃないかと思い込んでしまってたわ」

深々と頭を下げる信子さんを見て、私も彼女のことを勝手に勘違いしていたと分かった。私が介護の仕事を目指すきっかけを話すと、信子さんは柔らかい笑顔を見せてくれた。

高校生の頃、認知症で町を歩き回っていたおばあさんを交番まで送り届けたことがある。迎えに来た介護ヘルパーさんが優しくおばあさんに語りかける姿を見て、私もこんな素敵な女性になりたいと思ったのだ。

「本当に私ったら。あなたの義理の母になれたことを誇りに思うわ」

学歴や生い立ちだけで相手を判断する人じゃなかった。今では友人みたいに、時間を見つけては二人でランチやお茶を楽しんでいる。

しかし、悩みの種は尽きない。結婚して3年ほど経った頃から、達也が急に私に冷たい態度を取り出した。

「お帰りなさい。今日テレビであの映画が放送されるから、一緒に見ない?」

初デートで見た映画。放送されるたびにポップコーンを用意して、二人で見るのが習慣だった。

「もう見飽きたよ。悪いけど、仕事が残っているんだ」

達也は私と目を合わせず、仕事部屋へ消えてしまう。お風呂上がりに部屋の前を通った時、中から笑い声が聞こえた。最近、めっきり聞かなくなった笑い声。リモート会議にしては楽しそうだけど、会議でも雑談くらいはするか。そう深く考えないようにして、一人寝室へ向かった。

以前は結婚記念日や私の誕生日には、忘れずに花やプレゼントをくれた。でも今は、残業だと言って帰ってこず、ひどい時はお酒の匂いをぷんぷんさせている。

「残業だと言ってたのに、どうしてお酒の匂いがするの?」

問い詰めると、達也は悪びれもなく言い放った。

「急な接待が入ったんだよ」

そう言って、面倒くさそうに舌打ちをする。夜の営みもなくなり、ベッドの中で身を寄せても、鬱陶しそうに背を向けられた。

「仲良しクラブみたいなお前の介護の仕事と違って、俺は頭を使って働いて疲れてんだよ」

背を向けたまま言い放つ達也に、悲しさと怒りが込み上げた。介護の仕事を馬鹿にされたことも悲しかった。でも、喧嘩になって家の雰囲気が悪くなるのが嫌で、私は唇を噛んでこらえた。達也の本心じゃない、と自分に言い聞かせて。

それでも状況は悪化していく。達也は残業や出張だと、家で食事することが極端に減った。たまに食べても、会話はなく、上の空で機械的に料理を口に運ぶ。

「ねえ、その照り焼きの味付け、どうかしら?もっと濃い方が良かった?」

返事はない。もう一度聞くと、達也は心底どうでも良さそうな顔で言った。

「照り焼き?ああ、別に食えればどうでもいいよ」

そう言って、スマホをチラチラ気にしながら、突然立ち上がった。

「職場から電話だ」

料理を残して、仕事部屋に閉じこもった。達也が残した料理を見て、ため息が出る。奮発した高い魚だったのに。翌日は、達也がベロンベロンに酔っ払って深夜2時に帰ってきた。我慢の限界だった。

「ねえ、帰りが遅くなる時くらい連絡してくれない?難しいことは言ってないわ。一言メッセージをくれれば済む話でしょ」

「仕事が入ったんだよ。疲れているんだから、ギャーギャー言わないでくれ」

達也は乱暴に靴を脱ぎ、わざとらしく手のひらで両耳を塞ぐ。

「ギャーギャーって。ただ食事の準備とか、私の予定もあるのよ」

「予定?いつも同じような飯を作っているだけだろうが。大体、誰が働いているおかげで、こんないい家に住めてると思っているんだ」

酔っているとはいえ、あまりにも私を軽視した発言に、ショックで言葉が出ない。そもそもこの家は、信子さんが建ててくれた家で、達也は一銭も払っていない。生活費だって、水道や光熱費などの口座引き落とし以外は、私が自分の給料から払っている。初めの頃は現金ももらっていたが、次第に達也がその話を避けるようになっていた。

喉まで出かかった言葉を、達也のプライドを傷つけないよう飲み込んだ。しかし、達也は私が何を言いたいのか察したようで、眉間に皺を寄せて私を睨む。彼の右腕が動き、殴られるかもしれないととっさに身構えた。しかし達也は何かを思い出したように鼻で笑い、私を小にしたような笑みを浮かべた。

「まあ、貧乏なお前の親は一銭も出さなかったけどな」

暴力と同じくらい、いや、それ以上にひどい言葉だった。

「何よそれ?」

私を大切に育ててくれた両親を馬鹿にされ、怒りのあまりうまく言葉が紡げない。確かに私の実家は裕福じゃない。それでも、少しでも包丁すると言ってくれたのを、達也が断ったのだ。

「美和と結婚できるだけで幸せです」

あの頃はそう言って私の肩をそっと抱いた達也を、この人を選んだ自分を誇らしく思っていたのに。呆然とする私を置き去りに、達也は風呂と捨てるように言いながら部屋に入っていった。

***

その日から達也は、出張でもないのに週に1回以上ビジネスホテルに泊まるようになった。もちろん相変わらず連絡はない。半年以上、この状態が続いている。

いつものように朝一人で朝食を取っていると、達也から電話がかかってきた。

「おい、今駅にいるから、下着とYシャツの着替えを持ってきてくれ」

「え?今日は訪問先に寄ってから出社なのよ。無理よ」

「じゃあな、10分以内に来いよ」

私の都合などお構いなしに、達也は一方的に電話を切る。彼の中で私はもう妻ではなく、使用人になってしまったのだろうか。

時計を見るともう8時だった。朝食を残し、急いで着替えを紙袋に入れ、化粧もせずに家を出て、全力で駅まで走った。髪を振り乱し、息を切らして到着した私に、達也はお礼も言わず、無言で紙袋を受け取る。

「ここで待ってろよ」

傲慢な態度で地面を指さし、達也は駅のトイレに入っていった。スマホを見ると、もう8時半になろうとしていた。訪問先には9時に着くと約束している。

やっと着替えを終えた達也が、トイレから出てきた。差し出された紙袋には、さっきまで達也が着ていたYシャツや下着がぐちゃぐちゃに突っ込まれている。達也は私のボロボロの姿を見て、吐き捨てるように言った。

「ちっ。化粧くらいしてこいよな」

そう言って、さっさと改札へ向かう。あなたのせいじゃない、と叫びたかったけれど、喧嘩している暇はなかった。私は再び髪を振り乱し、訪問先の家へ走った。

***

仕事を終え、自宅で達也の洗濯物を袋から取り出した時、ふわっと甘い香りが広がった。一瞬、ホテルの石鹸の香りかとも思ったが、それにしては強すぎる。香水だと確信した。

帰宅した達也にそのことを伝えると、達也は明らかな動揺を見せた。

「ああ、それ、満員電車で隣の女の香水がきつくてさ」

目を泳がせながら、聞いてもいないことまでベラベラと話し出す。不審感が強まった。

翌日、達也がピンク色の紙袋を手に、珍しく早く帰ってきた。

「実は最近、お前に合う香水を探しててさ。それでシャツに匂いがついてたんだよな」

そう言って、私に紙袋を差し出す。誕生日でもないのに。喜びよりも戸惑いが先に出て、自然に眉間に皺が寄った。

「なんだよ。別に記念日じゃなくたっていいだろう。可愛くないやつ」

達也は私の反応が面白くなかったようで、ソファに紙袋を投げ捨ててすねてしまった。

***

そしてあの日。休日、信子さんの家でお茶をしていた時、達也から電話がかかってきた。今日は休日出勤だと言い、早々に家を出たはずなのに。

「大変だ!お母さんが自宅で階段から落ちて怪我をしたらしい!」

信子さんは、先ほどからずっと私の隣でお茶を飲んでいる。私はスマホをスピーカーモードにして、信子さんと自分の間に置いた。

「ねえ、本当にお母さんが怪我をしたの?」

「だからそう言ってるだろう」

「じゃあ、今から急いで実家へ行くわ」

「やめろ!お前はお母さんと仲が悪いだろう。お母さんのことは俺に任せろ。しばらく介護で実家に行くから」

「介護なら私の方が得意よ」

「いいって言ってるだろう。じゃあな!」

達也は一方的に電話を切った。さっきまで笑いをこらえていた信子さんが、電話が切れた途端に吹き出した。

「うふふ。さ、しばらく様子を見てみましょうかね」

1週間後、達也が着替えなどの荷物を取りに、一度家に帰ってきた。

「ねえ、お母さんの容態はどう?」

私は本気で心配しているふりをして、達也に聞いた。

「ああ、手術も無事成功したし、もう少しで退院できる」

達也の言葉の矛盾を、私は容赦なく突く。

「え?自宅療養って言ってなかった?」

達也はしまったという顔をして、早口で言い訳を始めた。

「そ、そうなんだよ。病院で運ばれて手術して、病院でリハビリ中に転んで足をくじいたんだ」

「え?怪我じゃなかったの?階段から落ちたんじゃなかったの?」

なおも追求の手を緩めない。次第に達也の顔に脂汗が滲み出す。最初は恫喝モードだった達也が、一変して情けなく慌てふためく様子に、私は吹き出しそうになるのを必死にこらえた。すると、隣の部屋の扉が勢いよく開いた。

「その話、もっと詳しく聞かせてもらおうじゃないか!」

隣の部屋に待機していた信子さんが、腕を組んで現れた。突然の登場に、達也はバカみたいに口をパクパクさせている。

「なあ、お前たち、仲が悪かったんじゃないのか」

達也は未だに私と信子さんが不仲だと思っているようだ。それも仕方がない。ここ数年、達也と私の間には会話らしい会話がなくなっていた。私はこれまで何度も、達也に信子さんとの誤解が解けたことを報告しようとした。むしろ、私を疎み、会話を避けていたのは達也の方だ。

達也は何か思いついたように、あっと声をあげた。

「お母さんってのは、美和の聞き間違いだよ。そうだ。大川さんだよ。先輩の大川さんが自宅で滑って転んで大怪我をしたんだ!」

いい年をした社会人とは思えない、苦しい言い訳。うろたえる達也に、私は静かな目を向ける。そして、ポケットからスマホを取り出し、画面をタップした。

『お母さんのことは俺に任せろ。しばらく介護で実家に行くから。じゃあな』

1週間前、達也からかかってきた電話の録音。はっきりと「お母さん」と聞こえる。

自分の大嘘がバレ、顔面蒼白になる達也を見て、私と信子さんはこらえきれず、再度大笑いした。それから信子さんはぴたっと笑顔を収め、眉間に皺を寄せ、真剣な顔で大きく息を吸った。

「あんた、どこのお母さんを介護してきたんだい?」

母親に一括された達也は、その剣幕に驚いて腰を抜かす。達也は、母親に怒られた記憶が数えるほどしかないと話していたことがある。あんな顔を見せる達也は初めてだった。

「なんだよ。お母さんだって、美和のこと嫌ってたじゃないか。介護なんて仕事、バカにしてただろう?」

達也は泣き出しそうな声で、信子さんに責任転嫁しようとする。

「それは、私が夜中に家を空ける美和さんを見て、浮気しているんじゃないかって邪推してたからだよ。介護の仕事を馬鹿にしたりするもんか」

信子さんは、達也がまだ知らない私との過去の繋がりを話し出した。私が介護の道に進むきっかけとなった、あの交番に連れて行ったおばあさん。それは、信子さんの母親であり、達也の祖母だったのだ。私が達也の実家に結婚の挨拶に行った時には、すでに亡くなっていたから気づかなかった。

「みわさんには感謝しかないよ。こんな心の優しいみわさんを、尊敬したり、嫌ったり、バカにしたりするもんか」

一瞬、達也は言葉を失った。しかし、すぐに顔を上げ、私を睨んだ。

「くっそ!お前が介護の仕事をしているから、ゆくゆくは親の介護を押し付けられると思って結婚してやったのに。じゃなかったら、お前みたいな貧乏高卒女を選ぶもんか!」

そう言って、達也は私に向かって、鞄に入れていた着替え用の靴下やネクタイをポンポン投げつけた。あまりの幼稚な行動に、怒りを通り越して呆れてしまう。

信子さんが、私を守るように達也と私の間に割って入った。

「あんたね、人を学歴で判断するんじゃない!」

信子さんが達也に手を上げかけたのを、私は静止し、時計を見るように目配せをした。

「お母さん、もうそろそろ時間です」

「そうね。じゃあ、本題に入るわよ」

達也はすっかり開き直り、まだ何かあるのかよと舌打ちをする。その時、測ったかのようにインターホンが鳴った。

「こんにちは。フラワーガーデンの者です」

初々しい女性の声が聞こえ、玄関の扉を開けると、20代前半くらいの女性が花束を抱えて立っていた。私はその女性に部屋の中へ来てもらうようお願いする。

戸惑いながらもついてきた女性は、床にへたり込んでいる達也を見て、驚きの声をあげた。

「え?達也さん?」

達也は女性の顔を見るなり、踏み潰されたカエルのような声をあげた。花屋の女性は、達也と私たちを交互に見て、いぶかしげな表情を浮かべている。

「これはどういうこと?」

女性が達也に向かって状況を問いただすと、達也は悲鳴のような声をあげながら、隣の部屋に逃げ込み、がちゃっと鍵をかけた。

「俺はあなたなんて知らない!人違いだ!」

「え?私よ。あのね、今朝まで一緒にいたじゃない」

「はあ!ひ、人違いだ!」

切羽詰まった口調から、達也が相当混乱していることが見て取れる。女性は扉越しに達也に声をかけるが、達也は口を閉ざしてしまった。きっと耳を塞いでうずくまって、嵐が過ぎるのを待っているのだろう。

自分の夫がこんなに情けない男だったとは。ただただ呆れるばかりで、もう怒りも悲しみも湧いてこない。

「どういうことですか?確かに彼は私の婚約者よ。あなたたち、一体、彼に何をしたの?」

女性の怒りは、逃げ出した達也ではなく、私と信子さんに向いていた。

「実は、私たちはあなたのことを前もって知っていたんです」

私は女性に、達也から信子さんが怪我をしたと嘘の電話があった翌日、私と信子さんが達也の浮気を確信し、探偵事務所に行ったことを話した。達也の浮気の証拠はあっさりと見つかり、相手はかつて私の誕生日に彼が花を買ってくれていた、あのお花屋さんの店員だった。

「探偵さんの話だと、あなたは達也が既婚者であることを知らない可能性があるらしい。同僚にもうすぐ結婚するの、と嬉しそうに話しているらしいわ」

私と信子さんは、どうすれば達也が既婚者であることを信じてもらえるか、ヘリクツが得意な達也を確実に追い詰められるかを考えた。そして昨日、達也から「明日荷物を取りに行くから、着替えなどを準備しておくように」と連絡があった。私はすぐに信子さんに連絡をし、急いでこの女性が働いているお花屋さんに花束を予約した。

「あなた、こんなことに巻き込んでごめんなさい。私は達也の妻で、美和と言います」

私は女性に、できる限り丁寧に自分が達也の妻であることを告げた。

「はあ?信じられない。私は彼と結婚するんです。邪魔しないでください」

私が達也の妻だということを信じてくれない。その様子を見て、やはりこの計画を実行して正解だったと思った。言葉だけでは、達也が既婚者であることを信じてもらえなかっただろう。

私は机の上に準備していた結婚式のアルバムを、女性に見せた。女性は息を飲み、恐る恐るアルバムを手に取り、ページをめくる。アルバムを私に返した女性は、唇をぐっと噛み、拳を握りしめて、今にも泣き出しそうなのを我慢しているようだった。

次の瞬間、女性が私に向かって、ばっと頭を下げた。

「知らなかったとはいえ、申し訳ありませんでした」

平謝りをする彼女を見て、こんなに素直でいい子を騙すなんて、と再度達也に対する激しい怒りが込み上げてくる。

「ちょっと達也、出てきなさいよ!」

女性が達也が逃げ込んだ部屋に向かって叫び、握りしめた拳で扉をどんどんと叩く。こんな状況でも、達也は相変わらず黙りを決め込んでいる。

女性は、自分の父親にも達也を結婚相手として紹介していたという。女性の父親は、達也の務めている会社名を聞き、その会社は信用できるととても喜んでいたそうだ。

「私の父は、あいつの会社の取引先の社長なんです。森山商事と言うと分かると思います」

森山商事。誰もが知る大企業だった。女性が会社名を口にした瞬間、達也が逃げ込んだ部屋の扉が、壊れんばかりの勢いで開いた。

「なんだって!そんな話は聞いてないぞ!」

達也は顔面蒼白で部屋から飛び出してきて、カーペットにつまづいて転び、床に這って女性の足にすがりついた。

「あ、あの、悪かったよ!」

達也は女性の両手を取り、愛している、奥さんは君だけだ、などと歯の浮くようなセリフを並べ立てる。

「君と出会った時には、この女と離婚するつもりだったんだ。本当だよ!」

自分を指さして言う達也に、分かってはいたけれど、と思いながらも胸が痛んだ。

「何それ?信じられない。あんたみたいなクズと結婚することにならなくて、よかったわ!」

女性は私に向き直った。

「美和さん、教えていただいてありがとうございます」

そして、汚いものでも振り払うかのように、達也の手を払いのけた。

「そこまで言うなら、分かったよ。本当は君と結婚したかったけど、君が嫌だと言うなら、分かれるよ」

最悪の状況とはいえ、達也はこれでおしまいにできると思ったのか、あろうことか少しほっとした表情を浮かべている。どこまでも卑怯な男だ。しかし、女性の次の一言で、達也は絶望のどん底へ突き落とされることになる。

「はあ?これで終わるわけがないでしょ。私だけでなく、お父さんまで騙したことは、絶対に許さない。慰謝料を請求します」

「そ、そんな!」

達也は床に這って、今度は信子さんの足にすがりついた。

「助けて、お母さん!」

信子さんは、女性と同様に、すがりつく達也を振り払った。

「一人息子だからって、あんたを甘やかしすぎたよ。こんなに若い娘さんと、優しい美和さんを傷つけて。今回ばかりは、しっかり代償を払ってもらわないとね」

「そんな!慰謝料を払う金なんてないよ!」

達也は高給取りだけど、貯金はほぼないはずだ。最近、達也宛てに複数の消費者ローンから利用明細や催促状が頻繁に届いていた。ここ数年、達也の金遣いが荒くなっていたことに、私は気づいていた。オーダーメイドの高級スーツ、海外のセレクトショップで買い揃えた私服、頻繁な美容院。若い彼女に格好をつけたかったのだろう。

「今後のことは弁護士を通して連絡します。もう二度と私の前に現れないで」

女性は達也にきっぱりとした口調でそう告げ、私に一礼して出ていった。

その背中を見送り、私と信子さんは再度達也に向き直る。信子さんが達也の名前を呼ぶと、達也はびくっと肩を震わせた。

「あんたは、お父さんによく似ているよ。顔も、やっていることも」

かつて信子さんの夫であり、達也の父親も、若い女性と浮気して作田を作り、最後は家族を捨てて出ていったらしい。

私と信子さんは、魂のない抜け殻のような達也を残して、家を出た。もう達也と一つ屋根の下で暮らす気持ちにはなれない。私はしばらく、信子さんの家に身を寄せることにした。

***

翌日、女性から連絡があった。花束の予約表に私の携帯番号が書いてあったらしく、それを見てかけてきたそうだ。早速、女性の父親が達也の会社に抗議の電話を入れたという。取引を中止するとまで言い出した女性の父親を、会社の重役が必死で説得してなだめたそうだ。

取引の中止は免がれたものの、達也は長年築いてきた会社の信用と品格を地に落とした責任を取り、南アジアの農村部にある子会社へ左遷されることになった。また、女性はしっかり達也を訴え、希望通りの慰謝料を勝ち取った。

数日後、達也から電話がかかってきた。鼻声で、泣いているのだろう。

「美和、今まで本当に済まなかった。俺にはやっぱりお前だけだ。俺についてきてくれ」

慰謝料とカードローンで借金まみれ、挙句の果てに一人で海外の農村部へ行くことになった達也は、鼻水を垂らしながら私の手を握り、復縁を迫った。

「私には介護の仕事があるから、ついていけないわ。しっかり働いて、あの娘さんに慰謝料を払うことね」

私は机の上に離婚届を置き、荷物をまとめて家を出た。自分の慰謝料は請求していない。信子さんに迷惑がかかるのが嫌だったし、そんなお金がなくても、私は自分の稼ぎで十分に生きていける。

***

数ヶ月後、私は介護福祉士の資格に合格した。もう「お母さん」ではなくなってしまった信子さんも、自分のことのように喜んでくれた。信子さんとは、今も仕事の合間を縫ってお茶やおしゃべりを楽しんでいる。私たちは、かつての義理の繋がりを超えた、深い友情で結ばれている。

時折り、過去のことを思い出す時もある。でも、振り返らず、二人とも前を向いて、新しい人生を楽しんでいる。

Thumbnail