ドアの向こうから、嫁の声が聞こえた時、私は全身の血が凍る思いだった。
「早く死んでくれないかしら。そうすれば遺産が手に入るのに」
しかも、それを聞いた息子は笑っていた。
私と夫の高志は、長年尽くしてきた息子夫婦に裏切られていた。彼らが欲しがっていたのは、私たちの愛情ではなく、死後に残るお金だけだった。
彼らはまだ知らない。自分たちの強欲さが人生最大の悲劇を招こうとしていることを。
「高が12万円ごときで恩着せがましいのよ」
嫁の由衣から投げつけられたその言葉に、私は怒りで手が震えた。
つい先ほどまで、夫と一緒に選んだ孫のランドセル。小学校への入学を控えた可愛い孫のために、私たち夫婦は心を込めて12万円の最高級のランドセルを送ったばかりだった。
私は薬剤師として33年、夫の高志は銀行員として38年。懸命に働いてきた。2人でコツコツと貯めてきた大切なお金を、孫のために使うことに何のためらいもなかった。
「親なんだからそれくらいして当然だろう。わざわざ家まで来なくてもいいのに」
息子の健人までもが無表情で冷たく言い放つ。
「ランドセル1つで恩着せがまれても迷惑なんですよね」
由衣の鋭い笑い声がリビングに響き渡った。
その瞬間、私の中で何かが音を立てて切れていくのを感じた。
これまで息子家族のために総額2500万円以上もの援助をしてきた。大学の学費として800万円。盛大な結婚式の費用に500万円。マイホームの頭金として1000万円。孫が生まれてからの出産祝いや毎年の誕生日プレゼント、日常の援助を合わせればさらに200万円は超える。
私たちの人生の大半を、息子家族の幸せのために捧げてきた。それら全てが彼らにとっては当然の義務として処理されていたという現実が、ようやく見えてきたのだ。
夫もあまりの仕打ちに言葉を失い、ただ立ち尽くしていた。帰りの車中、私たちは一言もかわすことができなかった。
自宅に戻り、私は古い通帳を取り出した。そこには息子家族への送金の記録が無機質な数字となって刻まれている。
「俺たち、無理をしてきたんだな」
夫が静かにつぶやいた。
いいえ。無理だなんて思ったことは一度もなかった。全ては息子と孫の笑顔が見たかったから。
しかし、最近の息子たちの態度を思い返すと胸が締めつけられる。孫の誕生日会に招かれることもなくなり、月に一度の顔さえ「忙しい」と断られるようになった。電話をかけても「要件がなければかけてこないでください」と冷たく言われる日々。
私たちの献身は、いつの間にか感謝されることのない義務として消費されていた。
あのランドセル事件からちょうど1週間が過ぎた夜、息子から電話がかかってきた。
「母さん、ちょっと頼みがあるんだけど」
声の調子から、また金銭的な要求だと直感した。案の上、息子は悪びれる様子もなく本題を切り出した。
「子供の習い事の月謝が足りなくてさ、20万円ほど貸してくれないか」
20万円。その大金を、まるで小銭を借りるかのように軽々しく口にする息子に強い違和感を覚える。
「この前のランドセルはちゃんと使ってくれているの?」
私は思わず聞き返した。あれほど心を込めて選んだ贈り物のことが、どうしても気になっていた。
すると息子は何でもないことのように答えた。
「ああ、あれね。正直ダサくて恥ずかしいから別のに買い直したんだ。やっぱり周りの子はもっと高級なブランド物を持ってるしさ」
耳を疑った。12万円のランドセルが安っぽいというのだろうか。
「じゃあ、私たちが送ったランドセルは今どこにあるの?」
電話口の向こうから由衣の声が聞こえてくる。彼女の声はどこか得意げだった。
「メルカリで売りましたよ。8万円になりました。まあまあの値段でしたね。意外と中古でも需要があるものなんですね」
その瞬間、私の中で信頼という名の最後の柱が崩れ落ちた。孫のために心を込めて選んだプレゼントが、まるでゴミのように扱われ、即座に転売されていたなんて。しかも、それを悪びれずに報告してくる神経が理解できなかった。
「20万円の件は、少し考えさせてください」
私がそう答えると、由衣の声が急に冷たくなった。
「ケチですね、お義母さん。親のくせに子供のためにお金も出せないんですか?もう年金暮らしなんだから、死ぬまでに使い切ればいいのに。どうせ他に使い道もないでしょう」
息子も同調するように言葉を続ける。
「どうせ先は長くないんだから、子供や孫に使った方が有意義だろう。そっちの方が母さんだって嬉しいはずだよ」
どうせ先は長くない。その言葉が胸に深く突き刺さる。まるで私たちの残りの人生には何の価値もないと言われているようだった。
「私たちにもこれからの生活が――」
言いかけた私を由衣が遮った。
「薬剤師だったんでしょう。退職金だってたっぷりもらったはずですよね。お義父さんの銀行員の退職金も合わせたら、相当な額があるはずですよ。なのにたった20万円を渋るなんて」
彼らの目的がはっきりと見えた。私たちの財産を最初から狙っていたのだ。親としての愛情や感謝など、彼らの心には微塵もない。
さらに1週間後、私たちを絶望の縁に突き落とす出来事が起こった。
孫の運動会が近づいていたので、私は息子に連絡を入れた。孫の成長を見守りたい。ただそれだけの祖父母として当然の願いだった。
「運動会の応援に行ってもいいかしら?お弁当も作っていくわ」
すると由衣が電話口に出た。その声には明らかな拒絶の色が滲んでいる。
「来ないでください。正直恥ずかしいんです」
「恥ずかしい?」
私は思わず聞き返した。孫の応援に行くことがなぜ恥ずかしいことなのだろうか。
「お母さんたちみたいな年寄りが来ると、周りに貧乏だと思われるんですよ。見た目も地味だし、正直言って私たちの評判が下がるんです」
健人も横から口を挟む。息子の声は冷たく突き放すようだった。
「はっきり言うけど、母さんたちが来ると俺たちの立場が悪くなるんだ。由衣の両親は資産家で立派なんだよ。高級車に乗ってくるし、服装もちゃんとしている。母さんたちとは正直格が違うんだよ」
格が違う。その言葉が私の心を深くえぐった。
「もう関わらないでくれないか。お金だけ出してくれればいいから。それ以外は本当に必要ないんだ」
息子の口から出たその言葉に、私は受話器を持つ手が震えるのを感じた。まるで私たちがただの現金を吐き出す機械であるかのような扱いだ。人間としての尊厳も、親としての立場も全て否定されているように感じた。
「あなた、本気でそんなことを言っているの?」
「本気だよ。だって事実じゃないか。母さんたちの役目は金を出すことだけなんだから。それ以外で関わられても迷惑なんだよ」
電話を切った後、涙が止まらなかった。33年間薬剤師として誠実に働いてきた私。38年間銀行員として家族を支えてきた夫。私たちの人生の価値が、息子たちにとってはただの金銭的価値でしかなかったのだろうか。
夫もリビングのソファに座ったまま言葉を失っていた。普段は感情を表に出さない夫の目にも涙が浮かんでいた。
それから数日後、私は息子の家に忘れ物を取りに行くことになった。息子からの連絡で、以前預けていた書類がまだ彼の家にあるとのことだった。
「今日は夕方まで出かけてるから、合鍵を使って勝手に取って行ってくれ」
そう言われ、私は一人で息子の家を訪れた。玄関の鍵を開けようとした、まさにその時だった。家の中から健人と由衣の話し声が聞こえてきたのだ。2人は外出などしておらず、在宅していたようだった。
私は鍵を差し込んだまま、思わず動きを止めた。
「いつまで我慢すればいいの?あの老夫婦」
由衣の苛立った声がドア越しにはっきりと聞こえてくる。
「まあまあ、そう焦るなよ。数年の辛抱だろ」
健人がまるで何かの計画を語るような口調で答えた。
私は玄関先で固まったまま、息を潜めて聞いてしまった。聞いてはいけないと分かっていても、体が動かなかった。
「薬剤師の退職金が3800万円でしょう。銀行員が5500万円」
由衣の声が計算機を弾くように続く。
「合計9300万円。それにあの家と土地で3200万円。総額1億円以上の遺産が転がり込んでくるんだから」
1億円。その金額を、まるで最初から自分のものであるかのように語る2人。
「でも本当に邪魔なのよ。電話してくるたびにイライラするわ」
「我慢しろって。もう少しの辛抱だ。適当に相手しておけばいいんだよ」
息子の声には、親に対する愛情など微塵も感じられない。
「早く死んでくれないかしら。そうすればもっと自由に暮らせるのに」
由衣のその言葉に、私の体が震え始めた。実の息子の妻が私たちの死を願っている。そしてそれを聞いた健人は何も言わずに笑っているのだ。
「ああ、そういうなって。せめて表面上は優しくしておかないと、遺言の内容が変わったら困るだろう」
「そうね。もう少しだけ我慢するわ。1億円のためだもの」
2人の下品な笑い声が玄関先まで響いてくる。
私は静かに鍵を抜き取り、そのまま踵を返した。玄関のチャイムを鳴らすこともできず、ただ無言でその場を立ち去った。涙で視界が歪み、足元がおぼつかない。車に戻っても、しばらく動くことができなかった。
自宅に戻ると、夫がリビングで新聞を読んでいた。私の異様な様子に気づいた夫が、すぐに駆け寄ってきた。
「啓子、どうした?顔色が真っ青だぞ」
私は震える声で、玄関先で聞いた全てを夫に伝えた。2人の会話の一言一句を、できるだけ正確に。
「早く死んでくれないかしら。そう言ったのか。由衣が」
「ええ。そして健人は笑っていたの。私たちの死を待っているのよ」
夫は拳を強く握りしめた。普段は温厚な夫がこれほどまでに怒りを露わにするのを見るのは初めてだった。
どれくらいの時間が経っただろうか。夫が口を開いた。
「啓子。もう許さない。絶対に許さない」
夫の声は静かだったが、固い決意に満ちていた。
「私も、もう二度とあの子たちに屈しません」
私は涙を拭いながらはっきりと答えた。
「ちょうどいい。俺にも考えがある」
夫が立ち上がり、書斎から書類の束を持ってきた。それは私たちの資産に関する資料だった。
「遺言書を書き換えよう」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが決まった。
「そうですね。私たちの財産をあの子たちに渡すわけにはいきません」
「一応1億円が手に入ると思っているようだが。甘いな。俺たちの本当の資産額をあいつらは知らない」
夫の目には、冷静な怒りの炎が宿っていた。
「明日、弁護士に相談しましょう。正式な遺言書を作成するために」
私は夫の手を握った。その手は私と同じように震えていたが、同時に強い決意を感じさせた。
翌朝、私たち夫婦は市内の法律事務所を訪れた。予約を入れていた佐藤弁護士は、私が現役時代からの知り合いで信頼できる人物だ。
「高野さん夫婦、お久しぶりですね。今日はどのようなご相談でしょうか?」
私は深呼吸をしてから、この数週間で起きた全ての出来事を話し始めた。ランドセルの件、メルカリで売却された事実。そして何より、あの日の玄関先で聞いてしまった会話のこと。
「早く死んでくれないかしら、ですか?」
佐藤弁護士の表情が一瞬で厳しいものに変わった。
「はい。実の息子の妻が、私たちの死を願っているんです。そして息子はそれを笑って聞いていました」
「先生、遺言書の全面的な書き換えは可能でしょうか?」
夫が怒りを抑えた声で付け加えた。
「もちろん可能です。ただし、お子さんには遺留分という最低限の相続権がありますので、その点はご理解ください」
佐藤弁護士は丁寧に法律的な説明を始めた。
「現在の資産総額はどのくらいになりますか?」
「私の退職金が3800万円です」
「私の退職金が5500万円。それに預貯金と投資信託で約2000万円。家と土地の評価額が3200万円です」
夫が淡々と数字を並べていく。
「合計で1億4500万円ほどですね。息子さんの遺留分は全体の8分の1ですから、約1800万円。それ以外はお2人の自由に指定できます」
「残りの約1億2700万円を、私の妹の家族と社会福祉法人に寄付したいと考えています」
夫がそう伝えると、佐藤弁護士は深く頷いた。
「承知しました。それでは正式な公正証書遺言を作成しましょう。これが最も法的効力の強い遺言書になります」
「息子たちは、私たちに1億円の資産があると思い込んでいるようです。実際にはそれ以上あるということですね。そしてその大半を受け取れないと知ったら――」
「自業自得です。人の死を願った報いを受けてもらいます」
それから数時間かけて、私たちは詳細な遺言書の内容を詰めていった。一つの文言を慎重に選び、法的に完璧な形に仕上げていく。
法律事務所を出ると、私たちは近くの喫茶店に入った。静かな店内で夫婦2人で今後のことを話し合う。
「本当にこれでいいのか?」
夫がコーヒーカップを両手で包みながら聞いてきた。
「迷いはありません。あの子たちは私たちを人間として見ていない。ただのATMとしか思っていないのです」
「そうだな。俺たちの人生を金額でしか測っていない」
「それにあの子たちが本当に困った時、私たちは何も知らなかったことにしましょう」
私の言葉に夫が少し驚いた顔をした。
「どういうことだ?」
「遺言書を書き換えたことは、すぐには教えません。あの子たちには、まだ1億円の遺産が手に入ると信じ込ませておくのです」
「なるほど。そして俺たちが本当に亡くなった時、初めて真実を知ることになる」
「その時の絶望を想像してみてください。期待していた全てが一瞬で消え去る瞬間を」
私の声は冷静だったが、確かな決意に満ちていた。
喫茶店を出て、私たちは自宅への帰り道を歩いた。夕暮れの空がオレンジ色に染まり始めていた。
「啓子さん、私たちもっと自分たちのために生きてもいいんですよ」
「ああ、当然だ。これまで十分すぎるほど息子のために尽くしてきた」
「温泉旅行にでも行きましょうか? 2人だけで」
「いいな。北海道の温泉なんてどうだ?」
「素敵ですね。予約を入れましょう」
自宅に着くと、私は早速旅行の計画を立て始めた。これまで息子家族のために使ってきたお金を、これからは私たち自身のために使う。その決意が心を軽くしていくのを感じた。
息子たちはまだ何も知らない。自分たちの期待が既に完全に裏切られていることを。
遺言書の作成からちょうど1週間が経った金曜日の夜、健人から電話がかかってきた。
「母さん、ちょっといいかな? 実は相談があるんだ」
声のトーンがいつもより少し焦っているように聞こえる。
「どうしたの?」
「車を買い換えたいんだよ。今の車もう7年も乗ってるし、そろそろ限界でさ。300万ほど貸してくれないか」
300万。その金額を、まるで日用品を買うかのように軽々しく口にする息子。電話の向こうで由衣の声が聞こえてくる。
「親なんだから当然でしょう。どうせ遺産で返ってくるんだし、今貸してくれたっていいじゃないですか」
遺産で返ってくる。その言葉を聞いて、私の口元に冷ややかな笑みが浮かぶ。
「そう。じゃあ明日そちらに伺うわ。大切な話があるの」
「ええ?お金を持ってきてくれるの?やった」
健人の声が一気に明るくなった。
「ええ、大切な書類を持っていくわね」
私の言葉の真意に、健人は気づいていないようだった。
翌日の午後、私と夫は息子の家を訪れた。手には弁護士が用意してくれた書類の束を持っている。玄関を開けた健人が期待に満ちた表情で迎えた。
「母さん、父さん、よく来てくれた。で、お金は?」
リビングに案内されると、由衣もソファに座って待っていた。2人とも現金が入った封筒を期待しているようだった。
「お金の話の前に、これを見てちょうだい」
私は持ってきた書類を静かにテーブルに置いた。健人が書類を手に取り、最初のページを見た瞬間、彼の表情が固まった。
「遺言書?これ、どういうこと?」
由衣も慌てて書類を覗き込む。そしてその内容を読み進めるうちに、顔色がみるみる青ざめていった。
「遺留分の1800万円?残りは妹の家族と社会福祉法人への寄付?」
由衣の声が震え始めた。
「ちょっと待てよ。これどういうことだよ」
健人が立ち上がり、書類を握りしめた。
「文字通りよ。あなたへの相続は、法律で定められた最低限の遺留分、約1800万円のみ。私は冷静に答えた」
「1800万円?でも母さんたちの資産、1億円くらいはあるはずだろう」
「1億円?甘いな、健人。俺たちの本当の資産額を知らないようだ」
夫が静かに笑った。
「本当の資産額?」
由衣が不安そうな表情で尋ねる。
「実際は1億4500万円だ」
夫の言葉に、2人は一瞬言葉を失った。
「1億4500万円?それなのに1800万円しかもらえないって?」
健人が呆然とした表情でつぶやいた。
「そういうことよ。残りの約1億2700万円は、あなたたちには渡りません」
私の言葉に由衣が金切り声をあげた。
「どうして?私たちは家族でしょう。家族」
「家族?」
私はバッグから小さな録音機を取り出した。
「じゃあ、これを聞いてもらおうかしら」
再生ボタンを押すと、1週間前に玄関先で録音した会話が流れ始めた。
「いつまで我慢すればいいの?あの老夫婦」「合計9300万円。それに家と土地で3200万円」「早く死んでくれないかしら」
録音が流れるにつれ、健人と由衣の顔が真っ白になっていく。
「ま、待って。これは――」
健人が言葉を濁した。
「全部録音していたのよ。あなたたちの本音を。弁護士にも提出済みです」
夫が冷たい視線を息子に向けた。
「早く死んでくれないかしら、だと。お前の妻は俺たちの死を願っていたんだな」
「それは由衣が勝手に――」
「勝手に?お前は笑って聞いていただろう。否定もしなかった」
私の指摘に、健人は何も言い返せなかった。
「それに覚えている?ランドセルを送った時、なんて言った?」
由衣が震える声で答える。
「高が12万で恩着せがましいって言ったわね。孫のために心を込めて選んだプレゼントを。そしてそのランドセルをメルカリで売った。高が12万円と笑ったあなたたちは、結果として1億円以上の遺産を失うことになったのよ」
夫が立ち上がった。
「因果応報という言葉を知っているか。お前たちは親を人間として見ていなかった。ただのATMとしか思っていなかった」
「違う。俺たちは――」
「違わない。お前は電話でこう言ったな。お金だけ出してくれればいい、と」
健人は言葉を失って座り込んだ。由衣が必死に訴えかけてくる。
「お義母さん、お願いします。遺言書を元に戻してください」
彼女はテーブルに手をついて頭を下げた。
「今さら遅いわ。あなたたちは私たちの死を待っていたのでしょう」
「それは本当にごめんなさい。あの時は私が間違っていました」
由衣が泣き始めたが、私の心は動かない。
健人がついに土下座をした。
「母さん、頼む。俺が悪かった。何でもするから遺言書を書き直してくれ」
「何でもする?では、これまでの2500万円、全額返してもらえるかしら?」
私の言葉に健人は絶句する。
「2500万円って――」
「大学の学費800万円、結婚式500万円、マイホームの頭金1000万円。その他諸々で200万円。合計2500万円。覚えていないとは言わせないぞ」
夫が冷静に数字を並べた。
「そんな金額返せるわけが――」
「返せないでしょうね。だから遺言書も変更しません」
私はバッグを手に取り立ち上がった。
「母さん、母さん!車のローンどうするんだよ。住宅ローンだってあるんだぞ!」
健人が泣きながら叫んだ。
「それはあなたたちの問題よ。私たちにはもう関係ありません」
由衣も狂乱状態になって訴えてくる。
「私の両親にも援助してもらってるのに、これ以上お金がなかったら生活できないんです」
「ご両親は資産家で立派なんでしょう?「格が違う」とおっしゃっていましたよ」
私の言葉に由衣は言葉をつまらせた。
「それにあなたたち、私たちを運動会にも呼ばなかったわね。恥ずかしいからって」
「あれは本当にごめんなさい」
「恥ずかしい老人には、お金をあげる必要もないでしょう」
夫が最後の一撃を加えた。
「もう二度とお前たちに会うことはない」
私たちは背を向けて玄関に向かった。
「母さん、待って。母さん!」
健人の叫び声が背中に届く。
「1億円が、私たちの計画が、全部――」
由衣の絶叫がリビングに響き渡った。
玄関のドアを開けた瞬間、私は最後に振り返る。床に崩れ落ちて泣き叫ぶ息子夫婦の姿がそこにあった。
「さようなら、健人」
その言葉を最後に、私たちは静かに扉を閉めた。
車に乗り込むと、夫が深く息を吐いた。
「終わったな、啓子」
「ええ、終わりました」
車を走らせながら、私は窓の外を眺める。夕日が町を美しく照らしていた。42年間育ててきた息子との縁が、今この日に切れたのだ。でも、不思議と心は軽くなっていた。これで良かったのだと、私は確信していた。
あれから半年が過ぎた。息子夫婦のその後については、時折近所の人から情報が入ってくる。
健人は会社での評判が悪化したようだ。親との関係断絶が問題視され、昇進の話は白紙になったと聞いた。さらに住宅ローンと車のローンが重なり、結局新車の購入は諦めざるを得なかったようだ。
由衣もママ友の間で立場を失ったと聞く。高級車も新しい家も全て見せかけで、実態が伴っていなかったことが周囲に知れ渡り、距離を置かれるようになった。そして何より、由衣の両親も真実を知って援助を停止したとのこと。資産家という立派なご両親も、娘夫婦の非常識な行動には愛想を尽かしたようだった。
「全て失った。お母さんの遺産があればこんなことには――」
風の噂で聞いた健人の言葉は、今でも後悔に満ちていると言う。
「高が12万円のランドセルが全ての始まりだったのよ」
由衣の嘆きも私の耳に届いた。でも私の心は少しも動かない。自業自得という言葉がこれほどぴったりな状況もないだろう。
一方、私たち夫婦の生活は驚くほど充実したものになっていた。北海道の温泉旅行では雄大な自然に囲まれながら、2人だけの時間をゆっくりと楽しむことができた。露天風呂に浸かりながら見上げた星空の美しさは、今でも忘れられない。
私の妹の家族とも以前より頻繁に会うようになった。心から歓迎してくれる妹家族の温かさが、私たちの心を癒してくれる。
地域のボランティア活動にも参加するようになった。週に一度、老人ホームで薬剤師としての知識を生かした健康相談をしている。趣味の陶芸教室にも通い始め、絵画教室では水彩画の基礎を学んでいる。
ある日の夕食時、夫が穏やかな笑顔で言った。
「啓子、今の俺たちは本当に自由で幸せだな」
「ええ、本当にそう思います」
「あの時の決断は正しかった」
夫の言葉に、私は深く頷く。
「息子には悪いけれど、もう関係のないことですね」
「誰に頭を下げない強さを、俺たちは手に入れたんだ」
夫の目には確かな誇りが宿っていた。
「啓子さん、次は京都の紅葉を見に行きませんか?」
「いいな。予約を入れておこう」
夫婦で旅行の計画を立てながら、私は心から笑うことができた。これが私たちの新しい人生だ。息子たちの影に怯えることなく、自分たちのために生きる人生。それは何者にも代えがたいものだ。
人の尊厳はお金では買えない。親の愛情を軽く見てはいけない。高が12万円と笑った息子夫婦は、結果として1億円以上の遺産を失った。これが因果応報というものだ。
もしあなたが理不尽な扱いを受けているなら、我慢し続ける必要はない。正当な権利を主張し、自分の尊厳を守る勇気を持ってほしい。私たち夫婦は68歳と70歳にして、ようやく本当の自由を手に入れた。人生はまだまだ続く。



