朝食を終えた瞬間、「もう他人だから」と、住み慣れた家を追い出す冷たい言葉を息子に浴びせられたあの朝のことを、私は決して忘れない。 なんと、彼らは嫁の実家の人を来月から呼ぶと言い、私への生活費は毎月わずか3万円のまま、彼らにはなんと10万円も渡す計画だという。40年働いて貯めた2000万円で買った家だったのに。 息子夫婦は、私を「田舎臭くて恥ずかしいから」と捨てた。…

朝食を終えた瞬間、「もう他人だから」と、住み慣れた家を追い出す冷たい言葉を息子に浴びせられたあの朝のことを、私は決して忘れない。 なんと、彼らは嫁の実家の人を来月から呼ぶと言い、私への生活費は毎月わずか3万円のまま、彼らにはなんと10万円も渡す計画だという。40年働いて貯めた2000万円で買った家だったのに。 息子夫婦は、私を「田舎臭くて恥ずかしいから」と捨てた。...

朝食の支度を終え、一息ついた瞬間に、息子からあまりにも無慈悲な通告を突きつけられました。

私は田中君子(たなか きみこ)、72歳。かつては看護師長として40年間働き、5年前に夫を亡くしてからは、この家で息子夫婦と同居してきました。毎朝6時に起きて、家族4人分の朝食を整えるのが日課だったのです。

ある夜、味噌汁の湯気が立ち上る食卓で、息子の剣次(けんじ)と妻の里美さんが目配せをしていました。

「急な話で悪いけど、来月から里美の両親がここに住むことになったんだ」

その言葉に、私は持っていた箸を取り落としました。

「え、それは…私はどうすればいいの?」

「だから、ここを出て行ってもらうしかないだろう。母さんなら一人でアパートくらい見つけられるはずだし」

里美さんが言葉を継ぎます。

「私の両親も高齢ですし、こちらで介護も含めて面倒を見る必要があるんです。小母さんには今までお世話になりましたけど、もう大丈夫ですから」

私のこの10年間の献身は、一体何だったのでしょうか。震える手を膝の上で握りしめ、私は息子たちの顔を見つめることしかできませんでした。

そもそも、この家は私が看護師長として40年間必死に働き、貯めた退職金2000万円を頭金にして購入したものです。剣次が結婚する際、「母さん、一緒に住んでくれないか」と頼み込んできたため、自分の老後資金として蓄えていた虎の子を全て差し出したのでした。

それだけではありません。里美さんが仕事に復帰したいと言い出してからは、3人の孫の世話は全て私が一手に引き受けてきました。朝は5時に起きて朝食と弁当を作り、保育園や学校への送り迎え、習い事の付き添いまで、10年間、休むことなく孫たちのために尽くしてきたのです。

「小母さんがいてくれて本当に助かります」

里美さんはいつもそう言って感謝してくれていました。私も孫たちの成長を一番近くで見守ることができて幸せだと、心から信じて疑いませんでした。

5年前に夫が脳梗塞で倒れてからは、仕事を辞めて介護に専念しました。剣次も里美さんも仕事にかまけてほとんど手伝ってはくれませんでしたが、私は最後まで夫を自宅で見取ることができました。

これほどまでに家族のために身を尽くしてきた私に、なぜこのような仕打ちができるのでしょうか。

「母さん、里美の両親は元大学教授で、元音楽家なんだ。品があって教養も深い。孫の教育にも素晴らしい影響を与えてくれると思うんだよ」

その言葉に、私は息を飲みました。まるで私には品も教養もないと言われているようでした。確かに私は地方の看護学校を出ただけの人間ですが、40年間患者さんの命と向き合い、誠実に働いてきた誇りがあります。

「それに私の両親なら、ご近所の方々ともうまくやっていけると思うんです」

「私がご近所の方々とうまくいっていないというのですか?」

「いえ、そういうわけではないんですけど…小母さんは、少しその田舎っぽいところがあるじゃないですか。私の両親ならもっとスマートに振る舞えますし」

「田舎っぽい」という言葉が、胸に深く突き刺さりました。私は確かに地方の出身ですが、それが家を追い出される理由になるのでしょうか。

剣次がさらに追い打ちをかけます。

「実は里美の両親には月10万円の生活費を渡すことにしたんだ。年金だけじゃ心細いだろうから」

「月10万円?」

私は驚きを隠せませんでした。私には生活費として月3万円しか渡されていなかったのです。しかも、光熱費や食費の足しにと、私のわずかな年金からも持ち出していました。

「母さんは年金もあるし、貯金もあるだろう。里美の両親はそういう蓄えがあまりないんだよ」

「でも、私の貯金はこの家の頭金に全て使ってしまいましたよ」

「それはもう昔の話だろう。今は僕たちの家なんだから」

私は呆然としました。2000万円もの大金を出したことが、「昔の話」の一言で片付けられてしまうのです。

数日前の出来事が脳裏をよぎりました。里美さんのご両親が遊びに来た時のことです。

「まあ、素敵なご夫婦ですわね。里美も幸せ者ですこと」

里美さんのお母様は優雅な物言いでリビングを見渡していました。私が挨拶をしても、彼女は私を上から下まで値踏みするように眺め、小さく頷いただけでした。

「小母さん、お茶をお願いします」

里美さんに言われて、私が台所へ向かおうとした時、リビングから聞こえてくる会話に私は思わず足を止めてしまいました。

「里美、あなたのお義母さんは随分と野暮な方なのね」

「ええ、まあ、田舎の出身ですから。でも家事はきちんとやってくれるので、便利にはなります」

「それは助かるわね。でも、孫の教育にはもう少し洗練された環境が必要じゃないかしら」

「実は、それで相談があるの」

あの時から、この追放計画は始まっていたのでしょう。

剣次はさらに残酷な本音を口にしました。

「正直に言うとさ、母さんがいるとちょっと恥ずかしいんだよ。会社の同僚を家に呼んだ時も、母さんの話し方とか服装とかが違うなって思われてる気がして」

「恥ずかしい?」

「悪いけど、そうなんだ。里美の両親なら堂々と紹介できる。元教授と音楽家だから、みんなも関心するだろうし」

私は、自分がこの家でどれほど邪魔者扱いされていたのかを、初めて理解しました。

「小母さん、私たちも子供たちのことを一番に考えているんです。やっぱり教養のある祖父母がいる方が、子供たちの将来のためになると思うんです」

里美さんの言葉に、私は静かに問い返しました。

「私が10年間毎日孫たちの世話をしてきたことは、孫のためにならなかったということですか?」

「それは感謝していますけど…でも、これからは違う環境が必要なんです」

「違う環境、つまり私のいない環境ということでしょう」

「母さん、分かってくれるよね。これも子供たちのためなんだ」

剣次は私を説得するような口調でしたが、その目は冷たく、事態は決定事項であると語っていました。

「来月からと言いましたが、具体的にはいつまでに…」

「今月末までに出て行ってもらえれば。里美の両親は来月の頭から来る予定だから」

後、2週間。40年間働き、10年間この家族のために尽くしてきた私に与えられた猶予は、たったの2週間でした。

「分かりました」

私は静かにそう答えました。争っても無駄だということは、もう十分に分かっていましたから。でも、心の中では何かが静かに、しかし確実に変わり始めていたのです。

翌朝、剣次と里美さんは、まるで何事もなかったかのように朝食を食べていました。私が作った味噌汁を飲みながら、2人は楽しそうに未来の計画を話しています。

「里美の両親が来たら、この部屋を改装しようと思うんだ。もっと明るい壁紙にして、家具も新しくして」

「素敵ね。お父さんクラシック音楽が好きだから、音響設備もつけたいわ」

私の部屋のことを、もう自分たちのもののように話している2人を見て、胸が痛みました。

「母さん、荷物はちゃんと片付けてね。今週中に大体まとめてもらえる? 明日からはもう他人なんだから、あまり長々とされても困るし」

「他人?」

息子の口から出たその言葉に、私は箸を置きました。

「だって、一緒に住まないんだから。そういうことだろう。これからは、それぞれの人生を歩むってことだよ」

「それぞれの人生」…まるで、今までの10年間の絆など存在しなかったかのような言い方でした。

その時、末っ子の小学3年生の孫、結衣(ゆい)ちゃんが部屋に入ってきました。

「おばあちゃん、おはよう」

「おはよう、ゆいちゃん」

私が微笑みかけると、里美さんがゆいちゃんに言いました。

「ゆい、おばあちゃんは来月から違うところに住むのよ。だから、もうあまり会えなくなるわ」

「え、どうして?」

ゆいちゃんは驚いた顔で私を見ました。

「今度はママのおじいちゃんとおばあちゃんが来るの。素敵でしょう? ピアノも教えてもらえるわよ」

「でも…おばあちゃんは?」

「おばあちゃんは、もういなくていいの。分かった?」

里美さんの言わせぬ言葉に、ゆいちゃんは困った顔をしていました。すると剣次が言いました。

「ゆい、おばあちゃんにさよならを言いなさい。もう会えないかもしれないから」

「おばあちゃん、もう来ないの?」

ゆいちゃんの目に涙が浮かんでいるのを見て、私も涙を堪えるのに必死でした。

「ゆいちゃん、おばあちゃんは違うところに住むけど、ゆいちゃんのことはずっと大好きよ」

「私もおばあちゃん大好き」

「ゆい、もういいから学校の準備をしなさい」

里美さんがゆいちゃんを連れて行ってしまいました。

午後になって、私が荷物をまとめていると、剣次がやってきました。

「母さん、これ、家の鍵全部返してもらえる? セキュリティの関係もあるし」

「分かりました」

私は10年間持っていた家の鍵を渡しました。

「それから、今後は勝手に来ないでね。里美の両親も戸惑うだろうし」

「勝手に?」

「孫たちに会いたくなっても、それはこっちから連絡する。まあ、当分は難しいと思うけど」

剣次の冷たい言い方に、私はもう何も言えませんでした。

部屋を片付けていると、引き出しの奥から1枚の書類が出てきました。この家を購入した時の、土地と建物の登記簿でした。じっくりと見てみると、ある重要な事実に改めて気がつきました。

名義人の欄に書かれているのは「田中君子」。つまり、私の名前だったのです。当時、剣次はまだ社会人になったばかりでローンが組めませんでした。だから私の名義で購入し、いずれ名義変更をする予定でしたが、結局そのままになっていたのです。

この家は、法的には完全に私のものでした。

「母さん、どうしたの?」

剣次が部屋を覗き込んできました。

「いえ、何でもありません。古い書類を整理していただけです」

私は静かに書類を鞄にしまいました。

「そう。じゃあ、明日の朝には出て行ってもらえるね」

「はい、分かりました」

剣次が去った後、私は窓の外を見ながら考えました。この家は私のもの。でも、今はまだその切り札を使う時ではない。もう少し、彼らの様子を泳がせることにしました。

夕方、里美さんが私の部屋に来ました。

「小母さん、これ、生活費として」

差し出された封筒には、たった3万円が入っていました。

「新しい生活、頑張ってくださいね。小母さんなら、きっと大丈夫ですから」

まるで他人事のような言い方に、私は静かに微笑みました。

「ありがとうございます。お気遣いなく」

「それから、もし何か困ったことがあっても、あまり頼らないでくださいね。私たちもこれから両親の面倒を見なければいけないので」

「頼るな」ということでしょう。10年間、朝から晩まで家族のために働き詰めてきた私に対する、これが最後の言葉でした。

翌朝、私は最後の朝食を作りました。いつものように剣次の好きな卵焼き、里美さんの好きなサラダ、孫たちの大好きなウインナー。10年間、毎日作り続けてきた朝食です。

「母さん、今日で最後なんだから、そんなに頑張らなくてもいいのに」

剣次は、まるで私が余計なことをしているかのように言いました。

「最後ですから、きちんとしたいんです」

私は静かに答えました。食卓についた家族を見渡すと、誰も私と目を合わせようとしません。まるでもう私がいないかのような扱いでした。

「小母さん、タクシーは呼びましたか?」

里美さんが事務的に訪ねました。

「はい。9時に来てもらうことになっています」

「そう。よかった。私たち仕事があるので、見送りはできませんけど」

見送りさえしない。それが10年間共に暮らした家族の最後の態度でした。

荷物をまとめて玄関に立った時、ゆいちゃんだけが走ってきました。

「おばあちゃん、本当に行っちゃうの?」

「ゆいちゃん、元気でね」

私はゆいちゃんを抱きしめました。すると里美さんがゆいちゃんを引き離しました。

「ゆい、学校に遅れるわよ。もう行きなさい」

タクシーに乗り込む時、振り返ると剣次と里美さんはすでに家の中に入っていました。窓から覗く、ゆいちゃんの寂しそうな顔だけが私を見送ってくれました。

「どちらまで?」

運転手さんの問いかけに、私は迷わず行き先を告げました。

「市内の佐藤法律事務所までお願いします」

実は、数日前から準備を進めていたのです。看護師時代の同僚で、今は法律事務所で働いている友人に相談し、信頼できる弁護士を紹介してもらっていました。

事務所に着くと、担当の弁護士である佐藤先生が待っていてくださいました。

「田中さん、お待ちしていました。お電話で伺った件ですね」

「はい。これが登記簿です」

私は書類を差し出しました。佐藤先生は慎重に書類を確認し、深く頷きました。

「間違いありません。この土地と建物は完全に田中さんの所有物です。息子さんの名前は一切出てきませんね」

「そうなんです。当時、剣次がまだローンを組めなかったので、私の退職金を頭金にして、私の名義で購入しました。その後、名義変更はされていないんです」

「田中さん、これは非常に有利な状況です。法的には、息子さん家族は田中さんの家に住ませてもらっている立場になります」

「それでは、家賃を請求することも可能でしょうか?」

「もちろんです。むしろ、今まで無償で住ませていたことの方が、税法上、贈与と見なされる可能性もあります」

私は深く息を吸い込みました。

「先生、1ヶ月後に内容証明郵便を送りたいのです。家賃の請求と、支払いがない場合は退去を求める内容で」

「1ヶ月後ですか? 何か理由が?」

「息子たちに、自分たちがしたことの意味を理解する時間を与えたいんです。それに、里美さんのご両親が来てから事実を知った方が、より効果的かと思いまして」

佐藤先生は不敵に微笑みました。

「なるほど、賢明な判断ですね。では、内容証明の準備を進めておきます。家賃はどの程度想定されていますか?」

「相場はどのくらいでしょうか?」

「あの地域の一軒家なら、月額25万から30万円が妥当でしょう」

「では、30万円でお願いします」

「分かりました。完璧な書類を作成しておきます」

法律事務所を出た後、私は不動産屋に向かいました。実は、亡くなった夫の生命保険金がまだ手つかずで残っていたのです。それを使って、自分だけの城を探すことにしました。

「お予算はどのくらいお考えですか?」

「月額15万円程度まででお願いします」

不動産屋の担当者はいくつかの物件を紹介してくれました。その中で、駅から徒歩5分、セキュリティもしっかりした高級マンションが気に入りました。

「こちらは築3年で、最上階の角部屋です。眺望も素晴らしいですし、同年代の方も多く住んでいらっしゃいます」

「いいですね。こちらでお願いします」

契約を済ませ、新しい住まいの鍵を受け取った時、不思議な解放感を覚えました。もう誰かのために早起きする必要もない。誰かに「田舎臭い」と言われることもない。

引っ越し屋に連絡し、その日のうちに荷物を新居に運んでもらいました。新しいマンションの部屋から見える景色は素晴らしく、これからの生活に希望が持てそうでした。

夜、一人でゆっくりとお茶を飲みながら、私はつぶやきました。

「1ヶ月後が楽しみね」

息子たちはまだ何も知らない。あの家が誰のものか。自分たちがどんな立場にいるのか。でも、1ヶ月後には全てが明らかになる。その時の顔を想像すると、不謹慎かもしれませんが、少し楽しみでもありました。

新しいマンションでの生活を始めて、ちょうど1ヶ月が経ちました。朝はゆっくりと起き、散歩をし、読書を楽しむ。誰にも気を使わない自由な毎日でした。

その朝、佐藤先生から電話がありました。

「田中さん、予定通り本日、内容証明郵便を発送しました。明日には息子さんのところに届くはずです」

「ありがとうございます。ついに、この日が来たんですね」

「はい。反応があれば、すぐにご連絡ください」

電話を切った後、私は窓の外を眺めながら、これから起こる騒動を想像していました。

翌日の午前10時過ぎ、私の携帯電話がけたたましく鳴り始めました。剣次からでした。

「母さん、これは一体どういうことなんだ?」

剣次の声は明らかに動揺していました。

「どうしたんですか、剣次? そんなに慌てて」

「内容証明が届いたんだよ。家賃を月額30万円払えって。払わなければ退去しろって。どういうつもりなんだ?」

「ああ、届きましたか。どういうつもりも何も、書いてある通りですよ」

「何を言ってるんだ? これは僕たちの家だろう」

「いいえ、違います。登記簿を確認してください。その家の所有者は田中君子。つまり、私です」

電話の向こうで、剣次が息を飲む音が聞こえました。

「でも…でも、母さんが買ったのは僕たちのためだろう」

「あら、そうでしたか。私は自分の老後のために退職金を使って購入したんですけど。ただ、息子家族と一緒に住むと思って、住ませてあげていただけです」

「そんなの、ひどいじゃないか」

「ひどい? 1ヶ月前、私を追い出した時、剣次は何と言いましたか? 『もう他人だから』と言いましたよね」

剣次は言葉に詰まりました。

「他人なら、家賃をいただくのは当然でしょう。それとも、他人の家にただで住み続けるおつもりですか?」

「母さん、そんな言い方…」

「私も同じことを思いましたよ。息子からあんな言い方をされた時ね」

そこへ、受話器の向こうから里美さんの金切り声が聞こえてきました。

「ちょっと、どうなってるの? 私の両親はどうすればいいのよ!」

剣次が里美さんにどもどもと説明している様子が聞こえます。すると里美さんが電話をひったくりました。

「小母さん、こんな卑怯なことをして、恥ずかしくないんですか?」

「卑怯? 私は法的に正当な権利を行使しているだけです。これより、人の家に勝手に赤の他人を住まわせる方が、よほど問題ではありませんか?」

「他人って、私の両親のことですか?」

「ええ、私にとっては他人です。剣次が言ったように、もう家族ではないんですから」

里美さんは怒りで声を震わせました。

「小母さんは、私たちを困らせて楽しいんですか?」

「困る? どうしてですか? 月30万円の家賃を払えば、そのまま住み続けられますよ」

「そんな大金、払えるわけないでしょう!」

「里美さんのご両親には月10万円のお小遣いを渡すと聞きましたが。それができる余裕があるなら、家賃も払えるのではありませんか」

里美さんは言葉を失いました。

数時間後、剣次と里美さんが私のマンションを尋ねてきました。インターホンで確認してから、ロビーの待合スペースで会うことにしました。

「母さん、頼むから考え直してくれ」

剣次はもう先ほどの強気な態度はなく、必死の表情でした。

「何を考え直すんですか?」

「この内容証明を取り下げてくれ。僕たちは家族じゃないか」

「家族? 剣次、1ヶ月前にもう他人だと言ったのは誰でしたか?」

「あれは、その…言い過ぎだったと思う」

「言い過ぎで済む問題ですか? 私を追い出して、嫁の両親を住まわせる。しかも私には月3万円しか渡さなかったのに、里美さんの両親には月10万円。これが家族のすることですか?」

里美さんが口を開きました。

「小母さん、私の両親はもう引っ越してきてしまったんです。今更、どこに行けと言うんですか?」

「それは私の知ったことではありません。勝手に人の家に引っ越してきた方が悪いのでは?」

「人の家って…剣次さんの家でしょう?」

「いいえ、私の家です。法的に完全に私の所有物です」

私は登記簿のコピーを見せました。2人は青ざめた顔でそれを見つめていました。

「母さん、僕たちが悪かった。謝るから、許してくれ」

剣次が深々と頭を下げました。しかし、私の心は微動だにしませんでした。

「謝罪は結構です。私が求めているのは正当な家賃です。月額30万円。これは相場通りの金額です」

「そんな金額、とても払えない」

「では、退去していただくしかありませんね。1ヶ月の猶予期間を設けますので、その間に新しい住居を探してください」

「母さん、そんな冷たいこと…」

「冷たい? 私を『田舎臭い』『恥ずかしい』と言って追い出した人たちに、冷たいと言われるとは思いませんでした」

里美さんが泣き始めました。

「小母さん、お願いします。子供たちのことを考えてください」

「孫のことは、10年間考え続けてきました。でも、あなたたちは『もう大丈夫』と言って、私を追い出したんです。それは…そうですね。ところで、ゆいちゃんは元気ですか? 『おばあちゃんにはもう会えない』と言われて、悲しんでいませんか?」

里美さんは答えられませんでした。剣次が最後の手段のように言いました。

「母さん、この家は母さんが僕たちのために買ってくれたものじゃないか」

「いいえ、私の老後のために買ったものです。そんなに言うなら、剣次、あなたは私の退職金を『もう昔の話』と言いましたね。でも法律は違います。所有権はきちんと守られるんです」

2人は、もう何も言えませんでした。

「本日中に、今後どうされるか返事をください。家賃を払って住み続けるか、退去するか。どちらかを選んでください」

私は立ち上がりました。

「母さん、待ってくれ!」

「これ以上話すことはありません。返事は書面でお願いします」

2人を見送った後、私は深いため息をつきました。復讐が成功した喜びよりも、息子との関係がここまで壊れてしまったことへの悲しみの方が大きかったのです。でも、もう後戻りはできません。

その夜遅く、一通のメールが届きました。「退去します。1ヶ月以内に出ていきます」。短い文でしたが、そこには諦めと後悔が滲んでいるように感じられました。

剣次からの退去通知を受けてから3週間が経ちました。私は新しいマンションでの生活をすっかり楽しんでいました。朝はヨガ教室に通い、午後は同じマンションに住む友人たちとお茶を楽しむ。誰にも遠慮することのない、自由で充実した毎日でした。

ある日、佐藤先生から連絡がありました。

「田中さん、息子さんご家族が予定通り退去されたようです。家の鍵も返却されました」

「そうですか。ありがとうございます」

「これから家賃の件ですが、退去までの日割り計算で20万円ほどになります。請求されますか?」

「いえ、それは結構です。もう十分ですから」

実は、剣次たちが退去する前日、ゆいちゃんから手紙が届いていました。

「おばあちゃんへ。ごめんなさい。パパとママがおばあちゃんにひどいことを言ったこと、私も知っていました。でも何も言えなくてごめんなさい。新しいお家は狭くて、ママのおじいちゃんとおばあちゃんも来ません。私、おばあちゃんに会いたいです。大好きだよ。おばあちゃん」

子供の拙い文字で書かれた手紙を読んで、私は涙が止まりませんでした。

数日後、意外な人物から連絡がありました。里美さんの母親からでした。

「田中さん、一度お会いできませんか?」

高級ホテルのラウンジで会うことになりました。里美さんの母親は、以前の傲慢な態度とは打って変わって、悄気返った様子でした。

「田中さん、この度は娘が大変なご迷惑をおかけしました」

「いえ、もう済んだことです」

「実は、私たちも騙されていたんです。あの家が息子さんの所有だと聞いていました。まさか、田中さんのお家だったなんて」

里美さんの母親は深くため息をつきました。

「娘から聞きました。田中さんが10年間、どれだけ家族に尽くしてこられたか。私たち、とんでもない勘違いをしていました」

「勘違いですか?」

「はい。娘は田中さんのことを『田舎の人で教養がない』と言っていました。でも、本当は違いましたね。看護師長として立派にお勤めになり、ご主人を最後まで看取られた。それこそが、本当の品格というものです」

私は静かに頷きました。

「私たち夫婦も、結局1週間で出ていきました。あんな狭いアパートでは暮らせません。それに、娘夫婦の本性を見てしまいましたから」

「本性?」

「お金のことばかり。私たちへの月10万円も、実際は払えないと言い出しました。全て、見えだったんです」

里美さんの母親は苦笑いを浮かべました。

「田中さん、あなたは正しかったと思います。親を軽んじるものは、必ず報いを受ける。娘夫婦はそれを身をもって知ったはずです」

その後、思いがけない再会がありました。剣次の元上司だった方から連絡があり、会うことになったのです。

「田中さん、お久しぶりです。剣次君から聞きました。大変だったそうですね」

「いえ、もう解決しましたから」

「実は、剣次君、会社でも問題を起こしましてね。部下への態度があまりにも高圧的だということで、降格処分を受けたんです」

私は驚きました。人を見下す態度は、家庭だけでなく職場でも出ていたようです。

「『荷物だ』『価値がない』と、部下にも同じようなことを言っていたらしくて」

「そうだったんですか…」

「田中さん、私は剣次君のお母様がどんな方か知っています。病院で看護師長として素晴らしい仕事をされていた。息子さんは、そんな立派な母親を持ちながら、その価値を理解できなかった。本当に愚かなことです」

上司の方の言葉に、私は複雑な気持ちになりました。

1ヶ月後、剣次から一通の長い手紙が届きました。

「母さんへ。今更ですが、心から謝罪します。母さんがいなくなってから、初めて母さんの存在の大きさを知りました。朝食を作る大変さ、家事の負担の重さ、何より、無条件で家族を支えてくれる人がいることのありがたさを。里美とは離婚することになりました。価値観の違いが明確になったからです。結衣は僕が引き取ります。もし許されるなら、いつか結衣を母さんに合わせたいです。本当にごめんなさい」

手紙を読み終えて、私は窓の外を眺めました。息子夫婦は離婚し、狭いアパート暮らし。一方、私は自由で優雅な生活。これが因果というものでしょうか。でも、私は結衣ちゃんのことを思うと、少し心が揺らぎました。

罪のない孫まで苦しめるつもりはありません。私は佐藤先生に相談し、あの家を売却することにしました。売却額は3000万円。その中から、結衣ちゃんの教育資金として信託財産を設定しました。剣次には使えないが、結衣ちゃんの学費には当てられるというものです。

最後に剣次に会った時、彼は憔悴しきっていました。

「母さん、本当にすみませんでした」

「剣次、過去は変えられません。でも、これからは変えられます。結衣ちゃんを大切に育ててください」

「母さん…」

「それから、これは結衣ちゃんのための教育資金です。あなたは使えませんが、結衣ちゃんの将来のために使われます」

剣次は涙を流しました。

「母さん、どうしてそんなに優しくしてくれるんですか? 僕はあんなひどいことを…」

「親だからです。どんなことがあっても、親は子供の幸せを願うものです。ただし、甘やかしはしません」

私は立ち上がりました。

「剣次、人を大切にしなさい。特に、あなたを支えてくれる人。二度と同じ過ちを繰り返さないでください」

マンションに戻ると、新しい友人たちが待っていてくれました。

「君子さん、今日のランチ会、楽しみにしていたのよ」

「ありがとう。私も楽しみだったわ」

今の私には、本当の意味での自由があります。誰かに「田舎臭い」と言われることもなく、「恥ずかしい」と思われることもない。自分らしく、堂々と生きています。

あの日、息子に追い出されたことは確かに辛い出来事でした。でも、それがなければ、この自由で幸せな生活を手に入れることはできなかったでしょう。人生には、時として理不尽なことが起こります。大切なのは、それに屈しないこと。自分の権利を守り、堂々と生きること。そして、正義は必ず実現されるということです。

私は今、心から幸せです。これからも、この自由を大切に、自分らしく生きていきたいと思います。

親を軽んじたものへの報い。それは確実に訪れます。でも、本当に大切なのは復讐ではなく、自分の尊厳を守ることなのです。

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