「ちょっとおばさん、あんたの席はそこじゃないわよ。」…

「ちょっとおばさん、あんたの席はそこじゃないわよ。」...

「ちょっとおばさん、あんたの席はそこじゃないわよ。」

近田課長がやってきて、俺とリツコを止めた。俺たちは主賓席に座ろうとしていたところだった。

「ちょっと待ってください。ここは主賓の前ですよ」

リツコが小声で抗議する。だが近田課長は嘲笑うように笑い出すと、持っていた道具箱の中から画鋲のケースを取り出した。

「あんたなんてクズ中のクズ。クズ社員にはこれがお似合いだ」

そう言って、リツコが座るはずだった椅子やテーブルの上に、大量の画鋲をぶちまけた。

俺は48歳のサラリーマンだ。とはいえ、いわゆる「おぼっちゃま」や「セミリタイアしてるんだろ」と言われることも多い。実家は旧家で、親は資産家だ。複数の会社を経営しており、一人息子の俺が全てを相続することになる。だが、この時代だ。たとえ億万長者でも人生100年時代を一人で生き抜ける額ではない。だから親が経営する葬祭会館で働きながら、自分たちが暮らせる分の収入を得ている。働かないでいると感覚が麻痺しそうで怖い。使用人兼務員として現場で働くことを選んだのだ。

妻のリツコは3歳年下で、見合いでこの家に嫁いできた。幼馴染みのミキ兄ちゃんこと後藤美久の紹介で出会った。リツコはミキ兄ちゃんが務める製茶所で働いている。俺の地元は、知る人ぞ知るお茶の産地だ。結婚後もリツコは製茶所で働き続けることを希望し、バリバリ働いている。

俺の仕事は葬祭会館での業務。ブラックスーツの制服を着て、24時間365日オンコールだ。連絡が入れば病院やご自宅へお迎えに上がり、葬儀の儀式のディレクションも行う。昨夜も未明に隣町の総合病院から連絡が入り、お迎えに出向いた。季節の変わり目は急激な気圧の変化があるせいか、呼び出しが多い。

ある夜、仕事帰りのリツコが晩御飯の支度をしながら言った。

「製茶所が創業80年の記念式典をするんだって。美久さんが言ってたわ」

「ああ、こっちの職場でも話題になってたな」

「そこで色々とお披露目があるみたい」

「そうか。いよいよだな」

リツコは軽く頷き、顔を引き締めた。

「私に務まるかしら」

「リツコなら大丈夫だよ。ミキ兄ちゃんがついてるだろ」

「だって懇親会の場には、司会議員とかあなたのお父様の関係者とか、たくさん来るんでしょう」

「それはそうだけど、大丈夫だよ」

「ねえ、いざとなったら助けてね」

「当たり前じゃないか」

俺はリツコの背中を軽くさすって励ました。

リツコの勤務先である製茶所は創業80周年を迎える。半年後に地域向けの記念イベントを開き、その後、企業としての報告会も兼ねた懇親会を開く予定だった。リツコはその懇親会の運営に携わることになり、不安を感じているようだった。彼女はミキ兄ちゃんの次に長く務めているベテラン社員で、会社の中心人物として貢献していた。ただ、入社以来、会社としての晴れ舞台がなかったので、かなり困惑している様子だった。

だが、記念懇親会の開催が決まってから、妻の表情が優れないことに気がついた。

「リツコ、最近元気ないけど大丈夫かい?」

「うーん。時間がない中で企画するって、なかなか難しいわね」

そうだけ言って、詳しいことは話してくれない。

「俺に言いにくかったら、ミキ兄ちゃんに相談してもいいんだからな」

「ありがとう。でも大丈夫よ」

元気に振る舞うが、やっぱり元気がない。俺はミキ兄ちゃんに電話して、リツコの様子を聞いてみた。どうやらリツコが自身で提案した企画が、自分自身の首を絞めてしまっているようだった。

製茶所は全国的に有名なお茶ではない。80年以上も続く産地の知名度を上げるべく奮闘している中で、外部から招聘された企画課長と折り合いが悪いらしい。企画課長は地田と言い、広告業界の大手企業から出向してきていた。今回は知名度アップ計画や記念式典、懇親会の企画のバックアップも依頼したそうだ。

記念式典では製茶所として発表すべきことがあり、当日まで内容を明かせない秘密事項だった。だから外部の人間を招聘したのだが、地田課長は「何にもない土地、面白みがない会社。何のために東京から来たのかわかんない」と言い、リツコの知名度アップ計画には全く関与しないらしい。さらにリツコが「社員は意欲がなく非協力的だ」と相談したら、態度を硬化させて、リツコに嫌がらせをするようになったという。表向きは仕事をきちんとしているように振る舞っているので周りは気づきにくいが、ミキ兄ちゃんは見通していた。

派遣元の広告代理店にはミキ兄ちゃんが水面下でクレームを入れているようだが、あちらも聞く耳を持たない状態らしい。リツコはもう修行感覚で仕事をしているようだったが、彼女の仕事は懇親会や記念式典の企画だけではない。製茶所の日常業務から給与計算まで、様々な業務が待ち受けているのだ。それでは疲れ切って、表情が暗くなってしまうだろう。

「リツコちゃんがこのことで悩んでいるって、一番知られたくない相手は徹だと思うよ。リツコちゃんのことは分かるだろう。だから心配せずに、普通に振る舞ってやってくれ」

ミキ兄ちゃんはそう言った。俺が心配するほど、リツコを苦しめることは承知していた。だからミキ兄ちゃんに一任することにした。

一応ミキ兄ちゃんは地田課長に釘を刺したようだ。

「君の言動や振る舞いは逐時、代理店へ報告している。これ以上、弊社員に暴言や嫌がらせを続ける場合は、契約打ち切りと法的措置を実行する」

本当は今すぐにでも契約を打ち切りたいくらいだと強く言ったようだ。ミキ兄ちゃんは少々いかつい体つきで、ダークスーツを着用すれば、まるでアウトロー集団で活動する人のように見える。これには地田課長もビビったようだ。少しは大人しくなり、リツコも仕事がやりやすくなったようだった。

ただ、都心にある会社から何もない土地にやってきた地田課長にとって、ストレスを発散できる場所はここにはなかった。昔ながらの商店街と製茶工場と直売所、俺が働く葬祭会館くらいしかない。夜18時以降は1時間に1〜2本程度しか電車が来ないので、夜に遊びに行くのは難しい。出向社員として製茶所に来て、社員と同等の待遇で仕事をする地田課長にとって、これは相当な苦痛だろう。ミキ兄ちゃんの一括で一時は大人しく仕事をしてくれたようだが、ターゲットをリツコに絞ったまま、時折また嫌がらせをしているようだった。

記念式典が一刻と近づき、リツコは準備以外のところで上層部とのやり取りも増え、かなり疲弊しているようだった。この式典や懇親会が終われば、地田課長はお役御免となり広告代理店へ帰る。それまでの辛抱だと、リツコは自分に言い聞かせているようだった。

そして、創業80周年の記念式典と懇親会の日を迎えた。

俺も記念式典に出席することになっており、この日のために誂えたテーラードスーツに身を包んだ。リツコはいつもの事務服ではなく、華やかなワンピース姿だ。

「この服を選んで良かったじゃないか。リツコによく似合ってる」

「なんか浮いてる感じで恥ずかしいんだけどね」

「これからはジム服よりも、こんな服装の方が増えるんじゃないかな」

「そんなことないわよ」

何度も何度も見直して、失礼のないように整えた式次第をリツコが確認しながら俺を案内する。

「こんなに高い席なんだね」

「当たり前でしょ。この記念式典と懇親会では、徹は主賓なんだから」

その席に座ろうとした時、近田課長がやってきて俺とリツコを止めた。

「ちょっとおばさん、あんたの席はそこじゃないわよ」

リツコは驚いたように近田課長を見る。俺は初めて彼女を見たが、なるほど、きつそうな女だ。

「だってあんた、間違ってるでしょ。何が主賓の顔で遠藤をリツ子様の席に着席しようとしているのよ」

リツコの席に掲げられた名札を指さし、勝ち誇ったように近田課長が言う。

「ああ、そのことですね。私、この製茶所では旧姓の前田立つ子を名乗っているんです。戸籍上は遠藤子なんですよ。この人は私の夫の遠藤です」

リツコは結婚時に旧姓を通り名にして仕事をすることを選択していた。戸籍上の姓を名乗りたくないというわけではなく、遠藤姓を名乗ることに少々不都合があったからだ。

リツコが説明すると、クツクツと近田課長が笑い出す。

「うっそ、ウケる。あんた、クズだと思ってたら、ここって葬儀屋のおっさんの席よね。おばさん、葬儀屋の嫁だったの?ますますクズね。うわあ、めでたい席なのに生臭いの来ちゃったし」

俺は目を見開いて近田課長を見る。思わずリツコは声を荒げたが、それで気分が大きくなった近田課長は、持っていた道具箱の中から画鋲ケースを取り出した。

「葬儀屋の嫁なんてクズ中のクズ。クズ社員にはこれがお似合い」

そう言って、テーブルの上から椅子の上に、たくさんの画鋲をぶちまけたのだ。

「おい、君、なんてことをしてくれたんだ」

リツコが言葉を失い、体をふらつかせたため、俺が受け止める。

「そこのおばさんも、お迎えが近いようよ。葬儀屋さん」

騒ぎを聞きつけて、製茶所の上層部とミキ兄ちゃんがやってくる。状況は説明せずとも、気を失いかけているリツコと、テーブルから椅子に散らばる画鋲で全て把握できたようだ。俺はミキ兄ちゃんにリツコを託すと、睨みつけるように近田課長を見据えた。

葬祭会館勤務だから普段は感情を表に出すことはしないが、目の前にいる課長の怯える目を見て、自分自身がどんな感情を持っているか気づく。

「地田君と言ったね。君は転職組か」

顎だけを引いて頷く地田を、俺はさらに睨みつける。

「広告代理店に入社して何年経つ?会社理念を諳んじることはできるか?」

あまりの恐ろしさに、地田課長はピースの指を見せて「2年目です」と伝えることしかできないようだ。

「君の勤務先である広告代理店には親会社があるんだが、それがここの葬祭会館だってこと、知らないで来たんだろう?そして、広告代理店の取締役会長の名前を言えるか?」

地田課長はここで、あることに気づいたようだ。

「嘘でしょ…」

「縁もゆかりもなければ、東京にある会社の社員をわざわざこんな辺鄙な町に招聘しないよ。復興させたのは関連会社だからに決まっているだろう」

すでに目の奥の光が失われている地田課長を見て、俺はため息をついた。

「さあ、取締役会長の名前を言ってご覧なさい」

「え、遠藤…?」

「この私だよ」

現在東京にある広告代理店は、元々俺が働く葬祭会館の広報部だった。可能性を見い出して、俺の祖父が東京に進出させた結果、ここまで大きな会社に成長したのだ。代表取締役社長には九州で合併した企業の元社長を就任させたが、会長権は俺が持つことになったのだった。

「とりあえず、リツコちゃんは落ち着いたよ。もう少しだけ横にさせておくが、こっちへ戻ってこれそうだ」

ミキ兄ちゃんがリツコの状態を知らせに来てくれた。

「よかったよ。リツコがいなければ、今回の式典の意味がなくなるからな」

「おいおい、このことはまだ内密にお願いするよ」

「ま、君はクライアント側の社員をクズ社員呼ばわりしてお祝いの席で画鋲をばらまき、お迎えが近いなどと暴言を吐いたのだが、その自覚は持っているよね。これは人間としてあってはならない行為だよ」

「ミキ兄ちゃん、顔が怖いよ」

「そういうお前も随分恐ろしい顔してるな。まあ、いとこ同士だからな。顔の怖さも似るだろうよ」

ミキ兄ちゃんは幼馴染みではあるが、実際はいとこだ。母の妹の息子なので、遠藤の家とは無縁なのだが、製茶所で働いてもらっている。

「なんでリツコちゃんと徹が主賓席に座るのか、これで分かったよな」

ミキ兄ちゃんは他の客が来る前に画鋲を片付け、足元に画鋲が残っていないか再点検した。

「今朝の取締役会で承認されたから、もう決定事項だし、君に話をしておこう」

にやりと不敵な笑みを浮かべて、ミキ兄ちゃんは地田課長へ話を始める。そのタイミングで、リツコが青白い顔で会場に戻ってきた。少々元気はないが、背筋を伸ばして「大丈夫ですよ」と伝えているように見えた。

「この製茶所も親会社は葬祭会館だよ。他の社員に迷惑をかけてしまうかもしれないから、リツコちゃんは旧姓の前山リツ子を名乗って結婚後も仕事をしていたんだ。ここにいる徹の父親が社長を退任し、社長にリツコちゃんが就任することになった。それを今日ここで発表するんだよ」

「ついさっき、内密にって言ってたくせに」

「それと同時に、後藤美久は常務取締役に就任するんだよ。製茶所に関して、徹は取締役から抜けることにしている。いくつもの会社を背負うことが重荷だったので、リツコとミキ兄ちゃんに任せることにしたんだ」

「広告代理店は、今回のことがあったので、もう会社経営も…」

「申し訳ありませんでした。私、こんな田舎に飛ばされるとは思っていなくて、その…前山さんが優しすぎるのが気に入らなくて、つい嫌がらせを…」

多分、小心もかかっていたんだろうな。山奥の視点に左遷させようかと思ったけど、クライアントはもちろん主賓に対して失礼な行為をしたことは社会人失格だ。残念だけど、処分を検討せざるを得ないよね。

地田課長は首をフルフルと横に振っているが、目には諦めの色が浮かんでいた。その後のことは広告代理店の社員に託したので、正確な処遇は分からない。ただ、あちらの上司も製茶所が親会社の関連会社であることを知らずに出来の悪い社員を派遣していたようなので、近々、挨拶に行く必要があるだろう。

この出来事さえ除けば、無事に記念式典や懇親会を終えることができた。リツコの社長就任を発表したら、誰もが受け入れてくれた。ただの主任級の社員が代表取締役社長になることは驚きに値するが、旧姓を名乗っていても遠藤家の妻であることは周知の事実だったので、社員からも異論は全く出なかった。

「どうだい?社長の仕事は」

「あなたが社長職未経験なのに、私が先に社長って、なんか変な気分だわ」

「いいんだよ。葬祭会館は実質上、俺が社長やってるようなもんだから」

「もう少しうちのお茶を全国の人に知ってもらいたいわ。インターネットショップを作ろうかって思っているの」

「いいね。サポートしていくから、何でも相談してくれよ」

リツコの顔は、いつでも明るい。新しいことにチャレンジしながら、大好きなお茶の仕事ができているのだから、生きがいを感じているのだろう。俺ももう少しだけ現役で仕事を続けてから、今度は経営側にシフトチェンジしていこう。そして、今のリツコの笑顔をずっと守り続けていこうと、改めて誓った。

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