リビングの扉を開けた瞬間、光景が理解できなかった。ソファの上で、見知らぬ男が妻の上にまたがっていた。俺の帰宅に気づいた二人は、一瞬固まったが、すぐに男は笑い出し、妻も勝ち誇ったように口を歪めた。
「相手がヤクザだったら何も言えないわよね」
俺は手に持っていたケーキの箱を落としそうになった。妻の妊娠が判明してから、毎日楽しみに帰宅していたのに。2ヶ月前、彼女のお腹に俺たちの子供がいると分かった。それなのに、なぜ。
俺は佐藤裕二、32歳のサラリーマン。毎日残業続きで、正直クタクタだった。でも家には最愛の妻・奏子が待っている。その思いだけで頑張ってこれた。彼女は美人でハキハキしていて、一緒にいると気が楽だった。
その日は珍しく残業がなく、奏子の好きなケーキを買って帰宅した。玄関に見知らぬ男物の靴が脱ぎ捨てられているのを見つけた時は、不審に思いつつも、まさかと思った。スマホを用意して、音を立てずに中へ進んだ。
「予感は当たらないでくれ」
そう願った矢先に、リビングで目撃してしまった。
「何してんだ!」
俺の声に、二人は驚いてこちらを向いた。奏子は「なんでここにいるの?いつもはもっと遅いのに」と焦り出した。それはこっちのセリフだ。
「この男は誰だ」
俺が問い詰めると、男は自ら名乗り出た。
「張根ネズミ組の正司だ」
組と言っているのだから、つまりヤクザなのか。俺が後ずさりすると、男はニヤリと笑った。そして奏子は、反撃できると思ったのだろう。さらに追い打ちをかけてきた。
「あんたとするのはつまんないからね」
「だからってなんで浮気なんてするんだよ」
「彼の方がすごくかっこいいんだもん」
奏子は悪びれることなく笑った。そして俺への不満を、この際だからと言って並べ立て始めた。貯金ばかりで小遣いが少ないとか、仕事帰りの靴が臭いとか。最愛の妻に、そんな風に思われていたなんて。
目の前の二人はクスクスと笑い、正司が命令した。
「おっさん、コーヒー買ってこい」
「なんで俺が」
「それがいいなら構わねえよ」
正司は指をポキポキと鳴らして近づいてきた。奏子は「鬱陶しいからボコボコにしちゃって」と嬉しそうに言う。俺は「ちょっと待ってくれ」と懇願したが、聞く耳を持たず、胸ぐらを掴まれて一発殴られた。続けざまに腹へ拳が振り下ろされ、内臓が破裂するかと思った。その場にうずくまり、動けなくなる。
二人はゲラゲラと笑い、奏子は「ざまぁないね」と言った。
「さっさと言われた通りコーヒー買ってこいよ。あとタバコと飯も追加な」
「私、パスタ食べたい。お酒も欲しいな」
お前ら、どこまでも。そして、こう付け加えた。
「ああ、この子ね。実は正司の子なんだ」
俺は目を見開き、妻の顔を凝視した。
「後でバレたくないから流産してもいいんじゃないかって思って、隠れて酒飲んでたのよ」
信じられなかった。彼女は平然とそう言い放った。正司は「ずっと騙されてて受けるわ」と大笑いしている。二人の話によると、3ヶ月前から関係を持っていた。つまり、お腹の子は俺の子ではない。病院で堕ろすのもバレるから、そのまま俺の子供にしようと考えた。だが、生まれてから似ていないと発覚するのを恐れた奏子は、自然に流産させるために不健康な生活をしていたという。俺が毎日遅く帰宅するから、酒を飲んでいてもバレなかったそうだ。
話を聞いているうちに、悲しみよりも怒りが込み上げてきた。しかし、そんな俺の感情をよそに、二人は「さっさと出ていけよ、おっさん」と玄関まで追い出した。
「毎日ホテル代わりにここを使ってやるよ。なるべく帰ってこないでね。連絡も絶対しないで。あんたは私のこと大好きだし、仕方がないから籍は入れておいてあげるわ。世間体も悪いしね」
そう言って、俺の荷物を全て玄関に放り投げた。
俺はイライラが限界に達していた。だが、ここで感情的になるのは得策ではない。俺は「了解です」とだけ言って、荷物を持って家を出た。
あの勝ち誇った顔を、絶望で塗り替えてやる。俺はそう心に決めて、ある場所へ向かった。
それから一週間後、奏子から電話がかかってきた。何度も無視していたが、いつまでも鳴りやまないので、仕方なく出た。
「早く出なさいよ」
怒りに満ちた声が聞こえてくる。うるさいから出てやったのに、その態度は何なんだ。俺は怒りを抑えて、要件を聞いた。
「今まで連絡もよさずにどこにいたのよ。ずっと探してたんだから」
「そんなの知らねえんだよ。お前とは話したくないから、要件がないなら切るぞ」
俺が電話を切ろうとすると、奏子は慌てて謝った。
「悪かったわ。あのさ、正司の事務所に内容証明を送ったでしょ。今大変なことになってるんだから」
「それがどうしたんだよ。何かおかしなことでもあるのか」
「浮気の証拠がばっちり映ってたり、正司があんたを殴った動画もあるのよ。しかもヤクザの組に送るなんて、おかしいと思わないの?」
あの時、俺は持っていたスマホで動画を撮っていた。二人に気づかれることなく、しっかりと証拠を収めていたのだ。
「正司ってやつの実家が分からなかったから、職場に送るのは仕方がないと思わないか?浮気の慰謝料を請求するし、ちゃんとお前たちのことを知ってもらった方がいいだろう」
「はあ。私たちは払う気なんてないわよ」
「知ったこっちゃないね。請求する権利はあるし、不貞行為をしたんだから支払う義務もある」
「それこそ私は知らないっての。あんたのせいで正司が大変なことになってんだから」
奏子はそう言ってまくし立てた。でも、俺に暴行を加えたということで、組の幹部たちが正司の職場で怒っているそうだ。ヤクザたるもの、片付けの人間に手を下すのは絶対に許されないらしい。
しかし、それ以上に激怒していることがあるようだ。それは正司自身も既婚者で、しかも相手はヤクザの幹部の妹なんだとか。頭の上がらない人の家族と結婚した正司が、あろうことか奏子と浮気をしてしまったのだ。
「奏子もとんでもない相手に手を出したもんだな。きっと大変な目に合ってるんじゃないのか」
「そうなのよ。超大変で家に立てこもってるんだけど、ご近所とかそんなの関係なくヤクザが家の前でたいまって助けて」
電話の向こうは騒がしい。男たちが奏子を家から引きずり出そうとしているのだろう。
「大変だな。まあ、自分がやったことだし頑張れよ」
俺は少し笑い声が出てしまったが、心配するそぶりを見せて電話を切ろうとした。すると、奏子は怒り出した。
「笑ってんじゃないわよ。あんたのせいでこうなったんだから、なんとかして」
焦っている彼女の声を聞いて少しは溜飲が下がったが、「俺のせいだ」なんて言われてまた頭に来てしまった。そもそも、誰がこの事態を引き起こしたのか。確かに俺が内容証明を送ったからヤクザにバレたわけだ。しかし、一番の原因は奏子と正司が不貞行為をしたことであって、俺は慰謝料をもらうために話し合いをしたいから郵送しただけ。どちらが悪いかは、誰がどう見ても一目瞭然だ。
俺に何を言われても「そっちでなんとかしろ」としか思わない。ただ、奏子と正司が慰謝料を払う前に消えてしまったら最悪だ。だから、俺は今すぐそっちに向かうと伝えて電話を切った。
数十分後、家の前に数人のヤクザたちが屯していた。閑静な住宅街には不釣り合いだ。俺は彼らに話しかけ、一度組の事務所に戻ってもらうことにした。奏子はそれを見て「どうしてヤクザたちが帰って行ったの?」と不思議そうに質問してきたが、それを無視して奏子を張根ネズミの事務所に連れて行った。
事務所の前に来て奏子を中に押し入れると「何すんのよ」と文句を言ってきた。しかし、周りで黒服を着たいかつい顔をした男たちがこちらを見ていたため、一言言って黙った。
そして、張根ネズミ組の組長らしき男が「よく来てくださいました」と言って頭を下げると、周りの男たちも同じように頭を下げた。その様子に目を白黒させて、奏子は「何が起こっているの?」と俺に質問する。
「さっきから俺の後ろにいた男性、この人が誰か分かるか?」
奏子は全く分からないようで、困惑した表情を見せる。
「俺の父親だ」
父の柳光一は、張根ネズミ組の元・大蛇組の組長。俺はその一人息子だ。だが、母の体調が優れず入院を繰り返していたため、空気の良いところに母子共に引っ越すことになった。敵対組織に俺たちが狙われるのではないかと考えて、両親は離婚を選んだ。だが、数年に一回は会っていた。
そして、俺が二十歳の時にこの地一体の制圧を完了し、もうこの地方では敵がいなくなった。そうなれば、俺と母と一緒に過ごしても大丈夫ではないかと思った両親は、再婚することにした。大蛇組は二十年ほどで大きな組織に成長していて、その間に張根ネズミ組も傘下に収めた。それからは以前よりも定期的に会っていて、結婚式にも来てくれた。
奏子はそのことを忘れていたみたいだけれど。そう伝えると、妻は震え出した。
「今からとんでもないことが起こるんじゃない?」
顔を青くして、ガタガタ震えながら言う。それを無視して奏子の首根っこを掴み、俺と父は組長室に入っていった。
中に入ると、正司がひどく顔を腫らして床に正座していた。真ん中のソファには男女が座っている。おそらく正司の奥さんと、その兄の幹部だろう。先にボコボコにされたようだ。そして、張根ネズミ組長の葛西さんと父、俺はその向かいのソファに座る。もちろん、奏子は正司と同じく床に正座させた。
全員がこの場に来たことで、葛西さんは頭を下げた。
「高田さん、裕二さん、正司が本当にすみませんでした。今すぐ処分をするので、安心してください」
それを聞き、父は低い声で言った。
「お前が謝ることじゃねえ。そうだろ」
正司を睨みつける。そのせいで顔色を悪くした正司は土下座した。
「申し訳ありませんでした。まさか柳組長の息子さんの妻だとは一切知らず」
「知らなくても当たり前だ。大っぴらに話してないんだからな。でも、だからって人の女に手を出していいってことじゃないだろう」
「はい」
「てめぇも既婚者だったんだろ。それなのに浮気とはいい度胸をしてんじゃねえか。俺は曲がったことが大嫌いなんだよ」
正司は父に詰め寄られて顔を下に向けて「はい」としか返事ができない様子だった。それを見て葛西さんは「ちゃんと高田さんの話を聞かんか。この恥知らずが」と怒る。正司はまた謝り、奏子はその声に驚いて肩を揺らした。
「人の女に手を出しておいて、さらに殴ったりもしたんだってな。裕二は俺の息子だが、片付けだ。ヤクザが一般人に暴行を加えていいわけないよな」
父は本当にイライラしているようで、目の前のテーブルを足で蹴った。父はさっき言った通り、曲がったことが嫌いで、組員には一般人に手を出すことを禁じている。もちろん、不貞行為など人の気持ちを踏みにじることも大嫌いだ。だから、ここまで怒っているのだ。普段は他人の喧嘩には立ち入らないことを鉄則としているらしいが、自分の組織の人間が犯した罪は絶対に許せないという。
「相当重い罰を与えるから、覚悟しておけ。今まで通りこの組にいられると思うなよ」
その言葉を聞き、正司は赤く腫れた頬をしているのに、さらに血の気が引いていくのが分かる。組から追い出されるだけでは済まないだろう。ヤクザの世界のことは詳しく分からないが、簡単なことではないはずだ。
そして父は、正司から奏子に目を向けた。
「あんたは、はっきりした性格をしていると聞いていたし、裕二とは仲良くしてくれると思っていたんだがな。本当に残念だと思ってる」
「す、すみませんでした。ちょっとした出来心だったんです」
「それは俺に言うことじゃないだろう」
父の言葉に、奏子は俺の方を向き、「ごめんなさい」と勢いよく土下座した。
今更謝られたって、俺の気持ちは全く癒えない。そもそも最愛だと思っていた人に裏切られたんだ。この悲しみが消えることはないだろう。
俺の気持ちを汲み取ってくれたのか、父は奏子に言った。
「お前は、しっかりと裕二と正司の嫁さんに謝罪するために慰謝料を払え」
「私、専業主婦なんです。そんなの無理」
「金なんて、稼ごうと思えばいくらでも手段があるだろう。なんなら、うちが経営するところを紹介するぞ」
「え」
「あんたはヤクザじゃないから、そこまで正司みたいに罰は与えねぇよ。でも、しっかりと慰謝料は払えよな。それは片付けの世界で普通のことだろう」
「はい」
奏子は父に睨まれて顔を真っ青にして下を向いた。恐怖で何も言えなくなったらしい。すぐに慰謝料を払うという契約書を作成されたが、拒否することなくサインをしていた。
その後、奏子は多額の慰謝料を払うべく、父の組が経営している夜の店で働くことになった。奏子は美人だから稼げると思いきや、もう28歳で若い女の子たちよりは人気が出ないのだとか。それにお腹の子供はすくすくと成長していて膨らんでいるから、ずっと働いてはいられない。そのため、他の体に負担がかからない仕事を任されたりと、仕事を転々としているらしい。
慣れない仕事ばかりでストレスが溜まっているのか、肌がボロボロで今では30代後半に見られているらしい。ちなみに子供は出産後に奏子のご両親が育てることが決まっている。ご両親は俺に何度も謝ってくれ、一生俺の目の前に彼女を出さないことを約束してくれた。
一方、正司は俺や奥さんへの慰謝料と、俺を殴ったことによる治療費を稼ぐために、危ない橋を渡っているらしい。組の拡大のために、少し離れた敵対組織に一人で乗り込まされたとか。さすがにそこまではしていないだろうけど、命の危険にさらされているらしい。ともあれ、俺の口座に毎月慰謝料が支払われているのだから、文句はない。
俺はと言うと、今も仕事に明け暮れているけれど、休みを取って旅行に行こうと考えている。少しゆっくりしたら、前向きな気持ちになれるといいな。



