「うちに嫌われたら、この業界でやってけないですよ」――長年取引してきた大手メーカーの担当部長に、契約更新の日に突然そう言われ、入室を拒否された。定期契約は年間7000万円。特許技術の結晶である精密ギアの取引は、創業者同士の縁で続いてきた大切なものだった。代わりに契約する会社を探していたと言う部長の、あの薄ら笑い。社長も承諾済みだと言う。頭が真っ白になる中、ふと、療養中の会長の顔が浮かんだ。お…

「うちに嫌われたら、この業界でやってけないですよ」――長年取引してきた大手メーカーの担当部長に、契約更新の日に突然そう言われ、入室を拒否された。定期契約は年間7000万円。特許技術の結晶である精密ギアの取引は、創業者同士の縁で続いてきた大切なものだった。代わりに契約する会社を探していたと言う部長の、あの薄ら笑い。社長も承諾済みだと言う。頭が真っ白になる中、ふと、療養中の会長の顔が浮かんだ。お...

「言葉のままの意味ですよ」

取引先の受付でそう告げられた瞬間、俺は耳を疑った。中山、53歳。精密部品を製造する会社の社長だ。

祖父の代から続くこの会社は、品質、コスト、納期の三拍子が揃うと自負している。特に、特許を持つ精密ギアの加工技術は、この業界で誰にも負けない自信があった。

業界大手の重厚メーカーとの取引は、創業者同士が親友だった縁で、長年続いてきた。毎年7000万円の契約を結ぶ、最も重要な取引先だ。

その日は、特許ギアの契約更新のため、俺は直接その会社を訪れていた。

「申し訳ございません。本日は、入室をお断りしております」

受付の女性社員が、困った顔でそう言う。

「確認をしていただけませんか。担当の未田部長に」

「その必要はありませんよ」

背後から聞こえた声に振り返ると、未田が立っていた。薄ら笑いを浮かべたその顔に、嫌な予感が走る。

「どういうことだ、未田さん」

「入室は認められません。言葉のままの意味ですよ」

「意味が分からない。特許の更新ができなければ、困るのはそちらではないんですか?」

「以前もお伝えしたでしょう?『うちに嫌われたら、この業界でやってけないですよ』ってね」

あの時、契約の値下げを断った時に言われた、脅し紛いの言葉。まさか本気で実行してくるとは思わなかった。

「では、社長と直接お話しさせていただきます。今日は不在とのことなので、日を改めて」

「無駄ですよ」

未田はきっぱりと言い放つ。

「社長の経営方針の変更により、御社とは契約終了です。社長に談判したところで、何も変わりません」

信頼を築くのに長い時間をかけても、崩れる時は一瞬だ。自分の中で、何かが大きな音を立てて壊れた気がした。

「契約終了だと…」

俺が言葉を失っている間、未田は得意げに説明した。俺に値下げを断られた後、未田は俺たちの代わりにギアを納品できる会社を探していたという。なんでも、大学時代の先輩の会社だそうだ。

「御社のギアは確かに性能がいい。特許もある。ですが、私が見つけた会社は、その品質に引けを取らず、コスパもいい。どちらを取るかは、考えなくても分かるでしょう」

「社長に進言したところ、納得してくださいましたよ。年間7000万は、どう考えても高い。あなたが意地を張るからこうなった。それだけでしょう」

握りしめた拳に力が入る。怒りを飲み込み、俺は細く長い息を吐いた。

「そうですか。言いたいことはよく分かりました。もう結構です」

これ以上、こいつらにすがりつく気はなかった。確かに失うのは痛いが、うちも歴史のある会社だ。人脈は広い。少なくとも、社員の生活が立ち行かなくなるような心配はないはずだ。

「ふん。それなら、もうお帰りになっては?」

言われなくても、そうするつもりだった。俺はその場を立ち去った。

帰りの車内、俺は考え込んでいた。予定では、この後、会長のお見舞いに行くはずだった。だが、こんな感情のまま行ける気がしない。

会長は、この取引先の創業者の息子で、亡き父と親友のような間柄だった。俺も幼い頃から可愛がってもらっていた。数ヶ月前から体調を崩し、自宅で療養していると聞いていた。

後部座席に目をやると、少し大きめの箱が鎮座している。実は、会長への贈り物だ。今年、取引先は70周年を迎える。本当はその祝いとして用意していたものだが、会長の具合を聞いて、お見舞いの時に渡そうと思い直したのだ。

思い出すのは、一昨日、奥さんから受けた電話での出来事だ。思いがけない単語が耳を打ち、俺は絶句した。

体調不良とは聞いていたが、どうやら会長は認知症のようだ。段階で言えば初期段階、もしくはそれよりも前らしい。

「夫は、確かに高齢ですが、しっかりした人でしたから…」

奥さんの言うことも理解できる。会長は、かなり気難しい面もあるが、しっかりした人だ。曜日や物忘れが徐々に増えていき、調子がいい時と悪い時を繰り返すようになったらしい。

「いや、会わなかったら、きっと後悔する」

俺は社長として会長に会うのではない。お世話になった一人の人間として、お見舞いに行くのだ。そう思い直し、エンジンをかけた。

会長を訪れた時、会長は見間違うほど別人だった。表情が乏しく、ぼんやりとしていて、俺と目が合っても特に反応しない。だが、俺が持参した品を目にした瞬間、その時だけは明らかに反応が違った。

部屋は静まり返り、時計の音だけがゆっくりと刻んでいる。奥さんが息を飲む気配がした。

会長は何度かはっきりと瞬きした後、ゆっくりと手を伸ばしてきた。

「…あなた」

奥さんが驚きつつも涙ぐみ、会長の仕草に答えるように、俺が持ってきた箱に手を伸ばす。

俺が用意したのは、精巧な箱庭タイプの鉄道模型だった。俺自身も製作に関わっており、かつて互いの創業者が共に関わった鉄道をモデルにしている。会長はこの鉄道に強い思い入れがあり、写真を部屋に飾っているのを知っていた。こだわりの一品だ。

ぼんやりとした目に、はっきりと光が宿るのを感じた。俺も、奥さん同様、涙が滲んだ。

未田に言われたことが、ここで初めて本当に悔しくなった。押し込んでいた感情が、胸を圧迫する。

俺はぽつりぽつりと話し出した。ここに来るまでに未田に言われたこと、社長も承諾済みだということ、それにより自分の中で何かが折れてしまったこと、全てを話した。だからこそ、今日ここに来ることを迷っていたとも。でも、お見舞いに来られて本当に良かった、と。

「そんな、ひどいことを…」

奥さんは震えていた。奥さんは一線は退いているが、かつては会長と共に会社を支えてきた存在だ。

「社長からは、何も聞かされていません」

帰り際、奥さんが深く頭を下げた。

「ありがとうございました」

その時だった。

「…なんだと?」

低く、しわがれた声がした。振り返ると、確かな怒りを宿した目をした会長が、そこにいた。

あの日から数日後、俺は再び、その取引先を訪れていた。もう来ることはないと思っていたが、ある人物から来てほしいと頼まれたのだ。

「わざわざ来てもらって、申し訳ありません」

案内された部屋に通されると、奥さんが頭を下げる。

「いえ、会長の状態を考えれば、当然のことです」

車椅子に座った会長が視界に入った。今はぼんやりしているようで、遠くを見ながら、膝の上で鉄道の模型を撫でている。

それから、俺はもう二人の存在に気がついた。こちらに背を向けた状態で、床に膝をついている。その人物は、未田と社長だった。顔は見えないが、体が小刻みに震えているのが分かる。

不意に、会長の視線が俺を捉えた。

「来てくれたのかい、かんちゃん」

会長の、まるで少年のような口調がその場に響く。だが、その呼び名は、俺のことではない。おそらく会長の目には、俺ではなく、俺の父親が映っているのだろう。父は生前、親しい友人から「かんちゃん」と呼ばれていた。

「あなた、こちらは息子さんですよ」

奥さんが訂正するが、会長は「そうかそうか」と笑うだけだった。

俺が鉄道模型を渡してからというもの、少し状況が改善したようだと奥さんは言う。調子のいい時と悪い時を繰り返しながらも、意識がはっきりしていることも増えた気がするという。

「あなたたち、何か言うことがあるのでは?」

奥さんが未田と社長を見据え、異様なほど低い声で言った。社長と未田は、肩を大きく震わせた。

「この度は、誠に申し訳ございませんでした」

社長がまず、大きな声で謝った。

「確かに、未田君の進言で、中山社長との契約終了を決定しました。ですが、その…」

社長は、今度は俺に視線を送ってくる。

「ですが、何ですか?」

「その…中山社長の方から、契約終了を通告された、と聞いていたものですから」

「何ですって?」

社長の言葉に、奥さんは未田を睨みつけた。未田は、まさに蛇に睨まれたカエルのように縮こまっている。

「未田!」

俺が声を上げると、未田は立ち上がり、俺の足元まで来て、土下座をした。

「本当に、すみませんでした!」

その勢いに、俺は思わず後ずさる。

「契約終了をいきなり言われた時もそうでしたが、何がどうなっているんですか?」

「そうよ。きちんと説明なさい!」

俺と奥さんに詰められ、未田は震える声で説明を始めた。

「実は…大学時代の先輩に、話を持ちかけられて…いえ、自分から持ちかけたんです」

未田によると、俺たちの代わりにその先輩の会社と契約し、見返りに金銭的な報酬を得ようとしていたらしい。自分の部長としての立場を盤石にするためだったとも言う。社長には、俺たちの方から契約終了を通告されたと説明し、先輩の会社との契約をスムーズに進めようとしたようだ。

「コストカットという名目で自分の手柄を上げ、裏では顔見知り同士が結託する…。なんとも小賢しい考えだな」

「今田君、私は君を信じていたのに!」

社長が、今にも今田を責めようとした、その時だった。

「馬鹿者!」

鋭い声に、皆が視線をやると、会長が険しい表情でこちらを見ていた。いつの間にか、いつもの様子に戻って、話を聞いていたらしい。

会長は奥さんに鉄道模型を預けると、車椅子を操作して近づいてくる。力を振り絞るような、しかし芯の通った声だった。

「わしと、中山の父が、どういう間柄だったか、お前は知っているか? 社員の話を鵜呑みにして、長年の取引先に裏切りを働いたのは、お前の落ち度だ。二度と、信頼してもらえると思うな」

社長にそう言い放つと、今度は未田を睨みつける。

「我が社に、ここまで見下げた人間がいたとはな。いいか。我が社の今は、中山社長の会社あってのものだ。それを、お前が踏みにじった。お前のような人間に、我が社の看板を背負う資格はない。覚悟しておくことだ」

俺は、黙って首を横に振った。

それから、二人は黙るしかなかったようだ。未田は、懲戒解雇になったそうだ。社長は、今回の件を深く反省し、社員の前で経緯を説明した。そして、改めて俺の元へやってきて、深く謝罪してくれた。

「母が次の会長となり、社員一同、力を合わせて努めてまいります。この度は、誠に申し訳ございませんでした」

社長は、だからといって、俺に再契約を望むことはしなかった。未田の口車に乗せられたとはいえ、最終的に決断を下したのは自分のせいだと理解しているからだ。

社長は、今後の取引に関わる違約金や慰謝料に関して、きちんと払わせてほしいと告げ、去っていった。

7000万の穴が開いたのは事実だ。だが、不思議と焦りはなかった。うちの技術を欲しがっている会社は、他にもある。それよりも、今は。

俺は、ふとスマホを見た。ある画面に指が行き、写真が表示される。それは、奥さんと一緒に微笑む会長の姿だ。鉄道模型をプレゼントした直後の写真で、会長は子供のような無邪気な笑顔をしている。ぼんやりしている時も、いつもの調子に戻った時も、いつも鉄道の模型を見て微笑んでいるそうだ。

会社同士の縁は、終わったのかもしれない。だが、人としての縁が終わったわけではない。今度は、友として縁を続けていけばいい。

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